まず、これまでの講義でも幾度か提示された、ゴヤの「五月二日」と「五月三日」。1814年、二枚一組として描かれたものである。
両作品の構図上の違いは、ダイナミズムの有無、言い換えれば高さの有無である。「二日」は、馬に乗った人物と乗っていない人物とを配することで、画面に高低を作り出している。
この手法を多用したのがドラクロワで、端的な例がこの1827年の作品。えーと、日本語タイトルが判らないんだが、英語タイトルは"combat of the giaour and pasha"(異教徒とパシャの戦闘)。這い蹲る人物によって、馬の高さが殊更強調されているが、実際、騎乗した人間は高いのである。ちょうど肩車したくらいの高さ。
「五月二日」は、ドラクロワに比べれば高さはそれほど強調されていない。そして「三日」に至っては、まったく平坦な構図である。つまり、ダイナミズムというものが削ぎ落とされている。
暴力をどのように捉えるのか。それによって、暴力を描く上で何が変わってくるのか。
ゴヤが描いたのは政治的な暴力だが、ドラクロワは絵も本人もマッチョである。彼は実際に北アフリカに赴いているのだが、かの地に「ヨーロッパではすでに失われた男性性の極致」を見出した。
そうして馬上(高い場所)で行われる総合的な暴力という形で、暴力の最も「高貴なもの」を捉えようとした。
ヨーロッパの日常では、暴力はまったく高貴でないことを、ドラクロワはよく知っていた。暴力を高貴なものとして描くには、舞台をヨーロッパであっては駄目で、そして北アフリカに「失われた高貴な暴力」を見出したのである。
「民衆を導く自由の女神」(1830)。革命を、暴力として表現する。「暴力を導く女神」が最も高い位置に配されている。
「秩序を作り出し、維持する」ものとして機能する暴力は、「ハリウッド的暴力」である(実際にはハリウッド映画にもいろいろあるのだが、ここでは敢えて解り易い喩えとして)。我々も楽しむことのできる暴力である。
このような暴力の表現は、その先にあるものに直面したことがない者の表現である。
ゴヤ的な暴力は、秩序を作り出しもしなければ維持もしない。無意味なものである。現実に暴力をいきなり向けられた時、それがドラクロワ的な暴力(有意義な暴力)だとは誰も思わない。まず感じることは、「起こってはならないことが起こった」であるはずだ。起こった瞬間には、それは完全なカオスである。いったい何が起きたのか(例えば馬鹿なガキに財布を強奪された等)判断するのは、後付けになる。
再び、「五月三日」。銃殺する者たちの顔は、こちらからは見えない。帽子を被って顔を伏せているので、殺される者たちからも見えていない。
「銃殺」を描いた絵画は、おそらくこれが最初で、そして以後の「銃殺の絵」はこの構図が定番となる。
半世紀余り後に描かれた、マネの「マクシミリアンの銃殺」(1867)。「五月三日」の影響の下に、というか構図を借用して描かれている。塀の上の見物人たちも、「黒い絵」からの借用らしい。構図だけでなく、ざっくりした描き方も似ている。
ゴヤ自身が目撃した光景を描いた「五月二日」に比べ、マネはメキシコ皇帝マクシミリアンの銃殺(同年の1867年)をもちろん目撃しておらず、いくらゴヤの時代よりも銃の反動は弱くなってるにしたって、その足の構えはないんじゃないの、という代物だが、違いはそうした表面的なものだけではない。
決定的な違いは、「不穏な暴力性」が削ぎ落とされていることである。銃殺する兵士たちの顔が見えていないのは同じだが、指揮官の顔は見えている。
ゴヤが殺す側の顔を描かなかったのは、殺される側にしてみれば、相手が誰であろうと同じことだからである。マネは、そうした暴力の本質を無視している(おそらく理解していない)。
マネがやったのは、ゴヤの表現から内実を抜いて、「平面的な表現」を確立させたことである。スタイルだけ真似たわけだ。
左から「バルコニーのマハたち」(1808-1812)、マネの「バルコニー」(1869頃)、ドラクロワの「サルダナバロスの死」(1827)。
