「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十三
『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。
頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.65
上段4行
タージク語の読み書きはできるが
現代タジク文学の父サドリッディーン・アイニー(AD1878-1954)は自伝『ブハラ ある革命芸術家の回想』(未来社)で、ブハラ・マンギト朝(1920年滅亡)の教育制度について語っている。
(解説その一の「タージク」の項で述べたが、「タージク」は元来はアラブを指したが、後に中央アジアのイラン系民族の名となった。それが「タジク」であり、タジク語はファールス=ペルシア語に近い)
アイニーの父は、家庭の事情で充分に教育を受けられなかったため、息子に高等教育を受けさせることが悲願となっていた。有力者の援助を受けられたこともあって、アイニーは初等教育の後、12歳で首都ブハラのマドラサ(学院)に入学することができた。イスラム世界の高等教育機関である。
ブハラは中世以来、「固有の学問」(イスラム神学や法学など)の中心地の一つであり、「聖なるブハラ」と呼ばれていた。アイニーの時代にも、中央アジア随一の「学問の都」だったのである。しかしアイニーが受けた教育は初等教育から最高レベルの高等教育機関である学院まで一貫して、1冊の本を教師が読み上げるのに続いて復唱し、すらすら復唱できるようになるまで続ける、というものだった。
この学習法では、できるようになるのは暗誦であって読字ではない。教科書として使う書物に書かれた文章は、暗誦の補助としての役割しか果たさない。実際、生徒たちはこのようにして何冊もの本を「読める」ようになっても、初見の文章はどんな簡単なものでも、いや単語ですら「読む」ことができなかった。学院でさえ、そのような者は少なくなかった。
アイニーは自分がなぜ、「読み方を教わらない本」も読めるようになったのか述べていないが、詩が好きだったお蔭なのは間違いない。どうにかして詩集を手に入れては読み耽ったという。学院でも、教科書以外の書物を読む学生は彼だけだった。
しかも学院入学までアイニーが通った幾つかの学校(村の寺子屋や私塾のようなところ)では、教師は教科書の「読み方」を教えるだけで、内容の説明は一切しなかった。だから生徒たちは、教科書を「読める」ようになっても意味は理解していなかった。
それらの学校では、書字も教えなかった。詩作に興味を持った少年アイニーは、字を教えてほしいと父に頼み、初めて書字を習うこととなったのだった(父は読み書きはできたものの学歴の低さを恥じていたので、別の人物に依頼した)。学院でも書字はカリキュラムに入っておらず、講義ノートを取ることもなかったので、字を書けない者はおそらく多数いた。
学院ではさすがに教科書の丸暗記だけでなく、内容の講義も行われていたが、何世紀も前から伝承されてきた解釈を伝授されるだけで、独自の解釈というものは許されなかった。
アイニーはソ連の「体制寄り」の作家なので、旧ブハラの学問水準のあまりの低さに、これは果たして事実なのだろうかという疑問が生じる。しかし谷口順一『聖なる学問、俗なる人生』(山川出版社)で紹介されているイスラム世界の伝統的な学習法は、アイニーが受けたものと基本的に同じである。
このような学習法が取られたのは、暗誦が重視されただけでなく、タージク(アラビア)文字の特徴も一因ではある。表音文字だが短母音の文字がないので(長母音はある)、テキストだけでは発音が判らないのである。母音記号というものはあるが、省略されるのが普通である。ところがタージク語は、同じ綴りの単語でも、母音が違えば意味がまったく違ってしまいかねない。学生ではとても指導なしでは読むことができない、とされていたのである。
なおアイニーの母語である「タジク語」は、上述のとおりイラン語族であるが、タージク文字で書かれるので(当時)、同じく母音記号を付けなければ発音が判らない。
時代が下るにつれ重視されるようになった理由として挙げられるのは、読んだ書物の「独自解釈」を防ぐためであった。そのような行為は異端に繋がるとして忌み嫌われた。師は学生が道を誤らぬよう導いてやる必要があったのである。保守化の結果であるが、本作の時代、タージク人の文化はまだその段階には至っていない。
