参考文献録

『音楽好きな脳――人はなぜ音楽に夢中になるのか』 ダニエル・J・レヴィティン 西田美緒子・訳 白楊社 2010(2006) (「脳・神経科学」)
This is your brain on music
 著者は元レコード・プロデューサーの心理学・行動神経科学教授。
 今回書いたのはSFじゃないけど、一応こういう本も読んでおこうと思って。副題の「人はなぜ音楽に夢中になるのか」に期待して読んでみたんだが、音楽が脳の快楽・報酬系に関わってる、ということ以外は推論ばっかで、大して参考にもならんかったな。まあこの副題は勝手邦題なわけだけど。
 音楽の知識がない読者にも解るように書いた、ということだけど、楽器を全然やってない人には、やっぱ少々敷居が高いんじゃないかという気がする。

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参考文献録

『悪魔の詩』 サルマン・ラシュディ 五十嵐一・訳 プロモーションズ・ジャンニ 1990(1988)
The satanic verses
 一言で言って、『真夜中の子供たち』のほうが、ずっとおもしろかった。
 理由はいろいろと考えられる。まず、『真夜中の子供たち』のほうは、如何に混沌としていようと、対象がインド‐パキスタンの内部のものだけに絞られていたため、作品は完全にラシュディの制御下にあった。その手際はまさに魔術的である。
一方、『悪魔の詩』はインド‐パキスタンより遥かに巨大かつ複雑な事物を扱おうとして、結局扱い切れなかったように思える。
 失敗作というわけではないし、作品というのは綺麗にまとまってりゃいいというものでもないけどさ。「巨大かつ複雑な事物」というのは、具体的には「イスラムそのもの」と「インド亜大陸出身で欧化されたムスリムであること」だが、前者は明らかに手に余っているし、後者は後者で痛々しすぎる。
『真夜中の子供たち』で描かれたイスラム(およびムスリム)は、あくまでインド‐パキスタン内部のイスラムだったから、巧く扱えてたと思うんだけど。

 言っても詮無いことだけど、邦訳文もな……。イスラムおよび西洋文化(20世紀前半以前)への造詣の深さは申し分ないと思うんだけど、五十嵐氏の文章は上巻末で自ら言うところの「言語のサラダ」ではまったくないところがな……
 まったくもって言ってもしょうがないことなんだけど、ラシュディが耽溺している現代ポップカルチャーがことごとく取り零されていて、「博士の奇妙な愛情」が「奇妙な愛情先生」なんて訳されてるのを見ると泣けてくる。

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参考文献録

“Selected poems from the Divan-e Shams-e Tabrizi”  Jalaluddin Rumi tranlated & introduced by R.A. Nicholson  IBEX Publishers 2001
 邦訳の出ていないジャラールッディーン・ルーミー(1207-1273)の二冊の詩集のうち最初のほうの『シャムセ・タブリーズ詩集』の英訳。全訳ではなく選集で、48篇の詩を原文と英訳を併記し、巻末にかなり詳細な注釈を付ける。
復刊だそうだが(英訳者のニコルソンは1945年没)、初版の刊行がいつだか書いてない。しかし、こういう本がペーパーバックで出るアメリカが羨ましい。

 現代ペルシア語を齧っただけの私には、13世紀のペルシア語韻文なんぞほとんど歯が立たないが、歯が立つ部分も多少はあるので、原文付きなのはかなりありがたかった。英訳だけだと、いまいち解釈がはっきりしなくて。ペルシア語が日本語と語順が同じ(主語-目的語-動詞)なのは、結構大きいかもしれん。

“The Mathnawi the Spiritual Couplets” Maulana Jalalu-‘D-Din Muhammad I Rumi selected & translated by E.H. Whinfield  Watkins Publishing 2002
 ルーミーの後期詩集。未邦訳。日本語では『精神的マスナヴィー』というタイトルで紹介されている。イランではこちらのほうが評価が高く、「ペルシア語のコーラン」とまで言われてるそうな。
 これも全訳ではなく選集。原文無し。注釈はごく簡単なもののみ。解説も無し。つーか、英訳者のプロフィールとか刊行の経緯とか、一切記載がないんだけど。出版社の所在地はロンドン。一応検索してみたけどデータが出てこない。

 散文の短い物語の後に1~3篇の詩が付くという形式で、80組余りの物語+詩を収録。日本人研究者による紹介から判断する限り、物語の部分は抄訳のようだ。ルーミーの創作ではなく、伝承等を再話・再解釈したもの。仏教説話の「群盲象を撫ず」が、ほぼそのままの形で採録されてたりする(盲人が象を撫でるのではなく、暗闇の中に象がいるのであるが)。

