CLOSE/クロース

 2022年公開。ネタバレ注意。
 ベルギーの片田舎。親友同士のレオとレミは、中学入学早々、その親密さを同級生たちに揶揄われる。女子は「付き合ってるの?」と尋ね、男子は「オトコオンナ」と呼ぶ。
 アメリカが舞台だったら陰惨ないじめが始まるところだが、ベルギーの中学生たちはお行儀がよく、行為がエスカレートすることはない。厳重に監視していない限り見逃してしまうくらいの小さな摩擦であり、そのことで学校側を責めるのは間違いだ。子供たちも、社会全体の価値観をなぞっているだけに過ぎない。

 実際、レミは大して気に留めない。というか、面と向かって言われると多少困惑するものの、もっと間接的な、たとえば好奇の目を向けられる程度では気づきもしないようだ。しかしレオはひどく気に病み、レミと距離を置くようになる。そしてアイスホッケーをやっている男子に接近し、自分もクラブに入会する。
 レオは農家の息子で力仕事に慣れているお蔭か、ホッケーの練習にもすぐについていけるようになり、最初に彼を揶揄ってきた「ちょっと荒っぽい男子たち」とも打ち解けて一緒に遊ぶようになる。
 レミは親友の変化に戸惑い、問い質そうとするが、レオは誤魔化すばかりでまともに答えない。巧く言語化できないのもあるんだろうけど、問題と向き合うのを避けたがっているようだ。

 亀裂は決定的になり、互いに口も利かなくなる。とはいえレミは孤立したわけではなく、レオとは別のグループの子たちと仲良くやっているように見えた、その矢先に彼は自殺してしまう。
 冬の初め頃だから、9月の入学から3ヵ月も経っていない。学校は生徒たちへの影響を心配してグループカウンセリングを行うが、皆、レミの思い出などほとんど持っていないので、「明るい子だった」「レオと仲が良かった」等、表面的なことしか言えない。レオは彼らに苛立つが、彼自身、レミについて何も語れない。
 レミの母親はレオに、「何かあの子から聞いていない?」と尋ねる。両親ですら、自殺の原因が解らないのだ。中学生、それも男子じゃなあ……親に悩みは相談せんわな……レオも、おねしょをするほど心身に不調を来しているのに、誰にも胸の内を打ち明けようとしない。せいぜい、兄にいくらか甘えるだけだ。

 冬が過ぎ、春が過ぎ、夏になる。レオはホッケーの試合で腕を骨折し、治療を受けながら泣き出す。レミが死んで、初めて流した涙だったかもしれない。夏休みが始まり、レオはバスに乗ってレミの母親の職場を訪ねる。彼女は産婦人科医で、新生児を抱きながらレオの前に現れる。
 車で家まで送ってもらう途中で、レオはついに「僕のせいだ」と告白する。動揺した彼女に車から降りるよう言われ、レオは森の中に逃げ込む。すぐに後悔した彼女はレオを追いかける。彼女が見つけた時、少年は怯え切って木の棒を手にしていた。罰せられると思ったようだ。棒を振り上げるレオを、息子を失った母親は抱き締める。
 腕の怪我が治ったレオは、レミの家を訪ねる。レミの両親は引っ越した後で、窓から見渡せる家の中は空っぽだった。

 レオ役の新人、エデン・ダンブリンの容姿で4割もっている映画。4割が多く見積もりすぎだとしても、3割は切ってない。演技力も込みだと、彼一人で7割もってる。レミ役で同じく新人のグスタフ・ドゥ・ワールやレミの母親役のエミリー・ドゥケンヌ(『ジェヴォーダンの獣』のヒロイン。25年3月に癌で死去)も貢献はしてるんだが、替えは効く。レオ役だけは、ほかの誰がやっても違う作品になってしまっていただろう。
 ルーカス・ドン監督はゲイだと公表しているが、少年二人の関係が同性愛かどうか明確にしないのはよかった。なんでも名前を付けて分類すればいいというものではない。そもそも12、3歳の性的指向なんて、まだ曖昧なものだ。

 親密すぎるために同性愛を疑われる青少年の関係を描いた作品といえば、ピーター・ジャクソン監督の『乙女の祈り』(1994)がある。彼女たちの場合はあまりにも二人だけの世界に閉じ籠りすぎ、親が心配するのも解らんでもないが(基になった現実の事件ではどうだったか知らん。あくまで映画だけの話)、レオとレミは二人だけの世界に閉じ籠っていたわけではない。ここまで親密になったのは、どうやら近所に同年代の子供がほかにいないのが大きかったようで、二人とも社会性は普通にある。
 だから本作で思い出したある個人的な出来事を、『乙女の祈り』では思い出さなかったのだろう。以下、まったくの余談。

 子供の頃、近所に一学年上の友人(女子。とりあえずAとする)がいて、一緒に登下校していた。五年生(Aは六年生)の秋だから1983年のある日、下校途中の私とAは、仕事帰りのAの母親と行き会った。私たちが住んでいた地区は市街地から遠く、Aの母も普段は車で通勤しているのだが、この日は偶々徒歩だったのである(ちなみに小学校までは大人の足でも40分くらいはかかった)。
 長野の秋は寒い。私とAが腕を組んで歩いていたのは、寒かったからという以上の理由はない。ところがAの母と並んで歩き始めて10分も経たないうちに、彼女はなんの前置きもなく言った。「女同士でベタベタして気持ち悪い。やめな」

