1982年公開。本作と『アギーレ/神の怒り』(1972)は、ヴェルナー・ヘルツォーク+クラウス・キンスキー+アマゾン奥地の組み合わせがとにかくヤバいということで、20代の頃からいつかは観たいと思っていた。さらに『伊藤計劃トリビュート』所収 の「にんげんのくに」(2015)の下調べをしていた時に、どちらも史実を基にしていることと、ロケがとにかくガチだということを知る。
その後、『アギーレ』を先に観て、『トーキングヘッズ叢書№81 野生のミラクル』掲載の「密林の〝パラダイス〟――管理された野生」を書く(なのでブログに感想は上げません)。
本作の主人公のモデルとなったカルロス・フィツカラルドについては、Wikiに日本語の記事がある。が、プエルト・マルドナド市を設立したなどと述べていて信用できない(複数の英語記事を参照したところによると、市の発展に貢献した一人だということである)。
英語版によれば1862年、ペルー生まれ。父親はアイルランド系アメリカ人で母親はペルー人。映画でも名乗っているとおり、元の姓はフィッツジェラルド。
若くしてゴム成金となる。ゴムの樹が大量に生育しているが大型船が通過できる川がないため手つかずになっていた土地から、独創的な方法で大量のゴムを運搬してさらに財を成す。その方法というのが、難所の手前でいったん船を陸に揚げて解体し、狭い地峡(フィツカラルド地峡と名付けられた)を越えて別の川に出てから再び船を組み立てる、というものであった。お蔭で「天然ゴムの王」と呼ばれるまでになったが、1897年に船の事故により35歳の若さで死去。
ヘルツォーク監督は船を解体せず、そのまま山越えさせた。そしてそんなことをやってのける男として、フィツカラルドを中年の夢追い人に設定した。彼の夢とは、辺境の町イキトスにオペラハウスを建てることである。
実在のフィツカラルドのほうは、別段オペラを愛好していたわけではなかったようだ。ヘルツォーク監督が「夢」としてオペラを選んだ理由は不明だが、ブラジルの都市マナウスのオペラハウス「アマゾナス劇場」は、19世紀末から20世紀初頭のゴム・ブームの象徴として(その後のゴム・ブーム終焉による凋落も含めて)、南米近現代史では結構有名だ。それに廃墟となっていたアマゾナス劇場が大改修により復活したのが1970年のことだというから、『アギーレ』の撮影時にでも知ったんじゃないかな。
で、そのアマゾナス劇場のこけら落としが1897年で、史実のフィツカラルドが死んだ年だから、時代を少しずらして20世紀初頭にした、と。
当時のマナウスの繁栄の象徴として、オペラハウスと並んで語られるのが、「ゴム成金たちは衣類を大西洋の反対側のパリやポルトガルまで運んで洗濯させていた」というエピソード。本作でも言及されていて、その理由を「アマゾンの水は汚いから」としていた。
まあそれも理由の一つではあるんだろうけど、私が読んだ本(タイトル忘れてしまいました)によれば、「現地に高級衣類を洗濯する技術がないから」ということだった。メスティソ(白人と先住民の混血)や黒人の貧しい洗濯女たちは、どれだけ高価な衣類だろうと、アマゾンの水に浸して岩の上に広げ、石でガンガン叩く、という洗い方しか知らなかったそうで、絹のシャツなんか繊維状にまで分解される。
本作の冒頭、件のアマゾナス劇場でヴェルディの『エルナーニ』が上演される。ステージ近くの壁に主役二人の名前が掲示されている。実在の高名な歌手エンリコ・カルーソーと……サラ・ベルナール!?
