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グエムル‐漢江の怪物

 2006年公開。監督は『パラサイト 半地下の家族』(2019)のポン・ジュノ、主演は同じくソン・ガンホ。公開時、だいぶ話題になったなあ。

 怪物(グエムル)は割とすぐにその全貌を露わにするのだが、00年代半ばの水準からしてもあまりにしょぼいCGで、「これで2時間はちょっと……」となる。でもドラマがいいかもしれないし、と観ていると、徐々に改善していって、中盤までには問題ないレベルに落ち着く(こっちの目が慣れたとかではなく)。ほぼそのクオリティを最後まで保つので(たまーに少々怪しくなるが)、序盤だけなんだったんだ、あれは。
 怪物が生まれた原因が、在韓米軍が漢江に不法投棄した大量のホルムアルデヒドなんだが、鑑賞後にあれは実際に劇中と同じ2000年に起きた事件だと知る。道理で作品全体を通して米国に批判的なわけだ。一応、韓国市民を守ろうと徒手空拳で立ち向かうも、敢え無く返り討ちされてしまう善良で勇敢な米軍人も登場するが。

 怪物は捕獲した人間をすぐに食べるだけでなく、生死構わずストックしておく習性があるらしい。食われたと思われていた中学生の娘が、携帯電話で助けを求めてきたので(携帯は元々壊れかけていたので、すぐに不通になってしまう)、彼女を救うべく父親、祖父、叔父叔母が奮闘する。
 奮闘できてしまうのは、公的機関がまともじゃないからである。少女が生きているという家族の訴えに取り合わないし、セキュリティが杜撰なので簡単に出し抜かれるし、賄賂も利く。御都合主義なのではなく、当時の(あくまで「当時の」だと思いたい)韓国社会に対する風刺だと察せられる。英国のブロック(貧困層向け公共団地)でエイリアンの群と不良少年たちが戦う『アタック・ザ・ブロック』(2011)も、公的機関に顧みられない人々と場所だからこそ成立したプロットだったな。軽装備の個人でもどうにか戦えるモンスター、という点も同じだ。

『パラサイト』と同じく、登場人物たちは間抜けさと抜け目なさを併せ持ち(本作のほうがだいぶ間抜けの度合いが大きいが)、間抜けさは喜劇だけでなく、時に悲劇ももたらす。罵り合いはするが、家族の絆は固い。
 しかし一家の男三人が三人とも、ボンクラでも銃はちゃんと使えるのね、兵役があるから。そんで大卒ニートの次男(叔父)が火炎瓶の扱いに長けているのは、デモ参加の経験からか。

 韓国語は全然知らないので「グエムル」なのか「グエルム」なのか「グムエル」なのか、なかなか憶えられなかったんだが、「怪物」の韓国語発音なので、日本の呉音「怪(け)」「物(もつ)」に近いと理解したら憶えられました。

『パラサイト 半地下の家族』感想
『アタック・ザ・ブロック』感想

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フィツカラルド

 1982年公開。本作と『アギーレ/神の怒り』(1972)は、ヴェルナー・ヘルツォーク+クラウス・キンスキー+アマゾン奥地の組み合わせがとにかくヤバいということで、20代の頃からいつかは観たいと思っていた。さらに『伊藤計劃トリビュート』所収 の「にんげんのくに」(2015)の下調べをしていた時に、どちらも史実を基にしていることと、ロケがとにかくガチだということを知る。
 その後、『アギーレ』を先に観て、『トーキングヘッズ叢書№81 野生のミラクル』掲載の「密林の〝パラダイス〟――管理された野生」を書く(なのでブログに感想は上げません)。

 本作の主人公のモデルとなったカルロス・フィツカラルドについては、Wikiに日本語の記事がある。が、プエルト・マルドナド市を設立したなどと述べていて信用できない(複数の英語記事を参照したところによると、市の発展に貢献した一人だということである)。
 英語版によれば1862年、ペルー生まれ。父親はアイルランド系アメリカ人で母親はペルー人。映画でも名乗っているとおり、元の姓はフィッツジェラルド。
 若くしてゴム成金となる。ゴムの樹が大量に生育しているが大型船が通過できる川がないため手つかずになっていた土地から、独創的な方法で大量のゴムを運搬してさらに財を成す。その方法というのが、難所の手前でいったん船を陸に揚げて解体し、狭い地峡(フィツカラルド地峡と名付けられた)を越えて別の川に出てから再び船を組み立てる、というものであった。お蔭で「天然ゴムの王」と呼ばれるまでになったが、1897年に船の事故により35歳の若さで死去。

