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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の五

其の一其の四
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。本作では中世イスラムの固有名詞や術語の多くを、独自の用語に置き換えています。以下、日本における一般的な表記に、本作独自の用語を()で付記するかたちで記述していきます。紀年は特記がない限りはADです。

 本作で登場したり言及したりする人物のうち、名前有りは全員実在しました。作中のフィクションに登場するキャラは、名前があろうとなかろうと実在しませんが。あまり固有名詞を出しすぎても煩雑になるので、実在人物でも名前は出さずに言及している場合もあります。
 主人公イブン・ムカッファを裁く「判官殿」は、実在しません。本作はある意味では寓話であり、
作中でイブン・ムカッファが「空想に耽った隠者の物語」を例に解説したように、寓話のキャラクターはシンプルな属性が判っているだけでよく、個人名は必要ないのです。そういう意味では、判官殿は「フィクション否定」の擬人化だと言っていいでしょう。

 ただし、判官殿を解りやすい悪者にしたつもりはありません。
 終盤、イブン・ムカッファは判官殿について、スフヤーンが関わっていなければフィクションへの偏見を払拭できていただろう、という主旨のことを述べていますが、これはただの願望です。イブン・ムカッファは判官殿の知性を高く評価していますし(だいぶ上から目線ですが)、スフヤーンに対し立場が弱いことに同情しているし、何よりストックホルム症候群に陥っていると思われます。正常な判断ができる状態じゃないし。
 社会通念等とは関係なくフィクションを楽しめない気質の人はいて、判官殿はその一人として設定しています。そしてそのこと自体は悪でも正義でもありません。フィクションを愛することが悪でも正義でもないのと同じことです。

 現代において、フィクションやそれを愛することを否定し、あまつさえそれを強要してくるのは、もちろん悪です。逆もまた然りで、フィクションを受容しない人を馬鹿にするのは論外だし、「人生を損している」とか同情するのも余計なお世話で、どちらが動機でもフィクション受容を押し付けるのは悪です。
 自分はフィクションを楽しめない気質だと思っているが、単に好みの幅が狭くて良い出会いがなかっただけの人もいるでしょう。向いていないと思い込んでいるから機会がますます減るわけですが、その可能性があるというだけで無理やりお勧めするのはよくない。
 本作の設定ではなく現実の8世紀半ば当時は現代以上に、社会通念には従うべきとされていたのでしょう。そんな状況において、たった一作で大勢を覆してしまった『カリーラとディムナ』が特異だと言えます。
 社会通念に加えて、スフヤーンのせいで『カリーラとディムナ』、延いてはフィクション全般に恨みすら抱いていたのが、「判官殿」というキャラクターです。

 フィクションを見下すことの是非はさておき、だからといって本作は判官殿、延いてはアラブ(タージク)文化が反教養主義あるいは反知性主義と断じるものではありません。詩とノンフィクションがアラブ古典文学の双璧であり、後者の原型が、本作で取り上げている「アダブ」と呼ばれる実話の語りです。
「アダブ」は後に、もっと広い意味で「教養」全般を指すようになりました。本来のアダブは、本作より100年ほど後の時代について論じた岡崎圭二氏「アダブ考」によれば、もてなしの場で参加者を楽しませるために披露される、含蓄に富んだ実話のことだったようです。
アダブ」という語は、「もてなす/アダバ」の派生語です(詳しく説明しようとするとアラビア語の構造にまで足を踏み入れなければならなくなるので割愛します)。「教養」の根幹にあるのが「もてなし」の精神だというのは、何かすごくいいと思います。

 なお本作で、アダブに不可欠な要素として「おもしろくてためになる」というフレーズを繰り返し述べていますが、これは9世紀半ばに「アダブ文学」の基礎を築いた文人ジャーヒズの作品の一つのタイトル「真面目と冗談」を言い換えたものです。

 本作は4日間にわたる物語であり、「現代日本にも存在するフィクション蔑視との対決」から始まりますが、このテーマで展開するのは2日目までです。この2日間のうちでも、2日目はメディアやジャンルに重点が置かれますし。
 3日目は「フィクションの創造」について。最終日は「『カリーラとディムナ』の熱烈なファンであるスフヤーンとの対決」です。
 次回はスフヤーンについて解説する予定です。

其の一其の六

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