デビュー作『グアルディア』の刊行は、2004年8月25日である。そう、つまり仁木稔は今年でデビュー十周年なのであった。
この十年はいろいろあった……と言いたいところだが、実情は書いては直し、書いては直し、挙句の果てには出来上がったものが没になる、という期間がかなりの部分を占めるため、大して語るべきことはない。どうもすみません。
だいたい、物心付いて以来「お話を書く人」になりたかったのだから、小説家志望でいた時期は小説家になってからよりも遥かに長いのである。
と言っても、自分が書きたい「お話」がどんなものなのかを見出したのは、12歳の春に大原まり子(直接お会いしたことがないので、敬称略とさせていただきます)の『一人で歩いていった猫』と出会ってからである。
何を書きたいのか見出すだけにそこまで時間が掛かったのは、「マニュアル」を鵜呑みにしていたせいである。70年代後半~80年代前半には子供版「物語の体操」などなかったが、当時山ほど読んでいた海外児童文学の巻末解説には必ずと言っていいほど、作者は子供の頃に「自分を主人公にしたお話」を書いていた、とあったのである。
だから私も「お話を書く人」を目指すなら、まずは「自分を主人公にしたお話」を書かなければいけない、と思い込んでしまったのである。
そうして小学校時代は、「自分を主人公にしたお話」をあれこれ考えてみたのだが、これがまた全然楽しくないのである。日常的な話だろうと、非日常的な話だろうと、『はてしない物語』のバスティアン並みに「自分」のスペックを高くしてみようと、ぜんっぜん楽しくない。
『一人で歩いていった猫』でやっと気がついたのは、私が「書きたいもの」はSFだった、ということのみならず、「私が出てこない話」であった、ということであった。
私は私が出てくる話なんか、読みたくもないし書きたくもない。そのことに、ようやく気がついたのである。
というわけで、「私」の枷から解き放たれた私は、いろいろアイデアを思いついたりプロットを練ったりするところまではできるようになった。が、それをいざ書き始めてみると、たちまち空中分解してしまうのであった。
私にとって、小説を書くという作業は、「念動力」で建物を建てるようなものだ。土台は、それまでに身につけてきた知識と経験のすべてである。建材となるのは細部のアイデアとそれを補強する知識。その建材を使って、屋根から下に向かって造っていくのである。
しかるべきサイズと形の建材を組み立てる設計力(構成力)も重要だが、「空中楼閣」を上から下へ向かって築いていき、最後にきちんと土台の上に建たせるのは、ひたすら力業あるのみ、である。設計を間違えるのはもちろん、「念動力」が足りなければ、空中分解してしまう。
当時の私には知識も経験も構成力も、何より「空中楼閣」を築き上げて(築き下ろして?)土台に載せるまでの「念動力」も、決定的に欠けていた。ネタを考える能力までは欠けていなかった、少なくとも皆無だったわけではない、と思う。
とにかく文字にするとつまらなく思えてしまうので、そのうちネタを書き留めることすらしなくなった。だから、ほとんど忘れてしまったわけだが、幾つかは断片的に憶えている。それらのさらに幾つかは、デビュー以後の作品に使われている。特に「はじまりと終わりの世界樹」の核になる双子の姉弟と彼らの「娘」の物語は、高校時代のプロットほとんどそのままである。
しかし恐ろしいのは、当時の私が、「いつか小説を書けるようになる」となんの根拠もなく信じ切っていたことだ。書けるようになるための努力など高校一年の時点で放棄していたし、どうすれば書けるようになるかを考えることすらしなかった。絵に描いたような駄目小説家志望である。
ただし、かろうじて羞恥心はあったため、小説を書く努力をやめた時点で、小説家志望であることを公言するのもやめた。小説家志望のくせに小説を書けないのが恥ずかしくて、文学部(母校の文芸部は、なぜかそう呼ばれていた)にも入らなかった。いや、文学部の部室まで行くことは行ったのだが、応対してくれた先輩が何かものすごく不機嫌だったので、びびってしまったのである。
実は、その文学部の二年先輩に、『みずは無間』の六冬和生氏がおられたのだが(応対してくれた怖い先輩ではない)、こうして行き会うことなく終わったのであった。
代わりに入ったのが漫研である。とにかく、なんらかの形で創作欲を満たしたかったのである。そしてそのまま、漫画ばかり描いて過ごす高校時代を送ることになる。もちろん漫画家になれるなどと思っていたわけではないが、どうせなら巧くなりたいではないか。
それにまた、漫画を描く経験は小説を書くのに必ず役に立つ、と信じていたのである。
実際のところは、どうなんだろうな……視覚的な想像力は鍛えられたはずだが、たとえばキャラ作りや物語作りの技術を磨けたほど作品を描いたわけでもないからな(絵が下手なので、描くのも遅かったのである)。
唯一確実に得たと言えるのは、「人間、努力しても駄目なものは駄目」という身も蓋もない教訓だけだ。いや、まじで。
解りやすい例を挙げると、義弟(妹の旦那)はデザイン関係の仕事に就いているわけでもないし、毎日絵を描いているわけでもないのに、たとえば自分の娘のためにプリキュアの切り絵を下描きもなしに、途中で鋏を止めることすらなしに、ちゃちゃっと作ってしまう。あの複雑怪奇な髪型や衣装のシルエットを、だ。もちろん、練習などしていない。見本となるイラストは手許にあるのだが、それとは違うポーズを切り抜くのである(ついでに、プリキュアのファンでもない。娘に付き合ってプリキュアの映画に行っても爆睡するそうだ)。
