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近況

「ガーヤト・アルハキーム」解説、あと1回ですが、ここ数日ちょっと立て込んでまして、疲れたので2、3日休みます。

 相変わらず体調が悪くなったり良くなったりを繰り返しているうちに、体力が低下しつつあります。
 9月末に体調を崩す直前までは、片手腕立て伏せとか片脚スクワットとかやってたのが、どちらも1回もできなくなってる……立位前屈も肘が床についたのが、掌つくのがやっとになってるし、両足を首の後ろに引っ掛けられたのが、片足がやっとになってる……つらい。
 有酸素運動も太極拳とか緩いのしかできなくなってるから、運動不足で腹が減らなくて食事が美味しくない……つらい。なのに太る……つらい。

 なまじ健康のために仕方なく運動してたんじゃなくて、好きでやってたから、できないのがつらいっす。早く元気になって、三点倒立とかやりたい。

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その五十四

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

note
『賢者の究極目標(ガーヤト・アルハキーム)』
 マスラマ・マジュリティー(AD950-1007.より原語に忠実な表記はマスラマ・アル・マジューリティー)はスペイン(後ウマイヤ朝)の数学者。
 イブン・ハルドゥーン(1332-1406)は『歴史序説』(岩波書店)で、マジュリティーにたびたび言及しているが、魔術師あるいは錬金術師としている。イブン・ハルドゥーンは中世においては稀有な合理的思考の持ち主だが、彼の時代にはすでに科学全般が衰退しつつあり、数学や錬金術(化学の原型としての)を含む科学と魔術との区別が曖昧になっていたのである。
 イブン・ハルドゥーンは、マジュリティーを魔術書『賢者の極み』(本作では「極み」を「究極目的」とする)ならびに錬金術書『賢者の階層』の著者としている。これはイブン・ハルドゥーンひとりの見解ではなく、当時の通説であろう。
 現在では、タージク(アラビア)語魔術書『ガーヤト・アルハキーム』の著者はマジュリティーではなく、12世紀の無名の人物だとされている。イスラム支配下のスペインのユダヤ人だという説と、ハッラーンの多神教徒だという説があるようだが、妥当なのは前者である。後者については、12世紀にはハッラーンの異教徒のコミュニティはとうに消滅しているし、自らを誹謗中傷する (解説その二の「犠牲に選ばれるのは……」の項参照)というのもおかしな話である。
『ピカトリクス』は『ガーヤト・アルハキーム』のラテン語版タイトル。

イスマイール派
 解説その四十五の「アブー・ハッターブ」の項で述べたように、イスマイールの生前から彼をイマーム(大導師)に望む人々がいた。その中心的人物であるアブー・ハッターブは、イスマイールの死が父である第6代イマーム、ジャアファル・サーディクによって公表されると、今度はサーディクをマフディ(救世主)または神に祭り上げようとして失敗し、処刑された。
 しかしイスマイールの死を信じず、彼は一時的にこの世を離れただけで、やがてマフディとして再臨すると信じた人々もいた。また別の一派はイスマイールの死を認めたものの、彼は生前にイマームの地位を父から譲り受けていた、すなわち第7代イマームとなっていた、と主張した。この二派が後の「イスマイール派」の原型である。
 いずれにせよ事実としては、アリー一族当主としての第7代イマームの地位はイスマイールの弟に受け継がれた。この弟の血統は4代もしくは5代後に断絶するが、この5代目の子孫を第12代イマームとし、いつの日かマフディとして再臨すると信じるのが十二イマーム派であり、現在に至るまでアリー派の主流である(イラン・イスラム共和国の国教である)。
 一方、イスマイール派についての記録は、100年以上後のAD9世紀末になるまで現れない。899年、イスマイールの子孫を称する人物がシャーム(シリア)に現れた。政府に逐われた彼はチュニジアに逃れ、現地民の支持を得て王朝を設立した。これがファーティマ朝(909-1171)であり、969年にはエジプトのカイロを攻略して首都とする。
 この王朝が国教とする教義もイスマイール派と呼ばれるが、奇妙なことにアリー派第6代イマーム、ジャアファル・サーディクの跡を継いで第7代イマームとなったのはイスマイールではなく、彼の息子だとしている。イスマイールの存在が無視されているのである。
 実は「イスマイール派」というのは他称であって、ファーティマ朝では「教宣組織」と自称していたそうだが、イスマイールがイマームにならなかったことが分派の発端となっているのは事実なので、「イスマイール派」という名は他称としては適切であろう。
 イスマイールの死後の8世紀後半から、ファーティマ朝のイスマイール派が出現するまでの100年余り、第7代イマームをイスマイールとするかその息子とするかを巡って水面下で争いがあり、後者が勝利したと考えられる。この期間はアッバース朝によるアリー派弾圧が非常に厳しかったため、アリー派の中でも少数派だったイスマイール派の史料はまったく残っていない。
 イスマイール本人についての史料も非常に少ないのは、こうしたアッバース朝による弾圧に加えて、イスマイール派の主流が彼の存在を無視したことも大きいかもしれない。
 また10世紀に入ってファーティマ朝が成立すると、アッバース朝は非常に警戒し、反イスマイール派プロパガンダを展開した。イスマイール派を誹謗中傷する文書がこの時期、大量に作られ、同派の起源に関する伝承も捏造された(ファーティマ朝の開祖はイスマイールの子孫などではなくユダヤ人だ、等々)。初期イスマイール派の研究を困難にしている一因である。
 ところで、ファーティマ朝君主の称号は、アリー派(の分派)らしく「イマーム(大導師)」またはアッバース朝に対抗して「ハリーファ(名代)」だが、彼らはイスマイールの子孫ということになる。その6代目、ハーキムという人物は強烈な個性をもって知られる。996年に11歳で傀儡としてハリーファ位に就けられ、政治は宦官に牛耳られた。在位4年で自ら宦官を殺害し、以後は親政を行う。当初は異教徒も含めすべての人民に対し寛容だったが、数年で異教徒弾圧に転じる。この頃から夜な夜な街を徘徊するなどの奇行が目立つようになる。1017年頃には一部の熱狂的な信奉者の支持を得て自己神格化に至り、1021年、謎の失踪を遂げた。
 参照:菊池達也『イスマーイール派の神話と哲学』岩波書店
 このハーキムを主人公にした短篇小説が、ジェラール・ド・ネルヴァル(1805-1855)の「カリフ・ハケムの物語」(筑摩書房『ネルヴァル全集Ⅱ』所収)である。
 解説その一の「美青年」の項で、イスマイールに関する情報があまりに少ないので、彼の弟の末裔を自称し自己神格化を含めたエキセントリックな言動で知られるファールス(ペルシア)のサファヴィー朝の始祖イスマイール1世(AD1487-1524.在位1501-)のイメージを重ねていると述べた。それに加えて、このハーキムのイメージも少し重ねている。まあ本作のイスマイールは、エキセントリックではあるがこの二人とは方向性が違うんだが。

 次回で完結です。 

目次

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その五十三

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.69
上段18行
近くホラーサンへ……
  本作の翌年、AD746年にアブー・ムスリムは東ファールス(ペルシア)のホラーサンへと送り込まれ、747年に蜂起する。
 アブー・ムスリムは、現地のタージク(アラブ)人にも非タージク人にも非常に慕われた。異教徒にも寛容で、配下の非タージク人には改宗者だけでなく異教徒も多かった(ただし背教者には容赦しなかった)。
 アッバース朝成立後の755年、アブー・ムスリムはその勢力を恐れたハリーファ(名代)によって謀殺される。数か月後にホラーサンのマギ(ゾロアスター)教徒が、アブー・ムスリムの血の復讐を唱えて蜂起した。その後、ホラーサンおよびソグディアナ(中央アジア)の住民の間に、アブー・ムスリムを預言者あるいはマフディ(救世主)と仰ぐ奇怪な宗教が広まり、100年以上にわたってしばしば騒乱を引き起こすことになる。

