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オン・ザ・ミルキー・ロード

 2016年公開。クストリッツァだから観たんだが、うーん……クストリッツァ作品はだいたい観てるが、『アンダーグラウンド』(1995)を超える作品は撮れてないんじゃないか? 未見なので有望そうなのは『ジプシーのとき』くらいか?
 映像と音楽は、いつもに増して素晴らしいんだけどね(音楽担当は息子のストリボール・クストリッツァ)。あと、クストリッツァ作品は動物が画面をうろうろしていることが多いが、今回はいつもに増して動物の種類も数も出番も多く、しかも芸達者な個体ばかりであった。そして容赦なく殺される。

 内戦中のある国(と公式サイト等では紹介されているが、みんながセルビア語を話す国だ。それも「設定上は別の言語」ではなく、作中で「セルビア語」と明言してる)。主人公は毎日、砲弾を搔い潜って前線に牛乳を届けている。牛乳の買い付け先である農家の娘ミレナは彼にぞっこんだが、本人はいまいち乗り気ではない。
 ミレナの兄は戦争の英雄で、戦火に巻き込まれて難民キャンプにいたイタリア人女性を花嫁として村に連れてくる。主人公と花嫁の間に愛が芽生え……

 プロットがシンプルすぎて、『アンダーグラウンド』に比べて見応えがない、というのもあるんだが、やはり終始気になったのはメインキャラたちの年齢設定。主人公はクストリッツァ自身が務めるが、2016年当時、すでに62歳。ヒロインのモニカ・ベルッチは52歳。彼女の結婚相手はクストリッツァ作品の常連、ミキ・マノイロヴィッチで、66歳。しかしその妹、ミレナ役のスロボダ・ミチャロヴィッチは35歳なんだよな。
 ミレナは「若い娘」設定なのはいいとして(元体操選手という設定で、戦争のせいで選手としての最盛期だけでなく婚期も逃してるっぽい感じなので、「やや薹が立っている」ということなんだろうけど)、実年齢では彼女の親のような3人が、それほど齢が行っていない扱いなのは無理がありすぎる。
 実年齢より10歳くらい若い設定というなら問題なかったろうに。過去にいろいろあった中年の男女の恋愛や、ずっと戦場を渡り歩いてきて、そろそろ身を固めようという男がはしゃいでる、とかなら全然いいんだが、ベルッチが「新品同然」とか言われてると、さすがに「ええ……」となる。いや、もちろんベルッチ様は本作でも美しい。しかしそれは若い頃とはまた違う、「年齢を重ねたこその美しさ」である。「齢の割には美しい」じゃないんだから、「そこそこ若い」扱いするのは違うだろ。
 あと、ミレナの母親、えらく味のあるおばあさんだったのに、途中からなんの説明もなく一切出番がなくなるのは、なんかトラブルでもあったん?

 タイトルも(英題on the milky road クロアチア語原題も同じ意味っぽい)、ちょっとな。主人公が牛乳を運んでるから「ミルキーロード」なのはいいが、後半関係ないじゃん。結末もよくわからん。あの行為になんの意味が? いや、追悼だったのは解るが、なぜああすることが追悼になるのか、何かのメタファーなのか。解らんのは、まあ私の頭が悪いからなんだろうな。

『マレーナ』感想 ベルッチ様の最高峰
『ミッション・クレオパトラ』 でもやっぱりモニカはフランス語喋ってるのが一番可愛いと思う

クストリッツァ監督作品
『パパは出張中!』感想
『アンダーグラウンド』感想
『ライフ・イズ・ミラクル』感想
『黒猫・白猫』感想

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ハワーズ・エンド

 92年公開。その5年後ぐらいにビデオで観たが、ヘレナ・ボナム・カーター演じるヘレン・シュレーゲルがエキセントリックだったこと以外はだいぶ忘れていたので、フォースターの原作(1910)を読んだ機に再鑑賞。ネタバレ注意。

