「地下水路(カレーズ)」解説 其の五
発売中の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に掲載していただきました短篇「地下水路(カレーズ)」の解説其の五です。一応、ネタバレ注意。
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今回はシーア(派)についてです。シーア(派)は短篇「ガーヤト・アルハキーム」(『ナイトランド・クォータリー』vol.18掲載)でも中篇「物語の川々は大海に注ぐ」(『SFマガジン』2024年6月号掲載)でも大きな関りがありますが、どちらも8世紀限定です。
本作は短い尺で古代から現代までの歴史を走馬灯の如く視せる物語であり、その中にはシーア(派)史も含まれています。ので、前2作の解説よりは広い範囲を対象に、ざっくりとなるべく簡潔に解説したいと思います。
預言者ムハンマドが632年に没すると、次のイスラム共同体指導者は血統に拠らず、有力な信徒たちの合議で選出されました。血統に拠らず、とは言っても、ムハンマドと同じクライシュ族であることは大前提みたいなものでしたが。それでもムハンマドの従弟(かつ娘婿)であるアリーが、その関係の近さを重視されなかったのは事実です(なお、ムハンマドに成人した息子はいません)。
以後約30年間、4人の指導者が合議によって選出され、彼らの治世は後に「正統カリフ時代」と呼ばれるようになります。「正統」というのは、イスラムの理念に沿って選ばれた、という意味です。
「カリフ」(より正確には「ハリーファ」)は「代理人」という意味で、「預言者の代理人」とか「神の代理人」とか解釈されていますが、実のところ「正統カリフ時代」に彼らがなんという称号で呼ばれていたのかは、文字資料が一切残っていないので不明です。「ウマイヤ朝期のカリフの称号:銘文・碑文・パピルス文書からの再検討」(亀谷学『中東学会年報』24巻1号 ダウンロードはこちらからhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ajames/24/1/24_KJ00005075211/_article/-char/ja/
)によれば、「正統カリフ時代」の次のウマイヤ朝期でも、カリフよりは「信徒(ら)の長(アミール・アルムウミニーン)」のほうが一般的でした。
アリーがムハンマドの死後すぐに指導者に選ばれなかったのは、当時30歳そこそこだったのも大きかったようですが、どうもあんまり人望がなかったようです。656年に三人目の指導者ウスマーンが没すると、彼と同じウマイヤ家出身のムアーウィヤとアリーのどちらを後継者にするかで大いに揉めました。ようやくアリーに決定すると、ムアーウィヤは直ちに叛乱を起こします。
アリーがムアーウィヤとは別の勢力に恨みを買って661年に暗殺されたので、ムアーウィヤが勝者となりましたが、自分の息子を後継者にし、以後、「信徒の長」の座はウマイヤ家の独占となります。これに不満を持った人々は、自分たちが理想とする人物を「イマーム(指導者、教導者)」と仰ぎ、ウマイヤ家に代わる「信徒の長」にしようと目論みました。彼らは分派=シーアと呼ばれました。
これら諸分派の中には、信仰篤い人格者ならクライシュ族どころかアラブである必要はない、と主張するものもありましたが、大半はハーシム家出身であることをイマームの絶対条件としていました。ハーシム家はムハンマドの曽祖父ハーシムを名祖とする一門です。もちろん、アリーもハーシム家の一員でした。
ハーシム家だけでも大勢いたので、誰をイマームとするかでまとまらず、どの分派も大きな勢力になり得ませんでした。そんな状況を変えたのが、ハーシム家に属するアッバース家で、「誰」をイマームとするかを敢えて曖昧にして分派を糾合し、749年、ウマイヤ家を打倒すると、イマームとして「信徒の長」の座を手にしました。
このアッバース家に書記として仕えていたのが、「物語の川々は大海に注ぐ」の主人公イブン・ムカッファです。
