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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の三

其の一其の二
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。

 本作は「139年暑熱月(ラマダーン)」17日から20日までの4日間にわたる物語です。紀年法はヒジュラ暦(イスラム暦)で、139年ラマダーン17日はAD757年2月16日(グレゴリウス暦)に当たります。
 ところでイブン・ムカッファも『カリーラとディムナ』も知らなくても、「ラマダン=イスラムの断食月」だと知っている人なら割といるでしょうね。でもなまじ知識が「ラマダン=断食月」で固定されていると、「暑熱月」にルビ「ラマダーン」という表記はかえってノイズになって、舞台がイスラム圏だと気づくのを妨げたりするかもなあ。

 ヒジュラ暦の第9月である「ラマダーン」は、直訳すると「暑熱月」になります。「酷暑月」とかでもいい。とにかく本来なら真夏、盛夏に当たりますが、ヒジュラ暦が太陰暦でしかも閏月がないので、毎年数日ずつ太陽暦からズレていって「暑熱月」が夏以外に来たりするのです。
 このように閏月のない太陰暦は実際の季節とどんどんズレていくので、特に農業関係は非常に不便でした(だからたいてい、太陽暦を併用してた)。イスラムが都市で生まれた宗教だったのが、その辺に無頓着である最大の理由でしょう。ヒジュラ暦はクルアーンで定められているんですが、すでに元年(AD622‐633年)の時点でラマダーンが春だったし。
 ただしラマダーンが毎年真夏に固定されてたら、とてもじゃないけどやってられなくて、早々に戒律を緩めでもしない限り、イスラム自体がここまで拡大していないでしょうね。

 以下、固有名詞や術語等の表記は日本における一般的なものを使い、本作における用語はなるべく()内に付記していきます。紀年は特記がない限りはADです。
 主人公の通り名「イブン・ムカッファ」については、アラビア語をどうカタカナ表記するかという問題に関わってくるので解説は後日できたらします。でもまあ、日本における一般的な表記の一つではあります。

 イブン・ムカッファは寓話集『カリーラとディムナ』をペルシア(ファールス)語からアラビア(タージク)語に訳した人物として、イスラム(誠の教え/イーマーン)世界で広く知られてきましたが、彼の事績についての記録は一番古いものがジャフシヤーリー(942年没)が著した『宰相と書記の書』で、イブン・ムカッファが死んだとされる750年代から、まあどんなに早くても170年は経ってる。しかもタイトルからも明らかなように、個人伝記ではなく列伝の一部でしかない。
 二番目に古い記録は、イブン・ナディーム(935年頃-995年頃)の書籍目録『フィフリスト』です。これは単なる書名の列挙ではなく、内容や著者等について詳しく解説するもので、イブン・ムカッファ本人や現存していない著書(翻訳書含む)の情報が多く記載されているそうです。ちなみにどちらも邦訳は出ていません。

 本作をお読みいただければお解りのとおり、イブン・ムカッファの時代はアラビア語の文字記録がようやく緒に就き始めたばかりなので、同時代の記録がそもそも少ない上に、ほとんどが失われるか断片的にしか残っていません。紙(サマルカンド紙)の普及や識字率の上昇に後押しされて伝記や歴史書の類が増えてくるのは、二世代は後ですね。
 それらの書物が依拠しているのは、現存はしていない前時代のテキストおよび言い伝えです。後者については、情報を正確に記憶し伝えるものとされていましたが、捏造や歪曲・誇張が横行していたのは言うまでもありません。しかもイスラム世界において史料批判の概念が確立されるのは14世紀まで待たねばならないので、それ以前においては史料や伝承の信憑性は、「多くの人に信じられているかどうか」で判断されていたと言っていいでしょう。

