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「地下水路(カレーズ)」解説 其の五

 発売中の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に掲載していただきました短篇「地下水路(カレーズ)」の解説其の五です。一応、ネタバレ注意。

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 今回はシーア(派)についてです。シーア(派)は短篇「ガーヤト・アルハキーム」(『ナイトランド・クォータリー』vol.18掲載)でも中篇「物語の川々は大海に注ぐ」(『SFマガジン』2024年6月号掲載)でも大きな関りがありますが、どちらも8世紀限定です。
 本作は短い尺で古代から現代までの歴史を走馬灯の如く視せる物語であり、その中にはシーア(派)史も含まれています。ので、前2作の解説よりは広い範囲を対象に、ざっくりとなるべく簡潔に解説したいと思います。

 預言者ムハンマドが632年に没すると、次のイスラム共同体指導者は血統に拠らず、有力な信徒たちの合議で選出されました。血統に拠らず、とは言っても、ムハンマドと同じクライシュ族であることは大前提みたいなものでしたが。それでもムハンマドの従弟(かつ娘婿)であるアリーが、その関係の近さを重視されなかったのは事実です(なお、ムハンマドに成人した息子はいません)。
 以後約30年間、4人の指導者が合議によって選出され、彼らの治世は後に「正統カリフ時代」と呼ばれるようになります。「正統」というのは、イスラムの理念に沿って選ばれた、という意味です。
「カリフ」(より正確には「ハリーファ」)は「代理人」という意味で、「預言者の代理人」とか「神の代理人」とか解釈されていますが、実のところ「正統カリフ時代」に彼らがなんという称号で呼ばれていたのかは、文字資料が一切残っていないので不明です。「ウマイヤ朝期のカリフの称号:銘文・碑文・パピルス文書からの再検討」(亀谷学『中東学会年報』24巻1号 ダウンロードはこちらからhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ajames/24/1/24_KJ00005075211/_article/-char/ja/
)によれば、「正統カリフ時代」の次のウマイヤ朝期でも、カリフよりは「信徒(ら)の長(アミール・アルムウミニーン)」のほうが一般的でした。

 アリーがムハンマドの死後すぐに指導者に選ばれなかったのは、当時30歳そこそこだったのも大きかったようですが、どうもあんまり人望がなかったようです。656年に三人目の指導者ウスマーンが没すると、彼と同じウマイヤ家出身のムアーウィヤとアリーのどちらを後継者にするかで大いに揉めました。ようやくアリーに決定すると、ムアーウィヤは直ちに叛乱を起こします。
 アリーがムアーウィヤとは別の勢力に恨みを買って661年に暗殺されたので、ムアーウィヤが勝者となりましたが、自分の息子を後継者にし、以後、「信徒の長」の座はウマイヤ家の独占となります。これに不満を持った人々は、自分たちが理想とする人物を「イマーム(指導者、教導者)」と仰ぎ、ウマイヤ家に代わる「信徒の長」にしようと目論みました。彼らは分派=シーアと呼ばれました。
 これら諸分派の中には、信仰篤い人格者ならクライシュ族どころかアラブである必要はない、と主張するものもありましたが、大半はハーシム家出身であることをイマームの絶対条件としていました。ハーシム家はムハンマドの曽祖父ハーシムを名祖とする一門です。もちろん、アリーもハーシム家の一員でした。

 ハーシム家だけでも大勢いたので、誰をイマームとするかでまとまらず、どの分派も大きな勢力になり得ませんでした。そんな状況を変えたのが、ハーシム家に属するアッバース家で、「誰」をイマームとするかを敢えて曖昧にして分派を糾合し、749年、ウマイヤ家を打倒すると、イマームとして「信徒の長」の座を手にしました。
 このアッバース家に書記として仕えていたのが、「物語の川々は大海に注ぐ」の主人公イブン・ムカッファです。
 さて、諸分派の人々はようやく騙されたと気づきましたが、アッバース家の圧倒的な軍事力の前に、多くは諦めて主権を認めました。諦めなかった人々が推すイマームのうち大きな割合を占めていたのが、アリーの子孫たちでした。つまり分派=シーアの大半がアリー派=シーア・アリーだったので、「アリー」を略して「シーア」だけでもアリー派を指すようになったというわけです。

