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暗殺の森

 そろそろ更新が止まって1年になるよ、とココログから注意されたので更新。
 このブログを始めた理由の一つが、「小説の感想文がものすごく苦手だが、小説家をやってたらレビューの仕事とか来るかもしれないから、苦手感がちょっとマシな映画の感想で練習しておこう」で、お蔭で実際に小説や映画のレビューのお仕事もこなせるようになりましたが、ある時突然、「あれ、もうレビューできるようになってるじゃん」と気が付いてしまい、ブログで「練習」をするモチベがきれいさっぱり消え失せてしまったんですね。
 しかしその後も観た映画の感想は記録してまして(近年はアマプラ中心)、まあだいたい雑な内容ですが、時々は真面目に書くので、それらをちょっと手直ししたものをしばらく(飽きるまで)挙げていきたいと思います。数年~数週間前の鑑賞になるんで、このカテゴリで。 

 というわけでベルトルッチ『暗殺の森』(1970)。原作の『同調者』(アルベルト・モラヴィア、1951)を読んだので、4半世紀以上ぶりの再鑑賞。一応ネタバレ注意。
 4K修正版であってスペシャルエディションとかではないのに、見事なまでに忘れとる。ここまで忘れてる理由の9割方は理解できていなかったからで、本当に馬鹿(知識と読解力の欠如)だったんだなあ。一応、鑑賞前に仕入れていたあらすじのほうは、ちゃんと憶えていたけれども(そしてあらすじを知らずに観ていたら、さらに理解できていなかったのは間違いない)。
 意外なほどに原作そのままの場面や台詞(地の文を台詞にしている分も含む)が多かった。一方で、単に尺や表現媒体の違いに起因しないオリジナル要素も多かった。一番目立つのはイタロというキャラクターかな。
 社会の「同調者」たらんとしつつ浮いているマルチェッロというキャラクターを浮かび上がらせるためのキャラクターなのは明らかだし、その意図は成功しているが、どんな経緯で生み出されたのかとか、そういう情報は少なくとも日本語では全然見つからなかった。

 マンガニエッロが映画よりキャラ立ちしてるのも、マルチェッロのキャラ立てのためだろう。原作のオルランドという特に象徴性はないっぽい名前(姓は不明)を、manganello(棍棒)にこじつけた姓に変え、劇中でもわざわざ言及してるのも、明らかにその一環。解りやすくファシズムの暴力性の象徴であるとともに、マルチェッロの暴力性の象徴でもあるといったところか。
 母親の愛人アルベリも大きく改変されている。マルチェッロは「同志」マンガニエッロになんの脈絡もなく、「あいつは〝キ〟なんだ。アルベリ(alberi直訳すれば「木々」)は日本語で〝キ〟と言うんだよ」と述べる。アルベリの顔は一度もはっきり映らないが、明らかに東アジア系的。エンドクレジットのキャスト一覧にアルベリはいなかったし、英語および伊語でググってみたけど見つけられなかった。代わりにDavid Forgacsという人(イタリア近現代文化史研究者らしい)の解説を見つけたが、それによると少なくとも日本人に設定されてはいる。
 そしてマルチェッロはマンガニエッロにアルベリを始末させるんだけど、なんで? ファシストの工作員が、なんでそんな私的な殺人を引き受ける?(しかも無償?)

 ただただ疑問だったんだが、もう一つの映画オリジナルの日本要素である「蝶々夫人」について考えてみたら、一応答えが見えた。
 原作だと、幼いマルチェッロを誘惑したリーノは聖職者崩れなので、同性愛の罪悪感に耐えられなくなってマルチェッロに「殺せ」と懇願する。映画では部屋に磔刑象が掲げられてるんで男色への罪悪感は暗示されてはいるが、リーノの前歴や「罪深い僕を殺してくれ」と言ったセリフが削られてるんで、なんでいきなり殺せと言い出したのか解りにくい。そもそも主人が長く留守にしている屋敷で好き勝手している(それこそ少年を連れ込んだり)運転手、というリーノの立場も、映画だけじゃ解りにくい。
 そうした細々した設定を割愛してベルトリッチが描きたかったのは、「蝶々夫人=どこまでも劣位に在って最終的に死に追い遣られる者」という図式だったんだろう。蝶々夫人がピンカートンに対して劣位なのは、単に女だからというだけでなく、西洋人に対して東洋人だからだ。アルベリはリーノと同じく運転手で、マルチェッロの母の屋敷で傍若無人に振る舞っている。母親の寝室には日本の衝立が場所を取り、ベッドの下にはアルベリが与えたモルヒネの注射器が転がっている。アルベリは男であり、マルチェッロの母親を支配しているが、それでも東洋人なので西洋人の女よりも劣位だ。そして最上位存在である西洋人の男によって殺される。マルチェッロの依頼で手を下したマンガニエッロは、ここではマルチェッロの棍棒だ(工作員がなんで?という疑問はまったく解消されないが)。
 原作ではリーノの殺害(過去)とアルベリの登場(現在)は時系列どおりに語られるが、映画ではリーノの殺害は、アルベリの登場(および殺害)より後に回想として語られる。アルベリの死はリーノの死の予徴である(時系列は逆だが)。

