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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十七

其の一其の十六
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。 今回は余談だけです。

 本作構想の最初期の段階で、「彼女」がイブン・ムカッファの「本当の名前」を呼ぶのが「みえた」と、其の十四で述べました。それで彼が、自分は「本当の名前」で呼ばれていないと感じている、ということが「わかり」、彼のキャラクター造型の基盤となったのでした。

 こうしたインスピレーションが、いかにそこに至る過程を認識できない突然の閃きであろうと、いかに「外部から来た」感覚が強烈であろうと、自分の頭から出たものであることは、もちろん承知していますよ。上記の例は判りやすくて、幼少期にまで遡る「名前への強いこだわり」由来です。
 と言っても「名前(人名に限らず「呼び名」全般)へのこだわり」を自覚したのは、成人から結構後でしたが。子供の頃は知っている人名を好き嫌いや可愛い、きれい、かっこいい等で分類するのが好きな程度で(リスト作ったりしてた)、こだわりがあるというほどではありませんでした。まあユニセックスな名前への憧れは、就学前からすでにありましたが。なんか、かっこよく感じたんですよ。

 確か中学入学後ですが、実は私が男だったら父は「歩(あゆみ)」と名付けるつもりだったと知りました。しかしその頃には変わった名前のせいですでに散々苦労してきていたので、一応ユニセックスとはいえ女寄りの名前を付けられたらどんな目に遭ったか判ったもんじゃない、男じゃなくてよかった、と思ったものです。
 今から半世紀も前の私の故郷では、子供、特に女子は諏訪大社で名前を付けてもらう風習が残っていて、一方の父は余所者の上に文学青年上がりでした。単に読書家というだけでなく、小説を書いたりしてた(未完のものを机の引き出しから発見したことがある。たぶん一作も完成させていない)。その父の第一子だった私が実際に付けられた名前は
「歩」同様、キラキラしているとまでは言えないにしろ、とにかく悪目立ちしたのでした。

 結局、名前で苦労したことが、名前へのこだわりに繋がってるんじゃないかと思うんですが、それが西洋人名への興味というかたちで現れてきたのは小学3、4年生頃からです。それ以前から日本人作家よりは翻訳ものを読むことが多かったので。ハイジが正式にはアーデルハイドだとか、ベスがエリザベスだとか、ジョーがジョゼフィーンだとか、あるいはマリアが英国ではメアリーでフランスではマリーになるとか。これもリスト作ったなあ。
 ウィリアムがウィル、ウィリー、ビル、ビリーになるのもおもしろいけど、ヴィルヘルム(独)、ウィレム(蘭)、グリエルモ(伊)、ギジェルモ(西)と変化するのはもっとおもしろい。ギヨーム(仏)とかミラクルですよ。

 まあ長年、興味を持ってきたとはいえ、東洋史を選考したこともあって本腰入れて勉強したことはなく、『グアルディア』の構想を始めた時点(2002年)での知識は、せいぜい『人名の世界地図』(文春新書)レベルでした。だから「こだわりがある」という自覚もなかった。
 しかしそんな程度でも、異世界、異星、あるいは現在の文化が完全に失われた遠未来等々、実在しない文化を有する世界を舞台とする物語で、人名をはじめとする名前が「言語」を無視したものだと、めちゃめちゃ気になって気が散る。

  現実のこの世界と歴史も言語も文化もまったく異なる世界で、固有名詞が現実にあるものと変わらないのは気になる! めっちゃ気になる! 気が散る!!
 たとえば「ジョン」って名前のキャラがいたとして、ジョンはヘブライ語で「神(しかも唯一神)は恵み深し」と意味の「ヨハーナーン」が語源。それが遙か彼方の英国で「ジョン」として定着するまでには長く複雑な歴史がある! 異世界の「ジョン」の背後にも、同様の歴史があるのか!? ああっ、気になる! 気が散る!!
 まあなんか物語の表には出てこない、なんか複雑な歴史の結果として「ジョン」がいるということにして、特にルーツが違うわけでもなさそうな「ジョン」と「イワン」と「ヨハン」とが雑居してるのはなんで!? 

 ……とまあ、そんな感じで、現実の世界とは一切繋がりのない世界を舞台なら、現実の固有名詞とは無関係かつ、なんか統一感のあるのがいいなあ。
 人名なら性別・民族・身分等で法則性があるとか、「なんとなくの統一感」程度でいいんですけどね。トールキン・レベルは求めていない。そこに注力しすぎて、作品そのものがおもしろくなければ本末転倒だし(トールキンがおもしろくないと言ってるんじゃないですよ)。気にならない人は全然気にならないんだろうなあ。羨ましいと言えば羨ましい。
 あるいはせめて、ある地域は英国風文化、ある地域はドイツ風文化、ある地域は……としてくれれば、少なくとも統一感は保たれる。

『グアルディア』はポストアポカリプスだけど旧時代の文化は残存している、という設定は最初から決まっていたので、この「人名への興味」をありったけぶち込もうと思いました。
 どれもギリシア語「アンゲロス」(御使い)からの派生なのに、「エインジェル」と「アンヘル」と「アンジュ」では受けるイメージが違う。そういうことを私はおもしろいと思う。そのおもしろさを物語にぶち込みたい。
 それをやるなら、現状の雑学程度の知識じゃ駄目だ。それぞれの言語も勉強しなきゃ。というわけで、ほかの下調べと並行して、まずスペイン語の勉強を始め、一通り終わったらピアソラのタンゴの歌詞(『ブエノスアイレスのマリア』など)の翻訳を始め、並行してイタリア語の勉強を始め、一通り終わったら『椿姫』の歌詞の翻訳を始め、その頃には手持ちのピアソラの歌は翻訳し終えていたので、フランス語の勉強を始めました。

『グアルディア』執筆に2002年夏から03年夏まで丸1年かかって、スペイン語の勉強を始めたのが執筆開始の1ヵ月くらい前で、脱稿の3ヵ月前くらいにはフランス語学習をとりあえず中断したので、1年足らずだ。こうやって振り返ってみると、だいぶ無茶苦茶なことやっとんな。あの頃は「楽し~」としか思ってなかったけど。
 そして気が付いたら、『グアルディア』は名前(人名に限らず固有名詞や呼び名全般)にこだわりを持つキャラクターばかりになっていました。それどころか、彼らの名前へのこだわりがプロットを駆動する力の一部になってた。まったく意図していなかったことです。
 そしてこれもまた気が付いたら、私自身の西洋人名への関心は多国語への関心に変わっていました。まあ当然と言えば当然かもしれない。
 興味の起点が起源を同じくする名前の多言語間の相違だったので、興味の対象はあくまでも関連のある複数の言語で、孤立言語や人工言語などにはあまり興味を持てない。そもそも言語の才能がまったくありませんしね。本当に下手の横好き。

