「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十
今回、ネタバレは特にありません。 紀年は特記がない限りはADです。
前回の冒頭で述べたとおり、唯一神の言葉をそのまま書き留めたものであるクルアーンにおいては、人や鳥獣を象った像(絵画でも立体でも)そのものは禁じられていません。禁じられているのは、「偶像崇拝」です。
というわけで、まずはイスラムにおける偶像崇拝の定義から説明したいと思います。
ややこしいことに、「偶像」崇拝と訳されてはいますが、厳密に言えば「すべての被造物」が対象になります。つまり唯一神以外のすべてです。だから(人が作った)像はもちろん、自然崇拝(木、山、川、石、天空などから嵐などの自然現象まで)も、ムハンマドをはじめとする預言者および本作(8世紀)より後の時代に登場する「聖者」と呼ばれる人々の墓や遺品も、彼ら自身も、さらには妖霊(ジン)や天使、多神教の神々といった霊的存在も、すべて唯一神の被造物なので崇拝禁止です。
なお多神教の場合、その神話体系における最高神を唯一神と同一視し、その他の神々をジンや天使のような格下の霊的存在とすることで、ユダヤ教やキリスト教と同じ、「信仰の仕方が少々間違っているが、一応正しい宗教」としてイスラムとの融和を図る例がままあります。ゾロアスター教や仏教は、そういう扱いですね。まあイスラム側と多神教側の双方で、認めていない人が多いんですが。
前イスラム期のアラブは、外来の一神教への改宗者以外は多神教徒で、クルアーンでもその存在を認められているジン(妖霊)も神々の一種でした(独自の一神教も何種類かあるにはありましたが、あまり影響力はなく、ユダヤ・キリスト教に同化しがちでした)。
ジンは霊体的なものですが、物体も崇拝対象でした。元来は明らかに自然崇拝で、山、樹木、泉、洞窟等のほか、自然石(巨岩とかではなく石ころ)も神として拝みました。カアバ神殿の「黒石」も、まあその名残でしょう。近くに聖なる泉もある。
この自然石崇拝が、加工された石への崇拝へと進展しました。加工といっても、立方体や板状にするだけです。アラビア半島では古くから香料生産と海上交易で幾つもの王国が栄えた南部と、遊牧と隊商が中心で発展が遅れていた北部とではだいぶ文化が違うんですが、造形美術を発達させなかった、という点では共通しています。前1世紀、紅海貿易で栄えた北西部のナバテア王国について、ローマの歴史家ストラボンが「浮彫細工、絵画、彫刻は地元では産しない」と記していますが、これはアラビア半島全土に言えることです。
新石器時代から青銅器時代にかけて、アラビア半島の住民(アラブの先祖かどうかは不明)は多くの岩絵を残しています。しかし前1200年頃、鉄器時代に入ると、造形美術の伝統は途絶えてしまいます。以降のアラブが造る彫像は板状の石に浮彫の目を付けただけの稚拙なもので、岩壁などに刻むのは絵よりも文字でした。
こうしてカリグラフィーとしてのアラビア文字が発達しましたが、文学にはまったく利用されませんでした。
ではアラブは造形美術を嫌っていたのかというと、まったくそんなことはなく、ヘレニズム期(前3世紀~)に入ってギリシア風彫刻が入ってくると、熱狂的に愛好しました。
ナバテアや南アラブの豊かな諸王国では、それまではせいぜい目を彫った石板で表現していたアラブの神々を、ギリシア系の移住者たちに、理想化された人間の姿として彫刻させました。そのような資金も人材も確保できない内陸部のアラブたちは、他所で買ったり略奪してきたギリシア風彫像を、それが本来なんであるのかを無視して、「神」として拝み始めました(「拾ってきた」という伝承も残っています)。ムハンマドが伝道を始めた当時のカアバ神殿には数百体の偶像が安置されていましたが、その多くはこうした彫像だったと思われます。
このように、外来の彫像を「神」と崇めるほど愛好していたにもかかわらず、なぜかアラブ自身は造形芸術を作ろうとはしませんでした。本当に、理由が不明なんですよね。自分たちには作れないと思い込んでいたかのようです。