 リーナの名前をアンナに変えたのは、原作翻訳者の解説によれば、映画ではリーノ殺しがマルチェッロの中で比重が軽いから、とのことだ。しかしリーノ殺しというかエロティシズムとしての「蝶々夫人殺し」は、この映画のテーマだろう。単に名前が似てるとややこしいから、という程度の理由じゃないかなあ。
 リーノ=蝶々夫人=アンナの構図は明白で、二人は髪形が同じで、リーノが「女みたいだった」とマルチェッロに回想されるのに対し、アンナはパンツルックが多く、男性的だ。というか、なんか『ベニスに死す』当時(奇しくも同年公開)のビョルン・アンドレセンに似てる。ドミニク・サンダは撮影時18歳だったそうだ。それでこの色気はすごいが、反面、少年的であるのも納得できる。ジュリア役のステファニア・サンドレッリは5歳上。
 原作ではそれほど描写されていないアンナ(リーナ)とジュリアのダンスは、映画では最も有名な場面で、専ら「同性愛的」と評されているが、「的」も何も、それより先にアンナがジュリアの脚にべたべた触って、股間にまで手を伸ばすという、もっと露骨なレズビアンシーンがあるのに、そっちはあまり注目されてないようだ。こちらの場面自体は原作にほぼ忠実だが、映画ではリーノがマルチェッロ少年の足許に跪いて脚を撫で回すという、同じ構図をわざわざ入れて、リーノ/アンナの類似を強調してるな。
 ダンスの場所をパリの退廃の象徴として描かれる男装バーから庶民的で健全なダンス会場に変えたのは、場違いにすることで二人の退廃性を際立たせるためだろうか。

 教授夫妻の暗殺を、映画ではマルチェッロは傍観し、原作では後から話を聞く、というのも大きな相違だが、夫を守ろうとして死ぬ原作のリーナと、夫が殺されている間は怯えて縮こまり、その後、死に物狂いで逃げようとする映画のアンナとの違いも大きい。リーナはその勇敢さを実行犯であるオルランド(マンガニエッロ)から賞賛されるが、アンナはどこまでも劣位者として惨めに殺される。
 マンガニエッロもまた、映画では実行犯ではなく、マルチェッロと共に傍観者に徹する。すなわち、マルチェッロの暴力性(および男性性?)の象徴である棍棒(マンガネッロ)は振るわれない。そして、その棍棒はマルチェッロを「(ユダヤ人やホモと同等な)卑怯者」と罵る。
 終幕、原作ではムッソリーニ失脚の解放感と自棄からマルチェッロとジュリアは夜の公園で事に及ぼうとし、警備員に見咎められる。マルチェッロはその警備員が実は生きていたリーノだとすぐに気づくが、映画だとマルチェッロは少年を誘惑しているリーノを見ても一向に気づかず、「蝶々夫人」の発言でようやく思い至る。
『暗殺の森』における「蝶々夫人」は絶対的な劣位者なのではなく、優位者を支配し屈服させようとする危険な身の程知らずでもある。マルチェッロ少年を強姦しようとしたリーノは言うまでもなく、アルベリは女主人を支配し、アンナはリーノほど明白ではないがその同性愛傾向によって、同じく男性性という聖域を侵略すると同時に、女性としてマルチェッロを誘惑する。そんな彼らに身の程を弁えさせ、劣位に留めておくために、優位者(西洋人の男)たちによって殺されなければならなかったのだ。

 事前に知っていたあらすじではなく、映画そのもので記憶に残っていたのはリーノ殺害、アンナとジュリアのダンス、アンナ殺害の三つの場面だけ。後はコートの立てた襟に顔をうずめるマルチェッロの顔(暗殺現場へ向かう車中)といった断片的なカットが幾つかだけ。後は全部忘れてた。しかしこれらの視覚的記憶は非常に鮮やかで、ずっと記憶に残っていた。
 蝶々夫人で男性同性愛と言えばデイヴィッド・ヘンリー・ウォンの『M.バタフライ』(1988)だが、いつから蝶々夫人と同性愛は結び付けられてたんだろうかと思ったら、そもそも『暗殺の森』がオリジナルらしい。

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