 ヘルツォーク監督は船を解体せず、そのまま山越えさせた。そしてそんなことをやってのける男として、フィツカラルドを中年の夢追い人に設定した。彼の夢とは、辺境の町イキトスにオペラハウスを建てることである。
 実在のフィツカラルドのほうは、別段オペラを愛好していたわけではなかったようだ。ヘルツォーク監督が「夢」としてオペラを選んだ理由は不明だが、ブラジルの都市マナウスのオペラハウス「アマゾナス劇場」は、19世紀末から20世紀初頭のゴム・ブームの象徴として(その後のゴム・ブーム終焉による凋落も含めて)、南米近現代史では結構有名だ。それに廃墟となっていたアマゾナス劇場が大改修により復活したのが1970年のことだというから、『アギーレ』の撮影時にでも知ったんじゃないかな。
 で、そのアマゾナス劇場のこけら落としが1897年で、史実のフィツカラルドが死んだ年だから、時代を少しずらして20世紀初頭にした、と。

 当時のマナウスの繁栄の象徴として、オペラハウスと並んで語られるのが、「ゴム成金たちは衣類を大西洋の反対側のパリやポルトガルまで運んで洗濯させていた」というエピソード。本作でも言及されていて、その理由を「アマゾンの水は汚いから」としていた。
 まあそれも理由の一つではあるんだろうけど、私が読んだ本(タイトル忘れてしまいました)によれば、「現地に高級衣類を洗濯する技術がないから」ということだった。メスティソ(白人と先住民の混血)や黒人の貧しい洗濯女たちは、どれだけ高価な衣類だろうと、アマゾンの水に浸して岩の上に広げ、石でガンガン叩く、という洗い方しか知らなかったそうで、絹のシャツなんか繊維状にまで分解される。

 本作の冒頭、件のアマゾナス劇場でヴェルディの『エルナーニ』が上演される。ステージ近くの壁に主役二人の名前が掲示されている。実在の高名な歌手エンリコ・カルーソーと……サラ・ベルナール!?
 いや、ベルナールはオペラ歌手じゃないよ? あ、だから口パクなのか(オーケストラピットでふくよかな若い女性が歌っている)。史実でもそんなことあったの……?と混乱していると、カメラがステージ上のベルナールに近づいていく……これ、男だ。
 つまりヨーロッパ製の高価な衣服を取り寄せることはできても洗濯すらできないのと同様、その服を着て、ヨーロッパから取り寄せた資材と呼び寄せた建築家や職人で建設した絢爛豪華なオペラハウスに行っても、サラ・ベルナールが偽者だと気づけない、成金の都ということなのである。
 というか、20世紀初頭だと彼女はすでに60歳前後である(まだまだ現役ではあったが)。マナウスの成金たちは彼女について、「なんか名前聞いたことある」程度で、オペラ歌手だと言われて鵜呑みにしたのであろう。にしても偽者をわざわざ男にしたのは、少々やりすぎの感があるが。

 とにかくサラ・ベルナールが真っ赤な偽者となれば、カルーソーも偽者である可能性は極めて高い。が、自称カルーソーも偽ベルナールの吹き替え歌手もオーケストラも、レベルはなかなかに高く、完全に黒とも言い難い。
 まあ観てるこっちとしても下手くそなオペラなんて聴きたくないので、その辺のリアリティはどうでもいい。少なくともカルーソーのレコードを長年聴き込んでいたフィツカラルドが本物と信じ込む程度には、技巧も声も「そっくりさん」だということであろう。
 なお、カルーソーの顔も写真で知っていたかもしれないが、黒人の案内係の温情で遠目にこっそり観劇させてもらったので、別人だとしても気づけなかったということなのだろう。サラ・ベルナールのことは、成金たち同様、よく知らなかったようである。

 実のところ、『アギーレ』にはかなり失望していた。同作が史実に基づくと知ってから割とすぐの時点で、史実にあまり忠実ではないようだとは気づいていた。16世紀当時、アマゾン下流域は幾つもの部族国家が栄える人口稠密地域だったのだが、幾つか読んだ『アギーレ』のレビューでそのことに言及したものはなかったのだ。そもそもアギーレ率いる遠征隊は、先発の探検隊が持ち帰った、黄金郷はこれらの国家群の一つ、という情報(実はただの思い込み)に基づいて派遣されたというのに。
 実際観てみると案の定、大きな家が建ち並ぶ豊かな村々と色とりどりの鳥の羽で身を飾り美しい陶器を作る人々は存在せず、掘っ立て小屋に住むみすぼらしい裸の未開人が、凶暴な野生動物の群の如く遠征隊を襲い来るのである。
 とはいえアマゾン下流域の部族国家群については、割と最近まで専門家の間でも眉唾扱いされていたので、ヘルツォーク監督一人が悪いわけではない。だがそれを抜きにしても、全篇を覆う陰鬱な狂気には、かなり滅入らされた。

