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ウルフ・オブ・ウォールストリート

 2013年公開。ネタバレも何もない映画だとは思うが、一応御注意。

 バカ鑑賞映画。バカがバカをやる映画というのはたくさんあるんだけど、まあだいたいがバカゆえに貧乏か、中流が酒等でハメを外してバカをやるとかなので、金をかけたバカはやらない。
 先日観た『マージン・コール』(2011)では、同じく「ウォールストリートもの」(というジャンルがあるのかは知らんが)でも、少なくとも緊急事態に陥るまでは顧客にもちゃんと儲けさせていたが(緊急事態に陥ったのは杜撰さのせいなのでクズではあるが)、本作は投資詐欺で1998年に逮捕されたジョーダン・ベルフォートの伝記映画。

 レオナルド・ディカプリオ演じるベルフォートは頭の回転はそこそこ速く、バカを訓練して投資詐欺をやらせてボロ儲けするが、ヤク中になって配下のバカどもと同レベルに堕ち、金をかけたバカの限りを尽くす。
 かけた金の大半はクスリ代のようだが、とにかく稼いでいるので、豪邸に高級ホテル、アルマーニのスーツ、フェラーリやらランボルギーニやらの高級車の数々、イエローダイヤモンドの指輪、豪華ヨット、高級娼婦の群、と画面が非常に煌びやかで目に楽しい。そして100人規模の乱交パーティーが繰り広げられ、ランボルギーニはボコボコになり、豪華ヨットは転覆し、プライベート機は爆発する。バカのスケールが違う。たいへんに景気がよろしく、3時間もあるがダレない。

 また大半のバカ映画でバカを演じるのは、見苦しい、あるいは冴えない容姿の男だ。イケメン枠の俳優がいる場合もあるが、服装や髪形をダサくしている。女優も同様。そういう映画の笑いどころは「しょぼい奴が度を越したバカをやる」に設定されていると思われるので、まあ妥当ではあるんだが、そいつらが置かれた環境と相俟って、画面が終始しょぼい。
 一方、レオナルド・ディカプリオはイケメンなのかどうか私には正直判らないのだけれど、ゴージャスな環境に置かれて映える役者なのは間違いない。それにしてもディカプリオは、やはり童顔を活かした「大人に成り切れない男」の役が似合っている(それしか活用法がないとも言える)。

 後妻役のマーゴット・ロビーも撮影当時22歳かそこらだというのに、とてもゴージャス。先妻役のクリスティン・ミリオティも可愛いんだけど、歌手が本業なのであまり映画には出ていない。残念。
 ディカプリオの父親役が、映画監督のロブ・ライナー(『スタンド・バイ・ミー』しか観たことないけど)。人となりは知らないんだが、好々爺っぽい見た目で口汚く喚き散らすのが楽しい。

 1987年のブラックマンデーで株式仲買人の職を失った主人公が、どうにか見つけたのがクズ株を専門に扱う会社。その社長が、特に目立つわけでもないチョイ役なのに印象に残ると思ったら、『マルコヴィッチの穴』(1999)のスパイク・ジョーンズ監督だった。役者としては同年の『スリー・キングス』に出演しているそうだが、そっちは全然思い出せん。
 最初の勤め先の上司で、短い出番ながら主人公に感銘を与えるマーク・ハンナがマシュー・マコノヒー。本作は90年代末に投資詐欺で逮捕された、ストラットン・オークモント社創業者ジョーダン・ベルフォートの伝記なので、マーク・ハンナのモデルもいるのか調べたら、やはりその後、ベルフォートと関りはなかったようだが、2004年(ベルフォートは服役中)に証券詐欺で捕まっている。弟子が弟子なら師も師。
 ところでベルフォート以外の登場人物は基本、名前を変えているのに、マーク・ハンナは実名なのはなぜだろう(逮捕されていない人々はもちろん、ベルフォートと一緒に逮捕された副社長も名前を変えられているのに)。

 なお本作は事実にかなり忠実らしい。結末で、出所したベルフォード(ディカプリオ)はニュージーランドで開催されたセミナーに登壇する。後で知ったことだが、その司会がベルフォード本人。わずかな出番とはいえ、こなれたアナウンスなので普通に役者だと思ってた。元気そうで何より。

