「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十六
全体的にネタバレ注意。
さて、其の十四で述べたように、主人公をイブン・ムカッファに決めた直後に、プロットはほぼ固まりました。それから完成まで約2年も掛かった最大の理由は、一人称視点で書き始めてしまったからです。最初に「下りてきた」のが最後の場面だったのですが、滅多にないほど鮮烈で、文章の一部まで「下りてきた」んですね。で、それが一人称視点だった。
「下りてきた」からには、一人称にせざるを得ない。しかし私は、一人称で小説を書くのがものすごく苦手なのです。なぜなら其の十四で述べたように、私は私が存在しない世界を創造するために小説を書いている。私が存在しない世界を観察し、文章で綴るのが素晴らしい体験だから、小説を書いている。
キャラクターの一人称視点でそれを行うのは、困難を極める。こちらとの距離が近すぎて、精神的な負荷が非常に高いのです。しかし一人称視点でなければ表現できないことはある。本作の最後の場面が、まさにそうでした。
一人称視点で書いた作品は、すでに『ラ・イストリア』と「はじまりと終わりの世界樹」(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収)があります。『ラ・イストリア』は少なくとも三つの視点が必要でしたが、それでも全篇三人称視点にしては表現できないことがあったので、アロンソの一人称による物語の表側のパート、クラウディオの一人称による物語の裏側のパート、そして三人称視点の「歴史叙述」のパートの三つに分けました。
アロンソはまだ17歳なのに家族を支えなければならず、マチスモに即して行動することで己の内面から距離を取っている。で、クラウディオ、こいつはシンプルに異常者なので、最初からこちらとは距離が取れている。
「はじまりと終わりの世界樹」は、三人称パートが合間合間に挟まる上に、一人称パートも「誰か」に対する語りなので、距離は取れていました。語り手によって語られることがすべてで、彼自身の内面にまで踏み込む必要はなかったから。
そして本作ですが、最後の場面は一人称視点で「下りてきた」ので、どうしても一人称視点で書かなければならない。しかしそこに至るまでの物語が、一人称視点だとどうしても視点の主であるイブン・ムカッファとの距離が取れない。
最初の段階で、イブン・ムカッファが見た血文字の幻影が「物語の川々は大海に注ぐ」そのものであることが「みえて」いたので、つまり本作の一人称視点は現在進行形ではなく、後から書かれたものであることは判っていました。だから距離が取れるだろう、大丈夫だろうと思って書き始めたんですが。
大丈夫じゃありませんでした。理由は不明ですが、どうしてもイブン・ムカッファと、彼に起こる事象と、延いては物語そのものと距離を取れなかった。なんとか文章を絞り出しても、違和感が耐え難い。本当に苦しかった。
イブン・ムカッファの最期が「物語に呑み込まれる」だということは判っていたので、血文字の幻影が出現する(タイポグラフィ的に行書体で表現)のは物語に「今まさに追い付かれている」からだと解釈できたことで、ようやく出口が見出せました。
流れ出る彼の血が物語を綴る。彼の血が「物語の川々は大海に注ぐ」という「カター・サリット(物語の川々)」の一本となっている。それは彼自身がその「物語の川」の水源に、ムンシー(アラビア語で「作者/創造者」)になったということである。
だから最後の場面での彼は物語の「主人公」であると同時に「作者/執筆者」でもある。それまでの場面の彼は「主人公」だが「作者/執筆者」ではない。その区別のために視点の人称を変える。またダイアローグおよびモノローグでの彼の一人称が「わたし」だったのに、最後の場面だけ「私」になるのは、物語の登場人物とその書き手との書き分けです。現代日本語でも口語と文語の区別がもっと明確だったら、もっと明確に書き分けらたんですけどね。
血文字が出現する直前の、『SFマガジン』でいうとp.318下段の最後の段落で、独白の一人称がここだけ「私」になっているのは、物語が背後まで迫ってきている、ということです。
あと、血文字の出現までは現在進行形で彼の意識の流れを追っているかのように読めますが、実は未来の、別の観点に立つ者(イブン・ムカッファ自身ではあるけれど)が視点の主であることを示唆する描写はあります。具体的には、すでに破滅は決定づけられていることに気づかず、判官殿との議論にのめり込んでいくイブン・ムカッファへの皮肉な視線です。あれは現在進行形の自嘲ではないんですね。まあ極力さりげない描写に留めているので、気づく人はいないと思いますが。
この構成に至れるまでが、本当に長かった。自律神経がいかれてるせいでストレスが身体症状に直結して、それがさらに頭の働きと物理的な作業を阻害し、さらなるストレスになるという悪循環。加えて体力が低下したせいか、風邪と思しき発熱を伴う症状を何度も繰り返したし。幸いにしてコロナにこそ罹りませんでしたが、発熱外来はいつも激込みでまともな診療を受けられませんでしたしねえ。長時間待たされるのはまだしも対面診察すらしてもらえなくて、コロナ検査だけだったからなあ(ロキソニンは効かないどころか吐いたことがあると申告したら、「そういうことなら」と薬は一切処方してもらえなかった)。まあこちらも負担はかけたくなかったので、病院に行ったのは38℃を超えた時だけでしたが。だから本当に風邪だったのかも不明。
あと三十数年ぶりに結膜炎に罹ってしまい、ウイルス性じゃないのに完治に1ヵ月も要し、2週間近く両目がまともに開けられなかったのが地味につらかった。
執筆に時間が掛かった3番目の理由は、英語資料を読まなくちゃならなかったことですね。必要な日本語資料は粗方読みつくしていたんですが、執筆を始めてから英語文献が次から次へと見つかって……私が多言語齧ってるのは、まさに下手の横好きで、語学の才能は皆無なんですよ。英語はリーディングだけに限っても、大まかな内容を摑むだけならまだしも、資料にできるくらい理解するには時間が掛かる。
と言っても、せいぜい数ヵ月分の遅れだから、やっぱり一人称視点によるストレスと不健康の悪循環でしたねえ。そこから抜け出せてからは4ヵ月掛からなかった。特に血文字出現後の最後の場面は、ムハッラブ家の歴史を簡潔にまとめるのに多少手間が掛かったものの、そこを除けば正味数時間だったからなあ。本当に楽しかった。
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