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人生スイッチ

 2014年公開。一応ネタバレ注意。
 アルゼンチン映画は『モーターサイクル・ダイアリー』(2004)以来2度目だが、あっちは時代設定が1950年代、舞台はほぼアルゼンチン国外という点だけでもアルゼンチン国内を舞台とした現代劇である本作とはだいぶ違う。その上、製作総指揮がロバート・レッドフォードなのもあってか、だいぶアメリカ映画的だった(「きれいにまとまってる」感が特に)。
 中南米映画はそんなに観てるわけじゃないが、本作の風刺と暴力のどぎつさはまったくUSA的ではなく、ヨーロッパ映画に近い。

 原題Relatos SalvajesはRelatos(「物語」複数形) Salvajes(「野蛮な、野生の」複数形)で、英題Wild Talesは直訳だな。そのとおり、原始的な衝動で行動してしまった人々を描く、暴力で彩られたオムニバス映画だが、なんでこんな邦題? 原題を訳しても「ワイルド・テイルズ」とかカタカナ英語にしても日本人にピンと来ないのは確かだが、もっとどうにかできただろう。

 6つのショートストーリーから成る2時間の映画だが、時間配分が見事に10分、10分、20分、20分、25分、30分(+エンドクレジット5分)となっている。ダミアン・ジフロン監督はTVディレクターでもあるそうだが、TVよりずっと尺の融通の効く映画で、なんでここまで律儀に?
 短い話から長い話へ、という構成なのは解るが、ここまできっちり時間配分されいてもいなくても、作品の出来には特に影響がなさそうなんで、かえって「なんで?」という疑問が強まる。それはともかく、風刺の対象は個人個人の愚かさおよび社会の腐敗である。社会の腐敗を対象とすると、自ずと個人個人の愚かさも風刺することになるが、話によっては後者だけが対象のものもある。

 1話目「おかえし」(10分)、2話目「おもてなし」(10分)、3話目「パンク」(20分)がいずれも暴力による死で終わり、笑えるけどちょっと食傷してきたところに(何しろスカトロまである)、4話目「ヒーローになるために」(20分)が暴力はあるが、誰も死なず大怪我もせず、主人公は「ヒーロー」になって家族とも和解するという、(やや皮肉ではあるが)ハッピーエンドでちょうど半分の1時間。
 5話目「愚息」(25分)が上流社会と司法の腐敗と個人の愚かしさは笑えるが、これがアルゼンチンの現実なんだろうな(「ヒーローになるために」と同じく)、と思うとかなり引く。そしてこれも暴力による死で終わる。6話目「HAPPY WEDDING」(30分)は、結婚披露宴の最中に新郎の浮気に気づいた新婦の大暴れ。彼女の怒りとともに物理的な暴力もエスカレートしていき、また暴力で終わったらさすがに辟易するぞ、と懸念するも「あーはいはい、お幸せにね」というオチに。終わりよければすべてよし。結末の印象が物語全体の印象を左右するので、作品自体の後味も悪くない。

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オッペンハイマー

 2023年公開。一応ネタバレ注意。
 4つの時間軸が同時進行する。①1954年、原子力委員会の聴聞会で追及を受けるオッペンハイマー。②①の席上(および休憩時)における、オッペンハイマーによる回想。学生時代から原爆開発・投下を経て聴聞会に至るまで。③1959年、①で原子力委員会委員長だったルイス・ストロースの商務長官就任の承認を巡る、上院での公聴会。④③の席上(および休憩時)、ストロースによる回想。オッペンハイマーとの交流が始まる1947年から公聴会終了まで。最後に1963年のエンリコ・フェルミ賞授与式。

 もちろん原爆開発からを語る②が主軸であり、尺も長く割いているわけだけど、しょっちゅう①③④が挟まる。①‐④それぞれの物語は時系列どおりに進行しているとはいえ、①③④はかなり断片的なシーンしかなく、それらが頻繁に②に挟まるので、全篇にわたってブチブチの細切れとなっている。①②はカラー、③④はモノクロと区別は付けているが、中盤から④の時間軸のはずなのにカラーの場面が挟まる。カラー/モノクロの区別は、時間軸ではなく視点(オッペンハイマーかストロースか)の区別だと気づくのにしばらくかかる。

 ……こんな構成にする必要あったの? 無駄に複雑、いや煩雑にしてるとしか思えない。『TENET』で過去からの遡行が逆回し状態だったのも「映像としておもしろい」という以上の意味があったようには思えなかったが(途中から思考を放棄して観ていたので、感想はブログに上げません)、本作ではそんな意味すらないじゃん。
 原爆表現については後述するが、それよりも何よりも、とにかくテーマそのものがぼやけてる。②で原爆を開発し投下に至らせたオッペンハイマーが、②では国家への忠誠心を疑われて裁かれる。若きオッペンハイマーが共産主義と関りを持っていく様子が②で描かれ、並行して①でそのことが非難される。そして①で聴聞会側が水爆について追及を始める(オッペンハイマーが水爆開発に当初から消極的だったのは、ソ連を利するためではないか)と、②でも水爆開発の話が出てくる。②でいよいよ原爆完成の目途が立ったものの、ドイツが降伏してしまう。「ドイツより先に完成させるぞ」と一致団結してきた研究者、軍人たちの間で温度差が露わになり始め、オッペンハイマーの態度にも迷いが出てくる。①でも「原爆投下についての本心はどうだったのか、またそれは戦後の軍拡反対にどう関わっているのか。罪悪感からだったのか、ソ連のためだったのか」と追及の方向が変わってくる。

 2023年にもなって、オッペンハイマーの軍拡反対がソ連のためだったかどうかをテーマにした映画は(少なくとも大金かけては)作られんだろうから、軍拡競争への危惧は本心からだった、ということでいい。そうすると本作において重要なのは、「オッペンハイマーは原爆投下自体をどう思っていたか」という問いである。史実のオッペンハイマーがそれを明言したことはない。本作においても明確にはされないが、罪悪感を抱いていたことは繰り返し示唆される。
 それに水を差すのが③④のストロースで、オッペンハイマーは悲劇のヒーローとなることで「原爆という大量殺人兵器の開発者」という不名誉を軽減しようとしている、と断じる。そうさせないために(彼が裁かれている姿を世間に晒さないために)、密室での聴聞会を仕組んだのだと明かす。1954年の聴聞会の時点では、すでに赤狩りへの批判が高まっていたから、オッペンハイマーを「赤」の疑いで裁いても、同情のほうが大きくなるのは明らかだったからね。
 これだけなら、作品に多角性を持たせるよい視点に思えるんだが……最後にストロース自身が、オッペンハイマーに恥をかかされた、というただの私怨を晴らしたいだけだったことが暴かれたんで、上記のオッペンハイマー批判の説得力がなくなってまうんだよな。③④に意味はあったの?となる。