『マージン・コール』感想

ディカプリオ出演映画感想
『ジャンゴ 繋がれざる者』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
『レボリューショナリー・ロード』
『J・エドガー』
『ワールト・オブ・ライズ』
『ブラッド・ダイヤモンド』

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TITANE/チタン

 2021年公開。幼い少女アレクシアが、父の運転する車の後部座席でエンジン音を口真似していると、父は苛ついて音楽を大音量で流す。アレクシアも腹を立て、父のシートを蹴ったりシートベルトを外して動き回ったりする。それに気を取られた父が事故を起こし、アレクシアは重傷を負って側頭部にチタンを埋め込む手術を受ける。退院した彼女は、駐車場に停めてある父の車(破損はないが、事故を起こしたのと同じ車のようだ)に身を摺り寄せ、口づけする。
 32歳になったアレクシアは、モーターショーで踊るダンサーになっている。多くのファンがいる彼女だが、衝動的に人を殺すシリアルキラーでもある。犯行を始めたのは数ヵ月前のようだが、そのきっかけ等については一切触れられない。ある夜、しつこいファンの一人を殺した彼女は、職場の車の一台に「誘われ」、性交する。
 アレクシアは両親と同居している。腹痛を訴える彼女に母親は、父に診察してもらうよう言い、父親は彼女を触診する。ということは内科医か? とにかく家は立派で裕福そうだ。

 同僚の女性の家を訪れた彼女は、妊娠に気づく。トイレに籠り、殺人に使っている長い金属製のヘアピンを膣に突き立てるが、ひどい痛みを味わっただけで終わる。ヘアピンをトイレットペーパーで拭うと、黒いオイル状の液体がつく。トイレを出た彼女は同僚を殺すが、同居人が次々に出てくるので、いちいち殺す羽目になり、挙句に一人逃がしてしまう。

 アレクシアは自宅に放火し、両親を寝室に閉じ込めると、ヒッチハイクで逃亡する。しかしすでに指名手配されており、逃げ場をなくした彼女は、何年も前に失踪した少年アドリアンの捜索願に目を止め、彼に成りすますことを思い付く。
 迎えに来た父親のヴァンサンは、一目見るなり彼女がアドリアンだと断言し、DNA検査すら拒んで彼女を連れ帰る。

 成人後の彼女が、車に特別な感情を持ってるようには全然見えないんだよね。モーターショーで一回、ヴァンサンの息子に成りすましてから一回、車上で踊るシーンがあるんだが、本当に単に車上で踊ってるだけで、車体に身を絡ませるような動きがあるわけでもない。それどころか、車をじっと眺めたりするようなシーンすらない。
 そもそも本作全体を通して、車のフェティッシュな描写が、冒頭1分くらいの映像しかない。件の「カーセックス」(文字どおり)ですら、車をフェティッシュに撮ってはいない。クローネンバーグの『クラッシュ』(1996)は車をフェティッシュに描写しようとして失敗した感じだが、本作は端からその気がないように思える。単に「妊娠によって金属と融合していく女性」を描きたいだけで、カーアクシデントもカーセックスも、その理由づけとして持ち込んだだけじゃあるまいか。

 クローネンバーグはしばしば「人体と機械の融合」というか「生物と機械の境界の消失」を表現したがっているが、どれもあんまり巧くいっていない(ように私には思える)。『ヴィデオドローム』(1983)は未見だが、『ザ・フライ』(1986)のラストくらい? 成功してると言えるのは。
 それに比べると本作は、「妊娠による女体の変容」と「女体と金属の融合」を巧みに組み合わせ、表現することに成功している。「変容による苦痛」の表現も凄まじいしな。同じくクローネンバーグの『戦慄の絆』(1988)では(「機械」は出てこない)、婦人科系の病気をエロ扱いするんじゃねえよ、××が××してしまえ、と思ったものだが。
 それだけになおのこと、「カーセックス」が木に竹を接いだようでチグハグなんよ。

