イスマイール一世は本当に「邪悪なほどに」美しかったのか? 其の三
前回は、同時代の西洋人のイスマイール一世(1487―1524)観を検討しました。今回は、「美しい容姿」に対する当時の西洋の価値観を検討していきます。それによって、イスマイールを「邪悪なほどに」美しいと評したのはどんな立場の人物なのか、いくらかは絞れるんじゃないかと。
「我である汝よ イスラム神秘主義(スーフィズム)が目指すルッキズムの極地」(『トーキングヘッズ叢書』№93』掲載)で論じましたが、ヒトは1枚の顔写真を0.1秒見ただけで、その人物の能力や性格を評価するそうです。もちろんその顔が魅力的だと感じれば高評価を、そうでなければ低評価を与えます。つまり「外見が良い人=内面も良い人」 という感覚は、ヒトの無意識層に刻み込まれているのでしょう(だからといって、それがルッキズムの免罪符になるわけではありませんが)。
さて中世西洋美術では、「美徳と悪徳の寓意」という主題が好まれました。ロマネスク期(10世紀末-12世紀)には男性兵士に斃される異教徒または怪物という構図で表現されていたのですが、ゴシック期(-15世紀)に入ると、明確に美女vs.醜女の構図になります。
しかし問題なのは、「外見が良い人=内面も良い人」とは限らない、という事実です。「善」であるはずの美男美女が悪しき内面を持ち得る。キリスト教社会において「善」は神の領分なので、この矛盾は深刻でした。
一方でキリスト教の禁欲主義は、快楽を悪とします。性的快楽ももちろん悪だったので、見る者の性欲を掻き立てる、という点からすれば美女(および美男)も「悪」になります。
斯くして悪徳が醜女として描かれるようになるのと並行して、アダムを唆したエヴァ、サムソンを陥れたデリラ、大淫婦バビロンといった聖書の悪女たちは美女として描かれるようになっていきました。
……いやまあ、それ以前から彼女たちは視覚化されてはいたのですが、絵画にしろ彫刻にしろ、様式と言うか技術と言うかの問題で、明確に異形として表現しているのでなければ、少なくとも私には美醜の区別がつかない……
下はイスマイールと同時代に描かれたラファエロの「アダムとエヴァ」(1509-11年。ヴァティカン宮殿「署名の間」天井フレスコ画)です(以下、画像はWikipediaから)。
エヴァを誘惑する蛇が「エヴァに似た乙女の顔」を持つとしたのは神学者ペトルス・コメストル(1173年没)で、以後、この主題を扱った作品の多くが、蛇の顔または上半身を若い女性として描くようになりました(この作品ではエヴァに似ているかどうかはよく判りませんが)。
つまり蛇とエヴァが同一視されるようになった、ということです。なおコメストルは、蛇をエヴァに差し向けたのはサタン(悪魔の長たる魔王)だとしていますが、この説は『創世記』にはなく、前1世紀末-後1世紀前半成立とされる外典『モーセの黙示録』由来だそうです。蛇とサタンを同一視する説もあって、こちらは2世紀成立とされる『ヨハネの黙示録』でサタンが「年経た蛇」と呼ばれていることに由来するそうです。
もしラファエロ描くこのエヴァを魅力的だと感じたら、それは蛇(サタンの眷属、あるいはサタン自身)を魅力的だと感じるのと同じだということになり、つまり彼女たちの「美」は「邪悪な美」ということになります。
上は、イスマイールより後の時代になりますが、ヴェロネーゼの「美徳と悪徳の間の若者」(1580年頃)です。右が美徳、左が悪徳です。ルネサンス期には「美徳と悪徳の寓意」は両者の闘争ではなく、どちらを選択するか揺れる若者、という構図が好まれました。この構図では、悪徳は露出度の高い派手な服装の美女として描かれます。
美徳も美女ですが、見てのとおり地味です。もし悪徳のほうが魅力的だと感じるなら、その美はやはり「邪悪な美」です。
ちなみにここで描かれてる「悪徳」は一人ですが、要するにいわゆる「七つの大罪」の総称です。七つの悪徳にに七名の悪魔を対応させたのはドイツの神学者ペーター・ビンスフェルトで1589年のことだとされていますが、おそらく彼の独創ではないでしょう。どの悪徳にどの悪魔を対応させるかまちまちだったのを固定した、といったところではないかと思われます。