 ストロースによる批判が無意味になると、残るは「オッペンハイマーは原爆投下に罪悪感を抱いていた」という示唆だけになる。これが本作の「答え」だとしたら、じゃあなんで、被爆の描写をあんなにふわっとさせたの?
 オッペンハイマーが広島長崎の被害報告会に出席する場面では、報告者の台詞と提示されるスライド写真に対する出席者たちの反応(呻く、愕然とする、目を背ける等)だけが映され、写真そのものがカメラに捉えられることはない。
 ふざけてんのか、と言いたいところだが、実は科学者や軍人、政治家たち(特にユダヤ人)が原爆開発を推進した最大の動機の一つである、「ユダヤ人迫害をはじめとするナチスの蛮行」も、具体的な描写・説明は皆無なんだよね。だから、これはまあいいとする(日本人以外の観客がより具体的にイメージできるのはホロコーストと広島長崎のどちらなのかは、とりあえず問わない)。
 本当にふざけてるとしか思えないのは、オッペンハイマーが「幻視」する、原爆被害の「イメージ」で、彼に喝采を浴びせる人々が「真っ白な光」に包まれていき、その中の一人の女性がアップになり、その皮膚が薄く、本当にうすーく「ペリペリ」と剝がれていく。
 原爆の「真っ白な光」に包まれて、あんなもんで済むわけないだろ。「薄皮ペリペリ」って、何あれ。日焼け?(笑)
 そのイメージ(画像はイメージです)を振り払ったオッペンハイマーが歩き出そうとすると、何かに足を取られていることに気づく。見下ろすと、真っ黒に炭化した死体(子供と思しいサイズ)を踏み砕いている。足を引き抜いて(さらに砕ける)、歓呼に包まれながら会場を後にする。
 一体だけかよ。投下時の死者だけで最も少なく見積もっても2都市併せて十数万、ってのは作中で繰り返さし言及されてるだろうが。せめて、通路に横たわる数十体の死体をバリバリ踏み砕きながら退場しろよ。客席で足を踏み鳴らして歓喜する関係者たちも、死体を踏み砕けよ。せめて、それくらいはやれ。

 なんかググると、アメリカの現状やらノーラン監督の事情やらを一生懸命代弁し、「あれが精一杯だった」と擁護し、批判するのは「それらの事情を解っていない」と逆に批判する、明らかに日本人による記事が幾つも見つかりますが、それらが正確だったとしても、「知るか、ざっけんな」としか言いようがないですね。あ、「ざっけんな」はノーラン監督に対してですよ。
「『オッペンハイマー』はただのエンタメなんだから、まともな原爆描写なんか求めるほうが間違ってる」という意見も見かけましたが、エンタメを見下した視点だと思います。だって、本作はエンタメとして成立してないじゃん。
「無駄に煩雑な構成にしてる」という冒頭の見解に戻りますが、上記のとおり、あの構成はテーマをぼやけさせただけで、観客に無駄な負荷を与えた以上の意味はない。むしろ、『TENET』で顕著だが、ノーラン監督は観客に無駄な負荷を強いるのが好きなだけではあるまいか。言い換えれば、監督一人にとってのエンタメ。原爆はそのためのダシだった、ということになる。
 キリアン・マーフィー、ロバート・ダウニー・Jr.をはじめとする錚々たる実力者揃いで、まあ熱演してたんだろうけど、それらをズタズタに切り刻んで交ぜ合わせた構成のせいで、全然享受できなかった。

『インソムニア』(2000)は際立って凡庸、『メメント』(2000)『プレステージ』(2006)、バットマンの『ビギンズ』(05)と『ダークナイト』(08)は可もなく不可もなくから(好みには合わんが)佳作、『ダンケルク』(17)は紛れもなく傑作、と来て、『TENET』(20)は……まあ偶には監督のやりたいことだけやっても……だったのに本作だから、もうがっかりだよ。『インセプション』(10)と『インターステラー』(14)はいずれ観るだろうけども(アメコミはそんなに好きじゃないので『ライジング』を観る予定はなし)。
 ジェームズ・キャメロン監督が広島長崎の二重被爆者である山口彊氏を主人公にした映画に取り組んでいるそうだが、どうせぬるい描写でお茶を濁すという危惧よりむしろ、めっちゃ頑張ってリアルな描写をスクリーンに映し出すことに成功した結果、何割かの観客にスプラッター映画として消費され、さらに切り取られてミーム化し、広島長崎が題材だとすら知らない無数の有象無象の玩具と化すという危惧のほうが強いかな……前者であっても、「薄皮ペリペリ」よりは遙かにましなものを見せてくれるのは間違いないしね。

『インソムニア』感想 
『ダークナイト』感想 
『ダンケルク』感想

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ランボー

 1982年公開。一応ネタバレ注意。
「PTSDを抱えたベトナム帰りが、社会に再適合できず排斥される」話であることは知っていた。冒頭から、みすぼらしい身形のランボーが、寒々しい山間の集落に戦友を訪ねていくと、母親から息子は化学兵器の後遺症で死んだ、と聞かされる。暗澹として町に下りると、余所者ということで保安官ティーズルに警戒され、執拗に絡まれる。

 ここまで来て、この後の展開も多少は知っていたので、「あ、これいわゆる〝なめてた相手が実は殺人マシーンでした〟じゃね?」と思い当たる。軽くググった限りでは、このジャンルの元祖を明言する記事は見つからなかったが、少なくともアメリカ映画においては本作が最初期に位置するのは間違いない。
 で、弱い者いじめをしていたつもりの保安官たちは、ランボーのトラウマを発動させてしまい、逆襲される。そこから無双が始まるわけだが、相手はマフィアでもテロリストでも、はたまた〝影の政府〟のエージェントでもない、公務員である保安官だ。汚職やらで住民を苦しめているので懲らしめればみんなが褒めてくれる、とかでもない。無双すればするほど事態は悪化していくわけで、まったく爽快感はない。

