ランガスタラム
2018年公開。「ランガスタラム」とは舞台となる農村の名前。テルグ語で「舞台」の意味だそう。
同じ年、同じテルグ語作品の『アラヴィンダとヴィーラ』と並んで、『RRR』(2022)のヒットを受けての日本公開だったようです。『RRR』の主役二人が、それぞれ主役を務めてる。
冒頭、自転車で疾走する青年(チッティ)が、遙か前方で車に乗り込もうとする白髪の男性を見つけ、「議員、待ってください!」と呼び掛ける。どうやら彼を探し求めていたらしい。だが声が届く距離ではなく、あろうことか直後、議員は後方から突っ込んできたトラックに車ごと撥ね飛ばされる。トラックはそのまま走り去る。重傷の議員は病院に運び込まれ、蘇生処置が始まる。
「数ヵ月前」とテロップが入り、チッティの牧歌的な生活が紹介される。古いミュージカル映画っぽい演出。大袈裟というかデフォルメされた演技で、登場人物が観客に語り掛けてくるタイプの。インド映画はあまり観てないんだが、『ムトゥ』(1995)もそんな感じだったから(こっちに語り掛けてきたかは記憶にないが)、インド映画の伝統的なスタイルを敢えて踏襲してるのかもしれない。
インド映画はあまり観てないんだが、『ムトゥ』と『ジーンズ 世界は2人のために』(98)は「ロマンティック・コメディ」に分類されてるから措くとして、そうではないジャンルの『ボス』(2007)、『ロボット』(2010)、そして『アラヴィンダとヴィーラ』と本作のいずれもが、前半は能天気なラブコメがメインで、主役とヒロインが結ばれるか、少なくともいい感じになったところでようやく本筋のシリアスな物語が始まる。もしかしてインド映画(あるいは南インド映画)には、そういうテンプレートがあるの?
『アラヴィンダとヴィーラ』は、主人公は冒頭で父親を殺され自分も命を狙われ、村から逃亡して都会に潜伏したというのに能天気にラブコメを繰り広げるのが、そんなことやってる場合じゃねえだろすぎたが、本作はチッティが能天気な性格の上に、難聴で周囲の状況がよく解っていないという設定なので、深刻な事態を背景に、能天気なラブコメがギリギリ成立している。
1980年代の田舎の村が舞台。チッティの難聴は重度ではないし、多少は読唇もできるし、何より周囲が気を遣ってくれるので、さほど不便を感じずに暮らしている。それでも偶に馬鹿にされることもあるので、難聴であることをこれ以上他人に知られたくないと思っており、兄が買ってくれた補聴器も拒絶してしまう。
前半はチッティの難聴が引き起こす、周囲との小さなすれ違いがギャグとして繰り返し描かれる。1946年生まれの難聴の父を持つ73年生まれの娘としては、全然笑えないし、途中でしつこすぎると感じたが、にもかかわらず不快とまではいかなかった。むしろ意中の彼女に難聴であることを悟られまいと見栄を張る様が痛々しく、生々しくさえあった。
チッティの難聴は先天性なのか後天性なのか不明だが、私の父は後天性で、何十年もかけて徐々に悪化していった。ちょうど80年代前半で、チッティと同じくらいの程度だったように思う。さすがに子供の私に面と向かって父の難聴を馬鹿にする馬鹿はいなかったし、本人も多くは語らないが、ドリフでも難聴をネタにしたコントとかあったしなあ(父もそれを観ていたが、どう思ってたんだろ。私は年齢が上がるにつれて、なんとなく嫌だなと思うようになり、はっきり自覚する頃にはすでにドリフを観なくなっていたが)。
補聴器は不便を軽減してくれるものではあるが、「印」を身に帯びるということでもある。当時はまだ小型化もあまり進んでなかったし。父がようやく補聴器を着けるようになったのは、さらに症状が進行した80年代末だ。現実の80年代のインドの状況は推して知るべしだが、作中でもチッティはランガンマおばさんと兄以外からは「少し足りない」扱いを受けている節がある。愛嬌があるのと腕っぷしが強いのとで、面と向かって馬鹿にされることが少ないだけで。
とにかく不快ではなかったと言い切れるし、後半には難聴であることが重要なファクターとなるのだが、まあ父に鑑賞は勧めない。
チッティが能天気にラブコメをやっている間に、出稼ぎから帰って来た兄は村長が帳簿を改竄して村民から金を騙し取っていたことを知り(村民の多くは文盲)、腐敗を正すため選挙に立候補する。なおアマプラの字幕では最初に「村長」に「プレジデント」とルビが付いて、その後はずっと「プレジデント」呼びだが(原語でも「プレジデント」と呼ばれている)、ややこしいのでここでは「村長」とする。