 だから本作にも期待していなかったのだが、スクリーンに満ち満ちていたのは、透き通るように明るい狂気だった。未来に光を見出した(幻想だが)フィツカラルドの笑顔は少年のようで、クラウディア・カルディナーレ演じる娼館女将も惚れるだろうという説得力がある。カメラが回っていないところでは、アギーレの如き振る舞いだったそうだが。
 クラウディア・カルディナーレはドイツ語も喋れるのかと思ったら、吹き替えだった。現地のキャストも吹き替えだな。モブはスペイン語のまま。
 以下、一応ネタバレ注意。

 先住民の扱いも、たった十年余りで隔世の感がある。フィツカラルドが蒸気船で向かう土地には、訪れた文明人を惨殺するとされる未開のヒバロ族が住んでいる。だが彼らは、なぜか無償で協力を申し出る。彼らの言葉が解る料理人から、「白い神」の信仰について聞いていたフィツカラルドは、自分がそう思われたのだろうと遠慮なく受け入れる。
 よくある「蛮族もの」ホラーだと、文明人たちは最後に生贄にされる。フィツカラルドたちも、うっすらと疑ってはいるので、時折緊張感が漲る。
 ところがヒバロ族は、「白い神」に船が通れない難所の「呪い」を解いてもらうつもりだったのである。斯くして彼らの協力で船の「山越え」を果たしたフィツカラルドは、お返しとして「解呪」をさせられることとなり、どうにか生還はできたものの、計画はおじゃんになる。
斯様に「先住民」を「白人に都合のいい存在」にも「ホラー展開に都合のいい存在」にもせず、独立した意思を持つ人々として描いているのである。

 一文無しになったフィツカラルドだが、船は元の持ち主に買い戻してもらったので、その金でマナウスからオペラの一座を呼び寄せ、船上オペラを上演する。大河の上を響き渡る歌声は美しく、フィツカラルドは晴れやかに破顔する。

 なおフィツカラルド地峡一帯はヒバロ族の版図ではなく、史実のカルロス・フィツカラルドが雇用したのは別の部族だそうだ。まあペルーのアマゾン上流域に住む先住民では一番有名だろうからな、ヒバロ族(この名称は蔑視含みの他称で、自称は「シュアール」族)。
 かつてはブラジル北部のヤノマミ族(「にんげんのくに」の「人間」族のモデル)と並ぶ「獰猛な部族」として知られていたそうで、日本でも「干し首」で有名だった。アマプラの字幕じゃ「ミイラ首」になってたけど、もう知らない人のほうが多いのかな(ググるのはお勧めしません)。
 本作のロケ地はペルーのアマゾン上流域だが、さすがに本物のフィツカラルド地峡ではなく別の場所。「ヒバロ族」役も現地で伝統的生活を営む先住民だが、アグアルナという別の部族だとのこと。

「中南米蛮族もの」感想
『アポカリプト』(2006)
『ミッション』(1986)

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CLOSE/クロース

 2022年公開。ネタバレ注意。
 ベルギーの片田舎。親友同士のレオとレミは、中学入学早々、その親密さを同級生たちに揶揄われる。女子は「付き合ってるの?」と尋ね、男子は「オトコオンナ」と呼ぶ。
 アメリカが舞台だったら陰惨ないじめが始まるところだが、ベルギーの中学生たちはお行儀がよく、行為がエスカレートすることはない。厳重に監視していない限り見逃してしまうくらいの小さな摩擦であり、そのことで学校側を責めるのは間違いだ。子供たちも、社会全体の価値観をなぞっているだけに過ぎない。

 実際、レミは大して気に留めない。というか、面と向かって言われると多少困惑するものの、もっと間接的な、たとえば好奇の目を向けられる程度では気づきもしないようだ。しかしレオはひどく気に病み、レミと距離を置くようになる。そしてアイスホッケーをやっている男子に接近し、自分もクラブに入会する。
 レオは農家の息子で力仕事に慣れているお蔭か、ホッケーの練習にもすぐについていけるようになり、最初に彼を揶揄ってきた「ちょっと荒っぽい男子たち」とも打ち解けて一緒に遊ぶようになる。
 レミは親友の変化に戸惑い、問い質そうとするが、レオは誤魔化すばかりでまともに答えない。巧く言語化できないのもあるんだろうけど、問題と向き合うのを避けたがっているようだ。