 案の定、州兵まで出動して山狩りとなるのだが、そこへ見るからに階級が高そうな軍人がやってくる。「彼は私の部下だ。私が訓練した、私の作品だ」「私は彼を守りに来たわけじゃない、あなたたちを守りにきた」「(彼と戦って)よく命があったな」
 この下り、あまりにもテンプレどおりすぎて笑ってしまったんだが、解ってるよ、まだテンプレはできてないよ、ていうか、これがテンプレになるんだろ? ジャンルそのものの元祖ではないにせよ、この下りの元祖ではあるんじゃないかな。

 スタローン本人の希望で、元の脚本よりランボーの台詞を減らしたそうだが、ちょっと減らしすぎたせいで、廃坑から脱出した後のランボーの目的が解らない。保安官事務所にいるティーズルに狙いを定めたところでようやく、目的はこいつの排除もしくは仕返しだと見当がつくが、それまでがかなり長い。その間、州兵から武器とトラックを強奪するわ、そのトラックをガソリンスタンドごと燃やすわ、町の鉄砲店も爆破するわで、それはもう景気よく破壊の限りを尽くすので、観てるこっちも後先とかどうでもよくなって愉快になってしまう。
 この辺なにか、スタッフ間で齟齬があった感じ? どうも状況の深刻さと爆破の景気のよさが噛み合ってないんだよね。ガソリンスタンドの誘爆で、車が次から次へと、それはもう気持ちよく吹っ飛ぶんだもん。

 台詞を減らしたこと自体は正解で、最後の真情吐露が際立つ。スタローンの演技は繊細で、大味なマッチョのイメージが固着してしまったのはもったいなかった、と思わせる。

 以下、余談。
 73年生まれの私にとって、スタローンはいつも顔から血を流している半裸のマッチョで、顔がくどすぎるのも相俟って、「大味なハリウッド映画」の象徴だった。80年代、『ロッキー』(1976)シリーズと『ランボー』シリーズは各洋画劇場で繰り返し繰り返し繰り返し放映されていたと記憶しているが、一度もちゃんと観たことはなかった。
 90年代になって、映画好きの友人ができたこともあって、「『ロッキー』も『ランボー』も1作目は2作目以降とは別もの」「『ロッキー』1作目は脚本が秀逸」「『ランボー』1作目は意外に重い」といった情報がちらほら入ってくるようになり、興味を抱いたものの、やっぱりくどすぎる顔がネックになって、永らく敬遠してきたのだった。

 で、近年、アマプラに入って、『ロッキー』(1976)を観て、おお、なんか脚本もカメラワークも演技も演出もだいぶアメリカン・ニューシネマっぽい、「ロッキーのテーマ」かっこいい、でも顔がくどくて胃がもたれる、しばらく見たくない、となる。間を置いてからようやく『クリード チャンプを継ぐ者』(2015)を観て、スタローンの脚本も演技もアカデミー賞にノミネートされるだけのことはあるな、やっぱり「ロッキーのテーマ」かっこいい、でも顔がくどくて胃がもたれる、しばらく見たくない。で、ようやく『ランボー』を観るに至ったのでした。
 ちなみにスタローンの顔のくどさには、さすがに慣れたようで、今回は胃もたれを起こすことはありませんでした。でも今後、『ランボー』『ロッキー』『クリード』の2作目以降を自主的に観ることはないでしょう。

 なお『ロッキー』と『クリード』の感想は、上記がすべてなのでブログには上げません。ちょっとだけ付け加えると、『ロッキー』はニューシネマっぽさゆえに気に入りましたが、それ抜きでもすべての要素においてレベルが高いので、ニューシネマに興味の無い人にもお勧めです。『クリード』も、『ロッキー』が気に入ったのなら(熱狂的ファンはどうだか知りませんが)、いろいろ感慨深くなれると思います。

 余談その2。
 ベトナム帰還兵のPTSDについては、PTSDという言葉が日本で一般的になる前から知っていましたが、彼らが祖国で受けたひどい仕打ちについてはもっと後、デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)で知りました。全41章から成る客観的なデータと記述はずいぶんと参考にさせてもらったものですが、件の情報は第34章中にあります。
「ベトナムの特異性」という小題で「兵士の多くが十代」「途切れることなく続く戦闘」「ゲリラ戦なので敵が汚い手段を使う」等、6項目が挙げられた後、急に様子がおかしくなる。いきなり感情的になり、米兵たちが女子供を殺す羽目になったのは北軍とベトコンが卑劣だったからであって米軍の戦略・戦術が誤っていたせいではない、彼らが帰還後も苦しんだのは治療や社会復帰支援が足りなかったからではなく、賞賛し、パレードを行い、勲章を与え、銅像を建ててやらなかったからだ、と強く主張する。
 しかし著者が最も激しい怒りを向けるのは、ベトナム人でも米国の政府や軍でもなく、国内の反戦主義者たちである。彼らによる帰還兵の迫害は、誇張ではなく本当にひどかったことは多くの資料から確認できるが、ベトナムに行っていない著者(1956年生まれ。同書の解説によれば、軍歴は長いが殺人の経験はない)の怒りはそのことに留まらず、もうちょっとで「背後の一突き」説に達しそうな勢いである。
 だがしかしそれ以上に強い言葉で非難するのが「Vサイン」の意味を捻じ曲げて「ピースサイン」としたことで、えっ、一番怒るのそこなん?と戸惑ったものです。その後は何事もなかったように再び客観的な記述に戻るんで、余計に。

 まあそういうこともあって、『ランボー』はいつか観たいと思っていたのでした。

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バービー

 2023年公開。バービー役のマーゴット・ロビーは「バービーみたいな」ゴージャスな美女だが、30年前だったらニコール・キッドマンがやってそう(20年前でもギリいけたかも)。で、そっちのほうが「人形っぽさ」は出ていただろうな。ケンのライアン・ゴズリングは『ラ・ラ・ランド』(2016)の時は気が付かなかったが、『ラースと、その彼女』(2007)のラースじゃん。「人形の恋人」再び、ってのは関係ないか。以下、ネタバレは特になし。