 アリーには息子が三人いて、そのうちハサンとフサインが預言者ムハンマドの娘ファーティマの子、もう一人ムハンマドはハナフィーヤという人物の娘を母とし、「イブン・ハナフィーヤ(ハナフィーヤの息子)」と呼ばれていました。
 ウマイヤ朝期、イブン・ハナフィーヤをイマームとして担ぎ上げ、叛乱を起こした人々がいましたが、イブン・ハナフィーヤは彼らの行動を承認せず、梯子を外してしまいました。イブン・ハナフィーヤが700年頃死去すると、息子のアブー・ハーシムがイマームとして担ぎ上げられましたが、彼もまた政治活動に積極的には関わらなかったようです。
 アッバース家は打倒ウマイヤ家に当たって、自分たちの先祖はアブー・ハーシムと親しかったので716年に彼が息子を残さず没した際にイマームの座を譲られた、と主張していました。まあアリー派の多くは納得しなかったわけですが。

 ファーティマの息子のうち、兄のハサンは父の死(661年)後、早々にウマイヤ家と和解した上に、669年に没してしまいます。アリー派の期待は、弟のフサイン(ちなみに「小ハサン」の意)に集まりました。そこでウマイヤ家は680年、本作でナルセフが「幻視」したとおり、フサインと一族郎党をカルバラーの地で虐殺してしまいました。
 この事件はあまりにも劇的であり、以後、現体制に不満を抱くアリー派は、自分たちの不遇をフサイン一族の悲劇に重ねるようになります。ただし、唯一生き残ったフサインの息子、アリー・ザイヌル・アービディーン(713年没)は、当時のアラブの価値観では「不浄」とされる混血でした。
 まあ「物語の川々は大海に注ぐ」で触れているように、アラビア語圏で文字記録が残されるようになるのは、ようやく8世紀も半ば近くになってからであり、ザイヌル・アービディーンに関する同時代資料は皆無です。しかし彼とその後継者たちの生涯は、おおむね本作で述べたとおりだったようです。ウマイヤ朝(次いでアッバース朝)の厳しい監視の下、ひたすら信仰と学問に専念し、信奉者たちが暴発しないよう心を砕き続けました。
 ザイヌル・アービディーンは息子が二人いましたが、後を継いだムハンマド・バーキルは、弟のザイドが740年にウマイヤ朝に対し叛乱を起こしても同調せず、敗北した彼を見捨てました。「ガーヤト・アルハキーム」の主人公イスマイールはムハンマド・バーキルの孫ですが、一説によれば政治運動に関わったために廃嫡されています
。いずれにせよ彼は早逝し、弟が次代のイマームとなりました。

 一方、ハサン家(フサインの兄ハサンの子孫)は当局の目を掻い潜って反ウマイヤ家活動を行っていましたが、結果的にアッバース家に出し抜かれました。「物語の川々は大海に注ぐ」から数年後の762年、ハサン家は蜂起するも敗北し、大粛清の憂き目に遭いました。
 874年、フサインの8人目の子孫にしてイマームのハサン・アスカリーが死亡しました。
公式には彼には息子はおらず、フサイン家は断絶したことになります。しかし信奉者たちは、彼にはムハンマドという息子がいると主張し、反アッバース家活動を続けました。イマーム・ムハンマドが人前に姿を現さないことについて、信奉者たちは「彼は現在、この世から姿を消しているが、それは一時的なもので、いずれマフディ(救世主)として再臨する」と主張しました。

 こうして、十二イマーム派が成立しました。現イラン・イスラム共和国の国教であり、かつ現在のシーア(派)最大の分派です。アリー、その二人の息子ハサンとフサイン、フサインの9人の子孫で計12人をイマームとして仰ぎます。

 ここまでの解説にはとてもたくさんの文献を参照しているので、まあここに書き切れないことはないですが、めんどくさい……というか、どの文献からも参照したのはちょっとずつで、「主要」参考文献というのはないんで……
 とりあえず歴代イマーム一人一人については、
『シーア派イスラーム 神話と歴史』(嶋本隆光 東京大学学術出版会)を主に参照しました。

