« 「ガーヤト・アルハキーム」解説 その五十 | トップページ | 「ガーヤト・アルハキーム」解説 その五十二 »

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その五十一

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.69
上段10行
革命の志士
 錬成術(錬金術)師ジャービルの出自に関するさまざまな伝承のうち、今日おおむね定説とされているのは以下のとおり。
 ジャービルの父親はイラクのクーファ出身の薬種商ハイヤーンといい、アッバース家の「ダーイー」だった。タージク(アラビア)語「ダーイー」は「宣教員」あるいは「宣伝員」と訳され、特定の思想・宗教を広める。たいていは秘密裏なので、平たく言えば工作員である。その死の経緯は作中で述べられている(なぜホラーサンに送られたのかについては次回)。
 ジャービルはクーファ育ちだと伝えられるので、父の死後、親族の許に送られたのであろう。アッバース家がホラーサンに最初の「ダーイー」を送ったのはAD718年だとされる。ハイヤーン処刑は722年頃に生まれたジャービルがまだ幼い頃だったと考えられるので、ハイヤーンはこの最初期のダーイーの一人だったと思われる。処刑の2年前に、現地の官憲の疑いを招いて捕らえられ尋問を受けたが、その時は白を切り通して釈放されたという。
 またジャービルは、クーファの有力なタージク人氏族であるアズド族の出身だともされる。
 解説その三十九および四十で述べたように、古代・中世において香料(焚香料およびスパイス)は単なる嗜好品ではなく医薬品としても珍重され、非常に高価だった。解説その四十一の「薬種商」の項で述べたように、それらの香薬類を扱う薬種商は幅広い知識を必要とされた。
 ユーナーン(ギリシア)医学を継承したイスラム医学が発展するのは、まだ先のことであるが、タージク人は古来、香料貿易に従事しており、ヘレニズム文化の影響も受けているから、ユーナーン医学の香料に関する知識もある程度は伝わっていたはずだ。
 薬種商になるには、多額の資金も多方面へのコネも必要だし、ジャービルの父親の時代のタージク人なら、書物(異国語の)を読んで独学した可能性はほぼないので(解説その四十二の「彼にとっての学問とは……」の項参照)、薬種商の下で長期間の修行も必要だったはずだ。
 それとこの時代の氏族主義を考えれば、ハイヤーンが有力氏族出身である可能性は非常に高いし、その中でもかなり地位の高い家の出だったのではあるまいか。
 参照:E・J・ホームヤード『錬金術の歴史 近代化学の起源』朝倉書店
 私がこの説を妥当だと判断する理由については、後ほど改めて述べる。
 ジャービルの母親についての伝承はないようだが、本作では次の理由でファールス(ペルシア)人の奴隷だとした。
『千夜一夜』には、敵対関係にある氏族同士の若い男女の悲恋物語が幾つもある。まあタージク版ロミオとジュリエットであるが、タージクの氏族主義においては結婚は家同士どころか氏族同士のものであり、時代を遡るほどその傾向が強い。
 8世紀初めまでに、ホラーサン地方には多数のタージク人が移住していたから、ハイヤーンが現地で結婚しようと思えば相手に不自由はなかっただろうが、危険な密命を帯びていながら、厄介な人間関係とセットになっている結婚をわざわざするとは考え難い。身元を偽っていた可能性もある。となると、ジャービルの母親となった女性は奴隷だったという推測が成り立つ。
 場所がファールスだったからといって、必ずしもファールス人だったとは限らないが、わざわざ別の民族にする必然性もなかったので。それとジャービルは後年、ファールス系の宰相一族と懇意になったと伝えられる。これも彼がファールス系であったかもしれないと推測する理由の一つである。

目次

|

« 「ガーヤト・アルハキーム」解説 その五十 | トップページ | 「ガーヤト・アルハキーム」解説 その五十二 »

「ガーヤト・アルハキーム」解説」カテゴリの記事