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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十一

其の一其の二十
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。 紀年は特記がない限りはADです。

 前回述べたように、クルアーンにおける唯一神は、美術品としての人や鳥獣の像を禁止しているどころか、お墨付きを与えているとすら解釈可能です。それなのにイスラムの長い歴史(1400年近く)の中で、美術品としての人や鳥獣の像はしばしば禁忌とされてきました。根拠とされるのは、預言者ムハンマドや最初期の信者たちの言行に関する伝承(ハディース)です。
 ムスリムたちは、ある行為や考えが信仰にもとるかもとらないかを、クルアーンを典拠に判断します。しかしクルアーンだけでは判断しきれないことは、いくらでもあります。そこで第二の「聖なる典拠」とされたのが、ハディースです。

 ここからしばらく、造形美術とも音楽とも関係ない話になりますが、本作の内容とは関係ありますよ。
 オングの『声の文化と文字の文化』によれば、無文字文化から文字文化への移行に時間がかかる大きな理由の一つは、無文字文化の人々の「書かれた言葉」に対する不信感です。何が書かれていようと、自分たちは読めないので。
 アラブは古くから独自の文字を持っていたにもかかわらず、長い間、非常に低い識字率のままでした。ムハンマドはおそらく文盲でしたが「書かれた言葉」に偏見がなく、何人もの書記を身辺に置き、預言を記録させていました。それらの記録が一冊の本(クルアーン)にまとめられたのは、ムハンマドの死(632年)から20年後、彼の後継者(カリフ)の一人、ウスマーンによってです。
 ウスマーン自身は識字能力が高かったと伝えられるので、文字記録の重要性はよく理解していたでしょう。この編纂事業に反対者がいたという記録はありません。そもそも同時代記録がほぼ皆無なんですが、「反対者がいたと伝えられている」という記録も存在しません。
 本作でも言及しましたが、天界には唯一神自らが執筆した、この世の始まりから終わりに至る全被造物の記録があり、クルアーン(およびユダヤ・キリスト教の聖書)はこの「天の書」とか「書物の母」と呼ばれる書物からの抜粋だとされています。「原典」が書籍の形になっているので、クルアーンも書籍の形に編纂することに、それほど抵抗がなかったのでしょう。また当時は、アラブ自身に「アラブは声の文化」という意識が薄かったのではないかと思われます。

 しかし、いったん「クルアーン」というアラビア語の唯一の書物が出来上がってしまうと、それを神聖視するあまり、「クルアーン以外のどんなアラビア語の文章も書き留められるべきではない」と言い出す者が出てきます。領土の拡大とともに必要となってくる行政文書が、7世紀末になるまで異民族の書記たちによって異国語で書かれていたのは、アラビア語で作文できる者が少なかったのが第一の原因ですが、第二の原因は、このクルアーンとアラビア文字の神聖視です。
 各地の現地語で書かれていた行政文書をアラビア語に変えたのが、本作の主人公イブン・ムカッファ(「手萎えの息子」)の父親を拷問で「ムカッファ(手萎え)」にした、イラク太守ハッジャージュです。クルアーン編纂の時と同じく、同時代史料が皆無に近いので、この改革への抵抗があったかなかったのかすら伝わっていません。しかしハッジャージュは非常に有能であるという以上に
、凄まじく苛烈だったというエピソードが数多く伝えられているので、反対者がいたとしても容赦なく潰したでしょうね。

 この改革が8世紀初頭に完了してしばらくすると、本作でも言及しているとおり、前イスラム期以から口承されてきた古詩を書き留めたり、ギリシア語の「アレクサンドロス宛てアリストテレスの手紙」(もちろん偽書)をアラビア語訳したり、といった文学方面での動きも出てきました。
 しかしおよそ100年もの間、口承されてきたハディース(ムハンマドの言行)が書き留められることはありませんでした。知識を口承するには、それらを記憶し、繰り返し暗唱する必要があります。暗記すべき知識が増えれば増えるほど、必要とされる労力も増えていきます。
 
