「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十二
全体的にネタバレ注意。今回は、本作におけるシンクレティズムについて解説します。紀年は特記がない限りはADです。
まずは「世の終わり」「最後の審判」「救世主」から。世界がいずれ終わりを迎え、人々は善悪を基準に神の裁きを受ける、という概念は、ユダヤ教がゾロアスター教(本作では「マギ教」)から取り入れたものです。審判後の行先としての天国(あの世)と地獄という概念も、ゾロアスター教由来ですね。
英語「メシア」はヘブライ語「マシアハ」がギリシア語「メシアス」を経て転訛した語です。「マシアハ」は「(油を)塗られた者」を意味し、聖油を塗られて聖別された者のことです。元来は、世直しをする理想的な為政者のことでしたが、ゾロアスター教から取り込んだ概念、世の終わりに出現し民を救う者すなわち「救世主」を指すようになりました。キリスト教の「メシアス」も、完全にこちらの概念ですね。
イスラムにおいても終末と最後の審判、天国と地獄は非常に大きな比重を占めます。しかし「救世主」概念だけは、ちょっと違いました。
ヘブライ語とアラビア語は親戚関係にある言語で、文法に共通点があるだけでなく、意味が同じで発音も近い単語がたくさんあります。アラビア語にも「(油を)塗られた者」を意味する「マシーフ」という語があります(ヘブライ語「マシアハ」の転訛ではない)。しかしこれはキリスト教の「メシア/キリスト」を指す語としか使われていません。クルアーンに「マシーフ」という語は登場しますが、神の子ではなく預言者としてのイーサー(イエス)の称号という扱いに過ぎません。
クルアーンには、「世直しをする理想的な為政者」という概念も、「世の終わりに出現し民を救う者」の概念も出てきません。前者のほうは本作でも軽く言及しているとおり、全信徒の指導者であるハリーファ(日本で一般的に呼ぶところのカリフ)の座を7世紀後半に奪ったウマイヤ家(それまでハリーファは血筋に関係なく、前任者が適切と考える者を選んでいた)への叛乱の中か生まれてきたものです。呼び名は「マシーフ(メシア)」ではなく、「(神に)導かれた者」を意味する「マフディ」でした。
叛乱の指導者たちがマフディを自称する一方、ウマイヤ朝ハリーファの中にも、自らの統治を正当化するためマフディを自称する者がいました。
「世直しをする理想的な為政者」という意味での「マフディ」の概念が、ユダヤ教由来なのかどうかは明らかではありません。「世の終わりに出現し民を救う者」の概念のほうは、実はクルアーンには採用されなかったものの、民間信仰のレベルでは早い段階から浸透していました。
多神教徒だったアラブが比較的すんなりとイスラムを受け入れられた理由の一つは、彼らがユダヤ教徒やキリスト教徒と長年共存してきて、その知識を多少なりとも共有していたことにあります。またユダヤ・キリスト教からの改宗者も多かったことから、彼らの民間信仰も流入しました。
本作の時代より後、イスラムの正統教義確立に伴い、そうしたユダヤ・キリスト教的民間信仰は排除されていくのですが、9-10世紀に編纂された伝承集には、「世の終わりに預言者イーサー(イエス)が再臨して民を救う」という言い伝えが収録されています。「救世主」に該当する、如何なる呼び名も使われていませんが、紛うかたなき救世主信仰ですね。
とはいえイスラムでは一預言者としてなら崇敬されているイエスを事実上の救世主として扱うこの伝承は、まったくと言っていいほど顧みられていません。
マフディ(導かれし者)を「世の終わりに出現する救世主」とする思想あるいは信仰は、前作「ガーヤト・アルハキーム」(『ナイトランド・クォータリー』№18 Amazonリンク)の主人公イスマイールの死に始まります。754年(本作の3年前)または756年なんで、ちょうど同時代ですね。まあ本作とは関係ないので、先へ進みます。
ユダヤ教では本来、災厄は唯一なる神によってもたらされるものでしたが、それが「サタン」(ヘブライ語で「敵」の意)の仕業となったのは、ゾロアスター教からの影響です。光明神アフラマズダ(本作の「オフルマズド」は8世紀当時の発音)に率いられる善霊の軍勢vs悪神アフリマンに率いられる悪霊の軍勢という構図が、唯一神に率いられる善霊/天使(マルアフ)の軍勢vs魔王サタンに率いられる悪霊の軍勢として採用されたのです。
この二元論はキリスト教に受け継がれ、「サタン(敵)」のギリシア語訳である「ディアボロス(敵)」が魔王サタンと配下である悪霊の総称となりました。英語「デヴィル」は「ディアボロス」の転訛です。
