「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十七
全体的にネタバレ注意。 今回は余談だけです。
本作構想の最初期の段階で、「彼女」がイブン・ムカッファの「本当の名前」を呼ぶのが「みえた」と、其の十四で述べました。それで彼が、自分は「本当の名前」で呼ばれていないと感じている、ということが「わかり」、彼のキャラクター造型の基盤となったのでした。
こうしたインスピレーションが、いかにそこに至る過程を認識できない突然の閃きであろうと、いかに「外部から来た」感覚が強烈であろうと、自分の頭から出たものであることは、もちろん承知していますよ。上記の例は判りやすくて、幼少期にまで遡る「名前への強いこだわり」由来です。
と言っても「名前(人名に限らず「呼び名」全般)へのこだわり」を自覚したのは、成人から結構後でしたが。子供の頃は知っている人名を好き嫌いや可愛い、きれい、かっこいい等で分類するのが好きな程度で(リスト作ったりしてた)、こだわりがあるというほどではありませんでした。まあユニセックスな名前への憧れは、就学前からすでにありましたが。なんか、かっこよく感じたんですよ。
確か中学入学後ですが、実は私が男だったら父は「歩(あゆみ)」と名付けるつもりだったと知りました。しかしその頃には変わった名前のせいですでに散々苦労してきていたので、一応ユニセックスとはいえ女寄りの名前を付けられたらどんな目に遭ったか判ったもんじゃない、男じゃなくてよかった、と思ったものです。
今から半世紀も前の私の故郷では、子供、特に女子は諏訪大社で名前を付けてもらう風習が残っていて、一方の父は余所者の上に文学青年上がりでした。単に読書家というだけでなく、小説を書いたりしてた(未完のものを机の引き出しから発見したことがある。たぶん一作も完成させていない)。その父の第一子だった私が実際に付けられた名前は「歩」同様、キラキラしているとまでは言えないにしろ、とにかく悪目立ちしたのでした。
結局、名前で苦労したことが、名前へのこだわりに繋がってるんじゃないかと思うんですが、それが西洋人名への興味というかたちで現れてきたのは小学3、4年生頃からです。それ以前から日本人作家よりは翻訳ものを読むことが多かったので。ハイジが正式にはアーデルハイドだとか、ベスがエリザベスだとか、ジョーがジョゼフィーンだとか、あるいはマリアが英国ではメアリーでフランスではマリーになるとか。これもリスト作ったなあ。
ウィリアムがウィル、ウィリー、ビル、ビリーになるのもおもしろいけど、ヴィルヘルム(独)、ウィレム(蘭)、グリエルモ(伊)、ギジェルモ(西)と変化するのはもっとおもしろい。ギヨーム(仏)とかミラクルですよ。
まあ長年、興味を持ってきたとはいえ、東洋史を選考したこともあって本腰入れて勉強したことはなく、『グアルディア』の構想を始めた時点(2002年)での知識は、せいぜい『人名の世界地図』(文春新書)レベルでした。だから「こだわりがある」という自覚もなかった。
しかしそんな程度でも、異世界、異星、あるいは現在の文化が完全に失われた遠未来等々、実在しない文化を有する世界を舞台とする物語で、人名をはじめとする名前が「言語」を無視したものだと、めちゃめちゃ気になって気が散る。
現実のこの世界と歴史も言語も文化もまったく異なる世界で、固有名詞が現実にあるものと変わらないのは気になる! めっちゃ気になる! 気が散る!!
たとえば「ジョン」って名前のキャラがいたとして、ジョンはヘブライ語で「神(しかも唯一神)は恵み深し」と意味の「ヨハーナーン」が語源。それが遙か彼方の英国で「ジョン」として定着するまでには長く複雑な歴史がある! 異世界の「ジョン」の背後にも、同様の歴史があるのか!? ああっ、気になる! 気が散る!!
まあなんか物語の表には出てこない、なんか複雑な歴史の結果として「ジョン」がいるということにして、特にルーツが違うわけでもなさそうな「ジョン」と「イワン」と「ヨハン」とが雑居してるのはなんで!?