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参考文献録

“The History of Bukhara”  Al-Narshakhi translated by Richard Frye Markus Wiener Publisher 2007
 ナルシャヒー(899-960)が943年にアラビア語で書いた『ブハラの歴史』を、1128年にクバヴィーという人がペルシア語に翻訳し、かつ別の史料から増補したものを、R・フライが英訳したもの(なお、アラビア語原典はすでに散逸している)。
 R・フライは中世イスラム史の専門家で、邦訳は出ていないようだが、日本人研究者の論文ではちょくちょく参考文献として挙げられている。

 英語は一応読める言語なのである。中国語も一応読める言語に数えられるが、中国語のイスラム史文献なんて、命に関わりでもしない限り御免蒙る(非中国語の音写が恐ろしいことになっているからである)。
 8世紀半ばのイスラムについて資料がない資料がない、と散々言ってきたが、実は一次史料は質量ともにそれなりに存在するのである。もちろんアラビア語原典は読む努力をする気もないが、最も充実した史料であるタバリー(923没)の『預言者と諸王の歴史』は英訳が出ているのである。が、私が必要とする範囲だけでも10巻分くらいはあると思われ(全38巻)、つまり充実しすぎてるのでよう読まん。

 中央アジアだけに限定すると、二番目に充実した史料がこの『ブハラの歴史』であり、こちらは巻頭・巻末の解説も含めて180頁ほどしかないので、言い訳が利かない。読むしかねーじゃん、めんどくせー。
 と不平たらたらで読んだわけだが、いやまあ、非常に役に立ちましたよ。重要な史料だけあって、多数の日本語文献で引用や内容紹介されてるのにお目に掛かってきてるんだけど、初めて知る情報も多く、しかも興味深い。130頁ほどの本文中、8世紀末以前の記事は100頁ほどだけなんだけどね。

 英文はかなり平易。しかし訳注が全然ない。本文中に多少、()付きで補足してある程度。こういう類の文献の翻訳で訳注なしって、日本じゃ考えられないんだけど。フライは『イブン・ファドラーンのヴォルガ・ブルガール旅行記』も英訳しているが、やっぱり訳注なしだそうな。
 巻頭・巻末に解説はあるが、まったく不充分。英文自体は平易だから読めはするが、解釈に苦しむ記述が少なくなかった。
 例えば27章、「白衣の人々」と呼ばれる集団の叛乱についての記事。バグダードから派遣された宰相ジブライール・イブン・ヤフヤーは彼らを打ち破り、指導者のハーキムを捕らえる。
「白衣の人々は、ハーキムを返してくれなければ撤退しないと告げるべく、ハーキムの腹心キシュウィーを派遣した。キシュウィーは新しいブーツを履いていた。彼が要求を述べていた時、ジブライールの息子アッバースが戻ってきて、ハーキムを殺したと告げた。ジブライールは直ちに、キシュウィーを馬から引き摺り下ろして殺すよう命じた。白衣の人々は(これを知って)叫びを上げ、武器を取り出し、戦闘を開始した。」

 ……えーと、この「Kishwi was wearing new boots.」って一文にはどういう意味が? 何か慣用句的なもののような気がするが、何しろ注釈がないので……

 あるいは25章、738年に殺害されたブハラの王についての記事。彼は隣国サマルカンドの王宮で殺されたので、家臣らが彼の遺体を引き取りにきた。彼ら(his servants)はremoved his flesh and brought his bones to Bukhara.
 これを「ブハラへと彼(王)の肉を運び去り、骨を持ち去った」と訳すと、別段問題はない。こういうくどい言い回しは、イスラム古典には特に多い。
 しかし同じ章には、このブハラ王は改宗者だったが実は背教者だった、と書かれているのだ。この場合、背教者とは、隠れゾロアスター教徒のことである。彼が背教者だったという根拠は述べられていない。だが上の文中、removed his fleshは、「彼の肉を取り除いた」とも読める。ゾロアスター教では、死体から肉を取り除き(聖なる動物である鳥や犬に食べさせる)、骨だけにして埋葬するのである。
 ブハラ王の家臣たちが、王の死体から「肉を取り除き、骨だけを国に持ち帰って」埋葬したのだとしたら、王がゾロアスター教徒であった動かぬ証拠だ。
でも、注釈がないから判断もできない。

 中国の「城」は、日本の「おしろ」と違って城郭都市のことだが、中央アジアでも町は皆、城郭を持っている。で、ブハラの首都をはじめ、ある程度大きな都市は城郭が二重になっていた。支配者の宮殿や貴族の邸宅、官庁舎などを囲む「内城」と、その外に広がる平民の町を囲む「外城」だ。
 本書では城格都市をcity、外城をwall、内城部分をcitadel(城砦)としている。二重城壁構造だという説明はない。欧米人読者はどうなのか知らんが(ヨーロッパの城郭都市のことはよく知らん)、日本人は説明がなければ混乱するよな。

