「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十三

其の一其の二十二
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 いろいろ片付いたんで再開。手術するかどうかは、来週の検査の結果次第です。
 全体的にネタバレ注意。 紀年は特記がない限りはADです。

 今回は、「初期イスラム時代(7-10世紀)のムスリムは、偶像(崇拝対象)をどう捉えていたのか」という問題についてと、それに間接的に関係のある本作の小ネタの解説です。
 ムハンマドがカアバ神殿に祀られていた大量の偶像をはじめ、各地の偶像(聖樹など自然物も含む)を破壊させた、という現存する最古の記録は、8世紀後半か9世紀初めに書かれた『偶像の書』です。邦訳が出ています。イスラム(およびアラブ)研究は、どんな分野であろうと遡るほど同時代記録が少ないという問題に付き纏われるんですが、これは比較的早いほうですね。
 著者は邦訳版では「イブン・アル=カルビー」という表記で、本作で名前が挙げられている「イブン・カルビー」父子の息子のほうです。「カルビー」は彼らの先祖の名前なので、この場合の「イブン・カルビー」は「カルビーの子孫」くらいの意味になります。

 本作で言及しているとおり、父のほうのイブン・カルビーは前イスラム期の伝承に詳しく、息子の著書には本人が収集した情報のほか、父から直接聞いた伝承も記されています。子の没年は820年前後で、史料によって819年から823年までの幅がありますが、生年のほうはさらに728年から747年と、ちょっと幅がありすぎる……。『偶像の書』がいつ書かれたのかは不明ですが、生年に20年近くも幅があると、推定できる年代にも幅がありすぎます。まあ本作の時代(8世紀半ば)にまだ書かれていなかったのは確実ですが。
 息子イブン・カルビーの生年は、本作では間を取って730年代後半を想定しています(享年が80代だったという史料もあるので、このくらいが一番確実です)。757年時点で30代後半にさしかかっているイブン・ムカッファよりだいぶ若いが、自ら伝承収集を行って数年になるくらいの年齢になります。。

 イブン・ムカッファはインドの数学・天文学、古代ギリシアの哲学・科学の知識がある(ペルシア語訳で読んでいる)上に、マーニー教を介してユダヤ・キリスト教に加えて仏教の知識もあります。もちろんペルシアの歴史やゾロアスター教についても知っている。しかし本作でも言及しているように、アラブ・ムスリムの異教への無関心は自分たちの先祖の宗教にまで及んでいるので、8世紀前半時点でそれについて知ろうとするなら、相当熱心に古伝承を収集しない限り無理だろうと思われます。
 が、幸いなことに彼と同時代にイブン・カルビー父子がいたわけです。しかも彼らが住んでいたのは、イブン・ムカッファが住むバスラと同じユーフラテス流域の都市クーファです。だからイブン・ムカッファが彼らから情報を得ていた可能性はある。まあバスラとクーファは500キロ近く離れてますけど。

 其の十二の最後のほうで言及したバラーズリー(892年頃没)の『諸国征服史』(花田宇秋・訳 岩波書店)、その第25章「シンドの征服」は、ウマイヤ朝による711年のシンド(西北インドというか、パキスタン)遠征についてです。イブン・ムカッファが『カリーラとディムナ』の原典をはじめとする、インドの物語集について聞き取りをした「シンド人の解放奴隷」は、この遠征以降にシンドから連れて来られたことになります。
 本作では古代インド(シンド)に物語集を3つ挙げ、『カリーラとディムナ』の原典(題名は出していないが『パンチャタントラ』は『カター・サリット・サーガラ(物語の川々は大海に注ぐ)』の一部、
『カター・サリット・サーガラ』は『ブリハット・カター(大いなる物語)』の一部、としています。実際の三者の関係は、其の十一で解説しました。
 で、史実において、『パンチャタントラ』はカシミールで成立したという説が有力で、『カター・サリット・サーガラ』はカシミールで成立したことが確実、『ブリハット・カター』はどこで成立したかは不明、パイシャーチーという言語で書かれた原典も逸失、幾つかの系統の翻訳版が現存するが、完本はカシミールに伝わるものだけなので、原典もこの地域と関係があるかもしれない。
 カシミールは現在の印パ国境地帯に位置します。つまり作中のシンド人解放奴隷が、この地に伝わる物語を口承で知っていた可能性は高い、ということです。

