佐藤亜紀明治大学特別講義INDEX

 佐藤亜紀先生の『小説のタクティクス』が刊行されましたので、その基となった明治大学特別講義(2007~2009)のレポートを「鑑賞記」のカテゴリーから拾ってみました。

 といっても、2007年度は1回しか行けてませんし(当時は関西在住だったので)、関東に移住した2008年からは毎回受講しているものの、レポートを上げることができなかった回もあります。いや、レポートをまとめるのは、かなりというかずいぶん大変だし時間もかかったんですよ。
 そんなこんなですし、講義内容から私が考えたこと(要するに余談)もかなり混じってたりしますが、それなりにライヴ感もあるし、『小説のタクティクス』との比較もできるのではないかと。

 2007年度第4回

 2008年度第1回
        第2回‐① 第2回‐② 第2回‐③ 
       第3回‐① 第3回‐② 
       第4回‐① 第4回‐② 
       (第5回はレポートなし)

 2009年度第1回  
       第2回‐① 第2回‐② 
       第3回 
       第4回 
       (第5回はレポートなし)

 
 

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2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第4回

 まず、これまでの講義でも幾度か提示された、ゴヤの「五月二日」と「五月三日」。1814年、二枚一組として描かれたものである。

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 両作品の構図上の違いは、ダイナミズムの有無、言い換えれば高さの有無である。「二日」は、馬に乗った人物と乗っていない人物とを配することで、画面に高低を作り出している。

754px1  この手法を多用したのがドラクロワで、端的な例がこの1827年の作品。えーと、日本語タイトルが判らないんだが、英語タイトルは"combat of the giaour and pasha"(異教徒とパシャの戦闘)。這い蹲る人物によって、馬の高さが殊更強調されているが、実際、騎乗した人間は高いのである。ちょうど肩車したくらいの高さ。

「五月二日」は、ドラクロワに比べれば高さはそれほど強調されていない。そして「三日」に至っては、まったく平坦な構図である。つまり、ダイナミズムというものが削ぎ落とされている。

 暴力をどのように捉えるのか。それによって、暴力を描く上で何が変わってくるのか。
 ゴヤが描いたのは政治的な暴力だが、ドラクロワは絵も本人もマッチョである。彼は実際に北アフリカに赴いているのだが、かの地に「ヨーロッパではすでに失われた男性性の極致」を見出した。
 そうして馬上(高い場所)で行われる総合的な暴力という形で、暴力の最も「高貴なもの」を捉えようとした。

 ヨーロッパの日常では、暴力はまったく高貴でないことを、ドラクロワはよく知っていた。暴力を高貴なものとして描くには、舞台をヨーロッパであっては駄目で、そして北アフリカに「失われた高貴な暴力」を見出したのである。

Eugc3a8ne_delacroix__la_libertc3a9_ 「民衆を導く自由の女神」(1830)。革命を、暴力として表現する。「暴力を導く女神」が最も高い位置に配されている。

「秩序を作り出し、維持する」ものとして機能する暴力は、「ハリウッド的暴力」である(実際にはハリウッド映画にもいろいろあるのだが、ここでは敢えて解り易い喩えとして)。我々も楽しむことのできる暴力である。
 このような暴力の表現は、その先にあるものに直面したことがない者の表現である。

 ゴヤ的な暴力は、秩序を作り出しもしなければ維持もしない。無意味なものである。現実に暴力をいきなり向けられた時、それがドラクロワ的な暴力(有意義な暴力)だとは誰も思わない。まず感じることは、「起こってはならないことが起こった」であるはずだ。起こった瞬間には、それは完全なカオスである。いったい何が起きたのか(例えば馬鹿なガキに財布を強奪された等)判断するのは、後付けになる。

774pxfrancisco_de_goya_y_lucientes_  再び、「五月三日」。銃殺する者たちの顔は、こちらからは見えない。帽子を被って顔を伏せているので、殺される者たちからも見えていない。
「銃殺」を描いた絵画は、おそらくこれが最初で、そして以後の「銃殺の絵」はこの構図が定番となる。

Manet_maximilian00  半世紀余り後に描かれた、マネの「マクシミリアンの銃殺」(1867)。「五月三日」の影響の下に、というか構図を借用して描かれている。塀の上の見物人たちも、「黒い絵」からの借用らしい。構図だけでなく、ざっくりした描き方も似ている。

 ゴヤ自身が目撃した光景を描いた「五月二日」に比べ、マネはメキシコ皇帝マクシミリアンの銃殺(同年の1867年)をもちろん目撃しておらず、いくらゴヤの時代よりも銃の反動は弱くなってるにしたって、その足の構えはないんじゃないの、という代物だが、違いはそうした表面的なものだけではない。
 決定的な違いは、「不穏な暴力性」が削ぎ落とされていることである。銃殺する兵士たちの顔が見えていないのは同じだが、指揮官の顔は見えている。
 ゴヤが殺す側の顔を描かなかったのは、殺される側にしてみれば、相手が誰であろうと同じことだからである。マネは、そうした暴力の本質を無視している(おそらく理解していない)。

 マネがやったのは、ゴヤの表現から内実を抜いて、「平面的な表現」を確立させたことである。スタイルだけ真似たわけだ。

Goya_balcon00 Manet_balcon00 Delacroix
 左から「バルコニーのマハたち」(1808-1812)、マネの「バルコニー」(1869頃)、ドラクロワの「サルダナバロスの死」(1827)。

 マネが再びゴヤから構図を借用しているのは言うまでもないが、もう一つ借用しているものがあって、それは「サルダナバロス」にも見られる「ダンディズム」である。
 どういうダンディズムかといえば、「手許にいい女を置いといて、かつそれに無関心」というもの。

Re09  それをより解り易く描くと、ルノワールの「桟敷席」(1869頃)になる(同席する綺麗な女には目もくれないでオペラグラスで他所を眺めている)。

 ゴヤの「マハたち」に背を向けた黒衣の男にも、ドラクロワのサルダナバロスにも、どっぷりと濃いいダンディズムが立ち込めているわけだが、マネはそこから「濃さ」を取り除いたものを、「おしゃれ」に成立させているのである。
 マネの「功績」は、ゴヤ的なものにせよドラクロワ的なものにせよ、内実のない形式だけを継承し、形式だけを表現として確立させた、ということ。