もうね、こういうのを見せられると、絵を描ける人と描けない人とでは、脳の構造からして違うんだと思わずにはいられない。努力で埋められる差じゃないよ。
つまり漫研での三年間はまったくの無駄だったのかもしれないのだが、まあ済んだことは仕方がない(あまり後悔というものをしないのである)。どのみちこの三年の間に、SF作家志望にとってのさらなる危機が、別の形で訪れていたのであった。「SF冬の時代」だ。
最初の躓きは、オースン・スコット・カードの『エンダーのゲーム』だった。短篇版のほうではそうでもなかったんだが、長篇版は、何かものすごく気持ち悪かったのである。何が気持ち悪かったのかはとっくに忘れてしまったし(無意識のうちに記憶を削除したのであろう)、再び気持ち悪くなるのは嫌だから再読する気もないが、今にして思えば、あれは「セカイ系」的な気持ち悪さだったのかもしれない。
続いて、異世界ファンタジーと「サイエンス・ファンタジー」の氾濫となった。異世界ファンタジーは、嫌いとまでは言わないが、SF者としてどうしてもその世界設定に引っ掛かりを覚えてしまうし(そこは地動説の世界なのか、天動説の世界なのか? いや、そもそも物質の組成はこの宇宙と同じなのか、違うのか?)、ブームの常として間もなく粗製濫造となり、すっかりうんざりさせられてしまったのである。それは、サイエンス・ファンタジーについても同様だった。
こうして私は次第にSFもファンタジーも読まなくなり、高校三年生になる頃には小説自体、ほとんど読まなくなっていた。この小説離れは、十年近く続く。
もっとも小説を全然読まなかったわけではなく、時々突発的に読み出すこともあった。太宰治はこの時期に読んだし、『ファイア・スターター』と『ロリータ』は生涯の愛読書になるだろう。SFからも完全に離れたわけではなく、例えばティプトリーJrと神林長平(敬称略)は高校以前よりもこの時期のほうが多く読んでいる。
しかし年間あたりの読書量は、せいぜい十冊程度だったはずだ。この長いブランクは、未だに埋められずにいる。
そしてもちろん、小説も書かなかった。大学時代に創作欲を満たしたのは、自主制作映画と演劇である。映画を撮るにせよ、演技をするにせよ、全然モノにならなかったのは、無論才能がなかったからだが、もう一つ、当時は解っていなかったのだが、私は自分が主体として行動することが苦手だし、そうすることも望まないのだ。
「自分が主人公」の物語を書けない・書きたくないのと、まったく同じ理由である。私は常に客体でいたいのだ。劇団(と自称しているが、要は大学の演劇部)に途中入部したのも、観客として舞台を観ているうちに、演劇というものについてもっと多くを知りたい、内部から知りたいと思うようになったからである。つまりあくまで客体でいたかったわけで、自分が演技をしたかったわけではない。
とか言いつつ、ピンスポを浴びるのは気持ちよかったんだけど。
そうしてなお、「いつか小説が書けるようになる」と信じていたのである。映画も演劇も、モノにならないことはちゃんと自覚していたが、いつか小説を書けるようになったら役に立つと考えていたのである。
この自信は一体何を根拠にしていたのか本当に謎だが、ともかく漫研と違って映画と演劇の体験は、明確に小説の創作に役立っている。キャラクターの作り方、動かし方は演劇から学んだし、何より私の小説の書き方は、まずシナリオ形式(セリフとト書き)で書いてから、小説の文章に直していく、という方法なのである。
サークルを引退してほかにすることがなくなったら、専攻である東洋史が急におもしろくなってきた。それで大学院進学となるのだが、結局のところ、東洋史研究も私にとっては小説創作の代替行為なのだった。論文もゼミ発表もレポートもすべて、「物語」なのである。がっつり史料に基づいて、細部では一切創作をしていないが、それでも全体としては創作なのだ。
私の学士論文は、副審であった陳謙臣先生(中国語の先生でもある)によれば、「文章が巧い」とのことであった。先生は陳舜臣(敬称略)の弟さんである。この評は、ほかに褒めるところがなかったからではなく(一応仮にも大学院に進学してるし)、私の卒論が一つの「物語」であることを見抜いたものではないかと思う。
そういうわけで、私が研究者になれないのは、当然のことだった。だいたい、この期に及んでなお、「いつか小説を書けるようになる」と信じていたし。学部時代までならまだしも、そろそろただのやばい奴である。
そしてまた、この学究生活もいつか創作に役立つと信じてもいた。この時期は、SF作家になる気をなくしていたわけではないものの、歴史小説を書きたいなあとか思っていたのである。ま、思うだけなら自由だ。
実際に役立ってるのは、リサーチとか文章にだな。特に物語パート以外の部分の記述は、まるっきり論文と同じ調子で書いてるし。
かくして文学修士という、役に立たないにもほどがある肩書きを得て大学院を卒業したのであるが、在学中からしていた本屋のバイトをフルタイムで続けられたので、しばらくは世間の荒波に直面することはないのであった。ほんのしばらくの間だけであったが。
続く。