メヒコ旅行記0.5

(06年1月末のメキシコ旅行の記録。07年5月の記事を整理)

 物事が順調に運んでいれば、たぶん05年中には『ミカイールの階梯(仮)』は完成していただろう。そうならなかったのには、次のような経緯がある。

  1. Jコレ版『グアルディア』刊行の少し前から、『ミカイール』の準備に取り掛かる。
  2. プロットの段階で行き詰る。
  3. 行き詰ってグルグルしていた05年3月、塩澤編集長からノベライズの仕事を依頼される。しばらくインターバルを置くのもいいかもしれないと思い、引き受ける。
  4. 05年11月いっぱいでノベライズ終了。『ミカイール』のプロットに戻る。
  5. 06年1月下旬、プロット完成。今度はうまくいきそうな感じ。直後、メキシコに行く。
  6. 2月上旬帰国。『ラ・イストリア』に取り掛かる。

 1~4まではともかく5~6の流れが、なんでそうなったのか自分でも理解できません。5でメキシコに行ったのは、『ミカイール』の次に書くつもりだった『ラ・イストリア』の取材および単なる物見遊山である。
 しかしなぜこの時期だったのかというと、8ヶ月余りの重労働から解放されたのと、まとまった金銭が入ったのとで、つまりは判断力が低下していたのだろう。それでも「今から『ミカイール』執筆に入ってしまったら、また半年~1年間はノンストップだから、その前に行っておこう」とか一応は考えていた(と記憶している)。
 それがどうして、そのまま『ラ・イストリア』を書き始めちゃったんだろ。しかもものすごく苦戦した。途中で投げ出してしまったら次(『ミカイール』)には進めないような気がして、キーボードに噛り付くようにして書き続け、11月にいったん脱稿。出来に納得できず、構成から文体から変えて全編書き直し。今年2月に今度こそ完成。

 私はおよそ行動的でも積極的でもない性格だが(むしろその逆だ)、かと言って慎重でもなく、時折、後先考えずに突発的な行動を取ることがある。一応その時はそれなりに考えて行動しているつもりなのだが、後から振り返ると「勢い」でやっているようにしか思えない。
 たぶんメキシコに行ったのも、『ラ・イストリア』を書き始めたのも、「勢い」だったんだろうなあ。ノベライズを引き受けたのだって、いろいろ考えてはいたけど突き詰めて言えば「勢い」だし、遡れば進路を史学科東洋史専攻に決めたのも、8mmで映画を撮ったのも劇団に入ったのも、大学院進学も、某大学の創作講座にもぐったのも、全部そうだ。

 そういうわけで塩澤さんには二度も、発表の当てがなかった作品を拾っていただいたことになる。本当にありがとうございました。もっと予定どおりに順調に行動できる人間になれるよう努力します。

 以上、前置き終わり。『ラ・イストリア』刊行ということで、そのきっかけとなったメキシコ旅行記を書いてみようかと思います。
 旅行プランを立てるに当たり、取材(北部の高原)と観光(バロック教会)のどちらに重点を置くか悩んだが、砂漠の一人旅は安全云々以前に自分の体力が信用できないので、後者に重点を置くことにする。飛行機、ホテル、都市間移動のバスだけ旅行社が手配し、後はフリーというプランを選択。往復に掛かる時間を除いて7日間、行き先は首都のメヒコ市と世界遺産のグアナファト市。まあとりあえず高原だし(だいぶ南だが)、カルラの故郷であるサン・ヘロニモ村はグアナファトから数十キロという設定だ。

 ヒューストンで乗り換え、メヒコ市へ。ベニート・フアレス空港は新しくてきれいである。入国審査で、女性係官が英語で質問する。「日本人か?」「一人旅か?」
 どちらの問いも肯定すると、いきなり警備室へ連れて行かれる。なんの説明もなし。質問もさせてくれない。パスポートを取り上げられ、ここで待つよう言われる。警備室では女性警備員たち(guardia、だよな)がお喋りし、隅のベンチでは小太りのおっさんが鞄を枕に眠っている。女性警備員にExcuse meと声を掛けたが、にべもなくNo ingles(「英語、できない」)と返される。まあいざとなったら旅行社に連絡すればいいやと思い、15分ほど待つ。
 ようやく先ほどの係官が呼びに来る。彼女も女性警備員たちも、隅で微動だにせず眠り続けるおっさんには目もくれない。連れて行かれたのは、事務室と思しき広い部屋だった。制服姿のメキシカンたちが大勢、立ったまま煙草を吸っている。その奥のデスクに、いかつい顔の審査官が座っていた。

