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『現代思想』2021年5月号 特集:「陰謀論」の時代 Ⅱ

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「文字が構築する壮大なプロット(筋書き/陰謀)」を寄稿いたしました。字数の都合で記載できなかった参考資料の補足その他についての記事その2。その1はこちら

 W・J・オング『声の文化と文字の文化』(藤原書店)は、物語論についての最も包括的な資料として参考にしました。拙稿でミステリとか推理小説ではなく「探偵小説」としているのは、同書に倣っています。原文だとdetective storyですね(ということもググるだけで判るんで便利なもんです)。日本語の「探偵小説」は少々古めかしい印象ですが、英語圏では現在でも日本で言うところの「ミステリ」はdetective storyとかdetective fictionと呼ぶのが一般的なようです。
 敢えて「探偵小説」とした理由はそれだけでなく、陰謀論者を探偵に、陰謀論の手法を探偵小説の技法に擬えたからでもあります。広義の「ミステリ」だと探偵役が登場するとは限らないし、謎が解かれるとも限りませんから。
 無条件で
「最初の探偵小説」と呼べるのは、『声の文化と文字の文化』でもそう名指されているポーの「モルグ街の殺人」(1841)ですが、結末から逆算して全体を構想するという技法を最初に意識的に用いた小説はウィリアム・ゴドウィンの『ケイレブ・ウィリアムズ』(1794)です。ポーはその技法を借りて探偵小説というジャンルを創造したわけです。
『ケイレブ・ウィリアムズ』は岡照雄氏による訳が国書刊行会と白水社から出ています。私が読んだのは前者で、後者は改訳とかではなく復刊のようですね。上記の理由から探偵小説の源流とも呼ばれていますが、作品自体は謎解き要素は薄く、探偵小説ではありません。とは言え、広義のミステリではあります。

 ところでSF者としてはミステリをSFと隣り合って重なり合う部分もあるジャンルだと認識しているので、SFの源流を生み出したメアリ・シェリーの父親がミステリの源流の生みの親だと聞くと、何やらロマンを感じてしまうのですが、間違いなくミステリ者の9割9分9厘(いや、もっとかも)はSFをそのように認識していないので、メアリとウィリアムの関係についてもなんとも思わないんだろうなあ。

『声の文化と文字の文化』は物語の歴史(声の文化における物語と文字の文化における物語の違い、文字の文化における物語の発展史など)についてだけでなく、声の文化と文字の文化それぞれにおけるヒトの認知スタイルの違いについても詳細に解説しています。
 この「記録媒体の変化による認知スタイルの変化」は、実にSF的なテーマでもあります。
テッド・チャンの『息吹』(早川書房)所収の「偽りのない事実、偽りのない気持ち」は、まさに『声の文化と文字の文化』を種本に、このテーマを正面から描いています。作中作としてアフリカのある部族のエピソードが描かれていますが、これは同書で紹介されている史実です。客観的で簡潔な記録が、一人称の小説としてどう描かれているか(しかもこの作中作の「作者」はチャン自身でも「語り手」の少年でもなく、近未来アメリカの科学ライターという設定)、読み比べてみるのも一興でしょう。
 実はチャンの前作『あなたの人生の物語』(早川書房)は、所収作品のどれもピンと来ず、だから『息吹』は出てすぐではなく、偶々、今回の寄稿のゲラチェックが済んだ直後に読んだのでした。『息吹』の所収作品はどれもたいへん素晴らしく、しかも「偽りのない事実、偽りのない気持ち」は私にとっては実にタイムリーで、喜びも1.5倍という感じでした。

『声の文化と文字の文化』の補足的な資料としては、黙読についてがアルベルト・マングェル『読書の歴史』(柏書房)の「黙読する人々」の章(章番号なし)。「声の文化」と「文字の文化」の認知スタイルの違いについての研究報告が、『声の文化と文字の文化』でも紹介されているA・ルリヤ『認識の史的発達』(明治図書出版)。
 中東における読書の歴史については、ロバート・アーウィン『必携アラビアン・ナイト』(平凡社)、小杉泰ほか『イスラーム書物の歴史』(名古屋大学出版会)、林佳世子ほか『記録と表象』(東京大学出版会)、ジョナサン・バーキー『イスラームの形成』(慶応義塾大学出版会)、湯川武『イスラーム社会における知の伝達』(山川出版社)、岡崎桂二「アラブ文学における論争ジャンル」(『四天王寺大学紀要』第48号)、「アダブ考」(『四天王寺大学紀要』第51号)、小林泰『イスラームとは何か』(講談社)、谷口淳一『聖なる学問、俗なる人生』(山川出版社)その他多数。
 あと、ローター・ミュラー『メディアとしての紙の文化史』(東洋書林)は中東と西洋両方の読書史を扱っています。