 ちなみにこの遠征の指揮官は、イブン・ムカッファの父をムカッファ(「手萎え」)にしたイラク太守ハッジャージュの娘婿で、イブン・ムカッファを処刑することになるスフヤーンの祖父ヤズィードの讒言によって715年に殺されました。ヤズィードは作中で言及されているようにハッジャージュに恨みがあったので、彼が714年に没すると、直ちに一族や配下の粛清に掛かったのでした。

 この『諸国征服史』は、ムハンマドの没後からウマイヤ朝期までのイスラム帝国の征服活動を記したものですが、何しろ文字記録がほぼ行われていなかった時代なので、情報源は著者バラーズリーの時代まで口承されてきた物語か、8世紀後半(本作より少し後)からようやく書かれるようになった歴史書(多くは現存せず)です。
 そうやって書かれた「シンドの征服」によれば、インダス川支流域のある寺には「預言者アイユーブに似た偶像」が安置されていたそうです。「預言者アイユーブ」は旧約聖書(キリスト教による差別的な呼称ですが、ほかに簡潔な日本語呼称もないので)のヨブのことですね。ムスリムは異教に無頓着なので「ある寺」が仏教のものかヒンドゥーのものかも不明ですが、どちらにせよ、そんな場所にある「ヨブに似た偶像」とは?
 第24章の、ゾロアスター教の曝葬としか思えない葬儀を望んだ「血筋もよく敬虔」なアラブ・ムスリムの指揮官のエピソードでもそうですが、この「ヨブ像」についても訳者の解説は一切ありません。しかしこれ……ガンダーラ美術の「釈迦苦行像」なんじゃないか? 出家直後の6年間の苦行で骨と皮だけに瘦せ衰えた、あの有名な座禅像です。これが神に試されてやつれ果てたヨブに見えたんじゃないかと。ガンダーラ近いし。どうなんですかね?

『諸国征服史』には、この「ヨブ像」も含め、イスラム軍が各地の偶像をどうしたかについては述べられていません。原則としてイスラムは強制改宗は行わないので、侵略時の略奪や破壊を除けば、現地民の信仰は納税と引き換えに保証されます。まあ私的な「異教徒いじめ」はいくらでもあったようですが。
 しかし「ソグドの地」(現在のウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン辺り。本作の時代には「ソグド」と呼ばれる人々の国々があった)では例外的に、組織的な強制改宗が行われました。
 上記のスフヤーンとその祖父ヤズィードは軍人家系のムハッラブ家当主でしたが、その名祖でヤズィードの父(スフヤーンの曽祖父)ムハッラブは698年、上記のイラク太守ハッジャージュによってソグドの地征服の任に就きます。本作でも言及しているように、ムハッラブは軍人としてまあまあ有能だったので、そこそこの成果を上げつつ大過なく生涯を終えました。本作の55年前、702年のことです。
 その跡を継いだヤズィードは、本作で述べているとおり、私腹を肥やすことと身内びいきをすることしか頭にない無能だったので、ハッジャージュはヤズィードを解任して兄弟たちと共に投獄し、クタイバという人物を後任にします。

 クタイバは軍人としては非常に有能で、ソグドの国々を次々と征服していきますが、ナルシャヒーによる11世紀半ばの『ブハラ史』(ブハラは現ウズベキスタンのオアシス都市。アラビア語原典は失われ、12世紀のペルシア語訳が現存。邦訳なし、英訳あり)によれば、 当時の常識に反して住民たちを強制的に改宗させ、多くの宗教施設と偶像を破壊します。ソグド人の抵抗があまりに激しかったからなのか、クタイバが狂信的だったからなのかは不明です。
 その後、ソグド人たちは従順なふりをして、こっそり先祖伝来の神々を拝み続けては、バレて罰せられる、ということを繰り返します(そして罰が厳しすぎて叛乱を起こす)。ちなみにソグド人はペルシア人と同じイラン・アーリア民族で、宗教もゾロアスター教です。ただしサーサーン朝が国家宗教として改革したゾロアスター教は光明神アフラマズダ以外の神々は下級神とし、偶像崇拝も禁止したのに対し、ソグド人はアフラマズダ以外の神々も偶像も大いに崇拝していました。