 ……と、緊迫してまいりましたところで、続きはまた明日。

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メヒコ旅行記1

前回のあらすじ: 06年1月、仁木稔はメキシコの大地を踏んで15分と経たないうちに、入国審査官に拘束された(飛行機を降りてから入国審査のゲートまで10分以上も掛かったのは、空港内で道に迷ったからである)。一体なんの容疑なのか。仁木の運命や如何に。

 まず、書類を書かされた。一枚の紙に、ローマ字表記で日本語の質問が書いてあり、そこにローマ字で回答を書く、というものである。質問は日本語の挨拶とか住所、生年月日、旅の目的といったもので、日本人かどうかを確認するためらしい。
 しかし、どうやら日本語をまったく知らない人物がフレーズブックか何かを丸写ししたようである。ローマ字表記といってもスペイン語式で、OJAYOGOZAIMASU(おはようございます)とか、OTANYOBIWAITUDESUKA(お誕生日はいつですか)とか。疑問符はスペイン語式に前後ではなく、文末だけに付いていたように思う。
 書き終わって用紙を渡すと、審査官と助手はもう一枚の紙と照らし合わせた。たぶん、答えのマニュアルが書いてあるんだろう。助手はエバ・メンデスをややふっくらさせたような、きつい感じの美人だった。

 続いて、所持金の額を訊かれた。審査官はかなり流暢な英語を話したが、こちらから質問しようとしても、「いいからこちらの質問に答えろ」とぶっきらぼうに言うだけである。現金で幾らTCで幾ら、と答えると、彼は次のように述べた。You bring enough cash.Do you have a credit card?  Noと答えると、Why?と訊く。「失くすと困るから多く持ってきてるんだ」と答えるが、納得してもらえない。
 現金とTCを提出するよう言われる。エバ・メンデス似の助手がそれらを数え、次いで私も数えさせられる。住所、生年月日、旅の目的等を口頭で質問される。私の答えを、審査官は先ほどの用紙と照らし合わせている。

 10畳ほどの広さの部屋は新しく小奇麗だったが、審査官と同じ制服を着た連中が10人前後もたむろしている。審査官と助手を除いて私に注意を払う者はなく、喫煙しながら談笑している。仕事はどうした。
 ふと見ると、審査官は煙草の吸いさしをデスクの端に置いている。あれ?と思って広いデスクを確認したが、灰皿はない。メヒカーノたち(少数だが女性もいた)は助手のお姉ちゃんも含めて全員煙草を吸っているが、やはり室内に灰皿は見当たらない。最後に視線を下げると、真新しいリノリウムの床は案の定、焦げ跡だらけであった。ただし掃除はまめにやっているようで、吸殻や灰はほとんど落ちていない。たぶん建前は禁煙ってことになってるんだろうなあ。

 そうやって周囲を観察する余裕はあったが、緊張はしているのでただでさえ下手な英語がますますぎこちなくなる。審査官が尋ねた。Are you nervous? Yeahと答えると、Why?ときた。ああ、この人絶対に心配してくれてるんじゃないよ、疑ってるんだよ。何を疑ってるんだか知らないけど。
「なぜこんなことになっているのか解らないからだ」と答える。またしても、「おまえは質問に答えればいんだ」と返される。再度、現金とTCを数えさせられる。そして再び、審査官は先刻の言葉を繰り返した。You bring enough cash.Do you have a credit card?
  ここでようやく、私は彼が何を言わんとしているかに気づき、次のように述べた。「私はライターである。日本では大概のライターはクレジットカードを作れない。だから私はenough cashを持ち運んでいるのだ」

 審査官と助手の顔に、納得の表情が同時に浮かんだ。審査官はぞんざいに手を振って言った。OK,go.

