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ジュディ 虹の彼方に

 2019年公開。カタカナ表記が「レニー」から「レネー」になったのは、本人が訂正したからか。姓も昔は「セルヴィガー」表記が一般的だったよな。まあとにかくゼルウィガーを観るのは『アパルーサの決闘』(2008)以来だが、単に私が避けてたからだけじゃなく、2011~15年はキャリアが空白だったのか。

 最初に観た『ザ・エージェント』(96)と次の『ライアー』(97)ではめっちゃ可愛かったが、『ブリジット・ジョーンズ』(2001)以降は何をやっても滲み出る「わたしってこんなバカでがさつな女も演じられるのよ、本当は全然違うんだけどね!」が鼻につき、最初は可愛く思えた鼻にかかった声と舌足らずな話し方にもイラつくようになっていった。
 それでも、「昔は、昔は可愛かったら!」と諦めきれずに観たのが、『エージェント』の前の『草の上の月』(96)。役柄としては悲劇のヒロインのはずなのに、ヴィンセント・ドノフリオ演じるロバート・E・ハワードを無神経に追い詰めて、自殺の一因にすらなっているようにしか見えなかったから、むしろこのうざさが素なんだろう。
 リュック・ベッソンの『アデル』(2010)を観た時、主役のルイーズ・ブルゴワンが「顔がゼルヴィガーに似ている」というだけで(スタイルはずっといいし、10歳以上若い。声や喋り方ももちろん違う)、そのキャラが嫌いになり、途中からは観続けるのも苦痛になったのには、そこまでゼルウィガーが嫌いなんか、と自分で自分に驚いた。そこまで嫌うことないやん、と自分に引いた。
 まあ、そのことがなくても、つまんなかったんだけどね、この映画。

 それっきりで、低迷していたことすら知らなかったんだが、アマプラの配信が終了間近だったのと、オスカーを獲ってるということで本作を観た。以下、一応ネタバレ注意。
 まず、全然別人に見えるので驚く。ジュディ・ガーランドは『オズの魔法使い』のビジュアルしか知らんので(後は54年版『スタア誕生』のポスターくらい)、晩年の彼女に似ているのかどうかは判らない。だが、濃いメイク、深く刻まれた皺、痩せ衰えた身体。見た目だけではない。声は低めで、しゃがれている。劇中では結構、舌足らずになってたりもするが、それは酒や薬で呂律が回らなくなっている場面であり、しゃんとしている時は歯切れがいい。
 加えて、表情、姿勢、仕草、何から何まで「ゼルウィガーらしさ」を消し去っている。しかし何より大きいのは内面から滲み出る「ゼルウィガーらしさ」、上で述べた「わたしってこんなバカでがさつな女も演じられるのよ、本当は全然違うんだけどね!」が完全に封印されていることだ。お蔭で作品に没入でき、純粋に楽しめた。

 プロットは単純で、落ちぶれたスターの最期の日々と、彼女がそうなってしまったのも無理はないと思わせる過酷な少女時代が交互に描かれる。後者が本当に過酷で、少女ジュディが大人たちから受ける搾取がえげつない。にもかかわらず、画面は映画『オズの魔法使い』ばりにカラフルなのが、余計にえげつない。
「現在」パートもそこまでではないがカラフルで(つまり全編カラフルで)、かつ場面ごとどころかカット単位で色調を揃えているので、目に愉しかった。
 少女ジュディがMGM社長のルイス・メイヤーに詰められる冒頭から、老いた(まだ40代の半ばを過ぎたばかりだが、心身ともに衰え切っている)ジュディの破綻した日々と過去の過酷な日々とが交互に続き、尺の3分の1まで進んで、ようやく〝老〟ジュディが歌い出す。

『シカゴ』(2002)で歌った時は、本職でない割には巧かったが(別に当時のゼルウィガーが嫌いだったからと言って、全否定したいわけではない)、何しろキャサリン・ゼタ・ジョーンズが巧すぎたんで、どうしたって霞んでしまっていた。あのジュディ・ガーランド役で、ここまで引っ張るだけ引っ張って、『シカゴ』に毛が生えた程度の歌唱力だったら目も当てられないだろう、でもオスカー獲ったのは演技力だけじゃなくて歌唱力も評価されたからだっていうしな……と思いつつ、ストーリーに身を任せていたが、うん、評価されただけのことはあるわ。『シカゴ』の時とは全然違う。伸びやかで力強い。
 本物のジュディはもっとすごかったはずで、それにもかかわらず潰され、なおも歌声は失われなかったのにもかかわらず、ついに復帰を果たせないまま早逝してるんだよなあ。なんとも切ない。
 劇中でも、素晴らしいパフォーマンスと、酒と薬でへろへろになってまともに歌えないステージとが交互に来る。圧巻は最後から2番目に歌う「サンフランシスコ」で、前に一度失敗している曲を、今度は見事に歌い上げる。そして最後の最後に来るのは「虹の彼方に」。しかし彼女は……という、まあ尺に制限のある映画におけるプロットはすべてのパターンが出し尽くされて、そこから多少外したところで、すでに似たようなものはいくらでもあるわけだ。映像フィクションでまず重要なのは映像と役者の演技と音響であって、プロットはそれらを最大限魅せるためにあるべきだ。奇を衒えばいいってもんじゃない。いい意味での予定調和でした。