 観終わった感想は、「何もかもが中途半端」。「バーベンハイマー」に対する公式の対応は、まさにその「中途半端さ」の象徴だな、と。
 いろんな方面を風刺しているようでいて、何もかもが中途半端、というのは『チーム・アメリカ/ワールドポリス』(2004)みたいである。金は遙かに掛かってるが。排泄物系の下ネタの許容ラインを少しだが超えてるとか、人形キモいといった生理的反応を差し引いても、全篇を通しての「ほーら、過激だろ(大して過激でもない)」ノリが鼻についた『チーム・メリカ』に対し、少なくともその点では『バービー』の風刺は巧みだった。
 デザインも『チーム・アメリカ』は『サンダーバード』のパロディという以上に見るべきものはなかったしな。バービーランドのデザインは本当に素晴らしくて、そこだけでも観る価値は充分にある。現実世界のカリフォルニアと「ケンダム」には特にない。

 そうは言っても、「モンタージュ」と「『パール・ハーバー』はクソだ」は名曲です。『バービー』のほうは、ケンたちのダンス(と歌)はよかった。

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ゲット・アウト

 2017年公開。ジャンルとしてはホラー、ブラックコメディ。ネタバレ注意。

 オバマ政権下、黒人青年クリスは、恋人で白人のローズの実家を訪ねることになる。交際相手が黒人だと家族に告げていないというローズ(「言う必要ある?」)に、クリスは懸念を示す。車で実家に向かう途中、飛び出してきた鹿をはねてしまう。作中では触れられていないが、この鹿はblack buckという種類で、この名前は「白人の女を襲う黒人の男」を指すスラングでもあるそうだ。
「異人種の男は我々の女を狙っている」というのは、レイシストたちが抱く被害妄想の中でも最も強力なものの一つで、かつてのアメリカ(特に南部)では、「白人の女を見た」(=やりたいと思ってる)と言いがかりを付けられ、大勢の黒人男性が殺されてきた(さらに遡れば、ヨーロッパでは同じ理由でユダヤ人男性が殺されてきた)。今なおアメリカでは、黒人男性と白人女性のカップルは白い目で見られがちだという。
 郊外の立派な一軒家に住むローズの両親はクリスを歓迎してくれるが、会話はどこか噛み合わず、緊張感が漂う。使用人が2人いるが、どちらも黒人なのも引っかかる。遅れてやってきた弟は、クスリでもやってんのかというハイテンションで、やたらと絡んでくる。実はこの家には恐ろしい秘密があり……

 ホラーというジャンルそのものが嫌いなわけではないが、嫌いなホラー作品は多い。ジャンプスケア(急に何か飛び出してきたり、大きな音を鳴らしたりでびっくりさせる系)やら不安を高める音響やカメラワーク、感染を連想させる不衛生な環境や腐敗したり膿爛れたりした人や動物(生死問わず)といった、「辺縁系を刺激する」演出のことごとくが大嫌いだからだ。安直な手法だし、そうと解ってるのにしっかり反応してしまう自分の辺縁系にも腹が立つ。
 後、大量の血を見ると、なぜだか自分でも解らんが、ヒステリックな笑いが込み上げるという困った癖がある。ちっとも可笑しくないのに笑いたいというのは本当に変な気分で、とにかく困惑させられるので、実際に笑ったことは一度もない(なお現実でも二回ほどだが血だまりに遭遇してしまったことはあるが、当然ながら笑いの発作に襲われたことはない)。そんなわけで、「どうだ怖いだろう」と血塗れ画面を出されると微妙な気分になってしまう。ホラーならまだいいが、耽美な作品でこれをやられると、本当に困る。

 その点、コメディ系ホラーなら、辺縁系刺激演出も大量の血も、こっちを笑かそうとやってるんだと思えば腹も立たない。それでつまんなかったとしても、まあ好みの問題だしな。

 本作は辺縁系刺激演出はほぼなく(大量と言えるほどの出血もなく)、「様子のおかしい黒人使用人たち」のような「じわじわくる怖さ」で勝負しており、かつおもしろいホラー/コメディだった。
 ジョーダン・ピール監督は父親が黒人、母親が白人、妻は白人であり、白人の恋人の実家を訪ねて居心地の悪い思いをする、というシチュエーションは実体験に基づいているそうだ。
 クリス役は『ユダ&ブラック・メシア』(2021)で黒人指導者のフレッド・ハンプトンを演じたダニエル・カルーヤ。本作では28歳という年齢より、むしろ若く見えるのに、たった4年でえらく老け込んだんだな。
「ユダ」役のラキース・スタンフィールドも本作に出ていて、出番は少ないながら「高所得層の白人高齢者男性」の喋り方、仕草、表情の黒人青年、という異様な役を巧みに演じていた。『トロピック・サンダー』(2008)のロバート・ダウニー・Jrを思い出す(「黒人役に挑む演技派白人俳優」の役で、役に入り込むあまり四六時中、黒人の扮装で黒人のように振る舞い続け、共演者の「本物」の黒人をイラつかせる。ダウニーJrはこれでアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたが、2026年現在どころか本作公開当時でも炎上しかねないな)。

 ローズの母親で心理療法家のミッシーを演じたキャスリーン・キーナーは、『マルコヴィッチの穴』で強烈な印象を放った後はパッとしなかったので残念に思っていたが、ようやく存在感のある役。あの個性的な美貌は面影すらなくなっちゃったけどな。

 当初、用意されていた結末は、クリスが殺人犯として逮捕されるというもので、後味が悪いからやめたようだが、どのみちあの後、逮捕されるのは確定だよなあ。
 数えてないが、ローズが騙して連れて来た黒人は10人はいたようだし、弟の分も合わせれば倍にはなりそう。「成功例」は3人しか登場しなかったけど、残りの人たちはどうなったの? ビデオの中で祖父が「実現したのは最近だ」というようなことを言っていたので大半は失敗したんだろうけど、それでも3人しか成功してないってことはないだろう。3人だけだとしても、結末後、まだ1人残る「成功例」はどうなるんだ、とか。そういう細かい引っ掛かりが粗と言えば粗。
 脳移植といっても脳を丸ごと入れ替えるわけではなく、黒人の脳に白人の脳の一部を付け足す、という形式らしい。その辺の科学的かつ技術的な説明がふわふわしてるのは、粗というより御愛嬌。