 その問題は措くにしても、前半のシリアルキラーっぷりと、後半のヴァンサンに絆される過程の丁寧な描写がまたチグハグ。
 ……いやもう、そういうのいいから。「シリアルキラー主人公の孤独に寄り添う」とか、「既存の価値観や体制への反逆者としてシリアルキラー主人公を祀り上げる」とか、そういうのはそろそろ卒業しようよ。シェアハウスで鏖殺をやる羽目になったのは、おもしろかったけどさ。

 一方、ヴァンサンの狂気は、息子を失った悲しみに加え、老いへの恐怖や男らしさという呪縛に根差した現実的なものだ。それでいて、アレクシアの薄っぺらな狂気を呑み込み、彼女を本当に「息子」にしてしまう。実は非常に斬新なキャラクターだ。 だからヴァンサンを主人公にして、アレクシアは「主人公その二」(男性主人公の相手役、という意味での「ヒロイン」ではなく)くらいの立ち位置がよかったんじゃないかと思う。
 以下、「こうだったらよかったのに」という空想。ネタバレ注意

 たとえば、冒頭は変えずにアレクシアの事故から成人後のモーターショーまで、その後はヴァンサンの日常と底流の静かな狂気に移る。息子を名乗る人物が現れたという連絡を受け、警察署まで行く。見るからに怪しい若者(フードを被っているので頭部は見えない)を自宅に連れ帰る。子供部屋で一人になった自称アドリアンは、フードを脱いで側頭部の傷痕を露わにする。シャツを脱ぎ、乳房を押さえつけていたテープを外していく。カメラが下がり、テープを巻いていたのは胸だけではないことが明らかになる。妊娠数ヵ月の腹部が現れる。
 警察に追われるアレクシアが、アドリアンの捜索願に目を止め、鼻を潰してまで男装する回想が差し挟まれる。ヴァンサンとの暮らしが始まる。アレクシアを腫物のように扱う実の両親、妊娠の自覚、股間から滲み出す黒い液体、シェアハウスでの虐殺等の回想が小出しに挿入される。

 さらにその合間に、アレクシアの車への執着が、現在軸および回想で描写される。実際の作中では少女時代も含め、アレクシアが車を「どのように」性的に見ていたかが一切描写されないんだが、「妊娠させられた」ということは、車に男性性を見出していたということなんだろう。
 ヴァンサンも、あくまで健全の範疇だが、車に男性性を見出しているということにしてもよかったかもしれない。素朴に、「男らしさ/力強さ」の象徴と見做して、消防車や自分の車(ごつい四輪駆動とか)を大事にしている、という程度で。
 そんでアレクシアがそれらの車をねっとりと洗車したりワックスをかけるのを見て、部下たちは気味悪がるが、ヴァンサンは単純に喜ぶ、とか。
 さらにプロットが進み、アレクシアとヴァンサンが互いを受け容れていくのと並行して、彼の部下は怪しみ始め、また臨月が近づくにつれ「金属との融合」も進行する。回想で、カーセックスおよび両親の焼殺が明らかにされる。

 ……とかだったらよかったのにな。

 上記のとおり、監督自身はおそらく車にフェティシズムを見出していないので、本作における車の「性別」を考察するのもたぶん無意味なんだが、本作はベルギーのフランス語映画で、仏語では一般的に自動車をvoitureまたはautomibileと言い、どちらも女性名詞ですね。英語圏でもスティーヴン・キングの『クリスティーン』とかあるしなあ(映画のほうは未見)。
 それに洋の東西を問わず、「内部に空洞があるもの」は空洞=子宮ということで、女性に喩えられやすいんだよな。そこからすると、車は女性ということになる。なんかそういうネットミームもあるしね……