 原作はだいぶ分厚いが、2時間20分余りでかなり忠実にまとめている。とはいえ、シュレーゲル家のドイツの親戚なんかは確かに削ぎ落していい枝葉だが、タイトルになっているハワーズ・エンド邸が、成り上がりのウィルコックス家ではなく妻のルース(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)が先祖代々受け継いできたもので、彼女の娘時代に売り払われるところだったのを、夫となるヘンリー(アンソニー・ホプキンス)が救ってくれた、という経緯まで、なぜ省いた。
 この下りを切り捨ててしまったことで、ウィンストン家でルース一人だけがハワーズ・エンド邸を愛している理由や、生まれ育った家から引っ越さなければならなくなったマーガレット・シュレーゲル(エマ・トンプソン)への同情が、原作未読者には伝わらないだろう(実際、私も初見の時は理解できていなかった。そもそも話そのものを理解できてなかったんだけど)。二言三言の台詞で足りる要素なのに、なんで省いた。
 ここが無いから、ハワーズ・エンド邸へのルースの愛情を理解せず、資産価値しか見出さない夫や子供たちの粗雑さや、それに不満を抱いていたからこそ、今わの際のルースが知り合って間もないマーガレットにハワーズ・エンド邸を託そうとした理由が見えてこない。

 これよりは些細なことだが、ヘンリーと婚約したマーガレットが、10年も前の彼の浮気に腹を立てているのは、彼がルースを裏切ったことに対してだというのにも言及しなかった理由も不明。これも一言で足りるのにな。
 お蔭でマーガレットが、出会う前の火遊びを責め立てる潔癖で不寛容な女みたいになってしまっている(実際、初見時にそう思ったことを、うっすらとだが憶えている)。

 削られて残念だが、表現媒体の違いや尺の長さを考えれば止むを得ないのが、事務員のレナード・バスト(サミュエル・ウェスト)が労働者階級ではなく、ウィンストン家およびシュレーゲル家と同じ中産階級の出で、労働者階級すなわち下の階級かつ年上の女と結婚したことで家族に縁を切られているということ。
 映画でも文化的な事物に無関心で野卑な妻ジャッキー(ニコラ・デュフェット)との痛々しい対比は描かれているが、この対比はレナードが元から労働者階級なら生じなかったのである。

 同じ中産階級といっても、ウィンストン家とシュレーゲル家は中の上、いわゆるアッパー・ミドルで、バスト家は中の下、ロウアー・ミドルである。労働者階級は「文化的な事物」にはそもそも手が届かないので無関心だ。しかしロウアー・ミドルは簡単に労働者階級に転落してしまいかねない(レナード個人はすでに転落している)一方で、「文化的な事物」の一端になら手が届いてしまう(本を読む、偶に演奏会や展覧会に行く等)ので、関心あるいは憧れを抱いてしまう。
 レナードは「文化的な事物」に対し、関心と憧れの両方を持っている。憧れのほうは、「教養」という実体のない概念への、言ってみれば俗な憧れも含む。読書したり演奏会に行ったり、星を眺めたり夜の散歩をしたり、といった行為には、純粋な愛好と、「教養」を身に着けるための努力とがせめぎ合っている。

 しかし原作では地の文で作者(フォースター)によって、レナードは元々の文化資本が圧倒的に欠けているいる上に、そのことを理解できていない、だから努力しても無駄、と断定されてしまっている。一方で、好きなだけ文化資本を手に入れられる身分にいながら、無教養で粗野なウィンストン家のような人々もいる。
 だからシュレーゲル姉妹はウィンストン家よりもレナードに惹かれる(熱しやすく冷めやすいヘレンはウィンストン家の次男と一夜で恋に落ちて婚約し、翌日には幻滅して婚約解消するが、レナードのことは何年にもわたって気に掛ける)。彼らの間には、確かに対等な友情は存在していたと思う。しかしそれ以上に、格差はあまりにも大きかった。レナードは姉妹を雲の上の人々、憧れの象徴として仰ぎ見ることしかできず、シュレーゲル姉妹にとってレナードはその純粋さを庇護してやらねばならない対象だった。

 半分ドイツ人のシュレーゲル姉妹は彼らの階級の中で浮いているが、マーガレットとルース・ウィルコックスの友情が成立したのは、マーガレットが姉妹のうちでより常識的だったのと、ルースがウィンストン家のような新興アッパー・ミドルではなく、伝統的な地主階級の出身だったからである。ルースは映画でも描写されているとおり保守的で学問に興味はなく、(映画では特に描写はされていないが)芸術にも無関心である。その点では、夫や子供たちとさして変わらない。
 つまりは作者フォースターにとって、その地に根差した地主階級が代々培ってきた伝統と、シュレーゲル姉妹の一代では身に付かない教養とは同等の価値を持つのだろう。