 イスラム世界では伝統的に、『千夜一夜』のような娯楽作品は知識人が読むべきではないと蔑まれてきましたが(だから散文のフィクションが発達しなかった)、それ以外のほとんどの書物を読むことは「学問」と見做されました。だからイスラム世界の読書史は9割方、学問史だと言えます。
 イスラム以前のアラブは識字率が非常に低く、ムハンマド自身も文盲だったという伝承があります。知識はすべて口伝でした。それにもかかわらず彼は文字記録の重要性をよく理解しており、生前から啓示(クルアーン)を書き留めさせていました。それでも伝統的な記録媒体である生身の人間による暗記が主流だったのですが、632年のムハンマドの死後間もなく、暗記者たちがどんどん戦死していったため、危機感を抱いたムハンマドの代理人(カリフ)がクルアーンの編纂を行い、650年頃には書物として完成しました。
 そもそも「クルアーン」とは「読誦(音読)されるもの」という意味で、神の言葉を書き留めた書物(クルアーンの「原型」)が天に在って、天使ジブリール(ガブリエル)がそれをムハンマドに読み聞かせている、それが啓示(神の言葉)である、という「設定」なのでした。
 こうしてイスラムは「啓典の民」(神の言葉を記した書物=啓典を持つ宗教)の仲間入りを果たしましたが、アラブの伝統は根強く、またクルアーンを特別視する余り、その後も長らく学問は口伝と暗記のみでした。それでも8世紀頃からようやくアラビア語の書物が数多く書かれるようになり、またギリシアの学術書などの翻訳も進みました。9世紀頃には書物を中心とした学問方式が成立し、以後、伝統となりました。

 しかし口伝と暗記の伝統はなおも根強く、「学問」とは教師の指導の下、1冊の書物をまず全編読誦(音読)できるようになってから初めて、内容の講釈を受け、最後に読誦も理解もできていることを確認した教師が「読誦証明」を発行する、というものでした。ある書物の「読誦証明」を持っているということは、その書物について講義する資格を持っているということです。
 最初の全編読誦の過程で書物の書写もしますから、読誦証明はその完成した写本に書き込まれました。読誦証明入りの書物(写本)をたくさん持っているほど、博識だということになります。

 読誦証明はイスラム独自の文化ですが、「まず書物を読誦できるようになってから初めて講釈を受ける」という学問方式は、前近代の日本を含む東アジア、それにインドでも主流でしたし、西洋でも少なくとも中世まではそうでした。
 師の指導なしに本を読むことは、独自の解釈をして異端に走りかねないとして、イスラム圏でもキリスト教圏でも非常に警戒されました(異端への警戒が薄かった東アジアやインドではどうだったか知りませんが)。したがって
書物の内容を「理解する」とは、上記のとおり師の講釈を鵜吞みにすることで、知の伝達とは師に教わったことをそのまま次の弟子に伝えることでした。
 このような学問方式が停滞・衰退し形骸化するとどうなるかは、ウズベキスタンの作家サドリーディン・アイニ(1878‐1954)の自伝『ブハラ ある革命芸術家の回想』(未来社)に詳しいです。
 アイニが生まれ育ったブハラはかつて、イスラム世界屈指の「学問の都」でした。アイニはイスラムの伝統的な初等教育機関であるモスク付属の小学校で初等教育を受け、次いで近隣に住む学者(宗教指導者でもあるので邦訳では「回教僧」となっている)の個人指導を受け、12歳でブハラの高等教育機関である神学校に入学します。
 小学校から神学校まで、アイニが受けた「授業」は適当な書物(小学校では詩集など)を教科書とし、それを「読む」のではなく「見」ながら、教師が音読するのに続いて繰り返すだけ、というもので、その次の段階として行われるはずの内容の講釈は一切行われませんでした。したがって生徒たちは教科書を「読める」ようになっても内容は理解しておらず、それは神学校の教師の大半でさえ同様でした。
 しかも一文字ずつ、一単語ずつ、一文ずつの読み方は習わないので、教科書は暗記した文章を思い出すための「補助」の道具に過ぎず、ほとんどの生徒は「教科書」以外の書物どころか、どんなに簡単な文章はおろか単語でさえ読めるようにはなりませんでした。まあ文字というのは本来、すでに知っている事柄を思い出すための補助手段として発明されたわけですが。
「書く」ほうは小学校でも個人授業でも、もちろん神学校でもカリキュラムはなく、その知識のある人を探して教わらない限り、一生書けないままでした。教わる場合も、たいていは手本を書写するだけなので、オリジナルの文章はどんな簡単なものでも書けるようにはなりませんでした。アイニがこの文化的退行に陥らずに済んだのは、幼い頃から詩作をしていたお陰でした。