 大人が子供にそんなこと言う!?というのが、最初に思ったことであった。「気持ち悪い」というのはつまり、レズビアンみたいだから、というのは理解できた。ちなみに当時の私はまだ「レズ」という略称は知らなかったし、Aの母はおそらくレズビアンという言葉自体知らず、「おなべ」みたいだと言いたかったと思われる。
 いずれにせよ当時、日本のどこに行っても小学生が同性同士で腕や肩を組んだりする程度の身体接触で、同性愛を疑って咎めるような風潮は皆無だった。もっと年齢の高い子供同士でも、少なくとも1回だけではそんなことにならなかったはずだ。
 しかもAと私は学年が違うこともあって、お互い他の友人より特別仲がいいわけでもなく、家が近所だから一緒に登下校して、偶に互いの家に遊びに行っていただけである。そうしてAの家で一緒に遊んでいても特別親密な様子などなかったはずだが、偶々(寒いから)腕を組んでいただけでこの言われようである。

 つまりAの母は「変な大人」の一人なのだな、と私は理解し、口答えすることもなく従ったが、そういう人を母親に持つAのことが気の毒だとは思った。
 その後、Aとは二度と「腕を組む」レベルの身体接触をすることはなかったが、それ以外はまったく以前どおりの関係だった。私もAもAの母親も、あの件について蒸し返すことは一度もなく、またAが私に抱いていてくれた好意が、私がAに抱いていた好意と同じ種類の同じ程度のもので「なかった」と示唆されることも一度もなかった。

 だからこのとおり忘れることこそなかったものの、無数のどうでもいい些細な出来事の一つに過ぎず、だから『乙女の祈り』を観た際に思い出すことはなかったんだが、後もう少しでもAと仲が良かったら、結構なトラウマになってた可能性がある、と本作を観て初めて気づいた。「腕を組む」という行為だけでなく、Aに対する感情まで咎められたと思っただろうからな。
 そうはならなかったので、今改めて思い返してみても腹は立たないが、Aのことはやはり気の毒だと思う。

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WANDA/ワンダ

 1970年公開。脚本・監督・主演のバーバラ・ローデンのことは全然知らなかった。本作は彼女の最初で最後の監督作品で、ヴェネツィア国際映画祭で外国語映画賞を受賞するも、アメリカ本国では永らく忘れ去られていた。ローデンはその後、主に舞台劇の監督として活動したが、80年に48歳の若さで病没。本人の業績より「エリア・カザンの妻」として知られていたが、近年ようやく再評価されつつあるという。

 映像そのものに視線が釘付けになってしまう映画というものはあって、たとえば『ブルータリスト』(2024)は計算され尽くした構図の美しさゆえなんだけど、本作の映像に美しさはない。うらぶれた風景とうらぶれた人々しか映っていない、かつ如何にも即興的な映像で、実際の撮影も即興的で、出演者も主演二人以外は素人ばかりだったそうである。
 プロットも、貧しく無気力な女が状況に流されていくだけで、「劇的」な展開も場面も皆無である。それなのに終始、目が離せなかった。いやもちろん、『ブルータリスト』のように「圧倒される」映像ではまったくなかったんだけどね。どう表現したらいいのかわからん。

 本作は米国におけるインディペンデント映画の草分けとされているそうだが、まあインディペンデント映画に限らず、「劇的」でない映画というのは、多かれ少なかれ「忍耐」を要するものが少なくない。退屈だったり、わけがわからなかったりするのを、「我慢」して観ているうちにおもしろくなってきて、最終的には「辛抱した甲斐があった」となる作品もあれば、その甲斐がなかった作品もある。後者でも、何年も後に機会があって再鑑賞すると良さが解るものもあるけど。機会がなければそのままだし、再鑑賞してもやっぱり……のこともある。
 そういう経験からしても、本作のような作品は珍しい。

 BGMが一切ないことも、没入感を高めている。映像作品(および舞台劇)のBGMというのは、おしなべて没入感を高めるために用いられる。しかし少なくとも私は、BGMのせいで没入感を削がれてしまうことが、まあまあ少なくない。一番多いのは、制作者の意図(感動させたい、興奮させたい、怖がらせたい、悲しませたい、笑わせたい等々)が露骨すぎて白けてしまう音楽や効果音。
 さあ感動しろ、興奮しろ、怖がれ、悲しめ、笑え等々、あまりにも「それっぽく」て辟易するだけでなく、制作者の意図はそうやって視聴者の感情を操作したいんだろうけど、なんかチグハグだとか、もっとシンプルに音がうるせえとか、曲がクソダサいとかで気が散ることもある。意外に割合が多いのが、せっかく過不足なく場面に合致した曲で、制作者の目論見どおり気分が乗ってたのに、いきなりブチっと切れて我に返らされるケース。
 本作は、劇中の誰かによってレコードが掛けられたり演奏されたりする音楽以外、劇中の「現実」に存在しない音は聞こえない。それが、登場人物たちを実際に目の当たりにしているような効果を生んでいる。