黒衣
 解説その三十五の「幾度となく政府転覆を試みたが」の項で、イスマイールの大叔父ザイドを首謀者とする「ザイドの乱」(AD740年)について述べた。ザイドの息子はホラーサンでしばらく反政府活動を展開した後、743年に処刑されたが、現地ではザイド父子への同情が広まった。
 本作でも述べているとおり、747年に蜂起したアブー・ムスリム軍は黒衣を纏い、黒旗を掲げた。以後、黒はアッバース家の色となる。黒はウマイヤ家の色である白に相対するものだが、喪の色でもある。後世の史書によると、アブー・ムスリムはホラーサンの人々に対し、黒はザイド父子への哀悼を示すものだと説明したという。
 ウマイヤ家の白についての由来は、説明してる資料を見つけられず。
 ところで同じく解説その三十五の同項で、ザイドの息子が処刑された翌年、ザイドの乱の残党が、アリーの兄の曾孫を担ぎ上げて起こした反乱にも触れた。この人物は本作の時点(745年)では、逃げ延びた先のマダーイン(ファールス=ペルシア西南部)で現地民の支持を得、勢力を拡大していた。
 同時期、現ハリーファ(名代)のマルワーン2世に対して反乱を起こしていたウマイヤ家の人物が敗北し、反政府勢力ハワーリジュ派(解説その三十四の「不満分子」の項参照)と結んだ。746年、マルワーンの軍隊に敗れた彼らは、アリーの兄の曾孫の許へ庇護を求めて逃げ込み、受け入れられた。
 ウマイヤ家はアリーに謀反してハリーファとなった上に、アリーの息子フサインを惨殺したし、ハワーリジュ派はアリーを暗殺している。どちらもアリー一族の宿敵である。アリーの兄の曾孫だから傍系ではあるが、なんというか節操がない。
 さらに翌年の747年、このアリーの兄の曾孫はウマイヤ朝の軍隊に敗れ、ホラーサンへと逃げた。すでにホラーサンを掌握していたアブー・ムスリムは、庇護するどころか、現地民を煽動して殺害させたのだった。というわけで、アブー・ムスリムのアリー一族の敬意はただのポーズに過ぎない。

下段
算(かぞ)え、測り、験(ため)し、証して、
 p.63上段16行目の大神官の台詞、「計算し計測し、実験し検証します」の言い換え。そのままコピペしたのでは芸がないのと、言葉遊びの側面もあるが、それ以上に、当時のタージク(アラビア)語に「計算」「計測」「実験」「検証」に該当する語がなかったと考えられるからである(大神官が話しているのはシャーム=シリア語)。
 こうした学術的な用語は、ユーナーン(ギリシア)語文献の翻訳事業の中で、新たに造語されるか、元からある語に新たな意味を持たせるか、異国語から借用するかして成立するのだが、それはまだ先の話である。

賢者の究極目的(ガーヤト・アルハキーム)
「ハキーム」は「賢者」(「アル」は定冠詞)。「ガーヤト」は「目的」のほかに「究極/極み」といった意味がある。そのため一般に「ガーヤト・アルハキーム」は「賢者の極み」または「賢者の目的」と訳されるが、本作では両方の意味を持たせるため「賢者の究極目的」とした。
 しかしまあ少々ぎこちない訳なので、タイトルはカタカナのみの『ガーヤト・アルハキーム』とした。
 このタイトルの中世の魔術書については次回。

祈りにも似た思いで
 ジャービルがこの「思い」を向けているのは唯一神ではなくイスマイールなので、「祈って」しまっては反イスラムとなる。だからあくまで祈りに「似た思い」なのだが、被造物である人間に対してそのような感情を抱いている時点で、すでに異端に足を踏み入れかけている。

 というわけで本編の解説終わり! 後はnote(後記)だけです。いやー、毎日コツコツやれば終わるものですね。ではまた明日。 

目次

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その五十二

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

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頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.69
上段11行
日出づる処(ホラーサン)
 ウマイヤ朝に対する最初の反乱以来、イラクのクーファはアリー派の中心地だった(解説その三十五参照)。しかし史書に記されるクーファのアリー派は、常に口ばかりで無計画で、アリー一族の適当な人物を担ぎ上げては、いざ蜂起となると逃げ出す信用ならない連中である。その結果、担ぎ上げられたアリー一族の者は、ほとんど手勢がいない状態で政府軍に蹴散らされる、ということが繰り返された。
 いずれも同時代史料ではないので、誇張やステレオタイプ化の可能性が考えられるが、火種が常にクーファにあったことと、反乱がことごとく失敗しているのは確かな事実である。
 アッバース家はウマイヤ朝打倒を企てた当初から、クーファに重きを置かなかった。彼らの本拠地はクーファから遠く離れた現パレスチナ南部だったが、反ウマイヤ朝活動を展開したのは、クーファよりさらに東のファールス(ペルシア)東部のホラーサン地方とその東のソグディアナ(現在のタジキスタンおよびウズベキスタン辺り)だった。
 ホラーサンではAD7世紀末以来、この地ではウマイヤ朝への反乱が頻発していた。氏族同士の反目を背景としたタージク(アラブ)人と、強制改宗や重税に反発する現地民の双方で、時に両者に呼応することもあった。アッバース家は彼らの心を捉えるべく、「全信徒の平等」と「異教徒の保護」を謳ったのである。

信徒の父にして信徒の息子(アブー・ムスリム・イブン・ムスリム)
 伝えられるフルネームは、「アブー・ムスリム・アブドゥルラフマーン・イブン・ムスリム・アル・ホラーサーニー」。「アブドゥルラフマーン」は「慈悲深きもの(唯一神の美称の一つ)のしもべ」で、個人名(固有名詞)としても使われるが、この場合は文字どおりの意味で、匿名的な名乗り。「アル・ホラーサーニー」は「ホラーサーンの人」だが、この場合は「ホラーサン出身」ではなく、「ホラーサンに縁がある」という意味。
 そして「アブー・ムスリム」は「信徒の父」、「イブン・ムスリム」は「信徒の息子」なので、「匿名希望」と称しているようなものである。
 出自についてはファールス(ペルシア)系で元奴隷だと伝えられる以外は一切不明。事績については追々説明。

アッバース家当主
 アッバース家は反ウマイヤ朝運動を展開するに当たって、作中でも述べているように、誰をイマーム(大導師)とするかを敢えて明確にしなかった。「預言者ムハンマドの血を引くイマーム」がウマイヤ家に代わってハリーファ(名代)となる、とだけ約束することで、千々に分裂したアリー派は、アリー一族のうち自らが支持する人物をイマーム/ハリーファとすべく、結束してアッバース家に与したのである。
 非常に賢明な戦略である。が、もちろんアッバース家はウマイヤ家を倒した後、政権をアリー一族に譲るつもりは毛頭なかった。ウマイヤ朝滅亡直後の混乱の中、「ムハンマドの叔父の子孫だから、ムハンマドとは血の繋がりがある」と強弁し、まんまと即位したのであった。汚い! 実に汚い!
 解説その三十七で、アリーの息子の一人イブン・ハナフィーヤ(イスマイールの曽々祖父フサインの異母兄弟)が685年、クーファ市民が起こした反乱に「マフディ」として祭り上げられたが、反乱には関わらなかったとして赦免されたことを述べた。
 イブン・ハナフィーヤは716年に没したが、アッバース家は彼がウマイヤ家に毒を盛られ、死に際にアッバース家当主にイマーム位を譲った、と主張した。もちろん作り話であり、これを信じてアッバース家を支持する者もいたが、まとまりのないアリー派の中でも少数派に過ぎなかった。
 アッバース家の反ウマイヤ朝革命運動で、重要な役割を担ったのが、前項のアブー・ムスリムともう一人、アブー・サラマという人物である。アブー・ムスリムは後述するようにホラーサンで革命軍を組織し、アブー・サラマはクーファにおいて革命を指導した。
 しかしアブー・ムスリムがアッバース家当主に忠誠を誓い、ハリーファ位に就けるべく心血を注いでいたのに対し、アブー・サラマの望みはアリー一族をハリーファにすることだった。革命のどさくさでアッバース家当主が殺され、ほかのアッバース家の成人男性たちとも連絡が取れなくなったのを幸い、アブー・サラマはアリー一族の主要な人物をハリーファにするべく画策した。彼が交渉した相手は、アリー一族当主ジャアファル・サーディク(イスマイールの父)のほか、ハサン家当主とその息子で潜伏中だった「純粋な魂」(解説その四十六の「ハサン家」の項参照)もいたが、サーディクは頑なに拒絶し、「純粋な魂」父子はあれこれ条件を付けて交渉が進まず、そうこうしているうちにアッバース家当主の弟が出てきて即位したのだった。
 この行動が原因で、後にアブー・サラマは粛清されるのだが、このように革命の双璧の一人と言うべき人物でさえ、アッバース家をイマームとして認めていなかったのだった。
 解説その五十一の「革命の志士」の項で述べたように、ジャービルの父ハイヤーンはおそらくアッバース家の最初期の「ダーイー」(宣教員)の一人だが、アリー派の本拠地であるクーファ出身であることから、アッバース家の真の目的は知らなかった可能性が高い。本作では、少なくともジャービルはそれを知らず、アッバース家はアリー一族のために働いていると信じている。