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の四

 発売中の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に掲載していただきました短篇「地下水路(カレーズ)」の解説其の四です。一応、ネタバレ注意。

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 さて、今回は「シャフルバヌー伝説」についてです。シャフルバヌーはペルシア最後の皇帝ヤズデギルド三世(651没)の娘であり、預言者ムハンマドの孫の妻(の一人)となったとされる女性です。このムハンマドの孫というのは彼の娘ファーティマと従弟アリーの息子フサインです。サーサーン朝滅亡時、捕虜になった彼女をフサインが見初めた、とされています。
 イランでは史実と信じられていますが、伝説の形成過程は跡付けられており、本作でも言及しています。主に参照したのは清水和裕「ヤズデギルドの娘たち シャフルバーヌー傳承の形成と初期イスラーム世界」https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/server/api/core/bitstreams/d62d97ad-084d-413e-98d9-9242ad5844cf/contentとŠAHRBĀNU  https://www.iranicaonline.org/articles/sahrbanu/です。
 後者はいわゆるシーア派(「シーア」は「派/分派」の意で、イスラム世界で分派といえば「シーア・アリー」すなわち「アリー派」のことなので「アリー」を略しても通じるから「シーア」であり、「シーア派」と呼んじゃうと「派派」になるんですがね)やゾロアスター教のアナーヒター崇拝との関係についても論じていますが、それらについては後日解説の予定です。

 シャフルバヌーとフサインとの息子ザイヌル・アービディーンは本作に登場しますが、「ザイヌル・アービディーン」は称号で、Extra noteで述べているように本名はアリーです。清水氏の上記論文では、冒頭で彼が「アリー・アスガル」と呼ばれることについて説明しています。フサインにはアリーという名の息子が二人いたので、史料上では伝統的に「アリー・アクバル(大アリー)」「アリー・アスガル(小アリー)」と区別してきた、というのがその説明です。
 しかし清水氏は触れていないのですが、どうも後世になって潤色が加わり、フサインにはアリーという名の息子が三人いて、長男はアリー・アクバル、次男はアリー・ザイヌル・アービディーン、三男はアリー・アスガル、ということになったようです。
 本作では主人公ナルセフがフサインの最期を「幻視」しますが、この時殺されている赤ん坊がアリー・アスガルです。私は清水氏論文でアリー・ザイヌル・アービディーン=アリー・アスガルと知った後に、フサインと共に殺された赤ん坊もアリー・アスガルだということになっていると知って、少々混乱したものです。この「伝説化」についても、後日解説予定です。

 作中でも触れているとおり、シャフルバヌー伝説の「元ネタ」の一つが、ウマイヤ朝第12代カリフ、ヤズィード三世(744年没)の母がヤズデギルド三世の孫だった、という記録です。清水氏論文によると、最初期の記録者はタバリー(9‐10世紀)ですが、情報源としているのはイブン・アルカルビー(737頃‐820頃)で、ヤズィード三世とはかろうじて同時代ですね。著作を数多くものしたけれど、大半は散逸してしまっています。タバリーはそのどれかを参照したのでしょう。
 拙作「物語の川々は大海に注ぐ」(『SFマガジン』2024年6月号掲載)では、 主人公イブン・ムカッファに無明時代(前イスラム時代)のアラブの宗教についての
知識を教えてくれた「イブン・カルビー」父子が言及されていますが、その息子のほうが上記イブン・アルカルビーです(「物語の川々」では表記の都合上、「アル」を省略)。
 父も子も「イブン・アルカルビー」と呼ばれました(前回解説した、「××の息子〇〇の息子△△の息子」と延々と繋いでいく名乗りの途中を省略した例)。口伝が基本だった当時のアラブ社会で、イブン・アルカルビー(息子)は口伝収集を父から受け継いだだけでなく、それらを精力的に文字で記録していったのでした。

