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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二

其の一はこちら今回はネタバレなし(たぶん)。

「物語の川々は大海に注ぐ」が掲載されている『SFマガジン』6月号(Amazonリンク)の巻末コメントで述べていますが、本作は遡るとロバート・F・ヤングの中篇「真鍮の都」(『SFマガジン』1986年6月号掲載)に行き着きます。おお、丸38年前だ。当時は中学2年生で、地元の図書館で読みました。

『千夜一夜』は子供向けリライトしか読んだことがありませんでしたが、女を憎む王とシェヘラザードが一番外側の枠物語だということは知っていました。それでもシェヘラザードの妹ドニヤザードのことは知らず、シェヘラザードの物語のもう一人の聞き手という存在に興味を持ちました。
「真鍮の都」についてはここまでで、だからきっかけだけと言えばそうなんですが、この作品と出会ってなかったら『千夜一夜』ひいては中世イスラムにも関心を持つことはなく、本作はもちろん『ミカイールの階梯』も「神の御名は黙して唱えよ」(『屍者たちの帝国』所収)も「ガーヤト・アルハキーム」も書いてない。
 というわけで『千夜一夜』自体にも興味を持ち、図書館の児童書ではない一般書コーナーをうろついてバートン版を発見しました。物語集だから順番に読む必要はなかろうと1巻を手に取って適当に開いたところ、レズビアンの醜い老婆が美しい乙女たちと半裸で相撲をとっているという、バートン版でも屈指の猥雑な場面にいきなりぶち当たって仰天したのは、今となっては良い思い出です(第45夜からの「オマル・ビン・アル・ヌウマン王と二人の息子シャルルカンとザウ・アル・マカンの物語――世にも珍しい身の上話」の序盤)。

 まあ『千夜一夜』は退屈な話のほうが多いんで(上記はまだマシなほうだが、あまりにも冗長)2、3巻くらいで飽きましたが、その後も『千夜一夜』への関心は一応残り、積極的に調べるまではいかないものの、概説書的なものを見つけると読むくらいはしていました。
 で、高校のいつだったかに読んだ、タイトルも作者も忘れたある本で、シェヘラザードとドニヤザードに関する、ある見解を見つけるんですね。いわく、シェヘラザードは「都市の〇〇」、ドニヤザード「世界の〇〇」を意味する名前で(「‐ザード」の部分の意味は諸説あり、この本ではどうだったか憶えてない)、姉が「都市」で妹が「世界」なのは不可解だ、と。
 私も不可解だと思いまして、シェヘラザードは自ら創作した物語ではなく既存の物語を語っていたと、
この本だったか別の本だったかで知っていたので、そこから「物語=世界を創造する妹ドニヤザードと、その物語を語る姉シェヘラザード」というアイデアを思い付いたわけです。

 思い付いたのはいいけれど、それ以上まったく広げられず、また姉が「都市」で妹が「世界」という「謎」についても、それ以上のことを知るにはどうしたらいいかも判らず、そもそも当時は小説をどう書いていいかすら解らなかったので、そのまま放置するほかなかったのでした。
 それから十数年後、ある日突然、小説が書けるようになって、佐藤亜紀先生の指導の下、1年かけて『グアルディア』を書き上げたのが2003年9月。次作のネタが浮かぶまで、とりあえず『千夜一夜』について調べることにしました。シェヘラザードとドニヤザードの名前の「謎」について、とりあえず『千夜一夜』そのものについて調べていけば判るかもしれないし、この姉妹についての物語を書くなら『千夜一夜』自体についても知っておくべきだし、と。

 翌年デビューした後も、折を見ては『千夜一夜』について調べていましたが、そのうち中世イスラムというか、中世の中東そのものにも興味が出てきて、調べ物の範囲はどんどん広がっていきました。
『千夜一夜』関連にだけ絞ると、まずは平凡社東洋文庫の原典版『アラビアン・ナイト』(全18巻+別巻1)を読破するところから始めました。それから何年もかけてマルドリュス版(岩波書店 全13巻)、中学時代以来のバートン版(河出書房 全8巻)のほか、研究書の類を読んでいきました。もっとも
日本語で読める『千夜一夜』研究書って、概説書レベルを含めてもあまり多くないんですが。西尾哲夫氏が一人で何冊も出しておられるほかは、ロバート・アーウィンの『必携 アラビアン・ナイト』と前嶋信次氏の幾つかの著作くらい。
 あまりにも資料が少ないので、『千夜一夜』所収の物語の元ネタとされる古典作品も、邦訳が出ているものは片っ端から読みましたよ。本作主人公の著書『カリーラとディムナ』もその一つです。さらに若干の英語文献も頑張って読みました。あと、初級程度ですがペルシア語とアラビア語も勉強しました。

