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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十一

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
下段15行
名代の食卓
 解説その三十八の「タージク式に腰を下ろし」の項で述べたとおり、タージク(アラブ)人は床座りが基本である。だから食事も床の上に椰子の葉で編んだマットを敷き、その上に食器を並べる。「食卓」は使わない。
 しかしここで述べているのは名代(ハリーファ)の食事の質のことであって、食卓という家具そのもののことではない。慣用表現だから、これくらいはいいだろうと判断。

香油、香水の精製は……
 解説その六では「精製石油」について簡単に解説したが、蒸留技術はイスラム錬成術(錬金術)がユーナーン(ギリシア)錬成術から受け継ぎ、発展させたものである。石油の精製だけでなく、薔薇水(解説その三十九の「薔薇水」の香参照)をはじめとする花香の精油も、こうした蒸留技術によって製造された。その製法を記した現存する最古の文献は、哲学者・科学者としても知られるキンディー(AD801-866頃)の『香料の錬金術と蒸留の書』である。

薬種商
 医薬品の販売・調合を行う職業「アッタール」にしばしば当てられる訳語。解説その三十八 および三十九で述べたように、中世イスラム世界では、香料・香辛料は医薬品でもあった。もちろん、香料としては使われない医薬品も扱った。
 ジャービルが「アルイクシール」(解説その二十四参照)で難病を治療したと伝えられ、イスラム史上最も偉大な医師とされるラーズィー(AD865-925。ラテン語名ラーゼス)とイブン・スィーナー(980-1037。ラテン語名アヴィケンナ)が錬成術(錬金術)研究も行っていた(後者は最終的には錬成術を否定したが)ことからも明らかなように、中世においては学問領域が未分化だった。
 職業についても同じことが言え、「薬種商」は医学・薬学に加えて香りの楽しみ方、料理方法まで知っている必要があったのである。
 ジャービル個人とこの業種との関係については後述。

部屋は中庭に向かって開かれ
 作中では細々とした説明は省いたが、部屋の壁四面のうち一面を造らず、中庭などの屋外に向けて開放している建築様式。サーサーン朝で流行し、後にイスラム建築にも採り入れられた。
「中庭式住宅」は、中東の伝統的な建築様式である。住宅だけでなく、隊商宿や礼拝所(マスジド。日本では一般に「モスク」と呼ぶ)もこの形式である。中庭と四方を囲む部屋が一単位で、大邸宅や宮殿では中庭と部屋のサイズが大きくなるだけでなく、数も増える。下層階級は複数の世帯で一つの家屋に住み、中庭は共有空間とすることも少なくなかった。
 一般に住宅の外部、街路に面した壁には装飾が施されることもなく、窓も小さく少ないが、中庭に面した壁は窓や扉が大きく取られ、あるいは上述のように壁そのものがない。中庭には草木が植えられ、中央には池や水盤、噴水などが設けられる。住宅内に取り込まれた「自然」だが、一方で地面は煉瓦やタイル、石などが舗装されていることが少なくない。雨が少ないこともあって、庭というよりは「屋根のない部屋」の感覚だ。「管理された自然」なのである。
「楽園」または「天国」と訳される英語paradiseの語源がファールス(ペルシア)語であることは、割とよく知られているのではないだろうか。この語は古代ファールス語「パリダイザ」に遡る。「パリ」は「周りを」、「ダイザ」は「(捏ねるなどして)形作る」という意味で、「(粘土などを捏ねて)形作った壁で囲んだ場所」と解される。
 ソクラテスの弟子クセノポン(BC4世紀半ば没)はファールス皇帝に対して王子の1人が起こした反乱に傭兵として参加したが、その体験記『アナバシス』(岩波書店)の中で宮殿付属の施設「野獣で満ちた大きなパラデイソス」について報告している。パラデイソスすなわちパリダイザはファールスの王侯貴族のための狩猟園で、壁で囲った広大な場所に捕らえてきた野獣を放し、それらを狩るのである。この風習はサーサーン朝にも受け継がれた。
 クセノポンが報告したパラデイソスπαραδεισοςは、ユーナーン語で「遊楽園、庭園」を指す語となり、ユーナーン語聖書においては「天国、楽園」を指すようになった。「楽園」とはこの場合、エデンの園のことであるが、地上にあったはずのこの園はやがて天国と同一視されるようになった。
「壁で囲った庭園」とはすなわち「管理された自然」である。神によってエデンに造られた「園」が壁に囲まれていたという記述は聖書にはないが、「管理された自然」であるのは間違いない。
 イスラムの聖典が正しき信徒に約束する「あの世」は天にあり、「ジャンナ」と呼ばれる。すなわち「天国」であるが、原義は「庭園」であり、ヘブライ語「ガン」(庭園)と語源を同じくすると思われる(ヘブライ語で「エデンの園」は「ガン・エデン」)。「ジャンナ」は聖典においても、川が流れ果物が実る涼しい「庭園」として描写される。またその場所は「ジャンナ・アドン」すなわち「エデンの園」とも呼ばれる。
 聖典では「ジャンナ」は「フィルダウス」の別名でも呼ばれる。これは「パリダイザ」のタージク(アラビア)語形で、ヘブライ語かシャーム(シリア)語経由で入って来たのだろう。後に「パリダイザ」という語がすっかり忘れられたファールスに逆輸入され、「フェルドゥース」となった。
 つまり中庭という壁で囲まれた「管理された自然」とは、「地上の楽園」なのである。

 続きます。

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