小説家への迷い道⑤

 作品を読んで、どこがいいのか悪いのか評価してくれる人を求めて、早稲田大学の創作講座に潜り込むことにした私であったが、期待していたのは講師の先生ではなく、受講生たちに対してであった。佐藤亜紀先生を選んだのも、当時はファンというほど熱心な読者ではなく、私が最初に応募したファンタジーノベル大賞の受賞者であったから、というのが最大の理由であった。
 指導は期待と異なり一対一だったのであるが、「学生同士に批評させあうほうが講師としては楽だけど、素人同士の潰し合いになってはいけないから」という先生の言葉はたいへん納得できるものであり、かつ市民講座の講師たちにない誠実さに裏打ちされたものであった。

 最初の二、三ヶ月で、それまでに書いた長編や短編を幾つか持っていき、その後、新作を一、二ヶ月ごとに一、二章ずつ見ていただいた。それが『グアルディア』である。
 とにかく何を書いても、何を書いたのか、何を書きたかったのかを理解してもらえる。今までが今までだっただけに、これは本当に舞い上がるほど嬉しかった。
「今まで」とは、たとえば「長いのは読めない」という友人知己に、頼み込んで短編(非SFなら短編も書けるのである)を見てもらうと、「へー、こんなこと考えてるんだー」……あのー、作文じゃないんですけど。
 あるいは、少しは小説を読む人たちに、人でなしを主人公にした長編を読んでもらうと、書いた私まで人でなしだと思われて敬遠される……いやその、作者と登場人物は別ものですよ?
 あるいは市民講座の講師のことごとく(全員60代男性)に、まったく性的な含意のない文章に勝手に妄想を膨らまされ、それを講義時に(もちろん他の受講生の前で)延々と開陳された挙句に、「だけどきみは、男ってものが解ってないなあ。その辺はもっと勉強しないと」などとかまされる……キモっ。

 それが佐藤先生は、毎回ちゃんと意図を理解してくれるだけでなく、おもしろかったと褒めてくれて(もちろんどこがどうおもしろかったか具体的に)、その上で、「でも、あなただったら、もっと書けるでしょ」とか「ちょっと書きすぎちゃってるね。それはあなたが巧いからだけど、もう少し抑えたほうがいい」という言い方をする。具体的にどうしろ、とは言わない。おそらく、指図されると脊髄反射で逆のことをしようとする私の曲がった根性を早々に見抜いておられたのであろう。
 そして私は、巧いなあと思いつつ、毎回しっかり乗せられて、乏しい脳みそを捻りに捻って限界を超えて頑張った。主観的にも客観的にも、当時の私ほど幸せな小説家志望はそういないだろうと思う。
 あとそれから、「有能な指揮官」に必要な資質というものを、よっく理解できましたよ。「きみにならできる」「きみにしかできない」という言葉だけで、部下をその気にさせる能力だ。言われるほうは、どうせおだてだろうと思ったとしても、それをほかの誰かではなく自分に言ってくれるのが嬉しくて乗せられてしまうという。

 完成した約1000枚の『グアルディア』を、佐藤先生は塩澤快浩編集長に紹介してくださったわけだが、その際、私のことは「創作講座の学生」とだけ、作品についての説明も一切なかったため塩澤編集長は困惑し、そのまま三ヶ月放置したそうである。
 三ヶ月経ってから取り出して、一読してすぐに刊行を決めてくださったそうだが、打ち合わせの時、佐藤先生が『グアルディア』を送った時のメールをわざわざプリントアウトしたものを見せてくださった。
 本当に、「先日お伝えした学生の作品です。よろしくお願いいたします」としか書いていなかった。
 あまりのシンプルさに、まじで全身から血の気が引きましたよ。いや、これはつまりきっと、それだけ『グアルディア』の出来を信頼してくださったのだということなのでしょうけれど、あの時は心、いや魂の底から思いましたね。「放置が三ヶ月で済んでよかった……!」

