CLOSE/クロース
2022年公開。ネタバレ注意。
ベルギーの片田舎。親友同士のレオとレミは、中学入学早々、その親密さを同級生たちに揶揄われる。女子は「付き合ってるの?」と尋ね、男子は「オトコオンナ」と呼ぶ。
アメリカが舞台だったら陰惨ないじめが始まるところだが、ベルギーの中学生たちはお行儀がよく、行為がエスカレートすることはない。厳重に監視していない限り見逃してしまうくらいの小さな摩擦であり、そのことで学校側を責めるのは間違いだ。子供たちも、社会全体の価値観をなぞっているだけに過ぎない。
実際、レミは大して気に留めない。というか、面と向かって言われると多少困惑するものの、もっと間接的な、たとえば好奇の目を向けられる程度では気づきもしないようだ。しかしレオはひどく気に病み、レミと距離を置くようになる。そしてアイスホッケーをやっている男子に接近し、自分もクラブに入会する。
レオは農家の息子で力仕事に慣れているお蔭か、ホッケーの練習にもすぐについていけるようになり、最初に彼を揶揄ってきた「ちょっと荒っぽい男子たち」とも打ち解けて一緒に遊ぶようになる。
レミは親友の変化に戸惑い、問い質そうとするが、レオは誤魔化すばかりでまともに答えない。巧く言語化できないのもあるんだろうけど、問題と向き合うのを避けたがっているようだ。
亀裂は決定的になり、互いに口も利かなくなる。とはいえレミは孤立したわけではなく、レオとは別のグループの子たちと仲良くやっているように見えた、その矢先に彼は自殺してしまう。
冬の初め頃だから、9月の入学から3ヵ月も経っていない。学校は生徒たちへの影響を心配してグループカウンセリングを行うが、皆、レミの思い出などほとんど持っていないので、「明るい子だった」「レオと仲が良かった」等、表面的なことしか言えない。レオは彼らに苛立つが、彼自身、レミについて何も語れない。
レミの母親はレオに、「何かあの子から聞いていない?」と尋ねる。両親ですら、自殺の原因が解らないのだ。中学生、それも男子じゃなあ……親に悩みは相談せんわな……レオも、おねしょをするほど心身に不調を来しているのに、誰にも胸の内を打ち明けようとしない。せいぜい、兄にいくらか甘えるだけだ。
冬が過ぎ、春が過ぎ、夏になる。レオはホッケーの試合で腕を骨折し、治療を受けながら泣き出す。レミが死んで、初めて流した涙だったかもしれない。夏休みが始まり、レオはバスに乗ってレミの母親の職場を訪ねる。彼女は産婦人科医で、新生児を抱きながらレオの前に現れる。
車で家まで送ってもらう途中で、レオはついに「僕のせいだ」と告白する。動揺した彼女に車から降りるよう言われ、レオは森の中に逃げ込む。すぐに後悔した彼女はレオを追いかける。彼女が見つけた時、少年は怯え切って木の棒を手にしていた。罰せられると思ったようだ。棒を振り上げるレオを、息子を失った母親は抱き締める。
腕の怪我が治ったレオは、レミの家を訪ねる。レミの両親は引っ越した後で、窓から見渡せる家の中は空っぽだった。
レオ役の新人、エデン・ダンブリンの容姿で4割もっている映画。4割が多く見積もりすぎだとしても、3割は切ってない。演技力も込みだと、彼一人で7割もってる。レミ役で同じく新人のグスタフ・ドゥ・ワールやレミの母親役のエミリー・ドゥケンヌ(『ジェヴォーダンの獣』のヒロイン。25年3月に癌で死去)も貢献はしてるんだが、替えは効く。レオ役だけは、ほかの誰がやっても違う作品になってしまっていただろう。
ルーカス・ドン監督はゲイだと公表しているが、少年二人の関係が同性愛かどうか明確にしないのはよかった。なんでも名前を付けて分類すればいいというものではない。そもそも12、3歳の性的指向なんて、まだ曖昧なものだ。
親密すぎるために同性愛を疑われる青少年の関係を描いた作品といえば、ピーター・ジャクソン監督の『乙女の祈り』(1994)がある。彼女たちの場合はあまりにも二人だけの世界に閉じ籠りすぎ、親が心配するのも解らんでもないが(基になった現実の事件ではどうだったか知らん。あくまで映画だけの話)、レオとレミは二人だけの世界に閉じ籠っていたわけではない。ここまで親密になったのは、どうやら近所に同年代の子供がほかにいないのが大きかったようで、二人とも社会性は普通にある。
だから本作で思い出したある個人的な出来事を、『乙女の祈り』では思い出さなかったのだろう。以下、まったくの余談。
子供の頃、近所に一学年上の友人(女子。とりあえずAとする)がいて、一緒に登下校していた。五年生(Aは六年生)の秋だから1983年のある日、下校途中の私とAは、仕事帰りのAの母親と行き会った。私たちが住んでいた地区は市街地から遠く、Aの母も普段は車で通勤しているのだが、この日は偶々徒歩だったのである(ちなみに小学校までは大人の足でも40分くらいはかかった)。
長野の秋は寒い。私とAが腕を組んで歩いていたのは、寒かったからという以上の理由はない。ところがAの母と並んで歩き始めて10分も経たないうちに、彼女はなんの前置きもなく言った。「女同士でベタベタして気持ち悪い。やめな」
大人が子供にそんなこと言う!?というのが、最初に思ったことであった。「気持ち悪い」というのはつまり、レズビアンみたいだから、というのは理解できた。ちなみに当時の私はまだ「レズ」という略称は知らなかったし、Aの母はおそらくレズビアンという言葉自体知らず、「おなべ」みたいだと言いたかったと思われる。
いずれにせよ当時、日本のどこに行っても小学生が同性同士で腕や肩を組んだりする程度の身体接触で、同性愛を疑って咎めるような風潮は皆無だった。もっと年齢の高い子供同士でも、少なくとも1回だけではそんなことにならなかったはずだ。
しかもAと私は学年が違うこともあって、お互い他の友人より特別仲がいいわけでもなく、家が近所だから一緒に登下校して、偶に互いの家に遊びに行っていただけである。そうしてAの家で一緒に遊んでいても特別親密な様子などなかったはずだが、偶々(寒いから)腕を組んでいただけでこの言われようである。
つまりAの母は「変な大人」の一人なのだな、と私は理解し、口答えすることもなく従ったが、そういう人を母親に持つAのことが気の毒だとは思った。
その後、Aとは二度と「腕を組む」レベルの身体接触をすることはなかったが、それ以外はまったく以前どおりの関係だった。私もAもAの母親も、あの件について蒸し返すことは一度もなく、またAが私に抱いていてくれた好意が、私がAに抱いていた好意と同じ種類の同じ程度のもので「なかった」と示唆されることも一度もなかった。
だからこのとおり忘れることこそなかったものの、無数のどうでもいい些細な出来事の一つに過ぎず、だから『乙女の祈り』を観た際に思い出すことはなかったんだが、後もう少しでもAと仲が良かったら、結構なトラウマになってた可能性がある、と本作を観て初めて気づいた。「腕を組む」という行為だけでなく、Aに対する感情まで咎められたと思っただろうからな。
そうはならなかったので、今改めて思い返してみても腹は立たないが、Aのことはやはり気の毒だと思う。
| 固定リンク