 まあとにかく、不思議な映画でしたよ。

(一応リンクを貼っておきます)『ブルータリスト』感想

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モン・ロワ 愛を巡るそれぞれの理由

 2015年公開。弁護士のトニー(本名はマリー・アントワネット。「トニー」は「アントワネット」の本来のドイツ語形「アントーニア」からか)はスキーで大怪我をし、リハビリ施設に入院する。医者に「膝は後ろ向きに曲がる関節だから、膝の怪我は心もそういう状態にあることを示す」とかスピリチュアルなことを言われるが、思い当たることがあって回想を始める。

 よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』3巻に、「フランス映画のカップルは最初の15分でセックスして、残りの1時間45分はずっとケンカしてる」といった主旨の台詞があった。リアルタイムで読んだから2000年代初めのことだが、その時点でそんなフランス映画を観たことはなかった。フランス映画自体はそこそこ観ていたが、『グラン・ブルー』(1988)とか『ニキータ』(1990)とか『憎しみ』(1995)とか『ドーベルマン』(1997)とか『ジェヴォーダンの獣』(2001)みたいなの(ヴァンサン・カッセル率が高い)には、そういう展開が入る余地はない。
 まあ恋愛映画なんだろうなと推測はできたが、観たことのあるフランス恋愛映画というと『男と女』(1966)と『ベティ・ブルー』(1986)くらいで、どっちも上記の定義には当て嵌まらない。たぶんこの二作は例外なんだろうな、と思ったのであった。
 そもそも製作国にかかわらず恋愛映画そのものに興味がないので、それから実に四半世紀近く、フランスの恋愛映画を一作も観ることはなかった。しかし本作はヴァンサン・カッセルが出てる。悪役やチンピラ役以外、あんまり観たことがないのに気が付いたのである。カンヌで女優賞受賞、パルムドールノミネートだから、一定の質は担保されている。
 以下、ネタバレ注意。

 というわけで観てみたら、上映時間がエンドクレジットを除いたらほぼ2時間なんだが、最初のセックスが始まるのが開始からほぼ15分だから笑ってもうた。計測してるの?
 ヴァンサン・カッセル演じるジョルジオは現役チンピラでこそなかったが、チンピラ上がりの高級レストラン経営者。一方のトニーは冴えないインテリという自認がある。ジョルジオは自力で成功してきた自負がある上に、自分や友人たちがトニーとその弁護士仲間たちよりイケてる自信がある反面、トニーが象徴する堅実な人生への憧れもある。

 なので最初のセックス直後から喧嘩が始まるわけではなく、結婚、妊娠まではまあまあ順調に進む。しかしその期間でも、ジョルジオが何年も前に別れた彼女を未だに従業員として雇ってたりとか、トニーの父親とジョルジオの間の、明らかに「階層の違い」に起因する緊張感とか、不穏な要素はある。なお、現代フランスでは「マリー・アントワネット」は珍名扱いのようだ。
 この「階層の違い」による価値観、というよりむしろ倫理観の違いが露呈してくるのがトニーの妊娠中で、その後はずっと喧嘩と仲直りを繰り返す。このカップルがある程度巧くいってたのはトニーがジョルジオにコンプレックスを持ってるからで、トニーが注目度の高い仕事を任されるようになると、ジョルジオは嫉妬を剥き出しにする。

 離婚後も息子の担任との面談で、息子がもう時計を読める、というのをトニーが知らなかったのに対し、「俺は知ってた」としょうもないマウントを取るんだが、その直後にトニーの腕時計が在りし日に自分が贈ったものだと気づいて(確認して?)、こっそり嬉しそうにする。そういう度し難いクズだが魅力的な男、というキャラを説得力をもって演じられるのは、やはりヴァンサン・カッセルならではなんだろう。
 それにしても、トニーは弁護士なのに随分とエキセントリックだ。しかしジョルジオが絡まなければ充分に理性的で、周りの反応からも推し量るに、フランスの恋愛ってこれくらいが普通なのか?

 タイトルMon Roi「我が王」(英題もMy King)は、劇中で一度も言及されない。もちろん臣下からの呼び掛けのわけはないので、モンシェリみたいな恋人(男性)への呼び掛けかと思ったが、少なくとも慣用表現ではない。王のように私のすべてを支配する男、といったとこか?

