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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の七

其の一其の六
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。
 本作の骨子が出来上がるまでの過程は後日解説の予定ですが、とにかく出来上がってから割とすぐに気が付いたのが、プイグの『蜘蛛女のキス』との相似でした。どちらも「獄中の『千夜一夜』」ですからね。
 あ、『蜘蛛女のキス』ネタバレですよ。

『蜘蛛女のキス』も本作も「物語」の物語であり、フィクションを巡る対立から始まるところも共通しています。まあ『蜘蛛女のキス』の舞台である南米某国では別にフィクションそのものが否定されているわけではないので、敢えてハイカルチャーからは見下されているB級映画を「フィクションの代表」に位置付けていますね。
 また革命家のバレンティンは、「おかま」のモリーナ(「彼女」のセクシャリティについては後述します)が語るB級映画のストーリーを文句言いつつも楽しんでいるので、彼らの対立自体はそれほど深刻なものではありません。しかし「革命家」という立場自体が、モリーナが耽溺するB級映画(その1つは、選りにも選ってナチのプロパガンダ映画)との間に深い断絶を設けている。

 以前の記事でも言及しましたが、本作でも「フィクション否定派と肯定派の対立」は、4日間のうちの2日目までです。3日目は「フィクションの創造」の話になる。
 一方『蜘蛛女のキス』では、「フィクションの創造」には触れていません。モリーナは自分のお気に入りのB級映画(既存のフィクション)のストーリーを語るだけす。『千夜一夜』のシェヘラザードが、本で読んで記憶した物語を語るのと同じです。

 本作の3日目で「フィクションの創造」を、「神が創造する、無数の〝影の世界〟を垣間視て、それを言語化する」というメタファーで理解した主人公イブン・ムカッファは、4日目の朝には「〝影の世界〟であるフィクションを、現実の世界に反映することができるかもしれない」と考えます。具体的には3日目に彼が「視た」、「すべての宗教は繋がっている」というシンクレティズムの「物語」を現実世界に反映した、気宇壮大な神学を打ち立てようという野心ですね。
 しかしその数時間後、イブン・ムカッファに恨みを抱き、かつイブン・ムカッファが「創造」した「山犬と雄牛と獅子王の物語」を自らを含む現実に重ねることで恨みをさらに増大させた人物が現れるのです。

『蜘蛛女のキス』のモリーナは、お気に入りのB級映画ヒロインたちのようになりたいたいと願っています。彼女たちは単に若く美しく称讃されているだけでなく、愛に生きている。最終的にモリーナは、「愛のために死ぬヒロイン」というフィクションに呑み込まれ、周囲をも巻き込んで死にます。バレンティンが抱く「革命の理想」には、最後の最後まで一切共感しません。
 一方のバレンティンにとって「革命の理想」は、モリーナが耽溺するフィクションより遙かに高邁で価値あることです。それはもう、まったく比べ物にならない。
 しかし言うまでもなく、彼の理想もまた「物語」です。

「解説と余談」其の一で述べていますが、フィクションを楽しめないこと、必要としないことは、フィクションを楽しむこと、必要とすることと、まったく等価です。加えて私自身は、フィクションを「現実じゃないから」という理由で見下す人でもフィクションを楽しむことに干渉してこない限り、どうでもいいと思っています。
 ただ、そういう理由でフィクションを軽んじる人のうちどれだけが、あなたがフィクションより価値があると信じている「実話」「ノンフィクション」も、語り手/書き手によって組み立てられたプロットに沿った「物語」だということを承知しているんですか、とは思います。
 それよりも何よりも、人間は知覚した情報にパターンを見出す方向に進化してきた以上、知覚した「現実」を理解しようとすればするほど、パターンとして認識することになる。それを承知しているんですか、と。
 しかもオングの『声の文化と文字の文化』によれば、結末ありきで組み立てられた一貫性のあるプロットというものは、「文字の文化」が発達して初めて出現したものだそうなので、現実を一貫性のあるものと認識している人ほど、フィクションにどっぷり浸かっていることになる。

 もちろん私は、「現実は物語に過ぎない」とかしょうもないことを言っているのではないですよ。ヒトが現実をどう認識するか、という話です。
 そもそも「物語に過ぎない」とか言われたら、今なんつった、物語舐めてんのか?となりますよ。
 ヒトは現実を「物語」として解釈しがちです。そうした「現実」として認識される「物語」は、個人だけのものではありません。集団が共有する「大きな物語」も数多く存在してきたし、存在している。解りやすい例としては思想や宗教がありますが、社会通念の類も、そこまで作り込まれてはいないものの、集団によって共有される「物語」です。
 そうした「物語」はその集団を、国を、世界をも駆動します。それが「物語の力」です。