 あとは誤字脱字が多いねー。アラビア語・ペルシア語その他の人名地名、用語等もひどいが、普通の英単語も結構間違ってる。正しいスペリングが推測できればいいが、できなくてまるっと意味がわかんなかったりする文も。

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参考文献録

『旧唐書』巻198 西域伝「波斯伝」「大食伝」 劉昫 945 (『二十五史舊唐書』 台北 二十五史編刊館 1956) 

「ぺるしあ」で変換すると、ちゃんと「波斯」と出るが(東洋史の人間以外、誰が使うのであろうか)、さすがに「たーじく」で「大食」は出ないな。ちなみにアラブのことですよ。
 標点本(訓点なし句読点付き)ですらない、まったくの白文。修士論文執筆時、つまり漢文読解力のピーク時でさえ、白文は苦手だったんだよ……訓点なんざ邪魔だし読点も別に要らんが、句点がないだけで、なぜこうも難解になるんだろうなあ。
 まあ念のための内容確認をしたいだけだったんで白文でも用は足りたし、白文でも県内の図書館に入ってるだけマシというものです。

「波斯伝」は卒論でも修論でも読んだけど、「大食伝」は初めて読む。
 中国の正史を読んでると、時々まったく脈絡なく変な一文に遭遇することがある。確か『隋書』か『北史』のどれかだったと思うが、「背中に鳥の足が生えた子供が生まれた」とか「頭が二つある子供が生まれた」とか。いや、まじで前後の脈絡と関係ないの。何が原因だとか、何かの予兆だとか、その後どうなったとか、一切なし。執筆者は何考えてたんだろ。
 そういうのんとはまた違うが、「大食伝」にも変なことが書いてある。イスラムの勃興について、というかムハンマド伝が、神ならぬ「人語を話す獅子」から啓示を受けたという怪異譚として記録されているのである。これと並んで、それなりに正確な情報(隋の開皇年間、大食の部族の中にクライシュ族があり云々)も記されている。

 アラブ(ウマイヤ朝)の使節は、651年以降、数年~十数年置きに唐を訪れ続けている。情報源は確保できていたわけだから、わざわざ人から人へと伝えられてきた不確かな話を採る必要はない。つまり上のどちらの話も、アラブの使節自らが唐朝政府に伝えたということになる。

 7、8世紀の段階では、通訳もしくは使節自身がペルシア人だったと思われる(中国語のできるアラブ人がまだいなかったから)。怪異譚のほうは、明らかにイスラムに対する無知じゃなくて悪意による歪曲だよな。人語を話す獅子云々の話は、当時、イスラムの知識が乏しいペルシア人たちの間に流布してた可能性はあるが、正式な使節団に加えられるくらいのペルシア人が、ムハンマドについてそこまで無知だったとも思えないし。
 この歪んだムハンマド伝が、ペルシア人の無知によるものだったにせよ悪意によるものだったにせよ、西側の史料には一切残らず、こうして中国側の史料にだけ残っているわけだ。

 人語を話す獅子の怪異譚に続いて、もう一つ奇妙な話も記されている。「大食の西の海には四角い石があり、六、七寸の小児が生る木が立っている。小児の実は人を見ると手足と頭を動かして笑う。摘み取るとすぐに死んでしまう」
 つまり「ワークワーク」についての記事である。情報提供者は、タラス河畔の戦いで捕虜になり、12年後に帰国した杜環らしい。誰も、まさかこれが日本のことだとは思わずに、繰り返し引用されていくうちに、「大食国は西の海の中にあり、人の頭の実がなる」という話になって、江戸時代には日本にも伝えられる、と。

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参考文献録

『真夜中の子供たち』 サルマン・ラシュディ 寺門泰彦・訳 早川書房 1989(1981)
Midnight’s children
 今回、参考文献として読んでいる小説の条件は、①「東アジア以外の作家による」、②「近代以前の中国北西部~中東が舞台の歴史小説」もしくは「近代以降の中国北西部~中東が舞台の幻想小説」もしくは「近似の異世界が舞台のファンタジーやSF」なので、いくら主人公がムスリムでもインド‐パキスタンは地理的条件から少々外れる。それ以上に、ラシュディ作品はなんというか読んでしまうのがもったいなかったので避けていたのである(『ハルーンとお話の海』は読んだけど)。