 何しろフランス恋愛映画をほとんど観たことがなかったので、一度にこれだけたくさん「ジュテーム」と「モナムー」を聞いたのは初めてだ。発言者は9割ジョルジオで、その9割8分がトニーを言いくるめるためなので(2分はさすがに本気だろう)、ほんとにクズで笑える。
 おもしろかったが、フランス恋愛映画としては相当な上澄みだろうから、ほかのは観なくていいや。

 監督のマイウェンは元女優でリュック・ベッソンの元妻。『フィフス・エレメント』(1997)に異星人のオペラ歌手役で『ランメルモールのルチア』歌った異星人役(口パク)。その時は愛称の「ウィンウィン」名義だったのか。変わった名前だったことは憶えてる。ルーツが複雑なのもパンフで触れられてた憶えがあるが、ベッソンの妻だってことは書いてあったっけ。で、その時の主演のミラ・ジョヴォヴィッチにベッソン獲られちゃったのか。

ヴァンサン・カッセル出演作感想
『イースタン・プロミス』
『ブラック・スワン』

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仕立て屋の恋

 90年代後半鑑賞。再鑑賞ではなく思い出し。知識も理解力も今より少ない頃に観た割に、ググって出てくるあらすじと照らし合わせると、よく憶えてるし、ちゃんと理解できていたようだ。
 ただし当時は、主人公(ミシェル・ブラン)が50歳、ヒロイン(サンドリーヌ・ボネール)が35歳くらいだと思ってた。ヒロインは周囲からの扱い、恋人の言いなりになって犯罪の片棒を担ぐ愚かさ、パステルブルーのでっかいふわふわリボン(死ぬほど似合ってない)などからすると、女優の実年齢より若い、20代後半くらいの設定かもしらんな、だいぶ無理があるけと、などと思いつつ鑑賞したわけだ。

 しかし先日、これもサンドリーヌ・ボネールがヒロインの『冬の旅』(1985)を観て、ボネールは撮影時17歳くらいで年齢相応の可愛さなのに、『仕立て屋の恋』はわずか4年後だと知り、仰天する。ついでにミシェル・ブランが撮影時36かそこらだと知って、さらに仰天。
 作中の経過時間が20年以上に及ぶとかでもない限り、役者が実年齢より上のキャラクターを演じることは少ない。したがって『仕立て屋の恋』の仕立て屋は、ブランの実年齢と同年代の設定だろう(もっと若い設定なら、わざわざ若ハゲの俳優を使わんだろう)。今、改めて写真を見ると、私自身が50を超えたのもあって、50歳よりは若いのが判るが、それでも40代前半より下には見えん。頭髪の状態を差し引いてもな。
 ボネールのほうは、今見ても35歳だ。

 まあとにかく、主人公とヒロインの年齢設定が、当時想定してたよりだいぶ下となると、だいぶ感想が変わってくる(四半世紀余越しに)。特に主人公、50歳じゃなくて30代半ばとなると、愚かさの質が変わる。老いゆえの愚かさではなく、まだ若さが残っているからこその愚かさだ。
 ヒロインが35歳、あるいは20代後半なら、(まったく美人に見えないのを措いても)こんな愚かな女のどこに惹かれたのかまったく理解できず、単に自分(50歳)に比べれば若く、性欲から覗きをしているうちに恋愛感情も抱くようになっただけに思える。これが20歳そこそこということになれば、愚かさも「若さゆえの愚かさ」として愛しく思える、ということなのだろう。知らんけど。性欲から恋愛感情に、という点は変わらないが。
 女の嘘を信じて薔薇色の未来を夢見るという、悪い意味での「青さ」も、50歳だと醜悪なだけだが、30代半ばならまだなんとか……いや、それでも(覗きは措いといても、なお)相手が15歳も若いなのはキモいんだが、そういう話だから。

「冬の旅」感想

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ANORA アノーラ

 2024年公開。一応ネタバレ注意。

 2時間20分もあって、最初の45分を15分削れば傑作だったと思う(さらにもう何分か短くてもいい)。鑑賞対象としては男体より女体のほうが好きだから、アノーラが何も着てないか、ほとんど何も着てない画は目の保養だし、それを抜きにしても序盤のアノーラの「勤務風景」に尺を取るのは、彼女の生きる世界の描写として意味はある。
 しかし彼女がオリガルヒ(ロシアのグレーな財閥)の御曹司イヴァンと出会うと、このドラ息子の貧相な半裸もしくは全裸がしばしば画面に映り込むことになり、ちゃんと服を着ている場面でも頭の悪いイチャイチャが延々続く。

 この試練をどうにか乗り切ると、イヴァンの結婚を知った両親が激怒してアルメニア人のお目付け役を送り込み、途端にスラップスティックな展開になる。
 イヴァンは脱兎の如く逃げ出し、残されたアノーラはお目付け役の手下のアルメニア人と、さらにその手下のロシア人チンピラを相手に大立ち回りを繰り広げる(ポールダンサーなので身体能力が高い)。ところでアノーラが投擲した燭台は七本枝に見えたんだが、だとするとイヴァンはユダヤ系設定か(演じるマルク・エイデルシュテイン自身はユダヤ系ロシア人)。