マネが再びゴヤから構図を借用しているのは言うまでもないが、もう一つ借用しているものがあって、それは「サルダナバロス」にも見られる「ダンディズム」である。
どういうダンディズムかといえば、「手許にいい女を置いといて、かつそれに無関心」というもの。
それをより解り易く描くと、ルノワールの「桟敷席」(1869頃)になる(同席する綺麗な女には目もくれないでオペラグラスで他所を眺めている)。
ゴヤの「マハたち」に背を向けた黒衣の男にも、ドラクロワのサルダナバロスにも、どっぷりと濃いいダンディズムが立ち込めているわけだが、マネはそこから「濃さ」を取り除いたものを、「おしゃれ」に成立させているのである。
マネの「功績」は、ゴヤ的なものにせよドラクロワ的なものにせよ、内実のない形式だけを継承し、形式だけを表現として確立させた、ということ。
マネがゴヤから形式だけを模した時、抜け落ちたのは何なのか。
「五月三日」と『ユナイテッド93』との共通点は、高さが均等であること。つまり殺す側と殺される側の両者を同じ「低さ」で描いている。
えーと、私は『ユナイテッド93』は未見なのだけど、「同じ低さ」というのはもちろん画面上の構図のことではない。飛行機の操縦などできもしないのに操縦棹を握るテロリストも、阻止するために扉をぶち破ろうとする乗客たちも、どちらも必死で、神に祈っている。どちらの神も同じ「唯一絶対神」である。立ち位置が均等だということ。
ゲリラと民間人の区別がつかない状況では、必ず凄惨な殺し合いが起きる。ゴヤの連作「戦争の悲惨」は、基本的にフランス軍の暴虐を描いたものだが、幾つかはスペイン人の報復も描いている。どちらも同じくらい残虐である。
ゴヤ的な経験を一口で言うと、「他者である世界」を見てしまった、ということ。それを表現する時、ヨーロッパ美術の方法論、すなわち人間を「リアルに」(立体的に)描く手法では不可能であり、だから「五月三日」の人物はあんなに平坦に描かれているのである。
描かれているのは、一方の他方に対する暴力だが、暴力を振るう側を非難するのでも正当化するのでもない。フランス兵から軍服を剥いでしまえば、殺される側と区別がつかなくなる。人物の平坦さは、そうした「均等さ」の表現でもある。
そのように描かなければ到底表現することができなかったゴヤの体験をきれいに抜き去って、平坦さだけを表面的に模したのがマネなのである。
他者というのは、何を考えているのかわからない、次の瞬間何をするのかわからない、ルールというものをまったく共有していない、本質的に不気味な存在である。そして世界そのものも、次の瞬間何が起こるかわからない、これまでずっと平穏だったからといって、これからも平穏である保障などまったくない以上、やはり「他者」である。
しかし「次の瞬間何が起こるかわからない」などと常に意識し続けていては、まともな生活など到底送れなくなってしまうから、我々はそのことから目を背けている。
他人にそのようなことが起こっても、「これこれこういう理由で、あんなことが起こったのだ」という物語を被せて、世界の他者性そのものは見なかったことにしている。
9.11当時、あれに被せることのできる物語はなかった。そして大勢が口をそろえて言った言葉が、「リアルじゃない」。つまり「リアリズム」とは、他者を物語的に回収する行為である。
「五月三日」は、巧い絵でも美しい絵でもない。ということは、絵画として駄目だということである。
絵として良いとか悪いとかいうのは、安定した価値観である。ただし、その「安定した価値観」、審美眼を獲得するだけでも結構大変なことではある。薄皮一枚という限定された場の上で共有される価値観という約束事によって描かれた絵であっても、鑑賞者にとって「他者」であることは変わらない。そうした作品をきちんと「見る」ということが、一生かかってもできない人のほうが多い。
世界の異様さは、小さな水の一滴の中にも見出すことはできる。だがその表現は惰性になってはいないか――という問題提起が為されたところで、今年度講義あと一回を残して今回は終了。
2009年度講義第3回
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