ハディースは他者の批判や自己正当化の根拠として便利なので、早い時期から捏造が盛んに行われていました。真贋を確かめるにはどうしたらいいか。例えばハディースには、ムハンマドが奇跡を行ったエピソードが幾つもあります。しかしクルアーンで唯一神は、クルアーンそのものが奇蹟なのでムハンマドに他の奇蹟を行わせたりしない、と明言している。じゃあ、これらのハディースは贋物だ、と当時のムスリムたちは考えませんでした。このエピソードは〇〇〇〇〇〇〇 (ムハンマドの親戚の一人)が△△△△△△△(初期信徒の一人)に伝え、彼から◇◇◇◇◇◇◇◇(別の初期信徒)から×××××××(◇◇◇◇◇◇◇◇の息子)へ、彼から……という「伝承経路」が明確かどうかで判断しました。絶対にあり得ない内容でも気にしない。

 当然ながら、時代を経るにつれて「伝承経路」も長くなっていきます。上の例で「AからBへ」といった簡潔な記述にしなかったのは、アラブは姓が無いので父称(「〇〇の息子」という意味で「イブン〇〇」)を付けますが、そもそも名前の種類が少ないので「個人名+父称」だけでは区別がつかない。それで「通名」を付けます。本作でも主人公は「アブドゥッラーフ・イブン・ムバーラク」ではなく、通名「イブン・ムカッファ」で呼ばれます。しかし一般的な通名は出身地や氏族名なので、それだけでは区別がつかないことも多い。そこでさらに職業名を足したり、父称ならぬ子称「△△の父」の意で「アブー△△」を足したり、「イブン〇〇・イブン◇◇・イブン××……」と祖父、曽祖父の名前を足していったりする。
 ハディース自体はどれもごく短いエピソードなんですが、この際限なく長くなっていく「伝承経路」もセットで憶えなくてはならない。しかも伝承経路しか信憑性を保証するものがないので、膨大な数の伝承者たちがどんな人物かも憶えておかなければならない。嘘吐きとされる伝承者によるハディースだったら、当然ながら信用できないということになるからです。

『声の文化と文字の文化』で指摘されていますが、文字記録はこのような暗記の労力をすべて「無駄」にしてしまいます。文字の使用が浸透していくにつれて、ハディースの口伝者も自分たちの努力が無に帰す可能性に気づきます。だから殊更に文字記録を見下し、口伝情報こそ尊い、という価値観を形成する。
 イブン・ムカッファ(720年頃-757年頃)が生きたのは、そういう時代でした。
 彼の死から100年以上経った9世紀後半から、ようやくハディース集の編纂が始まります。それはクルアーンの時と違って国家事業ではなく、何人ものハディース学者がそれぞれ個人で行ったもので、何種類ものハディース集が編纂されました。そのうち9世紀末までに編纂されたもの5つ、10世紀初めに編纂されたもの1つが、最も信頼性が高いものとして「六大ハディース集」と称され、現在に至っています。

 六大ハディース集で最初に完成したのは、ブハーリー(870年没)という人物が編纂したものです。彼は編纂作業の第一段階として集められるだけのハディースを集めたのですが、その数は数十万、一説によると百万近かったそうです。
 こういう数字は誇張がつきものですが、イスラム史は中国史に比べればだいぶ誇張が少ない。多少の異同(内容および伝承経路)があるだけの、ほぼ同じ内容のハディースも別々にカウントしているでしょうし、
後述する六大ハディース集の総収録数からしても、百万近くは大袈裟にしても、六桁行ってたのは確実でしょう。
 ブハーリーはそれらの真贋を「精査」し、数千(数え方によって数が変わる)を「厳選」したと伝わっています。
 で、後に続く5人もそれぞれ真贋を「精査」し、数千を「厳選」しています。六大ハディース集に収められたハディースの数は、数え方にもよりますが、だいたい3万8千だそうです。

 6人全員が同じ基準で選んだのなら、6冊とも多少の異同があっても、ほぼ被るはずですが、重複は多いものの、そうでないもののほうが多い。
 要するに真贋の見分け方は、ちゃんとした伝承経路が付いてるかどうかが第一条件なのは間違いないですが、それ以外は編纂者各自の基準でしかないということです。そしてその基準に、史料批判の観点は入っていない。互いに矛盾した内容のハディースは少なくありません。例えば、音楽に肯定的なハディースと肯定的なハディースがそれぞれ複数ある。それもハディース集同士の間ではなく、同じハディース集の中に互いに矛盾したハディースが収められていたりします。6人の編纂者たちの誰一人として、そんなことを気にしなかったということです。