 名前そのものへのこだわりは、さらに強くなり、その後の作品ではすべて(ノベライズを除いて)、多かれ少なかれ見出すことができます。どれも意図したものではありません。気が付くとそうなっている。
 二作目の『ラ・イストリア』は、意志を持たない生態端末の少女を、魂のない機械として愛するクラウディオと、一人の人間として愛するフアニートとの対立が物語の軸となっています。で、彼女は周囲から、単に呼び名がないと不便なので、人名というよりは記号として「ブランカ」(スペイン語で「白」。髪も肌も白いので)と呼ばれているのですが、なんか気が付いたら、愛を籠めてその名を呼ぶフアニートと、絶対に名前を呼ばない
クラウディオという対比が生じてしまっていた。
 ここでようやく、私は名前に並々ならぬこだわりがあるんだ、と自覚したのでした。『グアルディア』の時はまだ、子供の頃からの「同じ名前の多言語間での変化への興味」からの派生、程度だと思ってたんですが。

『山尾悠子作品集成』を読んだのは『グアルディア』を書き始める数ヵ月前でしたが、その解説で、山尾氏は登場人物に名前を付けるのが苦手で、だからたとえば「ゴーレム」のようにアルファベット一文字だけのほうが書きやすい、という主旨の発言をしていると知りました(だいぶうろ覚えですが)。当時はまだ小説は習作が何本かと、それより以前に漫画やシナリオを書いたことがあるだけでしたが、名付けは楽しい作業の一つではあったけど、作品によっては特に意識することもなくキャラの全員に名前がなかったりもしたので、山尾氏の発言に特に思うところはなかったのでした。その時は。
 しかし『グアルディア』では、「名前へのこだわり」が物語の駆動力の一つにまでなってしまい、『ラ・イストリア』でも程度の差こそあれ、そうなりそうだと気が付いた時、なんか、少し恥ずかしくなっちゃったんですよね。
 別に「名前へのこだわり」自体は恥ずかしくありませんが、毎回それを入れるのは芸がない。なのに気が付くと、どこかしらに「名前へのこだわり」が出ている。無意識にやってしまっているのが恥ずかしい。
 で、遅ればせながら山尾氏の名付けへのこだわりのなさが、かっこいいなあ、と。
 今、書いていて気が付いたんですが、『グアルディア』のJDがアルファベット二文字なのは、ジョーンン・D・ヴィンジ『雪の女王』のサブキャラで、後に『世界の果て』で主人公を務めたグンダリヌのファーストネームがアルファベット二文字なのが(明言はされていないが、そういう文化圏の出身らしい)、なんかかっこよくて好きだったので倣ったんですが、すでに山尾氏からの影響もあったかもしれない。
 アルファベット二文字といえば、「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」(表題作)の主人公ケイシー、スペリングはCaseyですが、この名前は一種のニックネームとして「KC」と書かれることもあります。彼は「無名の大衆の一人」というキャラクターなので、名前も「記号」なのでした。

 そういうわけで『ラ・イストリア』では、ブランカ以外のキャラの名付けは、意識してこだわらないようにしました。スペイン語人名から、なんか響きがよくて表記がややこしくないものを適当に。終盤に登場するカロリーヌは『グアルディア』のカルラの先祖だから(それぞれ男性名「カール」から派生した女性名のフランス語形とスペイン語形。コミュニティの中で代々受け継がれたという設定)、まあ例外。
 ……と思ったら、なんかクラウディオは恩人のマリベルを母性の象徴的存在と見做して、彼女の正式名称である「マリア・イサベル」(「マリア」は言うまでもなく、「イサベル」も洗礼者ヨハネの母エリザベトに由来)に勝手に意味を見出すし、フアニートも偶々「天使(アンヘル)」の名を持つ島の近くを通りかかったら、「ブランカの名前はアンヘルのほうが似合ってる」とか言い出すし……まあどちらも「名前にこだわりのあるキャラ」ではあるからなあ。

『ミカイールの階梯』では開き直って「名前へのこだわり」を抑制しませんでしたが、幸い作中での「名前へのこだわり」が物語を駆動力するまでには至りませんでした。
 しかし『ラ・イストリア』『ミカイールの階梯』と書いて気が付いたのは、私は少なくとも長篇を書くときは早めにキャラの名前を決めておかないと、そのキャラを展開させられない、ということでした。名前が解らないと、どんな内面を持ち、どんな行動をするのか解らない。それがメインキャラなら当然、プロットも展開できない。中・短篇ならプロットを大きく展開させる必要がないので、キャラの名前がなくても困らないんですけどね。

 だからキャラクターの名前を決めずに(アルファベット等の記号だけで充分)物語を書く山尾氏は、本当に根本的な部分で私とは懸け離れているんだなあ、と。いや、懸け離れているということは最初から解っていますが、こういうところにまで表れるものなのだなあ、と。
 そしてますます、山尾氏の「名前へのこだわりの無さ」がかっこよく思えるようになったわけです。

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』は中篇4本+エピローグから成ります。中篇なので固有名詞の名前を持たない、「牧師」「少女」といった呼び名だけのキャラクターを動かしやすいこともあって、徹底してキャラクターの名前にこだわらないようにしました。まあJDの記号(キャラクター)名では結構遊びましたが、これは例外。
 
その結果、気づいたのは、「名前にこだわらないようにする」ということは結局、「名前にこだわっている」のと同じ、ということでした。元々こだわっていないのとは違う。
 というわけで、この性癖(誤用ではない)の矯正はもはや諦めたのでした。