 神話学的には、「子宮に見立てられる空洞」の代表は「洞窟」だが、洞窟はその形状(長細い)から「蛇」にも見立てられる。そして蛇は、その形状からペニスにも見立てられる。つまり蛇は、両性具有ということになるんですね、神話学的には(『ラ・イストリア』を書いた時に仕入れた知識)。
 自動車も、その外見は男性的だと言えるから、同じく両性具有だと見ることもできる。モーターショーにセクシーなコンパニオンを添えるのは(普通は本作みたいに踊らないが)、自動車を男性的にも女性的にも見ていると言える。
 だから自動車をフェティッシュに表現するなら、その両性具有性にも注目すべきで、だからたとえばアレクシアの「出産」は車内で行われるべきだった。B級エロホラーのテンプレートをメタファーやアレゴリーに援用するなら、せめてそれくらいは捻ってほしかった。

(両性具有と言えば、例のネットミームからは「ドラゴン娘」のヴァージョンも派生してるんですね。外国人と日本人、どっちの発想なのか気になりましたが、「……やっぱこれ以上知りたくない」と思いとどまったのでした)

 まあそんな感じで粗はありますが、それでもなかなかに印象的な作品ではありました。しかし同じ「B級エロホラーのテンプレを援用した芸術映画」なのに、なぜ日本では(マスコミにも一般観客にも)本作が絶賛されて、『触手』(2016)は黙殺されたのか。確かに後者のほうが低予算だし、低予算なりに見応えのある映像もある、というわけでもないけど、制作者の言いたいことは『触手』のほうが解りやすくて破綻もないのに。やっぱり触手自体が悪いんか。

『触手』感想

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オデュッセイア

 2026年公開。クリストファー・ノーランにはだいぶ見切りを付けかけていて、「でも『ダンケルク』はよかったから……!」との思いで本作の公開を待っていた。公開の2ヵ月くらい前だったか、「ヘレネは黒人」という情報を目にして、期待と危惧の割合がいっそう後者に傾く。実際に公開を迎えると、評判はたいそうよろしく、ヘレネも「出番はほとんどないから気にならない」とのことだったので、映画館まで足を運ぶ。
 以下、ホメロスの原典を御存知の方にはネタバレになりませんが、御存知ない方にはネタバレになるかもしれないので、一応御注意。

 たいへん素晴らしゅうございました。ノーラン作品における私が嫌悪する要素筆頭「無駄に複雑な構成で観客に負担を強いる」が一切なかった。それに、意外なほど原典に忠実。父の帰りを待つテレマコスと、カリュプソーの島に留め置かれているオデュッセウスの二つの視点で話が進み、過去の出来事はテレマコスが父を探しに出た先で聞く話と、オデュッセウスの回想とで明らかにされる、という構成は原典どおり。
 現代的解釈は施されており、かつ複数の出来事や人物が一つに統合されてたり、省略もあったりするが、人物(および怪物)も出来事もおおむね原典どおり。こういう古典における主人公側の「英雄的行為」のうち、現代の価値観では悪行となるものは、なかったことにされたり、進んでやったのではないことにされたりしがちだが、本作ではそういう「悪い意味での現代的解釈」はせず、ちゃんと原典どおり積極的に略奪もする。

 ただまあ、原典からして「冒険譚」ではなく苦難の物語なので、どの島でもひどい目に遭って逃げ出すのだが、なぜ原典では普通に出て来られた冥界からも命からがら逃げ出すことにしたんだか。
 この意図不明な天丼によって中盤はやや単調であるものの、前半はトロイア攻略やキュクロプスとの遭遇は緊迫感たっぷりだし、後半もオデュッセウスの帰還から、ペネロペーへの求婚者たち相手の無双と一気呵成に進む(無双といっても一対数十だから、追い込まれたりもして手に汗握る)。三時間弱が長くない。

 ……で、公開前の懸念材料の一つだった「黒人のヘレネ」はどうだったかというと、彼女だけじゃなく、メインキャラクター以外では黒人や東アジア系のキャストがチラホラいるんだよね。なんでやねんと思って観ていると明らかになっていくのだが、本作はあくまで神話世界が舞台だとはいえ、史実でギリシアがトロイアと衝突を繰り返していた時代を踏まえている。
 すなわち「ギリシア世界」の中心であるペロポネソス半島に栄えたが、前1200年頃滅亡したミュケナイ文明の時代である。作中では「海の民」の襲来が繰り返し噂されるが、これはミュケナイ文明および多くの地中海沿岸国家が滅んだ原因(少なくとものその一つ)とされる謎の集団である。