 では伝承経路以外の、どんな基準で選んだのかというと、当時(9世紀後半~10世紀初頭)のムスリムたちに広く受け入れられていたか否か、と考えるのが妥当でしょう。もちろん編纂者個々人が受け入れていたか否か、も重要だったでしょうが。
 現在に至るまで、クルアーンに次いで全ムスリムの行動指針とされてきた数万のハディースのうち、実際にムハンマドの時代からほぼ変わらない内容で語り継がれてきたものは、たぶん皆無ではないでしょう。しかしそれらも含め、すべてのハディースは六大ハディース集編纂当時の価値観を反映したものなのです。

 そして美術品としての人・鳥獣の像と音楽に話を戻すと、前者についてはムハンマドがはっきりと否定しているハディースが、六大ハディース集すべてに収録されています。一方、後者については音楽に言及しているハディースのほとんどは否定も肯定もしておらず、ムハンマドが肯定するハディースが一つ、ムハンマドの妻の父で、後に彼の後継者(カリフ)となったアブー・バクルが否定するハディースが一つあるだけです。

 長くなったので、続きは次回。

其の一其の二十二

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十

其の一其の十九
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 今回、ネタバレは特にありません。 紀年は特記がない限りはADです。

 前回の冒頭で述べたとおり、唯一神の言葉をそのまま書き留めたものであるクルアーンにおいては、人や鳥獣を象った像(絵画でも立体でも)そのものは禁じられていません。禁じられているのは、「偶像崇拝」です。
 というわけで、まずはイスラムにおける偶像崇拝の定義から説明したいと思います。

 ややこしいことに、「偶像」崇拝と訳されてはいますが、厳密に言えば「すべての被造物」が対象になります。つまり唯一神以外のすべてです。だから(人が作った)像はもちろん、自然崇拝(木、山、川、石、天空などから嵐などの自然現象まで)も、ムハンマドをはじめとする預言者および本作(8世紀)より後の時代に登場する「聖者」と呼ばれる人々の墓や遺品も、彼ら自身も、さらには妖霊(ジン)や天使、多神教の神々といった霊的存在も、すべて唯一神の被造物なので崇拝禁止です。
 なお多神教の場合、その神話体系における最高神を唯一神と同一視し、その他の神々をジンや天使のような格下の霊的存在とすることで、ユダヤ教やキリスト教と同じ、「信仰の仕方が少々間違っているが、一応正しい宗教」としてイスラムとの融和を図る例がままあります。ゾロアスター教や仏教は、そういう扱いですね。まあイスラム側と多神教側の双方で、認めていない人が多いんですが。

 前イスラム期のアラブは、外来の一神教への改宗者以外は多神教徒で、クルアーンでもその存在を認められているジン(妖霊)も神々の一種でした(独自の一神教も何種類かあるにはありましたが、あまり影響力はなく、ユダヤ・キリスト教に同化しがちでした)。
 ジンは霊体的なものですが、物体も崇拝対象でした。元来は明らかに自然崇拝で、山、樹木、泉、洞窟等のほか、自然石(巨岩とかではなく石ころ)も神として拝みました。カアバ神殿の「黒石」も、まあその名残でしょう。近くに聖なる泉もある。

 この自然石崇拝が、加工された石への崇拝へと進展しました。加工といっても、立方体や板状にするだけです。アラビア半島では古くから香料生産と海上交易で幾つもの王国が栄えた南部と、遊牧と隊商が中心で発展が遅れていた北部とではだいぶ文化が違うんですが、造形美術を発達させなかった、という点では共通しています。前1世紀、紅海貿易で栄えた北西部のナバテア王国について、ローマの歴史家ストラボンが「浮彫細工、絵画、彫刻は地元では産しない」と記していますが、これはアラビア半島全土に言えることです。
 新石器時代から青銅器時代にかけて、アラビア半島の住民(アラブの先祖かどうかは不明)は多くの岩絵を残しています。しかし前1200年頃、鉄器時代に入ると、造形美術の伝統は途絶えてしまいます。以降のアラブが造る彫像は板状の石に浮彫の目を付けただけの稚拙なもので、岩壁などに刻むのは絵よりも文字でした。
 こうしてカリグラフィーとしてのアラビア文字が発達しましたが、文学にはまったく利用されませんでした。