 ようやく本作の話に戻りますが、まだイブン・ムカッファを主人公にすると決めてさえいなかった時点では、其の一で述べた理由で、固有名詞の表記や術語等を日本では馴染みのないものに変えること、また表記はなるべく簡潔なものにすること(例えば、よりアラビア語原音に近い「イブヌル・ムカッファ」ではなく「イブン・ムカッファ」にする等)、人名が多いと煩雑になるので、肩書だけで済ませられるならそうすること(「判官殿」等)程度のことしか考えていませんでした。新たにそう考えたというより、「ガーヤト・アルハキーム」の踏襲です。
 しかしイブン・ムカッファが主人公に決まった直後に、最後の場面が「下りてきて」しまい、彼が自分が持つ名前はどれも「本当の名前」じゃない、と感じ続けていたことを「知って」しまいました。父親が被支配層ゆえに無実の罪で拷問された結果の「イブン・ムカッファ(手萎えの息子)」という通名はもちろん、父親から与えられたペルシア(ファールス)人としての名も、改宗で与えられたアラブ名も、どれも「本当の名前」ではない。
 それはつまり、彼はアイデンティティが曖昧な人物であり、その自覚もあったことを示しています。そしてそれを埋め合わせるように、自らの知識と才能に絶大な自負を抱いていたことも。

 そういうわけでね、またしても「名前へのこだわり」が出てしまったのですが、「下りてきて」しまたったのだから仕方ない。しかもそれがイブン・ムカッファというキャラクターの根幹を形成する要素なのだから仕方ない。仕方なかったんですよ。

其の一其の十八

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十六

其の一其の十五
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。 

 さて、其の十四で述べたように、主人公をイブン・ムカッファに決めた直後に、プロットはほぼ固まりました。それから完成まで約2年も掛かった最大の理由は、一人称視点で書き始めてしまったからです。最初に「下りてきた」のが最後の場面だったのですが、滅多にないほど鮮烈で、文章の一部まで「下りてきた」んですね。で、それが一人称視点だった。
「下りてきた」からには、一人称にせざるを得ない。しかし私は、一人称で小説を書くのがものすごく苦手なのです。なぜなら其の十四で述べたように、私は私が存在しない世界を創造するために小説を書いている。私が存在しない世界を観察し、文章で綴るのが素晴らしい体験だから、小説を書いている。
 キャラクターの一人称視点でそれを行うのは、困難を極める。こちらとの距離が近すぎて、精神的な負荷が非常に高いのです。しかし
一人称視点でなければ表現できないことはある。本作の最後の場面が、まさにそうでした。

 一人称視点で書いた作品は、すでに『ラ・イストリア』と「はじまりと終わりの世界樹」(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収)があります。『ラ・イストリア』は少なくとも三つの視点が必要でしたが、それでも全篇三人称視点にしては表現できないことがあったので、アロンソの一人称による物語の表側のパート、クラウディオの一人称による物語の裏側のパート、そして三人称視点の「歴史叙述」のパートの三つに分けました。
 アロンソはまだ17歳なのに家族を支えなければならず、マチスモに即して行動することで己の内面から距離を取っている。で、クラウディオ、こいつはシンプルに異常者なので、最初からこちらとは距離が取れている。

「はじまりと終わりの世界樹」は、三人称パートが合間合間に挟まる上に、一人称パートも「誰か」に対する語りなので、距離は取れていました。語り手によって語られることがすべてで、彼自身の内面にまで踏み込む必要はなかったから。

 そして本作ですが、最後の場面は一人称視点で「下りてきた」ので、どうしても一人称視点で書かなければならない。しかしそこに至るまでの物語が、一人称視点だとどうしても視点の主であるイブン・ムカッファとの距離が取れない。
 最初の段階で、イブン・ムカッファが見た血文字の幻影が「物語の川々は大海に注ぐ」そのものであることが「みえて」いたので、つまり本作の一人称視点は現在進行形ではなく、後から書かれたものであることは判っていました。だから距離が取れるだろう、大丈夫だろうと思って書き始めたんですが。
 大丈夫じゃありませんでした。理由は不明ですが、どうしてもイブン・ムカッファと、彼に起こる事象と、延いては物語そのものと距離を取れなかった。なんとか文章を絞り出しても、違和感が耐え難い。本当に苦しかった。

 イブン・ムカッファの最期が「物語に呑み込まれる」だということは判っていたので、血文字の幻影が出現する(タイポグラフィ的に行書体で表現)のは物語に「今まさに追い付かれている」からだと解釈できたことで、ようやく出口が見出せました。
 流れ出る彼の血が物語を綴る。彼の血が「物語の川々は大海に注ぐ」という「カター・サリット(物語の川々)」の一本となっている。それは彼自身がその「物語の川」の水源に、ムンシー(アラビア語で「作者/創造者」)になったということである。
 だから最後の場面での彼は物語の「主人公」であると同時に「作者/執筆者」でもある。それまでの場面の彼は「主人公」だが「作者/執筆者」ではない。その区別のために視点の人称を変える。またダイアローグおよびモノローグでの彼の一人称が「わたし」だったのに、最後の場面だけ「私」になるのは、物語の登場人物とその書き手との書き分けです。現代日本語でも口語と文語の区別がもっと明確だったら、もっと明確に書き分けらたんですけどね。

 血文字が出現する直前の、『SFマガジン』でいうとp.318下段の最後の段落で、独白の一人称がここだけ「私」になっているのは、物語が背後まで迫ってきている、ということです。
 あと、血文字の出現までは現在進行形で彼の意識の流れを追っているかのように読めますが、実は未来の、別の観点に立つ者(イブン・ムカッファ自身ではあるけれど)が視点の主であることを示唆する描写はあります。具体的には、
すでに破滅は決定づけられていることに気づかず、判官殿との議論にのめり込んでいくイブン・ムカッファへの皮肉な視線です。あれは現在進行形の自嘲ではないんですね。まあ極力さりげない描写に留めているので、気づく人はいないと思いますが。

 この構成に至れるまでが、本当に長かった。自律神経がいかれてるせいでストレスが身体症状に直結して、それがさらに頭の働きと物理的な作業を阻害し、さらなるストレスになるという悪循環。加えて体力が低下したせいか、風邪と思しき発熱を伴う症状を何度も繰り返したし。幸いにしてコロナにこそ罹りませんでしたが、発熱外来はいつも激込みでまともな診療を受けられませんでしたしねえ。長時間待たされるのはまだしも対面診察すらしてもらえなくて、コロナ検査だけだったからなあ(ロキソニンは効かないどころか吐いたことがあると申告したら、「そういうことなら」と薬は一切処方してもらえなかった)。まあこちらも負担はかけたくなかったので、病院に行ったのは38℃を超えた時だけでしたが。だから本当に風邪だったのかも不明。
 あと三十数年ぶりに結膜炎に罹ってしまい、ウイルス性じゃないのに完治に1ヵ月も要し、2週間近く両目がまともに開けられなかったのが地味につらかった。