 そうして今から数年前、ついにシェヘラザード姉妹の名前の語源を知ることができました。結論だけ言うと、『千夜一夜』の原型である前イスラム期のペルシアの物語集『千物語』に出てくる、シェヘラザードの原型の名前「チェフラーザード」は「都市」とはなんの関係もなく、ドニヤザードの原型の名前「デーナーザード」も「世界」とはなんの関係もなく、そもそも姉妹の名前は対になっているわけでもなんでもなかったのでした。なんだよチキショーッ。

 こうして、およそ30年の永きにわたる望みは、虚しく潰えたのでした。
 じゃあ原型はどういう意味だったのかについては、後日を予定しています。まあいずれにせよ、潰えたと言っても「物語=世界を創造する妹ドニヤザードと、その物語を語る姉シェヘラザード」というアイデアを30年間、一歩も展開できていなかったので、なんだよチキショーという以上の打撃はなかったんですが。得られたものは大きかったし。
「得られたもの」の一つは、「アラビア語文化圏におけるフィクションの地位の低さ」を知れたことでした。そう知ったことで其の一で述べたように、現代日本の一部の人々に見られるフィクション蔑視が普遍的な通念となっている社会を舞台とした、読者が「ささやかで日常的な共感」を持つことができる物語を書きたいなあ、とぼんやり思うようになりました。ドニヤザードとシェヘラザードの物語がボツになった頃からです。

 本腰入れて取り掛かることにして、まず主人公をイブン・ムカッファに決めたところ、すでにシェヘラザードが物語に組み込まれていることに気づきました。ただし、単なる語り手ではなく「物語の象徴」あるいは「物語そのもの」としてでした。
 そして代わりに、「物語の創造」を担うはずだったドニヤザードは除外されてしまいました。この辺りの経緯は今後、解説できたらしますが、「物語の川々は大海に注ぐ」にドニヤザードの居場所がなくなってしまったのは、物語の創造ができずに具体性皆無のふわっとしたイメージしか抱いていなかった頃と、実際にできるようになってからの違いが大きいですね。

 というわけで別の話を書いたのに、なぜか三十数年来の望みを果たせていたのでした。
 しかし、そもそもの出発点がヤングの「真鍮の都」のドニヤザードの可愛さだったので、本作に登場させられなかったのは非常に残念です。「ドニヤザード」という表記は、よりアラビア語原音に近くすると「ドゥンヤーザード」になりますが、個人的にはドニヤザードのほうが可愛いと思う。
「ドゥンヤー」は「世界」と訳されることもありますが、より厳密には「この世」「地上」ですね。神が創造した「世界」のうち、神と天使がおわす天上と、最後の審判後の「あの世」を除いた人間界です。
『SFマガジン』掲載の本作p.327上段の「この世」にわざわざ「ドニヤー」とルビを振ったのは、「真鍮の都」のドニヤザードへのオマージュです。

 ちなみに「真鍮の都」は十年余り前に再読しましたが、二十余年ぶりでも変わらず魅力的でした。その上、かつては知る由もありませんでしたが、ヤングは本家『千夜一夜』を全編とは言わずとも、かなりの数の物語をよく読み込んでいるし、中世イスラムの文化についてもそれなりに調べているなあと、感心させられました。
 その後、この中篇を長篇化した『宰相の二番目の娘』も読んだんですが、物語自体が徒に冗長になってるだけでなく、『千夜一夜』や中世イスラム文化に関する知識も、20年間全然更新されてないどころか明らかに『千夜一夜』自体を含めた資料の読み返しもしてなくて、忘却した分、後退してますね……… …… …… …… …… …… すごくがっかりしましたよ。

「真鍮の都」は現在では、ヤングの短篇集『時をとめた少女』(早川書房 Amazonリンク)とアンソロジー『時を生きる種族』(東京創元社 Amazonリンク)で読めます。是非どうぞ。

其の一

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