 マネがゴヤから形式だけを模した時、抜け落ちたのは何なのか。
「五月三日」と『ユナイテッド93』との共通点は、高さが均等であること。つまり殺す側と殺される側の両者を同じ「低さ」で描いている。
 えーと、私は『ユナイテッド93』は未見なのだけど、「同じ低さ」というのはもちろん画面上の構図のことではない。飛行機の操縦などできもしないのに操縦棹を握るテロリストも、阻止するために扉をぶち破ろうとする乗客たちも、どちらも必死で、神に祈っている。どちらの神も同じ「唯一絶対神」である。立ち位置が均等だということ。
 ゲリラと民間人の区別がつかない状況では、必ず凄惨な殺し合いが起きる。ゴヤの連作「戦争の悲惨」は、基本的にフランス軍の暴虐を描いたものだが、幾つかはスペイン人の報復も描いている。どちらも同じくらい残虐である。

 ゴヤ的な経験を一口で言うと、「他者である世界」を見てしまった、ということ。それを表現する時、ヨーロッパ美術の方法論、すなわち人間を「リアルに」(立体的に)描く手法では不可能であり、だから「五月三日」の人物はあんなに平坦に描かれているのである。
 描かれているのは、一方の他方に対する暴力だが、暴力を振るう側を非難するのでも正当化するのでもない。フランス兵から軍服を剥いでしまえば、殺される側と区別がつかなくなる。人物の平坦さは、そうした「均等さ」の表現でもある。

 そのように描かなければ到底表現することができなかったゴヤの体験をきれいに抜き去って、平坦さだけを表面的に模したのがマネなのである。

 他者というのは、何を考えているのかわからない、次の瞬間何をするのかわからない、ルールというものをまったく共有していない、本質的に不気味な存在である。そして世界そのものも、次の瞬間何が起こるかわからない、これまでずっと平穏だったからといって、これからも平穏である保障などまったくない以上、やはり「他者」である。
 しかし「次の瞬間何が起こるかわからない」などと常に意識し続けていては、まともな生活など到底送れなくなってしまうから、我々はそのことから目を背けている。
 他人にそのようなことが起こっても、「これこれこういう理由で、あんなことが起こったのだ」という物語を被せて、世界の他者性そのものは見なかったことにしている。

 9.11当時、あれに被せることのできる物語はなかった。そして大勢が口をそろえて言った言葉が、「リアルじゃない」。つまり「リアリズム」とは、他者を物語的に回収する行為である。

「五月三日」は、巧い絵でも美しい絵でもない。ということは、絵画として駄目だということである。
 絵として良いとか悪いとかいうのは、安定した価値観である。ただし、その「安定した価値観」、審美眼を獲得するだけでも結構大変なことではある。薄皮一枚という限定された場の上で共有される価値観という約束事によって描かれた絵であっても、鑑賞者にとって「他者」であることは変わらない。そうした作品をきちんと「見る」ということが、一生かかってもできない人のほうが多い。

 世界の異様さは、小さな水の一滴の中にも見出すことはできる。だがその表現は惰性になってはいないか――という問題提起が為されたところで、今年度講義あと一回を残して今回は終了。

2009年度講義第3回

特別講義INDEX

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2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第3回

 作品の読解として一番お手軽な方法は、作品を作者のライフストーリーとくっつけて語ること、である。実際に佐藤氏はかつて、某女性誌からそのような切り口でエッセイを書くよう依頼されたことがあるという。取り上げる画家も指定されていて、エゴン・シーレ(1890-1918)。こういう絵を描いて28歳の若さで没した画家について女がらみで読み解いてくれ、という依頼だったそうな。

Embrace11Heilige_familie_3506f1f8349pxegon_schiele_073 左から「抱擁」、「聖家族」、「自慰」(なお、今回は画像の提示はなし。この記事で挙げた画像はいずれもタイトル等の言及があったもの)。

 写真で見ると非常に生々しくて、いかにも背後に生臭いエピソードがありそうな絵である。しかし、実物は非常にザラリとした質感で、生々しさなどまったくないという。むしろそこにあるのは、人間の価値のなさである。.

 伝記的な解説では、シーレの絵に対する「人間の価値のなさ」という観方は出てこず、「伝記の挿絵」と化してしまう。こでれは、作品は享受者にとってあくまで他者であるという「作品の他者性」をないことにしてしまう。
 ライフヒストリーでは語れないものが絵に表れなければ、誰も絵など描かない。

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 しかし前回は、敢えてライフヒストリーという視点からゴヤとオットー・ディクスを語った。「圧倒的な体験」の忠実な表現が、これらのような絵である。
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 何か予想外のことが起きれば、人は何か原因があると思う。例えば給料が振り込まれるべき日に振り込まれていなかったら、必ず理由があるはずだと思う。或いは通勤電車が来なかったら、必ず理由があるはずだと思う。

 我々は普通、道を歩いているだけでいきなり殺される、などとは考えないで生きている。外出する時は常にそんなことを考えて用心しながら歩いていたら、ただの危ない人である。しかし、そういうことは実際に起こりうるのである(通り魔殺人は日本に於いてさえ珍しくない)。

「水晶の夜」の「ユダヤ系ドイツ人」の体験は、まさにそのようなものだった。一般のドイツ市民と同じような環境で暮らし、同じような教育を受け、カトリック教徒ですらある彼らは、自分たちがユダヤ系の血を引いていることをほとんど意識していなかった。それが一夜にして「ユダヤ人」として迫害されるようになったのである。

 我々は、社会システムを信頼して生きている。その社会システムをさらに支えているのは、世界の安定性への信頼である。
 その信頼が崩れた時、人間が人間であることの信頼が崩れる。
 歩いているある瞬間、足下の地面が突然なくなるということを、普通は心配せずに生きている。それがひとたび「足下がなくなる」経験をしてしまうと、それまでの(安定した)表現が無効になってしまう。

「安定した世界」に於いては、きちんとものを見れば、見たものをそのまま言葉にできるだろう。安定した世界では、「なんの理由もなく」ということは起きないものだ。
 しかし、そういう前提で書かれた作品に、傑作はない。なぜなら、世界は安定などしていないからだ。
 世界は安定したものだと認識する者にとって、「世界は安定していない」と認識する者による作品は、だから理解の範疇を超えたものとなり、だから「今の作家はきちんとものを見ていない」という発言が出てくる。
 しかし古典作品でも、「世界は安定していないかもしれない」という前提で書かれたものはある。『カンディード』など。