 執筆に時間が掛かった3番目の理由は、英語資料を読まなくちゃならなかったことですね。必要な日本語資料は粗方読みつくしていたんですが、執筆を始めてから英語文献が次から次へと見つかって……私が多言語齧ってるのは、まさに下手の横好きで、語学の才能は皆無なんですよ。英語はリーディングだけに限っても、大まかな内容を摑むだけならまだしも、資料にできるくらい理解するには時間が掛かる。
 と言っても、せいぜい数ヵ月分の遅れだから、やっぱり一人称視点によるストレスと不健康の悪循環でしたねえ。そこから抜け出せてからは4ヵ月掛からなかった。特に血文字出現後の最後の場面は、ムハッラブ家の歴史を簡潔にまとめるのに多少手間が掛かったものの、そこを除けば正味数時間だったからなあ。本当に楽しかった。

其の一其の十七

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十五

其の一其の十四
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。 紀年は特記がない限りはADです。

 今回は、「預言」の定義を解説します。
 まあそもそも、日本語の「預言」と「予言」を区別している人が、どれだけいるかっていう話ですけどね。この漢字による区別はたいへん解りやすくて、「預かる」と「予め」。「神から預かった言葉」と「(なんらかの超常の力によって)予知した事柄を告げる言葉」。
「予言」を与える超常の存在は、どんなものでもあり得ますが、「預言」を与えるのは一神教の神に限定されます。言い換えると、一神教の神とは預言を与える存在です。神託とか託宣とか呼ばれることもある、多神教の神々が与える「お告げ」は、事の真偽だったり失せ物探しだったり、それこそ予言だったりしますが、預言は信仰の在り方や終末思想など、もっと大きな事柄に関する、ある程度一貫性のある内容ですね。

 ヘブライ語では「預言者」は「ナビー」(または「ナヴィー」)で、原義は「(神に)呼ばれた者」という意味らしい。「召命された者」ってとこでしょうか。「預言」は「預言者」の派生語なんで、預言そのものより、それを与えられた人間のほうが重要というわけです。
 で、ヘブライ語聖書(いわゆる「旧約聖書」)がギリシア語訳された時、この「ナビー」に当てられたのが「プロフェーテース」です。「プロ」が「予め」で、「フェーテース」が「語る者」。直訳すれば「予言者」ですね。ここでも「予言(預言)」自体ではなく、それを語る者が主体とされている。
 ギリシア語「プロフェーテース」がラテン語を経たのが、英語prophet。prophetが語るのがprophecy。「預言」と「予言(神以外の力によるものも含む)」の両方の意味がある。

 イスラムにおいては、「預言者」は「ナビー」です。派生語の少なさからして、元々はヘブライ語からの借用語でしょう。「預言」は「ビシャーラト」ですが、多神教時代以来の「お告げ」「吉兆」を意味する語でもある。「お告げ」を意味する語はほかに「カハーナト」があって、これは「予言」の意味もある。カハーナトをするのが「カーヒン」で、占い師のことですが、多神教時代には巫子/シャーマンのことだった。
 多神教時代のアラビア半島には「超常の存在から与えられた言葉を語る者」が二種類いて、それが詩人とカーヒンでした。この時代には神々と妖霊(ジン)の区別が曖昧だったので、両者は「マジュヌーン(妖霊憑き)」とも呼ばれた。ムハンマドは「唯一神アッラーから与えられた言葉を語る者」として「ナビー」を名乗りましたが、多神教徒のアラブたちは彼を詩人やカーヒンと区別しませんでした。クルアーンではナビーを詩人やカーヒンと混同することと、アッラーを他の神々や妖霊と同列に扱うことへの怒りが、繰り返し語られています。

 なお私の古典ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、アラビア語の知識は初歩の初歩です。ヘブライ文字、ギリシア文字、アラビア文字は一応読めますが(「個々の文字の識別ができ、音読も一応できる」という意味)、めんどくさいのでカタカナ表記にしてます。御容赦ください。

 まあとにかく、イスラム成立後はムハンマドが「最後の預言者」であることは絶対なので、預言者を名乗るのはもちろん、「アッラーの言葉を与えられた」と主張する者は、自動的に偽預言者で大罪人ということになります。
 一方で民間信仰レベルでは、占いなどによる予知は盛んでした。胡散臭いものと見做されがちだったものの、おおむね許容されていました。
 だからイスラムにおいては「預言」と「予言」の区別は大事だったわけですが、実はほかならぬムハンマド自身が「夢は〇〇番目の預言である」と述べた、と伝えられています。「〇〇」に入る数字は43、46、70など諸説ありますが、イブン・ハルドゥーン(1332-1406)の『歴史序説』第1章(森本公誠・訳 岩波書店) によると、特に意味はないそうです。
イスラム世界最大の学者が言うんだから、そうなんでしょう。夢が神託だという信仰自体は世界的に珍しくなく、おそらく多神教時代の名残でしょうが、「預言」だとムハンマドが断言したことになっているので誰も否定できない。

 なお上のイブン・ハルドゥーンの記述の続きによれば、「70」はアラブにとって「多数」と同義だそうです。古代ユダヤ人にとっての「40」と同じことですかね(クルアーンで、そういう意味で「70」という数字は使われていないようですが)。イスラム世界最大の学者が言うんだから、そうなんだろう、と本作で採用しています。

 さて、prophecy(というか、その原型のラテン語)は「予言」が原義だったのが、キリスト教化によって「預言」の意味も持ちました。後者に限定すると、revelationの語が当てられることもあります。revelationの訳語には「預言」のほかに「啓示」が当てられます。
 revelationの原義は「覆いを外すこと」です。まずヘブライ語で「ヒトガルート」という言葉があって、これは「覆いを外すこと」というような意味で、唯一神が「(人間に)隠されていた知識を開示する」ことを指します。ギリシア語に直訳すれば「アポカルプシス」、そのラテン語の直訳を経てrevelationとなりました。
 日本語の「啓示」と「預言」の区別を敢えて定義するなら、「啓示」が上記の「(人間に)隠されていた知識を唯一神が開示すること」で、「預言」はその知識といったところですかね。本作では「啓示」と「預言」を厳密に区別する必要はなく、かつ煩雑さを避けるため、「啓示」という語は出していません。