 ひとまずこの4人で、イヴァンを探すということで話がつき、極寒のニューヨークを一晩中彷徨うことになる。ようやく見つけたイヴァンは泥酔していて、まともに話もできない。お目付け役はイヴァンの両親がアメリカに到着する前にアノーラを離婚させておくつもりだったが、ラスベガス(ネバダ州)で結婚したのでネバダ州まで行かないと離婚できないことが判明したので間に合わず、結局、両親も含めた全員でネバダ州まで行く羽目になる。
 イヴァンの両親は絵に描いたようなオリガルヒであり、その圧力の前に、イヴァンはヘタレな上にクズ、クズの上にヘタレという絵に描いたような本性を露わにする。しかし、せっかく育てた財閥を、こんなのに継がせる気か? 一瞬で更地にするのが目に見えてるじゃねえか。

 アノーラもイヴァンが親より自分を選ぶとは本気で思っていなかっただろうが、少しは庇ってくれる(それが愛ではなく、親への反抗からだとしても)と期待していたのは明らかで、初めて絶望に打ちのめされる。こんなヘタレに期待してしまった自分への絶望もあるだろう。それでも気丈に振る舞い続けるアノーラに、手下たちはだいぶ同情的になっていて、特に一番下っ端のイゴールは、チンピラなのに不器用で純情というあざとい造形で、最初の大立ち回りの段階ですでに好意を抱き始めているようだ。
 終盤、イゴールと二人きりになったアノーラは、彼のぎこちない好意に「わたしをレイプしようとしたくせに」と言う。暴れ回る彼女を取り押さえた時のことだ。「そんな気はなかった」と困惑するイゴールを、アノーラはなおも難詰するが、どうやら彼が本気で困惑していると気づくと、今度は彼女が困惑し、その困惑はすぐに不安に変わったように見える。

 もしかして彼女は、「レイプする男は被害者に性的魅力を感じている」と信じてるのか? それで、イゴールが彼女をレイプする気がなかった=彼女に性的魅力がなかったから、と考えて不安になったのか? レイプの被害と性的魅力を結びつけるのは歪んだ価値観だが(そしてその歪みを形成してきた背景を窺わせるが)、彼女がイヴァンに「見初められた」のは性的魅力に因るところが大きかったのは事実だし、彼女もそれは理解している。
 その彼を繋ぎ留められなかったのは性的魅力が足りなかったからだ、と彼女は考えたかもしれないし、かといってほかに何も持っていないことも承知しているだろう。イゴールに性的魅力を否定された、と捉えたなら不安に駆られるだろうし、また明らかに好意を寄せられているのに性的魅力は否定されるという状況に混乱もしたのかもしれない。

 イヴァンに棄てられたといっても、慰謝料として大金は手に入れたわけだが、それを元手に今後は堅実な人生を……なんて無理そうだよな。イゴールと関係を続けることになったとしても、速攻で破綻しそうだし。
 以下、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)のネタバレ一応注意。

 アノーラ役のマイキー・マディソンは、同作でシャロン・テート殺害(未遂)犯の中で一番悲惨な殺され方をした子。あの殺されっぷりで本作の主役を射止めたんだとか。
 実行犯3人のうち女は2人だったけど、彼女は日本人というか東アジア的な顔立ち(かつ小柄)で目立ってたんだよな。東アジアといっても、南方寄りのやや濃いめの顔立ち。本作では特に序盤は厚化粧してることが多くて、それほどアジアっぽさは感じなかったが、すっぴんで疲れた顔してると、相変わらず社会派系の低予算映画で主役張りそうな面構えだ。なんか先祖にアジア系はいないけど、東欧系(ロシアとリトアニアとポーランド)がいるそうで、あの辺はだいぶ混血してるからな。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』感想(マイキー・マディソンには言及してません)

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冬の旅

 25年12月鑑賞。冒頭、畑の溝で若い女性が死んでいるのが発見される。警察が呼ばれるが、凍死した浮浪者だと片付ける。ここでナレーションが入り、「私」はこの女性モナが最後の数週間に出会った人々にインタビューして、その足跡を辿った、と語る。ネタバレしたからどうという作品でもないが、一応御注意。

 ナレーションは冒頭だけで、この「私」が何者なのかは最後まで明かされないが、アニエス・ヴァルダ監督自身が務めているので、モキュメンタリー的と言える。またモナの生前の場面と、「目撃者」たちがインタビューに答える場面の区別が不分明であり、毎回ではないが、モナが去った後、それを見送った目撃者が、そのままカメラに向き直り、姿の見えないインタビュアーに語り掛け始めたりするので、メタフィクションの要素も含んでいる。

 キャンプ道具を背負って一人で旅するモナは、「珍しい存在」として人々に強い印象を与える。しかしなんらかの影響を与えるほどではない。その点で、彼女は鏡のようだ。
 それは観客にとっても同様で、彼女を社会への反抗者だとして、その末路を犠牲者として同情するのも、あるいは登場人物の幾人かのように、怠惰な落伍者と見做して自己責任論を振り翳すのも、あるいは彼女と出会った人々の反応を単純に男女で二分してジェンダー論を持ち出すのも(もちろん同じ放浪者でも男であれば、ここまで過酷な目には遭わないが)、いずれも彼女の一面しか見ていない。
 単純な解釈ができない、というかしたくない作品である。