『トロピック・サンダー 史上最低の作戦』感想
『ユダ&ブラッック・メシア 裏切りの代償』感想

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レイジング・ブル

 1980年公開。この作品について初めて知ったのは、英語の教科書だったんだよなあ。傷だらけでリングに立ってるデ・ニーロの写真も憶えてる。中3だったか高1だったか(試しにググってみたが不明)。それ以降は教科書では真面目に勉強しなかったからなあ。まあとにかく、映画公開から10年経ってない80年代末だ。
「レイジング・ブル」の名のとおり、実力があるのに怒りを抑えられない性格のせいで転落するボクサーの実話だというのと、演じたロバート・デ・ニーロの肉体改造がすごい、という内容だった。あと、モノクロだってことにも言及してたな。

 習慣的にビデオで映画を観るようになったのが90年代半ば以降で、当時は画質が悪くて、特に古いモノクロ映画は明度が低くて観るのがしんどかったから(画面が暗い映画を観ると、気が滅入って、悪くすると胃の調子までおかしくなる)、本作は避けていた。15年前の映画というのは、50代になった今の感覚じゃ「古く」ありませんが、20代の小娘にとっちゃ古かったんですよ。
 その後、DVDの時代に入り、デジタルリマスターで古い作品の画面も明るく見やすくなったが、その時までに映画をたくさん観ていた私の中で、デ・ニーロは嫌いとまではいかないが好きじゃない役者に分類されてしまっていた。「カメレオン俳優」とか言われてるけど、何やってもデ・ニーロにしか見えなくてな。なんか演技が平板な上にすごく「重く」て、周りから浮いてるし、観てて胃にもたれるんだよ。

 でもまあ、せっかくアマプラに入ったので有名なのは観ていこう。というわけで、30数年越しの『レイジング・ブル』。デ・ニーロがデ・ニーロに見えなくて、たいへんよかったです。有名な増量バージョンじゃなくて、ボクサーバージョンの時でもラモッタ本人に似せたメイクをしており、見た目からしてデ・ニーロらしくなくて、たいへんよろしい。
 肝心の演技も、ああ、これ! 『タクシー・ドライバー』(1976)以来の新鮮な狂気演技! これと本作の間だと『ディア・ハンター』(78)しか観てないが、すでにやや重くて平板な印象があり、本作より後の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)だとマジで胃がもたれて気分が悪くなったから、本作は演技が型に嵌まるギリギリ直前だったってことかな。85年の『未来世紀ブラジル』(1985)は脇役だったからなのか、しっかりイカレつつ力が抜けててよかったけど。それ以降はもうほんとに何をやってもデ・ニーロ。

 怒り狂う演技よりも、妻や弟に向ける猜疑心に満ちたじっとりとした眼差しが凄まじかった。圧力に屈して八百長試合をやり、その後、泣きじゃくるシーンも。
 ただ、上記の英語の教科書をはじめ、多くの媒体で紹介されている「怒りを抑えられない性格」が転落の原因、てのが解りにくい脚本ではあったな。実力の割に伸び悩んでいたのは、マフィアの後ろ盾を嫌悪する、という直情的ではあるが「怒りを抑えられない性格」とは直接には関係ない理由からだし。いつも弟が緩衝材となってくれていたお蔭で、周囲との直接の軋轢もあまり起こしていない。その弟を、「怒りを抑えられない性格」および異常な嫉妬心のせいで失ってしまう。
 その後は周囲と直接衝突するようになり、またますます自制が利かなくなったために転落した、というのは推測できるが、その過程がほぼ描かれないんだよなあ。

 それと弟を演じたジョー・ペシが、確かに名演ではあるんだが、先に観た『カジノ』(1995)での怪演が強烈すぎて、それに比べると印象が薄い……。「弟に去られたのが転落の原因」というのが解りにくい理由の一つかもしれない。
『カジノ』はジョー・ペシ以外にシャロン・ストーンもよかった(ヤク中になって以降)ですが、全体の7割を占めるデ・ニーロがデ・ニーロでしかないので、感想は上げない予定です(残り3割のうち、ジョー・ペシが1.8割、シャロン・ストーンが0.7割、それ以外は0.5割)。
 2番目の妻役のキャシー・モリアーティは、作中でも言ってるとおり、出会った時点で15歳。いや、無理ありすぎだろ……って1960年生まれだから撮影時は20歳かそこら!? 役と実年齢がそう離れていないというのに、これほど見た目も貫禄も無理があるケースはそうないだろう。
 代わりに作中での年齢が上がってくると、今度はいい意味で「ほんとに20歳!?」となる貫禄と演技力。しかもこれがデビュー作か。ただ、その後はこれを超える役には恵まれてないのね。

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アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル

 2017年公開。監督は『ラースと、その彼女』のクレイグ・ギレスピー。ネタバレ注意、になるんか?

 スポーツは実際に観戦すればおもしろいと思うのに、何故か積極的に観ようという気になれず、知ろうという欲求もなく、偶に自分でも「いくらなんでも、ここまで無知・無関心ってやばくね?」と危機感を覚えることがあるほどだが(しかし反省には至らないので、何も改善しないまま)、そんな私でも知っていた1994年のナンシー・ケリガン殴打事件。あれで「ホワイト・トラッシュ」という層を初めて明確に認識したんだよな。報道内容はうっすらとしか憶えてないが、「首謀者は前夫とその友人で、なんでこんなことをしたのかまったく理解不能なバカども。ハーディング自身はどこまで関わってたか不明だが、こいつもなかなかのバカで、とにかくバカばっかり」という感じだったように思う。

 事件から30年以上(映画製作の時点ではおよそ四半世紀)経って振り返っても、だいたいそういう感じの事件だったようで、今さら「真相」を追究するとすれば、「ハーディング(および前夫)はどこまで関わっていたか」だが、本作はそれを明らかにするものではない。事件の渦中およびその周辺にいた人々(ただし被害者のケリガンは除く)の証言を「忠実」に映像化しており、だから矛盾点もたくさんある。判断は観客に任せている。
 前半は、とにかく母親が強烈。演じるアリソン・ジャニーは何度か観ているはずだが、思い出せない。虐待を指導だと心の底から信じている親やコーチは多い(フィクションでも現実でも)。この母親も、娘に無理やりスケートをやらせたわけではなく、本人がやりたがるから多少強引な手を使ってまでして良いコーチをつけてあげたし、貧しい暮らしの中、ウェイトレスで働いたお金を注ぎ込んだり衣装を作ったりと、ずいぶん「献身」している。各地の大会等で優勝しても大金が入ってきている様子はなく、明らかに金目当てではない。「叱って伸ばす」というか、「罵って奮起させる」指導が有効だと本気で信じてたのも、試合前にわざわざ金を払って他人(たぶん通りすがり)に娘を罵らせていることからも確かだ。
 もちろんその背後にあるのは支配欲と嗜虐欲なので、娘がどんなに成果を上げても、満たされることは決してない。粗を探して、新たな支配と虐待の材料に使うだけだ。ということも、かろうじて推測はできる。しかしそうやって娘を支配し虐げていること自体にすら、まったく喜びを感じていないのが不可解で不気味である。これが作品上のキャラクターではなく、本人も少なくとも傍から見てそのような人物だったことは、差し挟まれる本人のインタビューから窺える。