こうして話がシリアスになっていくにつれ、歌とダンス以外の場面もリアリスティックになっていく。
その歌とダンスだが、歌詞は物語に即した内容で、かつ村人たちが村の日常の風景の中で、一糸乱れぬアクロバティックな動きではなく、伝統的な民族舞踊をベースにしてるっぽい振り付けで、少々不揃いに踊るので、話の流れや空気がぶつ切りにならず、ミュージカルとしてよく出来ている。『アラヴィンダとヴィーラ』は、その辺りがだいぶお粗末だったからね。チッティは一人だけアクロバティックな動きだが、彼の傑出した身体能力の表現と見ることもできるかもしれない。
兄の立候補を応援するのは、冒頭のあの議員である。ここで時間軸は冒頭の続きに戻る。議員は一命を取り留めるものの、昏睡から覚めない。医師も家族も諦める中、チッティは「俺は諦めない」と宣言し、泊まり込みの看護を始める。ここでちょうど真ん中へん。
病院でのチッティは、かつてぞんざいに拒絶した補聴器を使っているので、何か彼の意識を変えさせた出来事があったことを窺わせる。病院の庭で眠りに落ちたチッティが過去を夢見るかたちで、時間軸は再び移行する。ここで始まるのが、過去のチッティが見た夢あるいは幻なので時系列が解りにくく、ちょっと混乱するが、兄の立候補から少し後のようだ。その夢だか幻だかの中で、チッティはすでに死んでいるはずの人物から、兄の死を予言される。
その後さらにランガンマおばさんから、村長と敵対した人々の末路を教えられる。ドバイへ出稼ぎ中だということになっている、彼女の夫もその一人だった。チッティは動揺し、兄の護衛をしようとしたり、選挙出馬を取りやめさせようとしたりと、的外れな行動を重ね、周囲との軋轢を引き起こす。難聴によるトラブルも、次第に深刻なものになっていく。
兄は命を賭すほどの決意であることを村人たちに知らしめ、これまで以上に支持を集める。チッティも、どんな手を使ってでも兄を守ると村長に宣言する。恋人となったラーマクリシュナも、家族よりチッティを選ぶ。
選挙を目前に、そうしてきれいにまとまったところで、村に「金ぴかクイーン」というダンサーが村にやって来る。ラーマクリシュナの手料理を家族みんなで食べようとしていたチッティは、その報せを聞くや、彼らを置いてダンス見物に行ってしまう。
え? このタイミングで?
「金ぴかクイーン」のダンス自体はいいんだよ。今までずっと、村人たちの素朴なダンスばっかりだったから、技巧的なダンスも見せるってのは。でも、このタイミングで? 家族と縁を切る覚悟で出てきた恋人を放って? せっかく家族と恋人と仲直りできて、ほっこりしたシーンの最中に?
ダンスのシーンはこれが最後になる。なんで仲直りを寿ぐダンスじゃ駄目だったん? 金ぴかクイーンにデレデレしながら一緒に踊るシーンは、ラーマクリシュナとの仲がぎくしゃくした時にこそ入れるべきじゃないの? ほかのダンスがプロットと齟齬が無い分、このダンスシーンは悪目立ちが過ぎる。
この後、物語は急展開し、一気にシリアスに突き進んでいくんだが、そういう意味でもタイミングがおかしい。『アラヴィンダとヴィーラ』並みにおかしい(ちなみに金ぴかクイーン役のプージャー・ヘーグデーは『アラヴィンダとヴィーラ』のヒロインである)。
それはともかく、本作では都合3回アクションシーンがある。いずれも多対一(チッティ)の乱闘だが、妙にリアリティラインが高い。最初が村の不良との喧嘩だが、「格闘技を知らない」者同士の動きなんだよね。殴る蹴るにしても、力任せで技術はない。ワイヤーもCGも使ってない動きだ。
2回目、3回目と暴力はエスカレートしていき、最初はただ「喧嘩の強い兄ちゃん」程度でしかなかったチッティの腕力と体力と耐久力もどんどん上昇していく。巨漢を投げ飛ばす、それも相手の勢いを利用してとかじゃなくて、倒れたところを両脚摑んで投げるとか、そういうところは現実離れしてるんだけど、格闘技術自体は相変わらず「村の若いもん同士の喧嘩」レベルに留まっている。つまりは泥臭い。
この「泥臭さ」は殺人にまで共通していて、石で何度も頭を殴るとか、刃物で何度も突き刺すとかしないと、相手は死なんのよ。嫌なリアリティラインの高さだ。また引き合いに出してしまうが、『アラヴィンダとヴィーラ』みたいな、剣の一振りで腕だの頭だのがバサバサ刈り取られるようなのとはまた別の意味でグロ注意っすね。
