「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十四
全体的にネタバレ注意。本作では中世イスラムの固有名詞や術語の多くを、独自の用語に置き換えています。以下、日本における一般的な表記に、本作独自の用語を()で付記するかたちで記述していきます。 紀年は特記がない限りはADです。
其の八の記事で、主人公イブン・ムカッファの著書『カリーラとディムナ』(菊池俊子・訳 平凡社東洋文庫)を再読していて、彼が「最も残酷な方法」で処刑された、という伝承(最初に記録されたのは、彼の死から150年以上後)が、彼自身が創作した山犬ディムナの最期と同じだと気づき、次いで彼が少なくとも死後、山犬ディムナと同一視されていた(生前どうだったかは不明)ことにも気づいた、と述べました。
で、その瞬間、「みえた」わけです、物語が。
具体的には、断片的な場面や言語化されていない状態の大まかなプロットが忽然と頭に浮かび、それを視覚的な情報、文字どおりのイメージとして認識したわけです。
ええ、まあ、はい。本作におけるイブン・ムカッファの3日目の体験と同じです。とはいえ彼が「物語の創造」を、「自ら創り上げるもの」ではなく、「外部から与えられるもの、下されるもの」と認識する展開にしたのは、アラブ(タージク)における詩人と妖霊の関係という伝統、さらにはイスラム(誠の教え)を含む啓示宗教における預言者と唯一神の関係という伝統との親和性の高さからです。
もちろん、ほかの創作法より私自身の創作法のほうがよく知ってるわけだから反映しやすかったというのもありますが、だからと言ってイブン・ムカッファが私の自己投影(誤用)だとか思わないでくださいね。私は私が存在しない世界を創造するために小説を書いているんだから、私の小説の中に私がいるなんて気持ち悪くて想像もしたくない。
あ、ほかの創作者の方々が自作のキャラに自己投影(誤用)すること自体は、別になんとも思いません。その人は私じゃないから。
まあ私が存在しない世界云々はたわ言として読み流していただくとして、今回は本作のプロット構築の過程について説明しますね。其の八が主人公をイブン・ムカッファに決めるまでだったので、その続きです。
本作における啓示・預言等の解釈については、後日解説できたらします。
私の創作法で一番よくあるパターンは、まず書きたいテーマなりアイデアがあって、それに必要な情報を収集しつつ、そのテーマやワンアイデアに割く思考リソースを増やしていく。そうするとそのうち、物語そのものの情報が「下りてくる」。それは上述のように、断片的な場面だったり言語化されていない状態のプロットだったりします。あたかもその「物語」がすでに存在している、それも私の頭の中どころか、この世の外のどこかに、その物語の断片を受け取っている感覚です。
いや、もちろん私自身が考え出しているってことは承知してますよ。日常的なちょっとした思い付き、あるいは本作の場合だったら、アラブ文学の伝統におけるフィクションの地位の低さを、現代日本の一部の人々のフィクション蔑視を拡大したようなものとして解釈できる、という思い付き。そういった、ちょっと「閃いた」程度の脳活動の拡張版だってことは承知しています。ただ、その時の感覚があまりにも強烈なので、自分の脳がやっていることだという自覚が持てないだけです。
断片的な場面は映像として「みえる」し、言語化されていない状態のプロットも視覚的な感覚を伴います。当然ながら視神経は介していませんが、視覚中枢のどこかは活動しているかもしれない。
あ、本作ではそういう視覚的な感覚を、一般的な「見る」行為と区別するために「視る」と表現しましたが、私自身の創作過程の説明として「視る」を使うのは恥ずかしいんで、「みる」にしときます。
そうした非言語的で断片的な情報を解釈し、言語化していく作業が、プロット構築および執筆になります。最初期の段階では、プロットが「みえた」と言っても、相当に大雑把で不完全なものでしかありませんから。たいていは「みえた」情報に対し、「これはどういう状況なんだろう」「登場する彼らは何者なんだろう」と解析していくことになります。そうすると、さらに新しい情報が「下りてくる」。それらを解釈し、言語化する。その繰り返しです。