……とまあ、そんな感じで、現実の世界とは一切繋がりのない世界を舞台なら、現実の固有名詞とは無関係かつ、なんか統一感のあるのがいいなあ。
人名なら性別・民族・身分等で法則性があるとか、「なんとなくの統一感」程度でいいんですけどね。トールキン・レベルは求めていない。そこに注力しすぎて、作品そのものがおもしろくなければ本末転倒だし(トールキンがおもしろくないと言ってるんじゃないですよ)。気にならない人は全然気にならないんだろうなあ。羨ましいと言えば羨ましい。
あるいはせめて、ある地域は英国風文化、ある地域はドイツ風文化、ある地域は……としてくれれば、少なくとも統一感は保たれる。
『グアルディア』はポストアポカリプスだけど旧時代の文化は残存している、という設定は最初から決まっていたので、この「人名への興味」をありったけぶち込もうと思いました。
どれもギリシア語「アンゲロス」(御使い)からの派生なのに、「エインジェル」と「アンヘル」と「アンジュ」では受けるイメージが違う。そういうことを私はおもしろいと思う。そのおもしろさを物語にぶち込みたい。
それをやるなら、現状の雑学程度の知識じゃ駄目だ。それぞれの言語も勉強しなきゃ。というわけで、ほかの下調べと並行して、まずスペイン語の勉強を始め、一通り終わったらピアソラのタンゴの歌詞(『ブエノスアイレスのマリア』など)の翻訳を始め、並行してイタリア語の勉強を始め、一通り終わったら『椿姫』の歌詞の翻訳を始め、その頃には手持ちのピアソラの歌は翻訳し終えていたので、フランス語の勉強を始めました。
『グアルディア』執筆に2002年夏から03年夏まで丸1年かかって、スペイン語の勉強を始めたのが執筆開始の1ヵ月くらい前で、脱稿の3ヵ月前くらいにはフランス語学習をとりあえず中断したので、1年足らずだ。こうやって振り返ってみると、だいぶ無茶苦茶なことやっとんな。あの頃は「楽し~」としか思ってなかったけど。
そして気が付いたら、『グアルディア』は名前(人名に限らず固有名詞や呼び名全般)にこだわりを持つキャラクターばかりになっていました。それどころか、彼らの名前へのこだわりがプロットを駆動する力の一部になってた。まったく意図していなかったことです。
そしてこれもまた気が付いたら、私自身の西洋人名への関心は多国語への関心に変わっていました。まあ当然と言えば当然かもしれない。
興味の起点が起源を同じくする名前の多言語間の相違だったので、興味の対象はあくまでも関連のある複数の言語で、孤立言語や人工言語などにはあまり興味を持てない。そもそも言語の才能がまったくありませんしね。本当に下手の横好き。
名前そのものへのこだわりは、さらに強くなり、その後の作品ではすべて(ノベライズを除いて)、多かれ少なかれ見出すことができます。どれも意図したものではありません。気が付くとそうなっている。
二作目の『ラ・イストリア』は、意志を持たない生態端末の少女を、魂のない機械として愛するクラウディオと、一人の人間として愛するフアニートとの対立が物語の軸となっています。で、彼女は周囲から、単に呼び名がないと不便なので、人名というよりは記号として「ブランカ」(スペイン語で「白」。髪も肌も白いので)と呼ばれているのですが、なんか気が付いたら、愛を籠めてその名を呼ぶフアニートと、絶対に名前を呼ばないクラウディオという対比が生じてしまっていた。
ここでようやく、私は名前に並々ならぬこだわりがあるんだ、と自覚したのでした。『グアルディア』の時はまだ、子供の頃からの「同じ名前の多言語間での変化への興味」からの派生、程度だと思ってたんですが。
『山尾悠子作品集成』を読んだのは『グアルディア』を書き始める数ヵ月前でしたが、その解説で、山尾氏は登場人物に名前を付けるのが苦手で、だからたとえば「ゴーレム」のようにアルファベット一文字だけのほうが書きやすい、という主旨の発言をしていると知りました(だいぶうろ覚えですが)。当時はまだ小説は習作が何本かと、それより以前に漫画やシナリオを書いたことがあるだけでしたが、名付けは楽しい作業の一つではあったけど、作品によっては特に意識することもなくキャラの全員に名前がなかったりもしたので、山尾氏の発言に特に思うところはなかったのでした。その時は。
しかし『グアルディア』では、「名前へのこだわり」が物語の駆動力の一つにまでなってしまい、『ラ・イストリア』でも程度の差こそあれ、そうなりそうだと気が付いた時、なんか、少し恥ずかしくなっちゃったんですよね。
別に「名前へのこだわり」自体は恥ずかしくありませんが、毎回それを入れるのは芸がない。なのに気が付くと、どこかしらに「名前へのこだわり」が出ている。無意識にやってしまっているのが恥ずかしい。
で、遅ればせながら山尾氏の名付けへのこだわりのなさが、かっこいいなあ、と。
