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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の一

 本日発売の『SFマガジン』6月号に、新作中篇「物語の川々は大海に注ぐ」を掲載していただきました。

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 これまで同様、自分のための覚書も兼ねて、作品解説のようなものをやっていきたいと思います。実は前作の「ガーヤト・アルハキーム」の解説が、後1、2回で終わるところを、書きあぐねているうちに間が空きすぎてそのまま中断してしまっているので、今作でもどこまで書き切れるか判りませんが、まあダラダラ続けたいと思っております。時間と興味がおありの方はお付き合いください。

 というわけで、まずはネタバレなしの作品紹介から。
 昔々、フィクションがフィクションというだけで「子供騙しの下らないもの」という扱いを受けている国がありました。しかしある時、異国生まれの一人の男が母国の寓話集を翻訳して発表したところ、人々は「こんなにも、おもしろくてためになるフィクションがあるなんて」と大いに感動し、夢中になりました。あまりにも見下されていたため、良質なフィクションが育たずにきてしまっていたんですね。
 しかし男は不幸にも、この寓話集とはまったく無関係な権力争いに巻き込まれてしまいました。男はある日突然、逮捕され、裁きの場に引き出されました。当然ながら男は、権力争いに関連して濡れ衣を着せられるに違いないと思いました。ところが審問を担当する判官は言うのです。「おまえの罪は、下らない作り話で人々を惑わせたことだ」と。

 フィクションは見下されていただけであって、禁止されているわけでもなんでもありません。やはり目的は権力争いのスケープゴートにすることであり、作り話云々を持ち出したのは何かしら言質を取るためだ、と男は判断します。
 男は高官の書記を本業とする高級取りで、翻訳や随筆は片手間でしたが数が多く、寓話集の翻訳はその一つに過ぎませんでした。しかしだからといって、これが有害だと認めてしまうと、どんな難癖を付けられるか判ったものではありません。そういうわけでフィクションの擁護に回るのですが、判官がなかなか理詰めでフィクション批判をしてくるので次第に議論にのめり込んでいき……

「物語とは何か」をテーマとした小説です。

 以下、ネタバレ注意。

 

 実は歴史小説に分類できるくらい史実に即しているのですが、固有名詞や術語の類、紀年法を日本で馴染みのないものに置き換えることで、敢えて時代も場所も判りにくくしています。ある程度の知識がある人なら、読んでいくうちに時代も場所も特定できると思いますが(なんなら冒頭で挙げられる主人公の呼び名や件の寓話集のタイトルで)、知識が一切なく、史実に拠っていると知らないままでもまったく問題ありません。むしろそのほうがいい。私はSFとして書きましたが、ハイ・ファンタジーとして読んでくださっても構いません。
 わざわざそんなことをした理由は第一に、ハイ・ファンタジーは好きでも歴史ものとなると「馴染みのない時代・国」は敬遠する人が少なくないからです。ハイ・ファンタジーは好きじゃないけど「馴染みのない時代・国」はどんと来い、という人がもしおいででしたら、もちろん読んでいただきたい。

 第二の理由は、舞台としている時代・地域への先入観なしで読んでもらいたいからです。『ナイトランド・クォータリー』vol.18(2019年)掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」でも、同じ理由で同じことをしました。「ガーヤト・アルハキーム」は史実をベースにしたファンタジー(マジックパンク)であり、本作とは一切繋がっていませんが、どちらも8世紀半ばの中東を舞台にしています。偶々そうなっただけですが。
 時代と地域が近いので、史実の固有名詞や術語等と置き換えた用語がだいぶ重複しています。というか時代も地域も近いのに、わざわざ別の用語にするのも煩わしいので、「物語の川々は大海に注ぐ」に取り掛かった時点では同じものを使う予定だったのでした。書き進めるうちに修正していったので相違が出ただけです。もし今後「ガーヤト・アルハキーム」と同じ世界の物語を書くことがあれば、修正した用語を使うでしょう。