 一方、投獄されたヤズィードは脱獄し、カリフ後継者候補の一人に取り入ります。この人物が、ハッジャージュ(およびその配下のクタイバ)と対立していたからです。ヤズィードがこの対立を煽ったので、714年にハッジャージュが死んで、翌年にこの後継者候補がカリフになると、大粛清が始まります。上記のシンド遠征の将軍が殺されたのは、この時です。
 次は我が身だと恐れたクタイバは、叛乱を起こします。しかし数ヵ月で鎮圧され、殺されます。ヤズィードはハッジャージュとクタイバの地位を引き継ぎ、大いに権勢を振るい、私腹を肥やすのですが、何しろ無能なのでソグド人の叛乱が相次ぎ、次々と失地しました。他の不正と同様、隠蔽していたのですが、カリフが代替わりすると誤魔化し切れなくなり、本作で述べているとおり、720年に叛乱を起こし、半年で鎮圧されるのでした。

 小ネタは後もう一つ。
 イブン・ムカッファ誕生以前の彼の父親については、ペルシアはファールス地方の名門出身だということと、上述のイラク太守ハッジャージュ(714年没)の下で書記兼徴税吏をしていた、ということくらいしか判っていません。後はダードエという本来の名前のほかにムバーラクというムスリム名も持っているので、改宗者であること、しかし改宗時期は不明であること。イブン・ムカッファの誕生前か幼少期なら、彼のことも改宗させているはずですが、彼の改宗
は父の死の数年後なので、イブン・ムカッファが独り立ちした後であろうと推測できる(おそらく、生まれ育ったイラクのバスラを離れてペルシアに赴任した後)、くらいですかね。
 ペルシアの名門ってことは、古くからの大土地所有者です。彼らは領地支配が巧みだったので、アラブ・ムスリムの征服者たちもペルシアの直接支配ではなく、彼らに任せることを選びました。もちろん改宗も強制しませんでした。
 イブン・ムカッファの父は、若い頃とはいえイラクまで赴いてハッジャージュに仕えてるので、後継ぎでなかったのは確実です。名門でも末端で食い扶持を稼ぐ必要があったのか、でも「あの」ハッジャージュに横領の疑いを掛けられたのに、拷問はされたけれど放免されて、故郷に帰って息子をもうけている。だから当主の弟で兄と折り合いが悪かった、という設定にしました。

 イブン・ムカッファはペルシア生まれではあるものの、幼いうちに、父親はその教育のためにイラクのバスラに移住します。明らかに教育費を惜しまず、しかもイブン・ムカッファはペルシア貴族の洗練を身に着けていたというから、相当裕福に暮らしていたでしょう。片腕が不自由な身で改めてアラブの支配層に仕えられはしなかったでしょうし、一族の援助だけで賄えたとも思えない。
 で、バスラといえば、文化都市というだけでなく、8世紀当時はイスラム世界最大の貿易港です。イスラム成立の遙か以前から、ペルシア人は南海(インド洋、南シナ海)交易を独占していました。アラブ・ムスリムはイラクとペルシアの征服後、南海交易はそのままペルシア商人たちに任せました。
 バスラは638年にアラブ・ムスリムが軍事用に建設しましたが、その後、運河の開削によって港湾都市としても栄えることになります。ペルシア湾から50キロ以上遡った河港で、ティグリス・ユーフラテスを通じた内陸部との物資の往来もありましたが、ここでも南海交易はペルシア人のものでした。
 南海交易に従事するペルシア商人のうち、船舶の所有者を「船主」と言います。船主には①小型船1隻を所有し、自ら船長として乗り組む者、②中型船を何隻か所有し、他人に貸し出す者、③複数人で大型船(4、500人乗り)に共同出資する者、の3タイプがいました。
 本作では、イブン・ムカッファの父は③の船主となり、イブン・ムカッファもその事業を受け継いだ、ということにしました。