 しかし読むものがなくなってしまったので、とうとう読む。いや、もしかしたら上記の条件で読んだ本の中では一番おもしろかったかもしれん。けどやっぱり、インドはインド以外の何ものでもないな……
 イスラム的要素が占める割合はかなり大きいし、特に『千夜一夜』のイメージがしばしば持ち出されていて、もしかしたら欧米人にとってはインドも中東・中央アジアも一緒だということなのかもしらんが、一応東洋史研究者だった日本人にとっては、これらははっきり区別されるべきものである。

 イスラム的要素にしても、なんというかすっかりインド化している。そして本書で描かれるイスラムを包含したインドは、イスラムについて描かれないインドよりも一層混沌として豊かだ。
 印象としては、『スラムドッグ$ミリオネア』に非常に近かった。インドの凄まじい混沌や疾走感だけはなく、宗教の混淆が端的に描かれているところが。『スラムドッグ』の主人公はムスリムの少年で、母をヒンドゥー教徒たちに殺された直後、スラムの路地でシヴァ神を幻視する。『真夜中の子供たち』のインドも、そういうインドである。

『スラムドッグ$ミリオネア』感想

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参考文献録

『世界で最も危険な書物――グリモワールの歴史』 オーウェン・デイビーズ 宇佐和通・訳 柏書房 2010(2009) (「西洋神秘思想」「ラテンアメリカの宗教」「オリエンタリズム」)
Grimoires: a history of magic books
 著者はイギリス人。挙げられてる書名が全部原文ママで、その本を探したい人にはありがたいと言えそうだが、その実、英語以外の本のタイトル(ラテン語とかフランス語とか)の英訳まで原文(英語)ママで、それって意味あんの? 日本語訳も付いてない。ラテン語ほかラテン系諸語のタイトルは、まだなんとなく意味が解るけど、ドイツ語は全然知らんから全然解らん。超うざい。

 偽書の歴史について調べる関係で読んだ本。第5章「古代魔術の再生」で、オリエンタリズム(東洋学)の歴史に触れている記述は、ちょっとした拾い物だった。オリエンタリズム史の本はいろいろ読んだけど、中世ヨーロッパの「架空の国としての東洋への畏怖や憧憬」(アレクサンドロス大王とかプレスター・ジョンとか)からナポレオンのエジプト遠征までの数百年が空白だったからね。まあ、もはや今さら次作の参考にはならないんだけど。

 エクアドルのケチュア族は、名前を書かれると死ぬ「魔女の本」を所有するゴンザーロという聖人が信仰されていて(背中に剣を突き立てられ、顔から血を滴らせた姿で表されるという)、「魔女の本」の管理を職業とする者もいる。人々はこの本に敵の名前を書いて呪ってもらうため、あるいは書かれてしまった自分の名前を消してもらうために報酬を払う。「魔女の本」は呪文や紋章が書かれた本ではなく、罫線が引かれたノートだそうな。
 それなんてデスノート……(これはつまり、先住民にとって名簿というのは白人による支配の道具だった、ということなんだけど)

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参考文献録

『アラブが見た十字軍』 アミン・マアルーフ 牟田口義郎/荒川雅子・訳 ちくま学芸文庫 1986/2001(1983)
Les croisades vues par les arabes
 レバノン人ジャーナリストがフランス語で書いた本。

 そういえば、こういう本があったのを思い出したのである。出た当時、ずいぶんと話題になったのは憶えている。中学二年の時か。新聞や雑誌の書評を幾つも読んだし、同じリブロポート社の『アラブが見たアラビアのロレンス』は刊行(88年)の一、二年後に読んで、その十年後くらいにも再読してるから、なんとなく『十字軍』のほうも読んだような気になってたんだけど、そういや、読んでなかったのであった。

 同じ「中世イスラム」とはいえ、8世紀半ばの中央アジアと11世紀末以降の中東とじゃ開きがありすぎるので、参照するつもりはなかったんだが、軍事関係の資料のあまりの少なさに……
 いや、すでに数ヵ月前に1冊読んでみたんだが、あまりの内容のなさに、どうせほかもこんなもんだろうと決め込んでいたのである。で、先日、この本のことを思い出したのであった。

 読んでみてよかった。個別の戦いの戦術について、予想以上に詳しく書かれている。時代や場所が違うとはいえ、「前火砲時代の乾燥地帯の戦争」の個別の戦術についてちゃんと書かれた資料は、今まで読んだ中では唯一これだけだ……ありがたくて涙が出そうである。
 それとは別に、内容自体もおもしろかった。フランス人読者向けなので解り易く書かれているし、あくまでイスラム側を中心にしながらも、暗殺教団の跳梁など、西洋人が興味を持ちそうな話題が大きく取り上げられている。
 