『ナイトランド・クォータリー』vol.18(Amazon)

 そこまでして遮蔽したい「中世イスラム」への先入観は何かと言えば、あなたが持っているその先入観です。たとえ冒頭の時点で時代と地域に気づけるほど知識がある人でも(あるいはこの記事を先に読んだ人でも)、術語等がほぼ置き換えられているというそれだけで、それなりに遮蔽になるのでは、と。ある種の異化効果を期待しています。
 というわけで、作中で使用している用語や固有名詞の類は、「先入観の遮蔽」という目的に加えて解りやすさ(字面の平易さを含む)を重視しているので、歴史的・言語的な正確さは1.5の次くらいになります(二の次までは行ってないと思う)。用語については、後日解説する予定です。

「馴染みのない時代・地域の敬遠」および「中世イスラムへの先入観」の遮蔽という目的は「ガーヤト・アルハキーム」と同じですが、本作で時代・地域を判別しにくくした最大の理由は、「ヒロイックな誤読」の回避です。

『SFマガジン』や私の作品の読者で、作品やジャンル等の好き嫌いはあれど、フィクションそのものが嫌いな人は当然ながらいないでしょう。いたら驚きます。そしてこれまで生きてきて、フィクションそのものを否定する言説に一度も遭遇したことがない幸運な人は稀でしょう。
 現代日本における、そうした否定的言説はいずれも、「役に立たない」「現実じゃない(類似のものとして「ただの作り話」等。要するに「実話より劣る」ということらしい)」「学びを得られない」「時間の無駄」「現実逃避」等々、ただただ無益なものとして見下し、「有害」と断じるにしても、そんなものにリソース(時間や金銭および思考や感情)を割くのは無駄を通して有害、健全な精神の育成のを妨げるといった観点からです。
 フィクションが体制や権威、多数派、社会規範へのカウンターとして恐れられているから否定され、迫害されているのでは、まったくありません。

 時代や地域によっては、フィクションのうち個々の作品やジャンルがそういう「カウンター」として禁止され、弾圧されてきました。たとえば革命前のフランスでは、貴族や聖職者の風紀紊乱を描いたポルノ小説が「哲学書」と呼ばれ、反体制文学として密かに持て囃され、見つかれば弾圧されたそうです。
 戦後日本でも、メインカルチャーから「低俗」と断じられるサブカルチャー、とりわけアングラなものをカウンターカルチャーとしてヒロイックに持ち上げる潮流が、あるにはありました。しかし少なくとも現在の日本におけるフィクション全般の否定をそんなかたちで捉えるのは、およそ現実に即していない。
 そもそもフィクションそのものを禁止・弾圧した社会など、人類史上存在しないでしょう。清教徒的な共同体で聖書(聖典)以外の書物が禁止されるといった事例ならありますが、小規模で閉鎖的な社会に限られるし、フィクションのみ禁止というわけでもない。

 一方、時代・地域を問わず、フィクションが「お伽話」や「作り話」として神話や伝説、歴史と区別されるようになった社会において、フィクションを主に「実話(とされるもの)より劣る」という理由で見下す傾向は、私が知る限りでは程度の差こそあれ普遍的に存在してました。その傾向が極めて広範囲かつ長期にわたり、かつ極めて強固に及んだのが、前近代のアラビア語圏です。イスラム世界全体ではありません、念のため。
 アラビア語で書かれた物語集『千夜一夜』は、欧米および日本ではアラブ文学の枠を超えて「奔放な想像力」の代名詞として、あるいはフィクションの代名詞として扱われたりもしますが、当のアラビア語圏においてはフィクションそのものが低級で益体もないものとして、永らく見下されてきたのでした。