 そして姉妹のうちで常識があるほうなので、マーガレットはヘンリー・ウィンストンに後妻に選ばれ、彼女も承諾する。レナードに対する姉妹の同情は、より控えめなマーガレットのものでも、英国社会では充分すぎるほど非常識だが、それでも彼女は夫との関係に罅を入れてまでレナードを援助しようとはしない。

 ヘレンは型破りゆえにその格差を踏み越えてレナードと結ばれるわけだが、どちらにも恋愛感情はなかったと思う。ヘレンにとっては、同情が嵩じたあまりなんだが、どこまでも同情から来る愛情で、「惚れたってことよ」までは行ってないんだな。型破りなのも、その階級だからこそで、だからどこまでもレナードは庇護対象で、これ以上彼に迷惑を掛けまいと、妊娠すら告げず、弟を通じて金だけ送って姿を消す。何もかも捨てて彼の階級に身を落とすとか、あるいは彼を養うといった方向には行かない。後者については、ヘレンの資産なら、ジャッキーとは穏便に離婚させ、彼女には生活に困らない程度の金を与えることも可能だろう。ヘレン自身の階級からは爪弾きにされることになるが、父無し子の出産だって同じくらいの不名誉のはずだ。
 レナードにとっては、星が自分のところに落ちてきたようなもので、最期の瞬間まで何が何だか解らないままだったんじゃないだろうか。
 映画も表面的には原作に忠実に人間関係をなぞっているが、根本の部分に「レナードの階級は文化資本を得られず、本人の努力ではその格差を埋められない」という身も蓋もない事実が存在する、という残酷さが原作の大きな魅力の一つだからなあ。しかし映画で簡潔に表現するのは無理だから、削られるのは致し方なし。

 アンソニー・ホプキンスは「何をやってもハンニバル・レクター」だから、演技に感心したことは近年の『ファーザー』以外はなかったんだが、本作はよかった。(最初の鑑賞時は物語そのものを理解していなかったので、ホプキンスの演技にも目がいかなかったのである)。まあつまり私は「弱さ」の演技が巧い役者が好きだということなので、ホプキンスがあまりそういう役をやってこなかったのは残念。

『ファーザー』感想

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アイダよ、何処へ?

 2020年公開。ヤスミラ・ジュバニッチ監督は2006年の『サラエボの花』の人か(未見だけど)。
 1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで起きた大量虐殺事件を描く。セルビア人のラトコ・ムラディッチ(セルビア人主体のスルプスカ共和国指導者)によって、ムスリム住民が数千人殺害された。えーと、私があの内戦について勉強した00年代には、彼らの名称は「モスレム人」が一般的だったけど、その後「ムスリム人」になって、現在では「ボシュニャク人」なのか。正式決定したのは90年代だそうだけど。

 重い内容だと予想はしていたが、原題はQuo vadis, Aida?だと知り、さらに重い話であることを覚悟する。十字架で死んだイエスへの問いが、ムスリム女性へと投げ掛けられている。そうして観て、実際重かったが、監督が巧いんだろうな、1時間40分が短く感じられた。
 それに一番重かったのは、鑑賞後にググって知った、撮影当時のスレブレニツァ市長が「スレブレニツァの虐殺はなかった」派なので現地で撮影できなかった、って話だ。

 戦争前にはキリスト教徒の隣人たちと一緒にミニのドレスで「ヘアデザイン・コンテスト」(90年代の旧共産圏のダサさが微笑ましい)を楽しんでいたようなボシュニャク人女性たちの多くが、戦後は上半身を覆うヒジャブと床に届きそうなスカートになってて、信仰しか頼れるものがなくなってしまったんだなあ……

 セルビア語、ボスニア語、クロアチア語はほとんど変わらないってのは知ってたが、ロシア語ともだいぶ近いな。南スラヴ語と東スラヴ語だから結構遠いはずけど、3割は通じるそうだ。