 だからイブン・アルカルビー(息子)によるヤズィード三世の母についての情報も、父親から直接聞いたんでしょうね。イブン・アルカルビー(息子)の現存する著作はわずか三点、邦訳は『西アジア史研究』(東京大学出版会)所収の「偶像の書」のみですが、同書を読む限りでは、ヤズィード三世の母についての情報もかなり信憑性は高いんじゃないかと。
 で、それによると彼女の名は「シャーヒ・アフリード」で、ホスローの息子シャフリヤールの息子ヤズデギルドの息子ピールーズの娘であった、と。ホスロー(二世)からピールーズまでの系図は正確です。またヤズィード三世は自作の詩の中で、キスラー(=ホスロー。アラブ世界においてはペルシア皇帝の代名詞でもあった)とカイサル(=カエサル。ここでは東ローマ帝国皇帝)とハーカーン(可汗。トルコ系遊牧民の君主)の血を引くことを誇っていた、とされています。
 東ローマ帝国皇帝の血を引く、というのは、ヤズデギルド三世の祖父の正妃が東ローマ帝国皇女だったことを指しているのでしょう。実際にはヤズデギルドの父シャフリヤールは、この正妃の子ではないんですが。

 ここの「ハーカーンの血を引く」という主張と、9世紀後半の歴史家バラーズリーの『諸国征服史』第19章における、「ヤズィード三世の息子ピールーズはトルコ人の許に身を寄せ、トルコ人女性を娶った」という記述、および唐の複数の史料から判る、トハラの支配者に庇護され、ペルシア王として擁立されたというピールーズの半生(参照:前嶋信次「タラス戦考」)などから、本作ではピールーズの妻を「トハラ王の娘」としたのでした。
 と言っても、当時のトハラは確かにトルコ系遊牧民突厥の支配下にありましたが、統治者の称号はハーカーンより一ランク下の「ヤブグ(葉護)」でしたけどね。

 作中にあるとおり、ヤズィード三世はカリフの息子であるにもかかわらず長年不遇を託った挙句、カリフ位を簒奪しました。混血なので「不浄」だと蔑まれていた上に、即位後に行った施策も不評でした。「ヤズデギルドの娘たち」では、彼の母の血筋に関する、ネガキャン用に作られたのが明白な伝承も紹介されています。
 そんな境遇で即位後わずか数ヵ月で没しているんで、もう如何にもですが、
どうも普通に病死だったようです。まあ暗殺の疑いの余地が少なかったからこそ、彼を憎む者は余計に「神罰」だと捉えるよね、というのが、本作のあの場面です。

 今回はここまで。

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の三

 発売中の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に掲載していただきました短篇「地下水路(カレーズ)」の解説其の三です。ネタバレというか、作品の内容に触れています。 

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 本作で「ピールーズの弟」(主人公ナルセフの叔父)とだけ言及している人物は、10世紀前半の歴史家マスウーディーの『黄金牧場』(邦訳なし)にヤズデギルド三世のもう一人の息子「バフラーム」(アラビア語発音。中世ペルシア語の発音では「ワフラーム」)に該当します。ワフラームについての記録は、どうやらこの一点だけのようです。
 そのワフラームの「息子」(ナルセフの従弟)として登場する「ホスロー」は、9‐10世紀の歴史家タバリーの著作(邦訳があるらしいんだが、なんかちょっとよく判らなくて未確認)に記されている、729年の対アラブ大叛乱に参加したという「ヤズデギルドの息子ホスロー」なる人物に該当します。「タラス戦考」でもTHE LAST SASANIANS IN CHINAでも「息子」は間違いで「孫」である、と解釈しています。651年に死んだヤズデギルド三世とは時代が離れすぎていますから、「息子」が誤りなのは確実でしょう。