 そういうわけで、この時代に関するすべての記録が多かれ少なかれ曖昧なんですが、考証と作劇の双方の観点から取捨選択して設定を作り上げました。

 イブン・ムカッファの生年は、史料により721-722年説と724年説があります。757年時点だと35、6歳か33歳になりますね。本作では正確な年齢を設定する必要がないし、大したブレではないので、どっちでもいいです。
 彼の死は、カリフ(ハリーファ)マンスールの叔父で754年に叛乱を起こしたアブドゥッラーフのために書いた赦免状がきっかけなのは、どの史料でも一致しているようです。それがいつなのかは諸説ありますが、叛乱から5年以内なのは共通しています。
 本作の時代を757年に設定したのは、イブン・ムカッファ本人の伝記ではなく、彼に赦免状を書かせたバスラ総督(太守)スライマンと彼の後任であるムハッラブ家のスフヤーンについての記録に基づいています。
 歴史家タバリー(923年没)の大著『預言者たちと王たちの歴史』(『歴史』のタイトルで邦訳は出ているが、本作の時代の分は未刊行)は、一つの出来事について複数の伝承や記録を併記する体裁を取っていますが、それによるとスライマンが総督職を解任され、スフヤーンが後任に就いたのは、ヒジュラ暦139年(AD756‐757年)または140年(757‐758年)のラマダーン半ばの水曜日だそうです。
 そういうわけで間を取ってAD757年にしました。グレゴリウス暦757年のラマダーンはヒジュラ暦139年で、そうすると半ばの水曜日は14日に当たります。当時の都ハーシミーヤはイラク(イラーク)中部にあって南部のバスラと数百キロ離れてるんで、タイムラグはあるだろうな、とイブン・ムカッファおよびスライマンの拘禁は17日に設定しました。集団礼拝のある金曜日を入れるとプロットの進行に支障を来すので、避けたかったのもある。

 ちなみに「ガーヤト・アルハキーム」(『ナイトランド・クォータリー』vol.18 Amazonリンク)の時代は本作の12年前、745年です。主人公のイスマイールの生年は719年もしくは721年、後に錬金術師として著名になるジャービル・イブン・ハイヤーンの生年は721年とされており、つまりはイブン・ムカッファと同年代です。

其の一其の四

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二

其の一はこちら今回はネタバレなし(たぶん)。

「物語の川々は大海に注ぐ」が掲載されている『SFマガジン』6月号(Amazonリンク)の巻末コメントで述べていますが、本作は遡るとロバート・F・ヤングの中篇「真鍮の都」(『SFマガジン』1986年6月号掲載)に行き着きます。おお、丸38年前だ。当時は中学2年生で、地元の図書館で読みました。

『千夜一夜』は子供向けリライトしか読んだことがありませんでしたが、女を憎む王とシェヘラザードが一番外側の枠物語だということは知っていました。それでもシェヘラザードの妹ドニヤザードのことは知らず、シェヘラザードの物語のもう一人の聞き手という存在に興味を持ちました。
「真鍮の都」についてはここまでで、だからきっかけだけと言えばそうなんですが、この作品と出会ってなかったら『千夜一夜』ひいては中世イスラムにも関心を持つことはなく、本作はもちろん『ミカイールの階梯』も「神の御名は黙して唱えよ」(『屍者たちの帝国』所収)も「ガーヤト・アルハキーム」も書いてない。
 というわけで『千夜一夜』自体にも興味を持ち、図書館の児童書ではない一般書コーナーをうろついてバートン版を発見しました。物語集だから順番に読む必要はなかろうと1巻を手に取って適当に開いたところ、レズビアンの醜い老婆が美しい乙女たちと半裸で相撲をとっているという、バートン版でも屈指の猥雑な場面にいきなりぶち当たって仰天したのは、今となっては良い思い出です(第45夜からの「オマル・ビン・アル・ヌウマン王と二人の息子シャルルカンとザウ・アル・マカンの物語――世にも珍しい身の上話」の序盤)。

 まあ『千夜一夜』は退屈な話のほうが多いんで(上記はまだマシなほうだが、あまりにも冗長)2、3巻くらいで飽きましたが、その後も『千夜一夜』への関心は一応残り、積極的に調べるまではいかないものの、概説書的なものを見つけると読むくらいはしていました。
 で、高校のいつだったかに読んだ、タイトルも作者も忘れたある本で、シェヘラザードとドニヤザードに関する、ある見解を見つけるんですね。いわく、シェヘラザードは「都市の〇〇」、ドニヤザード「世界の〇〇」を意味する名前で(「‐ザード」の部分の意味は諸説あり、この本ではどうだったか憶えてない)、姉が「都市」で妹が「世界」なのは不可解だ、と。
 私も不可解だと思いまして、シェヘラザードは自ら創作した物語ではなく既存の物語を語っていたと、
この本だったか別の本だったかで知っていたので、そこから「物語=世界を創造する妹ドニヤザードと、その物語を語る姉シェヘラザード」というアイデアを思い付いたわけです。

 思い付いたのはいいけれど、それ以上まったく広げられず、また姉が「都市」で妹が「世界」という「謎」についても、それ以上のことを知るにはどうしたらいいかも判らず、そもそも当時は小説をどう書いていいかすら解らなかったので、そのまま放置するほかなかったのでした。
 それから十数年後、ある日突然、小説が書けるようになって、佐藤亜紀先生の指導の下、1年かけて『グアルディア』を書き上げたのが2003年9月。次作のネタが浮かぶまで、とりあえず『千夜一夜』について調べることにしました。シェヘラザードとドニヤザードの名前の「謎」について、とりあえず『千夜一夜』そのものについて調べていけば判るかもしれないし、この姉妹についての物語を書くなら『千夜一夜』自体についても知っておくべきだし、と。