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パラサイト 半地下の家族

 2019年公開。生き馬の目を抜く如き悪意に満ちた話なんじゃないかと腰が引けていたが、実際観てみたところ、笑いっ放しのブラックコメディかつ後味は悲哀に満ちていた。ネタバレ注意。

 主人公一家は、不合格とはいえ息子が難関大学、娘が美大を受験、父親が高級車の運転手、母親が家政婦をそつなくこなせ、息子はカブスカウトに入っていたり富裕層の友人がいたりと、台湾カステラ屋で失敗するまでは中流層だったっぽい。
 そもそもカステラに出資する元手はあったし、地下のおっさんと違って借金取りに追われてもいないし。父親がカブスカウトの話をした時は、口から出まかせを言ったわけじゃなくて、息子がやってたから多少は知ってたわけだ。兵役は2年余りだから、事業失敗は息子の兵役中かな。その後も2度受験できてるから、カステラからすぐに半地下まで落ちたわけじゃなさそう。会話の端々からも、半地下暮らしもそれほど前からじゃなかったらしいことが窺われるし。

 まあとにかく、それほど能力が高くても一度落ちると這い上がれない、ということなんだろう。両親はともかく、子供たちが詐称する経歴と服や持ち物の不釣り合いに金持ち一家が気が付かないことだけが、唯一の粗か。体臭だけじゃなく、肌や髪、爪、歯なんかの状態も気づく人は気づきそうだしなあ。
 ただ、金持ち一家のほうも成り上がりらしいので、そういう細かいところに気づく素養はないのかも。一方で成り上がりだからこそ、半地下家族の父親に(元家政婦の夫にも)リスペクトされてたのがいい。リスペクトしていたからこそ、体臭という「しみついたもの」を生理的に拒絶されて、衝動的に刺してしまう。そして泣いて謝る。自分たちで陥れたくせに、クビになった運転手を気にしてたし、元家政婦の死にもそれなりに敬意は払ってたし、自分と家族のことでいっぱいいっぱいだっただけで、この父親は根っからの悪人ではない。水没する家から、妻のハンマー投げのメダルを大事そうに持ち出してるんだよね。

 そこかしこに、入れ子構造の無意識の差別が垣間見える。息子は父親に敬語を使うが、母親は夫を蔑ろにしているし、娘も普通に好いてはいるがタメ口。息子一人が、父親は敬語を使われるべきと思っていて、それは自分も将来そうされたいと思ってるってことなんだよな。
 で、金持ち一家のほうは娘がナチュラルに蔑ろにされていて、だから偽家庭教師に惹かれたんだろうけど、息子のほうは娘との結婚を夢見るくらいならまだしも、酔っ払って気が大きくなってたのもあるんだろうけど、そうなれば豪邸は自分のもの、結婚式さえ切り抜けられれば、後は娘が真実を知っても従わせてしまえると、家族ともども当たり前に考えてるのが怖い。特に母親、自分は夫を尻に敷いているのにな。逃げることも実家に真相を告げることも不可能にして、自分たちに仕えさせる気でいる。奴隷?

 ところで北朝鮮アナウンサーの物真似は、やっぱりあれ、韓国人から見ても変だったんか。

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ゴヤの名画と優しい泥棒

 2020年公開。ロジャー・ミッシェル監督の遺作。といっても観るのは本作が初めてなんだけど。名前だけでも知ってるのは『ノッティングヒルの恋人』だけだなあ。ネタバレなし。

 1961年にロンドン・ナショナルギャラリーで起きたゴヤの「ウェリントン公爵の肖像」盗難事件の真相を描く。犯人として名乗り上げ、実刑を受けたケンプトン・バントンの孫クリストファー・バントンが持ち込んだ企画。クリストファーは映画に限らず創作全般はずぶの素人だったが、製作総指揮の1人としてクレジットされている。
 ケンプトン本人はクリストファーが生まれる数ヵ月前の1976年4月に亡くなっている。でも孫が生まれるのを楽しみにしてたんだろうな。

 前半は重苦しい状況と空回りする主人公の痛々しさとで、ちょっとしんどい。後半、逮捕されてからは、ほぼ独演会で素晴らしい。「真相」は、実際に2012年に公開された機密ファイルに記載されていたそうで、なぜ闇に葬られたのかは、まあ当の息子が存命だし、映画で述べられているとおりなんだろう。