 アイニは「体制側」の作家なので、ブハラの学問水準の低さは多少なりとも誇張されているでしょう。しかしイスラムの伝統的な学問方式からして、その「成れの果て」としてのブハラの状況は充分あり得ます。おおむねは事実だと考えられます。
 これは末期的な例ですが、実際のところ多くの前近代社会や中世西洋における「下層の知識人」のレベルはこのようなものだったのではないでしょうか。これでは
自分の考えをまとめ上げ、書き留めるなど到底不可能であり、複雑で壮大な陰謀論の蔓延という現象は、文字の文化が相当発達し浸透した社会で初めて起こり得るのでした。

 最後の資料『魔女狩りの社会史』については次回

 前回の記事

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『現代思想』2021年5月号 特集:「陰謀論」の時代 Ⅰ

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 本日発売です。「文字が構築する壮大なプロット(筋書き/陰謀)」を寄稿いたしました。

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 先日の記事にも書きましたが、この特集企画に参加させていただいたのは連作集『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の表題作が陰謀論を扱っているということで改めて(多少の)注目をいだたいているのがきっかけです。
 その注目のきっかけは昨年、『2010年代SF傑作選1』に収録していただいたことです。アンソロジーというのは、埋もれがちな作家である私の作品を新たな読者の方々に知っていただく好機となるので、本当にありがたいですね。

 さて、この記事では『現代思想』本誌では字数の都合上、一部しか記載できなかった参考文献について述べたいと思います。拙稿では陰謀論について認知科学、物語論、歴史の3つの観点から論じているので、それぞれの分野の参考文献から最も包括的なものを1点ずつ、計3点を末尾に付記いたしました。
 ロブ・ブラザートン『賢い人ほど騙される』(ダイヤモンド社)は、原書は2015年刊ですが邦訳は昨年。明らかにQアノン騒動に乗っかった帯の煽り(「悪用厳禁。」「陰謀論にハマる仕組みとその手口を暴く。」等々)は気にしないでください、良書です。
Qアノンの直接の起源を「ピザゲート」とすると、それが2016年のことですから、本書(原書)はその前夜のアメリカの状況を分析したものとなります。
 陰謀論を含めた「認知の歪み」には、ずっと以前から関心を持ってきました。
それが『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』を含む〈HISTORIA〉シリーズのテーマである「ヒトの暴力」の一因であるからです。認知の歪みを扱った資料は日本語のものだけでも大量にありますが、陰謀論と直接結びつけており、かつ最も包括的なのが『賢い人ほど騙される』です。それ以外で今回参考にした資料のうち主なものを挙げますと、
 テレンス・W・ディーコン『ヒトはいかにして人となったか』(新曜社)
 ジョン・ホーガン『科学を捨て、神秘へと向かう理性』(徳間書店)
 マーガレット・ヘファーソン『見て見ぬふりをする社会』(河出書房新社)
 クリストファー・チャプリス/ダニエル・シモンズ『錯覚の科学』(文藝春秋)
 ダンカン・ワッツ『偶然の科学』(早川書房)
 ジェシー・ベリング『ヒトはなぜ神を信じるのか』(化学同人)
 ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(早川書房)
 パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか』(NTT出版)
 ダニエル・ギルバート『幸せはいつもちょっと先にある』(早川書房)
 ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』(白揚社)

 ……てなとこですかね。認知科学関連以外だと、
 デイヴィッド・J・ハンド『「偶然」の統計学』(早川書房)
 セス・C・カリッチマン『エイズを弄ぶ人々』(化学同人)
 ジェームズ・ロバート・ブラウン『なぜ科学を語ってすれ違うのか』(みすず書房)

 人文社会寄りの資料では、陰謀論を産み育てる土壌を読み解くヒントとなったのが、
 ヤン・ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』(岩波書店)
 イアン・ブルマ/アヴィシャイ・マルガリート『反西洋思想』(新潮社)

 上記2点はアメリカだけ、もしくは欧米だけに限らない世界共通の思潮を扱っていますが、「その建国精神からしてファナティックな、特異な人工国家」という観点でアメリカを論じたのが、
 鈴木透『性と暴力のアメリカ』(中央公論新社)
 森孝一『宗教からよむ「アメリカ」』(講談社)