 で、せっかく復活したかに見えたゼルウィガーだが、その後、ほとんど映画に出てないし、最新作はブリジット・ジョーンズの続篇だし、大丈夫か?

「草の上の月」感想
「アパルーサの決闘」感想

「アデル」感想

映画感想INDEX

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アラヴィンダとヴィーラ

 一段落ついたので、ブログを再開します。とりあえず週1で映画感想。
 なお、カテゴリが「思い出し鑑賞記」なのは、数年書き溜めた映画感想から、人に見せられる内容のものを加筆修正して上げているからです。再鑑賞はしていないので「思い出し」。では、以下ネタバレ注意。

 何これ。
(いや、いいところはすごくいいんだが、そのせいで余計に悪いというか「変」なところが際立つ……)

 鑑賞後、あまりに混乱したのでネットでレビューを漁る。荒唐無稽だったり御都合主義だったりする展開もある、という批判的レビューはあったが、問題はそこじゃないだろ??? ヒロインが生死不明のまま終わるって、どういうことだよ???? いや、生きてるには違いないが、瀕死状態で病院に運ばれてって、その後は言及すらされないって。元気に語り部やってたのは、一緒に殺されかけた脇役のおっさんがだよな? マジでヒロインどこ行った? なんで誰も(登場人物も視聴者も)気にしてないの???
 それに最後に主人公が指示した場所ってどこ? その住所が捨てられたのはなぜ? それに気づいた主人公の反応は、どういうこと? 誰か解説してくれてる人はいないのかとググったが、誰も言及すらしてない。なんで? 私の理解力がカスなの?  消息不明のヒロインといい、私だけ別の映画を観たの?

 インド映画は第1次ブーム火付け役の『ムトゥ』(1995公開。日本公開は1998)は当時、京都在住だったが、東京在住の友人から評判を聞き、遅れて大阪で公開されると、早速赴いて観た。2匹目の泥鰌を狙って多くのインド映画が劇場公開されたりビデオリリースされたが、その中で観たのは『ジーンズ 世界は2人のために』(1998)のみ。「まあ、こんなもんか」で、そのうちブームも終わり、第2次ブームでは同じくラジニカーントの『ロボット』(2010)と『ボス』(2007)を観ただけで、2010年代後半に始まった第3次ブームには乗り損ねた(2025年時点では、ブームは終ったとか続いているというよりは、インド映画というジャンルが日本にようやく定着したと言っていいと思う)。
 つまり、インド映画はこれでようやく5本目なのだが、事前にちょっと調べた限りでは、アクション映画であると同時に、だいぶ重い社会問題も扱っている、とされていた。南インドの農村地帯では派閥(英語でfactionファクション)抗争が宿痾となっているのだそうだが、それを格好の素材としたバイオレンス映画も数多く作られ、「ファクション映画」という一大ジャンルを築いてもいるという。かつて日本のヤクザも血腥い抗争を繰り広げ、それをネタに多くの娯楽映画が作られたが、規模が違う。

 で、一般的なファクション映画では、善の派閥が悪の派閥を倒してめでたしめでたし、だが、本作は主人公が故郷の抗争を終わらせようとするのだという。まあ実際観てみたところ、序盤で主人公が留学から帰って来たら、迎えに来た父親が殺されたので、いきなり覚醒して暗殺者たちをバッサバッサと鎌で刈り倒し始めるので、ああ、こういうリアリティラインなのね、となる。
 なお、主人公ヴィーラを演じたナンダムーリ・ターラカ・ラーマ・ラオJrは、見覚えあると思ったら、『RRR』の主演。上記のとおり未見だが、「ナートゥ」ダンスで知ってた。