 デビューが決まった後にお会いした際、佐藤先生は「一年に一冊は本を出しなさい」と仰られた。そのとおりにできたのは、かろうじて『ラ・イストリア』までである。情けない教え子(「弟子」とはよう言わん)だ。
 書きあぐねる原因は、突き詰めればただ一つ、「私は小説を書ける人間だ」という自己暗示が巧く掛からないことである。これができないと、書いては直し、を延々と繰り返す上に、書き上げても没の憂き目を見ることになる。
 自己暗示に必要なのは、とにかく雑念を捨てることである。これは家でネットをしなくなったら、だいぶマシになった。ネットは無数の人間の雑念の集合体だからな。
 あとは、その時点での自分の力量を大きく超えたものを書こうとするのをやめること。もちろん労せず書いたのでは成長もないわけだけど、あまりに分不相応な高みを目指しても、失敗して地べたを這うことになる。

 そういうわけで、デビュー十年目の仁木稔の目標は、コンスタントに作品を発表できる作家になることです。あ、書いてて情けなくなってきた。あと、SF短編を書くこと。

 前の迷い道へ

 迷い道①へ

|

小説家への迷い道④

 さて、ついに小説を書けるようになった私は、ファンタジーノベル大賞に続いて応募した小説すばる新人賞では三次選考通過となかなか順調であった。
 小説が書けなかった時代、「でも小説を書き上げられたって、落選したら努力が無駄になるしな」などと考えていたのであるが、書けるようになってみると、何を腑抜けたことを抜かしとんねん、と当時の自分に説教してやりたい。落選したら、また新しいものを書けばいいだけの話である(落選作も、リライトして別の賞に応募するという手もあるしな)。

 ただ、一つ困ったことがあった。三次選考レベルでは寸評すらもらえないので、新たなものを書くにも、リライトするにも、どこがいいのか悪いのか判断のしようがないのである。
 他人に作品を読んでもらって意見を聞くしかないのだが、そういうことをしてくれそうな人が、周りに一人もいなかった。小説家志望のくせに小説が書けないことを恥じ、他の小説家志望に限らずアマチュア小説書きとの交流を避けてきたのが仇となったのである。
 小説を読まない時期も長かったので、読書家の友人知人もいなかった。文学部で演劇部で自主制作映画サークルで、とくれば小説好きな人がたくさんいてもよさそうなものだが、いなかったんだな、これが。

 そういうわけで、「読んでくれる人」を求めて創作市民講座のようなところに行くわけだが、これがまったく話にならない。半年コースを計三つ巡ったが、「宇宙哲学」に遭遇したのこそ一回限りだったとはいえ(あんなのに何度も遭遇してたまるか)、すべてに共通していたのは、書かない読まない受講生と、指導どころかセクハラをかましてくる講師であった。

 大学の創作講座を聴講してみよう、という気になったのは、大学なら少なくともやる気のある若者もいるかもしれない、と考えたからだった。指導については、それまでがそれまでだっただけに、鐚一文期待していなかった。
 それが、2002年のことである。当時、東京に住んでいたので、通える範囲で創作講座を開いている大学を探したところ、三つ見つかった(すべて私立)。しかし、いずれも創作講座は聴講対象から外れていた。

 現状を打開したくて必死だった私は、頼み込めばなんとかなるかもしれないと、文学部事務室に電話をしてみた。最初の二つは「すみません、創作講座の聴講はできますか?」「できません」(電話切られる)。取り付く島もないとは、このことある。
 しかし三つめ、早稲田大学では「すみません、聴講はやってないんですよ……」。本当に申し訳なさそうな口調に、とっさに私は尋ねていた。「では、講師の先生に直接お願いするのはどうでしょうか」
「ああ、それは今までにも例がありますから、その先生がいいと仰るのでしたら、もちろん構いませんよ」