 ワフラームとホスローを父子とする説はTHE LAST SASANIANS IN CHINAで紹介されていますが、根拠となるのは河南省洛陽市で出土した「波斯(ペルシア)国大酋長」の「阿羅憾」という人物の墓誌銘です。「酋長」は普通に「指導者」「統率者」くらいの意味ですね。
 墓誌全文は羽田亨の論文「波斯国酋長阿羅憾丘銘」で読めます(ダウンロードはこちらからhttps://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/records/3944)が、何しろ発表が1913年なんで、旧字(論文自体はそれに加えて旧かな文語体)の上に印刷が潰れて読みづらいこと甚だしい。日本語訳もなく、読者が読める前提で論を進めています。もし中国簡体字が解るなら、百度百科のこの記事に全文載ってます。「阿罗憾墓志」https://baike.baidu.com/item/%E9%98%BF%E7%BD%97%E6%86%BE%E5%A2%93%E5%BF%97/15083628
 当然ながら返り点は付いてませんが、現代中国語訳も併記されてて、割と簡単な文章です。

 墓誌銘よるとこの阿羅憾はペルシアの族望(名門)の出で、唐の顕慶年間(656‐661)に高宗の命で「拂林」国に赴き、記念碑を建て、武則天(則天武后。在位690‐705)の治世に他の異民族指導者ら(おそらく在唐異民族共同体の長)と共に「天枢」という記念碑的なものを建立する事業に携わり、710年に95歳で没しています。また「俱羅」という名の息子がいたということです。
「阿羅憾」という名が「ワフラーム」の当て字と解釈できんこともない、「俱羅」は「ホスロー」と読めないこともない(「ホスロー」の「ホ」は「K」に近い音)、という理由から、阿羅憾はピールーズの兄弟ワフラーム、俱羅は「ヤズデギルドの息子(孫)ホスロー」であろう、というわけです。

 なお阿羅憾墓誌は、発見は清末という以外不明で、羽田氏の上記論文で初めて知られるようになったらしいです。そして「阿羅憾=『黄金牧場』のバフラーム」説はA.Forteという人の1984年発表の論文Il persiano Aluohan (616-710) nella capitale cinese Luoyang, sede del Cakravartin,(イタリア語)で初めて提唱されたようです。

 巨人の肩に乗っかれるありがたみを噛み締めつつ、個人的には、ま、こじつけやな、と思っています。墓誌銘ですから、死んで間もない人物についての情報です。経年による誤伝は、あっても若い頃のものだけです。ペルシア皇帝の息子なら、そう書かない理由がない。誇張してランク上げするのではなく、「王の息子」を「名門の出」とランクを落とす必要性がない。
「名門の出」でしかないのに「大酋長」としているのは誇張のようですが、サーサーン朝には皇帝家(サーサーン家)と張り合えるほどの大貴族の家系が幾つかあったので(それで作中でも言及しているように、末期には内乱が続いて滅亡の一因となったわけですが)、そのどれかの出身であり、かつ在唐ペルシア人の指導者的存在だったのでしょう。
 サーサーン朝滅亡後、多数のペルシア人が唐に逃れて来て、主に長安や洛陽などの都市に集住していました。唐政府の下、彼らを実際に統括していたのは、身分の高いペルシア人の誰かでしょう。しかし
ヤズデギルド三世の直系であるピールーズとナルセフが唐にいたのは、ほんの一時期だけです。大貴族出身の誰かがいるなら、その任に相応しいということになる。

 それに享年95歳という記述に従うなら615年生まれということになって、ヤズデギルド三世の息子としては計算が合わなくなってしまいます。651年に死んだヤズデギルド三世の生年には諸説あるそうですが、上限は611年です。ピールーズが636年生まれだとされているので、まあ妥当でしょう。615年生まれの息子がいたはずがない。ほかの説だとなおさらで、阿羅憾より年下になる。
 とはいえ、「95歳」が単なるミスの可能性も高そうですけどね。
615年生まれだと「拂林」国行きは40代だったことになり、そんな難事業に任じられるには、齢が少々行きすぎてるんじゃないかと。
 阿羅憾が何者であれ亡命ペルシア人なのは確かなので、唐とは暦法が違うし、まともに年を数えるのが困難な時期もあっただろうし。ペルシア人の側からの阿羅憾の情報提供が通訳を挟んでいるなら、単純な誤訳は「サーサーン朝皇帝の息子→サーサーン朝の名門」よりは年齢のほうがあり得そうだし。

