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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の四

其の一其の三
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。本作では中世イスラムの固有名詞や術語の多くを、独自の用語に置き換えています。以下、日本における一般的な表記に、本作独自の用語を()で付記するかたちで記述していきます。紀年は特記がない限りはADです。

 其の二で述べたように数年前から、前近代アラビア(タージク)語圏という「現代日本の一部の人々によるフィクション蔑視が、広く通念となっている社会」を舞台に、読者に「ささやかで日常的な共感」を持ってもらうところから始まる物語を書きたいなあ、と思うようになったわけですが。
 フィクションが無教養で低俗な人々のものとされ、教養人を自認する人々からは疎んじられてきた長い歴史の中で、ごくごく稀に、教養人の間でもフィクションの流行が何回かありました。詳しいことは後日、解説できたらしますが、いずれにせよそれらはあまりにも断続的で、フィクションそのものの発展にはまったく貢献しませんでした。
 しかもそれら数回で流行したのは、教養人自らによるフィクションの創作ではなく民間説話の収集だったり、創作であっても、テーマを決めて架空の人物に論争させる形式だったり、言葉遊びに重点が置かれて物語性が二の次、三の次になってたりと、残念ながら現代日本の読者があんまり魅力を感じそうもなく、それ以前に私自身が魅力を感じていないので、魅力的に見せかける努力をする気も起きない。

 そんな中で唯一無二の例外が、アラビア語散文文学の創始者イブン・ムカッファの動物寓話集『カリーラとディムナ』(8世紀半ば)なのでした。もっともこれも、後世においては物語そのものより文体のほうが高く評価されているんですが。
 とはいえ、物語も決して評価されてこなかったわけではない。9世紀に流行した上記の「論争文学」には、動物同士や花同士が論争するものも少なくありません。庶民の文学である『千夜一夜』にも、『カリーラとディムナ』に依拠していないオリジナルの動物寓話が幾つも収録されてますし。
 私が『カリーラとディムナ』を読んだのはだいぶ前、アラビア語フィクションが見下されていた歴史も知らなかった頃でしたが、確かイブン・ムカッファによる改変もかなり入っていたはずだよな、と再読してみることにしました。

 結果は、本作で言明しているとおり、「山犬と雄牛と獅子王の物語」に限れば相当に手が加わっていることが確認できました。
 しかも初読から時を経て、アラビア語文学のみならず東西の古典文学をそこそこ濫読し、オングの『声の文化と文字の文化』やルリヤの『認識の史的発達』なども読んだ後では、「山犬と雄牛と獅子王の物語」に限れば、キャラクターの造型や心理描写がやたらと近代的なのに驚かされたのでした。

『声の文化と文字の文化』が言うところの「立体的な」人物像が物語に初めて現れるのは。西洋近代においてです。実際、「最初の心理小説」と呼ばれるラファイエットの『クレーヴの奥方』(1678年)は、「最初の近代小説」の一つに数えられてもいます。
 いや、「山犬と雄牛と獅子王の物語」がいくら近代的だと言っても、挿入されている寓話が多すぎる上に、寓話の内容と教訓がちぐはぐで何が言いたいのか解らなかったりと、構成にはだいぶ難ありなんですけどね。しかし寓話を整理して、もっと小洒落たものに書き直せば、18世紀のフランス文学といって通るんじゃないかってくらい。当時はちょうど東方小説も流行ってるから、ヴォルテールとかが書きそう。実際、『千夜一夜』の翻案ものとしてもよくできてる「ザディーグまたは運命」(1748年)を書いてるし。

 前近代のアラビア語文学の歴史を鑑みたら、この人物造型と心理描写の近代性は、ちょっとあり得ないオーパーツです。『声の文化と文字の文化』によれば、「立体的な」人物像というのは、人が読み書きを「内面化」できるようになってから初めて生み出されるものだそうです。読み書きの「内面化」については、オングの定義はいまいち曖昧なんですが、つまりは「内省」ができるようになる、ということのようです。
 記録媒体が存在しない状態で情報を保存しようとするなら、記憶するしかありません。記憶に脳のリソースが割かれる分だけ、その情報について考えることができなくなります。情報を言語化して書き留めれば、記憶の手間が省けます。
 しかし地域を問わず前近代においては、音読が主流でした。書かれた文章は内容や分量に関わらず人前で読み上げ、皆がそれについて質問したり意見を言い合ったりするものでした。
 このような読み方では、個人が気になる箇所を読み返したり内容について内省するのは困難です。そうしたことが一般化するのは、読書が個人的な行為となってからでした。

 前近代のアラビア語圏は他の文化圏と比べても、とりわけ音読が重視されていました。明らかに、フィクションにおける「立体的な」人物像が出現し得なかった理由の一つだと思われます。
 しかしイブン・ムカッファは、識字率が低い時代に生まれたので音読を基盤とする教育を受けていない。その上、
書記と翻訳という仕事を通じて、読み書きを「内面化」していた可能性が高い。
 そうであれば彼は「立体的な」人物像を造型し得るし、同時に彼自身が内省のできる、延いては近代的な内面を持つ人物でもあり得るということです。

 古代・中世を舞台にした、あるいは古代・中世的な世界を舞台にしたフィクションで最も難しいのは、価値観どころか精神構造すら現代人とは違っている可能性のあるキャラクターたちをどう描くか、であるかもしれません。いわゆるリアリティラインの問題の一つと言えますが。
 イブン・ムカッファなら、この問題はクリアできるな! というわけで、彼を主人公にすることが決まったのでした。私はこれで、古代どころか新石器時代レベルまで後退した世界が舞台の「にんげんのくに」(早川書房『伊藤計劃トリビュート』所収)も乗り切りましたよ。

其の一と其の五

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