 私が小説家になれたのは、直接には佐藤亜紀先生と『SFマガジン』編集長の塩澤快浩氏のお蔭だが、佐藤先生の許に至れたのは、早稲田大学文学部の名前も顔も知らない事務員の方のお蔭である。そして、もぐり受講を許容する早稲田大学の学風のお蔭でもある。本当に、ありがたいことである(いや、正規に聴講できたんだったら、そうしましたよ?)。

 もう一回続きます。

 前の迷い道へ

 迷い道①へ

|

小説家への迷い道③

 私はまったくの無神論者で、信仰というものが理解できない。大学で正規の仏教教育を受けたわけだが、釈尊にせよ親鸞上人にせよ(大学ではこう呼んでいた)、その説法の多くには感心するものの、だからと言って、なぜそれが「信仰」となるのか理解できない。だいたい、仏教は無神論だしね。
 仏教のように合理的なものが信心できないのだから、非合理なものはなおさらである。私が作品に原理主義者や陰謀論者を登場させるのは、非合理なものを信じる心性を解析したいからだ。

 しかしその私が、「自分はいつか小説が書けるようになり、小説家になれる」と固く信じていたわけで、それは一切根拠もなく、また一度として信じようと努力したわけでもない。信じるのをやめようとしたことは数限りなくあるが、不可能だった。まるで、未来の既成事実であるかのように、心から消すことができなかった。 
 あるいは、信心とはそういうもの、理屈じゃないものかもしれない。ということは、信じようと努力する必要があったり、信じることをやめられるのなら、それは本物の信心ではないということになるのだろうか。

 もちろん、「本物の信心」だったとしても、それが事実である、あるいは事実となる保証など一切ない。確かに私は信じていたからこそ努力してこられたのだが、その努力ができるようになったのも、まずは「小説が書けるようになる」という最初の壁を突破できてからのことで、そもそも小説が書けない段階では、小説を書く努力すら不可能である。少なくとも私はそうだった。
 じゃあ小説を書けるようになる以前は何をしていたのかと言えば、これまで述べたように、いつか小説を書く役に立つと信じていろんなことに手を出してきた。それらの経験が役に立っているのは事実だが、それがなかったら小説家になれなかったというわけでもないしな。

 だから、「信じて努力すれば叶う」なんて、無責任にもほどがある言葉だ。「信じる」ことはなんの保証にもならないし、努力してどうにかなることもあるが、どうにもならないこともある。で、駄目だったとしても、信念か努力のどちらかが(あるいは両方)が足りなかったんだと本人のせいにして、言った奴は責任を取らなくていいんだからな。
 だから私は、もし小説家になれていなかったら、いやそれ以前に小説を書けないままだったら、今頃どうなっていたか、恐ろしくて想像もできない。

 さて、本屋の女王様によって就職氷河期の只中に蹴り出された私(当時25歳)は、なおも「いつか小説が書けるようになり、小説家になれる」と頑迷に信じ続けていたものの、「いつか」がいつなのか判らないので、とにかく一番近い職種として編集者を目指すことにしたのであった。
 とは言うものの、関西で編集者の求人は少ない。とりあえずそれを第一志望として、自分にできそうな仕事があれば片っ端から応募した。もちろん連戦連敗である。

 そんなある日、とある出版社の求人を見つけた。一般書籍のほか学習教材も出版している、かなりの大手である。ダメ元で説明会に行ってみると、最初の一年は営業、すなわち教材の訪問販売をしなければいけない、と言う。しかし二年目には希望の職種に移れるという。
 一年くらい耐え抜いてやる、と面接を受け、無事採用と相成った。初日、営業所に出勤した私に所長が告げたのは、「一年半経ったら、職種異動願いを出せる」。
 詐欺じゃねーかよ、と唖然としたが、そう言って席を蹴って立つには、もはや切羽詰まりすぎていた。

