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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の六

其の一其の五
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。本作では中世イスラムの固有名詞や術語の多くを、独自の用語に置き換えています。以下、日本における一般的な表記に、本作独自の用語を()で付記するかたちで記述していきます。紀年は特記がない限りはADです。

「ムハッラブ家のスフヤーン」は実在の人物です。作中で提示したプロフィールは、そのまんま史実。解りやすい悪者です。
 作中の時代、つまりイブン・ムカッファの生前にはどうだったかは不明ですが、後世の読者は彼と山犬ディムナを同一視していました(後日解説の予定です)。そこから、スフヤーンが「元からイブン・ムカッファに恨みを持っていたが、『カリーラとディムナ』の大ファンになって、自分を高潔な雄牛シャンザバ、イブン・ムカッファを狡猾な山犬ディムナと同一視してしまい、ますます恨みを募らせた」という設定が生まれました。
 誰よりも『カリーラとディムナ』ファンだけど、誰よりも作者アンチ。誰よりも『カリーラとディムナ』ファンだけど、解りやすい悪者。解りやすい悪者だけど、誰よりも『カリーラとディムナ』ファン。

 キャラクターの言動が、作中で全肯定されているならともかく、そうではないのに「作者の思想!」とか非難する人は、昔からよくいたようです。
 たとえばロシア近代文学の割と初期に位置するレールモントフ(1814‐1841)は『現代の英雄』(1840)の序文で、「不道徳な人物を主人公にしたからといって、私自身が不道徳を肯定しているわけではない」というようなことを述べています。ゴーゴリ(1809‐1852)も作品のどれかの中で、同じような弁明をしていた覚えがある。
 もちろんスフヤーンを「そういう人」に設定したからと言って、「そういう人=悪」ではないですよ。「フィクションを否定する=悪」「フィクションを愛する=正義」という単純な図式にしたくないだけで。
「そういう人」に対しては、「もっとたくさんの作品に触れて見る目を養えば、自分も周りも幸せになれるよね」とは思いますが。

 イブン・ムカッファが現イラン(ファールス)のファールス州(南ファールス)でウマイヤ朝(ウマイヤ家)の現地総督(太守)の書記を務めていた時(743頃‐747)、総督の地位を狙うスフヤーンを策略で排除したのは史料どおりです。ただし、どんな策略だったかは不明です。創作するにしてもスフヤーンについての情報が少なすぎるんで、ちょっと困ってました。
 Encyclopedia Iranicaのイブン・ムカッファの項(リンク)でも、この件に関しては「イブン・ムカッファは同好の士の間では機智に富んで愉快な仲間だったが、無関心な相手には攻撃的で傲慢になり得たし、不快と見做した相手は見くびって笑いものにしがちだった。彼の敵意と嘲笑の犠牲者の一人が、スフヤーンである」というようなことしか述べられていません。まあそういう性格だったでしょうね。
 ちなみにEncyclopedia Iranicaは英語ですが、アラビア語の固有名詞等のラテン文字表記が、ペルシア語風発音に準じたスペリングになっているので、ちょっと解りにくいかと思います。

 ところがスフヤーン個人ではなく彼の家系について調べたら、情報がいっぱい出てきたんで助かりました。ほとんどが英語だったんで大変でしたが。
 スフヤーンの祖父ヤズィードが720年に叛乱を起こして半年で鎮圧されるまでの経緯は、本作で示したとおりです。ムハッラブ一族は大勢いましたが、大多数が捕らえられ処刑されました。子供も9歳以上の男子であれば容赦されなかったそうです。
 後述するようにスフヤーンが無能だったのは間違いありませんが、祖父の代に一族が叛逆者となったことにはなんの責任もありません。それがファールス州総督の地位を狙えるところまで這い上がってくるには、アズド族の支援があったでしょうし汚い手も使ったでしょうが、並大抵の苦労ではなかったはずです。
 ぶち壊したイブン・ムカッファは恨まれて当然でしょうね。

 アッバース朝(アッバース家)初代カリフ(名代/ハリーファ)サッファーフが現イラク(イラーク)のクーファで即位するのは、749年11月末です。スフヤーンが未だウマイヤ朝(ウマイヤ家)の支配下にあるバスラの奪取を命じられ、その際、名ばかりのバスラ総督の肩書を与えられたのは、サッファーフの即位前後です(正確な時期は不明)。
 ウマイヤ朝側のバスラ総督はサルムという名前で、後にアッバース朝に2代目カリフ、マンスールに重用されるくらい有能な人物であり、スフヤーンは惨敗して息子まで亡くし、バスラ奪取の意欲を失います。