 世界は不安定で信頼できない、つまり自分にとってまったくの他者であるということは、世界に対してどんな働き掛けをしても、まったく無効であるということかもしれない。「努力したから成功した」というような因果関係などないかもしれない、ということ。

 9.11の直後、シュトックハウゼンという作曲家が、あれは「とんでもないアート」であり、「自分にはあんなものはとても作曲できない」と発言して物議をかもした。確かに、パフォーマンスとして見た時、あれほど「世界の他者性」を的確に表現したものはない。
 そして、「世界の他者性」を表現した作品に対してしばしば向けられる、「グロテスク」「非現実的」という言葉は、9.11に対して多くの人が向けた言葉とまったく同じものである。

「世界の他者性の表現」とは、作品そのものを「他者」として作ることである。そうした作品を「グロテスク」「非現実的」として拒絶する人は、世界が他者であるということ自体を認めていない。
 知らないから認められないのか、実は意識の奥底では知っているからこそ認めようとしないのか。後者は、現状に目を瞑るという罪を犯している。

 以下、私見。
「世界は安定している」と信じる人にとって、異常なこと、悲惨なことが起きるのは絶対に受け入れられないことである。何か不幸に遭った人に対し、本人に原因があると見做す輩が多いのは、この「世界の安定」に対する信頼ゆえだろう。
 誰かが殺された、レイプされた、財産を奪われた、解雇された、などということが理由もなく行われたのでは、世界の安定性への信頼が崩壊してしまう。自分も、いつそんな目に遭うかわからないという恐怖を抱えて生きていかなければならなくなる。
 世界への信頼を取り戻すために、ともかくも原因を求める。犯人が悪い、制度が悪い、ということにするのが良識的だが、それだとそうした「悪」を根本から根絶しない限り、やはりいつ自分も被害者になってしまうかわからない。そして悪の根絶は大変な時間と労力を要する。

 それよりは被害者のほうに原因があった(恨みを買った、隙があった、まじめに働かなかった)としたほうが、遥かに心安らかでいられる。自分はそのような原因など持っていないのだから。かくて被害者は、多数の第三者から詰られ貶められることになる。
 世界の他者性を認識しないのは、こうした観点からもやはり罪深いことである。

第2回講義

第4回講義

特別講義INDEX

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2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第2回-①

 6月13日土曜日。まずは前回の講義で述べた、「表現(の様式)の変遷とは世界の認識の変遷である」についての補足。

 必ずしも一つの世界に一つの様式しかないわけではない。例えばプッサン(1594-1665)の「サビニの略奪」とリュベンス(1577-1640)の「マリー・ド・メディチの生涯」。
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 最も顕著な相違は、輪郭線と色彩にある。アカデミズムの下でも、この二つの様式の並存が認められていた。論争はあったのだが決着は付かず、対等ということで落ち着いたのである。

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 実のところ、プッサン流かリュベンス流かというのは、あまり重要ではなかった。アカデミズムの序列に於いて最も重要だったのは、崇高なものか世俗なものか、である。それがすなわち、宗教画、神話画、歴史画、風俗画、静物画のヒエラルキーへと行き着くわけだが、18世紀末にはそこに政治的な抗争が入り込んだ。煽ったのはダヴィッド(1748-1825)。
 その遣り口は、1785年、アカデミーのサロンに鳴り物入りで出品されることになっていた「ホラティウス兄弟の誓い」の搬入をわざと一日遅らせることで、背後に政治的な闘争があったかのように匂わせる、といった具合。

 古典主義vsロマン主義という対立は、本当にあったのか。
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 ロマン主義の代表とされているドラクロワ(1798-1863)だが、本人はリュベンス派だと自認していた。「サルダナパールの死」(1827)の、女の肌の色合いなど、一目瞭然である。

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 一方、古典主義の代表とされるアングル(1780-1867)は、どちらかといえば輪郭線や影、空気感など、プッサン派であろう。彼とマニエリスムとの関係については、昨年度の講義で論じられた。左は「トルコ風呂」(1862)。

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 つまり古典主義vsロマン主義というのはストーリーに過ぎず(当時も存在したストーリーかもしれないが)、実際には二つの様式は並存し、相互に作用していたということだ。
 この二つの様式の違いは、要するに女の裸がどう見えるか、という違いであり、言い換えれば女をどう捉えているか、の違いである。「サルダナパールの死」に於いて、ドラクロワの視点は部下に愛妾を殺させるのを無感動に眺めるサルダナパロスと重なっており、それと同時に「そういう俺かっこいい」というナルシズムもあからさまに透けている。非常に健全なナルシズムである。

 これに対し、「トルコ風呂」に於けるアングルの視点は、画面(円いフレーム=覗き穴)の外にある。
 本来、「トルコ風呂」は、こっそりと寝室に掛けておくものとして注文された。18世紀絵画には、寝室や専用のギャラリーにカーテン付きで飾るものとして制作された作品が多い。そのようにして飾ったのは、「人に見せるのが憚られる」作品だからではなく、こっそり人に見せて反応を楽しむためである。
 ただし、アングルの危うさは、そういった類とはまた少々異なる。革命的に変だった、といえる。「グランド・オダリスク」をデッサンが狂っていると貶したドラクロワに代表される、ヨーロッパ絵画の保守本流からはまったく外れたところに立っていた。

 自然をどう捉えているか=絵画をどう捉えているか、がヨーロッパ絵画である。アングルは美のためなら自然をいかに歪めようと平気だった。その意味で、アングルの後継者は、師匠の絵をデッサンを正しく描き直したような絵を描いた彼の弟子たちではなく、抽象画家たちだといえる。
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Mor111  ギュスターヴ・モロー(1826-1898)はデビュー当時から原色が多すぎると指摘されており、最後にはアカデミックなフォルムから色彩を解放し、色彩だけの絵を描くようになった。

 .*左から1851年「キプロスの海賊に略奪されるヴェネツィアの若い娘たち」、1895年「ユピテルとセメレ」、1897-98「栄光のヘレネ」(講義中、佐藤先生による絵の提示はなし)。
 