今、書いていて気が付いたんですが、『グアルディア』のJDがアルファベット二文字なのは、ジョーンン・D・ヴィンジ『雪の女王』のサブキャラで、後に『世界の果て』で主人公を務めたグンダリヌのファーストネームがアルファベット二文字なのが(明言はされていないが、そういう文化圏の出身らしい)、なんかかっこよくて好きだったので倣ったんですが、すでに山尾氏からの影響もあったかもしれない。
アルファベット二文字といえば、「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」(表題作)の主人公ケイシー、スペリングはCaseyですが、この名前は一種のニックネームとして「KC」と書かれることもあります。彼は「無名の大衆の一人」というキャラクターなので、名前も「記号」なのでした。
そういうわけで『ラ・イストリア』では、ブランカ以外のキャラの名付けは、意識してこだわらないようにしました。スペイン語人名から、なんか響きがよくて表記がややこしくないものを適当に。終盤に登場するカロリーヌは『グアルディア』のカルラの先祖だから(それぞれ男性名「カール」から派生した女性名のフランス語形とスペイン語形。コミュニティの中で代々受け継がれたという設定)、まあ例外。
……と思ったら、なんかクラウディオは恩人のマリベルを母性の象徴的存在と見做して、彼女の正式名称である「マリア・イサベル」(「マリア」は言うまでもなく、「イサベル」も洗礼者ヨハネの母エリザベトに由来)に勝手に意味を見出すし、フアニートも偶々「天使(アンヘル)」の名を持つ島の近くを通りかかったら、「ブランカの名前はアンヘルのほうが似合ってる」とか言い出すし……まあどちらも「名前にこだわりのあるキャラ」ではあるからなあ。
『ミカイールの階梯』では開き直って「名前へのこだわり」を抑制しませんでしたが、幸い作中での「名前へのこだわり」が物語を駆動力するまでには至りませんでした。
しかし『ラ・イストリア』『ミカイールの階梯』と書いて気が付いたのは、私は少なくとも長篇を書くときは早めにキャラの名前を決めておかないと、そのキャラを展開させられない、ということでした。名前が解らないと、どんな内面を持ち、どんな行動をするのか解らない。それがメインキャラなら当然、プロットも展開できない。中・短篇ならプロットを大きく展開させる必要がないので、キャラの名前がなくても困らないんですけどね。
だからキャラクターの名前を決めずに(アルファベット等の記号だけで充分)物語を書く山尾氏は、本当に根本的な部分で私とは懸け離れているんだなあ、と。いや、懸け離れているということは最初から解っていますが、こういうところにまで表れるものなのだなあ、と。
そしてますます、山尾氏の「名前へのこだわりの無さ」がかっこよく思えるようになったわけです。
『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』は中篇4本+エピローグから成ります。中篇なので固有名詞の名前を持たない、「牧師」「少女」といった呼び名だけのキャラクターを動かしやすいこともあって、徹底してキャラクターの名前にこだわらないようにしました。まあJDの記号(キャラクター)名では結構遊びましたが、これは例外。
その結果、気づいたのは、「名前にこだわらないようにする」ということは結局、「名前にこだわっている」のと同じ、ということでした。元々こだわっていないのとは違う。
というわけで、この性癖(誤用ではない)の矯正はもはや諦めたのでした。
ようやく本作の話に戻りますが、まだイブン・ムカッファを主人公にすると決めてさえいなかった時点では、其の一で述べた理由で、固有名詞の表記や術語等を日本では馴染みのないものに変えること、また表記はなるべく簡潔なものにすること(例えば、よりアラビア語原音に近い「イブヌル・ムカッファ」ではなく「イブン・ムカッファ」にする等)、人名が多いと煩雑になるので、肩書だけで済ませられるならそうすること(「判官殿」等)程度のことしか考えていませんでした。新たにそう考えたというより、「ガーヤト・アルハキーム」の踏襲です。
しかしイブン・ムカッファが主人公に決まった直後に、最後の場面が「下りてきて」しまい、彼が自分が持つ名前はどれも「本当の名前」じゃない、と感じ続けていたことを「知って」しまいました。父親が被支配層ゆえに無実の罪で拷問された結果の「イブン・ムカッファ(手萎えの息子)」という通名はもちろん、父親から与えられたペルシア(ファールス)人としての名も、改宗で与えられたアラブ名も、どれも「本当の名前」ではない。
それはつまり、彼はアイデンティティが曖昧な人物であり、その自覚もあったことを示しています。そしてそれを埋め合わせるように、自らの知識と才能に絶大な自負を抱いていたことも。
そういうわけでね、またしても「名前へのこだわり」が出てしまったのですが、「下りてきて」しまたったのだから仕方ない。しかもそれがイブン・ムカッファというキャラクターの根幹を形成する要素なのだから仕方ない。仕方なかったんですよ。
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