 彼女のバックグラウンドは一切触れられない。冬とはいえ、たった数週間で坂を転がり落ちるようにボロボロになっていくので、放浪を始めてから実はそれほど長くないのだろうと推測できる程度である。
 回想(モナの生前)は、「私には彼女が海から来たように思える」というナレーションと共に冬の海から全裸で上がって来る彼女から始まる。だからこの物語は寓話で、彼女は実際に鏡としての役割を負わされているのかもしれない。寓話は寓話として明示してほしい派なので、その点、本作は冒頭からかなりはっきり示してくれるのでありがたい。

 ただしフランスの田舎の町や村、農場に暮らす人々やその家屋がやたらリアリティのある不潔さで、その中で不潔だ不潔だと評されるモナが、そこまで不潔に見えないのが、かなりノイズになった。確かに衣服は汚くて傷んでるし、髪はボサボサを通り越してベタベタしてそうだし、歯は黄色いし、手や爪も汚れがこびり付いている。しかしその割に、顔だけは汚れてない。洗ってる様子もないのに。肌が荒れてないのは 放浪期間の短さで説明がつくにしても、唇は短期間でも荒れるぞ。冬だし。
 ほかにも、爪がずっと短いままだとか(爪切りなんか持ってるはずもない。手のほうは嚙み千切ってるとして、足はどうなだ)、体臭がひどいと言及してるのは1人だけで、その1人も含めて、誰も悪臭に怯んでいる描写がないとか。いや、詳しい描写なんか要らんが、何しろ周囲の不潔さのリアリティ・ラインが高すぎてな。周りが小奇麗だったら、彼女は充分すぎるほど不潔なんだが。

 あと気になったのは、序盤のBGMが妙にぶちっと切れるとこくらい。中盤からはマシになったので、意図的な演出ではない。いい感じのストリングスなので、余計に気が散らされた。
 BGMではなく、劇中でラジオ等から流れているポップミュージックはどれもよかった。80年代のフレンチポップスは全然知らないんだけど(まあ、ほかの年代もあんまり……)、アメリカのポップスとは全然違うんだな。80年代のアメリカ映画だと、ほかの要素(脚本、演技、演出、カメラワーク等)は全部いいのに、流れてるポップスがクソダサくてクソダサくて、観続けるのが苦痛なことがままある。いや、80年代の曲でも、好きなのはあるけどさ。

 撮影だけでも相当過酷だったと思われるが、モナ役のサンドリーヌ・ボネールは67年生まれなので、撮影時17歳。パトリス・ルコント監督の『仕立て屋の恋』の時は、「若く美しい女」扱いなのが納得いかなかったんだが、本作では年齢相応に可愛い。作中ではすごく可愛い扱いだが、美的感覚の違いで納得できる範囲。
 ……って、『仕立て屋の恋』は89年だから、21、2歳? 35歳くらいかと思ってた……今、写真見てもそう見える。たった4年で17、8年分老けたんか。角張ったいかつい顔になってるのもあって、頭に巻いたふわふわのでっかいリボンがきっつ……
 で、主人公の仕立て屋(ミシェル・ブラン)は50歳くらいだと思ってたら、52年生まれだから、えっ、36、7歳!?

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触手

 2016年公開。原題はla region salvaje「野性の領域」ってとこか。まあ邦題どおり触手が出てくる。しかも生物学用語のほうじゃなくて、エロ用語のほうの触手。宇宙から飛来してきた生物で、「究極の快楽」を与えてくれる、という設定。
 しかし本作がヴェネツィア国際映画祭で最優秀監督賞受賞してることから察せられるとおり、触手生物はアマト・エスカランテ監督の母国メキシコを蝕む麻薬のメタファーである。満たされない生活を送る者たちは「究極の快楽」を与えてくれる触手に夢中になるが、触手は次第に暴力的になっていく。それでも依存し続ければ、最終的に殺されてしまう。麻薬以外の何ものでもない。

 映画感想を書く際には毎回、監督のインタビューやマスメディアによるレビューを参照するために、とりあえずググるんだが、今回は比較的最近で、しかもヴェネツィア国際映画祭受賞作だってのに、そういうのがまったく出てこない。個人による感想すら、やたら少ない。ざっと見たところ、ほとんどの人が戸惑ってるか貶してる。
 ヴェネツィア国際映画祭の権威から高尚なものを期待したらエログロだったので戸惑ってる人か、海外では知らんが日本ではこんな邦題かつ「SFエロティックホラー」または「SFエロティックスリラー」で売ってるので、それを期待したら外れたので戸惑ってる、または貶してる人の三派に大別できるようです。
「ヴェネツィア国際映画祭で受賞するような映画のフォーマット」「ホラー映画のフォーマット」「エロ映画のフォーマット」のいずれかを予想して、それに当て嵌まらなかったので戸惑う/貶す、といった感じですかね。なんらかの社会問題のメタファーとしてホラー映画のクリーチャー等を持ってくるのは、特に珍しくもない。それらのうちの、例えば『第9地区』(2009)のようにまともに評価されている作品と比べて、本作は何が悪かったのか。やっぱ触手か? でもなんで日本でだけ?