 なお「拂林」という語は、中世ペルシア語で「ローマ」を指した「フルーム」の音写とするのが最も一般的な用法だったので、百度百科の阿羅憾墓誌現代中国語訳では「羅馬(ローマ)」、THE LAST SASANIANS IN CHINAでも「Byzantium(ビザンツ帝国)」としています。しかしすでにペルシアは征服され、中央アジア侵略まで始まっていた当時、アナトリア半島の東ローマ帝国まで行くには北へ大きく迂回して(カスピ海をぐるっと回って)行かなければならなかったわけで、まず不可能。
 じゃあこの事績は嘘だったのかというと、そうとも限らず、どうやら行ったのは別の「拂林」だったようです。上記トハラに「フルム」という場所があって、そこは唐代の文献では「忽懍」の字を当てるのが一般的でしたが、稀に「拂林」と書くこともあったそうです。だからおそらく阿羅憾が碑を建ててきたのはトハラのフルム(忽懍)で、しかしおそらくは意図的に(トハラの一地方ではなく東ローマ帝国まで唐の威光を示したと誤解されることを狙って)「拂林」の表記を使ったのではないか、ということが「唐代における胡と仏教的世界地理」(森安孝夫 ダウンロードはこちらからhttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/items/eb446972-a741-4a1b-bb73-0fbcfad14baf)で解説されています。
(そうなると百度百科の現代中国語訳が「東羅馬」ではなく「羅馬」としてるのは……)

 東ローマ帝国じゃなくてトハラだったとしても、最速の行程でも半年はかかるでしょうから、40代にはきついですね。

「阿羅憾」が「ワフラーム」で「俱羅」が「ホスロー」なのは、まああり得るんじゃないかと思います。どっちの名前もサーサーン朝の王侯貴族によくある名前なので。だから余計に、阿羅憾がヤズデギルド三世の息子で俱羅が孫だという証拠にはならない。
 タバリーは叛乱に加わったホスローを「ヤズデギルドの息子である」と文章で記したわけではなく、「ホスロー・イブン・ヤズデギルド」という名として記しました。「イブン・ヤズデギルド」は「ヤズデギルドの息子」の意です。アラブ世界には元来、日本や欧米における姓に当たるものがありません(日本や西洋でも昔々に遡ると、現代とはだいぶシステムが違いますが)。正式な名乗りでは、「個人名・イブン ・〇〇(〇〇の息子)・イブン ・××(××の息子)・イブン ・△△(△△の息子)」と延々と繋げていきますが、途中の何代かが省略されることは珍しくありません。
 だから「ホスロー・イブン ・ヤズデギルド」がヤズデギルド三世の息子ではなく孫である可能性は高いですが、曾孫や玄孫である可能性も同じくらい高い。

 そもそも「ヤズデギルドの息子ワフラーム」は、唯一の情報源『黄金牧場』にも名前しか記されていないし、併記されている三人の姉妹のうち一人の名が伝説上の存在である「シャフルバヌー」(後日解説予定)だしで、信憑性があんまり……実在したとしても、ピールーズより名前が先だということは兄である可能性が高いのに、ペルシア再興のために戦い続けたのはピールーズのほうなので、早々に消息不明になってしまったのかもしれません。

 ……と思っているのに本作で「ピールーズの弟の息子ホスロー」を登場させたのはなぜかというと、本作は「歴史小説」ではないからです。
 Extra noteで述べたように、本作は「ナルセフが死に際に見た幻」という解釈が可能です。幻であり、「現実」の未来(および過去)の情景ではなく、いわば「象徴的な情景」です。神話や伝説の英雄の事績には、史実における集団の事績を個人の事績として集約・象徴化したと考えられるものもあります。「ヤズデギルド三世の子孫ホスローの戦死」が史実である可能性は低くないでしょうが、それをナルセフが「齢若い従弟であるホスローが老いて疲弊した姿で斃れる」情景として視ることで、「サーサーン朝の滅亡」の象徴としているのです。
『黄金牧場』の記述に拠るならピールーズの兄である可能性の高いワフラームを「弟」としたのは、上記のとおり、兄ならサーサーン朝再興のために戦ってるんじゃないか、という疑問が出てくるので、まあその整合性のためです。