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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その五十一

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

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頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.69
上段10行
革命の志士
 錬成術(錬金術)師ジャービルの出自に関するさまざまな伝承のうち、今日おおむね定説とされているのは以下のとおり。
 ジャービルの父親はイラクのクーファ出身の薬種商ハイヤーンといい、アッバース家の「ダーイー」だった。タージク(アラビア)語「ダーイー」は「宣教員」あるいは「宣伝員」と訳され、特定の思想・宗教を広める。たいていは秘密裏なので、平たく言えば工作員である。その死の経緯は作中で述べられている(なぜホラーサンに送られたのかについては次回)。
 ジャービルはクーファ育ちだと伝えられるので、父の死後、親族の許に送られたのであろう。アッバース家がホラーサンに最初の「ダーイー」を送ったのはAD718年だとされる。ハイヤーン処刑は722年頃に生まれたジャービルがまだ幼い頃だったと考えられるので、ハイヤーンはこの最初期のダーイーの一人だったと思われる。処刑の2年前に、現地の官憲の疑いを招いて捕らえられ尋問を受けたが、その時は白を切り通して釈放されたという。
 またジャービルは、クーファの有力なタージク人氏族であるアズド族の出身だともされる。
 解説その三十九および四十で述べたように、古代・中世において香料(焚香料およびスパイス)は単なる嗜好品ではなく医薬品としても珍重され、非常に高価だった。解説その四十一の「薬種商」の項で述べたように、それらの香薬類を扱う薬種商は幅広い知識を必要とされた。
 ユーナーン(ギリシア)医学を継承したイスラム医学が発展するのは、まだ先のことであるが、タージク人は古来、香料貿易に従事しており、ヘレニズム文化の影響も受けているから、ユーナーン医学の香料に関する知識もある程度は伝わっていたはずだ。
 薬種商になるには、多額の資金も多方面へのコネも必要だし、ジャービルの父親の時代のタージク人なら、書物(異国語の)を読んで独学した可能性はほぼないので(解説その四十二の「彼にとっての学問とは……」の項参照)、薬種商の下で長期間の修行も必要だったはずだ。
 それとこの時代の氏族主義を考えれば、ハイヤーンが有力氏族出身である可能性は非常に高いし、その中でもかなり地位の高い家の出だったのではあるまいか。
 参照:E・J・ホームヤード『錬金術の歴史 近代化学の起源』朝倉書店
 私がこの説を妥当だと判断する理由については、後ほど改めて述べる。
 ジャービルの母親についての伝承はないようだが、本作では次の理由でファールス(ペルシア)人の奴隷だとした。
『千夜一夜』には、敵対関係にある氏族同士の若い男女の悲恋物語が幾つもある。まあタージク版ロミオとジュリエットであるが、タージクの氏族主義においては結婚は家同士どころか氏族同士のものであり、時代を遡るほどその傾向が強い。
 8世紀初めまでに、ホラーサン地方には多数のタージク人が移住していたから、ハイヤーンが現地で結婚しようと思えば相手に不自由はなかっただろうが、危険な密命を帯びていながら、厄介な人間関係とセットになっている結婚をわざわざするとは考え難い。身元を偽っていた可能性もある。となると、ジャービルの母親となった女性は奴隷だったという推測が成り立つ。
 場所がファールスだったからといって、必ずしもファールス人だったとは限らないが、わざわざ別の民族にする必然性もなかったので。それとジャービルは後年、ファールス系の宰相一族と懇意になったと伝えられる。これも彼がファールス系であったかもしれないと推測する理由の一つである。

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その五十

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

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頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.68
下段4行
死者あるいは生者から……
 えーと、要するにクローンです。SF脳なんで、元ネタ(解説その四の「犠牲に選ばれるのは……」の項参照)から思いつくのが、どうしてもそういう方向になります。どうもすみません。
 設定的には、この世界の物質(および「霊的存在」)は「エネルゴン」から構成されているので、物質変成などの操作は比較的簡単です。正確な操作には正確な計算が必要で、それをやろうとしているのが錬成術(錬金術)。
 一方、魔術は数量化や再現性といった概念を持たないまま、行き当たりばったりと経験則でそれなりに発展してきたのが、経験則を無視した机上の空論が発達したのが仇となって衰退してしまった、というような状況です。
 この「クローン技術」も、古代キーム(エジプト)で行き当たりばったりと経験則で一応確立されたのが、机上の空論が幅を利かせるようになったことで、いったん衰退。ヘレニズム時代に入ってユーナーン(ギリシア)人の錬成術師たちによる数量化を経て復活、といったところですね。

追記:あと、錬成術(錬金術)なので当然ながら、ホムンクルスのイメージも被せています。

復活は来世まで……
 エジプトのミイラは来世で復活するためのものだが、当初は現世で復活すると信じられていたそうである。

七体
 作中で述べられているように余分に作るのは予備のためだが、他の数ではなく「7」なのは、ハッラーンのヒルミス(ヘルメス)=シン信仰ではこの数を重視したから(七惑星に基づくと思われる)。

宮殿
 本作の前年に即位したマルワーン2世は、その短い治世(AD744-750)の間にハッラーンを再開発し、宮殿も建設した。その宮殿はシン神殿の場所に建てられた、という英語記事を幾つか見つけたんだが、神殿がその後も存続していたのは多くの記録から明らかである(最終的にモンゴル軍に破壊された)。イスラムの支配下で、いったん破壊された神殿を再建できたとは考え難い。
 しかしシン神殿は都市の中心にあり、信者が減少したとはいえ、それなりの面積を有していたはずだから(本殿のほかに少なくとも倉庫群と神官の宿舎くらいはあっただろう)、宮殿用に接収の話が出ていた可能性は高い。

アッバース家
 作中でも述べているように、預言者ムハンマドの叔父アッバースの子孫。「極秘計画」については追々解説していきます。

p.69
上段
異教徒の保護
 預言者ムハンマドの時代から、異教徒はムスリムに納税する代わりに一定の権利を与えられる。そのような異教徒を「ズィンミー」と呼ぶ。タージク(アラビア)語で「庇護民」の意。
 聖典では「啓典の民」(唯一神からの啓示を記した聖典を有する民)の権利を謳う一方で、多神教と偶像崇拝を厳禁しているので、多神教徒および偶像崇拝者は保護の対象にはならないことになる。しかし初期イスラム時代から、マギ(ゾロアスター)教やハッラーンの多神教徒は保護の対象になっており、強制改宗は例外的なケースであった(解説その二十三参照)。
 とはいえ、民衆レベルでは異教徒への嫌がらせは日常的に行われており(解説その二の「犬のように無視される」の項参照)、また時代が下ってイスラム世界全体が保守化してくると、マギ教もハッラーンの異教も「一神教化」せざるを得なくなる(マギ教は教義そのものを改変したが、ハッラーンの場合は一神教に偽装しただけだった)。

