汚れなき祈り
新作短篇「地下水路(カレーズ)」(『ナイトランド・クォータリー』vol.42掲載)の解説を終え、最後に1回、余談をつらつら語る予定だったんですが、とりとめない内容なので予想以上にまとめるのに時間が掛かりそうです。
なので、先に映画感想を再開します。数年分書き溜めていた映画感想から、人に見せられそうなものを手直してして上げるので、カテゴリーは「思い出し鑑賞記」です。
2012年公開。『4ヵ月、3週と2日』(2007)のクリスティアン・ムンジウ監督。2005年にルーマニアで起きた悪魔祓い事件に基づく。一応ネタバレ注意。
アリーナとヴォイキツァは同じ孤児院で育った親友同士だった。その友情は、思春期の少女にありがちな疑似恋愛の域にまで達していたようだ。それでもアリーナは成人後、ドイツへ出稼ぎに行き、ヴォイキツァはアリーナを失った寂しさから信仰に救いを求め、地元の修道院に入る。
数年後、アリーナが帰国し、ヴォイキツァの修道院に数日の予定で滞在する。異国での孤独な生活に耐えるうちに、アリーナの中ではヴォイキツァの存在がかつてより遙かに膨れ上がり、彼女なしでは生きていけないとまで思い詰めている。一方、ヴォイキツァは修道院の貧しいが穏やかな暮らしにすっかり馴染んでおり、アリーナの自分への執着に戸惑う。
事前の手紙の遣り取りで、二人は一緒にドイツで働くと決めているらしい。しかしその割には話が嚙み合わず、なぜかその擦り合わせをしようとしない。そのまま数日が過ぎてようやく、アリーナはヴォイキツァが修道女を辞めて(ルーマニア正教でも「還俗」でいいのか?)、ドイツで一緒に暮らしてくれると思っていたが、ヴォイキツァは一緒にドイツで働くのは短期間だけで、すぐに修道生活に戻るつもりでいることが明らかになる。
ヴォイキツァの場合は、アリーナの真意を薄々察して、具体的な計画を尋ねたりしたらそれを突き付けられるのではないかと恐れていたのかもしれない。しかしアリーナのほうは、そもそも具体的な計画など立てていなかったのではないか。「ドナウ川の船で働く」とかなんとか、ものすごくものすごくふわっとしたこと言ってるし。
この決定的なすれ違いが明らかになったことで、元から少々おかしかったアリーナの言動が加速度的におかしくなる。ついには井戸に飛び込もうとし、制止する修道女たちと司祭を相手に大暴れして病院に担ぎ込まれる。
実際の事件では、彼女は統合失調症と診断されたそうだが、作中で病名が出ることはない。処方された薬の名前は統合失調症用のようだけど。いずれにせよ、修道女たちはもちろん、彼女たちよりは学のある(正教の専門知識だけでなく、一般的な意味で)司祭ですら、統合失調症がどんな病気なのかは解っていない。そして薬を処方されただけで、病院が満杯だからとアリーナは退院させられる。
『コレクティブ 国家の嘘』(2019)はルーマニアの公的医療の腐敗を暴いたドキュメンタリーで、2015年の事件を発端としているが、その10年前である本作の事件当時のほうが状況がよかったはずもなく、アリーナが最初に治療を受けた病室で、隣のベッドに寝かされている人がめちゃくちゃ重傷なのに誰も傍についてないのが怖すぎる。精神科の大部屋もベッドがぎゅう詰めだ。
一応この時点ではだいぶ落ち着いていたアリーナだが、どこにも行き場がないことが明らかになる。ドイツでの仕事はクビになっており、里親とは元々折り合いが悪い(ドイツへ行った理由の一つだろう)上に、すでに別の里子を預かっている。孤児院に入れられたのは、父親が自殺して、母親が養育を放棄したからで、一緒に育った兄はいるが、どうやら軽度の知的障害らしく、妹の面倒を見ることはできそうにない。