 ではアラブは造形美術を嫌っていたのかというと、まったくそんなことはなく、ヘレニズム期(前3世紀~)に入ってギリシア風彫刻が入ってくると、熱狂的に愛好しました。
 ナバテアや南アラブの豊かな諸王国では、それまではせいぜい目を彫った石板で表現していたアラブの神々を、ギリシア系の移住者たちに、理想化された人間の姿として彫刻させました。そのような資金も人材も確保できない内陸部のアラブたちは、他所で買ったり略奪してきたギリシア風彫像を、それが本来なんであるのかを無視して、「神」として拝み始めました(「拾ってきた」という伝承も残っています)。ムハンマドが伝道を始めた当時のカアバ神殿には数百体の偶像が安置されていましたが、その多くはこうした彫像だったと思われます。

 このように、外来の彫像を「神」と崇めるほど愛好していたにもかかわらず、なぜかアラブ自身は造形芸術を作ろうとはしませんでした。本当に、理由が不明なんですよね。自分たちには作れないと思い込んでいたかのようです。

 前述したように、神像として作られたのではない人や獣の像も礼拝すれば「偶像崇拝」になります。しかしややこしいことに、これらは礼拝対象ではなくただの美術品としか見做されていなくても、偶像(と邦訳されるアラビア語)と呼ばれます。アラビア語には「偶像」を指す言葉がたくさんありますが、そのうち幾つかは「(美術品としての)彫像」と同義なのです(別の幾つかは、解り易く「おぞましい物」とか「悪魔」と同義です)。
 クルアーン34章ではスライマン(イスラエルの王ソロモンのこと。イスラムでは預言者の一人とされる)が起こした奇蹟について語られますが、そこで彼はジンを使役して(ソロモンが悪魔を使役したというユダヤの民間信仰のアラブ版)「偶像」を作らせ、宮殿を飾ります。ここでの偶像はただの美術品であり、しかもスライマンにジンを操る力を与えたのは、ほかならぬ唯一神なのです。

 ここから解るのは、ますクルアーンにおいては芸術としての人や獣の像は禁止されるどころか、むしろお墨付きを与えられていると言ってもいいほどであること。そして当時のアラブにとって、人や獣の像を作ることはあたかもジンの仕業の如く、超人的な技術だと見做されていたということです。
 つまり当時のアラブは、ギリシア彫刻のように写実的にして理想化された人や獣の像は、自分たちには到底作ることのできない、まさに「神業」だったのです。だからそれらを「神」として拝んだ。
 クルアーンには、「偶像は木石でしかない。そんなものを拝むな」という文言がしばしば現れます。現代人からすると、いや何言ってるの、そんなこと子供でも解るよ、拝まれてるのは偶像そのものじゃなくてそこに宿る「神性」みたいのじゃないの?となりますが、どうも前イスラム期のアラブにとっては偶像は「神が宿るもの」ではなく「神そのもの」だったらしい。

 だから「偶像」という訳語は不正確だと言えます。「偶」は「宿る」という意味ですから。
 クルアーンで語られているアラブの偶像崇拝は6世紀半ば以前のものですが、「木石に過ぎない」像を「神そのもの」とする信仰形態は、さらに何千年も前のメソポタミアと共通しています。しかし古代メソポタミアの人々は、人が作ったと判り切っている像を「神そのもの」と信じ切るのには困難を覚えており、新しく神像を作るたびにそれを「神にする」手の込んだ儀式を行っていました。
 6世紀以前のアラブたちは、古代メソポタミア人よりさらに素朴だったと言えますが、それでも疑問を抱く人は増えつつあり、彼らの多くは政治とは関係なく(国家や氏族が政策としてユダヤ教などに集団改宗することが多かった)、私的にユダヤ・キリスト教等の一神教に改宗していきました。イスラムは、そうした流れの中から生まれてきたのです。

