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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その五十五

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。

目次

 残り2項目だけなんで、1回で終わるかと思ったんですが、最後の項目が長くなりすぎたので分けます。

note
14行
暗殺者(アサシン)教団
 正確には、イスマイール派のさらなる分派。ファーティマ朝(前回の「イスマイール派」の項参照)は北アフリカで安閑とすることなく、イスラム世界各地にダーイー(宣教員)を大量に送り込んだ。彼らは秘密裏に宣教活動を行うだけでなく、険しい山岳地帯などを拠点にゲリラ活動をも行った。
 AD11世紀末、ファーティマ朝で王位継承権争いが起きた。当時、ファールス(ペルシア)北部のアラムート山を拠点としていた宣教員たちは、敗れた側を支持していたため、以後はファーティマ朝と袂を分かち、独立したテロ集団となった。彼らニザール派(支持していた王子の名に因む)こそが、西洋で呼ぶところの暗殺教団である。「山の老人」は伝説に過ぎないが、彼らによってイスラム世界の多くの要人が暗殺されたのは事実である。
(『東方見聞録』とか「ハシーシー(ハシーシュ=大麻喰い)」とか、そういう話は有名だから省略します)
 たとえば11世紀のセルジューク朝の宰相ニザーム・アルムルクは、秩序を乱すものとしてイスマイール派をはじめとするイスラム異端(分派)および異教を憎悪し、それらすべてが実は結託してイスラム世界を滅ぼそうとしているという陰謀論を、その著書『統治の書』(岩波書店)の中で展開している。
 この人は当代屈指の知識人のはずなんだけど、それでもこの程度の歴史認識なんだなあ。それと、陰謀論の定型ってこんな昔に完成してるんだなあ。
 とはいえ積極的に異端・異教を弾圧したわけでもなく、ただただ著書でヘイトを吐き出していただけであり、「正統」なイスラムを広めるべく学問振興に力を入れたのは、むしろ称讃すべき行為である。が、それでも因果と言うべきか、ニザール派アサシンの手に掛かり最期を遂げている。
 ちなみに『統治の書』の邦訳は、史実とどれだけ食い違っているか訳注がほぼ皆無で不親切ですよ。

ヒルミス主義およびジャービル錬成術からの……
 以下、イスマイール派と錬成術(錬金術)師ジャービルとの関係について、まとめて述べる。
 錬成術(錬金術)師ジャービル・イブン・ハイヤーン(ハイヤーンの息子ジャービル)の実在性を最初に体系的に検証したのは、パウル・クラウス(AD1904-1944)である。noteで述べたように、クラウスはタージク(アラビア)語のジャービル文書(ジャービル作とされる文書群)のほとんどは捏造されたものだとし、ジャービルの実在自体、疑わしいとした。ローレンス・M・プリンチーペ『錬金術の秘密』(勁草書房)によれば、クラウスはジャービル文書に関する第3作を準備中、カイロの自宅で自殺も他殺ともつかない不審な死を遂げた。その草稿は散逸してしまったという。
 クラウスの研究に対し、E・J・ホームヤード(1891-1959 『錬金術の歴史 近代化学の起源』朝倉書店)などの反論もあり、現在おおむね定説とされているのは、ジャービルの実在と、実作も残っている(大量の贋作とともに)可能性を認めている、といったところである(伊藤俊太郎『近代科学の源流』中央公論新社)。
 上の『錬金術の秘密』によれば、クラウスがジャービル文書の多くを贋作だとする根拠の一つは、それらの中で言及される幾つかのユーナーン(ギリシア)語文献が8世紀にはまだアラビア語に訳されていないことだという。が、ジャービルがこれらの文献をユーナーン語原典かそのシャーム(シリア)語などの訳で読んでいたのなら問題はない。
 またクラウスによれば、最初期のジャービル文書の一つ『慈悲の書』は9世紀半ばに書かれたもので、この書物に感化されたシーア派(アリー派)の錬成術師たちがジャービルの名を冠した作品を大量に生み出したという。
『錬金術の秘密』はイスラムのややこしい歴史に踏み込むつもりはないらしく、「シーア派(アリー派)」としているが、正確にはそのさらなる分派である「イスマイール派」である(前回参照)。
 ジャービル文書のほとんどがイスマイール派によって捏造されたものである、というのは多くの研究者の共通見解であり、それらの文書に現れる思想とイスマイール派の教義の間には明白な共通点がある。
 前回述べたように、8世紀後半から9世紀末までのイスマイール派については史料がまったく残っていない。だからイスマイール派の教義のネタ元が、8世紀後半に書かれたジャービルの「実作」だった可能性もあるわけだ。

 とりあえずここで切ります。後1回で終わるはず。

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