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イスマイール一世は本当に「邪悪なほどに」美しかったのか? 其の二

其の一

 サファヴィー朝開祖イスマイール一世(1487ー1524)の容姿についての余談、続き。美男だったという同時代資料は見つけられましたが、西洋人の誰が、いつ、どんな状況で「邪悪なほどに」美しいと形容したのかは、依然不明です。
 片手間の調査ではこれが限界で、後はどこかの誰かが見つけてくださるか、鈴木董氏御自身が情報開示してくださるのを期待するしかありません。しかしせめて推測の手掛かりは得られないか、同時代の西洋人によるイスマイールの評価を検討してみることにしたのでした。

 前回の最後に紹介したPalmira Brummettの論文The Myth of Shah Ismail Safavi(グーグルスカラーhttps://scholar.google.com/?hl=jaで検索すれば、PDFがダウンロードできます) 「シャー・イスマイール・サファヴィーの神話」は非常に興味深い内容で、16世紀初頭に西洋で流布した「イスマイールの神話」を取り上げています。
 1499年に12歳で挙兵して以来、破竹の勢いで勝ち進み、1501年には祖父・父・兄の仇である白羊朝の都タブリーズ(現イラン北西部)を落とし、ペルシア王として即位した少年教主についての報告は、遅くとも1501年にはヴェネツィアに届き始めます。それによると、この少年は預言者あるいは神自身を自称し、熱狂的な信徒軍を率い、トルコ人は異端者として殺すが、アルメニア人(キリスト教徒)には寛容である、とされていました。

 西洋諸国(具体的には地中海沿岸諸国)は、イスマイールが対オスマン帝国の同盟者となってくれることを期待しました。そうしてわずか数年の間に、イスマイールの「神話」は急激に膨れ上がっていきました。彼は「キリスト教徒の友」であるばかりか、彼自身、母親がキリスト教徒だったとか、キリスト教徒に育てられたとか、「トルコ人」たちから「キリスト教徒」と呼ばれているのだとされました。
 シーア(派)について無知だったために、イスマイールがイスラム全般に敵対的だと勝手に誤解したことから生じた、ある種の集団妄想と言えます。一方で、彼が民から預言者あるいは神そのものと崇められるのみならず自らそう称している、という情報は取り上げられなくなっていきました。

 そして「ヴェネツィア、フランス、ポルトガル、ロドス島、ローマ(ヴァティカンのことだと思われる)がより正式な関係を構築する可能性を探るため、イスマイールと書簡の遣り取りを開始した」とのことですが、具体例として挙げられているのはヴェネツィアだけです。
 上記の報告もそうですが、この論文は原典資料の9割方を
マリーノ・サヌートMarino Sanuto(またはSanudo、1466-1536)のI Diarii(the diaries)に拠っています。Diariiはただの日記ではなく、国内外の事件の記録やその考察、外交文書をはじめとする重要資料の写しも含む、全56巻に及ぶ大著だそうです。サヌートはヴェネツィア共和国大評議会の一員だったので、 そういう資料の入手も容易だったのでしょう。
 英訳は出ていません(もちろん邦訳も)が、論文中の引用は英訳されていますよ。まあそういうわけで利用できる原典資料がヴェネツィア関係に偏っているので、「西洋におけるイスマイール神話」と言いつつ、大半がヴェネツィア人のもの、後はポルトガル人とか後述するロドスの聖ヨハネ騎士団くらいです。

 というわけでヴェネツィアとイスマイールの遣り取りですが、どうもイスマイールから先に手紙を出したみたいですね。1505年、イスマイールは18歳です。これは単なる挨拶だったようですが、続いてヴェネツィアに使節を送り、サファヴィー朝は陸から、ヴェネツィアは海からオスマン帝国を挟撃する作戦を提案し、さらに大砲と砲手を要求しました。
 使節派遣がいつだったのかは述べられていませんが、大砲はまず1508年のバグダード攻略に使いたかったとのことなので、それ以前になりますね。
 この提案と要求に対し、ヴェネツィア元首は軍事協力の代わりにイスマイールへの友情とオスマン帝国への憎しみに溢れた言葉のみを提供しました。
 実はイスマイールが挙兵した1499年、ヴェネツィアはオスマン帝国とギリシア周辺の海上覇権を巡る戦争を開始していました(オスマン・ヴェネツィア戦争)。戦況は終始ヴェネツィア側が劣勢であり、だからこそ「救世主イスマイール」に期待をかけたのでした。
 一方、オスマン帝国も東方に迫るイスマイールに不安を感じ、だからこそ圧倒的優勢だったにもかかわらず1503年にヴェネツィアと講和条約を結ぶに至りました。つまりイスマイールが最初に親書を送った1505年の時点で、ヴェネツィアはもはやオスマン帝国と戦う気力を失っていたのです。

 またヴェネツィアは、イスマイールに大砲を提供すれば、それがいずれエジプトのマムルーク朝にも使われることになるだろう、と危惧していました。マムルーク朝の弱体化は、ヴェネツィアの商売敵であるポルトガルの強大化に繋がります。
 オスマン帝国も、ポルトガルに侵蝕されつつあったマムルーク朝に軍事支援を行っています。お蔭でサファヴィー朝とオスマン帝国の対立が深まっていく中、マムルーク朝が前者につくことはありませんでした(オスマン帝国の味方もしませんでしたが。そして1516年、オスマン帝国によって滅ぼされます)。
 そういうわけで1508年、イスマイールは大砲なしでバグダードを攻略します。Diariiによればこの年、ロドス島の聖ヨハネ騎士団総長は、教皇(ユリウス二世)に手紙を送り、イスマイールに大使を送るよう強く促したそうです。が、それに対するリアクションは論文では述べられていません(Diarii でも言及されていなかったのかもしれませんが)。
 イスマイールはそのまま、キズィルバシュ騎兵隊でオスマン軍の大砲と小銃に立ち向かうことになるのですが、論文によれば「1514年にチャルディラーンでオスマン帝国によって打ち破られるより以前に、西洋の消息筋におけるイスマイールの重要性は減少した」そうです。なぜ、どのようにそうなったのかは一切説明がありません。