 スフヤーンは名前のみのバスラ総督の肩書を取り上げられ、一族の生き残りと共にサッファーフの兄(後のマンスール)の許に行きます。カリフ兄弟の叔父で、イブン・ムカッファの主人イーサーの兄であるスライマンが、いつバスラ総督になったのか、いまいちはっきりしないんですが、まあこの時にスフヤーンと交替したのでしょう。
 本作ではスフヤーンの被害妄想を強調するため、イブン・ムカッファの策略によってバスラ奪取に失敗したのだと思い込んだことにしています。
 その後、スフヤーンは未来のカリフ、マンスールによる当時のイラク最重要都市ワースィトの包囲に加わります。この時、一緒に参加したムハッラブ家の面々は、彼らの父親の名前からすると、スフヤーンとは従兄弟よりも遠い関係のようです。

 次にスフヤーンの名前が史料に現れるのは、数年後のバスラ総督就任とイブン・ムカッファ処刑です。
  史料によれば、マンスールはイブン・ムカッファの処刑を明確に命じることはなく、ただ「取り除け」とだけ言ったそうです。復讐心に燃えるスフヤーンが独断で処刑に踏み切ったのは、侍従の一人に唆されたからだとされていますが、この人物が史料に現れるのはここだけで、名前はおろか、どんな背景を持っていて、どんな理由でそんなことをしたのか一切不明です。
 本作に登場させても煩雑になるだけなので、スフヤーンよりも地位が高くマンスールに気に入られている人物にイブン・ムカッファを庇わせ、スフヤーンがさらに被害妄想をこじらせる展開にしました。
 その役割に最も相応しい人物として選んだハーリド・イブン・バルマクは、本作で言及しているとおり、地位、マンスールとの関係、出自・前歴が最適なだけでなく、史料によれば息子と孫が『カリーラとディムナ』の大ファンなんですね。だから本人も愛読者だった可能性はあるな、と。彼については後日、解説できたらします。

 その後のスフヤーンに関する記録は、2つだけです。1つは間接的な言及で、スフヤーンがヒジュラ暦139または140年(AD756~758年)にバスラ総督となったしばらく後のヒジュラ暦141年のものです。スフヤーンの親戚の一人で、彼と供に即位前からマンスールの取り巻きだった人物が、アゼルバイジャン総督に任命されます。この親戚はスフヤーンの手駒であるバスラの南アラブ(南タージク)を、ごっそり引き抜いてアゼルバイジャンに定住させます。
 ムハッラブ家当主にして南アラブ最大の氏族アズドの指導者、つまり南アラブの全氏族に対しても強い権限を持つはずの
スフヤーンがこれを止められなかったということに、いろいろと察せられるものがありますね。

 2つ目の、そしてスフヤーンに関する最後の記録は、763年のものです。預言者ムハンマド(最終預言者)の従弟で娘婿のアリー(661年没)の子孫の1人、イブラーヒムがアッバース朝からカリフの座を奪うべく、バスラで蜂起しました。ちなみに彼は、『ナイトランド・クォータリー』vol.18掲載「ガーヤト・アルハキーム」のメインキャラ、イスマイールの親戚です。
 バスラ市民の支持を得て総督のスフヤーンを捕らえ、1万もの大軍を率いて蜂起しました。そこまではよかったんですが、宗教指導者としてのカリスマはあっても、指揮官としてはまったくの無能で、カリフ、マンスールの甥が率いる大軍に一列横隊で突撃させて惨敗したそうです。
 つまり、そんな無能なイブラーヒムに捕らえられたスフヤーンは、ものすごく無能だったということですね。

 その後のスフヤーンの消息は一切不明ですが、叛乱鎮圧後、新たなバスラ総督に任じられたのは、かつてウマイヤ朝のバスラ総督としてスフヤーンを打ち破り、その息子を戦死させたサルムでした。生きてても、失脚して二度と返り咲けなかったのは確実です。
 ムハッラブ家およびアズド族指導者の権限は、上記のアゼルバイジャン総督の手に移り、彼はその後、エジプト総督を経て北アフリカ(イフリキーヤ)の総督に任じられます。以後10世紀頃まで、この総督の血筋のムハッラブ家は北アフリカの地で栄えることになるのでした。

其の一其の七

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