 ムスリムにとってクルアーンは、自分や他の信徒の行動や思考が信仰に適っているかどうかを判断する根拠です。しかしクルアーンだけでは判断がつかない事例は、当初から山ほどありました。
 そこで第二の判断材料とされたのが、ムハンマドおよび最初期の信徒たちの言行です。彼らがある状況や事柄について、こう述べた、あるいはこう行動した、という短いエピソードの数々で、ハディース(物語)と呼ばれました。
 このハディースには、美術品としての人や獣の像(立体でも平面でも)を明確に禁じたものが幾つかあります。その一方で、音楽全般については明確に禁じたものは一つもありません。肯定的に解釈できるものと否定的に解釈できるものが、それぞれあるだけです。

 次回はこれらのハディースも含め、なぜ音楽や造形美術が禁忌とされたのかについて、解説する予定です。

其の一其の二十一

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十九

其の一其の十八
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 今回、ネタバレは特にありません。 紀年は特記がない限りはADです。

   イスラム原理主義が人や鳥獣を象った像(絵画でも立体でも)および音楽を禁忌としているのは、わりと有名だと思います。しかしどちらの禁忌も、彼らが絶対とするクルアーンに根拠はありません。
  クルアーンはユダヤ・キリスト教の聖書と違い、唯一神の言葉をそのまま書き留めたものとされています(だから翻訳すると神の言葉そのままではなくなってしまうので、翻訳版はクルアーンではなく解釈書の類と見做される)。クルアーンで禁止されているのは偶像崇拝で、美術品としての(崇拝対象ではない)人や獣の像は許容されており、音楽(舞踏なども含む)には言及すらしていません。
 なぜ唯一神が禁止していないのに禁忌とされるに至ったのか、研究者も決定的な説明はしていません。あくまで私個人の推測ですが、そもそもイスラム誕生前からアラブ独自の造形美術も音楽も事実上存在しなった、という事実と関係がありそうです。

 前イスラム期(7世紀前半以前)のアラブ独自の芸術はただ一つ、詩(韻文)だけでした(もちろんアラビア語です)。ではその他の芸術分野はどうっだったのか? というわけで、今回は音楽の話をします。
『トーキング・ヘッズ叢書』№.83(Amazonリンク)所収の「禁断の快楽、あるいは悪魔の技」に詳しく書きましたが、アラビア語の歌と詩は元来、境界が不明瞭だったようです。実際、
韻文および押韻散文は、抑揚をつけて朗唱すると、それだけで音楽的になります。韻文は厳格な韻律(押韻、音数などの形式)を持つ文章のことで、韻文詩もこれに含まれます。押韻散文については、とりあえずここでは散文すなわち韻律のない普通の話し言葉だが韻を踏む(押韻の規則性は緩い)と定義します(本来は、アラビア語において韻文・散文と並ぶもう一つの文章形式「サジュウ」に当てられた訳語です)。
 日本語には韻文がないのでイメージし難いかもしれませんが、前者はオペラのレチタティーヴォ、後者はラップ(ただし、どちらも無伴奏)だと考えれば、解り易いかと思います。
 したがって異民族の文化が大量に流入してくるヘレニズム期(前4~前1世紀)より前のアラブ本来の歌は、おそらく単調な単声で無伴奏か単純な打楽器で拍子を取る程度だったと推測されます。
 器楽曲も全然発達しなかったようで、実際、アラブの古典楽器とされるものの多くが、明確に異民族起源です。

 音楽は脳の報酬を活性化しドーパミンの分泌を促すことで、感動や快さをもたらします。それは器楽曲でも歌でも同じですが、歌の場合はそれに加えて、歌詞による感動があります。もちろんこの場合の歌詞は、母語やそれに準ずるくらい充分に理解できる言語のものです。
 そして発声された韻文および押韻散文も、音楽性(押韻のリズムと抑揚)だけでなく「言葉」にも感動できるのだそうですね。詩を「読む」(黙読する)のではなく、「うたわれている」(朗唱する)のを聴くことで生まれる感動です。
 しかし私自身はというと、どうにかヒアリングできる唯一の外国語である英語(だいぶギリギリ)の、それも予め意味を調べておいた韻文詩の朗読を聞いても、全然感動できない(心拍数増加など、ドーパミン分泌による身体反応がない)んですが、日本文化で育って、かつ外国語に堪能な人なら、その言語の韻文に感動できるものなんでしょうかね?