 えええええ? そんなんで納得するの? そもそも、なんの容疑だったんだ。助手が現金とTC、パスポートを返してくれる。審査官はすでに私に関心を失っている。長居は無用と、私もさっさとその場から立ち去った。

 この旅行には、オプションで二日めにテオティワカン遺跡とグアダルーペ寺院の日本人ガイド付きコースを付けていたのだが、その日本人ガイドのSさん(メヒコ市在住)にこの件を話すと、「そんなケースは聞いたことがない。なんの容疑か、僕にも解らない」と言っていた。本当に一体なんだったのか、最後まで解らず仕舞いである。
 とりあえず、大して面倒な目に遭ったわけではないので、おもしろい体験ができたと思いつつも、一方では「クレジットカードを作れる身分だったら、こんなことにはならなかったんだろうなあ」とも思うのであった。

 メヒコ旅行記、もう4、5回続く予定です。

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メヒコ旅行記2

 旅行記続き。
 メキシコ到着の翌日、グアダルーペ寺院とテオティワカン遺跡に行った。案内してくれたのは、メヒコ市在住の日本人ガイドのSさん。元バックパッカーだそうで、非常によく日焼けしていて年齢がよく判らないが、まだ三十代だろう。
 職業と旅の目的を訊かれ、珍しく正直に「小説家」「取材兼観光」と答える。そう名乗ったほうが、メキシコについて何かいろいろおもしろい話を聞かせてくれるのではないかと期待したのである。ライターと答えようかとも思ったのだが、「小説家」のほうが広く浅く話を聞けるであろう。「どんな小説を書くんですか」と、当然ながらSさんは社交辞令で尋ねる。

 私は、仁木稔の小説を読んだことのない人に仁木稔の小説の説明をするのが、非常に苦手で嫌いだ。できることなら一生せずに済ませたい。
「SFです」 「はあ」Sさんの反応は鈍い。SFに無関心なのが明らかだ。ますます説明しづらくなる。「……二十三世紀のメキシコの話です」これが限界である。当然ながらSさんの反応は「はあ……?」というものであった。それきり、この話題はお終い。しかしこれ以上、詳しく説明したところで事態が好転するとも思えない。やっぱりライターって言っときゃよかったか、と後悔する。

 『ラ・イストリア』でネタにしているが、グアダルーペ寺院には、聖母マリア自身が奇跡の御技で描いたという「褐色の聖母」の絵が奉られている。「グアダルーペの聖母」だ。西洋画の画法で描かれていて、一説によると16世紀の先住民出身の無名画家の手になるものだそうである。
 実物を前にしながら、Sさんが説明してくれる。「使用されている顔料をNASAが分析したところ、地球上には存在しない物質が見つかったそうです。また、聖母の瞳を顕微鏡で覗くと、奇跡に立ち会った農夫と司祭の姿が映っているそうです」 今度は私が、「はあ……?」と言う番だ。

 続いてテオティワカン遺跡に行ったが、これについては次回。どちらもメヒコ市郊外にあり、車で移動した時間は計2時間ほど。郊外の平野や丘陵地には、同じ規格の小さな家が並ぶ住宅区が幾つもあった。
 Sさんによると、低所得層のために建てた公団なのだそうだ。地方から都市部への人口流入が激しく、政府はそういう人たちに格安で家を提供している。アパートではなく、小さいながらも庭付き一戸建てである。そうすると、住人となった人々は故郷から親戚一同を呼び寄せてしまう。しかもメキシコの法律では増改築中の家には税金が掛からないので、多くの人が常に自宅のどこかを改築中にしておくのだそうである。確かにそういう公団では、ほとんどの家がブロックを積んで新しい部屋や階を増築しつつあった。

 そういった興味深い話題の合間に、Sさんは妙な話を挟むのである。例のマヤの石棺の横向きにすると「宇宙船の操縦者」に見える浮き彫りだとか、メヒコのピラミッド周辺はUFO目撃スポットだとか、あとマヤ・カレンダーの2012年世界終末説にも触れてたな。
 すべて「はあ、そうですか」と流しつつ、私は内心「変な人だなあ」と引いていた。