 マーゴット・ロビー演じるトーニャ・ハーディングは、大柄でグラマラスで迫力があるが、実際のハーディングは小柄で可愛らしい容姿だった(映画本編の最後に当時の本人の映像が流れる)。マーゴット・ロビーが目玉と歯をひん剥き、顔を歪めて審査員たちを口汚く罵るのは笑えるが、ハーディング本人あるいは彼女に似た女優がそんなことをしたら、狂犬病のチワワ(可愛い小型犬ならなんでもいいが)を目の当たりにしたような悍ましさと痛ましさが先立って、まったく笑えなかっただろう。何より、夫に殴られるシーン(何度もある)が痛々しくて見ていられなかったはずだ。反撃しても威力がなさそうだし。演じるのがマーゴット・ロビーでよかった。
 セバスチャン・スタンはイケメン俳優に分類されてるはずなのに、髪形と髭と服装と演技で、ああもダサくてショボくなるんだなあ、と感心。しかし後で当時のジェフ・ギルーリー本人の写真を見たら、ダサい髪形と髭と服装をもってしてもなおイケメンと判別できる容姿で、なぜその恵まれた容姿を自ら損なっているんだと呆れる。その壊滅的なセンスの欠如は、事件の稚拙さに直結しているように思う。

 肝心の事件が起きるのは後半である。当時の報道から知っていたのは、とにかく無計画な犯行だった、ということだけで、具体的にどう無計画だったのかまでは知らなかったのだが、これが想像を絶するものだった。バカさの度合いはまるっきりコーエン兄弟作品だが、あちらのバカは戯画化されたものとしか見えないのに対し、本作のバカは嫌な生々しさがある。ノンフィクションでも誇張や戯画化は珍しくないが、本作のバカどもは、「想像を絶する」バカでありながら異様に生々しい。笑えるんだが、同時に顔が引き攣る。誇張や戯画化ではなく、本当にこれくらいバカだったんだろうと思わせる説得力がある。エンドクレジット時に「本人」たちのインタビュー映像の一部が出るのだが、口調や表情が彼らを演じた役者たちそのままであることが、その説得力を裏付けている。

 ハーディングは才能に恵まれ、逆境にも負けず、それを開花させることができた。周りのバカがいなければ、あんな事件は起きていなかったのは間違いない。しかし彼女が、本人の主張どおり一切関わっていなかったとしても、バカどもと縁を切れなかったのは本人もバカだったからだ。母親とはほぼ縁を切ることができていたんだから、本気になれば彼らとも縁を切ることができただろうに。
 本作はハーディングに同情的すぎるという批判が(特にフィギュアスケート関係者から)出ているそうだが、少なくとも彼女がバカだったという点に関しては容赦していないだろう。そしてそのバカさの原因が彼女自身だけにあるとするのは、あまりにも非情だ。

「ラースと、その彼女」感想

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コントロール

 2007年公開。写真家・ミュージックビデオ監督としてすでに著名だったアントン・コービンの初監督作品。英国のロックバンド、ジョイ・ディヴィジョンのボーカル、イアン・カーティスの伝記映画。

 ジョイ・ディヴィジョンは1976年結成で、1980年、初のアメリカ・ツアーへの出発直前にイアンが自殺(享年23歳)。ロック音痴なので、本作で初めてジョイ・ディヴィジョンを知る。まあ主演のサム・ライリーも80年生まれとはいえ、英国人でバンドをやってたにもかかわらず、「イアン・カーティスに似ている」と言われても「誰それ」だったというから。役者に転向して、本作の話が来て初めてジョイ・ディヴィジョンについて知ったそうだ。
 そういうわけで、確かにサム・ライリーとイアン・カーティスはよく似ている。ただイアンのほうは、明るい青い瞳(白黒写真でもはっきり判るくらい色素が薄い)が印象的だ。

 イアンの妻デビーにサマンサ・モートン。同年の『エリザベス ゴールデンエイジ』のスコットランド女王メアリーはあんまり憶えてない。美人にも野暮ったくも見える容姿だが、彼女からイアンを奪うベルギー人女性アニークのアレクサンドラ・マリア・ララは、いかにも当時のフランス系って感じで可愛い。『ヒトラー 最期の12日間』の秘書役はたった3年前だが、えらい違うな。少しふっくらしてたとはいえ、いかにも野暮ったいドイツ娘だったのに。本人はドイツ系でもフランス系でもなく、ルーマニア系なのか。

 あまりにも急激に人気が出てしまったが、その人気も、命を削るようにして詞を書き、歌っているのに、「かっこいいもの」として消費されるだけ、という形でしかない。妻と愛人、どちらか一人だけを選ぶことのできない弱さ……等々から来るストレスが如何に大きかったにしても、癲癇さえなければ生きていられたよな、と思わずにいられない。パフォーマーにとって、いつ起きるか判らない発作ほど厄介なものはそうないだろうし、加えて、どんどん悪化していくとなれば。意識消失も怖いが、作中の描写からすると、時には意識を保ったままの発作もあったようだ。意識はあるのに身体が不随意に動くというのも、それはそれで怖い。いずれにせよ、「コントロール不能」という恐怖だ。
 いや、ただでさえ生活が不規則な上に、飲酒はやめないし、薬もちゃんと飲まないんだけどさ。とはいえ効く薬をちゃんと飲まないなら擁護のしようがないが、効くか効かないかも判らない上に副作用もひどい薬を何種類も飲み続けなきゃならんのは、しんどいよ。