 ケンプトン役のジム・ブロードベントは相当観てるはずなんだが、『ナルニア』の教授しか憶えとらん。妻ドロシーはヘレン・ミレンがすっぴんで猫背で演じており、年齢相応のおばあさんにしか見えないので役者ってすごい。

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コレクティブ 国家の嘘

 ドキュメンタリーはあんまり観ないんだが、ルーマニア映画は『4ヶ月、3週間と2日』(2007)が非常によかったが、それ以来観てなかったんで。

 2015年、ナイトクラブの火災での負傷者が、軽傷の者までその後の数ヵ月で次々と死んでいく。不審に思ったジャーナリストの調査により、病院での治療が不適切だったことが明らかになる。
 インタビューやナレーションが一切入らないので、フィクション映画のように観れてしまったが、火事の映像とか、再現映像じゃないんだ、と何度も自分に言い聞かせる必要があった。めっちゃ怖い。

 最初の保健相が、あまりにも平然と嘘をつくので驚愕する。もうちょっと取り繕うとかもせんのか。それが常態だったんだろうなあ。
 ジャーナリスト(社会派新聞とかじゃなくてスポーツ紙の)と新しい保健相ヴラド・ヴォクレスク(やっぱりヴラド・ツェペシってルーマニアの英雄なんだな……)の奮闘によって国家ぐるみの汚職が暴かれ、明るい未来へ……と思いきや、投票率の低さにより元の木阿弥に。
 国中騒ぎになってるようでも、実際には国民の大半は無関心だった、ということである。それだけ「投票しても何も変わらない」歴史の積み重ねだったのだろう。

(ヴォクレスクVoiculescuは民間からの抜擢だったが、2025年8月最終更新のWiki英語版によれば、今も政治の世界で頑張っているようである)

 まともにルーマニア語を聞くのは『4ヶ月、3週間と2日』(2009年鑑賞)以来。当時はルーマニア語がロマンス諸語だと知らなかったから聞き流してたが、今回、注意して聞いてても、ロマンス語由来の語はわずかな名詞以外、全然聞き取れなかった。前置詞や疑問詞・接続詞も西伊仏羅とは相当違うぞ。母音はアイウエオのほかに半母音も含めて4つもあるのか。子音も多いな。名詞に性があるだけじゃなくて格変化もする。同じく勉強したことなくてもポルトガル語は聞けばポルトガル語だと判るし、単語もかなり聞き取れるのになあ。ここまで違うものなんか。

『4ヶ月、3週間と2日』感想

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ユダ&ブラック・メシア 裏切りの代償

 2021年公開。一応ネタバレ注意。
 ブラックパンサーは武装化したことくらいしか知らなかったので、その指導者の1人フレッド・ハンプトン(1948‐69)については初めて知った。21歳で殺されてるのか。本人のフィルムも最後にちょっと出たけど、それだけでカリスマが伝わってくる一方、恋人が詩に詠んだとおり笑窪のあるあどけない笑顔に胸が痛んだ。

 ハンプトン役のダニエル・カルーヤはウガンダ系イギリス人。カリスマは充分だが、さすがにもうちょっと若いか若く見える役者を使うべきだろう。89 年生まれだから撮影時で30代初め。そのくらいの齢で20代前半に見える役者は珍しくないんだが。
 しかも恋人のデボラを演じたドミニク・フィッシュバックが2歳若いだけなのに童顔だから、若い子に手を出すおっさんにしか見えなかった。なおデボラ本人は、49または50年生まれ。
「ユダ」のウィリアム・オニールは17歳でFBIに成りすましてたから老け顔だったんだろうけど、やっぱりもうちょっと若造っぽい役者のほうがよくなかったか? ラキース・スタンフィールドは91年生まれ。その年齢で17歳に見える役者はさすがにいないにしてもな。見た目どおりの年齢なら行き当たりばったりの馬鹿だが、17歳ならかなりの知能犯だし、17歳なら政治に興味がなくても仕方ない。