前述したように、神像として作られたのではない人や獣の像も礼拝すれば「偶像崇拝」になります。しかしややこしいことに、これらは礼拝対象ではなくただの美術品としか見做されていなくても、偶像(と邦訳されるアラビア語)と呼ばれます。アラビア語には「偶像」を指す言葉がたくさんありますが、そのうち幾つかは「(美術品としての)彫像」と同義なのです(別の幾つかは、解り易く「おぞましい物」とか「悪魔」と同義です)。
クルアーン34章ではスライマン(イスラエルの王ソロモンのこと。イスラムでは預言者の一人とされる)が起こした奇蹟について語られますが、そこで彼はジンを使役して(ソロモンが悪魔を使役したというユダヤの民間信仰のアラブ版)「偶像」を作らせ、宮殿を飾ります。ここでの偶像はただの美術品であり、しかもスライマンにジンを操る力を与えたのは、ほかならぬ唯一神なのです。
ここから解るのは、ますクルアーンにおいては芸術としての人や獣の像は禁止されるどころか、むしろお墨付きを与えられていると言ってもいいほどであること。そして当時のアラブにとって、人や獣の像を作ることはあたかもジンの仕業の如く、超人的な技術だと見做されていたということです。
つまり当時のアラブは、ギリシア彫刻のように写実的にして理想化された人や獣の像は、自分たちには到底作ることのできない、まさに「神業」だったのです。だからそれらを「神」として拝んだ。
クルアーンには、「偶像は木石でしかない。そんなものを拝むな」という文言がしばしば現れます。現代人からすると、いや何言ってるの、そんなこと子供でも解るよ、拝まれてるのは偶像そのものじゃなくてそこに宿る「神性」みたいのじゃないの?となりますが、どうも前イスラム期のアラブにとっては偶像は「神が宿るもの」ではなく「神そのもの」だったらしい。
だから「偶像」という訳語は不正確だと言えます。「偶」は「宿る」という意味ですから。
クルアーンで語られているアラブの偶像崇拝は6世紀半ば以前のものですが、「木石に過ぎない」像を「神そのもの」とする信仰形態は、さらに何千年も前のメソポタミアと共通しています。しかし古代メソポタミアの人々は、人が作ったと判り切っている像を「神そのもの」と信じ切るのには困難を覚えており、新しく神像を作るたびにそれを「神にする」手の込んだ儀式を行っていました。
6世紀以前のアラブたちは、古代メソポタミア人よりさらに素朴だったと言えますが、それでも疑問を抱く人は増えつつあり、彼らの多くは政治とは関係なく(国家や氏族が政策としてユダヤ教などに集団改宗することが多かった)、私的にユダヤ・キリスト教等の一神教に改宗していきました。イスラムは、そうした流れの中から生まれてきたのです。
ムスリムにとってクルアーンは、自分や他の信徒の行動や思考が信仰に適っているかどうかを判断する根拠です。しかしクルアーンだけでは判断がつかない事例は、当初から山ほどありました。
そこで第二の判断材料とされたのが、ムハンマドおよび最初期の信徒たちの言行です。彼らがある状況や事柄について、こう述べた、あるいはこう行動した、という短いエピソードの数々で、ハディース(物語)と呼ばれました。
このハディースには、美術品としての人や獣の像(立体でも平面でも)を明確に禁じたものが幾つかあります。その一方で、音楽全般については明確に禁じたものは一つもありません。肯定的に解釈できるものと否定的に解釈できるものが、それぞれあるだけです。
次回はこれらのハディースも含め、なぜ音楽や造形美術が禁忌とされたのかについて、解説する予定です。
| 固定リンク
「「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談」カテゴリの記事
- 「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十二(2024.08.05)
- 「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十一(2024.07.30)
- 「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十(2024.07.21)