 翌年デビューした後も、折を見ては『千夜一夜』について調べていましたが、そのうち中世イスラムというか、中世の中東そのものにも興味が出てきて、調べ物の範囲はどんどん広がっていきました。
『千夜一夜』関連にだけ絞ると、まずは平凡社東洋文庫の原典版『アラビアン・ナイト』(全18巻+別巻1)を読破するところから始めました。それから何年もかけてマルドリュス版(岩波書店 全13巻)、中学時代以来のバートン版(河出書房 全8巻)のほか、研究書の類を読んでいきました。もっとも
日本語で読める『千夜一夜』研究書って、概説書レベルを含めてもあまり多くないんですが。西尾哲夫氏が一人で何冊も出しておられるほかは、ロバート・アーウィンの『必携 アラビアン・ナイト』と前嶋信次氏の幾つかの著作くらい。
 あまりにも資料が少ないので、『千夜一夜』所収の物語の元ネタとされる古典作品も、邦訳が出ているものは片っ端から読みましたよ。本作主人公の著書『カリーラとディムナ』もその一つです。さらに若干の英語文献も頑張って読みました。あと、初級程度ですがペルシア語とアラビア語も勉強しました。

 そうして今から数年前、ついにシェヘラザード姉妹の名前の語源を知ることができました。結論だけ言うと、『千夜一夜』の原型である前イスラム期のペルシアの物語集『千物語』に出てくる、シェヘラザードの原型の名前「チェフラーザード」は「都市」とはなんの関係もなく、ドニヤザードの原型の名前「デーナーザード」も「世界」とはなんの関係もなく、そもそも姉妹の名前は対になっているわけでもなんでもなかったのでした。なんだよチキショーッ。

 こうして、およそ30年の永きにわたる望みは、虚しく潰えたのでした。
 じゃあ原型はどういう意味だったのかについては、後日を予定しています。まあいずれにせよ、潰えたと言っても「物語=世界を創造する妹ドニヤザードと、その物語を語る姉シェヘラザード」というアイデアを30年間、一歩も展開できていなかったので、なんだよチキショーという以上の打撃はなかったんですが。得られたものは大きかったし。
「得られたもの」の一つは、「アラビア語文化圏におけるフィクションの地位の低さ」を知れたことでした。そう知ったことで其の一で述べたように、現代日本の一部の人々に見られるフィクション蔑視が普遍的な通念となっている社会を舞台とした、読者が「ささやかで日常的な共感」を持つことができる物語を書きたいなあ、とぼんやり思うようになりました。ドニヤザードとシェヘラザードの物語がボツになった頃からです。

 本腰入れて取り掛かることにして、まず主人公をイブン・ムカッファに決めたところ、すでにシェヘラザードが物語に組み込まれていることに気づきました。ただし、単なる語り手ではなく「物語の象徴」あるいは「物語そのもの」としてでした。
 そして代わりに、「物語の創造」を担うはずだったドニヤザードは除外されてしまいました。この辺りの経緯は今後、解説できたらしますが、「物語の川々は大海に注ぐ」にドニヤザードの居場所がなくなってしまったのは、物語の創造ができずに具体性皆無のふわっとしたイメージしか抱いていなかった頃と、実際にできるようになってからの違いが大きいですね。

 というわけで別の話を書いたのに、なぜか三十数年来の望みを果たせていたのでした。
 しかし、そもそもの出発点がヤングの「真鍮の都」のドニヤザードの可愛さだったので、本作に登場させられなかったのは非常に残念です。「ドニヤザード」という表記は、よりアラビア語原音に近くすると「ドゥンヤーザード」になりますが、個人的にはドニヤザードのほうが可愛いと思う。
「ドゥンヤー」は「世界」と訳されることもありますが、より厳密には「この世」「地上」ですね。神が創造した「世界」のうち、神と天使がおわす天上と、最後の審判後の「あの世」を除いた人間界です。
『SFマガジン』掲載の本作p.327上段の「この世」にわざわざ「ドニヤー」とルビを振ったのは、「真鍮の都」のドニヤザードへのオマージュです。