 日本語でラップを作るのが難しいのは、単に日本語が洋楽のリズムに合わせ難いのが大きいのだと思いますが、そもそも韻文どころか和歌の掛詞以上に押韻が発達せず、駄洒落に至っては忌み嫌われている。
 まあ江戸時代までは駄洒落はそんなに嫌われていなかったようなので、日本語の特性というよりは「声の文化」の衰退がもあるでしょう。日本でもかつては五と七の音節から成る(すなわち音数律を持つ)定型詩が、多言語における韻文と同じ効果を持っていたはずですが、現代日本人でその感性を保持している人がどれだけいるのでしょうか。五・七のリズムの言葉の並びを聴くだけで、涙を流すとまでは行かずとも、ドーパミン分泌を増加させ心拍数を上げることのできる感性を保持している人が。
多くの人にとっては、五・七の組み合わせが快い、という程度でしかないでしょう。

 日本語で書かれた文章は絵本やシナリオなどを例外として、ほぼすべて黙読を前提としています。詩集の類も、音読するものとして買う人がどれくらいいるのか。一方、欧米では詩だけでなく小説の朗読会が盛んで、オーディオブックもよく売れています。
 つまり欧米のほうが日本よりは「声の文化」が色濃いと言えますが、欧米人(のアラブ文化研究者)にとっても、アラビア語古典文学で多用される掛詞は駄洒落に感じられてしまうそうです。

 音楽に必要な知覚能力は、リズムの認識とメロディの認識に大別できるそうです。リズムの認識は大脳左半球および大脳基底核、小脳その他広範囲の領域が担っていますが、メロディの認識は右半球に神経基盤があります。で、言語の使用には知覚能力(音それ自体に加え、リズムやメロディの認識)や運動制御に加え、何よりも抽象化能力が必要ですが、これは左半球に依存します。
 左半球に先天的または後天的な障害があると言語能力が阻害される代わりに高い音楽能力を発現する例が多く、また定型発達においても幼児期の高い音楽能力が左半球の発達に伴って失われる例が見らるそうです。このことから、左半球が右半球の音楽能力を抑制していると考えられます。
 またネアンデルタール人の抽象化能力は低かったらしいことからも、音楽能力は言語能力より先に進化したと見ていいでしょう。そんでもって、最初の「音楽」は声を楽器としたハミングやスキャットの類でしょうね。手拍子や足拍子、その辺の物を叩いてリズムを取るのも早かったのではないでしょうか。

 言語能力と音楽能力が別々に進化したものとはいえ、発話にはリズムや抑揚の認識も必要なので、音楽能力がまったく無関係なのではない。しかしメロディに言葉を巧く乗せるには、共に高度な言語能力と音楽能力が必要です。だから詩と「歌詞のある歌」は、共に「抑揚を付けた語り」を起源とすると思われます。
 そして詩がリズムを重視して韻律(あるいは韻のみ、律のみ)を発達させ、歌はメロディを重視して複雑化した上に伴奏をつけたりするようになった。その結果、歌詞が聞き取りづらい歌が多くなった。

 古代のアラブが詩を発達させた代わりに歌および器楽曲を発達させなかったのは、「言葉の聞き取りやすさ」を重視した結果だと思われます。この「言葉(アラビア語)による情動喚起」を何より重視したために、彼らは音楽のみならず造形美術も発達させず、絵や彫刻よりもカリグラフィーを好みました。
 本作でイブン・ムカッファは、書物の一冊も持たないほどアラブの文字文化は未発達だったのに、長大な聖典(クルアーン)を書き起こせるだけの表記体系がすでに存在していたことに改めて驚嘆しています。どうやら古代のアラブは、岩などに碑文を刻むために美しい形のアラビア文字を発達させたようです。とはいえイスラム誕生以前は、独自の芸術と呼べるほどには発展していませんでしたが。