 しかし同時に彼は官立美術学校の教授として、非常にアカデミックな指導を行い、学生たちには、悪い影響を与えるといけないという理由から、自分の絵を決して見せなかった。しかしその学生たちの中から、「フォーヴ」のマティスが出ている。

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 1905年、「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」(講義での提示なし)

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 古典主義者の自然は、実際にはそのままの自然ではなく、理想化された自然だった。アングルやモローらは、その延長上にあるといえる。

 すでにフランドルの画家たちは、色を並べることで混色されて見えることを知っていた。特に真珠や皮膚にその技法が用いられた。固有色の概念が崩れたことは、光学的な法則の放棄へと繋がる。リューベンスやドラクロワ→印象派→フォーヴィズムの流れ。

「サルダナパールの死」は衝撃的な場面を描いているようでいて、その実、構図は非常に安定している。
 一方、アングルはその安定の上にはいない。彼は世界に対する信頼感を疑っている。ただし、彼は一応最後まで踏みとどまっていた。
 踏みとどまっていなかったのが、ゴヤ(1746-1828)である。

その②へ

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2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第2回-②

の続き。

328pxsaturno_devorando_a_sus_hijos 1820年頃の連作「黒い絵」の一つである「我が子を喰らうサトゥルヌス」。X線照射したところ、勃起したペニスが描かれていたことが判明した。

  最初期の彼は、非常にアカデミックな神話画を描いている。プラド美術館の展示は、この神話画から始まり、ゴブラン織りの下絵(ゴブラン織りの下絵なので、陰影が少なく非常に明るい色彩)→スペイン王室の肖像画→「1808年5月2日」「5月3日」→「黒い絵」という非常に解り易い「物語」に沿っているそうだ。
 そういう、美術史の教科書の挿絵として絵を見て、本当に「見た」といえるのか。

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Goya_spring1 *参考:ゴブラン織りの下絵の一例(講義での提示はなし)、1786-87「花売り娘(春)」

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 1800-01「カルロス四世の家族」。スペイン戦役は、スペイン王室の後継者争いに介入したことで起こった。

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「5月2日」は、国王退位のニュースに、マムルーク兵(ナポレオンがエジプトから連れてきた)を市民が襲った場面である。リュベンス風の、すなわち当時の標準的な絵である。

774pxfrancisco_de_goya_y_lucientes_ 一方「5月3日」は、同じ時期(1814年)に同じ人物の発注で、つまり二枚一組として描かれたにもかかわらず、まったく違った絵である。どちらも、モニュメンタルな歴史画として注文されたはずである。

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Jacqueslouis_david_007  同時代の「モニュメンタルな歴史画」として、ダヴィッドの「アルプス越えのナポレオン」(1805)が挙げられる(画像の提示はなし)。

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「5月2日」も「5月3日」も、「無名の民衆」を描いたものである。しかし前者のほうは、モニュメンタルな歴史画としてまったく問題ない。同じく「無名の民衆」を描いたドラクロワの「民衆を導く自由の女神」(1830)と共通のヒロイズムがある(この絵について佐藤先生の言及はなかったが、比較の材料として適当だと思うので)。

 対して「5月3日」は、モニュメンタルな歴史画としての描き方が放棄されている。人物は五頭身くらいしかなく、身体のバランスもおかしい。カリカチュアライズされているのである。それによって、モニュメンタルな歴史画につきものの「崇高さ」が放棄されているのだ。

 スペイン戦役はゲリラ戦(guerillaという言葉は、そもそもこの時できた)であり、凄まじい流血を伴った。
 それが終わった後で、英雄的な「5月2日」が描かれたのは、リハビリとしての意味があったのだろう。英雄的な物語にすることで、事実を塗り替えるのである。
 対して、「5月3日」はリハビリされる前の状況に近い。そして、少なくともゴヤ自身にとっては、「5月2日」は全然リハビリになっていなかったのだろう。それが、「黒い絵」と版画連作「戦争の惨禍」である。晩年、70代描かれた絵だ。

 疾走中に倒れる馬と放り出される騎兵を描いた版画(画像は見つけられなかった)には、「こういうことも起こり得る」との言葉が添えられている。いかなるロジックも、そこには存在しない。
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 スペイン人に対するフランス兵の蛮行がこれでもかとばかりに描かれる(ただし、死体の服を剥ぎ取るのは辱めのためではなく必要に駆られてである。特に当時の靴は一週間も履けば駄目になったから、死活問題であった)。フランス兵に対するスペイン人の蛮行も描かれる。
 講義では、さらに多くの画像が提示された。

 18世紀の戦略家によると、戦争とは人を殺すことではなく、よその土地に人を連れて行って飯を食わせることである。つまり現地調達であるが、それをやると、その土地はたちまち飢餓に見舞われる。ナポレオン軍は、まさにこの定義に当て嵌まる。
 こういう光景を作り出し、潜り抜けてきた勝者であるフランス兵たちが、故国に引き揚げる途中で、いきなり隊列を離れて自分の銃で自分の頭を撃ち抜いたりするのだそうである。

「黒い絵」が描かれてしまわないために、アカデミズムなきれいな絵が存在する。そしてゴヤ以降、「黒い絵」が再び現れるのはずっと後のことである。

Sylvia20von2020harden201926201a オットー・ディクス(1891-1969)というと、この絵(*「シルヴィア・フォン・ハルデン」、1926)を描いた、というくらいしか知らなかったんだが、第一次大戦を機関銃手として経験し、戦後、絵を学んで画家となった人である。美術学校の教師も務めたが、「退廃芸術家」として真っ先に弾圧された一人でもある。

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Artdix3「塹壕」(1932)。銃弾で穴だらけになった脚、鉄骨(?)に引っ掛かった死体は、宙に浮かぶ天使のようである。

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128594Mealtimeintrenches エッチング連作「戦争」(1924)。ゴヤの「5月3日」と同じく、カリカチュアライズされている。カリカチュアしなければ描けなかった絵である。
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 このような絵は、なんのリハビリにもならない。誰の役にも立たない。自分のリハビリのためでもなく、他人の役に立つためでもなく、表現せざるを得なかったから描いたのである。
 何を引き金にこんな表現が出てくるのか。その一つとして、今回の講義では「戦争」が挙げられた。