 十字軍といえばフランク人(西洋キリスト教徒)の蛮行であるが、著者はそれらを語る時、悲憤慷慨の口調ではなく皮肉なユーモアを選んでいる。そもそも、著者が多分に依拠しているアラブの年代記作家たちの記述が、皮肉なユーモアに満ち満ちているのである。例えば十字軍時代末期、ルイ9世がエジプトを侵略したが敗れて捕虜になる。彼は後に釈放されフランスに帰れたのだが、その際、エジプト人に次のように説教されたのであった。

「なんじのように良識もあり、知恵と教養の持ち主が、どうしてこのように船出して、無数のムスリムが住む地域にやって来たのか。われらが掟によれば、このように海を渡った男は法廷では証言する資格がない」
「それはまた、なぜ」と王は尋ねる。
「頭が少し足りない、と思われるからだ」

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参考文献録

『ボスニア物語』 イヴォ・アンドリッチ 岡崎慶興・訳 恒文社 1972(1945)
Travnička hronika
 同じ作者の小説を短期間で三冊以上読むと、飽きてまうのであった。たぶん、作者の癖(好みや考え方も含めて)が解ってきてしまうからであろう。おもしろいかおもしろくないか、というのは、あんまり関係ないようである(あんまりにもおもんなければ、そもそも三冊も読まないが)。作者自身が見えてきてしまうのが、嫌なのかもしれない。
 だから、おもしろいと思った作者の本は、できるだけ時間を置いて読むことにしている。一冊目と二冊目の間でも二、三週間以上置きたいし、二冊目と三冊目の間は少なくとも半年は置きたい。
 しかしアンドリッチ作品は、資料として読んでる上に、存在を知るのが遅かったのである。そしてもうじき脱稿してしまうのである。だから二冊目から三冊目の間は約二ヵ月しか置けなかったのであった。

 おもしろかった。原題は「トラヴニク年代記」の意。トラヴニクは、オスマン・トルコ領ボスニアのトルコ太守の駐在地だった町である。1806年、ナポレオンはこの地に初めてフランス領事館を置く。1814年、ナポレオンの失脚によって領事館が閉鎖されるまでの、この町のできごとが描かれる。
 全28章(+プロローグ・エピローグ)から成るこの作品は、一応、フランス領事ダビーユが中心となっているが、28のエピソードから成る連作といったほうがいいかもしれない。
『ドリナの橋』は、国境の川に架かる橋の、建設から破壊までの300年以上にわたる歴史を描いた、より年代記的な作品である。これも構成としては小さなエピソードの集成だったが、橋の建設の数年間(十数年間だったかもしれん)と破壊の前の数十年間に多く紙幅を割き、その間の200年以上がかなりはしょられていて、ややバランスが悪く感じられた。

 一方、『ボスニア物語』は、いずれも短い各章(長くても30頁弱)で語られるエピソードの比重は、ほぼ完全に均一である。例えば第16章では、セルビアで反乱が起き、トラヴニクでもムスリムたちがセルビア人を捕らえて処刑し始める。オーストリア領事館に務める医師がこれを制止しようとし、暴徒と化した人々は彼をも殺そうとする。激昂した医師は、「おまえたちより私のほうが遥かに正しい回教徒だ」と宣言する。
キリスト教徒で、しかもオーストリア領事館の医師の「改宗」に驚嘆した人々は、彼を恭しく家に送り返し、処刑も取りやめになる。町中、このニュースに持ち切りになるが、その夜のうちに医師は謎の死を遂げてしまう。医師はムスリムとして葬られ、それと同時に町を覆っていた狂乱は沈静化し、急速に秩序が回復する。

 私を含めた普通の作家だったら、こういうエピソードは非常に劇的に描いてしまうだろう。だがアンドリッチは非常に淡々と記述し、しかも他のエピソードとまったく同じ比重で扱っているのである。このエピソードや、あるいは1813年に新しく赴任したトルコの太守が、とてつもない残忍さを発揮して人々を虐殺するエピソードが、床屋見習いのムスリムの少年がオーストリア領事の娘に仄かな恋心を抱くといったエピソードと完全に同等に並べられているのだ。

