反撥
1965年公開。カトリーヌ・ドヌーヴは90年代以降の出演作しか観たことがなくて、それ以前だと『昼顔』(1967)のスチールくらいでしか知らんのだけど、その時点でもう貫禄ある大女優って感じなのに、43年生まれだからまだ23、4歳なのね。
で、本作はその2年前だが、ロマン・ポランスキー監督は彼女を徹底して「少女」として描いている。ドヌーヴの顔の造作はこの頃から立派で、一歩間違えると「厳つい」「老けてる」となりかねないんだが、カメラは彼女の怯え切って見開かれる大きな目をひたすら強調する。二の腕は折れそうなほど細く、英語はたどたどしく舌足らずだ。
ロンドンで働く神経質で潔癖症の女性キャロル(ドヌーヴ)が、同居する姉の不在をきっかけに精神のバランスを崩し、坂を転がり落ちるように病んでいく話。カメラはその様を執拗に、しかし冷淡に追い続ける。なんか山岸凉子の1980年前後の諸短篇っぽい。病んでいく若い女の視点で話は進むのに、作者(監督)の視点は俯瞰してる感じが。
ヒロインが病む原因は外部(環境)にも内部(彼女自身)にもあり、後者はいろいろあるが、それらの一つが「主体性のなさ」であることは、本作でも山岸作品でも共通している。違いは、端的に言えばフェティシズムだなあ。山岸凉子もヒロインの狂気の描写にフェティシズムを感じさせるが、ポランスキーほど執拗じゃないし、何よりヒロインが抱える「主体性のなさ」に対し、断罪までは行かないものの少なからず批判的だ。
一方のポランスキーは、この主体性のなさも含めて愛でてますね。なぜこの性癖(誤用)を、作品に昇華させるだけで済ませられなかったのか。
まあもし山岸凉子が本作をコミカライズするなら、カトリーヌ・ドヌーヴのキャラデザ(顔の造りと体型)的に、『アラベスク』の頃の絵柄が一番合ってるんじゃないかと思いますが。でも当時の技法じゃ表現しきれんだろな。
サイコ・スリラーに分類される作品で、その「スリラー」の演出が現代の感覚だとちょっと大袈裟に感じられる場面もあるが、全体に占める割合はわずかで、ほかは全部、今観てもスタイリッシュ。
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