 今回、遅刻はしなかったものの、かなりギリギリで、昼食を食べてくる時間がなかったのであった。だから途中でサンドイッチを買って、講義が始まる直前に食べた。お蔭で講義中、喉が渇いてきて、水を飲みながら聴いてたんだが、「黒い絵」が出てきてから、まだ渇きは収まってないのに水が喉を通らなくなる。講義の後、他の聴講者の皆さんも言葉少なでしたよ。

2009年度講義第1回

2009年度講義第3回

特別講義INDEX

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2009年度佐藤亜紀明治大学特別講義第1回

 三年目。前年度は皆勤できたんだけど最後の回(12月、5回目)はブログにまとめを上げられなかったんだよな。『ミカイール』が追い込みに入ってて。

 で、今年度第1回。御茶ノ水に行くのはちょっと久しぶりだったんで、所要時間を忘れていて5分遅れる。講義はすでに始まっている。そしてペンを忘れたことに気がつく。誰かに借りてる時間もない。どうしてもメモは取りたかったので、アイライン(茶色)を用いましよ。書きにくいんでちゃんとしたメモじゃない上に、判読も困難……

 スピルバーグ作品に於ける「顔」の問題について。「顔」を特異な撮り方をするようになったのは、『シンドラーのリスト』からだと先生は思うのだが、人によっては(例えば蓮実重彦)『アミスタッド』からだとする。
『アミスタッド』は、前半はおもしろいのだそうである。反乱を起こす黒人たちの「かっこよさ」は、植民地主義に於けるかっこよさ(ドラクロワなど)と同質なのだけれど、にもかかわらず「人間の尊厳」のただならぬ雰囲気を出すことに成功している。

『宇宙戦争』について。なぜアメリカ人にとって、9.11はそんなにもショッキングだったのか。

「正しい方法さえ用いれば、世界は操作できる」という信念(「正しい方法」を用いれば勝ち組で、用いないと負け組になる)が崩壊したからだが、この信念の提唱者はアイン・ランドである。亡命ロシア人である彼女が、社会主義と対決し、また(移民にありがちなことだが移民先の)アメリカの価値観に過剰に適応した結果が、この信念なのである。

 という話を聞いた翌日の17日、流し見していたNHKスペシャル「マネー資本主義 第二回」でアイン・ランドの名が出てきたんで吹いた。米国FRB(連邦準備制度理事会)元議長グリーンスパンが若き日に「運命的な出会い」をした哲学者、として紹介されてましたよ。出会い、って著作にだが。

 番組ではアイン・ランドの『水源』を「聖書に次いでアメリカで影響力を持つ本」とか言ってたが、佐藤先生によると、米国には「アイン・ランド協会」なるものがあって、全米の高校にランドの小説をせっせとばら撒いているのだそうな。で、小説なんか全然読まないガキどもが、課題図書として無理やり読まされる、と。

 社会主義者のアメリカ人で、アイン・ランドとは同時代だが異なる立場にいたはずの文芸評論家エドマンド・ウィルソンも、まったく同じ信念を抱いていた。ナボコフと親交があって、アンチ・カフカだったという。『小説のストラテジー』の最終章で取り上げられてる人だね。

 ウィルソンにとって、なぜカフカが駄目かというと、フロンティアに挑戦していない「意気地なし」だからである。文豪というものは国民に対して手本にならなければならない存在だが、カフカは誰に対しても手本にならないからである。
 つまり、レーニンがすべてを解決してくれるような作品(シュワルツネッガーのようなレーニン)を生み出すことを、文学の役割と見做しているのである。

『宇宙戦争』は、「人間から顔が剥奪される瞬間」を描いた作品だが、当時(2005)はまだそれほど顕著ではなかった、「もう一つのアメリカの理想の崩壊」も描いている。すなわち、格差社会である。
 冒頭、トム・クルーズとミランダ・オットーの離婚の原因は、階級差であったことが頻々と示される。弁護士の母親と一緒に暮らしている子供たちは、すでに父親とは別世界の人間となっている。高校生の息子は宿題でアルジェリア独立戦争についてのレポートを書き、小学生の娘はアレルギーでピーナツバターが食べられない。港湾労働者の父親は、「アルジェリア独立戦争」や「ピーナツバターが食べられない人間」が存在しない世界の住人なのである(こんな格差のある男女が結ばれたことが、かつては「アメリカの理想」だったのだろう)。

『トゥモロー・ワールド』(06)の序盤では、店のショーウィンドがなんの前触れもなしに爆破される。それまでの映画では、サスペンスを煽るために爆発の予告がさりげなくなされていたものである(へたくそな場合は「さりげなく」ではなく)。
 しかし、現実のテロ(テロに限らず事故全般も)は前触れなどないものである。今までもずっとそうだった。「前触れのある爆発」という表現が無効になったのである。

 このような状況で、どのような表現が可能となるのだろうか。

 例えばローマ帝国の彫像。

200pxstatueaugustus20080218002014  左と右の像を見比べて、右を「ローマが衰退した時代だから芸術も衰退したのだ」(=へたくそ)と捉えてしまえば、そのまま前を素通りしてしまうだろう。この像を「見た」ことにはならない。

 なぜこのような表現になったのか、当時、何が求められていたのか。
「この世のものならぬ何か」を作り出そうとしたから、このような表現になったのである。

 様式によって視点を変えなければならない、ということなのである。視点とは、世界への意味付けの仕方の違いである。無論、その作品が作られた当時の視点に立つことは無理であるにしても。
 一つの世界の見方(様式)が期限切れになったところで、新しい見方が出てくる。

 ほかにもハリー・ポッターの国籍問題(「二重国籍」なのか?)とかいろいろおもしろい話があったんだけど、いよいよアイラインの芯が潰れて判読不能、筆記不能。次はペンを忘れませんよ……

 様式について、以下のような質問をしました。

 脳関係の研究者は、芸術の様式を認知論と結びつけて説くことがある。文化によって様式が異なるのは認識のフレームが違うから、というのである。
 例えば、あるアフリカの部族に紙に描かれた絵(西洋絵画)を見せて、「これはなんだと思う?」と尋ねると、まず触ってみて、くしゃくしゃにして音を聞き、ちぎって口に入れ、「色の付いた紙だ」と答えた。彼らの文化では、絵とは布に描いてあるものであり、「紙に描かれた絵」は、絵として認識できないのである。
 また、密林に住む部族は「遠近感」というものを理解できない。見通しの悪い環境に住んでいるので、「遠くにあるものは小さく見える」ということを知らないし理解できないのである。