 少しして知ったことだが、異動願いを出したところで、長い人で七年も訪問販売に釘付けにされていたし、最も成績優秀な人は勤続三年目だったが、「来期は異動確実」と羨望の目で見られていた。
 訪問販売員として日々は、思い出したくないので思い出さない。とにもかくにも、きっかり二ヶ月で解雇されたため、それほどダメージを受けずに済んだのだった。これを不幸中の幸いなどと言いたくはないが、実際、心身ともに変調を来した子もいた。
 

 彼女は短大を出て新卒で、つまり私より半年ほど早い採用で、その半年間の成績はそう悪くもなかったらしい。私が入社した当初の彼女は、明るくて礼儀正しい子だった。
 それが、半月ほどして突然成績が下がり始め、比例してどんどん雰囲気が暗くなっていった。菓子を貪る姿が目に付くようになり、痩せて細面だったのが、体型は変わらないのに顔だけが日に日に丸くなっていった。同時に、顔色はどす黒く変わっていった。皆の挨拶に返事もしなくなり、ある日、トイレに行った私が見たのは、鏡に向かって何やら呟いている彼女だった。挨拶は、もちろん無視された。私がトイレを出る時も、呟きは続いていた。
 彼女が辞めたのは、それから数日後のことだった。

 その一ヶ月後、私は解雇され、そして突然小説が書けるようになった。単に一定量の「作文」ができるようになったというのではなく、「本当に」小説が書けるようになったのだということは、二ヶ月で書き上げた350枚ばかりのその原稿が、日本ファンタジーノベル大賞の一次選考を通過したことから明らかである。ちなみに、日本ファンタジーノベル大賞は一次選考の次が最終選考ですよ。
 書けるようになった理由は、いろいろ考えられる。一番大きいのは、「私は小説を書ける人間だ」と自己暗示を掛ける方法を編み出したことである。実は、未だにこの自己暗示は必要である。自己暗示が巧く掛かれば巧く書けるし、掛かり方が今いちだと、書きあぐねて地獄の苦しみを舐めることになる。

 最初に、「小説を書くのは念動力で建物を屋根から下に向かって造っていくようなもの」云々と与太を飛ばしたが、この喩えに従うなら、私の「念動力」は「私は小説を書ける人間だ」という自己暗示があってようやく発動するのだということになる。
 あるいはひょっとしたら、これも「主体として行動するのが苦手」であることと関係しているのかもしれない。「主体として行動するのが苦手な私」と「小説を書く(主体として行動する)私」とを切り離す必要があるのかもしれない。
 それとクビになる少し前、大学時代の先輩から中古のワープロを譲ってもらったのだが、そのお蔭で自己暗示を掛けるのが容易になったのだろう。私はひどい悪筆である。丁寧に書いても悪筆な上に、特に小説を書いて(書こうとして)いる時など、考えるのと同じ速度で書こうとするため悲惨なことになる。下手っくそな自分の字を見ると、げんなりして我に返らざるを得ないのである。手書きしかない時代だったら、作家になれなかった可能性は高い。

 しかしひょっとすると、初めて就職した会社を短期間でクビになったことで、もう本当に後がないのだと腹を括ったのかもしれない。自覚はないんだが。
 学生時代に熱心にやってきたこと(漫画、映画、演劇、歴史研究)はどれ一つとしてモノにならず、巧くいっていると思っていたアルバイト先(本屋)からは追い出され、ついには社会人として無能だということも証明されてしまった、もう小説を書くしか道はない、と。
 小説を書けなければ、もう私には何一つ残らない、という自覚こそなかったものの、社会人として無能なんだという意識がはっきりと刻み込まれたのは確かである。

 そして、時は流れて2010年代、「ブラック企業」という名称を耳に(目に)するようになり、挙げられている条件を眺めてみると…………くっそー、あの会社、ブラック企業そのものじゃねーか。あそこでやっていけなかったのは、私に問題があるからだと十年以上も思い込んでたけど、問題があったのは会社のほうじゃねえか。