イスマイールの父サーディクは702年生まれであり、タージク語の書物は当時、その半世紀前に編纂された聖典しか存在せず、半世紀近く経った本作の時代でも、状況はほとんど変わらなかった。聖典を「読む」ための学習法は、上記の「伝統的学習法」と同じく、教師が読み上げるのに続いて復唱する、というものだったに違いなく、これで聖典を丸々1冊「読める」ようになっても、初見の文章や単語は一切読めないままだったはずだ。
解説その三十二で述べたように、初期イスラム時代には政府の公文書類は異民族の書記たちによって、彼らの母国語で作成されていた。それがタージク語に切り替えられたのは、ちょうどサーディクが生まれた頃に当たる。
こうしてタージク語で公文書を作成するようになった書記たちも、当初はほとんどが異民族だったはずである。元から各々の母国語の識字能力が高かった者が、タージク語の読み書きも習得したのである。その後、タージク人自身のタージク語識字能力も徐々に上がり、本作の時代(8世紀半ば)に至る、といったところである。
本作におけるイスマイールとジャービルは、この新しい世代の知識人である。一つ前の世代のサーディクは、「書物を読んで独学する」という発想も、自分で作文をするという発想もなかった可能性が高い。そもそも読字能力が上記の推測どおりなら、まとまった文章を書くことなどできなかったはずだ。
カリグラフィーは前イスラム時代以来、唯一と言っていいタージク独自の視覚芸術であり、イスラム時代に入ってからはさらに発展していた。したがって、サーディクも流麗な文字を書くことができたはずである。しかし彼が字を書く機会は、秘書に口述筆記させた書簡等の文書に署名するほかは、依頼されてクルアーンの一節などを記すくらいだったろう。
後者は観賞用としてだけでなく、「お守り」「おまじない」用として求められるものだった。現代のムスリムもクルアーンの一節を記した護符を使用しているが、10世紀後半に書かれた『イスラム帝国夜話』(岩波書店)には、クルアーンの一節を書いた紙を使ったまじないが幾つか紹介されている。護符として身に着けるだけでなく、特定の場所に埋めておくと願いが叶うとか、そういう類の。どの一節が必要かは目的ごとに決まっていたが、その内容は必ずしも目的とは関係なかった。
オングが『声の文化と文字の文化』(藤原書店)で述べているように、識字率の低い社会では、文字で書かれた言葉への根強い不信感がある一方で、文字や書物それ自体に魔術的な力を見出す。一種の呪物信仰である。
あるいは写本作成のため、聖典全文を書写することもあったかもしれない。しかし直筆であれ口述筆記であれ、サーディクが著作をしたという可能性は皆無に近いだろう。己の知識を書物の形で残そうと発想するには、彼は早く生まれすぎている。
というわけで、イスマイールの父ジャアファル・サーディクに帰せられている錬成術(錬金術)書(書名は多数伝えられているそうだが、現存しているのかは確認できなかった)は、個別に検証するまでもなく偽書である。
錬成術を学んでいた可能性は否定できないが、錬成術師と呼ぶに値するほど、理論と実践に通じていたとも思えない。口伝だけで膨大な情報を取得できたとしても、機械的暗記と理解力はトレードオフの関係にある。また彼の居所がマディーナ(タージク=アラビア半島中西部)であることから、師事したのはハッラーンを含むシャーム(シリア)系錬成術師よりもキーム(エジプト)系錬成術師であった可能性が高い。
解説その二十五の「エネルゴンとしての霊魂の錬成」の項で述べたが、ルーム(東ローマ)の錬成術は古代末期以降、実践を軽視するようになり、机上の空論化したその理論すら、アレクサンドリアのステファノス(7世紀)以降はメシアス(キリスト)教による霊魂の救済論に利用されるだけと成り果てていた。8世紀当時、キーム系錬成術師は、実験器具の類すら所持していなかった可能性が高い。
ではなぜ、サーディクが錬成術師だったという伝承が捏造されたのか。それについては、彼がジャービルの師だった可能性についてとともに、後ほど改めて解説。
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