 なぜ彼らはここまでアラビア語にこだわったのか。誰も明確な説明はできていません。また彼らが音楽全般を嫌いだったのかというと、まったくそんなことはありませんでした。流入してきた異民族の音楽に、彼らは夢中になるのです。しかし異民族の音楽家(主に奴隷)に演奏させたり歌わせたりするばかりで、アラブ自身が演奏したり歌ったりするのはもちろん、独自の音楽を作り出す動きは、ないわけではなかったものの、ごく鈍いものでした。
 これらの問題について、またそれほど音楽好きのアラブの人々がそれを禁忌とするに至ったかについては、後日解説の予定です。とりあえず次回は、造形美術について。

其の一其の二十

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十八

其の一其の十七
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。 紀年は特記がない限りはADです。

 本作は、実在の文学者イブン・ムカッファ(757年頃没)の最期の四日間を描いた物語です。フィクションが「実話」(実際の真偽にかかわらず「実話」だと信じられている物語)から分離した社会には、「フィクションを見下す人々」が出現しますが、彼らとの対決が本作のテーマです。第一日目、判官殿は「フィクションは役に立たない」と言い、イブン・ムカッファは「寓話(当時のアラビア語圏ではこのジャンルは成立していないので、作中で「寓話」という語は使いませんが)は役に立つ」と抗弁します。
 現実でもこういう擁護の仕方をする人はいますね。しかし、それじゃあ「役に立つフィクション」と「役に立たないフィクション」の区別は、誰がどうやって決めるんだ、と。
 判官殿はどんなフィクションも認める気がなく、イブン・ムカッファもそれに気づいていますが、もっと重い罪を着せられかねないので「罪状」を絶対に認めません。議論はどこまで行っても平行線にしかならない。

 そこで第二日目、判官殿は戦法を変え、『カリーラとディムナ』は散文だから低級であると断じます。フィクションそのものの是非ではなく、詩(韻文)か散文か、という表現形式の優劣を持ち出したわけです。 当時のアラブにとっての唯一の芸術は詩(韻文)であり、散文はどんな内容であろうと芸術的な価値は一切認められなかったのです。
 現代日本にも、内容にかかわらず特定の表現形式だというだけで見下す人はいますね。漫画だからとか、アニメだからとか、ゲームだからとか。古くは小説だって見下されていました(「〝小〟説」ですからね)。
 ああいう人たちは、本当に内容には一切注意を払わない。払えないんでしょうね。その表現形式だというだけで見下す。

 散文か韻文か、という話に戻ると、日本語はなぜか韻文が発達しませんでしたが、韻文が発達している言語圏ではたいてい散文が下に見られているようですね。「〝散〟文」だし。アラビア語の「散文」も原義は「散乱」です。
 英語proseの語源であるラテン語prorsusは原義が「まっすぐな」なので、それ自体には侮蔑的な意味はありませんが、それでもproseは日本語で言うところの「散文的」(平凡、単調、俗っぽい)な意味が付与されています。フランス語prose、ドイツ語、イタリア語、スペイン語(いずれもprosa)、ロシア語проза(プラザ)も同様です。
 ちなみに昔の中国で散文が韻文より格下だったのは確かですが、
現代中国語および古典中国語の「散文」に、日本語で言うところの「散文的」のニュアンスはないようなので、「散文的」は西洋諸語からの翻訳ではないかと思います。

 オングの『声の文化と文字の文化』によると韻文は散文より記憶しやすいそうなので、口承文学は自然と韻文が多くなり、古いからということで権威化されて、識字率が上がって散文が一般化した後も権威は残った、ということなんでしょう。まして8世紀半ばのアラビア語圏では、文字文化は異民族や混血に担われていて、アラブ自身はほとんど無文字文化に生きているようなものでしたから。
 というわけで次回は、アラブの伝統文化における、詩(韻文)をはじめとする芸術諸分野について解説する予定です。

其の一其の十九

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