修道女を辞めないというヴォイキツァの決心が固いことを知ったアリーナは、自分の修道女になると言い出し、修行を始める。しかし熱心だった(ように見えた)のは最初だけで、すぐにやる気をなくすとともに、攻撃的になっていく。ただ攻撃的なだけでなく、神性を冒瀆するようになったアリーナに、修道院は混沌に陥る。
司祭はヴォイキツァに、アリーナを追い出すか一緒に出て行くかにしろ、と迫るが、ヴォイキツァは泣き落としで修道院に留まり続ける。そうこうしているうちにアリーナの病状はどんどん悪化する。季節は冬であり、そんな状態の彼女を放り出したら一晩で凍死するし、ヴォイキツァが一緒でも何日か後になるだけなのは全員解っている。
『4ヵ月、3週と2日』に引き続き、女同士の歪んだ関係をねっちょり描くのが本当に巧い。『4ヵ月』ではガビツァはオティリアに依存しきっているようでいて、ぼけーっと座って「困った、どうしよう」と言っていると、オティリアが「何を困ってるの?」と質問するところから始めて、その困り事を骨身を削って片付けてくれるから、ぼけーっと座って「困った、どうしよう」と言っているだけで、仮に彼女に見捨てられても、そのまま次の誰かが現れるか野垂れ死にするまで、ぼけーっと座って「困った、どうしよう」と言っているであろう有様だ。一方、オティリアがガビツァの言うことをなんでも聞くのは、そうして彼女を支配しているつもりだからだ。
本作のアリーナとヴォイキツァは、孤児院時代は閉塞した環境(であることは察せられる)によって促進されたきらいはあるものの、純粋な友情・愛情だっただろう。しかしアリーナはドイツでの孤独とままならない生活(明らかに、「かっとなりやすい」と評される性格による)から統合失調症が徐々に進行し、愛は執着へと変わっていった。
そしてヴォイキツァは、アリーナに置いていかれたことを恨んでいただろうし、キリスト教的価値観から、アリーナとの疑似恋愛的友情を恥じてもいた(司祭は何かを察したらしく、アリーナがドイツ=西洋から来訪した初日の夕食時に脈絡もなく、「西洋的価値観」の一つとして同性愛を非難する)。だから当初はアリーナからの執着を露骨に迷惑がっていたが、彼女の病状が悪化するにつれ、修道院に留め置くことに拘るようになる。単に哀れな友人を見捨てられないというだけでなく、自分への執着が嬉しかったからではないだろうか。
修道院がアリーナを追い出せなかったのは、この国の福祉制度が終わってるからだが(そのことや、修道院自体がセーフティネットの役割を果たしていること、にもかかわらず困窮状態にあることは丁寧に描写される)、「悪魔祓い」という結果に至ってしまったのは、単なる無知と迷信だけが原因ではなく、最も責任ある立場の司祭が、30歳の「若造」でしかなかったことにあったように思える。
アリーナが言及しているが、前歴は著名なスポーツ選手で、ということは聖職者になったのは元からキリスト教に親しんでいたわけではなく、「目覚めた」からだと思われる。そういう人のほうが、自らの信仰心を恃むことが篤そうである。そして実際、カリスマがあるらしく、若い修道女たちだけでなく年配の修道女たちも頼り切りになっている。一方で上層の聖職者たちとは折り合いが悪く、冷遇されている。
そんな状況で、アリーナの病を悪魔憑きだと信じた修道女たちに「彼女を救えるのあなただけです」と縋られて、その気になってしまったのではないだろうか。
だから本作で1967年生まれ(しかも日本や北米の同年代よりだいぶ老けてる)のヴァレリウ・アンドリウツァを司祭にキャスティングしてるのが、あらゆる意味で間違いなんだよねー。いっそのこと設定変えちゃえばよかったのに、作中で「30歳」って言ってるから、無理がありすぎる。
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