« 「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十四 | トップページ | 「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十六 »

「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十五

其の一其の十四
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。 紀年は特記がない限りはADです。

 今回は、「預言」の定義を解説します。
 まあそもそも、日本語の「預言」と「予言」を区別している人が、どれだけいるかっていう話ですけどね。この漢字による区別はたいへん解りやすくて、「預かる」と「予め」。「神から預かった言葉」と「(なんらかの超常の力によって)予知した事柄を告げる言葉」。
「予言」を与える超常の存在は、どんなものでもあり得ますが、「預言」を与えるのは一神教の神に限定されます。言い換えると、一神教の神とは預言を与える存在です。神託とか託宣とか呼ばれることもある、多神教の神々が与える「お告げ」は、事の真偽だったり失せ物探しだったり、それこそ予言だったりしますが、預言は信仰の在り方や終末思想など、もっと大きな事柄に関する、ある程度一貫性のある内容ですね。

 ヘブライ語では「預言者」は「ナビー」(または「ナヴィー」)で、原義は「(神に)呼ばれた者」という意味らしい。「召命された者」ってとこでしょうか。「預言」は「預言者」の派生語なんで、預言そのものより、それを与えられた人間のほうが重要というわけです。
 で、ヘブライ語聖書(いわゆる「旧約聖書」)がギリシア語訳された時、この「ナビー」に当てられたのが「プロフェーテース」です。「プロ」が「予め」で、「フェーテース」が「語る者」。直訳すれば「予言者」ですね。ここでも「予言(預言)」自体ではなく、それを語る者が主体とされている。
 ギリシア語「プロフェーテース」がラテン語を経たのが、英語prophet。prophetが語るのがprophecy。「預言」と「予言(神以外の力によるものも含む)」の両方の意味がある。

 イスラムにおいては、「預言者」は「ナビー」です。派生語の少なさからして、元々はヘブライ語からの借用語でしょう。「預言」は「ビシャーラト」ですが、多神教時代以来の「お告げ」「吉兆」を意味する語でもある。「お告げ」を意味する語はほかに「カハーナト」があって、これは「予言」の意味もある。カハーナトをするのが「カーヒン」で、占い師のことですが、多神教時代には巫子/シャーマンのことだった。
 多神教時代のアラビア半島には「超常の存在から与えられた言葉を語る者」が二種類いて、それが詩人とカーヒンでした。この時代には神々と妖霊(ジン)の区別が曖昧だったので、両者は「マジュヌーン(妖霊憑き)」とも呼ばれた。ムハンマドは「唯一神アッラーから与えられた言葉を語る者」として「ナビー」を名乗りましたが、多神教徒のアラブたちは彼を詩人やカーヒンと区別しませんでした。クルアーンではナビーを詩人やカーヒンと混同することと、アッラーを他の神々や妖霊と同列に扱うことへの怒りが、繰り返し語られています。

 なお私の古典ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、アラビア語の知識は初歩の初歩です。ヘブライ文字、ギリシア文字、アラビア文字は一応読めますが(「個々の文字の識別ができ、音読も一応できる」という意味)、めんどくさいのでカタカナ表記にしてます。御容赦ください。

 まあとにかく、イスラム成立後はムハンマドが「最後の預言者」であることは絶対なので、預言者を名乗るのはもちろん、「アッラーの言葉を与えられた」と主張する者は、自動的に偽預言者で大罪人ということになります。
 一方で民間信仰レベルでは、占いなどによる予知は盛んでした。胡散臭いものと見做されがちだったものの、おおむね許容されていました。
 だからイスラムにおいては「預言」と「予言」の区別は大事だったわけですが、実はほかならぬムハンマド自身が「夢は〇〇番目の預言である」と述べた、と伝えられています。「〇〇」に入る数字は43、46、70など諸説ありますが、イブン・ハルドゥーン(1332-1406)の『歴史序説』第1章(森本公誠・訳 岩波書店) によると、特に意味はないそうです。
イスラム世界最大の学者が言うんだから、そうなんでしょう。夢が神託だという信仰自体は世界的に珍しくなく、おそらく多神教時代の名残でしょうが、「預言」だとムハンマドが断言したことになっているので誰も否定できない。

 なお上のイブン・ハルドゥーンの記述の続きによれば、「70」はアラブにとって「多数」と同義だそうです。古代ユダヤ人にとっての「40」と同じことですかね(クルアーンで、そういう意味で「70」という数字は使われていないようですが)。イスラム世界最大の学者が言うんだから、そうなんだろう、と本作で採用しています。