 或いは、ピカソがある時、列車のコンパートメントで見ず知らずの男と乗り合わせた。男は相手がピカソだと知ると、「どうして普通に描かないんですか」と尋ねた。ピカソが「普通とは?」と問い返すと、男は「こんなふうにです」と一枚の写真を取り出した。「妻です」
 ピカソは写真を手に取って眺め、言った。「ずいぶん小さくて平べったいんですね」

 こういう論は、おもしろいけど少々単純化しすぎているような気がするので、先生はどう思いますか、と尋ねたのでした。
 先生の答えは、フレームの問題として論じることは可能でしょう、というものであった。芸術評論の畑から、こういう脳科学の立場へのアプローチがもっとあったらおもしろいと思うんだけどなあ。さすがに、先生に「やってください」とは言えなかったのであった。もちろん、自分でやる気もないけどさ(小説のネタにすることはあるかもしれない)。

2008年度講義第一回 

2009年度講義第二回 

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佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅳ-2

「歴史とは何かと」と問うた時、答えは二つある。第一の答えが、為されたことの総体としての歴史である。意味づけはされない、剥き出しの「事」自体。しかしおそらく、我々はそのようなものを認識できない(なぜなら、人間は何かに意味づけせずにはいられないからである)。

 第二の答え、第二の歴史は、「事」自体を、ある文脈に沿って切り出し、並べ直したものである。これが一般に言うところの歴史である。
「文脈」とはすなわち、何も意味を持たないものに意味を与える。つまり、どんな意味でも捏造してしまえるということである。

「歴史とは物語に過ぎない」というのは、まるっきり間違いとは言えないが、短絡的な言説である。何しろ過去のできごとだから、「事実か否か」を証明できないことのほうが多い。しかし、「かなり事実」か否か、というのは検証できる。最近では、この実証の手順を平気で無視する研究者が多い。なるほど、下手に「歴史は物語である」と発言すると、そういう輩と同類だと思われる可能性があるのか。気をつけよう。

 では、絶対に「歴史は物語ではない」のか。
「文脈」を与えるということは、物語化であるとは言える。そして、トラウマを言葉にする時、物語化によって合理化し、「鎮める」という行動もある。それが嵩じると、ある種の健忘症が起こることもある。

 雑居して共存してきた者たちを、グループ分けして境界線を引くと、それまでどれだけうまくいっていたにもかかわらず、必ず争いが起こる。イギリス人は、そのことをカトリックとプロテスタントの争いから、いやというほど知っていたはずなのに、『指輪物語』のような作品が書かれ、人気を博したりする。別々の種族が、文化も血統も交えることなく別々の状態のまま共存できるはずがないのである。
 一例が、ルワンダのツチ族とフツ族である。平和に住んでいた人々のところに、ベルギー人がやってきて、背の高い人々と低い人々を分けた。「エルフ」と「ドワーフ」に分けたのである。しかも背の高いほうを「高貴」であるとした。その結果が、あの大虐殺である。
 同じ事をアメリカ人もやっていて、冷戦後に「民族自決」とか言い出したから、今こんなことになっている。

 そもそも、一つの国家に一つの文化、ときれいに区分けできるものではない。例えばウクライナ独立後、同国のイディッシュ文学の研究が困難になった。国内の「非ウクライナ文学」を「なかったこと」にしたい動向があるようである。さらには、ウクライナ出身のロシア文学者をどう扱うか、という問題もでてきている。

 上記の「第二の歴史」の一傾向として、歴史を「自分たちで運命を定めることのできる目覚めた人間たち」のもの、とする史観がある。全体主義的歴史がまさにそれで、人間は自分の運命を切り開いてきた、とするのである。ここでは、虐殺された人々を完全に切り捨てている。

 ユダヤ人が大量虐殺されたことは、よく知られている。それは彼らがその歴史を語るからである。彼らはその受難をどうにか意味づけしようと努力してきた。語ったり、国を建てたりするのが、その努力の一環である。
 収容所を生き延びた人たちの中には、ものすごくポジティヴな思考の持ち主がいる。当時のことを尋ねると、「あれは私の人生に於いて、非常に貴重な体験でした」などと言う。そんなふうに「物語化」することができるから、収容所もその後も生き延びられてきたのである。ポジティヴな物語化ができない人は、収容所を生き延びられないか、もしくはせっかく生き延びられたのに、その後自殺してしまったりする。

 他人からすると、あまりにもポジティヴすぎて却って深淵を覗いてしまったような、空恐ろしさすら感じる「物語」なのであるが、本人たちの生存には必須なのである。民族としてのユダヤ人たちも、受難がイスラエル建国へと昇華される物語を必要としたのだろう。これも他者からすると無理のある物語で、だから実際面倒なことになっている。

 ユダヤ人と同様に大量虐殺されたが、あまり知られていない民族に、ロマがいる。知られていないのは、彼らが語らないからである。そんな彼らに、「なぜあんなことが起きたと思うか」と尋ねると、「運が悪かったから」という答えが返ってきたという。

 彼らは、「第二の歴史」を語らない。身を守るための物語を持っていないし、必要ともしていないらしい。そうして、「世界の絶対的怪異性」をまともに受け止め、「運が悪かったから」としか言いようがないのだろう。そんな状態で、彼らは生きている。

 今回、冒頭に先生が「陰気な話」と言わはったが、そういう感じは受けなかった。陰気な内容ではあったんだが、ここ2、3年、強制収容所だとか大量虐殺だとか自爆テロだとか少年兵だとか優生学だとかそんな資料ばっかり読んできて、ずっとグロッキー状態で、それが先生の講義のお陰を聞くと、どうにか受け止められる(「物語」に落とすのではない形で)ような気になれるので。気のせいに過ぎないかもしれないけど。

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佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅳ-1