さて、結末では驚きの真相とともに、本作が根深いカースト問題を取り扱った硬派作品だったことが明らかになります。カースト制の影は早い段階から見え隠れしていて、たとえば年がら年中礼拝の儀式を行っている村長は、敵対者に災厄をもたらす力があると多くの村人から信じられているが、これは彼が村人たちよりカーストが高いことを示している。カーストが高い=神に祈りを聞き届けてもらいやすい、という図式だ。
また村長は、村人たちのみならず、町からやってきた役人にも飲み物を強引に飲ませた上で、そのコップを洗わせる。掃除をしたり食器を洗ったりするのは下位カーストの仕事だから、そうやって「立場」を解らせているのである(村長がチッティか兄を直接「低カーストが」と罵るシーンもあったような気がする)。
仕事でラーマクリシュナの家の畑にポンプで水を撒きに行ったチッティは、彼女の胸の谷間をチラ見したのと難聴を誤魔化すため、ポンプのエンジン音のせいで聞こえない振りをする。腹を立てた彼女に「あなたのカーストは?」と訊かれ、「エンジンにカーストはない」と答える。
チッティの家は裕福ではないが、村の多くの家のように借金に苦しめられているわけではない。兄は大学まで出ているかは不明だが、少なくとも女子大のお嬢様と同程度の教養がある。妹は出番は少ないが、ちょくちょく画面の隅で勉強していて、終盤には進学のため村を離れる。一方でチッティは中学も出ていないらしく、これは間違いなく難聴のせいだろう。当時のインドの障碍者が置かれた状況が垣間見える。
しかしもっと昔だったら、低カーストは健常者でも高等教育は受けられなかった。そのように少しずつ改善はしていっても、なお差別は根深い。回復した議員の豪邸に行ったチッティは、取り次いでもらおうとするが邪険にあしらわれる。幸い、通りかかった議員の妻は快く招き入れてくれたが、彼を見た議員の母親と思しき老婦人が叫ぶ。「家が汚れるわ。そんな男を入れないで!」
この字幕は「よごれる」ではなく「けがれる」であることが、続く場面で明らかにされる。チッティは小奇麗な服装だったが、低カーストだと一目で判るんだろうか(議員の部屋にいた男たちも、場違いな者を見る目をチッティに向けていた)。彼女はチッティの顔を知らなかったのかもしれないが(病院の場面では二度ともいなかった)、議員を病院に運び、2年間も看護してくれたのが低カースト男性だと知らないはずはない。その彼が議員を訪ねてくるかもしれない、来たら歓迎すべきだ、とは微塵も考えていないのである。感謝すらしていないのかもしれない。
以下、ネタバレ注意。
かなりよく練られたプロットではあるが、最大の欠点(「金ぴかクイーン」より遙かに大きい)は、悪役のキャラが薄いことである。議員が「真犯人」だったわけだが、もっと出番と描写があったほうが、「真相」の衝撃が大きかったはずだ。「腐敗と差別の撤廃」を声高に叫び、その理念のためにチッティの兄を応援するキャラクターであることを、もう何割か増しで描写していれば、偽善が暴かれる衝撃も与えられたはずである。議員が恋人の父親であることを兄が知らなかったはずはないので、議員の出番を増やすと二人の関係に言及せざるを得なくなるかもしれないが、それこそチッティの難聴設定を活かしてどうとでもできただろう。
議員の出番が少ないので、チッティが彼に献身する理由が不明のまま物語が進むことになるが、そこは意図的にミステリ(謎)として引っ張ったのではなく、単なるプロットの粗に思える。
村長もなー。上で散々腐してしまった『アラヴィンダとヴィーラ』だが、敵の親玉を怪演したジャガパティ・バーブが本作でも悪の親玉を演るというので、だいぶ楽しみだったんだが、彼がすべての黒幕だったというのはミスリードで、実際にはチッティにびびって逃げ隠れしてたわけだからなあ。悪役としての魅力も、最終的にはほとんど神話的な怪物にまでなる『アラヴィンダとヴィーラ』と比べると、ステレオタイプでしかない。ちょっとがっかり……
ところで議員を車ごと撥ねたトラックだが、中盤に議員が兄に協力することが明らかになったので村長の仕業かもしれないと思い、でもたかが一村を支配するに過ぎない男が大物政治家の暗殺なんて目論むかなあ、という疑問も抱いていた。で、「真相」が明らかになり、かつ最後の最後までトラックについては言及されなかった。
つまりあれは村長がまったく与り知らぬ純粋な事故で、通りすがりの轢き(撥ね)逃げかーい。権力者が気に入らん奴を消すのとは別方向で治安が悪いな!?
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