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TITANE/チタン

 2021年公開。幼い少女アレクシアが、父の運転する車の後部座席でエンジン音を口真似していると、父は苛ついて音楽を大音量で流す。アレクシアも腹を立て、父のシートを蹴ったりシートベルトを外して動き回ったりする。それに気を取られた父が事故を起こし、アレクシアは重傷を負って側頭部にチタンを埋め込む手術を受ける。退院した彼女は、駐車場に停めてある父の車(破損はないが、事故を起こしたのと同じ車のようだ)に身を摺り寄せ、口づけする。
 32歳になったアレクシアは、モーターショーで踊るダンサーになっている。多くのファンがいる彼女だが、衝動的に人を殺すシリアルキラーでもある。犯行を始めたのは数ヵ月前のようだが、そのきっかけ等については一切触れられない。ある夜、しつこいファンの一人を殺した彼女は、職場の車の一台に「誘われ」、性交する。
 アレクシアは両親と同居している。腹痛を訴える彼女に母親は、父に診察してもらうよう言い、父親は彼女を触診する。ということは内科医か? とにかく家は立派で裕福そうだ。

 同僚の女性の家を訪れた彼女は、妊娠に気づく。トイレに籠り、殺人に使っている長い金属製のヘアピンを膣に突き立てるが、ひどい痛みを味わっただけで終わる。ヘアピンをトイレットペーパーで拭うと、黒いオイル状の液体がつく。トイレを出た彼女は同僚を殺すが、同居人が次々に出てくるので、いちいち殺す羽目になり、挙句に一人逃がしてしまう。

 アレクシアは自宅に放火し、両親を寝室に閉じ込めると、ヒッチハイクで逃亡する。しかしすでに指名手配されており、逃げ場をなくした彼女は、何年も前に失踪した少年アドリアンの捜索願に目を止め、彼に成りすますことを思い付く。
 迎えに来た父親のヴァンサンは、一目見るなり彼女がアドリアンだと断言し、DNA検査すら拒んで彼女を連れ帰る。

 成人後の彼女が、車に特別な感情を持ってるようには全然見えないんだよね。モーターショーで一回、ヴァンサンの息子に成りすましてから一回、車上で踊るシーンがあるんだが、本当に単に車上で踊ってるだけで、車体に身を絡ませるような動きがあるわけでもない。それどころか、車をじっと眺めたりするようなシーンすらない。
 そもそも本作全体を通して、車のフェティッシュな描写が、冒頭1分くらいの映像しかない。件の「カーセックス」(文字どおり)ですら、車をフェティッシュに撮ってはいない。クローネンバーグの『クラッシュ』(1996)は車をフェティッシュに描写しようとして失敗した感じだが、本作は端からその気がないように思える。単に「妊娠によって金属と融合していく女性」を描きたいだけで、カーアクシデントもカーセックスも、その理由づけとして持ち込んだだけじゃあるまいか。

 クローネンバーグはしばしば「人体と機械の融合」というか「生物と機械の境界の消失」を表現したがっているが、どれもあんまり巧くいっていない(ように私には思える)。『ヴィデオドローム』(1983)は未見だが、『ザ・フライ』(1986)のラストくらい? 成功してると言えるのは。
 それに比べると本作は、「妊娠による女体の変容」と「女体と金属の融合」を巧みに組み合わせ、表現することに成功している。「変容による苦痛」の表現も凄まじいしな。同じくクローネンバーグの『戦慄の絆』(1988)では(「機械」は出てこない)、婦人科系の病気をエロ扱いするんじゃねえよ、××が××してしまえ、と思ったものだが。
 それだけになおのこと、「カーセックス」が木に竹を接いだようでチグハグなんよ。

 その問題は措くにしても、前半のシリアルキラーっぷりと、後半のヴァンサンに絆される過程の丁寧な描写がまたチグハグ。
 ……いやもう、そういうのいいから。「シリアルキラー主人公の孤独に寄り添う」とか、「既存の価値観や体制への反逆者としてシリアルキラー主人公を祀り上げる」とか、そういうのはそろそろ卒業しようよ。シェアハウスで鏖殺をやる羽目になったのは、おもしろかったけどさ。

 一方、ヴァンサンの狂気は、息子を失った悲しみに加え、老いへの恐怖や男らしさという呪縛に根差した現実的なものだ。それでいて、アレクシアの薄っぺらな狂気を呑み込み、彼女を本当に「息子」にしてしまう。実は非常に斬新なキャラクターだ。 だからヴァンサンを主人公にして、アレクシアは「主人公その二」(男性主人公の相手役、という意味での「ヒロイン」ではなく)くらいの立ち位置がよかったんじゃないかと思う。
 以下、「こうだったらよかったのに」という空想。ネタバレ注意