 つまりフィクション軽視の理由は他の文化圏とまったく変わらず、したがって宗教上の理由ではまったくありません。この姿勢は明らかに前イスラム期からのものであり、後日詳しく述べるつもりですが、この徹底ぶりは間違いなくアラブ文学の特異性の一つです。
 あくまで蔑ろにされていただけで、フィクションそのものが禁止・弾圧されることは一切ありませんでした。あまりにも軽んじられていたので「無学な民衆の気晴らし」以上には発達せず、禁止するまでもなかったのです。せいぜい、「フィクションを楽しむのは(一日の仕事が終わって暇な)夜だけにしなければならない。日中だと妖霊(ジン)が寄って来て悪さをする」という言い伝えが古くからある程度です。
 ちなみに同じアラビア語圏でも北アフリカでは、同じことをすると子孫が禿げになる呪いが掛かるそうです。身も蓋もない。

 だからつまり「物語の川々は大海に注ぐ」の舞台は、現代日本の一部の人々によるフィクション否定「役に立たないから」「時間の無駄だから」が、もっと普遍的な通念として浸透しているだけの社会なのです。主人公はその通念に抗することになりますが、それも自著のフィクションが「人々を惑わせる下らないもの」であるという言い掛かりを認めてしまうと、フィクションとは無関係な叛逆の濡れ衣を着せられかねないからであって、少なくとも当初の段階ではフィクションそのものには大して思い入れもありません。
 また言い掛かりをつける側の「判官殿」は、フィクション否定の理由の一つとして神を持ち出しますが、主人公が見抜いているとおり、無理なこじつけに過ぎません。
 必要なら何度でも繰り返しますが、本作中でも現実の前近代アラビア語圏でも、フィクション否定に宗教は関わっていません。「体制や権威、多数派へのカウンターとしてのフィクションとその擁護者である主人公への迫害」というヒロイックな図式は存在しないのです。ただただフィクションが無価値なものとして軽視される社会に生きる主人公への、ささやかで日常的な共感を抱いていただければ、と思います。
 いや、そういう共感をもって読んでくれればなあ、というだけであって、別に共感しなくても問題ないんですが。たとえばこれまでの人生で一度もフィクション否定の言説に遭遇したことのない人なら、共感のしようがないでしょうし。

 しかし、本作が「カウンターとしてのフィクションへの迫害と闘う物語」であるという「ヒロイックな誤読」だけは、絶対にしないでください。そんな物語では、断じてありません。
 だから本作が史実に基づいていることを敢えて曖昧にした最大の理由は、8世紀半ばの中東すなわちイスラム世界だからということで、「狂信もしくは専制によって迫害されるフィクション」という誤読が生じる可能性を摘むためなのです。

 まあどれだけ解りやすく書いたって誤読する人は誤読しますし、フィクション作品をどう解釈しようと、それが誰かや何かを排斥するのでない限り自由だ、と私は思ってるんですけどね。ただ本作をヒロイックに誤読してしまうと、それはイスラムあるいは中東を狂信的あるいは専制的だとする悪しきオリエンタリズムと容易に結びつき、つまりは排斥に繋がりかねないので、絶対にしないでください。
 ……と、私がいくら念押ししたところで、なんの強制力もありませんが。いったい何人がこの記事読むんだ、って話ですし。とにもかくにも、ここで明言しておきましたよ、と。

 ところで本作の主人公が母国語から翻訳(および改作)した書物の名は『カリーラとディムナ』で、本作末尾に「参照」文献としてその日本語訳『カリーラとディムナ アラビアの寓話』のタイトルと邦訳者名および出版社名を記載していますが、「著者」名は挙げていません。
 なぜかというと、本作では主人公の通り名
の表記を解りやすさ優先で「イブン・ムカッファ」としているのに対し、邦訳者の菊池俊子氏による表記は「イブヌル・ムカッファイ」であり、この表記ブレは本作の読者を徒に混乱させかねないと判断したからです。本作を読んで、『カリーラとディムナ』の著者が「イブン・ムカッファ」だと解らない人はいないでしょうし。
 表記の問題については、後日解説の予定です。

解説其の二

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