 ……まあね、あの会社の後もバイトや契約社員として職を転々として、どれも長続きしなかったから、やっぱり私は社会人として無能なんだろうけどさ。それに、あの時「もう後がない」と思わせてくれたお蔭で小説が書けるようになったのだとすれば、そのことについてはどんなに感謝しても感謝しきれない……わけねーだろ、クソ会社め。

 ちなみにその後の仕事の中で一番長続きしたのはパンフレット制作会社で、そこでの肩書きは「エディター」でしたが、メインの仕事は校生でした。その経験は小説家として役に立っているはずです、たぶん。

 もう少し続く。

迷い道①へ

迷い道②へ

|

小説家への迷い道②

 1998年、大学院を卒業した私は、在学中から始めていた書店アルバイトをフルタイムで続けられたため、しばらくは世間の荒波に身をさらさずに済んだのであった。

 その店でまず驚かされたのは、小説が売れないということだった。そこそこ大きな店で、お客も入った。だが彼らが買う本のほとんどは小説ではなかったのである。
 もう十数年前のことであり、現状はさらに悪化しているだろう。小説家志望の人は、一度書店で働いてこのことを実感してみるべきだと思う。それで諦められるのであれば、そのほうがいいだろう。それでもなお夢を持ち続けるとして、売れなくてもいいから小説家になるのだと覚悟するか、自分はほかの誰よりも売れる小説家になるのだと決意するかは、まあ人それぞれだ。

 小説を読まないのはお客に限ったことではなく、その店の従業員は全員、小説を含めて本を読まない人ばかりだった。学部時代後半から院生時代にかけて、私が読む本のほとんどは自分の専攻(東洋史)関係になっていたのだが、それらを別にしても、私が店で一番の読書家という有様だった。
 そのうえ皆、本のタイトルや作者名も全然憶えない。私は記憶力はそういいほうでもないのだが、小説に限らず本のタイトルや作者名、紹介文の内容等は比較的よく憶えられる。店内の本の場所についても彼らに比べれば物覚えがよく、お客のために本を探すのは私の役目になった。
 小説が売れないと言っても、毎日売れる本の数はそれなりであったから、小説も日に何冊かは売れる。必然的に私も小説本に接触する機会が増え、そのうち自分でも読むようになった。従業員は一割引で本が買えたのである。

 かようになかなか快適な職場ではあったが、実はそこには女王様が君臨していた。20代後半の正社員で担当は経理である。もう一人の正社員である店長(定年間近の男性)からパートの中高年女性二名、何人もいる男子バイトの誰一人として彼女に逆らえなかった。
 で、その女王様が、ただ一人の女子バイトである私に、当初からチクチクと嫌味を言うのである。
 私の前の女子バイトは、この嫌味攻撃に耐え切れずに辞めてしまったのだそうである。私と一緒に売り場を担当するパートの女性も、時々女王様の意地悪なお言葉に泣かされていた。経理を補佐するもう一人のパート女性はひたすら迎合して難を避けていたし、店長は女王様が勤務中にお喋りをしたり雑誌を読んでいても何も言えず、男子バイトたちは下僕であった。

 しかし嫌味と言っても、内容も表現のヴァリエーションも乏しいし、彼女と顔を合わせるのは日に数回だけだし、ほかに何をされるわけでもないので私は気に止めていなかった。
 それに、彼女は結構な美人だったのである。私は美人が好きである。別に仲良くなりたいとかそういうんではなく、純粋に鑑賞対象としてなので、その人の性格が良かろうが悪かろうが、私に悪意を持っていようがいまいが、どうでもいい。

 ところで、美女が他人をいじめたり罵ったり、陰口を叩いたりというような行為をすると、「彼女の美しい顔は醜く歪んだ」というような表現に時々出くわすが、そういうことを言う人は観察力が足らんよ。それか、本当に性格の悪い美人というものに会ったことがないんだ。
 悪意に満ちた行為を心底楽しんでいる美女は、醜くなったりなんかしない。ますます美しくなるのである。瞳は潤んできらきらと輝き、頬は上気し、唇は赤みを増す。それはもう美しいのだ。怖い怖い。