『呪われた中庭』と『ドリナの橋』はいずれもボスニアを内部から描いた作品である。ボスニアの人々は宗教や民族がなんであろうと、「彼ら」として描かれることはない(『呪われた中庭』所収の最初期の短編はその辺不徹底だが)。アンドリッチ自身は代々カトリックの家系だそうだが、特定の民族や信者だけが「我ら」とされることはない。
 また余所者であっても、ボスニアに住みついてしまえばもはや「彼ら」ではない。余所から来て立ち寄っただけの人々は、東洋人であろうと西洋人であろうと「彼ら」として扱われるが、あまり比重を置かれていない。
 それに対し『ボスニア物語』は、主にフランス領事やオーストリア領事の視点から描かれる。
「東洋」に赴いた欧米人が、その野蛮さを嫌悪したり、なんとか理解しようと苦闘したりする記録は無数にあり、そういう視点で描かれたフィクションもまた無数にある。『ボスニア物語』のフランス領事もオーストリア領事も実在の人物をモデルにしており、それもフランスおよびオーストリアの外務省に保管された資料の綿密な調査によって造形されている。

 異邦人「彼ら」を創作し、「我々」の社会を眺めさせる、という風刺作品は初期のオリエンタリズム作品に少なくない。この場合、異邦人の造形は「高貴な野蛮人」にせよ「東洋の賢人」にせよ、「我々」の社会を風刺するという以上の役割はまったく持たず、考証もほぼ無視される。後代のオリエンタリズム作品に於ける「彼ら」のほうが、まだしも主体性があると言える。
『ボスニア物語』のフランス領事やオーストリア領事たちは、「我々」として「彼ら」ボスニアを眺める。しかし彼らはボスニアからすれば、立ち寄っただけでいずれ去っていく「彼ら」なのである。
 つまり、「彼ら」(ヨーロッパ領事たち)に「我々」(ボスニア)の社会を眺めさせる、という構造なのだが、アンドリッチは別段ボスニアを風刺してはいない。むしろこの構造は倒立して、「我々」という高処から「彼ら」ボスニアを見下ろしているつもりのヨーロッパ領事を風刺しているとも言える。

 いや実に、彼らがボスニアという「東洋」を理解しようと苦闘したり、理解不能なんだと嫌悪したりする様子は、まさにパロディなのである。
 善良だが凡庸な人物として描かれるフランス領事ダビーユの「東洋」に対する反応は、パロディかと思えるほど典型的だが、それに対し、「新時代」の申し子である副領事デフォッセはボスニアを肯定的な目で眺め、理解しようとし、しかも易々とそれをやってのける。
 そのためデフォッセは、ダビーユよりもずっとトラヴニクの住民たちから好かれるのだが、それでも彼の共感も理解も、あくまで上から見下ろしたものでしかない。

 トラヴニクにはユダヤ人たちも住んでいる。彼らは15世紀にイベリア半島から逃げてきた人々であり、古いスペイン語やポルトガル語を使い続けている。彼らはキリスト教徒よりもさらに不安定な立場に置かれており、残虐な新任太守によって搾り上げられるだけ搾り上げられる。
 フランス領事館が閉鎖されることになると、その頃にはトラヴニクの人々も領事ダビーユにそれなりの親しみを感じており、特にユダヤ人は自分たちを公平に扱ってくれたことに感謝していたので、ダビーユに帰りの旅費を工面しようと申し出る。すでに領事の給料は打ち切られてしまっていたのである。
 ダビーユは感激し、喜びのあまり冗談で、「太守にあれだけ絞り取られたのに、よく金が残っていましたね」と言う。ユダヤ人は、「私たちは常に金を隠し持っているのです」と答える。ダビーユはおもしろい冗談だと思っていっそう喜ぶ。ユダヤ人が「そうしなければ、私たちは生きてこられなかったのです」と説明しても、まったく通じない。
 この痛ましいほどの彼我の断絶のエピソードを最後に置いて、『ボスニア物語』は終わる(プロローグで町の住民たちがヨーロッパ領事赴任の噂に、「本当に領事とやらが来たとしても、何も変わりはしないだろう」と結論し、エピローグで再び住民たちが「やっぱり何も変わらなかった」というのは、ちょっと紋切り型すぎるな……いいんだけど別に)。

 昔の邦訳作品は往々にして、原語がなんであるかも、直接訳したのか或いは重訳なのかも記されていないが、1972年刊の本書も例に漏れず。訳者がユーゴスラビア日本大使館勤務の人だし、published by prosveta beogradとあるから、たぶん原語(クロアチア語?)からの訳なんだろう。しかしカタカナ表記の混乱ぶりからすると、英訳からの重訳か、少なくともかなり依拠してるんじゃないかとも思われる。
 文化の坩堝の話なので、外国語(原語にとっての)を原語表記したものをさらに日本語(カタカナ)表記しているので、えらいことになっている。訳者の苦労は偲ばれるものの、表記法に脈絡がない上に、明らかな無知が多々見られる。
 訳注付きで「ユレマ(回教徒の神学博士)」「ハリハ(回教国の王)」とあったが、現在よりイスラムについての一般知識が限定されてたとはいえ、「ウラマー(ウレマー)」「カリフ(より正確には「ハリーファ」だけど)」くらいは岩波とかの『世界の歴史』レベルの概説書ではすでに表記が確定してただろう。