 続きます。

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十九

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

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頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.67
下段19行
地下通路
 ハッラーンは広大な平原に建設された都市なので、市壁(防壁)に囲まれている。シン神殿はハッラーンの中心にあった。
 解説その十三の「地下の大書庫」の項で述べたように、現代のハッラーン一帯では、かつてシン神殿の地下に秘密の通路があった、と語り伝えられているという。それが数十キロに及ぶ長大なものだったかどうかはともかく、古代メソポタミアの都市間戦争では、敵に最も狙われるのは都市の主神の像だったから、神殿地下に秘密の脱出路が設けられていた可能性は充分にある。

黒土の国(キーム)から来た男に……
 ロバート・アーウィン『必携 アラビアン・ナイト 物語の迷宮へ』(平凡社)によれば、キーム(エジプト)では数千年前からファラオの宝を求めて盗掘が横行し、それに伴って宝探しの魔術も発達した。同書では『千夜一夜』中のキームの宝探しの物語のほか、AD13世紀に書かれた宝探しの指南書を紹介している。
 オーウェン・デイビーズ『世界で最も危険な書物 グリモワールの歴史』(柏書房)によれば、中世末期(14世紀頃)から西洋人もキームの宝探しに参戦した。彼らもタージク(アラビア)語の魔術書を使用したが、中でも特に人気だった『埋められた真珠の本』は、1930年代になってもトレジャーハンター必携の書だったという。

p.68
図と数字から……
 解説その十三で後回しにした「施錠装置」の解説を、ようやく行える。扉の「把手の傍らに熔接された」「鉄の小箱」(p.60下段最後の行)に付いている「真鍮の板」に図と数字が刻印されており、その図と数字から設問を理解し、計算し、解答を数字が刻まれた「円盤」(要するにダイヤル)で入力すると解錠(扉の開閉から施錠までは自動)。問題を記した「真鍮の板」は扉ごとに12枚用意され、日替わりする(定期的に総入れ替えもされているかもしれない)。
 入力を3回間違えれば「防御機構」が発動して「エネルゴン」に攻撃されるが、この「施錠装置」自体は錬成術(錬金術)とはまったく無関係で、必要なのは図と数字のみから設問を理解する知識と知力、そして計算力だけである。まあこの時代(AD8世紀半ば)においては、ハッラーンの上級神官たちが、そんなことができるのはこの世に自分たちだけしか存在しないと思い込むくらいの特殊能力ではある。
 というわけで解錠に使われた書字板(解説その十二の「書字板」参照)は、計算用である。神殿に侵入したイスマイールも当然、書字板を携帯している。

その驕り
 彼らの傲慢さについては、解説その十二の「割礼」の項やその十六の「メシアス教」の項を参照。

機巧(カラクリ)で動く神像に……
 参照:深谷雅嗣「古代エジプトの神託とその社会的機能」(『宗教研究』第81巻4号所収)

 前回に引き続き、今回もサクサク進みましたね。それではまた明日

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十八

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

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頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.66
下段12行
不朽体(サフ)
 古代キーム(エジプト)ではミイラを「サフ」かそれに近い発音で呼んでいた。「高貴な」という意味だそうだ。
「不朽体」はメシアス(キリスト)教聖人の遺体のことで、神の加護によって腐敗しないとされる(ラテン語in「不」+corruptus「腐った」から)。現存する「不朽体」は、自然または人為的にミイラ化した遺体だと言われている。
 本作で「不朽体(サフ)」という名称を当てた「物」については後ほど解説するので、ここではヒルミス(ヘルメス)との関係について。
 後世のムスリムがヒルミスを預言者エノクと同一視したことは、解説その九の「預言者」の項で述べた。ところで「エノク」のタージク(アラブ)語形は、「ハヌーフ」という。解説その二十九で述べたように、イスラムの聖典では歴代の預言者のリストが挙げられているが、そこに「ハヌーフ」の名はない。ユダヤ教聖書に該当人物がいない幾人かの預言者のうち、「イドリース」がハヌーフ=エノクだとされている(大川玲子『聖典クルアーンの思想 イスラームの世界観』講談社)。
 イブン・バットゥータ(AD1304-1369頃)は『大旅行記』(平凡社)の中でヒルミスについて、古代キーム(エジプト)で唯一なる神を崇めた最初の人であり、またの名をハヌーフ、つまりイドリースのことである、と述べている。ヒルミスは大洪水(ノアの洪水)を予知し、それによって知識や技術が失われることを恐れ、ピラミッドと古代神殿を建て、その中に絵を描くことで後世に伝えようとしたのだという。
 イドリース=エノク説には異説もある。家島彦一『海域から見た歴史 インド洋と地中海を結ぶ交流史』(名古屋大学出版会)によると、イドリースはイエス・キリストの使徒アンドレアスとも同一視されていた。つまりヒルミスはメシアス教聖人でもあったことになり、その「サフ」に聖人の遺体を指す「不朽体」の語を当てるのは適切なのである。

克死漿(ネクタール)
「ネクタール」νεκταρnektarはユーナーン(ギリシア)神話の神々の飲料。原義は「死を克服する」。
 前項の「サフ」が古代キーム(エジプト)で、「ネクタール」は古代ユーナーン。この文化混淆は、ヒルミス(ヘルメス)信仰そのもののである。

大きな硝子壺の中
 この場面はハッラーン神殿の密儀についての伝承に基づいている(解説その四の「犠牲に選ばれるのは……」の項参照)。

水時計
 水時計は数千年前からキーム(エジプト)やバビル(バビロン)で使用されていた。これを改良したのがアレクサンドリアのクテシビオス(前3世紀)で、以後千数百年にわたって水時計の機構に変化はなかった。

p.67
下段
三重に偉大な賢者
「三重に偉大な」は、ヘルメス・トリスメギトスの「トリスメギストスτρισμηγιστος」の訳。「三倍偉大な」と訳されることもある。

人の姿をとったアルイクシール
『栄光ある者の書』(キターブ・ル・マージド)と題される著作でジャービルは、「栄光ある者」とはイマーム、すなわちアルイクシールであると述べている。このアル・イクシールは神的霊から溢れ出し、下界(地上)の国を変貌させることになっているという。
 参照:アンリ・コルバン『イスラーム哲学史』岩波書店

 続きます。

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十七

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

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頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.66
上段4行
ハイヤーンの息子ジャービル
 解説その一の「ジャービル」の項で述べたように、彼は半ば伝説上の人物であり、出自についても様々な伝承がありますが、父親がハイヤーンという名の薬種商(解説その四十一の「薬種商」の項参照)、というのはおおむね定説となっています。
 より詳しくは後ほど。

夷狄
 タージク(アラビア)語だと「アジャム」。意味は「わけのわからない言葉を話す者」で、ユーナーン(ギリシア)語の「バルバロイ」と同じ。「アラブ」以外の人間はすべて「アジャム」である。なお「アラブ」の語源は不明。

割らずに飲み始めた
 葡萄酒は水で割って飲むのが一般的だった。

ウルファ
 本作の舞台であるハッラーン(現トルコ南東部)から北西40キロ余りに位置する。ハッラーンと同じく古代から栄えた都市。西洋ではセレウコス朝時代(BC312-BC63)の名「エデッサ」として知られる。AD638年にイスラム軍に征服された時にはルーム(東ローマ)領だった。
 中世イスラム世界においてはハッラーンほど重要ではなかったので、本作の時代(8世紀半ば)にはどんな名だったのかは調べても判らなかった。セレウコス朝時代以前は「ウルハイ」という名で、それが後に「ウルファ」となるんだが、その変遷の過程も判らず。まあここで名前が出るだけなんで、「ウルファ」にしておきました。

今は黒土の国(キーム)の暦で……
 ここから続くジャービルの一連の台詞を解説すると、まず「キーム(エジプト)の暦」とは、現在でもコプト正教会で使用されているコプト暦のこと。キームでは数千年前から、年に1度、シリウスが夜明けの太陽と共に現れる日を元日とする1年365日の太陽暦が使用されていた。観測結果から1年に4分の1日ずつずれが出ることも判明していたが、神官たちの反対で閏年は設けられなかった。BC30年にルーム(ローマ)皇帝アウグストゥスによってずれが修正され、現在のコプト暦となった。
 ユリウス暦と同期しており、元日はユリウス暦の8月29日である。12の月名は古代キームの神々の名で、1月は暦の神トフト(トート。解説その九の「トフト」の項参照)である。
「我々の暦」とは、イスラム太陰暦(ヒジュラ暦)のことである。新月が出た日を各月の第1日目とするが、この場合の新月は「朔(見えない月)」ではなく、朔の後の第1日目の月のことである。この点が、朔の日を各月第1日とする東アジアの太陰暦とは異なる。
 水星は日の出直前か日の入り直後の低い空にしか現れず、新月は日没時にしか現れない。AD745年のコプト暦トフト(第1)月中のイスラム太陰暦で月の第1日目に当たるのは、グレゴリオ暦9月7日に当たる。