「神話」も含め、チャルディラーン前のイスマイールと西洋との関係を体系的に述べているテキストは、英語・日本語ではこの論文しか見つけられませんでした。それだけ「西側世界」ではイスマイール一世(というかサファヴィー朝全般)の研究が進んでいないということです。
 Palmira Brummettという人はWiki英語版に記事があり、高い評価を受けている中東史研究者だそうですが、この論文の主旨は「神話」も含めたイスマイール一世と西洋の関係、ではなく「西洋人による〝イスマイール神話〟は単なる無知から来る願望だけではなく、各国政府による情報操作の産物でもあった」というものです。
 つまり彼らはイスマイールすなわちイスラム君主と同盟を結ぶならlegitimation「正当化」が必要だった、というのです。具体的には、イスマイールが実はキリスト教徒だということにしたい、それが無理なら彼が信仰するのは「キリスト教ではないが、イスラムよりはキリスト教に近い宗教」だということにしたい、それすら無理なら最低でも「ムーア」(オスマン帝国をはじめとするスンナ派)の敵であるだけでなくキリスト教の友だということにしたい、というのです。

 しかし例えば、ちょうど1世紀前の1402年、オスマン帝国を破ったティムールに対し、フランス王シャルル六世とカスティーリャ王エンリケ三世は友好使節を送っています。もちろんティムールがムスリムと知った上ですし、どちらの使節団にも修道士が加わっています。
 エンリケ三世の使節であるルイ・ゴンザレス・デ・クラビホの報告書は邦訳が出ていますが(『遙かなるサマルカンド』原書房)、それを読んでもBrummettが言う「正当化」が行われた様子は窺えません。
 なお具体的な同盟や軍事的協力等に話が進む前にティムールが病死し(1505)、そのまま後継者争いが始まって立ち消えになってしまったようです。

「神話」におけるイスマイール一世像は「プレスター・ジョン」のようだ、と論文中で何度も述べられていますが、この伝説は当時まだまだ健在でした。特にポルトガルはガチで信じていて、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓(1498)に繋がる国を挙げての大航海事業は、そもそもプレスター・ジョン探索から始まったものです。まあ純粋な宗教的情熱だけじゃなく、「プレスター・ジョンの王国なら、必ずや最高の貿易相手になってくれる」という商業的情熱も大きかったんですが。
 プレスター・ジョンが実在なら似たような存在はほかにもいるだろう、という願望が「イスマイール神話」の正体だったんじゃないかと思いますけどねえ。
 まあとにかくBrummettは自説を証明すべく、「神話」に用いられた「レトリック」を延々考察し、チャルディラーン後のイスマイールについてもまったく触れていません。

 羽田正「サファヴィー朝の時代」(中央公論新社『成熟のイスラーム』所収)では、イスマイール一世はチャルディラーンでの敗北までは己が本当に救世主だと確信していたようだ、とか敗北後は政治に関心を失い、酒食と狩猟に現を抜かすようになった、とか述べられています。しかしデイヴィッド・ブロー『アッバース大王 現代イランの基礎を築いた苛烈なるシャー』(中央公論新社)第1章によれば、イスマイールは14歳で即位後、軍事面こそトルコ系遊牧民に頼っていたものの、行政面では実務に長けたイラン系の都市住民を徐々に登用して対抗勢力とし、チャルディラーン後も西洋諸国との同盟を画策するなど、「神がかり」のシャーとは異なる堅実な面を見せています。
 チャルディラーン後にイスマイールが親書を送った相手はポルトガルのマヌエル一世、ハンガリーのラヨシュ二世、神聖ローマ帝国のカール五世、教皇レオ十世でしたが、成果らしい成果は出せませんでした。1523年、イスマイールはカール五世に送った書簡の中で、西洋諸国は互いに戦ってばかりでオスマン帝国と本気で戦う気がない、と非難しています。彼の死はその翌年です(享年37歳)。
 チャルディラーン前のヴェネツィア以外の西洋諸国との交渉も、こんな感じで不首尾に終わったのでしょうね。

 さて、Brummettが述べるようにイスマイール一世に対する西洋各国政府の関心(過度な期待と幻想)がチャルディラーン以前に薄れてしまったとしても、少なくとも西洋の民間人の間では、チャルディラーン後も好意的な評価は継続していました。前回紹介した無名のイタリア商人とアンジョレッロのイスマイール評も、チャルディラーン後のものです(前者がイスマイールを実見したのは明確にチャルディラーン後。後者はチャルディラーン前の可能性もあるが、著作はイスマイールの死後に書かれた)。 
 最初から好感を抱いていたとはいえ、あまりにも期待外れだと反転してしまいますが、「少女のように愛想がいい」ですからね。やはり神を自称するエキセントリックな振る舞いは、演技だったのかもしれません。
 となると、短篇「ガーヤト・アルハキーム」(『ナイトランド・クォータリー』vol.18掲載)の主人公の造形を「エキセントリックだが醒めてもいる」としたのは、イスマイール一世の実像に意外と近かったのではないか、とちょっと嬉しくなった次第でありましたよ。

 というわけで今回は同時代の西洋人から見たイスマイール一世像を検討しましたので、次回は彼らのうちどんな人物が「邪悪なほど」美しいと評した可能性があるかを考えてみたいと思います。

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