 それから半年以上経ったある日、私はハタと思い当たった。「もしやあれは、『SF作家に対する気遣い』だったのではあるまいか」 
 早速、最も身近な非SFファンの代表である妹たちに電話し、この件を話してみる。すると奴らは申し合わせたようにこう言った。「うん、気を遣ったんだと思うよ。私も、もしSF作家だっていう人に会ったら、そういう話をするよ」

 頼むからやめてくれ。でも、やっぱりそうなのか。そうだったんだろうな。ああ、それにしても、なんという好意の空回り。
「そういうのが好きなんですか」とか不用意なことを言わなくて本当によかったとは思うが、その場で気づいていたら残りのスケジュールに支障を来すくらい脱力していたと思うので、やはり気づかなくてよかったとも思うのである。……違う、違うんだよ。SFってのはそういうのじゃないんだよ。確かに私はSさんが出したネタを大概知ってたし(グアダルーペのネタは、さすがに初耳だった)、そういうのんがSFに使われることもある。でも、それは「敢えて」使うんであってね……。やっぱり小説家だって名乗るんじゃなかった。

 次からは、もう少し旅行記らしいことを書きますよ。

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メヒコ旅行記3

 テオティワカン遺跡に行く。「死者の道」に沿って太陽と月のピラミッドのほか、小型のピラミッドもたくさん並んでいる。いずれも半ば崩れていたのを、1960年代に復元したものである。テオティワカンの文化では「四」が聖なる数とされていた。それに基づき、ピラミッドも四段構造で復元された。ところが、太陽のピラミッドだけは、微妙に五段になっている。「間違えた」んだそうである。間違えるなよ、そんな重要なこと。しかも間違えたままにしておくなよ。

 付属の博物館にも行く。生贄の人骨が、出土したままの状態で展示されている。これだけ多いと、さすがに薄気味悪い。子供の骨もある。一番引いたのが、人骨で作られた「オブジェ」。地面の上に置かれた頭蓋骨を半円状に数個の下顎骨が取り巻いて並べられている。そういうオブジェが何組もある。下顎骨で「首飾り」を模しているという説明を聞いて、一層気分が悪くなる。
 死とユーモアを結び付けるのはメスティソ(混血)の文化であって、先スペイン文化にそういう感性はなかったそうだが、大真面目でこんなオブジェを作ったのかと思うと、却って怖い。

 先史時代からアステカに至るまで、メキシコ先住民は赤を好んだ。これはもちろん血の色だが、それ以前にメキシコには赤い色の火成岩が多い。まず身近に赤が多くあり、そこから流血を好む文化が生まれたのかもしれない。この火成岩は鮮やかな赤ではないが、くすんだピンクから臙脂色、赤褐色までさまざまな色合いがある(赤褐色が一番多い)。先スペインから近代に至るまで建築物に多用された。
 そして現代のメキシコ人も赤が好きである。飛行機から見下ろしたメヒコ市の建物の大半は、屋根が赤褐色に塗られていた。ビルの屋上まで赤く塗ってある。先住民は征服によって人口が激減したし、その文化も決して連綿と伝えられてきたわけではないのに、その嗜好が現代のメキシコ人にこうして受け継がれているのを目の当たりにして、奇妙な感慨を覚える。

 目当てのバロック教会だが、メヒコ市でもグアナファトでも、残念ながら小野一郎氏が紹介していたような途轍もないバロック(まさしく「ウルトラバロック」)は見ることができなかった。そういうものは、もっと地方へ行かないとないようだ。もちろん私が見たものだけでも、ヨーロッパの教会の基準からすれば途轍もないのだろうけれど、小野氏の著作を繰り返し繰り返し眺め、目に焼き付けていた者としては、少々肩透かしを食った感である。所詮、観光客の身勝手な言い分ではあるが。