 麻薬の快楽を性的快楽に置き換えたのは如何にも安易ではある。でも映画というメディアで「究極の快楽」を表現するとなると、やっぱりエロが最適なんかなあ。ほかの方法で表現するとなると、抽象的でふわっとしてしまうか、滑稽になるかのどっちかだろう。
 しかしそれで、なんで国際的には高く評価されたのに日本でだけ?という問題は解決されないから、やはり日本人の脳に「触手=エロ」のイメージが深く刻み込まれすぎているのではあるまいか。
 しかし現代日本のエロ触手のルーツって、北斎の蛸じゃなくてアメリカのパルプ誌時代のSF(のイラスト)だよな。しかし現代欧米におけるエロ触手(本作も含む)のルーツって、パルプ誌SFじゃなくて日本の二次元アダルトコンテンツだよな。文化は伝播し合い、混交する。

 以下、余談。
 2006年初めにメキシコに行き、1週間滞在したんだが、治安はいいし街はきれいだし、人も親切だった。物売りの人たちですら、no gracias(結構です)と言えばあっさり引き下がり、さらにperdon(ごめんなさい)と付け加えれば、にこにこ笑って手を振ってくれた。それがたった2年かそこらで、あんなことになってしまうとは。
 ただ着いて早々、空港で容疑不明の取り調べを受けた。クレジットカードではなく現金とTCを持ってる理由をしつこく追及されたことからすると、麻薬関連の容疑だった可能性が高いんだが、現地の日本人ガイドは、そんな事例は聞いたこともなく容疑も見当がつかないと言っていた。だからもしかしたら、急激な悪化がまさに始まろうとしていたのかもしれない。

『第9地区』感想

「メヒコ旅行記」(全6回)

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反撥

 1965年公開。カトリーヌ・ドヌーヴは90年代以降の出演作しか観たことがなくて、それ以前だと『昼顔』(1967)のスチールくらいでしか知らんのだけど、その時点でもう貫禄ある大女優って感じなのに、43年生まれだからまだ23、4歳なのね。
 で、本作はその2年前だが、ロマン・ポランスキー監督は彼女を徹底して「少女」として描いている。ドヌーヴの顔の造作はこの頃から立派で、一歩間違えると「厳つい」「老けてる」となりかねないんだが、カメラは彼女の怯え切って見開かれる大きな目をひたすら強調する。二の腕は折れそうなほど細く、英語はたどたどしく舌足らずだ。

 ロンドンで働く神経質で潔癖症の女性キャロル(ドヌーヴ)が、同居する姉の不在をきっかけに精神のバランスを崩し、坂を転がり落ちるように病んでいく話。カメラはその様を執拗に、しかし冷淡に追い続ける。なんか山岸凉子の1980年前後の諸短篇っぽい。病んでいく若い女の視点で話は進むのに、作者(監督)の視点は俯瞰してる感じが。
 ヒロインが病む原因は外部(環境)にも内部(彼女自身)にもあり、後者はいろいろあるが、それらの一つが「主体性のなさ」であることは、本作でも山岸作品でも共通している。違いは、端的に言えばフェティシズムだなあ。山岸凉子もヒロインの狂気の描写にフェティシズムを感じさせるが、ポランスキーほど執拗じゃないし、何よりヒロインが抱える「主体性のなさ」に対し、断罪までは行かないものの少なからず批判的だ。
 一方のポランスキーは、この主体性のなさも含めて愛でてますね。なぜこの性癖(誤用)を、作品に昇華させるだけで済ませられなかったのか。
 まあもし山岸凉子が本作をコミカライズするなら、カトリーヌ・ドヌーヴのキャラデザ(顔の造りと体型)的に、『アラベスク』の頃の絵柄が一番合ってるんじゃないかと思いますが。でも当時の技法じゃ表現しきれんだろな。

 サイコ・スリラーに分類される作品で、その「スリラー」の演出が現代の感覚だとちょっと大袈裟に感じられる場面もあるが、全体に占める割合はわずかで、ほかは全部、今観てもスタイリッシュ。

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インセプション

『TENET』(2020)と『オッペンハイマー』(2023)を観る前だったら、無条件で大絶賛できたんだけどなあ。

『TENET』は途中で考えるのをやめて、映像と音を脳に流し込むだけになってたんだけど、それらにしたって「すげえ手間かけてんな」以上の感想が出てこなかった。物語が解りにくくても、なんか見入ってしまう映像作品というのはあるんだが、『TENET』の脚本は「すげえ手間のかかった映像」を撮るために敢えて複雑にした、とか疎かになった、とかじゃなくて、ただただ「観客にストレスを与える」ためだけに無駄に複雑な構成にしてるように思えてな。
 それが正しいのか邪推なのかは知らんが、いずれにせよ出来上がった映像は「すげえ手間かけてんな」で終わったのであった(なので感想は上げません)。
 クリストファー・ノーランのやりたいことは「すげえ手間のかかった映像」を撮ること、および無駄に複雑にした構成で「観客にストレスを与える」ことでしかないんじゃないか、という疑惑は、『オッペンハイマー』で確信に変わる。伝記映画なんで「すげえ手間のかかった映像」のほうは『TENET』のような「鬼面人を嚇す」類のものじゃなかったが、視点や時間軸をやたら交錯させた構成は、ひたすら観客にストレスを与えることだけが目的だとしか思えず、そんなしょうもないことのダシに広島長崎を使うな、と余計に腹が立ったのであった(そんで「すげえ手間のかかった映像」も「薄皮ペリペリ」かよ、という)。