 そういうわけで、先に耐え切れなくなったのは私ではなく女王様だった。採用から一年数ヵ月経ったある日、唐突に、まったく唐突に私は「辞めろ」という御命令を賜ることとなった。前兆の類(嫌味がきつくなるとか)は一切なかった。で、理由というのが、「あんたがいると不快になるから」。さすが女王様である。
 いくら実際には女王様にはなんの権限もないとは言え、そしていくら私の神経が太いとは言え、さすがに面と向かってそこまで言われては辞めざるを得なかった。

 かくして、私の安穏とした日々はついに終わりを迎えたのであった。

 続く。

 迷い道①へ

|

小説家への迷い道

 デビュー作『グアルディア』の刊行は、2004年8月25日である。そう、つまり仁木稔は今年でデビュー十周年なのであった。
 この十年はいろいろあった……と言いたいところだが、実情は書いては直し、書いては直し、挙句の果てには出来上がったものが没になる、という期間がかなりの部分を占めるため、大して語るべきことはない。どうもすみません。

 だいたい、物心付いて以来「お話を書く人」になりたかったのだから、小説家志望でいた時期は小説家になってからよりも遥かに長いのである。
 と言っても、自分が書きたい「お話」がどんなものなのかを見出したのは、12歳の春に大原まり子(直接お会いしたことがないので、敬称略とさせていただきます)の『一人で歩いていった猫』と出会ってからである。

  何を書きたいのか見出すだけにそこまで時間が掛かったのは、「マニュアル」を鵜呑みにしていたせいである。70年代後半~80年代前半には子供版「物語の体操」などなかったが、当時山ほど読んでいた海外児童文学の巻末解説には必ずと言っていいほど、作者は子供の頃に「自分を主人公にしたお話」を書いていた、とあったのである。
 だから私も「お話を書く人」を目指すなら、まずは「自分を主人公にしたお話」を書かなければいけない、と思い込んでしまったのである。

 そうして小学校時代は、「自分を主人公にしたお話」をあれこれ考えてみたのだが、これがまた全然楽しくないのである。日常的な話だろうと、非日常的な話だろうと、『はてしない物語』のバスティアン並みに「自分」のスペックを高くしてみようと、ぜんっぜん楽しくない。
『一人で歩いていった猫』でやっと気がついたのは、私が「書きたいもの」はSFだった、ということのみならず、「私が出てこない話」であった、ということであった。
 私は私が出てくる話なんか、読みたくもないし書きたくもない。そのことに、ようやく気がついたのである。

 というわけで、「私」の枷から解き放たれた私は、いろいろアイデアを思いついたりプロットを練ったりするところまではできるようになった。が、それをいざ書き始めてみると、たちまち空中分解してしまうのであった。
 私にとって、小説を書くという作業は、「念動力」で建物を建てるようなものだ。土台は、それまでに身につけてきた知識と経験のすべてである。建材となるのは細部のアイデアとそれを補強する知識。その建材を使って、屋根から下に向かって造っていくのである。
 しかるべきサイズと形の建材を組み立てる設計力(構成力)も重要だが、「空中楼閣」を上から下へ向かって築いていき、最後にきちんと土台の上に建たせるのは、ひたすら力業あるのみ、である。設計を間違えるのはもちろん、「念動力」が足りなければ、空中分解してしまう。
 
 当時の私には知識も経験も構成力も、何より「空中楼閣」を築き上げて(築き下ろして?)土台に載せるまでの「念動力」も、決定的に欠けていた。ネタを考える能力までは欠けていなかった、少なくとも皆無だったわけではない、と思う。
 とにかく文字にするとつまらなく思えてしまうので、そのうちネタを書き留めることすらしなくなった。だから、ほとんど忘れてしまったわけだが、幾つかは断片的に憶えている。それらのさらに幾つかは、デビュー以後の作品に使われている。特に「はじまりと終わりの世界樹」の核になる双子の姉弟と彼らの「娘」の物語は、高校時代のプロットほとんどそのままである。