 一方で、どんなに本人がつらかろうと、他者を意図的に傷つけていい理由にはならんので、妻子に対する仕打ちは有り体に言ってクズ。夫婦のベッドで妻に背を向けて泣き、慰めようとした妻の手を邪険に振りほどく、というのは『アプレンティス』のトランプもやっていたが、あれほんまにうざいな。慰めようとしてくれるという確信がある相手の前で泣き、その慰めを拒絶するという憂さ晴らしまでする。慰める素振りすらしなかったり、一度の拒絶で引き下がれば、盛大に傷つくんだろ? 実際にあった出来事か否かはともかく、どちらの監督も彼らの「繊細さ」を表現したかったのかもしれんが、クズっぷりが強調されるだけである。
 それはそうと、マンチェスター訛りって聞き取りづらいな。

 後日読んだ『ストレンジ・スターズ』(ジェイソン・ヘラー)によると、イアン・カーティスはSFファンで、マイケル・ムアコックと親交があった。ムアコックはムアコックでロック界と関りが深いが、知り合ったのは偶然で、イアンがマンチェスターの本屋で『ニュー・ワールズ』誌(ムアコックが編集長を務める。当時はすでに不定期刊行になっていた)を買っているのを、偶々居合わせたムアコックが見かけたのがきっかけだそうな。コラボ企画を進めていたが、実現前にイアンが自殺してしまったという。

『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』感想(件のシーンには言及してません)

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ザ・プレイヤー

 94年公開。ロバート・アルトマン監督作は『ショート・カッツ』(1993)、『クッキー・フォーチュン』(1999)、『ゴスフォード・パーク』(2003)と来て、これで4作目か。どれも群像劇もしくはサブキャラがやたらと多かったが、一番最初に観た(4半世紀以上前)『ショート・カッツ』が一番おもしろかったな。登場人物が多い割にすっきりまとまってたのは『フォーチュン・クッキー』。『ゴスフォード・パーク』については以前ブログに書いた。
 それらに比べて、本作はちょっとゴチャゴチャしすぎだった。大勢いるキャラがみんなキャラ立ちしているのがアルトマン作品の特徴だと思ってたんだが、本作はカンヌ主演男優賞を獲ったティム・ロビンズを含め全員いまいちキャラが立ってない。そんな連中が入れ替わり立ち代わりするので、序盤は筋が追いにくい。肝心のハリウッド内幕の風刺もありきたり。当時でもありきたりだったと思うぞ。物語の帰結も。

 後、気になって仕方なかったのが、90年代も半ばだというのに、男女共にスーツから放たれる芬々たるバブル臭。ジャケットの肩パットがでかすぎて本人の肩からはみだしてるし、そこからウエストをほとんど絞らずにストンと落ちてるし、裾も長いんで全体にだぼっとしてる。カジュアルな服は別に違和感ないんだが、とにかくスーツがどれもこれも死ぬほどダサい。あまりにもバブル期の日本すぎるが、93‐4年のアメリカでもこうだったっけ? それともこれも風刺の一環?
 捨てられる愛人役のシンシア・スティーヴンソンが、なんか90年代前半~半ばって感じの柔らかい顔立ちがよかった。どう表現したらいいかわからんが、なんかふわっとして、どことなく浮世離れした感じというか。『KIDS』(95)デビューのクロエ・セヴィニーもこの系統だったな(だんだんきつめの印象になっていっちゃったけど)。スティーヴンソンのほうは、その後あまり出演作に恵まれなかったみたいだな。残念。

「ゴスフォード・パーク」感想

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わたしは最悪。

 2021年公開。ヨアキム・トリアー監督はデンマーク出身で、デビュー以来ノルウェーで活動する。ラース・フォン・トリアーの遠縁。
 デンマーク語とノルウェー語はかなり近いそうだ。ノルウェー映画を観るのはたぶん初めでだし、ノルウェー語をしっかり聞くのも初めて。ゲルマン語系の単語は「キュンスト(芸術)」くらいしか聞き取れんかった。以下、ネタバレ注意。

 要は『ブリジット・ジョーンズの日記』系統だな。ダメ女映画。ダメと言っても、本作のヒロイン、ユリア(レナーテ・レインスヴェ)の場合は、大概のことは小器用にできるので、「本当にやりたいこと」が見つからないタイプ。「これだ!」と飛びついて、ある程度こなせるようになると「やっぱり違う」となるのを繰り返す。なまじ小器用なせいで努力しないんだもん、このヒロイン。ただし「勉強が出来るというだけで医大に入れる」ほど頭がいいようには見えないんだけどな。インテリだってのには納得できる程度ではあるが。
「この先の人生に何かキラキラした素晴らしいことが待ち受けているはず」「いつか、私が主人公の〝私の物語〟が始まるはず」という期待、それも「受け身」な期待はなあ……年齢を重ねるにつれて、呪いと化していくよなあ……

 そんな彼女にとって、恋愛とはもちろん「私にキラキラした素晴らしい〝私の物語〟をもたらしてくれるもの」で、しかもその先に「家庭」や「子供」は望まないので、破綻しないほうがおかしい。というか、むしろよく約10年ももったものだ。そして30近くにもなって、性懲りもなく同じことを新し恋愛に求める。マジック・マッシュルームでラリって醜態を晒すのも、30にもなってやることじゃない。まあ、30にもなってるからこその迷走だとも言えるかもしれない。クスリで「何か素晴らしい体験ができるかもしれない」ってのも、受け身の発想だわな。
 コミック作家のアクセル(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)は、ユリアと齢が離れすぎているがゆえの齟齬を除けば出来た彼氏すぎる一方、なぜあそこまでユリアに執着するかが理解できん。彼女の衝動性に「惹かれる」までなら解るが。
 そして、そういう彼にコンプレックスを抱いていたユリアが、「コンプレックスを抱かせない相手」に靡く、というのも解るが、その相手であるアイヴァン(ヘルベルト・ノルドルム)のどこに、「コンプレックスを抱かせない」以外の惹かれる要素があったのかも、さっぱり解らん。……いや、変な顔じゃん。「若い」というけど、老け顔だし。来日した外国人男性が、本国ではイケメン扱いされてたのに日本ではそうでなくてショックを受けたり、その逆だったり、という事例は多いらしい。私も英会話教室で両方の例を実見したことがある。これもそういう美的感覚の違いなんだろう。