 ただし前者は新書、後者も比較的コンパクトな分量ですし、もう少し最近の資料も欲しいな、と探して見つけたのがカート・アンダーセン『ファンタジーランド』(東京経済新報社)。上下巻合わせて800頁超、評判も上々、ということで読み始めたんですけどね。
 作者は本業が小説家だそうで、そのせいなのか曖昧な文学的(?)表現が多い一方、事件がいつ起きたかなどを含め具体的な数値データが少ない。資料として使えないので、いちいちググって補足せざるを得ない。そうして明らかになったのが、この本に史実として記されている情報そのものが誤りだらけということで、いや全6部のうち第1部だけでそのありさまだったんで途中放棄。

 興味があるのは陰謀論の心性であって陰謀論そのものではないので、陰謀論者の著作はもちろん、陰謀論を客観的に研究した資料も、これまで読んだことはありませんでした。上記の「認知の歪み」に関する資料のほか、疑似科学関連の本(客観的な研究書)などでも陰謀論はかなり取り上げているんで。
『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「はじまりと終わりの世界樹」でも陰謀論は扱いましたが、この時もヨーゼフ・メンゲレをはじめとするナチの逃亡犯に関する資料の幾つかがナチ関連の陰謀論についても紙幅を割いていたので、特に陰謀論に絞って調べる必要はなかったのでした。
 しかし今回の寄稿に当たって、さすがにそれだけで済ますわけにはいかんな、と陰謀論研究の資料を探してみたんですが。

 最初からあまり期待はしていなかったんですが、やはり個別の陰謀論(『シオン賢者の議定書』関連とか)はともかく、陰謀論全般についてまともに研究している資料はほとんどない。少なくとも日本語のものは少ない。欧米ではかなり出ているようなんですけどね。
 とりあえず最も包括的な陰謀論研究資料は、マイケル・バーカン『現代アメリカの陰謀論』(三一書房)。テーマはタイトルどおりではありますが、それらの源流である近代欧米の陰謀論も扱っています。ただし翻訳がいろいろと、その……
 1点だけ挙げると、第8章で取り上げている「出生地主義」。同書の中では、19世紀米国の排外主義と定義されていますが、「出生地主義」でググると、jus soliの訳語で、国籍付与を字義どおり出生地に基づいて行う方式のことであり、トランプ元大統領がこれを廃止しようとしたことからも明らかなように、排外主義とは真逆のものですね。
 どういうこっちゃ、と混乱しましたが、この定義と一緒に歴史家ジョン・ハイアムの言が引用されていたので、ジョン・ハイアムについて英語でググって、ようやくnativismの誤訳だと判明。ネイティヴィズムに定訳はないようですが、「出生地主義」と訳されることがまずないのは確かです。こういうのが一つだけじゃないんで、まさか陰謀論を否定するこの本の信頼性を落とすために……? と思わず陰謀を疑ってしまいます。

 いや、私に英書1冊スラスラ読めるだけの英語力があれば、邦訳のお世話にならずに済むんですけどね。努力はしてるんですよ……まあこれについては、ただでさえ語学の才能がないくせに多言語マニアなので、その乏しいリソースを十数ヵ国語に分配しているせいだ、ということにしています。

 ところで昨年、『トーキングヘッズ叢書』№84に寄稿した「乱反射する悪魔崇拝」でテンプル騎士団の壊滅に言及したんですが、壊滅後のテンプル騎士団の毀誉褒貶についてあれこれ調べていったら、フリーメイソンの起源をテンプル騎士団だとした最初の文書をフランス語原文で読む羽目になりまして。そのついでに判明したのが、このネットで無料で公開されていて、特に難解でもない(フランス語の初歩しか知らない私でも辞書と文法書頼りにどうにか訳せるレベル)短い文書をまともに読んでいる人は日本語圏、英語圏、それどころかフランス語圏でもほとんどいないらしい、ということでした。
 いや、私が盛大に誤読している可能性はありますが、少なくともこの文書への、ネット上における日本語、英語、フランス語による言及で、原典を読んだ上でのものだとはっきり判るものは見当たらなかったんで。ちょっとでも「そっち側」に足を踏み入れた人たちは、二次、三次、……n次資料は熱心に読み込んでるようなのに、なんで原典には当たらないんだろうなあ。
 どれがどうとかは言いませんが、陰謀論研究書がまともかどうかを見分けるのに、この文書周りの知識が役に立ったのでした。

 長くなったので続きます。

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