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オッペンハイマー

 2023年公開。一応ネタバレ注意。
 4つの時間軸が同時進行する。①1954年、原子力委員会の聴聞会で追及を受けるオッペンハイマー。②①の席上(および休憩時)における、オッペンハイマーによる回想。学生時代から原爆開発・投下を経て聴聞会に至るまで。③1959年、①で原子力委員会委員長だったルイス・ストロースの商務長官就任の承認を巡る、上院での公聴会。④③の席上(および休憩時)、ストロースによる回想。オッペンハイマーとの交流が始まる1947年から公聴会終了まで。最後に1963年のエンリコ・フェルミ賞授与式。

 もちろん原爆開発からを語る②が主軸であり、尺も長く割いているわけだけど、しょっちゅう①③④が挟まる。①‐④それぞれの物語は時系列どおりに進行しているとはいえ、①③④はかなり断片的なシーンしかなく、それらが頻繁に②に挟まるので、全篇にわたってブチブチの細切れとなっている。①②はカラー、③④はモノクロと区別は付けているが、中盤から④の時間軸のはずなのにカラーの場面が挟まる。カラー/モノクロの区別は、時間軸ではなく視点(オッペンハイマーかストロースか)の区別だと気づくのにしばらくかかる。

 ……こんな構成にする必要あったの? 無駄に複雑、いや煩雑にしてるとしか思えない。『TENET』で過去からの遡行が逆回し状態だったのも「映像としておもしろい」という以上の意味があったようには思えなかったが(途中から思考を放棄して観ていたので、感想はブログに上げません)、本作ではそんな意味すらないじゃん。
 原爆表現については後述するが、それよりも何よりも、とにかくテーマそのものがぼやけてる。②で原爆を開発し投下に至らせたオッペンハイマーが、②では国家への忠誠心を疑われて裁かれる。若きオッペンハイマーが共産主義と関りを持っていく様子が②で描かれ、並行して①でそのことが非難される。そして①で聴聞会側が水爆について追及を始める(オッペンハイマーが水爆開発に当初から消極的だったのは、ソ連を利するためではないか)と、②でも水爆開発の話が出てくる。②でいよいよ原爆完成の目途が立ったものの、ドイツが降伏してしまう。「ドイツより先に完成させるぞ」と一致団結してきた研究者、軍人たちの間で温度差が露わになり始め、オッペンハイマーの態度にも迷いが出てくる。①でも「原爆投下についての本心はどうだったのか、またそれは戦後の軍拡反対にどう関わっているのか。罪悪感からだったのか、ソ連のためだったのか」と追及の方向が変わってくる。

 2023年にもなって、オッペンハイマーの軍拡反対がソ連のためだったかどうかをテーマにした映画は(少なくとも大金かけては)作られんだろうから、軍拡競争への危惧は本心からだった、ということでいい。そうすると本作において重要なのは、「オッペンハイマーは原爆投下自体をどう思っていたか」という問いである。史実のオッペンハイマーがそれを明言したことはない。本作においても明確にはされないが、罪悪感を抱いていたことは繰り返し示唆される。
 それに水を差すのが③④のストロースで、オッペンハイマーは悲劇のヒーローとなることで「原爆という大量殺人兵器の開発者」という不名誉を軽減しようとしている、と断じる。そうさせないために(彼が裁かれている姿を世間に晒さないために)、密室での聴聞会を仕組んだのだと明かす。1954年の聴聞会の時点では、すでに赤狩りへの批判が高まっていたから、オッペンハイマーを「赤」の疑いで裁いても、同情のほうが大きくなるのは明らかだったからね。
 これだけなら、作品に多角性を持たせるよい視点に思えるんだが……最後にストロース自身が、オッペンハイマーに恥をかかされた、というただの私怨を晴らしたいだけだったことが暴かれたんで、上記のオッペンハイマー批判の説得力がなくなってまうんだよな。③④に意味はあったの?となる。