 上の二つは訳注付きだが、固有名詞や役職名等、明らかに訳者が解ってなくて、原語表記に適当にカタカナ表記を当てたと思われるものも少なくない。
 ジャラール・ッディーン・ルーミーが「イエラレディン・ロウミイ」となってたのには、いったい何事かと思ったよ(当時でも、まったく知られてなかったということはないと思うんだが)。マルクス・アウレリウスが「マーカス・アウレリュース」とか……

「アレキサンダー大王」「オットマン・トルコ」等は、当時の「日本人に馴染みのある表記」にしたんじゃないかと思うんだが、正教が「オーソドックス」、プリニウスが「プリニイ」、サンクト・ペテルブルグが「セント・ピータースブルグ」になってるので、やっぱり英訳に拠ってるんじゃないかという気もする。
 あるいは、同じ語でも表記が不統一だったりとか。「イエナ」だったり「ジェーナ」だったり、「モスコー」だったり「モスクワ」だったり、「正教」だったり「オーソドックス」だったり、カトリックの修道士たちの称号が「ブラザー」だったり「フラ」(「兄弟」の意)だったり。
 
 誤字脱字が多いのは、古い本だから仕方ないんだろうな(「爪」が全部「瓜」になっとる)。
アンドリッチがうっかり再注目されるようなことがあっても(映画化とか?)、すでにある邦訳がそのまま復刊されるのがせいぜいで、新訳とか改訳って事態にはまずなるまい。だからこれらの混乱が訂正される機会は、永遠にないんだなあ……訳文自体は問題ないんだけどねー。

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参考文献録

『片道切符』 ディディエ・ヴァン・コーヴラール 高橋啓・訳 早川書房 1995(94)
Un aller simple
 この作品を「オリエンタリズム」の観点から読む人はあんまりいないと思うんだけど、そう読んでみる。

 近代西洋史は文学史も含めてあんまり詳しくないんだが、近代以降の白人は、人生に行き詰まると北アフリカに行く。
 北アフリカがそういういわば「ゴミ白人捨て場」と化したのは、もちろん植民地主義の産物である。まず19世紀、実際に当地が本国(ヨーロッパ)で失敗した連中の吹きだまりとなり、次にそれがロマン化されて文学等の題材になり、影響された連中がさらに押し寄せ、それがさらに題材となって……といったところだろう。
「ロマン」というのはこの場合、冒険ではなく、「人生を遣り直す」という極めて近代的なものである。「再生」というか「癒し」というか。いずれにせよ、彼らが必要としているのは荒々しい自然やら異文化やらのエキゾティシズムだけであり、別に異郷だったらどこでもいいんだが、やはり「ゴミ捨て場」であった歴史が一番長く、そのテーマの作品の舞台として最もメジャーなのが北アフリカなのである。北アフリカにとってはいい迷惑だ。
 あと、西ヨーロッパ人からすれば、北アフリカはほかの「異郷」より距離が近い。その点でもお手軽である。で、西欧作品の影響を受けて、北米人も北アフリカに行く。東海岸からだったらそう遠くもないしな。ロシア人にとっての北アフリカはカフカスである(現在はどうだか知らんが)。

 北アフリカを含めた異文化圏をそういうお手軽なロマンの舞台とするのを皮肉り、異文化圏へ行った白人が「帰れなくなる」恐怖をテーマとした作品もある。代表的なのはボウルズの『シェルダリング・スカイ』であろう(これは映画版しか知らない。原作は読むつもりでいたんだが、ほかのボウルズ作品を三作続けて読んだら飽きちゃったのである。まあいずれ別の機会に読みます)。
 このテーマ(「帰れなくなる」)であっても、根底にあるのは白人の優越感である。自分たちが「現地」の人や状況をコントロールできるという信念がまず前提となっているから、そうできなくなることに対する恐怖も生じるのだ。この「植民地主義根性」「サヒーブ根性」を作者が自覚し、それをも風刺する場合もあるが、作者に自覚がなく、ただ無邪気に「帰れなくなる」恐怖を描くか、それを絶望という糖衣にくるんでさらにロマン化する場合もある。ボウルズはどうも後者のような気がする。