 スピリチュアルと環境保護に目覚めてしまった恋人に息苦しい思いをしていたアイヴァンが、ユリアに惹かれたのは解る。マジック・マッシュルーム事件でも愛想を尽かさなかったのは立派だ。しかしユリアの妊娠への対応はクズだし、そんな過去などなかったかのように女優に子供産ませて幸せ家族をやってるのは面の皮が厚すぎる。
 アイヴァンの現在を知っても淡々と仕事をこなすユリアは、成長したと言っていいんだろうか。いろいろ諦めただけなんだろうか。もちろん以前の彼女なら、仕事を放って果てしなく嘆き悲しんだに違いないから、その点だけでも大いに成長したのは間違いないが。

 本場だけあって、おしゃれな北欧家具がいっぱい見られます。全体のインテリアもおしゃれで見応えがある。一人暮らしをしていた90年代に購読していたインテリア雑誌で、偶に「おしゃれなインテリアのお手本になる映画」を特集していて、ウッディ・アレン映画とか『アメリ』とか取り上げていたが、今同じ企画があったら選ばれてそう。
 アイヴァンの元カノのインスタが、「そういう需要」を見込んだヨガ・アカウントと化していたのには、あるある過ぎて笑った。ヨガの参考にしようとポーズを画像検索すると、水着や下着姿で尻や股間を強調した角度ばかりで写ってる女の人のインスタ・アカウントがいっぱい出てくるんだよね。

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アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方

 2024年公開。監督のアリ・アッバシはイラン出身で、デンマークで映画制作を学んだ人。
 Apprenticeは「見習い」の意だそうで、トランプ大統領自身が出演していたTV番組と同じタイトルだが、悪徳弁護士ロイ・コーンとの「師弟関係」という本作の主軸そのものを表してもいる。以下、一応ネタバレ注意。

 物語は1973年、父親の会社が敗訴寸前という窮地に陥った若きドナルド・トランプが、偶々出会ったロイ・コーンに助けを求めるところから始まり、1987年に出版することになる自伝の準備を始めるところで終わる。作中で年代が提示されることはなく、会話の端々や差し込まれるニュース映像等から察するしかない。トランプの個人史はもちろんアメリカ現代史に疎いと察しようがないが、まあ物語自体は時系列どおりに進むので、それほど問題ない。
 上記のとおり、当時のTV映像が何度か差し込まれるのだが、本編(現代の俳優の演技)の映像も全編にわたってそれらに画質を合わせており、本物の当時の映像を観ているような錯覚に時折陥る。ドキュメンタリーか生放送番組のようなカメラワークも多用されてるし。なお、時代が進むにつれて映像技術が進歩するので、本編の画質も徐々に向上する。

 ドナルド・トランプの容姿は前回の大統領選以降しか知らず、若きトランプを演じるセバスチャン・スタンは(現在のトランプに)表情とかよく寄せてるな、と感心しながら観ていたが、後で当時の写真をチェックしたら、本当にだいぶ似てるな。作中で言われてるとおり、若い頃のロバート・レッドフォードにも似ている。スタンの素顔はそんなに似てるわけでもないから、演技とメイクの力すげえ。イヴァナは本人のほうが美人だったな。
 伝記映画であっても、あくまで「事実に基づいたフィクション」でしかないが、本作のトランプはだいぶ中立的な描き方だと思う。その上で、どんどん力を増していくトランプに対し、力を吸い取られているかのように弱々しくなっていくロイ・コーンとの対照が素晴らしかった。演じるジェレミー・ストロングは『リンカーン』に出てたけど、憶えてないや。

 終盤、トランプが開いてくれた誕生会の席上、コーンはプレゼントされた「ダイヤのカフス」をイヴァナに自慢するが、「本物のダイヤじゃない、ジルコニアだ」と一蹴される。ダイヤとジルコニアは薄暗い場所のほうが見分けやすいそうなので、本当にジルコニアだったんだろう。
 誰がどう見たって死期が迫っているコーンにわざわざそんなことを言うのは、この期に及んでもイヴァナが彼を嫌っているからだろうが、同時に、「恥知らずなのよ」とトランプを指して言う彼女の表情は明らかに痛みを抱えており、トランプの「被害者」同士として、その痛みを分かち合いたかったかもしれない。

 ところで、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』2のビフのモデルがトランプ、というのは有名な話だが、マーティのママが豊胸手術を受けさせられるところまで元ネタどおりなんだな。

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ミセス・ダウト

 1993年公開。監督のクリス・コロンバスは『グレムリン』『グーニーズ』の脚本、『ホーム・アローン』(90年、1作目のみ)、『ハリー・ポッター』シリーズ、『ナイト・ミュージアム』『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』等の監督。『パーシー・ジャクソン』にピアース・ブロスナンが出てたのは、本作の縁か?

 とにかくわざとらしさが鼻につきがちなロビン・ウィリアムズだが、本作ではその欠点がだいぶ抑えられてたし、安易によりを戻させない結末もいいが、いろいろと引っかかる点はある。副流煙をまったく気にしてないとか、アレルギーに関する認識が甘いとか、そういうのではない。女装した父親を娘2人はあっさり受け入れるのに息子は非常に強い嫌悪を示すとか、ロビン・ウィリアムズが家事を一切しないどころか、息子のパーティーを勝手に計画して家をめちゃくちゃにして、後始末は全部妻に押し付け、妻が怒ると拗ねる、というクソ野郎のくせに凄腕家政婦を詐称し、最初こそ苦労するが、たちまち家事をマスターするとか、そういうのである。
 後者については、じゃあなんで今までやらなかったんだ、という話になるが、これはつまり、家事なんて男がちょっとやる気を出せば完璧にこなせるが、わざわざやる気を出す価値もないから女がやってろ、ってことか?と邪推してしまうわな。
 ほかにも、バスの運転手とメイクアップアーティストの兄がフェードアウトしてんのもな。兄はある意味最大の功労者なんだが、「おかま」を目立たせるな、とでも圧力がかかったんかね。いいキャラしてたバスの運転手も、ミセス・ダウトに惚れてるのが「同性愛」(女だと思い込んでいるにもかかわらず)だとしてタブー視されたかもしらんね。

 まあ元妻と恋仲になりかけるピアース・ブロンソンもフェードアウトしてるんで、単に尺が足りなかったとか、そんな理由かもしれないけどね。でも12歳かそこらの少年(息子役のマシュー・ローレンスは80年生まれ)に露骨なホモフォビアを示す場面を少なくとも3回も演じさせていることから、家事の件も併せて、つい邪推してしまいますね。

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