 たとえば、冒頭は変えずにアレクシアの事故から成人後のモーターショーまで、その後はヴァンサンの日常と底流の静かな狂気に移る。息子を名乗る人物が現れたという連絡を受け、警察署まで行く。見るからに怪しい若者(フードを被っているので頭部は見えない)を自宅に連れ帰る。子供部屋で一人になった自称アドリアンは、フードを脱いで側頭部の傷痕を露わにする。シャツを脱ぎ、乳房を押さえつけていたテープを外していく。カメラが下がり、テープを巻いていたのは胸だけではないことが明らかになる。妊娠数ヵ月の腹部が現れる。
 警察に追われるアレクシアが、アドリアンの捜索願に目を止め、鼻を潰してまで男装する回想が差し挟まれる。ヴァンサンとの暮らしが始まる。アレクシアを腫物のように扱う実の両親、妊娠の自覚、股間から滲み出す黒い液体、シェアハウスでの虐殺等の回想が小出しに挿入される。

 さらにその合間に、アレクシアの車への執着が、現在軸および回想で描写される。実際の作中では少女時代も含め、アレクシアが車を「どのように」性的に見ていたかが一切描写されないんだが、「妊娠させられた」ということは、車に男性性を見出していたということなんだろう。
 ヴァンサンも、あくまで健全の範疇だが、車に男性性を見出しているということにしてもよかったかもしれない。素朴に、「男らしさ/力強さ」の象徴と見做して、消防車や自分の車(ごつい四輪駆動とか)を大事にしている、という程度で。
 そんでアレクシアがそれらの車をねっとりと洗車したりワックスをかけるのを見て、部下たちは気味悪がるが、ヴァンサンは単純に喜ぶ、とか。
 さらにプロットが進み、アレクシアとヴァンサンが互いを受け容れていくのと並行して、彼の部下は怪しみ始め、また臨月が近づくにつれ「金属との融合」も進行する。回想で、カーセックスおよび両親の焼殺が明らかにされる。

 ……とかだったらよかったのにな。

 上記のとおり、監督自身はおそらく車にフェティシズムを見出していないので、本作における車の「性別」を考察するのもたぶん無意味なんだが、本作はベルギーのフランス語映画で、仏語では一般的に自動車をvoitureまたはautomibileと言い、どちらも女性名詞ですね。英語圏でもスティーヴン・キングの『クリスティーン』とかあるしなあ(映画のほうは未見)。
 それに洋の東西を問わず、「内部に空洞があるもの」は空洞=子宮ということで、女性に喩えられやすいんだよな。そこからすると、車は女性ということになる。なんかそういうネットミームもあるしね……

 神話学的には、「子宮に見立てられる空洞」の代表は「洞窟」だが、洞窟はその形状(長細い)から「蛇」にも見立てられる。そして蛇は、その形状からペニスにも見立てられる。つまり蛇は、両性具有ということになるんですね、神話学的には(『ラ・イストリア』を書いた時に仕入れた知識)。
 自動車も、その外見は男性的だと言えるから、同じく両性具有だと見ることもできる。モーターショーにセクシーなコンパニオンを添えるのは(普通は本作みたいに踊らないが)、自動車を男性的にも女性的にも見ていると言える。
 だから自動車をフェティッシュに表現するなら、その両性具有性にも注目すべきで、だからたとえばアレクシアの「出産」は車内で行われるべきだった。B級エロホラーのテンプレートをメタファーやアレゴリーに援用するなら、せめてそれくらいは捻ってほしかった。

(両性具有と言えば、例のネットミームからは「ドラゴン娘」のヴァージョンも派生してるんですね。外国人と日本人、どっちの発想なのか気になりましたが、「……やっぱこれ以上知りたくない」と思いとどまったのでした)

 まあそんな感じで粗はありますが、それでもなかなかに印象的な作品ではありました。しかし同じ「B級エロホラーのテンプレを援用した芸術映画」なのに、なぜ日本では(マスコミにも一般観客にも)本作が絶賛されて、『触手』(2016)は黙殺されたのか。確かに後者のほうが低予算だし、低予算なりに見応えのある映像もある、というわけでもないけど、制作者の言いたいことは『触手』のほうが解りやすくて破綻もないのに。やっぱり触手自体が悪いんか。

『触手』感想

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