 で、ようやく本題。『片道切符』の主人公は、フランスでジプシーに育てられた「モロッコ人」青年である。おそらく本来はフランス人であり、容姿からして金髪の、記号的な白人なのだが、ちょっとした行き違いでモロッコ人移民ということにされてしまったのである。
 本人は、ほとんど象徴的なまでに「無垢」な存在であり、「フランス」「ジプシー」「アラブ・イスラム」にちょっぴりずつ足掛かりを置いて、それなりにアイデンティティを確立している。しかしジプシーのコミュニティは彼を余所者として締め出す。フランス政府の手に引き渡された彼は、「故郷」であるモロッコへと「送還」されることになる。
 ただし単なる強制送還ではなく、不法移民を故郷で社会復帰させるという「人道的プログラム」の第一号として、「人道担当官」なる役人が同伴するのである。かくして、このモロッコ人ではないモロッコ人青年の、ありもしない故郷への珍道中が始まる。

 主人公の青年はお伽話的もしくは寓話的に無垢であり、モロッコについて知識もない代わりに偏見もない、いわば「聖なる無知」である。「純粋な」眼差しでもってすべてを受け入れる。まあ、フランスが舞台のままであれば、こういうキャラクターを置いておくだけで風刺になるが、モロッコに連れてくると話が成り立たなくなる。彼のアイデンティティはあくまで「フランスでジプシーに育てられたモロッコ人」であり、本物のモロッコ人になる気など毛頭ないのである。
 そこでモロッコ篇は、主人公ではなく人道担当官がメインになる。彼は「故郷へ帰るモロッコ青年」にロマンを投影し、モロッコにもロマンを投影し、両者がそのロマンに沿ったものであることを望む。主人公はとても優しい青年なので、人道担当官が望むとおりに作り話をするが、モロッコは彼の願望どおりに振る舞ってくれないので(貧しく不潔な上に観光地化している)彼を失望させる。

 それでも人道担当官はロマンに固執し続ける。彼のロマンとはすなわち、彼自身がアイデンティティを取り戻すことなのである。実は彼は、アルザスの製鉄工の息子として生まれた作家志望だったのであった。故郷にも馴染めず、パリに出たはいいが作家にもなれなかった彼は、二重にアイデンティティを喪失した人間である。
「モロッコ青年の故郷への旅」に同伴することで、人道担当官は自己のアイデンティティを回復していくのである。まず物語る力を取り戻し、さらに捨てた故郷の思い出へと回帰していき、そしてついに「帰れなくなる」。

 まあつまり人道担当官をメインにすると、白人が北アフリカに己の内面の問題を勝手に投影するだけの典型的な話でしかない。「片道切符」というタイトルどおり、「帰れなくなる」話なわけだが、死の直前に彼はアイデンティティを取り戻しているので、「再生」の物語ではある。
 彼の旅の道連れである「モロッコ青年」がモロッコ青年なんぞではなく、その故郷も存在しないので、スラップスティック的な風刺が生まれているが、モロッコ人(非白人)とモロッコ(異文化圏)が白人の自己投影の対象でしかないことには、従来のオリエンタリズム作品と変わりがない。

 モロッコを舞台にしているものの、この作品はオリエンタリズムをおそらく意図的に排除しようとしている。風物のエキゾティシズムはほとんど強調されいないし、オリエンタリズムに付き物の「官能」を担当するのは、現地女性ではなくフランス人女性でしかも不感症である。イスラム圏に於いて物語るといえば『千夜一夜』であり、作中にも「アラブの語り部」という表現が一ヵ所出てくるので、著者も念頭に置いていると思われるが、特に強調はされていない。
 あと、オリエンタリズムな紋切り型の一つとして、主人公と恋仲になる女もしくは男が、「実は白人」というのんがある。白人だけど非白人に育てられた、とか、片親が白人だとか(インディアンものにも結構ある)。たぶんそのほうが白人読者にとってお手軽なんだろう。まったくの非白人だと距離感があり過ぎるから。その上、貴種流離譚的なロマンも生じると思われる。
 主人公は「実は白人」(御丁寧にも金髪である)なのだが、この場合、上の効果を狙ってはいないと思われる。単に、デラシネっぷりを強調しているだけなのだろう。

 しかしオリエンタリズムの根源的な問題は、白人にとって「オリエント」が自己投影の対象以上のものでないところにある。オリエントという他者が身に着けた金属製品などに映った己の歪んだ小さな像を、一生懸命描写しているだけだ(虹彩に映った像かもしれない)。他者本人や服装、体臭やら何やらは、ひっくるめて「鏡」の装飾部分だとしか思っていない(オリエンタリズム作品の「異国情緒」がこれに当たる)。「オリエントという他者」が主体性のある一個人だなどとは、想像もできないのである。
だからこの『片道切符』は見事にオリエンタリズム作品だし、とりあえず私は作者のコーヴラールがその点にどれだけ自覚的であるのかが、よくわからんかった。

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