最上層の至聖所を……
 解説その十一の「祭日以外は……」の項参照。

 切りがいいところまで来たので今回はここまで。続きはまた明日

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十六

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

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頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.65
下段16行 
弱腰のお父上
 イスマイールの父でアリー一族当主ジャアファル・サーディクは、人格者にして当代屈指の学者だったと伝えられるが(解説その三十六の「ジャアファル・サーディク」の項参照)、不満分子集団アリー派には政府転覆を期待され、幾人もの親族が反乱の首謀者に担ぎ上げられるという状況で一族郎党を守り続けたのだから、実は政治手腕は相当なものである。
 解説その三十五の「幾度となく政府転覆を試みたが」の項で、AD740年(本作の5年前)に起きた「ザイドの乱」について述べた。首謀者ザイドはサーディクの父方の叔父で、息子の1人は3年後に政府に捕らわれ処刑されたが、生き残ったもう1人の息子はサーディクの庇護下に置かれた。さらにサーディクは、ザイドに従って戦死した250人に対しても、その遺族に金銭を支給している。
 しかし当時は前イスラーム時代の美徳であった猛々しさ、荒々しさといった「男らしさ」が、いっそう美化され強調される傾向にあった。サーディクの穏健、慎重、賢明といった特質は評価され難かっただろう。
 後代になると、預言者ムハンマドの血統への崇敬が高まり、アリー派を忌み嫌う者でさえ、アリー一族を謗ることは決してなかった。たとえばイスマイールの子孫を開祖とするファーティマ朝(後述)は主流派(スンニ派)から憎悪されたが、あれはイスマイールの子孫を詐称してるのだとして、アリー一族に罪はないとされていた。
 しかしウマイヤ朝は、その成立からしてアリーに対する反乱だし、2代目はアリーの息子フサインを惨殺している。ウマイヤ朝に忠実な者ほど、アリー一族への崇敬は希薄だっただろう。

p.66
ハサン家
 アリーの長男にして第2代アリー一族当主ハサンの子孫。自主的に隠遁したため、アリー一族当主の地位はハサンの弟フサインの子孫に受け継がれることとなった。
 しかし反ウマイヤ朝の旗頭としてアリー一族への期待がますます高まる中、フサインの息子(第4代)以降の当主たちは穏健路線を取り続けた。そのためアリー派の期待はハサン家に集まることとなった。
 アリー一族の第5代当主にしてフサイン家当主のムハンマド・バーキル(フサインの孫でイスマイールの祖父)の時代、彼と同世代であるハサン家第3代当主(ハサンの孫)はウマイヤ朝転覆の準備を密かに進め、着々と支持者を増やしていった。さらにハサン家はアリー一族当主の座への復帰も望み、フサイン家と争うこととなった。
 ムハンマド・バーキルはAD733年に没し、息子のジャアファル・サーディク(イスマイールの父)が跡を継いだが、両家の争いは続いた。7年後、ムハンマド・バーキルの弟(すなわちサーディクの叔父)ザイドが、一部のアリー派の口車に乗せられて蜂起した(ザイドの乱。解説その三十五の「幾度となく政府転覆を試みたが」の項参照)。その背景には、ハサン家への危機感があったと考えられる。
 ザイドの乱に先立つ737年、ハサン家当主の息子(ハサンの曾孫)で「純粋な魂」と呼ばれる19歳の若者に、「マフディ」(「救世主」。解説その三十七参照)を称して反政府活動を行った廉で官憲の手が伸びた。「純粋な魂」という二つ名は、その敬虔さに因む。イスマイールより世代は1つ上だが、718年生まれなので同年代である。結局、彼の側近だった人物が逮捕・処刑され、「純粋な魂」自身は辛くも逃れて潜伏した。本作の時点(745年)でも潜伏中である。この頃には「純粋な魂」の父であるハサン家当主は、自身ではなく息子をイマーム位に就けるべく画策していたようである。
 この場面での警官(シュルタ)の言葉は、一つには「男らしさ」の価値観(前項)に基づくものである。ウマイヤ家に盾突く不逞の輩だが、それはそれとして、ひたすら忍従するフサイン家当主たちよりも「男らしい」、というわけだ。
 またタージク(アラブ)人の異民族差別にも基づいている。解説その七の「混血を厭いません」の項で述べたように、フサインは異民族の女性を娶ったため、彼の子孫はイスマイールに至るまでその血が流れている。
 一方、ハサン家は「純血」を誇る。同項で紹介したハサン家の人物とは、上記の「純粋な魂」のことである。また「純粋な魂」の父親は、上記のザイドがシンド(インド)人との混血であることから(兄とは腹違い)、「魔女の息子」と罵ったという。

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十五

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

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p.65
下段9行
酒場と偶像神殿
 解説その一の「服装から半数は異教徒、半数は信徒と……」の項で説明したとおり、本作の時代(AD8世紀半ば)、イスラムの飲酒禁止は建前に過ぎないような状態だった。このような風潮への反動として戒律の厳守を唱える禁欲主義が生まれ(解説その三十二参照)、またウマイヤ朝に不満を抱くアリー派(解説その三十四の「アリー派」および「不満分子」の項参照)も、禁欲主義ほど厳格ではないにせよ、戒律破りは快く思っていない。
 アリー一族の嫡子イスマイールには、飲酒癖があったと伝えられる(同時代史料ではない)。アリー派からすれば、イマーム(大導師)の後継者としてあるまじき悪癖である。
 ハッラーンのシン神殿、すなわち「偶像神殿」とイスマイールの関わりは創作だが、「偶像崇拝」は聖典において飲酒以上に明確に厳格に禁止されている。
 しかし解説その二十三で述べたように、当時はイスラム世界の大部分で異教徒の偶像崇拝はお目こぼしされていた。また後代の旅行記などから、ムスリムが異教の宗教施設を「観光」するのは珍しくなかったことが判る(「狡賢い神官」が「愚かな異教徒たち」をぺてんに掛けているのを著者が見破って悦に入る落ちがしばしば付くが、これは定番の嘘話である)。本作の時代(AD8世紀半ば)よりずっと保守化した時代でも、ムスリムが異教の宗教施設を訪れるだけなら、不信仰とは見做されなかった。
 とはいえ偶像神殿に足繁く通うムスリムがいたとしたら、当然非難されただろう。

貧相な骨柄
 解説その一 の「ただし肉付きが……」の項で見たように、タージク(アラブ)の伝統的価値観(前イスラム時代から近代に至るまで)では、男女とも太っているほど美しいとされていた。
『千夜一夜』をはじめとする古典文学では、美女も美青年も「月のように」美しいとされるが、この月は三日月じゃなくて満月で、しかも「満月のように光り輝く美しさ」というだけでなく、「満月の如く豊満」という意味でもあるからね。顔や髪などが「美」の条件を満たしていても、太っていなければ「貧相」となる。
 しかも中世には洋の東西を問わず、現代より遥かにルッキズムが支配的だったので、外見が貧相なら内面も貧相だと決めつけられたのだった。