 2時間40分余り(クレジットは最後のシーンにちょっと被さるだけなので、みっちりドラマが詰まっている)、歌のみが2回、ダンスありの歌が2回と、だいぶ少ない。内容的に組込みにくいだろうと予想はしていたが、ダンスなしの歌の1曲目は父親の葬儀で専門職っぽい人が歌う挽歌なので実に自然、2曲目は後半に主人公が歌う、母の想い出の歌で、セットや演出が妙に安っぽいことが引っかかったが、挿入の仕方は自然。
 しかしダンスのほうは、2曲とも浮いてる。中盤は主人公が都会へ出るのと並行してヒロインのパートが開始するのだが、コメディ色が強すぎてチグハグな印象が強い。主人公が恋に落ちるきっかけは、彼女が「暴力によらない解決」のきっかけを与えてくれた上に、「大学でファクショニズム(派閥抗争)研究を先行している」という、作品の主題に相応しいものである。しかし、そこで始まる歌とダンス(および映像)はそんな動機とはなんの関係もない普通のラブコメっぽい内容であり、主題と噛み合わないこと甚だしい。しかもなんかPV的なふわっとした映像が続くだけでダンスパートそのものは少なく、ミュージカルでは歌よりダンスのほうが好きな私としては大いに肩透かしを食わされた気分だ。
 2曲目のダンスは、さらに脈絡がなく、何この作品となんの関係もない歌詞と映像(衣装やセット)は。それまでシリアスな場面が続いてたのに、いきなり差し込まれ、いきなり終わって、再びシリアスな場面に切り替わる。いやほんまに、何これ。

(批判ばっかりじゃないですよ、本記事の後半では賞賛もしてます。最後までお読みください)

 主人公がヒロインから問題解決のヒントを得る、というアイデア自体はいいんだが、大学で専攻しているという割には、専門的な知識を披露する場面もないし、そもそもそんな知識を持っているようにも見えない。「暴力ではなく話し合いを」という陳腐極まりない台詞を吐くだけである。それを受けた主人公が、敵の第一陣を完膚無きまでにボコした後(まあ少なくとも殺しはしなかったが)、ヒロインとその弟を拉致した第二陣に対し、「二人に手を出したら殺す」と脅し、ビビった拉致犯たちが二人を解放すると、「彼女の言ったとおりだ、話し合いで解決できた」などと宣った時には、「いや、それは違うだろ」と思わず(小声で)ツッコんでしまった。

 と、ツッコミどころは多々あれど、「派閥抗争という暴力の連鎖の終結」という主題については、本作の落としどころはかなり優れていると思う。「ラスボス」は敵派閥の首領にして、30年の抗争の幕開けとなる最初の殺人を行った男である。もはや老いている上に、主人公によって負わされた傷が癒えていないので、いくら周囲を手下で固めようと、主人公にとっては容易に殺せる相手である。
 しかし彼の脅威は、単純な暴力ではない。彼の望みは暴力と憎悪の連鎖の中に生きること、自分の死後もそれが続くことである。そのためには、我が子を殺すことすら厭わない。そんな彼を殺しても連鎖は止まるどころか、ますます強固になるだろう。主人公もそれを理解している。

 彼はもはや「暴力と憎悪の化身」であり、実質的に不死である。といっても抽象的な話ではなく、「個人」ではなく「集団」の暴力の擬人化として見ると、非常に説得力がある。

 このラスボスを演じるジャガパティ・バーブがまた、凄まじく説得力のある役者である。完全にファンタジー級な主人公の強さを除けば、比較的リアリズムを重視しているであろう作品において、「暴力と憎悪の化身」という怪物を、半ば神話的でありながら同時に生々しく演じている。
 そんなラスボスを殺して勝利宣言するのではなく、密かに殺した上で「尻尾を巻いて逃亡した」ということにするのは最善の解決策である。しかも本人にしてみれば最大の望みが叶わないのだから、最大の懲罰にもなる。異世界ファンタジーだったら、不死身のラスボスを密かに封印した上で「力を永久に失い、見苦しく逃亡した」ということにする、といったところか。
 秘密を共有するのが、夫に息子を殺された母親で、彼女が選挙に立候補する、という結末もいい。やや綺麗事過ぎると言えないこともないが、ラスボスの始末がこのとおり、だいぶ地に足着いているのでバランスが取れている。

 派閥抗争が現実の現在進行の社会問題なだけに、綺麗事では嘘臭いし、かといってリアリズムを気取って何も解決しないのも、ある意味安易である。だから私は、この「落としどころ」は良く出来ていると思う。それだけに余計、「……で、ヒロインは?」の感が強いんだよな……で、ヒロインは?

『ロボット』感想
『ボス その男シヴァージ』感想

『スラムドッグ$ミリオネア』感想

『LION/ライオン 25年目のただいま』感想(オーストラリア人夫婦の養子になったインド人少年のノンフィクション。開始から3分の1は歌って踊らないインド映画)

映画感想INDEX

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あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます。今年は小説でお目に掛かれるよう頑張ります。

 というわけで急に忙しくなったので、ブログはいったん休止します。映画感想(のうち人に見せられる内容のもの)のストックはまだあるので、また再開する予定です。

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