 しかし恐ろしいのは、当時の私が、「いつか小説を書けるようになる」となんの根拠もなく信じ切っていたことだ。書けるようになるための努力など高校一年の時点で放棄していたし、どうすれば書けるようになるかを考えることすらしなかった。絵に描いたような駄目小説家志望である。
 ただし、かろうじて羞恥心はあったため、小説を書く努力をやめた時点で、小説家志望であることを公言するのもやめた。小説家志望のくせに小説を書けないのが恥ずかしくて、文学部(母校の文芸部は、なぜかそう呼ばれていた)にも入らなかった。いや、文学部の部室まで行くことは行ったのだが、応対してくれた先輩が何かものすごく不機嫌だったので、びびってしまったのである。
 実は、その文学部の二年先輩に、『みずは無間』の六冬和生氏がおられたのだが(応対してくれた怖い先輩ではない)、こうして行き会うことなく終わったのであった。

 代わりに入ったのが漫研である。とにかく、なんらかの形で創作欲を満たしたかったのである。そしてそのまま、漫画ばかり描いて過ごす高校時代を送ることになる。もちろん漫画家になれるなどと思っていたわけではないが、どうせなら巧くなりたいではないか。
 それにまた、漫画を描く経験は小説を書くのに必ず役に立つ、と信じていたのである。

 実際のところは、どうなんだろうな……視覚的な想像力は鍛えられたはずだが、たとえばキャラ作りや物語作りの技術を磨けたほど作品を描いたわけでもないからな(絵が下手なので、描くのも遅かったのである)。
 唯一確実に得たと言えるのは、「人間、努力しても駄目なものは駄目」という身も蓋もない教訓だけだ。いや、まじで。
 解りやすい例を挙げると、義弟(妹の旦那)はデザイン関係の仕事に就いているわけでもないし、毎日絵を描いているわけでもないのに、たとえば自分の娘のためにプリキュアの切り絵を下描きもなしに、途中で鋏を止めることすらなしに、ちゃちゃっと作ってしまう。あの複雑怪奇な髪型や衣装のシルエットを、だ。もちろん、練習などしていない。見本となるイラストは手許にあるのだが、それとは違うポーズを切り抜くのである(ついでに、プリキュアのファンでもない。娘に付き合ってプリキュアの映画に行っても爆睡するそうだ)。
 もうね、こういうのを見せられると、絵を描ける人と描けない人とでは、脳の構造からして違うんだと思わずにはいられない。努力で埋められる差じゃないよ。
 
 つまり漫研での三年間はまったくの無駄だったのかもしれないのだが、まあ済んだことは仕方がない(あまり後悔というものをしないのである)。どのみちこの三年の間に、SF作家志望にとってのさらなる危機が、別の形で訪れていたのであった。「SF冬の時代」だ。

 最初の躓きは、オースン・スコット・カードの『エンダーのゲーム』だった。短篇版のほうではそうでもなかったんだが、長篇版は、何かものすごく気持ち悪かったのである。何が気持ち悪かったのかはとっくに忘れてしまったし(無意識のうちに記憶を削除したのであろう)、再び気持ち悪くなるのは嫌だから再読する気もないが、今にして思えば、あれは「セカイ系」的な気持ち悪さだったのかもしれない。
 続いて、異世界ファンタジーと「サイエンス・ファンタジー」の氾濫となった。異世界ファンタジーは、嫌いとまでは言わないが、SF者としてどうしてもその世界設定に引っ掛かりを覚えてしまうし(そこは地動説の世界なのか、天動説の世界なのか? いや、そもそも物質の組成はこの宇宙と同じなのか、違うのか?)、ブームの常として間もなく粗製濫造となり、すっかりうんざりさせられてしまったのである。それは、サイエンス・ファンタジーについても同様だった。