アブー・ハッターブ
 イスマイールの父ジャアファル・サーディクの側近。生年不詳。没年は後述。
 アリー一族第6代当主(イマーム)の嫡子イスマイールについての、同時代史料は現存しない。生年はAD719年または722年だが、没年は754年説、756年説、760年説、大きく飛んで813年頃説とがある。父サーディク(765年没)より先に没したというのが定説なので、ほとんどの研究者から813年説は無視されている。
 確かな事実は、イスマイールが第7代イマームにならなかったことである。その理由については、単に父より早く死んだから、という伝承と、上記のとおり飲酒癖があったため廃嫡された、という伝承とがある。廃嫡の時期については伝えられていない。
 イスマイールとアブー・ハッターブの関係に注目したのが、アンリ・コルバン(1903-1978)である。サーディクの側近の1人だったアブー・ハッターブは、イスマイールをイマーム(この場合は「全信徒の長」の別称)として担ぎ上げようとし、748年(本作の2年後)頃、サーディクから絶縁された。イスマイールが早逝したため、今度はサーディクがイマーム(=全信徒の長)にして唯一神そのものだと主張し、仲間とともにイラクのクーファ(アリー派の最大拠点)で蜂起したが、例の如く直ちに鎮圧され、処刑された。
 彼の没年は755年または762年だとされる。前者ならイスマイールは754年に没したということになる(アンリ・コルバン『イスラーム哲学史』岩波書店)。
 754年(または756年、または760年)、サーディクはイスマイールの死亡を公表し、それが事実であると、マディーナ(サーディクの居所)の総督をはじめとする有力者たちにも保証してもらった。にもかかわらず、アリー派の一部は、サーディクが政府の迫害を恐れてイスマイールの死を偽装したのだと信じた。
 ファルハド・ダフタリー(1938-。著書の邦訳なし)によると、イスマイールの死は実際に偽装で、その後彼は幾度かアリー派の反乱に関わった、との伝承もあるという。最終的に813年、首謀者として反乱を指揮したが、その後まもなく没したという。
 90歳以上というのは、当時としては長寿すぎるようだが、寿命は遺伝で決まるので運がよければ中世だろうと古代だろうと長生きはする。とはいえ、この時代に90代で反乱を指揮というのは、さすがに無理がありすぎる。
 アブー・ハッターブに話を戻すと、アンリ・コルバンはイスマイールは飲酒癖のせいなどではなく、アブー・ハッターブの反政府活動に積極的に関わったため廃嫡されたのだとする。アブー・ハッターブがサーディクから絶縁されたのが748年頃だから、イスマイールの廃嫡はその後、早くても同時期だろう。結局アブー・ハッターブは、公表されたイスマイールの死を信じ、サーディクに「鞍替え」したわけだが。
 いつからアブー・ハッターブがイスマイールの信奉者として活動を始めたのかは不明だが、本作ではすでに政府の注意を引いていることにした。少なくとも今のところ、イスマイール自身は担ぎ上げられる気はない。彼がハッラーンに赴いたのは遊学のためだが、あるいはそれは表向きの目的で、真の目的は敢えて政府の監視が厳しい首都に入ることで、アリー派を遠ざけようとしたのかもしれない。

 続きます。

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十四

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

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p.65
上段5行
聖典
 預言者ムハンマドが受けた啓示をまとめたこの書物の名は、言うまでもなく「クルアーン」。「聖典」は、タージク語「アルキターブ」に当てた語である。the BookやBible(原義は「書物」)だけでユダヤ教およびメシアス(キリスト)教の「聖書」を指すように、「アルキターブ」(「定冠詞」+「書物」)だけで「クルアーン」を指すからだ(なお、「アルキターブ」はユダヤ・メシアス教の「聖書」も指す)。
「クルアーン」とは「誦まれるもの」、つまり「音読されるもの」という意味である。黙読するものではない。黙読は非常に個人的な行為である。一方、音読は、他人に聞かせることを前提としている。
 アウグスティヌス(AD354-430)は、ミラノの司教アンブロシウスが読書の際には黙読が常であったことを、わざわざ書き記している。アウグスティヌスは、音読していれば、それを耳にした誰かにあれこれ質問されて、説明したり議論したりしなければならないこともあるが、黙読ならそれがない、と感心している。だからといって、自分もそうしようとは少しも思わなかったようだ。無反応な文字で表わされた言葉とだけ向き合う行為である「黙読」よりは、その場にいる誰かと体験を共有できる「音読」のほうが、少々煩わしくても好ましかったのだろう(アルベルト・マングェル『読書の歴史 あるいは読者の歴史』柏書房)。
 この古代末期の西洋の「読書文化」は、中世イスラム世界にもそのまま当てはめられるだろう。まず前提として、「読む」という行為は個人的なものではなかった。音読(朗読)して他人と共有するものだったのである。
 前回、識字率の低い社会には、生きた人間が発したのではない「書かれた言葉」への根強い不信感がある一方で、文字や書物そのものに対する呪物信仰があると述べた。また解説その二十一で述べたように、古代末期から預言者ムハンマドが生きた7世紀初め頃、ユダヤ・メシアス教やマーニー(マニ)教のような聖典を持つ宗教は、持たない宗教から非常に羨ましがられていたらしい。
 ムハンマド自身をはじめ、当時のタージク人の大半が文盲だったにもかかわらず、イスラムが最初から、啓示とは天にある一冊の書物(聖典の「原型」)に書かれた言葉が預言者に下されたもの、という概念を有していたのは、そういう事情からである。


 中東は乾燥地帯なので、外を歩けば砂埃塗れになってしまう。そこで客人には顔や手足を洗うための盥と水を用意するのが礼儀だった。

清涼飲料(シャルバート)
 解説その三十九および四十で説明した飲料の名称。「シャルバート」は「シャリバ」(飲む)の派生語で、「飲料」の意味。冷たい飲み物だけでなく温かい飲み物も指す。
 解説その一の「服装から半数は異教徒、半数は信徒と……」の項で述べたように、イスラム世界では飲酒が禁止されているため(どんなに規制が緩い時代・社会でも、建前上は禁止である)、さまざまなノンアルコール飲料が発達した。それらのうち果汁に香料(砂糖を含む)を加えた冷たい「シャルバート」が西洋に伝わり、「シャーベット」の原型となった。