 亀裂は決定的になり、互いに口も利かなくなる。とはいえレミは孤立したわけではなく、レオとは別のグループの子たちと仲良くやっているように見えた、その矢先に彼は自殺してしまう。
 冬の初め頃だから、9月の入学から3ヵ月も経っていない。学校は生徒たちへの影響を心配してグループカウンセリングを行うが、皆、レミの思い出などほとんど持っていないので、「明るい子だった」「レオと仲が良かった」等、表面的なことしか言えない。レオは彼らに苛立つが、彼自身、レミについて何も語れない。
 レミの母親はレオに、「何かあの子から聞いていない?」と尋ねる。両親ですら、自殺の原因が解らないのだ。中学生、それも男子じゃなあ……親に悩みは相談せんわな……レオも、おねしょをするほど心身に不調を来しているのに、誰にも胸の内を打ち明けようとしない。せいぜい、兄にいくらか甘えるだけだ。

 冬が過ぎ、春が過ぎ、夏になる。レオはホッケーの試合で腕を骨折し、治療を受けながら泣き出す。レミが死んで、初めて流した涙だったかもしれない。夏休みが始まり、レオはバスに乗ってレミの母親の職場を訪ねる。彼女は産婦人科医で、新生児を抱きながらレオの前に現れる。
 車で家まで送ってもらう途中で、レオはついに「僕のせいだ」と告白する。動揺した彼女に車から降りるよう言われ、レオは森の中に逃げ込む。すぐに後悔した彼女はレオを追いかける。彼女が見つけた時、少年は怯え切って木の棒を手にしていた。罰せられると思ったようだ。棒を振り上げるレオを、息子を失った母親は抱き締める。
 腕の怪我が治ったレオは、レミの家を訪ねる。レミの両親は引っ越した後で、窓から見渡せる家の中は空っぽだった。

 レオ役の新人、エデン・ダンブリンの容姿で4割もっている映画。4割が多く見積もりすぎだとしても、3割は切ってない。演技力も込みだと、彼一人で7割もってる。レミ役で同じく新人のグスタフ・ドゥ・ワールやレミの母親役のエミリー・ドゥケンヌ(『ジェヴォーダンの獣』のヒロイン。25年3月に癌で死去)も貢献はしてるんだが、替えは効く。レオ役だけは、ほかの誰がやっても違う作品になってしまっていただろう。
 ルーカス・ドン監督はゲイだと公表しているが、少年二人の関係が同性愛かどうか明確にしないのはよかった。なんでも名前を付けて分類すればいいというものではない。そもそも12、3歳の性的指向なんて、まだ曖昧なものだ。

 親密すぎるために同性愛を疑われる青少年の関係を描いた作品といえば、ピーター・ジャクソン監督の『乙女の祈り』(1994)がある。彼女たちの場合はあまりにも二人だけの世界に閉じ籠りすぎ、親が心配するのも解らんでもないが(基になった現実の事件ではどうだったか知らん。あくまで映画だけの話)、レオとレミは二人だけの世界に閉じ籠っていたわけではない。ここまで親密になったのは、どうやら近所に同年代の子供がほかにいないのが大きかったようで、二人とも社会性は普通にある。
 だから本作で思い出したある個人的な出来事を、『乙女の祈り』では思い出さなかったのだろう。以下、まったくの余談。

 子供の頃、近所に一学年上の友人(女子。とりあえずAとする)がいて、一緒に登下校していた。五年生(Aは六年生)の秋だから1983年のある日、下校途中の私とAは、仕事帰りのAの母親と行き会った。私たちが住んでいた地区は市街地から遠く、Aの母も普段は車で通勤しているのだが、この日は偶々徒歩だったのである(ちなみに小学校までは大人の足でも40分くらいはかかった)。
 長野の秋は寒い。私とAが腕を組んで歩いていたのは、寒かったからという以上の理由はない。ところがAの母と並んで歩き始めて10分も経たないうちに、彼女はなんの前置きもなく言った。「女同士でベタベタして気持ち悪い。やめな」

 大人が子供にそんなこと言う!?というのが、最初に思ったことであった。「気持ち悪い」というのはつまり、レズビアンみたいだから、というのは理解できた。ちなみに当時の私はまだ「レズ」という略称は知らなかったし、Aの母はおそらくレズビアンという言葉自体知らず、「おなべ」みたいだと言いたかったと思われる。
 いずれにせよ当時、日本のどこに行っても小学生が同性同士で腕や肩を組んだりする程度の身体接触で、同性愛を疑って咎めるような風潮は皆無だった。もっと年齢の高い子供同士でも、少なくとも1回だけではそんなことにならなかったはずだ。
 しかもAと私は学年が違うこともあって、お互い他の友人より特別仲がいいわけでもなく、家が近所だから一緒に登下校して、偶に互いの家に遊びに行っていただけである。そうしてAの家で一緒に遊んでいても特別親密な様子などなかったはずだが、偶々(寒いから)腕を組んでいただけでこの言われようである。