 さて、prophecy(というか、その原型のラテン語)は「予言」が原義だったのが、キリスト教化によって「預言」の意味も持ちました。後者に限定すると、revelationの語が当てられることもあります。revelationの訳語には「預言」のほかに「啓示」が当てられます。
 revelationの原義は「覆いを外すこと」です。まずヘブライ語で「ヒトガルート」という言葉があって、これは「覆いを外すこと」というような意味で、唯一神が「(人間に)隠されていた知識を開示する」ことを指します。ギリシア語に直訳すれば「アポカルプシス」、そのラテン語の直訳を経てrevelationとなりました。
 日本語の「啓示」と「預言」の区別を敢えて定義するなら、「啓示」が上記の「(人間に)隠されていた知識を唯一神が開示すること」で、「預言」はその知識といったところですかね。本作では「啓示」と「預言」を厳密に区別する必要はなく、かつ煩雑さを避けるため、「啓示」という語は出していません。

「啓示」の訳語を当てられているアラビア語の単語は幾つかあります。ユダヤ・キリスト教と同じく「覆いを外すこと」のほかに、「運ぶ」や「下る」の派生語などがある。
 イスラムに比べればユダヤ・キリスト教には詳しくないんで、あまり突っ込んだ話はできませんが、この先行する二つの一神教では、啓示はしばしば言語としてではなく幻視(および夢)として視覚的に体験されます。
 一方、イスラムにおいては、啓示とは言葉すなわち預言です。クルアーンは神がムハンマドに下した言葉そのものですが、ユダヤ・キリスト教も神が先行の預言者たちに下した言葉そのものと定義されています。クルアーン第17章のタイトルにもなっている「夜の旅」は、神がムハンマドをメッカからエルサレムまで夜空を飛んで連れて行き、そこから天国に昇ったという「奇蹟」ですが、啓示という扱いはされてませんね。天国での見聞は重大な情報開示になると思うんですが、クルアーンでは一切触れていない。また「夜の旅」は幻視の類ではなく、実体験だとされています。
 上記の「夢は〇〇番目の預言」のような例はあるものの、アラブ文化は徹底的に言語優位であり(これについては後日、解説できたらします)、それもあって本作では啓示と預言をほぼ同義として、前者の語は除外した次第です。

 宗教的な体験として「幻視」と訳されるのは英語だとvision、意味は語源であるラテン語visio「見ること/視覚」「光景」「幻影」「観念」「見解」等とほぼ同じ。アラビア語「ルゥヤー」は「夢」「幻」という意味で、語根が同じ単語に「見ること/視覚」「見解」等がある。宗教的体験としての「幻視」の意味もあるけど、キリスト教の「黙示録」の訳語に当てられてるんで(「シフル・アルルゥヤー」で「幻視の書」)、これもイスラムには「幻視」の概念はあまり馴染みがない証左だと言えるかもしれない。

 で、イブン・ムカッファはマーニー教からの改宗者ですが、開祖マーニーは啓示を預言と幻視の両方のかたちで受け取っている。またマーニー教を通じて、ユダヤ・キリスト教の知識もあったはずです。彼は自らの「物語を視た」体験を、預言のかたちの啓示や詩人の「妖霊の囁き」よりは、幻視による啓示に近いと感じます。まさに「覆いを外された」感覚でしょう。同時に、預言のかたちでなかったことで、偽預言者だと曲解される可能性を見落としていたと思われます。
 本作のイブン・ムカッファは、無宗教でいるのが不可能な社会において、信仰する宗教を「教義が納得できるから好き/嫌い」で選ぶ人物です。霊感に突き動かされて行うものとされる詩作も、言葉のパズルという知的遊戯として行っている。ちなみに魔方陣は、この時代の中東の知識人が知ってそうだという理由で選びました。

 そんな彼が、追い詰められた精神状態で「物語を視た」なら、頭では合理的に解釈できても、何か特別な体験だと思ってしまうでしょう。いや、私自身がそういう時は、だいぶやばい高揚の仕方をするので。
 しかし当人にとってどれだけ特別な体験でも、他人、特にフィクションを侮蔑する人にとっては、世にも馬鹿げた妄言に過ぎません。「山犬と雄牛と獅子王の物語」にど嵌まりしたスフヤーンが延々と垂れ流す妄想に付き合わされ続けた判官殿は、その「作者」たるイブン・ムカッファに「山犬たちは勝手に動いたんであって、わたしが意図したものじゃない」とか言われて、めちゃめちゃムカついたでしょうね。

其の一其の十六

|

« 「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十四 | トップページ | 「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十六 »

「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談」カテゴリの記事