「啓示」の訳語を当てられているアラビア語の単語は幾つかあります。ユダヤ・キリスト教と同じく「覆いを外すこと」のほかに、「運ぶ」や「下る」の派生語などがある。
 イスラムに比べればユダヤ・キリスト教には詳しくないんで、あまり突っ込んだ話はできませんが、この先行する二つの一神教では、啓示はしばしば言語としてではなく幻視(および夢)として視覚的に体験されます。
 一方、イスラムにおいては、啓示とは言葉すなわち預言です。クルアーンは神がムハンマドに下した言葉そのものですが、ユダヤ・キリスト教も神が先行の預言者たちに下した言葉そのものと定義されています。クルアーン第17章のタイトルにもなっている「夜の旅」は、神がムハンマドをメッカからエルサレムまで夜空を飛んで連れて行き、そこから天国に昇ったという「奇蹟」ですが、啓示という扱いはされてませんね。天国での見聞は重大な情報開示になると思うんですが、クルアーンでは一切触れていない。また「夜の旅」は幻視の類ではなく、実体験だとされています。
 上記の「夢は〇〇番目の預言」のような例はあるものの、アラブ文化は徹底的に言語優位であり(これについては後日、解説できたらします)、それもあって本作では啓示と預言をほぼ同義として、前者の語は除外した次第です。

 宗教的な体験として「幻視」と訳されるのは英語だとvision、意味は語源であるラテン語visio「見ること/視覚」「光景」「幻影」「観念」「見解」等とほぼ同じ。アラビア語「ルゥヤー」は「夢」「幻」という意味で、語根が同じ単語に「見ること/視覚」「見解」等がある。宗教的体験としての「幻視」の意味もあるけど、キリスト教の「黙示録」の訳語に当てられてるんで(「シフル・アルルゥヤー」で「幻視の書」)、これもイスラムには「幻視」の概念はあまり馴染みがない証左だと言えるかもしれない。

 で、イブン・ムカッファはマーニー教からの改宗者ですが、開祖マーニーは啓示を預言と幻視の両方のかたちで受け取っている。またマーニー教を通じて、ユダヤ・キリスト教の知識もあったはずです。彼は自らの「物語を視た」体験を、預言のかたちの啓示や詩人の「妖霊の囁き」よりは、幻視による啓示に近いと感じます。まさに「覆いを外された」感覚でしょう。同時に、預言のかたちでなかったことで、偽預言者だと曲解される可能性を見落としていたと思われます。
 本作のイブン・ムカッファは、無宗教でいるのが不可能な社会において、信仰する宗教を「教義が納得できるから好き/嫌い」で選ぶ人物です。霊感に突き動かされて行うものとされる詩作も、言葉のパズルという知的遊戯として行っている。ちなみに魔方陣は、この時代の中東の知識人が知ってそうだという理由で選びました。

 そんな彼が、追い詰められた精神状態で「物語を視た」なら、頭では合理的に解釈できても、何か特別な体験だと思ってしまうでしょう。いや、私自身がそういう時は、だいぶやばい高揚の仕方をするので。
 しかし当人にとってどれだけ特別な体験でも、他人、特にフィクションを侮蔑する人にとっては、世にも馬鹿げた妄言に過ぎません。「山犬と雄牛と獅子王の物語」にど嵌まりしたスフヤーンが延々と垂れ流す妄想に付き合わされ続けた判官殿は、その「作者」たるイブン・ムカッファに「山犬たちは勝手に動いたんであって、わたしが意図したものじゃない」とか言われて、めちゃめちゃムカついたでしょうね。

其の一其の十六

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十四

其の一其の十三
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。本作では中世イスラムの固有名詞や術語の多くを、独自の用語に置き換えています。以下、日本における一般的な表記に、本作独自の用語を()で付記するかたちで記述していきます。 紀年は特記がない限りはADです。

 其の八の記事で、主人公イブン・ムカッファの著書『カリーラとディムナ』(菊池俊子・訳 平凡社東洋文庫)を再読していて、彼が「最も残酷な方法」で処刑された、という伝承(最初に記録されたのは、彼の死から150年以上後)が、彼自身が創作した山犬ディムナの最期と同じだと気づき、次いで彼が少なくとも死後、山犬ディムナと同一視されていた(生前どうだったかは不明)ことにも気づいた、と述べました。
 で、その瞬間、「みえた」わけです、物語が。

 具体的には、断片的な場面や言語化されていない状態の大まかなプロットが忽然と頭に浮かび、それを視覚的な情報、文字どおりのイメージとして認識したわけです。
 ええ、まあ、はい。本作におけるイブン・ムカッファの3日目の体験と同じです。とはいえ彼が「物語の創造」を、「自ら創り上げるもの」ではなく、「外部から与えられるもの、下されるもの」と認識する展開にしたのは、アラブ(タージク)における詩人と妖霊の関係という伝統、さらにはイスラム(誠の教え)を含む啓示宗教における預言者と唯一神の関係という伝統との親和性の高さからです。
 もちろん、ほかの創作法より私自身の創作法のほうがよく知ってるわけだから反映しやすかったというのもありますが、だからと言ってイブン・ムカッファが私の自己投影(誤用)だとか思わないでくださいね。私は私が存在しない世界を創造するために小説を書いているんだから、私の小説の中に私がいるなんて気持ち悪くて想像もしたくない。
 あ、ほかの創作者の方々が自作のキャラに自己投影(誤用)すること自体は、別になんとも思いません。その人は私じゃないから。

 まあ私が存在しない世界云々はたわ言として読み流していただくとして、今回は本作のプロット構築の過程について説明しますね。其の八が主人公をイブン・ムカッファに決めるまでだったので、その続きです。
 本作における啓示・預言等の解釈については、後日解説できたらします。

 私の創作法で一番よくあるパターンは、まず書きたいテーマなりアイデアがあって、それに必要な情報を収集しつつ、そのテーマやワンアイデアに割く思考リソースを増やしていく。そうするとそのうち、物語そのものの情報が「下りてくる」。それは上述のように、断片的な場面だったり言語化されていない状態のプロットだったりします。あたかもその「物語」がすでに存在している、それも私の頭の中どころか、この世の外のどこかに、その物語の断片を受け取っている感覚です。