つまり「美徳と悪徳の間の若者」が描かれた頃には、すでに悪徳の擬人化として悪魔を当て嵌める考えがそれなりに広まっていた可能性があります。そうであれば、この美しい悪女は悪魔だということになります。
したがって16世紀の西洋人にとって、「邪悪なほどの美しさ」というのは「悪魔に属するもの」なのです。というわけで前回、長々と検討した「同時代の西洋人によるイスマイール観」の出番です。
イスマイールに関する初期の報告は、ペルシアやその周辺にはいたもののイスマイールのことは伝聞でしか知らないヴェネツィア人やポルトガル人によるもので、彼と信奉者たちの宗教はキリスト教そのもの、あるいはそれに似た何かだとする荒唐無稽なものでした。
イスマイールが都としたタブリーズは現イラン北西部にあって、地中海から千キロ以上内陸です。実際にその距離を旅してイスマイール本人に会いに行くまでの間に、そんなお伽話は否が応でも放棄せざるを得ないでしょうが、「キリスト教徒の友」という評価なら、少なくとも彼に好感を抱く西洋人の間では保たれ続けました。
そんな人々が、イスマイールを「邪悪なほどの美しさ」と評するのはあり得ない。だからもし西洋人がイスマイールをそう評したのなら、その人物は彼に好感を抱いていない、ということになります。
そうなると純粋に好奇心や利潤追求で来てる旅行家や商人(つまり実は政府のエージェントだったりしない)よりは、政治的利害の絡む使節やエージェントのほうが可能性が高そうですね。チャルディラーンの敗戦(1514年)前でも後でも、イスマイールとの交渉は巧くいってませんし。
さらにチャルディラーンの時点で、イスマイールは27歳です。享年は37歳。昔の人は現代人(「先進国」の)よりも老けるのが早いことを考慮すると、20代前半くらいまでならともかく、アラサー以降だと現代(先進国)の標準よりプラス10-15歳くらいの見た目になってしまいそうです。そんな男性を「美男」と評するのは充分あり得るし、実際そういう評されていますが、「邪悪なほどに美しい」という評しかたをするものですかね?
イスマイールの許に西洋の使節が送られた期間は、1505年以降と1515年以降の二度です。年齢に関する推測が正しいなら前者ということになりますが、まともな資料が前回紹介したPalmira Brummettの論文しかない。しかもこの人はイスマイールと西洋の関係そのものには興味がなく、この時期に交渉があった国としてヴェネツィア、フランス、ポルトガル、ロドス島、ローマ(ヴァティカンであろう)を挙げているものの、具体的な遣り取りが述べられているのはヴェネツィアだけです。どのみち他の国との交渉も失敗したそうですが。
残っている記録の多さからすると、ヴェネツィアが一番可能性が高そうではありますね。
以上が、片手間の調査から推測できる限界です。正直なところ、ネット上で「イスマイール一世の美貌」について日本語で発言している人は、ググって出てくる限りでは例外なく「邪悪なほど」かそれに類する形容(「魔性の」等)を付し、かつ例外なく典拠を提示していないのですが、まあ講談社現代新書という手軽さから9割9分9厘、鈴木董氏の『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』のみに基づいているのではないかと思われます。
で、英語圏ではどうかと言うと、前回触れたように、そもそもイスマイール一世本人に関心を持っている人が少ないので……彼のルーツがアゼルバイジャンにあるためか、アゼルバイジャン人研究者の英語論文等は出てきますが、それらでイスマイール一世の容姿に言及している場合でも、引用されている西洋の原典資料は前々回に紹介したアンジョレッロと無名商人のものだけです。
念のために中国語とフランス語でもググってみましたが、これらの言語圏でも「イスマイール一世の容姿」に関心を持っている人はいないようです。
だからまあ、鈴木董氏御本人に是非とも典拠を開示していただきたいものですね。
というわけで「イスマイール一世は本当に「邪悪なほどに」美しかったのか?」というテーマはこれでお終いです。しかし後1回、調査のついでに知った小ネタを開陳する予定です。
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