 オニール本人のインタビュー映像も使われていて、「情報は流したが、それでも党のために命を張ってたんだから、何もやってなかった奴らに後からいろいろ言われたくない」という発言はどの口が……となるんだが、インタビューの翌年にTV放映されたその日の夜に自殺したから、覚悟の上だったんだろうなあ。インタビュー開始直前の映像もあって、めっちゃ汗かいてるし。
 フーヴァー長官にマーティン・シーン。観るのは『ディパーテッド』(2006)以来か。ディカプリオに潜入を命じる警部役だったが、あんまり憶えてないな。本作では過激な手段に出ることを躊躇う部下を脅すシーンは、さすがの迫力。

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皮膚を売った男

 2020年公開。カウテール・ベン・ハニア監督はチュニジア人女性。ムスリムっぽくない姓だと思ったら、「ベン」が付くのはマグリブ固有の特徴だそうだ。あと、主演のヤヤ・マヘイニって変な名前だと思ったらヤフヤーyahyaかよ。マヘイニもmahayniだからマハイニーだろうな。

 シリア人の主人公は、恋に浮かれて電車内でうっかり口走ってしまった「革命」「自由」というワードのせいで逮捕される。取調官が親戚だったため逃がしてもらえ、レバノンに亡命する。恋人は外交官と結婚させられ、ベルギーに行ってしまったので、偶々知り合ったベルギー人芸術家の「作品」となることでベルギーに行く。
 ベルギー人芸術家ヴィム・デルボアが生きた人間にタトゥーを施した「作品」展示にインスパイアされた。デルボア本人も保険会社社員としてカメオ出演。数分の出番だが、結構印象的だった。

 インスパイア元となった作品の「キャンバス」となったのは、ティム・シュタイナーというスイス出身の男性で、当該作品を見るに白人。デルボアと契約を結んだのは純粋に興味からで、金に困っている等の事情はまったくないようだ。デルボアとの間に非対称性は見出せない。
 一方、本作の主人公はシリア人、それも難民である。そんな人物が白人の「作品」となり、主に白人を相手に「展示」される、となれば、嫌でも連想されるのは悪名高い「人間動物園」である。19世紀後半~20世紀前半に万博等で行われた「人間の展示」だ。「未開人」のほか、身体障碍者が対象となった。中東人はベリーダンスの披露を例外として「展示物」とされることはなかったようだけど、本作の「展示する側とされる側の非対称」は「人間動物園」そのままだ。
 なお、『グレイテスト・ショーマン』(2017)でヒュー・ジャックマンが演じたP・T・バーナスがやってたような見世物小屋の類も、万博と同じく「科学の展示」を謳っていたが、ああいうところでは「全身刺青男」なんかも見世物の対象だった。本作(あるいはデルボアの作品)がそこまで踏まえてるかどうかは不明だが。
(『グレイテスト・ショーマン』にはあまり感心しなかったし、かと言って特に批判したい点もないので、感想はブログに上げません)以下、一応ネタバレ注意。

「人間動物園」のことを知った上で敢えて露悪的に「作品」を制作してそうな「白人芸術家」の傲慢さと、切羽詰まってるとはいえ自分の尊厳の切り売りを選択してしまった「非西洋人の難民」(教養はあるほうだが「人間動物園」の歴史までは知らなさそう)という非対称の構図。「人間動物園」の展示される側にもする側にもなった歴史を持つ日本人としては、なんとも居心地の悪い思いで鑑賞することになる……のに、なんか雑なハッピーエンドになってもうた。
 現代の技術であのサイズの皮膚培養は無理だろ、とか、肌理の粗さやほくろやしみや傷痕等の再現はどうなってんの?とか。まだシリアで平和に暮らすのは無理だろ、とか。とはいえ、御都合主義というよりはお伽話的、寓話的な結末ではある。
 なお、鑑賞時点では「革命」「自由」というワードがやばいのは理解できたが、なぜあの場面で口にしたのか解ってなかったんだが、後で調べたら恋人とは階級が違って結婚が難しいから、という理由だそうだ。

 主演のマヘイニはシリア人で本業は弁護士(演技経験はあり)。オーディションに応募したらしい。英語Wikiにも記事がなくて、今どうしてるのかなあ。あと、ベルギー人芸術家のマネージャーがモニカ・ベルッチだった。インタビューによると「できる女」の演技を心掛けたそうだが、どこか隙のある感は人柄か。