 今回も『地中海』に関する話題には至らず。せっかく読んだ内容を忘れてしまいそうだ……

 お話は「世界の絶対的怪異性」について。我々が慣れ親しんでいる世界は、我々と関連を持っている世界である。つまりなんらかの法則にしたがって運行し、その規則を守っていれば幸せになれるし、規則を破れば不幸になる、といった因果応報の原理が働いている世界だ。
 しかしそうした自分と世界との因果関係など実は存在しないことが、明らかになる瞬間がある。世界と我々の間の「絶縁状態」が明らかになる。その時垣間見える「我々にとって他者である世界」が、「世界の絶対的怪異性」である。「カフカ的」とも言える。

 稀に、多くの人間が同時にそれを体験することがある。9.11は、その一例である。あれは、あまりにも馬鹿馬鹿しくて笑える光景。「笑える」ということが認められない人たちは、「非現実的」という表現を使う。
「ハリウッド的」という表現もあったが、あんな杜撰な光景はハリウッド映画にはないわけで、映画を観ていない(本数を観ていないか、中身をきちんと観ていない)ことを露呈する発言である。
 それはさておき、「非現実的」とはどういうことか、というと、実はあまりにも「現実」であるため、それを認めるのを拒む、一種の防衛反応として「非現実的」に見えるのである。

 我々は、世界の絶対的怪異性を「飼い慣らす」ため、努力し続けている。

「falling man」という映画がある。監督はイギリス人。9.11で、ビルが倒壊する前に、発生した火災に追われて窓から飛び降りた人たちが少なからずいた。その落下する人々を撮影した写真がある。ドキュメンタリーであるからには起承転結がなければならないから、「落下した人々を特定し、遺族に取材する」という構成になっている。

 手始めに当局に問い合わせたところ、「飛び降りた人などいません」という返答だった。仕方がないので独自に調査し、遺族に連絡をしたところ、皆一様に怒りとともに取材を拒否する。どうにか一人だけ取材に漕ぎ付けると、写真を見て言うのが「きっと覚悟の上で、心安らかに死んでいったのね」。

「飛び降りた人などいない」も、怒りとともに取材を拒否するのも、勝手に「お話」を作って勝手に心安らかになるのも、すべて事実否認の反応である。人間は、この世界がコントロール不能なのだという事実を突き付けられた時、それを否定するものである。
 破綻した世界に、もう一度「文脈」を与え、元通り安心できる場所にしようとするのである。「フィクションによる癒し」も、その一つである。現実を「お話」に仕立て上げて、それにそぐわない部分には目を瞑るのである。

 何がしかの災厄に襲われた共同体が、「悪魔祓い」をするのもまた「物語化」であると言える。しかしあまりにも災厄が大きすぎて、物語化が不可能なこともある。例えば広島・長崎には、どんな因果応報も見出せない。国民総動員の状態の国家には「非戦闘員」は存在しない、という理屈が成立し得たとしても、広島・長崎が「当然の報い」という物語は成立し得ない。しかし、人間の剥き出しの残虐と差別を直視しては生きていけない。そのギリギリのところでかろうじて成立する物語が「あやまちは二度と繰り返しません」という碑文である。

 人類の歴史とは、トラウマ的状況の積み重ねであり、世界の絶対的怪異性を突き付けられる繰り返しであったと言える。

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佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅲ-2

 では国民とは何か。
 動員には、それに先立ってある組織化が必要である。一般にフランス革命戦争は、「正しい戦争」とされる。どういう戦争なら正しいかというと、正当防衛である。
 しかし革命戦争が始まった時、フランスはまだ侵略されていなかった。つまりは動員のためのプロパガンダだったのである。しかし煽られたからといって、なぜフランス人は立ち上がったのか。ライン川を越える直前の連合軍は3万だった。それに対し、フランス軍は最終的に20万人にまで膨れ上がる。「正当防衛」で済まされる数ではない。

 ところで、戦争の一年目は徴兵ではなく募集だけでかなりの人数が集まった。農家の次男坊や三男坊、商家の丁稚といった連中が、乗せられてその気になったのである。しかし二年目からは人が集まらなくなる。そういう連中がすでに払底していただけでなく、「戦争に行くと死ぬ」ということが解ったからである。
 そこで葡萄積みの季節に季節労働者を捕まえ、男だけ選り分けて軍隊に放り込む、ということをする。そんなもんだよね。

 兵隊だけでは戦争に勝てない。財源の確保も必要である。すなわち、産業の動員である。そうやって産業の動員を徹底しすぎたことが、ナポレオン帝国の解体に繋がってしまうわけだが。
 例えば、帝国に組み込まれたドイツやイタリアの商人たちは、当初喜んだ。国が一つになってしまえば、関税が掛からなくなるからである。しかしそうすると、フランスにドイツやイタリアからの関税が入ってこなくなる。フランスに金が流れ込んでくるよう、二重に税金が掛けられた。

 産業の動員に加えて、文化的・政治的な動員も行われた。
「我々は兵隊の額の汗を拭うために存在する」――ある上院議員。
「我々にはもはや内輪の静かな生活というものがない」――タレーラン。

 フランス軍が勝つと、家々の窓に蝋燭を点させる(イルミネーション)といったイベントが強要される一方、言論も統制される。休暇中の兵士が、居酒屋で戦争の実情を漏らすと、その日のうちに憲兵がドアを叩く。フランスは一個の兵営であった。

 徴兵制というものには利点もあって、兵隊になってもらう代わりに、国家は国民の面倒を見てくれるのである。それはつまり、兵士になることが市民権の条件という『スターシップ・トゥルーパーズ』みたいな方向へと容易に展開するわけだが、じゃあ徴兵制がなくなれば国民というだけで無条件に国家が面倒を見てくれるようになる、というより面倒を見る義務を放棄するほうが、確かにありそうな話である。

 ナポレオン戦争はフランスに国民を生み出したが、反作用で「ドイツ人」も生み出した。
 それまでも「ドイツ人」という意識はあった。例えばメッテルニヒは、ナポレオンの「ロシア戦役で死んだのはドイツ人ばっかりだから屁でもない」という放言に、「私もドイツ人です」と激昂したという。
「イタリアというのは地理的概念に過ぎない」とはメッテルニヒの発言だが、その言い方に従えば、「ドイツというのは文化的な概念にすぎない」ということになる。