 いや、もちろん私自身が考え出しているってことは承知してますよ。日常的なちょっとした思い付き、あるいは本作の場合だったら、アラブ文学の伝統におけるフィクションの地位の低さを、現代日本の一部の人々のフィクション蔑視を拡大したようなものとして解釈できる、という思い付き。そういった、ちょっと「閃いた」程度の脳活動の拡張版だってことは承知しています。ただ、その時の感覚があまりにも強烈なので、自分の脳がやっていることだという自覚が持てないだけです。
 断片的な場面は映像として「みえる」し、言語化されていない状態のプロットも視覚的な感覚を伴います。当然ながら視神経は介していませんが、視覚中枢のどこかは活動しているかもしれない。
 あ、本作ではそういう視覚的な感覚を、一般的な「見る」行為と区別するために「視る」と表現しましたが、私自身の創作過程の説明として「視る」を使うのは恥ずかしいんで、「みる」にしときます。

 そうした非言語的で断片的な情報を解釈し、言語化していく作業が、プロット構築および執筆になります。最初期の段階では、プロットが「みえた」と言っても、相当に大雑把で不完全なものでしかありませんから。たいていは「みえた」情報に対し、「これはどういう状況なんだろう」「登場する彼らは何者なんだろう」と解析していくことになります。そうすると、さらに新しい情報が「下りてくる」。それらを解釈し、言語化する。その繰り返しです。
 場面として「みえる」情報は当然、映像であり、多くの場合は音付きですが、視覚的な感覚よりはだいぶ曖昧です。登場するキャラクターの台詞は、おおよその内容しか判らないこともあれば、しっかり「きこえる」こともある。後者なら、そのまま書き留めるまでです。作業が進行していくと、文章が考えるまでもなく「下りてくる」こともあります。

 本作の場合は、イブン・ムカッファの最期が彼と山犬ディムナの同一視から作られた伝説だと気づいた時点で「みえた」プロットは、彼の最期の数日間で判官と交わされる「作り話」を巡る問答、というほぼ完成したものでした。一度にここまで「みえる」のは珍しい。記録がそれなりに残っている実在の人物だからでしょうね。
 同時に「みえた」場面は、まあだいたいは地下の独房内か審問の場のスチールという感じでしたが、最も鮮明かつ映像として「みえた」のは、『SFマガジン』p.326上段後半以降に当たる部分でした。独房と思しき場所にに血塗れで倒れ伏すイブン・ムカッファ、彼の眼前に流れる血文字の幻影、背後で開いた扉から溢れ出す眩い光とそれを背にして立つ長身の女。彼女が呼ぶ、彼の「本当の名前」。指一本動かせないはずなのに、彼は身を起こして振り返る……

 次いで、「この場面はどういうことなんだろう」と考えると、すぐに答えがわかりました。
 血塗れで倒れていたのは拷問を受けたからで、それはスフヤーンがイブン・ムカッファを叛逆者に仕立てようとしたのではなく、山犬ディムナと同一視していたからである。スフヤーンは自身を高潔な雄牛と同一視しているため、これまでイブン・ムカッファを闇討ちするような真似はしてこなかった。またカリフ(ハリーファ)のマンスールを、優柔不断で御しやすい獅子王と同一視して舐めている。
 流れ出る血文字の幻影が綴るのは、イブン・ムカッファ自身の物語であり、本作そのものである。流れて行く血の物語は物語の川(カター・サリット)であり、大海(サーガラ)に注ぐ。大海の名は「大いなる物語(ブリハット・カター)」であり、彼の背後に立つ女人の背後に広がる光の海がそれである。
 彼女が彼の「本当の名前」を呼んだということはすなわち、イブン・ムカッファは「自分は本当の名前で呼ばれていない」と認識しているからである。
 彼女は川と物語の女神サラスヴァティであり、したがってハラフワティ/アナーヒター(ナーヒード)/シャフルバーヌーであり、「物語の川々」そのものであり、シェヘラザード(シャフラーザード)ですらある。

 ……といった情報が、あらかじめ私の脳の外、この世の外に存在していたかのように「下りてきた」ので、そうなりました。
 だから史実では、インド(シンド)の大説話集『ブリハット・カター』が編纂されたのが『カリーラとディムナ』の原典『パンチャタントラ』より後なのは確実で、『カター・サリット・サーガラ』が『カリーラとディムナ』より3世紀半も後の11世紀初頭であっても、この世のすべての物語は「物語の川々(カター・サリット)」であり、「大いなる物語(ブリハット・カター)」という名の大海(サーガラ)に注ぎ込むのです。
 同様に、史実では女神アナーヒターとシェヘラザードがまったくの無関係であっても(其の十参照)、この物語においては彼女たちは同一の存在なのです。
 何しろ、そう「みえて」しまったので。

 其の十で述べましたが、かつて「シェヘラザードは物語の語り手に過ぎず、妹のドニヤザードこそが物語の創造を担う」というアイデアを抱えていたのですが、シェヘラザードとドニヤザードの名前が対ではないと判明して没になったという経緯があります。その後、シェヘラザードとドニヤザード姉妹の物語とは無関係な物語として、本作の構想を始めました。
 ところが、シェヘラザードが「物語の川々」そのものであり、したがってサラスヴァティ/アナーヒター/シャフルバーヌーでもあることが「みえて」しまったので、彼女はめでたく本作に組み込まれることになりました。一方で、「物語の創造」の象徴としてのドニヤザードというキャラクターは、本作に組み込む余地はまったくありませんでした。主人公イブン・ムカッファが物語の創造を、「外部からもたらされたもの」と認識したからです。
 もちろん彼は合理的かつ内省のできる人間なので、実際に創造しているのは自分であることは理解しています。同時に、その過程を認識できないので「外部からもたらされたもの」という感覚を消すことはできない、ということも理解しているのです。本作のイブン・ムカッファは、そういうキャラクターです。

其の一其の十五

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十三

其の一其の十二
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。今回もシンクレティズムについて解説します。紀年は特記がない限りはADです。