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関心領域

 2023年公開。『落下の解剖学』(2023)のザンドラ・ヒュラー主演。ジョナサン・グレイザー監督は英国人だが、大半の登場人物はドイツ人で、台詞もドイツ語。
「アウシュヴィッツ所長一家が収容所と塀一枚隔てた美しい庭付き一戸建てで平和に暮らす」という紹介から、一家にとって収容所は「関心領域」外にあるんだな、と推測できるタイトルではあるが、「関心領域」(英語ではthe zone of interestだが、ドイツ語ではinteressengebietと一語)という訳し方から、実際に使われていたナチ用語なんじゃないか(「生存圏」とか「最終解決」みたいな)、とググる。
 アウシュヴィッツの周辺地域の名称だそうで……一体何を思ってこんな名前を、と唖然とする。いやほんと、ナチって皮肉も衒いもなく素でこういう造語捻り出すの得意ね。そしてもちろん推測どおり、この語は主人公一家への強烈な皮肉となっている。

 音響賞を受賞しているだけあって、ほぼ全編を通して流れる「環境音」が凄まじい。「荷」を燃やす焼却炉が24時間稼働し続ける音、「荷」を輸送してくる機関車の音、悲鳴、怒声、犬の吠え声、殴打音、銃声。それらが混然となっており、耳を澄ましても聞き分けるのは難しい。収容所周辺以外のシーンもあるから、正味で1時間半くらいだろうか。ずっとビビりながら観ていたが、音量だけに限れば、しばらくここで暮らしていたら慣れてしまうだろうと思える(自宅でヘッドホンを着用して視聴した感想)。
 主人公を訪ねてきた母親は数日で音を上げて、夜中に出て行ってしまったが、音だけでなく夜になれば焼却炉の炎で空は赤々と光っているし、「肉が焼けるにおい」もひどいだろうな。咳込んでいたのは、空気に灰が混じっているからだろうし。
 この母親は、かつて掃除婦として裕福なユダヤ女性に雇われており、彼女が茶会の名目で仲間を集めては陰謀を企んでいた、と主張する。そんな馬鹿げた陰謀論を持ち出してまで、「だから虐殺されるのは自業自得だ」と自分を納得させなければならなかった(できなかったので逃げ帰った)。しかし主人公は、そんな言い訳を必要とする段階をとっくに超えている。塀の中は「関心領域外」だ。夜もぐっすり眠る。

 とはいえ彼女以外の家族はそこまで図太くなく、赤ん坊も含め、全員大なり小なり睡眠障害を抱えている。そのことも彼女の関心領域にはない。いや、「環境音」も赤く輝く夜空も、人体が焼ける臭気も、その発生源を無視することさえ出来れば、慣れてしまえるかもしれないけどさ、灰混じりの空気の中で生活するのは純粋に身体に悪いよ。それで「子供たちは健やかに育ってる」だもん。
 彼女は一人、ガーデニングに精を出し、ユダヤ人から奪った毛皮のコートを纏い、そのポケットにあった使いかけの口紅をつけて悦にいる。一見、彼女だけは満ち足りているようだが、すぐに口紅を神経質そうに擦り落とし、コートの裏地を付け替えさせる。子供たちが遊んでいた川にユダヤ人の遺灰が投棄されていたことが判ると、家政婦たちも総動員して全身を洗わせる。遺灰なんて四六時中吸い込んでいるし、肥料として庭に撒いて、そこで育った野菜を食べているのだが、遺骨の欠片まで見つけてしまっては、さすがに無視できなかったということなのだろう。

 そんなふうに「天国のような生活」の欺瞞が無視できなくなるたびに、「アウシュヴィッツの女王」はポーランド人の家政婦に当たり散らし、「夫におまえを焼き殺させる」と脅す。ザンドラ・ヒュラーは、『落下の解剖学』以上に存在感が圧倒的だ。
 一瞬でも画面から目を離せない、細部まで作り込まれた映画である。ただし、囚人たちのために作業現場に林檎を隠す少女のシーンをサーモグラフィ映像にした意味が解らん。ググれば監督自身の解説は出てくるが、それを読んでも、奇を衒い過ぎて滑ってるとしか。

「関心領域」感想

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