いや、ベルナールはオペラ歌手じゃないよ? あ、だから口パクなのか(オーケストラピットでふくよかな若い女性が歌っている)。史実でもそんなことあったの……?と混乱していると、カメラがステージ上のベルナールに近づいていく……これ、男だ。
つまりヨーロッパ製の高価な衣服を取り寄せることはできても洗濯すらできないのと同様、その服を着て、ヨーロッパから取り寄せた資材と呼び寄せた建築家や職人で建設した絢爛豪華なオペラハウスに行っても、サラ・ベルナールが偽者だと気づけない、成金の都ということなのである。
というか、20世紀初頭だと彼女はすでに60歳前後である(まだまだ現役ではあったが)。マナウスの成金たちは彼女について、「なんか名前聞いたことある」程度で、オペラ歌手だと言われて鵜呑みにしたのであろう。にしても偽者をわざわざ男にしたのは、少々やりすぎの感があるが。
とにかくサラ・ベルナールが真っ赤な偽者となれば、カルーソーも偽者である可能性は極めて高い。が、自称カルーソーも偽ベルナールの吹き替え歌手もオーケストラも、レベルはなかなかに高く、完全に黒とも言い難い。
まあ観てるこっちとしても下手くそなオペラなんて聴きたくないので、その辺のリアリティはどうでもいい。少なくともカルーソーのレコードを長年聴き込んでいたフィツカラルドが本物と信じ込む程度には、技巧も声も「そっくりさん」だということであろう。
なお、カルーソーの顔も写真で知っていたかもしれないが、黒人の案内係の温情で遠目にこっそり観劇させてもらったので、別人だとしても気づけなかったということなのだろう。サラ・ベルナールのことは、成金たち同様、よく知らなかったようである。
実のところ、『アギーレ』にはかなり失望していた。同作が史実に基づくと知ってから割とすぐの時点で、史実にあまり忠実ではないようだとは気づいていた。16世紀当時、アマゾン下流域は幾つもの部族国家が栄える人口稠密地域だったのだが、幾つか読んだ『アギーレ』のレビューでそのことに言及したものはなかったのだ。そもそもアギーレ率いる遠征隊は、先発の探検隊が持ち帰った、黄金郷はこれらの国家群の一つ、という情報(実はただの思い込み)に基づいて派遣されたというのに。
実際観てみると案の定、大きな家が建ち並ぶ豊かな村々と色とりどりの鳥の羽で身を飾り美しい陶器を作る人々は存在せず、掘っ立て小屋に住むみすぼらしい裸の未開人が、凶暴な野生動物の群の如く遠征隊を襲い来るのである。
とはいえアマゾン下流域の部族国家群については、割と最近まで専門家の間でも眉唾扱いされていたので、ヘルツォーク監督一人が悪いわけではない。だがそれを抜きにしても、全篇を覆う陰鬱な狂気には、かなり滅入らされた。
だから本作にも期待していなかったのだが、スクリーンに満ち満ちていたのは、透き通るように明るい狂気だった。未来に光を見出した(幻想だが)フィツカラルドの笑顔は少年のようで、クラウディア・カルディナーレ演じる娼館女将も惚れるだろうという説得力がある。カメラが回っていないところでは、アギーレの如き振る舞いだったそうだが。
クラウディア・カルディナーレはドイツ語も喋れるのかと思ったら、吹き替えだった。現地のキャストも吹き替えだな。モブはスペイン語のまま。
以下、一応ネタバレ注意。
先住民の扱いも、たった十年余りで隔世の感がある。フィツカラルドが蒸気船で向かう土地には、訪れた文明人を惨殺するとされる未開のヒバロ族が住んでいる。だが彼らは、なぜか無償で協力を申し出る。彼らの言葉が解る料理人から、「白い神」の信仰について聞いていたフィツカラルドは、自分がそう思われたのだろうと遠慮なく受け入れる。
よくある「蛮族もの」ホラーだと、文明人たちは最後に生贄にされる。フィツカラルドたちも、うっすらと疑ってはいるので、時折緊張感が漲る。
ところがヒバロ族は、「白い神」に船が通れない難所の「呪い」を解いてもらうつもりだったのである。斯くして彼らの協力で船の「山越え」を果たしたフィツカラルドは、お返しとして「解呪」をさせられることとなり、どうにか生還はできたものの、計画はおじゃんになる。斯様に「先住民」を「白人に都合のいい存在」にも「ホラー展開に都合のいい存在」にもせず、独立した意思を持つ人々として描いているのである。
一文無しになったフィツカラルドだが、船は元の持ち主に買い戻してもらったので、その金でマナウスからオペラの一座を呼び寄せ、船上オペラを上演する。大河の上を響き渡る歌声は美しく、フィツカラルドは晴れやかに破顔する。
なおフィツカラルド地峡一帯はヒバロ族の版図ではなく、史実のカルロス・フィツカラルドが雇用したのは別の部族だそうだ。まあペルーのアマゾン上流域に住む先住民では一番有名だろうからな、ヒバロ族(この名称は蔑視含みの他称で、自称は「シュアール」族)。
かつてはブラジル北部のヤノマミ族(「にんげんのくに」の「人間」族のモデル)と並ぶ「獰猛な部族」として知られていたそうで、日本でも「干し首」で有名だった。アマプラの字幕じゃ「ミイラ首」になってたけど、もう知らない人のほうが多いのかな(ググるのはお勧めしません)。
本作のロケ地はペルーのアマゾン上流域だが、さすがに本物のフィツカラルド地峡ではなく別の場所。「ヒバロ族」役も現地で伝統的生活を営む先住民だが、アグアルナという別の部族だとのこと。
「中南米蛮族もの」感想
『アポカリプト』(2006)
『ミッション』(1986)
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