さて、諸分派の人々はようやく騙されたと気づきましたが、アッバース家の圧倒的な軍事力の前に、多くは諦めて主権を認めました。諦めなかった人々が推すイマームのうち大きな割合を占めていたのが、アリーの子孫たちでした。つまり分派=シーアの大半がアリー派=シーア・アリーだったので、「アリー」を略して「シーア」だけでもアリー派を指すようになったというわけです。
アリーには息子が三人いて、そのうちハサンとフサインが預言者ムハンマドの娘ファーティマの子、もう一人ムハンマドはハナフィーヤという人物の娘を母とし、「イブン・ハナフィーヤ(ハナフィーヤの息子)」と呼ばれていました。
ウマイヤ朝期、イブン・ハナフィーヤをイマームとして担ぎ上げ、叛乱を起こした人々がいましたが、イブン・ハナフィーヤは彼らの行動を承認せず、梯子を外してしまいました。イブン・ハナフィーヤが700年頃死去すると、息子のアブー・ハーシムがイマームとして担ぎ上げられましたが、彼もまた政治活動に積極的には関わらなかったようです。
アッバース家は打倒ウマイヤ家に当たって、自分たちの先祖はアブー・ハーシムと親しかったので716年に彼が息子を残さず没した際にイマームの座を譲られた、と主張していました。まあアリー派の多くは納得しなかったわけですが。
ファーティマの息子のうち、兄のハサンは父の死(661年)後、早々にウマイヤ家と和解した上に、669年に没してしまいます。アリー派の期待は、弟のフサイン(ちなみに「小ハサン」の意)に集まりました。そこでウマイヤ家は680年、本作でナルセフが「幻視」したとおり、フサインと一族郎党をカルバラーの地で虐殺してしまいました。
この事件はあまりにも劇的であり、以後、現体制に不満を抱くアリー派は、自分たちの不遇をフサイン一族の悲劇に重ねるようになります。ただし、唯一生き残ったフサインの息子、アリー・ザイヌル・アービディーン(713年没)は、当時のアラブの価値観では「不浄」とされる混血でした。
まあ「物語の川々は大海に注ぐ」で触れているように、アラビア語圏で文字記録が残されるようになるのは、ようやく8世紀も半ば近くになってからであり、ザイヌル・アービディーンに関する同時代資料は皆無です。しかし彼とその後継者たちの生涯は、おおむね本作で述べたとおりだったようです。ウマイヤ朝(次いでアッバース朝)の厳しい監視の下、ひたすら信仰と学問に専念し、信奉者たちが暴発しないよう心を砕き続けました。
ザイヌル・アービディーンは息子が二人いましたが、後を継いだムハンマド・バーキルは、弟のザイドが740年にウマイヤ朝に対し叛乱を起こしても同調せず、敗北した彼を見捨てました。「ガーヤト・アルハキーム」の主人公イスマイールはムハンマド・バーキルの孫ですが、一説によれば政治運動に関わったために廃嫡されています。いずれにせよ彼は早逝し、弟が次代のイマームとなりました。
一方、ハサン家(フサインの兄ハサンの子孫)は当局の目を掻い潜って反ウマイヤ家活動を行っていましたが、結果的にアッバース家に出し抜かれました。「物語の川々は大海に注ぐ」から数年後の762年、ハサン家は蜂起するも敗北し、大粛清の憂き目に遭いました。
874年、フサインの8人目の子孫にしてイマームのハサン・アスカリーが死亡しました。公式には彼には息子はおらず、フサイン家は断絶したことになります。しかし信奉者たちは、彼にはムハンマドという息子がいると主張し、反アッバース家活動を続けました。イマーム・ムハンマドが人前に姿を現さないことについて、信奉者たちは「彼は現在、この世から姿を消しているが、それは一時的なもので、いずれマフディ(救世主)として再臨する」と主張しました。
こうして、十二イマーム派が成立しました。現イラン・イスラム共和国の国教であり、かつ現在のシーア(派)最大の分派です。アリー、その二人の息子ハサンとフサイン、フサインの9人の子孫で計12人をイマームとして仰ぎます。
ここまでの解説にはとてもたくさんの文献を参照しているので、まあここに書き切れないことはないですが、めんどくさい……というか、どの文献からも参照したのはちょっとずつで、「主要」参考文献というのはないんで……
とりあえず歴代イマーム一人一人については、『シーア派イスラーム 神話と歴史』(嶋本隆光 東京大学学術出版会)を主に参照しました。
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