 そんな感じで、本作では私の中の資料解釈における「研究者視点」と、実際の執筆の上で選択した「小説家視点」にだいぶ齟齬があります。一方、中篇「物語の川々は大海に注ぐ」(『SFマガジン」2024年6月号)では、その齟齬は少ない。だからあっちは一応「歴史小説」に分類できる(最後の場面だけ「幻覚」と解釈すれば)、と考えています。

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の二

 発売中の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に掲載していただきました短篇「地下水路(カレーズ)」の解説其の二です。ネタバレというか、作品の内容に触れています。 

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 まずはタイトルについて。「地下水路(カレーズ)」がどういうものかは作中で説明してますが、日本だとイランの世界遺産「カナート」として知られているかと思います。「カレーズ」は本作の舞台になっている中央アジア(現在のタジキスタンやその周辺)での名称です。
 カナートの本場であるイランでは、「カレーズ」の呼称も使われています(
よりペルシア語の発音に近い表記はそれぞれ「ガナート」と「カーリーズ」)。西方へは「カナート」として、東方へは「カレーズ」として伝わったようです。
 で、カレーズについての主な参考文献が、『カナート イランの地下水路』(岡崎正孝 論創社) なのでした。

 地下水路(カレーズ/カナート)を使った脱出は、記録があります。「初期イスラーム時代のメルヴ」(佐藤明美 ダウンロードはこちらからhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/theworldofislam/43/0/43_27/_article/-char/ja)によると、744年頃、メルヴを支配していたアラブ同士の抗争で、総督(太守)に敗北した人物が町の要塞の地下牢に投獄されましたが、町を流れる運河に繋がっている地下水路(カナート)から脱出したのだそうです。
 メルヴは現トルクメニスタンの都市マリの旧名で、
早い時期からアラブ・イスラム勢力の東方進出の拠点でした。本作の主な舞台は現タジキスタンですが、トルクメニスタンはそのほぼ西隣(間にウズベキスタンの端っこが挟まってる)ですね。導入部の現代パートに続き、本編は679年から始まっているので、上記の事件は65年ほど後になります。
 という具合に、「主要」でない参考文献の紹介もしていきますよ。

 次に主人公について。本編中では「ペルシア王」とだけしていますが、Extra noteにあるように、サーサーン朝最後の皇帝ヤズデギルド三世(651年没)の孫ナルセフ(708年没)です。父(すなわちヤズデギルド三世の息子)ピールーズと共にアラブ・イスラム勢力と戦い続けた人物です。彼ら父子については『民族・戦争 東西文化交流の諸相』(前嶋信次 誠文堂新光社) 所収の「タラス戦考」、彼らを含むヤズデギルド三世の子孫と唐の関係についてはEncyclopædia Iranicaにある論文THE LAST SASANIANS IN CHINA  https://www.iranicaonline.org/articles/china-xv-the-last-sasanians-in-china/を主な典拠としています。
 ヤズデギルド三世の最期については『ゾロアスター教史 古代アーリア・中世ペルシア・現代インド』(青木健  刀水書房)
第三章第五節と、リストには挙げていませんが、9世紀後半の歴史家バラーズリーの『諸国征服史』(花田宇秋・訳 平凡社東洋文庫)第19章を参照しています。『ゾロアスター教史』はゾロアスター教関係の主要参考文献の一つでもあります。
 なお『諸国征服史』に「ファイルーズ・ブン・ヤズダギルド」(ヤズダギルドの息子ファイルーズ)として言及されているのは、「ヤズデギルド三世の息子ピールーズ」のことです。アラビア語にはP音がないので、音写の際には「F」(または「B」)に変換されるのです。

 長くなりそうなので、今回はここまでにします。やっぱり後1回じゃ終わらんなー。2、3回というのは、「そのくらいで収められるよう頑張ろう」という意味だったので……後5回くらいかなー……

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の一

 本日発売の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に掲載していただきました短篇「地下水路(カレーズ)」の解説です。といっても本編の後にExtra noteとして自作解題も載せていただいたので、その補足です。