 其の十ではインドの川の女神サラスヴァティに言及しましたが、インドの上位ヴァルナ(身分)の祖先であるとされるインド・アーリア人はイラン人の祖先であるイラン・アーリア人と起源を同じくします。というか「イラン」は本来、「アーリア」と同じ意味です。原アーリア人の起源は中央アジアだとされています。
 だからペルシア語とインド・アーリア諸語も、元は同じ言葉でした。本作主人公イブン・ムカッファが翻訳・改作した『カリーラとディムナ』の原典は『パンチャタントラ』で、「パンチャ」はサンスクリット語の「5」ですが、現代ペルシア語の「5」は「パンジュ」です。数詞のほか、「父」「母」、「手」「足」といった基本的な語彙は、だいぶ似ています。まあこの辺の語彙は、印欧語でだいたい共通してるんですが。

 そういうわけで、ペルシアの川の女神アナーヒターの別名「ハラフワティ」(というか、アナーヒターのほうが別名)がインドの川の女神「サラスヴァティ」と似ているのは、偶然じゃなくて元は同じ女神だからですね。
 サラスヴァティ/ハラフワティは「水を持つ者」という意味です。川/水を司るということは、豊穣の女神でもあるということになります。

 中央アジアの牧畜民だった「原アーリア人」が騎馬を採用し、インド亜大陸へ進出した集団、イラン高原へ進出した集団、中央アジアに残った集団に分かれたのは紀元前1500年頃だそうです。ハラフワティ/アナーヒターの権能に学問・芸術が含まれないのは、原アーリア人は学問・芸術の守護神を必要としなかったということですね。まあ、イラン高原進出後のアーリア人(ペルシア人)も、学問・芸術に関してはあんまり……

 イラン・アーリア人のうち西部イラン(ペルシア)の住民は、隣接するメソポタミアの女神イシュタルを崇拝するようになりました。イシュタルは金星の女神であり、戦争・愛欲・豊穣の女神でもあります。
 西部イラン人は、イシュタルを「アナヒティシュ」と呼びました。これは彼らが金星を呼ぶ名前ですが、「無垢なる者」という意味で、ハラフワティの別名の一つ「アナーヒター」の変化形でもあります。そのため、イシュタルとアナーヒターが同一視(習合)され、アナーヒター/ハラフワティは金星と戦争をも司るようになりました。名前が「アナーヒター(無垢なる者)」なので、「愛欲」要素は排除されましたが、元から豊穣神だったので結婚・出産も権能に加わりました。

 ギリシャ人はしばしば異民族の神々を、似た権能を持つ自分たちの神々の名で呼びました。ヘロドトスは前5世紀半ば、「ペルシア人はアプロディテ・アナイティス(アナヒティシュ)の信仰を早くから学んだ」と記しています。愛と金星の女神アプロディテは、ここではイシュタルのことです。ヘロドトスは知る由もありませんが、アプロディテは本来、イシュタルと起源を同じくする、東方(中東)の女神でした。
 アナーヒター信仰はハカーマニシュ(アケメネス)朝ペルシア帝国で勢力を増し、前4世紀以降は帝室からも崇拝されるようになります。

 ヘレニズム時代(セレウコス朝シリア)およびアルシャク朝(アルサケス朝/パルティア)の宗教は、本作とは関係ないんで飛ばします。サーサーン朝期(224-651年)のアナーヒター信仰については、本作で言及しているとおりです。
「アナーヒター」という名は、「アナーヒード」→「ナーヒード」と変化して現在に至ります。元々、ペルシアの文字記録が多いとは言えない上に、7世紀半ばにアラブ・イスラムに征服されてからの約200年は、さらに減りますが、この期間に「アナーヒード」から「ナーヒード」へ変化したと思われます。
 同じ時代でも地域差があるし、イブン・ムカッファが「アナーヒード」と「ナーヒード」、どちらで認識していたかは判りません。本作で後者を選んだのは、前者は「アナーヒター」に近すぎるからですね。「アナーヒター」くらいは知っている読者は少なくないでしょう。あと個人的には、「ナーヒード」のほうが可愛いと思います。

 クルアーンからは、7世紀前半当時のアラビア半島の宗教について窺い知ることができます。木石でできた偶像が崇拝される一方、妖霊(ジン)がアッラーと呼ばれる神と同列に拝まれていたり、天使が「アッラー(神)の娘たち」と呼ばれていた、とあります。同じくクルアーンには、アラブの三女神ウッザー、アラート、マナートが「アッラー(神)の娘たち」と呼ばれていた、という記述もあります。
 こうした記述から判るのは、妖霊と神々の区別は曖昧で、「天使」(および「悪魔」)というユダヤ・キリスト教由来の語は偶像崇拝者・多神教徒にも知られてはいたものの、妖霊・神々との区別は曖昧だったということです。

 本作の作中作「双天使とファールスの乙女の物語」は、イスラムの伝説に基づいています。この伝説については時代順に解説すると、まずクルアーン第2章では、「悪魔はその技をハールートとマールートの二天使から授けられた」という主旨のことが述べられています。
「ハールートとマールート」についての説明は一切ないので、当時のアラブにとっての一般常識だったと思われます。ハールートとマールートの伝承を最初に記録したのは歴史家タバリー(838-923年)ですが、その起源は現在でも不明とされています。
「堕天使」という概念は、『創世記』の「神の息子たち(おそらく多神教時代の名残だが、後に天使と同一視された)の一部が、人間の娘たちの美しさに目が眩んで地上に降りて子をもうけた」と「地上に悪がはびこったので、神は大洪水を起こした」という、本来は別々の事件が結び付けられたことから生まれたものです。
 上記のタバリーが記したハールートとマールートの伝説の、「ハールートとマールートが地上に降りて、人間の娘の美しさに目が眩んで堕落した」という筋書きは、文字で記録されることのなかったユダヤ教の民間信仰だったのでしょう。

 堕落のきっかけとなった美女について、タバリーは幾つかのヴァージョン違いの伝承を記録していますが、それらは明らかにペルシア系ムスリムによる創作です。タバリーがそれらを知っていたのは、彼自身もペルシア系だからです。
 彼女は
バイズフト(ペルシア語「神の娘」バイドフトの転訛)あるいはアナーヒーズ(アナーヒターの転訛)という名を持ち、ペルシア系の王女だったとも伝えられています。彼女の所業が、双天使に肉欲と葡萄酒を教えて堕落させた、で終わっているヴァージョンなら、「異教の神を悪魔や邪神に貶めるお馴染みのあれ」なんですが、その後を伝えるヴァージョンもあって、それによると彼女は双天使から「神の隠された名」を聞き出してその力で天に昇り、金星となった。