 とはいえ、衣装やら小物やらに、実際に発掘されているミュケナイ文明の遺物の意匠が取り入れられている様子は特にない。古典期(前5~前4世紀)のギリシアっぽさ、帝政ローマっぽさ、どこのものともつかないイメージがごった煮になった「ファンタジー古代」である。
 それでも武具はすべて青銅製という設定で、物語の終盤にはペネロペーによる「私たちの青銅器時代が終わる」というメタな台詞まである。
 この台詞を引き出したのはオデュッセウスである。彼は言う、客人は必ず歓待しなければならないという「ゼウスの掟」を悪用して傍若無人に振る舞う求婚者たちと、「神への捧げもの」と偽って木馬をトロイアの城壁内に運び込ませた自分たちは、等しく秩序の破壊者である。我々こそが「海の民」なのだ、と。

 オデュッセウスは、失われていく古き世界を「交易で結ばれた平和な世界」と定義する。本作におけるトロイア戦争は、交易路の独占を望むアガメムノンが、弟の妻が奪われたのを口実に仕掛けたものである。
 実際のところ、ミュケナイ文明時代のペロポネソス半島に、地中海で繋がった北アフリカの黒人が来ていた可能性は充分高い。が、東アジア人が来ていた可能性は絶対にない。失われようとしている「黄金時代」の表象が、「多民族共生」なのであろう。知らんけど。

 東アジア人は措くにしても、本作のメインキャラクターを演じたマット・デイモン、アン・ハサウェイ、トム・ホランドは三人ともゲルマン系(アングロサクソンを含む)のルーツを持つが、ミュケナイ文明時代、ゲルマン系は遙か彼方の北欧にいた。当時のペロポネソス半島にゲルマン系が来ていた可能性は、北アフリカの黒人よりも遙かに低い。
 ちなみに『トロイ』(2004)のブラッド・ピット、エリック・バナ、ダイアン・クルーガーもゲルマン系にルーツがある(オーランド・ブルームは母方がアイルランド系、つまりケルト系だってことしか判らんが、アングロサクソン系の先祖はいるだろう。なお、ケルト系はミュケナイ文明時代、中欧にいた)。

 本作は神の血を引く人間(キルケーやヘレネ)、怪物、下位の神(カリュプソー)は登場するが、ゼウスをはじめとする上位の神々は登場しない。例外的にアテネは登場するが、彼女はオデュッセウスにしか見えないことが明示されている。
 アテネ役のゼンデイヤは華やかな美人だが、本作ではメイクや衣装のせいか「地味な小娘」にしか見えない。神話のアテネは「身をやつす」ことが多いとはいえ……と思ってたら、終盤、その「正体」が明かされる。あー、なるほどねー。

 そもそも開幕、A TIME OF APPARENT MAGIC…というテロップが出る。apparentは「明白な」と「一見それらしい」という、ほぼ正反対な二つの意味がある。正確な字幕は忘れたが、後者の意味だった。つまり登場する怪物や魔女は、魔法のように見えてそうではなかった、ということだ。
 それらの怪異は、オデュッセウスを待つテレマコスらのパートには登場しない。メネラオスがテレマコスに語り聞かせるトロイア攻略にも、魔法の要素はない。オデュッセウスが帰還してからもだ。ロートスという一種の麻薬によって記憶を失っていた彼が、徐々に記憶を取り戻す過程でカリュプソーに語る物語の中にしか登場しない。
 なお、この「ロートス」は原典では謎の植物の実だが、英語に入って「蓮」を指すようになった。本作では解りやすさのためか、蓮の実ではなく花になってるのが御愛嬌。しかも青い斑入りの白い花弁で、それをオデュッセウスが貪るように食べるのがシュールだった。