 そうした中、最も期待どおりにウルトラバロックだったのは、メヒコ市のソカロ(中央広場)に近いサン・フランシスコ寺院。ガイドブックには載っておらず、偶然見付けた。どの教会にも、像というよりは人形みたいなけばけばしい聖像がたくさん安置してあるわけだが、この教会が一番数が多く、色やポーズが派手だった。メキシコの伝統的な聖像はトウモロコシを芯にした塑像に着色してニスを塗ったものだが、私が見たものはどれもそういう素朴なものではなくて、もっと怪しい素材で作られているように思える。

 グアナファトでは、もう1月も末だというのにどの教会も未だにクリスマスの飾り付けだった。普段はキリストや聖母子といった御本尊が祀られているであろう祭壇は、飼い葉桶に立つ嬰児キリスト、聖母、東方の三博士というクリスマスセットになっている。じきにカルナバルだってのに。グアナファトの教会ではほかに、木製の門扉の浮き彫りに先住民の顔を見付ける。

 メヒコ旅行記、とりあえず後もう2回の予定です。

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メヒコ旅行記4

 今頃気が付いたんだが、ハヤカワ文庫の背表紙(の下の部分)の色って、仁木稔はチョコレート色なんですね。うむ、なかなかいい色だ。でも誰がどの色って、どうやって決めてるんだろか。

 旅行記続き。メキシコ人は英語を話せない。そのことは一応知ってたけど、ものの本には同時に北米文化の影響が非常に強いとも書いてあるから、最低限、単語くらいは通じるだろうと高をくくっていた。甘かった。単語すら通じない。唯一、スムーズに通じる単語は「OK」だけ(これはメキシコ人同士でも普通に会話で使っている)。ガイドブックで「英語が通じる店」と紹介されているレストランでも、従業員はマニュアル英語しか知らないので、ちょっとでもマニュアルから外れた質問には、もうお手上げである。私のスペイン語は片言レベルでしかも実践は初めて、フレーズブックと西和‐和西辞書が頼りという状態だったが、それでも英語よりよっぽど役に立った。それくらい、一般のメキシコ人は英語ができないのである。

 メキシコ人は愛想がいいが、商売熱心ではない。観光スポットを歩いていると、土産物の屋台から声を掛けてくるが、ノ・グラシアスと言えば、嫌な顔もせずに引き下がる。もう一言ペルドンと付け加えれば、「いいよ、気にしなくても」とばかりに笑顔で手を振ってくれる。概してメキシコ人は、こちらが片言でもスペイン語を話すと好感を持ってくれるようだ。グラシアスとペルドンと言えるだけでも、だいぶ違うと思う。と少しは役に立ちそうなことも書いてみました。
 一週間の滞在で、観光客を含め東洋人はまったく見かけなかった。だから私の存在は街中では結構浮いてたと思うんだが、じろじろ見られたりということはなく、非常に気が楽だった。上述のようにしつこい物売りもいない。道が判らなくなって路上で地図を広げていると、英語のできる人が道を教えてくれるということが二度ほどあったが、本当に道を教えてくれるだけで、何も要求してこない。

 それでも道中、二人のメキシコ人男性からbonitaと言われましたよ。一人はメヒコ市のチャプルテペック公園で片言の日本語で話し掛けてきたおっさん。いくらも話さないうちに警備員に追い払われてしまいましたが、たぶんナンパではなくて本当に日本語の練習がしたかったんでしょう。もう一人はグアナファトのホテルの売店で店番をしていた英語が話せるおじいさん。ラテン系の男は本当に挨拶代わりにそういうことを言うんだなあ、と感心しました。

 中米系の美人と言えば、ジェシカ・アルバとかサルマ・ハエックとかエバ・メンデスとか、要するに褐色の肌をした混血タイプを思い浮かべると思うが、メキシコ人にとっては、必ずしもそれが「理想」ではないようだ。メキシコでTVを見たのは夜間だけだったんだが、どのCMにも白人しか登場しない。それも南欧系とも北欧系ともつかない顔立ちに白い肌と明るい色の髪の美男美女ばかりである。番組(ドラマやバラエティ)には、街で見かけるような混血の人たちが出演してたけど。
 だからあれは、ほんとに挨拶で、これまでの人生で容姿を誉められたことはただの一度もない私だが、幼少時に言われた「可愛い」と同様、あれもカウントには入んねーだろうなあと思うのであった。