 こうして私は次第にSFもファンタジーも読まなくなり、高校三年生になる頃には小説自体、ほとんど読まなくなっていた。この小説離れは、十年近く続く。
 もっとも小説を全然読まなかったわけではなく、時々突発的に読み出すこともあった。太宰治はこの時期に読んだし、『ファイア・スターター』と『ロリータ』は生涯の愛読書になるだろう。SFからも完全に離れたわけではなく、例えばティプトリーJrと神林長平(敬称略)は高校以前よりもこの時期のほうが多く読んでいる。
 しかし年間あたりの読書量は、せいぜい十冊程度だったはずだ。この長いブランクは、未だに埋められずにいる。

 そしてもちろん、小説も書かなかった。大学時代に創作欲を満たしたのは、自主制作映画と演劇である。映画を撮るにせよ、演技をするにせよ、全然モノにならなかったのは、無論才能がなかったからだが、もう一つ、当時は解っていなかったのだが、私は自分が主体として行動することが苦手だし、そうすることも望まないのだ。
「自分が主人公」の物語を書けない・書きたくないのと、まったく同じ理由である。私は常に客体でいたいのだ。劇団(と自称しているが、要は大学の演劇部)に途中入部したのも、観客として舞台を観ているうちに、演劇というものについてもっと多くを知りたい、内部から知りたいと思うようになったからである。つまりあくまで客体でいたかったわけで、自分が演技をしたかったわけではない。
 とか言いつつ、ピンスポを浴びるのは気持ちよかったんだけど。

 そうしてなお、「いつか小説が書けるようになる」と信じていたのである。映画も演劇も、モノにならないことはちゃんと自覚していたが、いつか小説を書けるようになったら役に立つと考えていたのである。
 この自信は一体何を根拠にしていたのか本当に謎だが、ともかく漫研と違って映画と演劇の体験は、明確に小説の創作に役立っている。キャラクターの作り方、動かし方は演劇から学んだし、何より私の小説の書き方は、まずシナリオ形式(セリフとト書き)で書いてから、小説の文章に直していく、という方法なのである。

 サークルを引退してほかにすることがなくなったら、専攻である東洋史が急におもしろくなってきた。それで大学院進学となるのだが、結局のところ、東洋史研究も私にとっては小説創作の代替行為なのだった。論文もゼミ発表もレポートもすべて、「物語」なのである。がっつり史料に基づいて、細部では一切創作をしていないが、それでも全体としては創作なのだ。
 私の学士論文は、副審であった陳謙臣先生(中国語の先生でもある)によれば、「文章が巧い」とのことであった。先生は陳舜臣(敬称略)の弟さんである。この評は、ほかに褒めるところがなかったからではなく(一応仮にも大学院に進学してるし)、私の卒論が一つの「物語」であることを見抜いたものではないかと思う。

 そういうわけで、私が研究者になれないのは、当然のことだった。だいたい、この期に及んでなお、「いつか小説を書けるようになる」と信じていたし。学部時代までならまだしも、そろそろただのやばい奴である。
 そしてまた、この学究生活もいつか創作に役立つと信じてもいた。この時期は、SF作家になる気をなくしていたわけではないものの、歴史小説を書きたいなあとか思っていたのである。ま、思うだけなら自由だ。
 実際に役立ってるのは、リサーチとか文章にだな。特に物語パート以外の部分の記述は、まるっきり論文と同じ調子で書いてるし。
 
 かくして文学修士という、役に立たないにもほどがある肩書きを得て大学院を卒業したのであるが、在学中からしていた本屋のバイトをフルタイムで続けられたので、しばらくは世間の荒波に直面することはないのであった。ほんのしばらくの間だけであったが。
 
 続く。

|