 ちなみに「真鍮の都」は十年余り前に再読しましたが、二十余年ぶりでも変わらず魅力的でした。その上、かつては知る由もありませんでしたが、ヤングは本家『千夜一夜』を全編とは言わずとも、かなりの数の物語をよく読み込んでいるし、中世イスラムの文化についてもそれなりに調べているなあと、感心させられました。
 その後、この中篇を長篇化した『宰相の二番目の娘』も読んだんですが、物語自体が徒に冗長になってるだけでなく、『千夜一夜』や中世イスラム文化に関する知識も、20年間全然更新されてないどころか明らかに『千夜一夜』自体を含めた資料の読み返しもしてなくて、忘却した分、後退してますね……… …… …… …… …… …… すごくがっかりしましたよ。

「真鍮の都」は現在では、ヤングの短篇集『時をとめた少女』(早川書房 Amazonリンク)とアンソロジー『時を生きる種族』(東京創元社 Amazonリンク)で読めます。是非どうぞ。

其の一

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の一

 本日発売の『SFマガジン』6月号に、新作中篇「物語の川々は大海に注ぐ」を掲載していただきました。

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早川書房公式ページ Amazon

 これまで同様、自分のための覚書も兼ねて、作品解説のようなものをやっていきたいと思います。実は前作の「ガーヤト・アルハキーム」の解説が、後1、2回で終わるところを、書きあぐねているうちに間が空きすぎてそのまま中断してしまっているので、今作でもどこまで書き切れるか判りませんが、まあダラダラ続けたいと思っております。時間と興味がおありの方はお付き合いください。

 というわけで、まずはネタバレなしの作品紹介から。
 昔々、フィクションがフィクションというだけで「子供騙しの下らないもの」という扱いを受けている国がありました。しかしある時、異国生まれの一人の男が母国の寓話集を翻訳して発表したところ、人々は「こんなにも、おもしろくてためになるフィクションがあるなんて」と大いに感動し、夢中になりました。あまりにも見下されていたため、良質なフィクションが育たずにきてしまっていたんですね。
 しかし男は不幸にも、この寓話集とはまったく無関係な権力争いに巻き込まれてしまいました。男はある日突然、逮捕され、裁きの場に引き出されました。当然ながら男は、権力争いに関連して濡れ衣を着せられるに違いないと思いました。ところが審問を担当する判官は言うのです。「おまえの罪は、下らない作り話で人々を惑わせたことだ」と。

 フィクションは見下されていただけであって、禁止されているわけでもなんでもありません。やはり目的は権力争いのスケープゴートにすることであり、作り話云々を持ち出したのは何かしら言質を取るためだ、と男は判断します。
 男は高官の書記を本業とする高級取りで、翻訳や随筆は片手間でしたが数が多く、寓話集の翻訳はその一つに過ぎませんでした。しかしだからといって、これが有害だと認めてしまうと、どんな難癖を付けられるか判ったものではありません。そういうわけでフィクションの擁護に回るのですが、判官がなかなか理詰めでフィクション批判をしてくるので次第に議論にのめり込んでいき……

「物語とは何か」をテーマとした小説です。

 以下、ネタバレ注意。

 

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追記

 前回の記事で明記するのを忘れていましたが、今月25日発売の『SFマガジン』6月号(Amazonリンク) 掲載の中篇小説「物語の川々は大海に注ぐ」はHISTORIAシリーズではなく、『ナイトランド・クォータリー』vol.18(Amazonリンク)掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」とも繋がっていない、独立した作品です。
 よろしくお願いいたします。

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『SFマガジン』2024年6月号

 たいへん御無沙汰しております。今月25日発売の『SFマガジン』6月号に、新作中篇小説「物語の川々は大海に注ぐ」が掲載されます。
 これまでの作品では、一番スペキュレイティブ寄りのSFです。よろしくお願いいたします。

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早川書房公式ページ Amazon

 今年2月発売の『SFが読みたい! 2024年版』の「2024年のわたし」に一筆書かせていただきましたが、提出期限の1月上旬当時はこの中篇に掛かりきりだったのでした。完成のめどは付いており、ありがたいことに『SFマガジン』編集部さんに見ていただけることにはなっていたのですが、OKをいただける保証はまったくない上に、とにかく追い込み中だったのでほかに書くこともなく、文字どおり一筆だけになってしまったのでした。
 で、1月末に脱稿し、「100枚の短篇」とか予告していたくせに150枚近くにもなったのを一挙に、しかもこんなに早く掲載していただけで、本当にありがたいことです。

 発売以降、作品の解説(という名の余談)をブログでやっていくつもりなので、興味のある方はよろしくお願いいたします。

 

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