 まあとにかく、記憶喪失にさせる薬の影響が抜け切っていない状態だったのだから、記憶が相当歪んでいた可能性は高い。20年も帰国できなかった「本当の理由」は、後に彼自身がペネロペーに語ったように、トロイアに滅亡をもたらしてしまったPTSDだった「かもしれない」。
(ノーラン自身は「明白な」のつもりだった、ということはまずないだろうが、ダブルミーニングのつもりだった可能性はあるな。だとしても、「オデュッセウスが遭遇した怪異はすべて彼の妄想だった」解釈が可能なのは変わらんが)

 このように「現実的」な解釈が可能だし、「後期青銅器時代の崩壊」という史実を踏まえているし、ちゃんと青銅器使ってるし、でも一方で、諸々の意匠はファンタジー古代だし、非現実的な「多民族共生」だし、しかも何百年も後に成立した「原典」に忠実に、ミュケナイ文明時代には存在しなかったスパルタが存在するし、ヒッタイト文化圏のはずのトロイアではオデュッセウスらと同じ言語が話されていてアテネ神殿があるし、そこで祀られているのはギリシアのアルカイック期と古典期の中間のような様式のアテネ像だし……と、異なる世界観が何層にも重なっている世界なのでややこしい。でもまあ破綻はしておらず、その重なりがそのまま全体の世界観の厚みと奥行きとなっている。どこまでが計算なのかは知らんけど。

 最後に、ヘレネ役のルピタ・ニョンゴについてだが、「古代ギリシアの黒人王妃はあり得るか」という問題も「個々人の好み」という問題も措いて、美人なのは異論のないところであろう。が、「絶世の」という形容がつくほどではないこともまた、異論のないところであろう。
 そんな彼女を、作中の現在において、トロイア陥落の際に負ったと思われる「スカーフェイス」としたのは、なかなか興味深い試みだ。ヘレネの双子の姉妹クリュタイムネストラをニョンゴの二役にしたのも、その一環だろう。
 彼女たちの母親は白鳥に化けたゼウスとの交わりによって卵を産んだとされるが、姉妹が同じ卵から産まれたのか別々の卵からなのかは神話によって異なる。いずれにせよ、「絶世の美女」はヘレネだけである。傷無しヴァージョンのニョンゴに「ヘレネほどは美しくない」クリュタイムネストラを演じさせることで、ヘレネは「傷が無ければ、クリュタイムネストラよりずっと美しいはず」という想像の余地が生まれるのだ。知らんけど。

『インソムニア』 
『ダークナイト』
『インプション』 
『ダンケルク』
『オッペンハイマー』

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マージン・コール

 2011年公開。リーマン・ショックをモデルにした金融もの(というジャンルがあるのか知らんが)。リーマン・ブラザーズをモデルにした投資銀行の社員たちの群像劇なので、まあ金融業界ってクズの巣窟だね、というだけの話なのだが、ケヴィン・スペイシー(一応主役)にポール・ベタニー、ジェレミー・アイアンズにスタンリー・トゥッチにデミ・ムーアと豪華なキャストたちの演技合戦が非常に楽しゅうございました。デミ・ムーアって演技巧かったんだなあ。
 特に社長役のジェレミー・アイアンズは、これまで「繊細なクズ」は嵌まり役だが(ハンバート・ハンバートとか)、それ以外はいまいちか、せいぜい可もなく不可もなくという感じだったんだが、今回の傲岸で「繊細じゃないクズ」の演技は素晴らしかった。

 ただ序盤、危機が明らかになるまでが、少々テンポが悪い。そして終盤が駆け足すぎるので、ペース配分が逆だったらよかったのに。
 後はケヴィン・スペイシー演じるサムの上司役で彼より15歳も若いという設定のサイモン・ベイカー(本人同士は10歳差)が、ふてぶてしくてよかったんだが、本作の前も後もあんまりいい役は貰えてないのね。出演作は幾つも観てるのに、全然見覚えがなかった。

 ラスト、矜持を捨て、愛犬にも死なれた(病死。死ぬシーンも死体も出てこないよ)サムが深夜、庭に埋葬のための穴を掘る。別れた妻の家の庭であること、サム自身もかつてはこの家に住んでいて、そこで飼っていた犬だけ連れて出て行ったということを、直接的な説明は一切なしに表現しているのがよかった。

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