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 さすがに発売日当日なんで、今回はネタバレなしです。このExtra note末尾にある「主要参考文献」リストを、ここにも載せておきます。オンラインの記事はリンクを貼れるから便利かと思いまして。Extra noteでは重要度順に挙げましたが、ここでは順番を変えますよ。

書籍

 岡崎正孝『カナート イランの地下水路』論創社

 前嶋信次「タラス戦考」(誠文堂新光社『民族・戦争 東西文化交流の諸相』)

 羽田美希「女性にまつわる聖地とその儀礼」(春風社『イランとイスラム 文化と伝統を知る』)

 ジョナサン・ブルーム/シーラ・ブレア『イスラーム美術』岩波書店

 青木健『ゾロアスター教史 古代アーリア・中世ペルシア・現代インド』刀水書房

 メアリー・ボイス『ゾロアスター教 三五〇〇年の歴史』講談社

 曽布川寛/吉田豊・編『ソグド人の美術と言語』臨川書店

 稲葉穣「アラブ・ムスリムの東方進出」(文化研究所『世界に広がるイスラーム』)

 羽田正「サファヴィー朝の時代」(中央公論社『成熟のイスラーム社会』)

 嶋本隆光『シーア派イスラーム 神話と歴史』東京大学学術出版会

 上岡弘二「イランの民衆のイスラムと社会意識」(アジア経済研究所『中東の民衆と社会意識』)

 日野開三郎『唐代邸店の研究』三一書房

オンライン文献

 清水和裕「ヤズデギルドの娘たち シャフルバーヌー傳承の形成と初期イスラーム世界」https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/server/api/core/bitstreams/d62d97ad-084d-413e-98d9-9242ad5844cf/content

 THE LAST SASANIANS IN CHINA  https://www.iranicaonline.org/articles/china-xv-the-last-sasanians-in-china/

 BĪBĪ ŠAHRBĀNŪ  https://www.iranicaonline.org/articles/bibi-sahrbanu/

 BĀNŪ PĀRS https://www.iranicaonline.org/articles/banu-pars-lady-of-pars-the-name-of-a-zoroastrian-shrine-in-the-mountains-at-the-northern-end-of-the-yazd-plain/

 ŠAHRBĀNU  https://www.iranicaonline.org/articles/sahrbanu/

(以上4点の英文文献は、Encyclopædia Iranica https://www.iranicaonline.org/掲載の論文)

 PAMIR HOUSE  https://kalpak-travel.com/blog/pamiri-houses/

 پریسا https://fa.wikipedia.org/wiki/%D9%BE%D8%B1%DB%8C%D8%B3%D8%A7

 最後の1点はウィキペディアのペルシア語記事です。URLの「wiki/」の後はپریساなんですが、コピーすると文字化け?して、上のようになっちゃうんですね。Extra note では、その状態で記載するのがなんか嫌だったのと、何しろ文字数制限があったので切り詰められるところは少しでも、というわけで元のペルシア語に直してますが。
 で、なんの記事かと言いますと、ペルシア語女性名「パリーサ」の解説です。この名前の意味が「パリー(妖精)のような」である、という裏取りがしたかったんで。この記事は最低限のことしか書いていないので(だからペルシア語を初歩しか勉強していない私でも読めたんですが)、パリーサという名前について知りたいという方はWikiの英語版のほうをどうぞ。

 Parisa (given name) https://en.wikipedia.org/wiki/Parisa_(given_name)

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短篇新作「地下水路(カレーズ)」

 明日発売予定の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に、新作短篇が掲載されます。シリーズものではなく、独立した作品です。よろしくお願いいたします。

 今回の『ナイトランド・クォータリー』では、特別展「シルクロードの商人(あきんど)語り―ーサマルカンドの遺跡とユーラシア交流」を開催中(~6/2㈫)の国立民族学博物館で準教授を務めておられる黒田賢治氏とのコラボレーションが行われており、本作はそれに合わせて書かれたものです。まあ一応、シルクロード文化史を研究していたこともあるので。
 今回はわざわざ後記のかたちで作品解題も2頁掲載させていただきましたが、そのさらに補足としてブログでも解説記事を2、3、近日中に上げる予定です。

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