 で、この2本の後に観た本作『インセプション』は、「夢」と「現実」が曖昧であるため複雑ではあるが、この曖昧さこそがテーマなので「無駄」ではなく、「すげえ手間のかかった映像」も、「夢を操る技術」の説明の雑さを補って余りある。先に観た2本で呆れ果ててなかったら、本当に楽しい体験だったろうになあ……
 本作を先に観ていたら、後で『TENET』と『オッペンハイマー』を観て、ああノーランが本当にやりたかったのは「無駄に複雑な構成で観客にストレスを与える」ことだったんだなあ、と気づかされても、『インセプション』では我慢出来て偉いじゃないか、となっただけだったろうが、この2本が先だったばっかりに『インセプション』を観てる間ずっと、「本当はもっと脚本を滅茶苦茶にして観客にストレスを与えたかったんだろうなあ」と思い続けることになってしまったのだった。そういう目で見ると、そもそもの『メメント』(2000)からしてね……

『TENET』と『オッペンハイマー』より先に観た『ダンケルク』(2017)は3つの視点から語られる構成だが、群像劇として巧く機能していると思ったし、これらより後に観ても「無駄に複雑にしやがって」と腹が立つこともなかっただろうになあ。

クリストファー・ノーラン監督作感想

『インソムニア』 
『ダークナイト』
『ダンケルク』
『オッペンハイマー』

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ブルータリスト

 2024年公開。タイトルは、エイドリアン・ブロディ演じる主人公が建築家で、作中の主な時代(1950‐60年代)に流行した「ブルータリスト」スタイルを得意とすることから、字義どおりに解釈すれば「ブルータリズムの建築家」であり、主人公を指す。ブルータリズムの特徴をものすごく雑にまとめると、現代でも「コンクリート打放し」が「おしゃれ」だという感覚があるのは、これの名残。
 ブルータリズムは特定の個人あるいはグループが創始したものではなく、第二次大戦後、早急な都市再建という需要に応えるかたちで、自然発生的に形成されていったらしい。コンクリート剝き出しの武骨で荒々しい(brutal)外見から、この名がついた。
 したがってbrutalistというタイトルは、「粗暴な/残忍な者」という意味にもなる。こちらの解釈だと、いったい誰を指すのか。

 映画とは映像芸術であり、映像でしか表現できないものを表現してこそだ、ということを改めて認識させられた、3時間20分(インターミッション15分を除く)の大作。自宅のノートPCの小さな画面で鑑賞したにもかかわらず、物語や役者の演技ではなく、映像そのものに圧倒され続けた。
 いや、さすがに3時間20分ずっと圧倒され続けてたわけじゃなくて全体の5割くらいだが、これまで観てきた映画の数々のうち、2時間前後の上映時間に対して30秒でも「圧倒的な映像」があるもののほうが少ないからね。
 もちろん、傑作と言わずとも名作・良作とされる映画は、美術、演技、アクションその他諸々を「引き込まれる映像」として撮っている。それら自体の出来がどれだけよくても、見せ方が悪かったらどないもならんからね。それでも良作レベルですら、作品まるごと「引き込まれる映像」だけから成っていることは少ない。本作は残りの5割も、この「引き込まれる映像」のレベルに余裕で達している。

 あと、音楽もすごくよかった。アカデミー賞で撮影賞だけじゃなく作曲賞も受賞しているだけのことはある。ただ、ちょっと不思議だったのは、BGMなのか作中で実際に流れている音楽なのか判らない曲が幾つかあったことだ。明らかに登場人物たちに聴こえているのに、音源がどこか判らん曲も。非現実的な印象を与える効果があったが、それを狙ってのことだったんだろうか。

 物語については……「圧倒的な映像」および「引き込まれる映像」を作り出すためのプロットとしては完璧だが、それ以外で評価するとなると……ホロコーストを生き延びた主人公ラーズローと妻、姪が抱える痛みが、直接的に表現されることが一切なかったのは、そういう意図だろうと予想できて、そう予想してなお、最後の最後に意表を突くかたちで真実が明かされるわけだが、その最後の最後までイスラエルがまったく無批判に「約束された楽園」として描かれ続けたんで、居心地の悪さが圧倒的に優っちゃった。
 製作に7年かかったそうだけど、今の惨状は映画公開の前年にいきなり始まったんじゃなくて、イスラエル建国以来の蓄積と醸成の結果じゃん。それを抜きにしても、ラーズローと妻はアメリカという国のブルータリズム(残酷さ)に絶望してイスラエルという「約束された楽園」へと脱出し、どうやらかなり幸せな余生を送ったらしい。しかしユダヤ系以外の難民は、どれだけ絶望しても、「約束された楽園」なんか用意されてないわけで。

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