 彼女に置いて行かれた双天使は、がっつり神罰を受けているのに、金星となった彼女はそのままで、しかもイスラム世界では金星に負のイメージは付いていない。ヴァージョンによっては、双天使は勝手に彼女に夢中になって神の名を教えただけで、彼女から彼らへの働きかけは特になかったりもします。
 イスラム世界では西方キリスト教世界と違って、「悪魔学」に相当するものが発達しなかったので、悪魔や堕天使の位置づけは曖昧です。だから双天使の堕落のきっかけとなった美女の位置づけも曖昧なままだと思われますが、同時に自分たちが捨てた女神をなかなか悪と断じ切れないペルシア系ムスリムの屈折した心性も窺えますね。

  タバリーは838年にペルシアで生まれ、青年時代にバグダードへ移住しました。だから彼の幼少期にはすでにハールートとマールートを堕落させた美女をアナーヒターと結び付ける伝承が定着していたと考えられます。
 捏造もしくは誤解によって新たに生まれた「伝承」が広まり、「連綿と言い伝えられてきた史実」として人々の記憶を塗り替えて定着するには数十年あれば充分なので、9世紀初頭そこらに生み出されたばかりの「伝承」だったかもしれません。とはいえ
イブン・ムカッファの時代(8世紀半ば)でもペルシアが征服されてから100年余り経っているので、すでにこの伝承が生まれていて、かつペルシア人であるイブヌル・ムカッファが知っていた可能性はあります。

 ちなみに本作で言及しているとおり、アナーヒターはサーサーン朝の国家および帝室の守護女神として「シャフルバーヌー(国=ペルシアの貴婦人)」とも呼ばれましたが、「バーヌー(貴婦人)」だけでもアナーヒターを指すようになりました。似たような例に、聖母マリアの呼称「マドンナ(我が貴婦人)」「ノートルダム(我らが貴婦人)」がありますね。
 本作で「乙女」の訳語を当てた「ドフタル」も、アナーヒターの呼称の一つです。ペルシア語「ドフタル」は英語daughterと語源を同じくし、「(続柄としての)娘」と「未婚の若い女性/処女」の両方の意味を持つのも同じです。the virginといったら聖母を指すのと一緒です。
 ペルシア語で「(続柄としての)娘」だけだと「ドフト」になります。ハールートとマールートの神話にアナーヒターの別名として挙げられる「バイドフト(神の娘)」ですが、この場合の「神」といったら最高神アフラマズダしか考えられない。しかし現存するゾロアスター教文献はアフラマズダ以外の神の格を落とす一神教化を被っているので、神同士の縁戚関係が明らかでない。考古資料も含めて、アナーヒターはアフラマズダの娘だと解釈できんこともない、という程度です。
 しかしインド神話でアナーヒターに当たるサラスヴァティが創造神ブラフマーの娘だったりするので、ゾロアスター教の地方ヴァージョンの中には、アナーヒターをアフラマズダ(あるいは別系統の最高神ズルワーン)の娘とする神話があったかもしれません。

 なお神話学者のジョルジュ・デュメジルによれば、双天使としてのハールートとマールートの起源はゾロアスター教の二柱一組の女神ハルワタートとアムルタートに求められるそうですが、本作では物語の展開に関わってこないので、この説は取り上げていません。

 最後に、前イスラム期(7世紀初頭以前)のアラブの宗教について解説します。アラビア半島の文化は南北に大別でき、かなり相違があったようですが、宗教に関しては外来のユダヤ・キリスト教を除けば多神教で、しかも神話体系があまり発達しなかったのは共通しています。
 ヘレニズム・ローマ文化の影響が及ぶと、神々の一部はギリシア・ローマの神々と習合されました。たとえば上記の三女神「神の娘たち」はアッラート(「女神」の意。権能は不明)はアテネ、マナート(マナン「死/運命」を司る)はネメシス、ウッザー(金星を司り、名は「力強き者」)はアプロディテでした。異民族出身の彫刻家たちが造るギリシア・ローマ風の神像が持て囃されましたが、神話体系の発展には寄与しなかったようです。

 聖母マリアが各地の地母神と習合したのはよく知られていますが、アラビア半島でもキリスト教は広まったにもかかわらず、地母神あるいは豊穣の女神がそもそもいませんでした(いたとしても、記録に残るほど信仰を集めていなかった)。
 地母神以外の神々も、キリスト教と習合されました。御当地聖者のほとんどは古い神々由来だし、各地のキリスト教聖地のほとんどは古い神々のかつての聖地です。征服者が土着の信仰を根絶やしにする目的で、破壊した神殿等の跡地に教会を建てるケースも少なくありませんでしたが、結果的にその地(聖地)への信仰は保たれました。
 イスラム化した地域でも、まったく同じことが起きました。土着の神々がイスラムの預言者(一部はユダヤ教の預言者と共通)や預言者ムハンマドの子孫や、キリスト教の聖人に当たる存在(日本語では「聖者」と訳します)と習合されたのです。
 ただしアラビア半島とその周辺で、前イスラム期のアラブの多神教との繋がりを具体的に示す事物は、ほぼ残っていません。偶像を多数安置する文字どおりの万神殿だったカアバ神殿と、
偶像崇拝の一種である聖石崇拝の対象だった黒石くらいですかね。神殿はイブラヒーム(アブラハム)と結び付けられ、黒石は崇拝対象ではないということになっていますが。後は妖霊と聖者信仰がありますが、後者は前イスラム期の原型がどんなものだったかの研究はあまりされてない。

 そういうわけで、本作でアナーヒターを古代アラブの女神ウッザーと結び付けるのは、本作の中だけの話です。ゾロアスター教とキリスト教の直接の相互作用も少ないんで、聖母がアナーヒターと習合することもありませんでした。其の十で述べたように、シャフラーザード(シェヘラザード)の本来の名前は「チェフラーザード」なので、アナーヒターの別名シャフルバーヌーとはなんの関係もない。
 しかし習合というものは、自然発生的に起こる場合もあれば、個人や小集団が意図をもって行う場合もあり、後者の顕著な例がマーニー教です。元マーニー教徒で博識なイブン・ムカッファが、こういうことを思い付いてもなんの不思議もない。シンクレティズムなんて、やっちゃった者勝ちですよ。

其の一其の十四

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