 当然ながらそれら「現実と認識される物語」は、ヒトの知覚を介していない物理世界としての現実や、その物語を共有していない他者にとっての現実(他者の物語)とは齟齬があります。齟齬が大きければ大きいほど、さまざまな支障を来し、かつ物語の規模が大きければ大きいほど、制御も効かなくなります。場合によっては災厄を引き起こしかねない、というか引き起こしてきました。
 だからフィクションをフィクションとして楽しむことなど無害であり、健全ですらあります。

 本作ではイブン・ムカッファに「実話」の潤色について突っ込ませましたが、物語論が碌に発達していない社会なので、まともな議論は成立しませんでした。この問題については、『現代思想』2021年5月号掲載「文字が構築する壮大なプロット(筋書き/陰謀)」(Amazonリンク)と同2022年9月号掲載「パリに行きたい:あるいは〝ここ〟からは出られません」(Amazonリンク)で考察しています。

 そういえば『現代思想』2021年5月号の頃は、「フィクション蔑視が通念となっている社会」としての中世イスラムを舞台にした「物語」の物語を書きたいなあ、と思いつつも、まだ何も構想とかは始めていなかったなあ。そうだった、そうだった。
 で、2022年9月号の頃は、知識を補完するための下調べと並行して、すでに執筆に入ってたんだけど、全篇一人称で書くという無謀を試みたせいでで行き詰まってましたねえ。いや、あれは苦しかった。

 それから「女」の立ち位置という点でも、本作は『蜘蛛女のキス』と似ていますね。
 現代における、先天的な肉体の性別とは別物の、やたら細かくて複雑なセクシュアリティの区分に、どれだけ意味があるのかは私が知り得るところではありませんが、モリーナは肉体的には先天的な男性で、その性別からすると男性同性愛者で、その上で女性になりたがっている。ただしそれは若く美しく、かつ愛に生きる、フィクションの中にしか存在しない女性であって、現実の女性ではない。
 同様に本作のイブン・ムカッファにとって、シェヘラザードや女神たちは美しい乙女の姿をとった「象徴」であり、現実の女性たちとは無関係な存在です。彼女たちは「書かれた物語」であり、「書く」主体は(物語の源泉を「神」としているものの)あくまでイブン・ムカッファ自身なのです。
 ちなみにエンサイクロペディア・イラニカのイブン・ムカッファの項(リンク)によると、本作でも言及している彼の著書『アダブの書』には、女について侮蔑的な言及があるそうです。史実のイブン・ムカッファが本当に近代的な思考ができたのだとしても、近代的価値観を持っていたことにはならないので(況や現代的な価値観をや)、まあそんなものでしょうね。
 というわけで本作でも、妻について心配していないわけではないが息子に比べると全然軽い、ということにしました(史実では、息子についてはわずかながら情報が残っていますが、妻についてはまったく不明です)。

 モリーナは「フィクションを語る女」という自らに与えた役を途中で放棄して「愛のために死ぬヒロイン」という役に乗り換え、それを全うします。「物語に呑み込まれた」と言っていいでしょう。
 そしてあの結末は、バレンティンも「物語に呑み込まれた」と解釈することが可能です。
 本作の結末もまた、イブン・ムカッファは「物語に吞み込まれた」との解釈が可能です。
 もちろんどちらの結末も、そういう解釈が可能、というだけです。どちらも、「幻覚を見ただけ」という解釈も可能ですね。

 以上が本作と『蜘蛛女のキス』の、意図したわけではない相似(および相違)です。これらに気づいた後で、意図して寄せた要素もあります。
『蜘蛛女のキス』は基本的に一つの監房の中だけで物語が進みます。モリーナとヴァレンタインの会話と、彼女(「女」になりたがっているので、この三人称
でいいでしょう)が語るB級映画のストーリーとによってです。監房の外の出来事は「報告書」のかたちで語られます。
 まあ少なくとも、オリジナルの小説版ではそうです。映画版だと、モリーナとヴァレンタインの遣り取りの場面も、モリーナが語るB級映画も、「報告書」の内容も、普通に映像になっていましたね。戯曲版は読んでいないし、舞台版も観たことがないので、そちらではどう処理してるのかは知りません。

 そういうわけで本作は、独房にいるイブン・ムカッファの「意識の流れ」をひたすら追っていくかたちにしたのでした。独房の外の出来事は、すべて彼の回想として語られています。
 イブン・ムカッファが土壁に刻む語句は、曲線が少ない角張った書体であることをタイポグラフィ的にブロック体で表現していますが、これのお蔭でイブン・ムカッファが現在軸では独房内にいることが解りやすい。まあ実は「独房内で壁に文字を刻んでいるイブン・ムカッファ」のさらに外側に「枠」があるんですけど(終盤の行書体の部分です。後日解説の予定)。

其の一其の八

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