「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の八
全体的にネタバレ注意。本作では中世イスラムの固有名詞や術語の多くを、独自の用語に置き換えています。以下、日本における一般的な表記に、本作独自の用語を()で付記するかたちで記述していきます。紀年は特記がない限りはADです。
『カリーラとディムナ』(菊池俊子・訳 平凡社東洋文庫)を最初に読んだのは、もう10年以上前のことです。その時、菊池俊子氏の巻末解説から興味を惹かれた情報を幾つかメモしておいたのですが、そのうち2つが今回の記事に関係あります。
1つは『カリーラとディムナ』のサンスクリット(シンド)語原典およびそのペルシア(ファールス)語訳ではなんの報いも受けていないディムナが、アラビア(タージク)語訳では相応の報いを受ける結末が加筆されている件。
この加筆が後世の誰かではなくイブン・ムカッファ本人によって行われていることは、文体からしてほぼ確定だそうです。加筆の理由は道徳的な見地からだろう、というのも定説だそうですが、それに加えて菊池氏は、読者からディムナと同一視されることをイブン・ムカッファが恐れたから、という推測を提示しています。
ちなみにアラビア語版『カリーラとディムナ』はサンスクリット語原典からペルシア語訳を経た重訳となるわけですが、このペルシア語訳は現存していません。しかしサンスクリット語原典からではなくペルシア語版から訳したシリア(シャーム)語版は現存していまして、こちらもディムナが悪行の報いを受ける部分がありません。
だからアラビア語版のみの加筆だと、ほぼ断定できるわけですね。
もう1つは、イブン・ムカッファの処刑が「最も残酷な方法」によるものだったと伝えられている、という件です。どんな方法だったかは諸説あるそうです。
イブン・ムカッファが彼の才能や功績をまったく理解していない男の個人的な復讐によって、こんな最期を遂げさせられたというのは実に気が滅入ることで、彼を主人公にするのに躊躇いがあったほどです。
しかし『カリーラとディムナ』を再読したところ、山犬ディムナもまた「最も残酷な方法」によって処刑されていたことに気づきました。
つまりイブン・ムカッファの「最も残酷な方法」による最期は、山犬ディムナの最期から生まれた伝説だということであり、彼自身が実際に山犬ディムナと同一視されることを恐れたか否かにかかわらず、少なくとも後世の読者からは同一視されていたということです。
「イブン・ムカッファが山犬ディムナと同じ死に方をした」とする史料は複数あるようですが、どれが一番古いのか菊池氏の解説には述べられていません。私も自分で調べてみたんですが、判りませんでした。イブン・ムカッファの現存する最古の伝記(彼の死から170年以上後のもの。其の三参照)が最も詳しい伝記でもあるそうなので、それだろうとは思いますが。
まあこの件に関しては、どの史料かというのはあまり関係ない。其の三で述べましたが、史料批判の概念が確立されていなかった中世イスラム(誠の教え/イーマーン)世界における史書・伝記の類は、中傷を目的としたものや思想的に偏ったものは別として、情報が「人々に広く信じられてきたか」「古くから言い伝えられてきたか」を信憑性の判断基準としてきました。
だからたとえば、「イブン・ムカッファが山犬ディムナと同じ死に方をした」という伝説が最初に記されたのが最古の伝記だったとしたら、この伝説が生まれた、すなわち彼がディムナと同一視されるようになったのは、それより数十年以上前だということですね。遅く見積もっても、イブン・ムカッファの死後100年くらいってとこですか。死後すぐだった可能性もある。
よかった、“最も残酷な方法”なんてなかったんだ……でも史実のスフヤーンがディムナの最期を知っていて、それをイブン・ムカッファに適用した可能性もゼロではないですね。それも万に一つとかじゃなくて、1%くらいはありそう。どのみち楽には死なせてもらえなかったんだろうなあ。
本作でイブン・ムカッファが提案した「最も残酷な方法」は、彼の伝記に記されている諸説、および中世イスラム世界で実際に行われていた処刑法を参考にしています。「生きたまま手足を切り落とす」を、勝手に凌遅刑に変えてすみません。大学での専門はシルクロード文化史だったんですが、周りが中国史ばっかりだったんで、自然とそういう知識が身に着いてしまいました。
マーニー(「マニ」よりこっちの表記が一般化しつつありますね)教開祖の死は274年または277年ですが、その処刑法についての記録はすべて後世の非マニ教徒によるものです。彼の死後、中央アジアに逃げ延びた信徒たちが、それほど離れていない時代に残した記録には、処刑について明記されていない上に、投獄後も信徒と面会が許されていたとあることから、それほど苛烈な死ではなかった(獄中で病死とか、普通?の処刑法とか)、という説が近年では有力なようです。
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