ユダヤ教はキリスト教が分離した後に二元論要素を自ら修正しました。イスラムは唯一神に率いられる天使(マラク)の軍勢vs魔王イブリース(「ディアボロス」の転訛)に率いられるシャイターン(「サタン」の転訛)の軍勢という図式は受け継ぎましたが、二元論要素は薄いので、イブリースおよびシャイターンの役割は大きくありません。
「乱反射するサタニズム(悪魔崇拝)」(『トーキング・ヘッズ叢書』№84 Amazonリンク)および「文字が構築する壮大なプロット(筋書き/陰謀)」(『現代思想』2021年5月号 Amazonリンク)では、ユダヤ・キリスト教的二元論の成立から現代の陰謀論へと至る道程を考察しています。
このように、ゾロアスター教からイスラムへの間接的な影響は大きいですが、直接的な影響はほぼ見当たらない。偏に、イスラム発祥の地であるアラビア半島北西部(二大聖地のメッカとメディナがある)のアラブとゾロアスター教との接触がほぼ皆無だったからです。
本作でも言及しているとおり、ゾロアスター教は民族宗教であり、イラン・アーリア人(本作では「エーラーン人」)以外の信仰を想定していません。本作で「エーラーン人」のリストに挙げている「アルミナ」は、アルメニアのことです。アルメニアがキリスト教化したので、サーサーン朝(224-651年)皇帝が侵略してゾロアスター教への強制改宗を断行したこともありましたが、他民族への布教が行われなかったのは一貫しています。
とはいえゾロアスター教との直接接触から、他民族が感化された例はありました。上記のユダヤ教の二元論化も、前537年にハカーマニシュ(アケメネス)朝のクル(キュロス)2世にバビロン捕囚から解放されて以来、前330年のアレクサンドロス大王の侵略まで、ずっとペルシアの寛容な政策を享受していたからこそです。何しろキュロスはユダヤ教で唯一の非ユダヤ人(ユダヤ教徒)メシアとして崇拝されていました。
2-3世紀のローマ帝国で大流行し、キリスト教と競合したミトラス教は、ゾロアスター教というよりはそれ以前のイラン・アーリア人の太陽神ミスラ信仰が小アジアで独自の発展を遂げたもののようです。文化・民族の混交が進んで民族宗教の要素が薄れたところに、新しもの好きのローマ人の興味を惹いた、といったところでしょう。
サーサーン朝の支配はメソポタミアまで及んでいましたが、この地にはアラブも進出していました。またアラビア半島の東岸(ペルシア湾沿岸)と南部にはサーサーン朝の駐屯地があっただけでなく、古来、海上交易によって多くのペルシア人が行き来し、彼らの植民都市もありました。其の六で解説したムハッラブ家のスフヤーンの祖先は、ペルシア湾にあるハールク島出身のペルシア人船乗りだと伝えられています。
サーサーン朝はゾロアスター教を国教とし、一神教化を進めましたが、その「正統教義」は帝室の本拠地であるファールス地方限定のもので、各地ではそれぞれ土着のゾロアスター教が信仰されていました。ジャーヒリーヤ(前イスラム期)のアラビア語詩の中には、詩人たちが見聞したゾロアスター教徒への言及が見出されますが、それらの断片的な情報からも、ペルシア本土の正統教義とは異なるゾロアスター教信仰が窺えるそうです。
前イスラム時代、アラビア半島北東部に住んでいたタミーム族はゾロアスター教に改宗しましたが、その地で土着化し、民族宗教の要素が薄れていたからこそでしょう。
紅海に面するアラビア半島北東部もペルシア湾岸からメソポタミア、さらにはペルシア本土とも交易路で繋がっていましたが、現地のアラブとゾロアスター教徒が接触する機会はまず無かったと思われます。
本作で言及した、ホラーサン(現イラン北東部~トルクメニスタン南部~アフガニスタン北西部)征服戦争でゾロアスター教式葬儀(曝葬。鳥葬とも呼ばれるが、遺体を野晒しにして鳥や野獣に食べさせる)を望んだ「血筋もよく敬虔」なアラブ・ムスリムの指揮官のエピソードは、バラーズリー(892年頃没)の『諸国征服史』(花田宇秋・訳 岩波書店)の第24章にあります。
この指揮官はアラブの名門アディー家のアスワドという人物で、同じくアラブ(異民族または混血ではない)のバラーズリーは、彼を「由緒ある血筋のアラブ」で「信心深い男だった」と評するだけで、曝葬についてはなんの評価も下していません。訳者の花田氏をはじめ、この曝葬についての研究者の解釈は見つけられず、ゾロアスター教のそれに結び付けているのは、私の推測に過ぎません。でも的外れではないと思いますよ。
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