 長い回が続いたので、今回はここまで。また明日

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十三

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

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頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.65
上段4行
タージク語の読み書きはできるが
 現代タジク文学の父サドリッディーン・アイニー(AD1878-1954)は自伝『ブハラ ある革命芸術家の回想』(未来社)で、ブハラ・マンギト朝(1920年滅亡)の教育制度について語っている。
(解説その一の「タージク」の項で述べたが、「タージク」は元来はアラブを指したが、後に中央アジアのイラン系民族の名となった。それが「タジク」であり、タジク語はファールス=ペルシア語に近い)
 アイニーの父は、家庭の事情で充分に教育を受けられなかったため、息子に高等教育を受けさせることが悲願となっていた。有力者の援助を受けられたこともあって、アイニーは初等教育の後、12歳で首都ブハラのマドラサ(学院)に入学することができた。イスラム世界の高等教育機関である。
 ブハラは中世以来、「固有の学問」(イスラム神学や法学など)の中心地の一つであり、「聖なるブハラ」と呼ばれていた。アイニーの時代にも、中央アジア随一の「学問の都」だったのである。しかしアイニーが受けた教育は初等教育から最高レベルの高等教育機関である学院まで一貫して、1冊の本を教師が読み上げるのに続いて復唱し、すらすら復唱できるようになるまで続ける、というものだった。
 この学習法では、できるようになるのは暗誦であって読字ではない。教科書として使う書物に書かれた文章は、暗誦の補助としての役割しか果たさない。実際、生徒たちはこのようにして何冊もの本を「読める」ようになっても、初見の文章はどんな簡単なものでも、いや単語ですら「読む」ことができなかった。学院でさえ、そのような者は少なくなかった。
 アイニーは自分がなぜ、「読み方を教わらない本」も読めるようになったのか述べていないが、詩が好きだったお蔭なのは間違いない。どうにかして詩集を手に入れては読み耽ったという。学院でも、教科書以外の書物を読む学生は彼だけだった。
 しかも学院入学までアイニーが通った幾つかの学校(村の寺子屋や私塾のようなところ)では、教師は教科書の「読み方」を教えるだけで、内容の説明は一切しなかった。だから生徒たちは、教科書を「読める」ようになっても意味は理解していなかった。
 それらの学校では、書字も教えなかった。詩作に興味を持った少年アイニーは、字を教えてほしいと父に頼み、初めて書字を習うこととなったのだった(父は読み書きはできたものの学歴の低さを恥じていたので、別の人物に依頼した)。学院でも書字はカリキュラムに入っておらず、講義ノートを取ることもなかったので、字を書けない者はおそらく多数いた。
 学院ではさすがに教科書の丸暗記だけでなく、内容の講義も行われていたが、何世紀も前から伝承されてきた解釈を伝授されるだけで、独自の解釈というものは許されなかった。
 アイニーはソ連の「体制寄り」の作家なので、旧ブハラの学問水準のあまりの低さに、これは果たして事実なのだろうかという疑問が生じる。しかし谷口順一『聖なる学問、俗なる人生』(山川出版社)で紹介されているイスラム世界の伝統的な学習法は、アイニーが受けたものと基本的に同じである。
 このような学習法が取られたのは、暗誦が重視されただけでなく、タージク(アラビア)文字の特徴も一因ではある。表音文字だが短母音の文字がないので(長母音はある)、テキストだけでは発音が判らないのである。母音記号というものはあるが、省略されるのが普通である。ところがタージク語は、同じ綴りの単語でも、母音が違えば意味がまったく違ってしまいかねない。学生ではとても指導なしでは読むことができない、とされていたのである。
 なおアイニーの母語である「タジク語」は、上述のとおりイラン語族であるが、タージク文字で書かれるので(当時)、同じく母音記号を付けなければ発音が判らない。
 時代が下るにつれ重視されるようになった理由として挙げられるのは、読んだ書物の「独自解釈」を防ぐためであった。そのような行為は異端に繋がるとして忌み嫌われた。師は学生が道を誤らぬよう導いてやる必要があったのである。保守化の結果であるが、本作の時代、タージク人の文化はまだその段階には至っていない。
 イスマイールの父サーディクは702年生まれであり、タージク語の書物は当時、その半世紀前に編纂された聖典しか存在せず、半世紀近く経った本作の時代でも、状況はほとんど変わらなかった。聖典を「読む」ための学習法は、上記の「伝統的学習法」と同じく、教師が読み上げるのに続いて復唱する、というものだったに違いなく、これで聖典を丸々1冊「読める」ようになっても、初見の文章や単語は一切読めないままだったはずだ。
 解説その三十二で述べたように、初期イスラム時代には政府の公文書類は異民族の書記たちによって、彼らの母国語で作成されていた。それがタージク語に切り替えられたのは、ちょうどサーディクが生まれた頃に当たる。
 こうしてタージク語で公文書を作成するようになった書記たちも、当初はほとんどが異民族だったはずである。元から各々の母国語の識字能力が高かった者が、タージク語の読み書きも習得したのである。その後、タージク人自身のタージク語識字能力も徐々に上がり、本作の時代(8世紀半ば)に至る、といったところである。
 本作におけるイスマイールとジャービルは、この新しい世代の知識人である。一つ前の世代のサーディクは、「書物を読んで独学する」という発想も、自分で作文をするという発想もなかった可能性が高い。そもそも読字能力が上記の推測どおりなら、まとまった文章を書くことなどできなかったはずだ。
 カリグラフィーは前イスラム時代以来、唯一と言っていいタージク独自の視覚芸術であり、イスラム時代に入ってからはさらに発展していた。したがって、サーディクも流麗な文字を書くことができたはずである。しかし彼が字を書く機会は、秘書に口述筆記させた書簡等の文書に署名するほかは、依頼されてクルアーンの一節などを記すくらいだったろう。
 後者は観賞用としてだけでなく、「お守り」「おまじない」用として求められるものだった。現代のムスリムもクルアーンの一節を記した護符を使用しているが、10世紀後半に書かれた『イスラム帝国夜話』(岩波書店)には、クルアーンの一節を書いた紙を使ったまじないが幾つか紹介されている。護符として身に着けるだけでなく、特定の場所に埋めておくと願いが叶うとか、そういう類の。どの一節が必要かは目的ごとに決まっていたが、その内容は必ずしも目的とは関係なかった。
 オングが『声の文化と文字の文化』(藤原書店)で述べているように、識字率の低い社会では、文字で書かれた言葉への根強い不信感がある一方で、文字や書物それ自体に魔術的な力を見出す。一種の呪物信仰である。
 あるいは写本作成のため、聖典全文を書写することもあったかもしれない。しかし直筆であれ口述筆記であれ、サーディクが著作をしたという可能性は皆無に近いだろう。己の知識を書物の形で残そうと発想するには、彼は早く生まれすぎている。
 というわけで、イスマイールの父ジャアファル・サーディクに帰せられている錬成術(錬金術)書(書名は多数伝えられているそうだが、現存しているのかは確認できなかった)は、個別に検証するまでもなく偽書である。
 錬成術を学んでいた可能性は否定できないが、錬成術師と呼ぶに値するほど、理論と実践に通じていたとも思えない。口伝だけで膨大な情報を取得できたとしても、機械的暗記と理解力はトレードオフの関係にある。また彼の居所がマディーナ(タージク=アラビア半島中西部)であることから、師事したのはハッラーンを含むシャーム(シリア)系錬成術師よりもキーム(エジプト)系錬成術師であった可能性が高い。
 解説その二十五の「エネルゴンとしての霊魂の錬成」の項で述べたが、ルーム(東ローマ)の錬成術は古代末期以降、実践を軽視するようになり、机上の空論化したその理論すら、アレクサンドリアのステファノス(7世紀)以降はメシアス(キリスト)教による霊魂の救済論に利用されるだけと成り果てていた。8世紀当時、キーム系錬成術師は、実験器具の類すら所持していなかった可能性が高い。
 ではなぜ、サーディクが錬成術師だったという伝承が捏造されたのか。それについては、彼がジャービルの師だった可能性についてとともに、後ほど改めて解説。

 続きます。

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十二

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

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頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
下段19行
文机
 この時代(AD8世紀半ば)のタージク(アラブ)人がどんな筆記用家具を使っていたのかは、実物はもちろん、同時代の文献も絵画等も残っていないので、数百年後に作成された写本の挿絵(もっと古い時代の絵を写した可能性はある)を参照。
 ちなみに現代タージク語で「机」は「マクタブ」だが、これは字義どおりには「書きものをする所」という意味で、「事務所」を指す語でもある。

書物
 ハッラーン(現トルコ南西部)なので、パピルスではなく獣皮紙製だろう。前イスラム時代(AD7世紀前半以前)のルーム(東ローマ)ではすでに巻物ではなく冊子体(現在の書物と同じ形)が普及し、ハッラーンはルーム文化の影響下にあった。

異国語を学んでその書を渉猟する……
 次項以降で解説するように、タージク(アラブ)人の学問伝統からは逸脱した行為である。

p.65
異民族にも異教徒にも寛容なサーディクだが
 解説その二の「第六代大導師の下で共に学んでいた少年時代」の項で述べたように、イスマイールの父サーディクは「外来の学問」(異民族・異教徒の学問)と「固有の学問」(神学や法学などイスラムに関わる学問)とを分け隔てしなかったと伝えられ、また解説その七の「混血を厭いません」の項で見たように自身が異民族の血を引くので、当時のタージク(アラブ)人にしては珍しく異民族・異教徒を差別しなかったと見ていいだろう。