 ストロースによる批判が無意味になると、残るは「オッペンハイマーは原爆投下に罪悪感を抱いていた」という示唆だけになる。これが本作の「答え」だとしたら、じゃあなんで、被爆の描写をあんなにふわっとさせたの?
 オッペンハイマーが広島長崎の被害報告会に出席する場面では、報告者の台詞と提示されるスライド写真に対する出席者たちの反応(呻く、愕然とする、目を背ける等)だけが映され、写真そのものがカメラに捉えられることはない。
 ふざけてんのか、と言いたいところだが、実は科学者や軍人、政治家たち(特にユダヤ人)が原爆開発を推進した最大の動機の一つである、「ユダヤ人迫害をはじめとするナチスの蛮行」も、具体的な描写・説明は皆無なんだよね。だから、これはまあいいとする(日本人以外の観客がより具体的にイメージできるのはホロコーストと広島長崎のどちらなのかは、とりあえず問わない)。
 本当にふざけてるとしか思えないのは、オッペンハイマーが「幻視」する、原爆被害の「イメージ」で、彼に喝采を浴びせる人々が「真っ白な光」に包まれていき、その中の一人の女性がアップになり、その皮膚が薄く、本当にうすーく「ペリペリ」と剝がれていく。
 原爆の「真っ白な光」に包まれて、あんなもんで済むわけないだろ。「薄皮ペリペリ」って、何あれ。日焼け?(笑)
 そのイメージ(画像はイメージです)を振り払ったオッペンハイマーが歩き出そうとすると、何かに足を取られていることに気づく。見下ろすと、真っ黒に炭化した死体(子供と思しいサイズ)を踏み砕いている。足を引き抜いて(さらに砕ける)、歓呼に包まれながら会場を後にする。
 一体だけかよ。投下時の死者だけで最も少なく見積もっても2都市併せて十数万、ってのは作中で繰り返さし言及されてるだろうが。せめて、通路に横たわる数十体の死体をバリバリ踏み砕きながら退場しろよ。客席で足を踏み鳴らして歓喜する関係者たちも、死体を踏み砕けよ。せめて、それくらいはやれ。

 なんかググると、アメリカの現状やらノーラン監督の事情やらを一生懸命代弁し、「あれが精一杯だった」と擁護し、批判するのは「それらの事情を解っていない」と逆に批判する、明らかに日本人による記事が幾つも見つかりますが、それらが正確だったとしても、「知るか、ざっけんな」としか言いようがないですね。あ、「ざっけんな」はノーラン監督に対してですよ。
「『オッペンハイマー』はただのエンタメなんだから、まともな原爆描写なんか求めるほうが間違ってる」という意見も見かけましたが、エンタメを見下した視点だと思います。だって、本作はエンタメとして成立してないじゃん。
「無駄に煩雑な構成にしてる」という冒頭の見解に戻りますが、上記のとおり、あの構成はテーマをぼやけさせただけで、観客に無駄な負荷を与えた以上の意味はない。むしろ、『TENET』で顕著だが、ノーラン監督は観客に無駄な負荷を強いるのが好きなだけではあるまいか。言い換えれば、監督一人にとってのエンタメ。原爆はそのためのダシだった、ということになる。
 キリアン・マーフィー、ロバート・ダウニー・Jr.をはじめとする錚々たる実力者揃いで、まあ熱演してたんだろうけど、それらをズタズタに切り刻んで交ぜ合わせた構成のせいで、全然享受できなかった。

『インソムニア』(2000)は際立って凡庸、『メメント』(2000)『プレステージ』(2006)、バットマンの『ビギンズ』(05)と『ダークナイト』(08)は可もなく不可もなくから(好みには合わんが)佳作、『ダンケルク』(17)は紛れもなく傑作、と来て、『TENET』(20)は……まあ偶には監督のやりたいことだけやっても……だったのに本作だから、もうがっかりだよ。『インセプション』(10)と『インターステラー』(14)はいずれ観るだろうけども(アメコミはそんなに好きじゃないので『ライジング』を観る予定はなし)。
 ジェームズ・キャメロン監督が広島長崎の二重被爆者である山口彊氏を主人公にした映画に取り組んでいるそうだが、どうせぬるい描写でお茶を濁すという危惧よりむしろ、めっちゃ頑張ってリアルな描写をスクリーンに映し出すことに成功した結果、何割かの観客にスプラッター映画として消費され、さらに切り取られてミーム化し、広島長崎が題材だとすら知らない無数の有象無象の玩具と化すという危惧のほうが強いかな……前者であっても、「薄皮ペリペリ」よりは遙かにましなものを見せてくれるのは間違いないしね。

『インソムニア』感想 
『ダークナイト』感想 
『ダンケルク』感想

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