場面として「みえる」情報は当然、映像であり、多くの場合は音付きですが、視覚的な感覚よりはだいぶ曖昧です。登場するキャラクターの台詞は、おおよその内容しか判らないこともあれば、しっかり「きこえる」こともある。後者なら、そのまま書き留めるまでです。作業が進行していくと、文章が考えるまでもなく「下りてくる」こともあります。
本作の場合は、イブン・ムカッファの最期が彼と山犬ディムナの同一視から作られた伝説だと気づいた時点で「みえた」プロットは、彼の最期の数日間で判官と交わされる「作り話」を巡る問答、というほぼ完成したものでした。一度にここまで「みえる」のは珍しい。記録がそれなりに残っている実在の人物だからでしょうね。
同時に「みえた」場面は、まあだいたいは地下の独房内か審問の場のスチールという感じでしたが、最も鮮明かつ映像として「みえた」のは、『SFマガジン』p.326上段後半以降に当たる部分でした。独房と思しき場所にに血塗れで倒れ伏すイブン・ムカッファ、彼の眼前に流れる血文字の幻影、背後で開いた扉から溢れ出す眩い光とそれを背にして立つ長身の女。彼女が呼ぶ、彼の「本当の名前」。指一本動かせないはずなのに、彼は身を起こして振り返る……
次いで、「この場面はどういうことなんだろう」と考えると、すぐに答えがわかりました。
血塗れで倒れていたのは拷問を受けたからで、それはスフヤーンがイブン・ムカッファを叛逆者に仕立てようとしたのではなく、山犬ディムナと同一視していたからである。スフヤーンは自身を高潔な雄牛と同一視しているため、これまでイブン・ムカッファを闇討ちするような真似はしてこなかった。またカリフ(ハリーファ)のマンスールを、優柔不断で御しやすい獅子王と同一視して舐めている。
流れ出る血文字の幻影が綴るのは、イブン・ムカッファ自身の物語であり、本作そのものである。流れて行く血の物語は物語の川(カター・サリット)であり、大海(サーガラ)に注ぐ。大海の名は「大いなる物語(ブリハット・カター)」であり、彼の背後に立つ女人の背後に広がる光の海がそれである。
彼女が彼の「本当の名前」を呼んだということはすなわち、イブン・ムカッファは「自分は本当の名前で呼ばれていない」と認識しているからである。
彼女は川と物語の女神サラスヴァティであり、したがってハラフワティ/アナーヒター(ナーヒード)/シャフルバーヌーであり、「物語の川々」そのものであり、シェヘラザード(シャフラーザード)ですらある。
……といった情報が、あらかじめ私の脳の外、この世の外に存在していたかのように「下りてきた」ので、そうなりました。
だから史実では、インド(シンド)の大説話集『ブリハット・カター』が編纂されたのが『カリーラとディムナ』の原典『パンチャタントラ』より後なのは確実で、『カター・サリット・サーガラ』が『カリーラとディムナ』より3世紀半も後の11世紀初頭であっても、この世のすべての物語は「物語の川々(カター・サリット)」であり、「大いなる物語(ブリハット・カター)」という名の大海(サーガラ)に注ぎ込むのです。
同様に、史実では女神アナーヒターとシェヘラザードがまったくの無関係であっても(其の十参照)、この物語においては彼女たちは同一の存在なのです。
何しろ、そう「みえて」しまったので。
其の十で述べましたが、かつて「シェヘラザードは物語の語り手に過ぎず、妹のドニヤザードこそが物語の創造を担う」というアイデアを抱えていたのですが、シェヘラザードとドニヤザードの名前が対ではないと判明して没になったという経緯があります。その後、シェヘラザードとドニヤザード姉妹の物語とは無関係な物語として、本作の構想を始めました。
ところが、シェヘラザードが「物語の川々」そのものであり、したがってサラスヴァティ/アナーヒター/シャフルバーヌーでもあることが「みえて」しまったので、彼女はめでたく本作に組み込まれることになりました。一方で、「物語の創造」の象徴としてのドニヤザードというキャラクターは、本作に組み込む余地はまったくありませんでした。主人公イブン・ムカッファが物語の創造を、「外部からもたらされたもの」と認識したからです。
もちろん彼は合理的かつ内省のできる人間なので、実際に創造しているのは自分であることは理解しています。同時に、その過程を認識できないので「外部からもたらされたもの」という感覚を消すことはできない、ということも理解しているのです。本作のイブン・ムカッファは、そういうキャラクターです。
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