 という話を後日、英会話教室の教師(アメリカ人男性。メキシコ旅行の経験あり)にしたところ、彼は次のように言った。「いや、彼らは本当にそう思ったんだろう。メキシコの女性は太っているが、あなたは痩せてるから」 わかりやすい解説をありがとう。
 確かにメキシコには太り気味の人が多い。アメリカのように病的に肥満した人は見なかったが。そういう人たちに比べれば、そりゃ私は痩せてるよ。肥満は、明らかに食生活が原因だ。メキシコ人は甘いものが好きである。しかも夜に食べる。夕方以降になると、路上にはケーキや菓子パンの屋台がたくさん出る。夜の9時近くまで外を歩き回っていた日もあったが、そんな時間帯でも菓子の屋台は開いていた。ケーキ屋も開いている。早朝移動の前日、朝食を買おうと思ってコンビニに入ったら、見事に菓子類しか置いていなかった。甘いものが苦手なので、少々難儀しました。
 普通の食事は非常においしかった。メキシコ料理というと辛いイメージがあるかもしれないが、アジア系の辛い料理全般に比べればずっとソフトだったし。

 メキシコのコーヒーは大変おいしい。しかしメキシコ人はネスカフェが好きである。たぶん手軽なのと、日本人がちゃんとしたラーメンもインスタントラーメンも両方好きなのと一緒なんだろう。グアナファトのとある喫茶店(『地球の歩き方』にお洒落な店として紹介されている)に入ったところ、メニューにnescafe y agua(ネスカフェと水)と載っていた。いや、頼まなかったけど。

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メヒコ旅行記最終回

 この旅行ではプランを立てるに当たり、砂漠とバロック教会のどちらを取るか迷った結果、自分の体力が信用できないので砂漠は諦めることにした、と最初に書いた。その判断は間違っていなかった。都市部にしか行かなかったのに、しっかり体調崩しましたよ。到着の翌日、朝食を食べてから5分と経たないうちに、胃がキリキリと痛み始めた。持参の胃薬を飲んでもまったく効かない。どうも、オレンジを食べたのが拙かったようだ。ガイドブックには「生野菜は絶対食べるな」と書いてあったのに、生野菜も生の果物も一緒やという頭がなかった私の不注意である。

 胃痛は丸二日続き、三日めから腸に移動。症状は薬で抑えられたが、じわじわと体力が削られていく。なんていうか、ステータス異常で常時「毒」状態って感じ。後半のグアナファトは山間の町で、とにかく坂ばかりで歩き回るだけでも非常にしんどかった。ディエゴ・リベラの生家も、大きな市場も素通りしてきてしまいました。別にやばい病気とかじゃなくて、帰国してから内科で抗生物質を処方してもらったら、あっさり治りましたけどね。

 さて、ベニート・フアレス空港に到着直後、取り調べとも言えない取り調べを受けた理由は結局謎のままなんだが、帰路、乗り継ぎのヒューストンで推測の手掛かり(のようなもの)を得ることはできた。
 出国手続きの際、偶々同じ列に並んでいたアジア系は、私のほか六十代の日本人女性と私と同年代の中国系女性だけだったんだが、六十代の女性が他の乗客同様、あっさり通過できたのに対して、私と中国系女性だけは非常に念入りにボディチェックを受けた。そこから推測するに、当時、麻薬密輸か何かに関わっていた三十歳前後のアジア系の女がいたのではなかろうか。一人旅で多額の現金(って言ったって、TCと併せても十万円足らずだが)を持ってたってことで、麻薬の買い付けにでも来たと疑われたんじゃなかろうか。
 その割りにあっさり解放されたのは、たぶん全然犯罪者っぽく見えなかったからだろうなあ。

 というわけで大変楽しい旅行でしたが、その成果が『ラ・イストリア』に反映されているかというと、まあそれなりに、いろいろと。

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