彼にとっての学問とは……
 AD8世紀半ば当時のタージク(アラブ)人の学問は、暗誦が中心だった。暗記できているかどうか確かめるのは筆記ではなく口頭だから、暗誦できなくてはならないのだ。暗誦できなければならなかったのは、聖典、預言者ムハンマドに関する伝承、ムハンマドやさらにそれ以前の時代から伝えられてきた詩などである。
 聖典は口伝されてきた「啓示」が、本作の時代より100年ほど前に書き記され、1冊の書物にまとめられたが、伝承と詩は、本作の時代の少し前くらいからようやく書き留められ始めたばかりで、おそらくはほとんど出回っていなかった(写本が作成・販売されていなかった)はずだ。
 解説その三十二では、その理由を「聖典以外の(タージク語の)書物は書かれるべきではない」と考えるムスリムが多かったからだとした。それだけではなく、もっと根本的に、識字率が低い社会の人々(イスラム世界に限らない)が共通して抱く、「文字で書かれた言葉」への不信感がある。
 弟子のプラトンが記すところによると、ソクラテス(BC5世紀)はテクスト(文字で書かれた言葉)への不信を、次のように表現している。すなわち、テクストは反応しない。生きている人間なら、聞き手はその場で質問したり反論したりできる。テクスト相手ではそれができない。
 即座に反応してくれる生きた人間が発する言葉と違って、無反応な文字で表わされた言葉は信頼できない、信頼できるかどうかの判断ができない、ということであろう。解説その三十二で紹介した、2年半前に書いた自分の手書きの文章が信頼できなかった1980年代の米国の学生と同じである。
「唯一の書物」だった聖典も、そこに記されている啓示(唯一神の言葉)は暗誦すべきものであり、書物としての聖典はそれを補助するためのものだった。このことについては、後ほど改めて解説する。
 ムハンマド関連の伝承は、聖典には記されていない行為や事物が反イスラムでないかを判断する根拠とされる、いわば第二の聖典だが、早くから偽造や改竄が問題になっていた。そのため、そのムハンマドの言行を実際に目撃した人物A、Aから伝え聞いたB、Bから伝え聞いたC、という「伝承経路」も暗誦できなければならず、さらにはこの「経路」の正しさを証明する情報もまた暗誦できなければならない。具体的には、たとえばAが生まれたのがムハンマドの死後だったりしたら、この「経路」は間違っていることになる。あるいはAの性格に問題があったりすれば、彼が伝えた情報の信頼性は落ちる。
 そうして記憶した内容の「解釈」も、ノートを取ることはないのだから、一言一句レベルでの正確さは求められないにせよ、やはり記憶するしかない。
 このように、学問とは「耳で聞いて暗記する(暗誦できるようにする)もの」である、という認識は、当時のタージク人社会に限ったことではなく、古今東西、識字率の低い社会に共通している。

自ら異国語を学ぶ必要性を……
 当時のタージク(アラブ)人知識人としては、ごく常識的なスタンス。タージク人は征服者であり支配者だから、非征服民の言葉をわざわざ学ぶ必要はない。イスラムに改宗した異民族はもちろん聖典を学ばねばならない。翻訳は禁じられていないが、タージク人が異国語を理解しない以上、異民族の信徒が聖典の内容を知っているかどうかタージク人に示すには、タージク語も学ばねばならない。
 サーディクが異民族や異教徒に寛容だった、という記録が史実どおりだったとしても、その異民族や異教徒の大多数がタージク語を多少なりとも知っているのだから、彼自身は異国語を学ぶ必要性を感じなかったであろう。

異国語の書物を……
 上述したように、当時のタージク(アラブ)人にとって学問とは「耳で聞いて学ぶ」ものであり、「書物から学ぶ」ものではなかった。

 続きます。

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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十一

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

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頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
下段15行
名代の食卓
 解説その三十八の「タージク式に腰を下ろし」の項で述べたとおり、タージク(アラブ)人は床座りが基本である。だから食事も床の上に椰子の葉で編んだマットを敷き、その上に食器を並べる。「食卓」は使わない。
 しかしここで述べているのは名代(ハリーファ)の食事の質のことであって、食卓という家具そのもののことではない。慣用表現だから、これくらいはいいだろうと判断。

香油、香水の精製は……
 解説その六では「精製石油」について簡単に解説したが、蒸留技術はイスラム錬成術(錬金術)がユーナーン(ギリシア)錬成術から受け継ぎ、発展させたものである。石油の精製だけでなく、薔薇水(解説その三十九の「薔薇水」の香参照)をはじめとする花香の精油も、こうした蒸留技術によって製造された。その製法を記した現存する最古の文献は、哲学者・科学者としても知られるキンディー(AD801-866頃)の『香料の錬金術と蒸留の書』である。

薬種商
 医薬品の販売・調合を行う職業「アッタール」にしばしば当てられる訳語。解説その三十八 および三十九で述べたように、中世イスラム世界では、香料・香辛料は医薬品でもあった。もちろん、香料としては使われない医薬品も扱った。
 ジャービルが「アルイクシール」(解説その二十四参照)で難病を治療したと伝えられ、イスラム史上最も偉大な医師とされるラーズィー(AD865-925。ラテン語名ラーゼス)とイブン・スィーナー(980-1037。ラテン語名アヴィケンナ)が錬成術(錬金術)研究も行っていた(後者は最終的には錬成術を否定したが)ことからも明らかなように、中世においては学問領域が未分化だった。
 職業についても同じことが言え、「薬種商」は医学・薬学に加えて香りの楽しみ方、料理方法まで知っている必要があったのである。
 ジャービル個人とこの業種との関係については後述。

部屋は中庭に向かって開かれ
 作中では細々とした説明は省いたが、部屋の壁四面のうち一面を造らず、中庭などの屋外に向けて開放している建築様式。サーサーン朝で流行し、後にイスラム建築にも採り入れられた。
「中庭式住宅」は、中東の伝統的な建築様式である。住宅だけでなく、隊商宿や礼拝所(マスジド。日本では一般に「モスク」と呼ぶ)もこの形式である。中庭と四方を囲む部屋が一単位で、大邸宅や宮殿では中庭と部屋のサイズが大きくなるだけでなく、数も増える。下層階級は複数の世帯で一つの家屋に住み、中庭は共有空間とすることも少なくなかった。
 一般に住宅の外部、街路に面した壁には装飾が施されることもなく、窓も小さく少ないが、中庭に面した壁は窓や扉が大きく取られ、あるいは上述のように壁そのものがない。中庭には草木が植えられ、中央には池や水盤、噴水などが設けられる。住宅内に取り込まれた「自然」だが、一方で地面は煉瓦やタイル、石などが舗装されていることが少なくない。雨が少ないこともあって、庭というよりは「屋根のない部屋」の感覚だ。「管理された自然」なのである。
「楽園」または「天国」と訳される英語paradiseの語源がファールス(ペルシア)語であることは、割とよく知られているのではないだろうか。この語は古代ファールス語「パリダイザ」に遡る。「パリ」は「周りを」、「ダイザ」は「(捏ねるなどして)形作る」という意味で、「(粘土などを捏ねて)形作った壁で囲んだ場所」と解される。
 ソクラテスの弟子クセノポン(BC4世紀半ば没)はファールス皇帝に対して王子の1人が起こした反乱に傭兵として参加したが、その体験記『アナバシス』(岩波書店)の中で宮殿付属の施設「野獣で満ちた大きなパラデイソス」について報告している。パラデイソスすなわちパリダイザはファールスの王侯貴族のための狩猟園で、壁で囲った広大な場所に捕らえてきた野獣を放し、それらを狩るのである。この風習はサーサーン朝にも受け継がれた。
 クセノポンが報告したパラデイソスπαραδεισοςは、ユーナーン語で「遊楽園、庭園」を指す語となり、ユーナーン語聖書においては「天国、楽園」を指すようになった。「楽園」とはこの場合、エデンの園のことであるが、地上にあったはずのこの園はやがて天国と同一視されるようになった。
「壁で囲った庭園」とはすなわち「管理された自然」である。神によってエデンに造られた「園」が壁に囲まれていたという記述は聖書にはないが、「管理された自然」であるのは間違いない。
 イスラムの聖典が正しき信徒に約束する「あの世」は天にあり、「ジャンナ」と呼ばれる。すなわち「天国」であるが、原義は「庭園」であり、ヘブライ語「ガン」(庭園)と語源を同じくすると思われる(ヘブライ語で「エデンの園」は「ガン・エデン」)。「ジャンナ」は聖典においても、川が流れ果物が実る涼しい「庭園」として描写される。またその場所は「ジャンナ・アドン」すなわち「エデンの園」とも呼ばれる。
 聖典では「ジャンナ」は「フィルダウス」の別名でも呼ばれる。これは「パリダイザ」のタージク(アラビア)語形で、ヘブライ語かシャーム(シリア)語経由で入って来たのだろう。後に「パリダイザ」という語がすっかり忘れられたファールスに逆輸入され、「フェルドゥース」となった。
 つまり中庭という壁で囲まれた「管理された自然」とは、「地上の楽園」なのである。

 続きます。

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