 つまりAの母は「変な大人」の一人なのだな、と私は理解し、口答えすることもなく従ったが、そういう人を母親に持つAのことが気の毒だとは思った。
 その後、Aとは二度と「腕を組む」レベルの身体接触をすることはなかったが、それ以外はまったく以前どおりの関係だった。私もAもAの母親も、あの件について蒸し返すことは一度もなく、またAが私に抱いていてくれた好意が、私がAに抱いていた好意と同じ種類の同じ程度のもので「なかった」と示唆されることも一度もなかった。

 だからこのとおり忘れることこそなかったものの、無数のどうでもいい些細な出来事の一つに過ぎず、だから『乙女の祈り』を観た際に思い出すことはなかったんだが、後もう少しでもAと仲が良かったら、結構なトラウマになってた可能性がある、と本作を観て初めて気づいた。「腕を組む」という行為だけでなく、Aに対する感情まで咎められたと思っただろうからな。
 そうはならなかったので、今改めて思い返してみても腹は立たないが、Aのことはやはり気の毒だと思う。

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WANDA/ワンダ

 1970年公開。脚本・監督・主演のバーバラ・ローデンのことは全然知らなかった。本作は彼女の最初で最後の監督作品で、ヴェネツィア国際映画祭で外国語映画賞を受賞するも、アメリカ本国では永らく忘れ去られていた。ローデンはその後、主に舞台劇の監督として活動したが、80年に48歳の若さで病没。本人の業績より「エリア・カザンの妻」として知られていたが、近年ようやく再評価されつつあるという。

 映像そのものに視線が釘付けになってしまう映画というものはあって、たとえば『ブルータリスト』(2024)は計算され尽くした構図の美しさゆえなんだけど、本作の映像に美しさはない。うらぶれた風景とうらぶれた人々しか映っていない、かつ如何にも即興的な映像で、実際の撮影も即興的で、出演者も主演二人以外は素人ばかりだったそうである。
 プロットも、貧しく無気力な女が状況に流されていくだけで、「劇的」な展開も場面も皆無である。それなのに終始、目が離せなかった。いやもちろん、『ブルータリスト』のように「圧倒される」映像ではまったくなかったんだけどね。どう表現したらいいのかわからん。

 本作は米国におけるインディペンデント映画の草分けとされているそうだが、まあインディペンデント映画に限らず、「劇的」でない映画というのは、多かれ少なかれ「忍耐」を要するものが少なくない。退屈だったり、わけがわからなかったりするのを、「我慢」して観ているうちにおもしろくなってきて、最終的には「辛抱した甲斐があった」となる作品もあれば、その甲斐がなかった作品もある。後者でも、何年も後に機会があって再鑑賞すると良さが解るものもあるけど。機会がなければそのままだし、再鑑賞してもやっぱり……のこともある。
 そういう経験からしても、本作のような作品は珍しい。

 BGMが一切ないことも、没入感を高めている。映像作品(および舞台劇)のBGMというのは、おしなべて没入感を高めるために用いられる。しかし少なくとも私は、BGMのせいで没入感を削がれてしまうことが、まあまあ少なくない。一番多いのは、制作者の意図(感動させたい、興奮させたい、怖がらせたい、悲しませたい、笑わせたい等々)が露骨すぎて白けてしまう音楽や効果音。
 さあ感動しろ、興奮しろ、怖がれ、悲しめ、笑え等々、あまりにも「それっぽく」て辟易するだけでなく、制作者の意図はそうやって視聴者の感情を操作したいんだろうけど、なんかチグハグだとか、もっとシンプルに音がうるせえとか、曲がクソダサいとかで気が散ることもある。意外に割合が多いのが、せっかく過不足なく場面に合致した曲で、制作者の目論見どおり気分が乗ってたのに、いきなりブチっと切れて我に返らされるケース。
 本作は、劇中の誰かによってレコードが掛けられたり演奏されたりする音楽以外、劇中の「現実」に存在しない音は聞こえない。それが、登場人物たちを実際に目の当たりにしているような効果を生んでいる。

 まあとにかく、不思議な映画でしたよ。

(一応リンクを貼っておきます)『ブルータリスト』感想

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