 ドイツがナポレオンを追い出した戦争を、ドイツでは「解放戦争」と呼ぶ。ドイツが統一されたのは1870年だが、ドイツという国家が始まったのは、この解放戦争からである。
 統一には文化が役割を果たした。共通の「ドイツ性」というものが作り上げられたのである。
 以来ドイツは一般市民に至るまで非常に高い教養を誇る。それはナチスの台頭まで続く。かくも教養の高い人々が、なぜあんなことができたのか。
 なぜあんな恥ずかしい音楽や祭典に耐えられたのか、という問題はさておき、「蛮行」についてならば、なんの不思議もない。文化というものはある集団の統一性を高めるために作用してきたものであるから、排他的なのは当然と言える。

 文化というものは、犬に薬を飲ませるための肉団子である。見極めないと、どんな薬を飲ませられるか、わかったものではない。
 文化的な統一が為されて初めて、政治的な統一が為される。「歴史」(カギ括弧付き)とは文化の産物である。実体の歴史は、漫然としたもの。共通の歴史認識、最初の例で言えば「フランス革命は啓蒙思想が広まった結果起こった」というような歴史認識とは文化の産物であり、実体の歴史とはなんの関係もない
 というのが、今回の結論。

 講義中、ヨハネ・パウロ2世に言及が為された。彼は始終各地を訪問してたんだが、行く先々で「御当地聖人」を列聖してたそうだ。
 ヨハネ・パウロ2世が1999年にグアダルーペの聖母を「全アメリカ大陸の守護者」とし、2002年にはそのグアダルーペの聖母の目撃者であるフアン・ディエゴを列聖したことについて、『ラ・イストリア』で触れた。これについて調べた資料では、どんな状況でそうなったのか判らなかったんだけど、上の話を聞いてもしかしてと思ってググってみました。
 フアン・ディエゴは確かに2002年のメキシコ訪問の際に列聖されてますね。グアダルーペについては判らなかったけど、1999年にメキシコ訪問してるのでやはりこの時でしょう。

 講義で言及された、ヨハネ・パウロ2世が列聖したフランスの聖人について調べようとしたけど無理だった。だって1978~2005年の在位期間に482人が列聖、1338人が列福されてるんだもん……

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佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅲ-1

 今回は夏休みの宿題に関連したお話にまでは到達しませんでした。『地中海』は第一巻は分厚いし、内容も気候とか地理とか、すごく細分化されて無味乾燥ともいえる記述でしんどいですが、巻を追って薄くなるし、事件や人物(何しろ、そもそも原題は「フェリペ2世時代の地中海と地中海世界」だ)が中心となるので、まだしも読みやすかったです。第五巻なんて本文は100頁くらいしかないし(残りは註)。
 次回は11月下旬なんで、一巻で挫折した人は二巻から再挑戦してみてはどうでしょうか、と言ってみる。

 今回は体調が悪いとのことで、いつも以上に話があっちこっちに飛びましたが、どっちせよおもしろい話が聞けたので問題なし。今回は「国民」のお話でした。

「近代」はフランス革命(1789)と共に始まる。ギゾーによる「国民」の定義(1822)
peuple: ある主権の領域に住み、同一の法に服す。
nation: ある主権の領域に住み、同一の法に服し、なおかつ出自を同じくする。

 フランス革命は「啓蒙主義によって起こった」ことになっている。本当にそうなのか?という疑問を解くべく、アメリカの研究者ロバート・ダーントンは革命直前の貸し本屋の目録を調べた。
 たぶんこれだな。『禁じられたベストセラー 革命前のフランス人は何を読んでいたか』(新曜社) あと、これもかも。『革命前夜の地下出版』(岩波書店) amazonで検索してみたら、ほかにもいろいろおもしろうそうな本が出てますね。
 で、ダーントンによると、いわゆる啓蒙思想の本は、まったくといっていいほど借りられていなかったそうである。じゃあどんな本が借りられていたかというと、ポルノグラフィー。特に「マリー・アントワネットもの」。
 残っている貸し本屋目録自体が少ないので、これだけで「啓蒙主義は普及していなかった」とは言い切れない、とダーントンは結論しているとのことだが、とりあえず教科書で言われてるほど普及してなかったことだけは確かである。

 革命だろうとなんだろうと、事件というものが何によって起きるのか。なんとなくの「微妙な空気」としか呼べないものであろう。

 今回使用された絵画は二点だけ。20080930200904 まずはリューベンス(1577-1640)。

 女性君主は静止したポーズで、真っ直ぐ鑑賞者を見詰めている。馬も動いていない(左前足を上げているのは見た目のバランスであり、動きではない)。この頃から、「君主の美徳」とは、「動かないこと」となっていた。どっしり座って動かない君主のほうが、臣下たち(各分野の専門家たち)はやりやすい。軽挙妄動されては下が困るのである。

悪い例: フランツ2世(1768-1835)。他人の意見に左右され易く、一度決めたことをすぐに翻す。

良い例: マリア・テレジア(1717-1780)。一度決めたことは最後まで遣り通す。6歳で一目ぼれした相手と結婚まで漕ぎ着ける、七年戦争を戦い抜く、など。

 A国の領土がB国に割譲されたら、元の住民は追い出され、その「新領土」にはB国の行政が持ち込まれる。現代の感覚ではそうなる。しかし1789年以前は、住民たちも行政もそのまま残った。会社の社長が交替するようなものだった。

Jacqueslouis_david_007

 続いてダヴィッド(1748-1825)。
 まず馬の描かれ方の違いに注目。躍動的で表情もあり、しかも追い風で尾と鬣は前方へ。馬上の君主はこちらを振り返るが、その手は前方を示し、もちろんマントは前方へと翻っている。
 ナポレオンが誰かということをまったく知らない鑑賞者でさえ、「ダイナミズム」を感じるはずだ。そのダイナミズムは、ナポレオンのものではなく、「歴史」のダイナミズムである。

 我々が「歴史のダイナミズム」を求めた瞬間はいつか。フランス革命からナポレオン戦争までの間の、ある瞬間である。

 ナポレオンが掲げた右手が象徴するもの。この絵を見る者、すなわち「国民」を先導する「指導者」としての役割である。主役は彼ではない。導かれる者、すなわち我々が指導者についていくことで状況が動く。それが「歴史」なのである。
 主役は国民であり、指導者はその意思を体現しているに過ぎない、と言える。
 その土地に住んでいるだけの「人民 peuple」を国家に組み込み、「国民 nation」とする。それが「動員」である。

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