 ちなみにペルシア湾の交易のうち、アラビア半島側はアラブも古くから進出していて、特にオマーン地方のアズド族は海上交易で力を付けました。上述のムハッラブ家の先祖はペルシア人の船乗りで、武勇に優れていたためにアズド族に迎え入れられたと伝えられますが、海上交易を通じた繋がりだったんでしょう。

 さて、ペルシア湾-南海交易について最も古くて詳しい史料は、『中国とインドの諸事情』(邦訳あり)です。「第一の書」が本作の約100年後のヒジュラ暦237年(AD851-852)に書かれ、「第二の書」が別の人物によって910年頃に書かれました。著者は2人ともペルシア湾の商人で(おそらくペルシア系)、記載された情報は伝聞だけでなく実体験もあるようです。
 この『中国とインドの諸情報』では、中国(アラビア語で「シーン」)で の産物として絹織物と並んで絵画と工芸品が絶賛されています。もちろんイスラム世界に輸入されていたわけで、当然、風景画(山水画)だけではなく、人物画や花鳥画なども多かったでしょう。
 さらに「第二の書」には、中国「預言者たちの肖像」を目にしたアラブの話があります。
 大いに繁栄したバスラですが、871年に大規模な叛乱の煽りを食らって荒廃してしまいます。バスラの住人でムハンマドの末裔を称する(そう称するムスリムは大勢いた)イブン・ワハブという男は心機一転、シーン行きの船に乗りました。広東(「ハンフー」)の港に着くと、好奇心の赴くまま長安(「フムダーン」)の都まで行きました。そして皇帝の宮殿へ行き、自分はアラブの預言者の血を引くので住居と生活必需品を寄越せ、と要求しました。皇帝はその望みを叶えてやって上で、ハンフーの代官にイブン・ワハブが本当に預言者の末裔か問い合わせます。代官がイブン・ワハブの血統を保証したので、皇帝は謁見を許します。まあ、話を盛っているんでしょう。

 その謁見の席でイブン・ワハブは、皇帝が所持する「数多くの預言者たち」の肖像画を見せられたのだそうです。ノア、モーセ、イエスらの肖像、それに信徒たちとともに駱駝に乗ったムハンマドの絵といったユダヤ・キリスト教およびイスラムの預言者たちに加え、中国およびシンドの預言者たちの絵も多数あったそうです。
 中国およびシンドの預言者たちは、親指と人差し指を合わせたり、人差し指で天を指すなど、さまざまなポーズを取っていたそうで、仏画であろうと推測されています。イブン・ワハブがイエスやムハンマドらだと認識した絵姿も、仏教や儒教、道教関係か、あるいは世俗の人物像だったかもしれません。

 いずれにせよイブン・ワハブは、冒瀆だと憤るどころか、感激のあまり泣き出したそうです。
 クルアーンに次ぐ「第二の聖典」とされるハディース集(ムハンマド言行録)には、ムハンマドが自身の肖像を禁じたとする伝承もありますが、ハディースどころかクルアーンの文言すら、守るか守らないか、あるいはどう解釈するかは時代や国家、集団、個人によってすら異なる、ということなのです。

其の一 と其の二十四

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十二

其の一其の二十一
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 今回は特にネタバレはありません。 紀年は特記がない限りはADです。

 前回述べたように、クルアーンでは美術品としての人・鳥獣の像も音楽も禁じられていません。一方、口伝されてきたムハンマドの言行をまとめた、いわば「第二の聖典」であるハディース集では、前者は明確に否定され、後者はムハンマドには肯定され、彼の義父には否定されています。
 ハディースというのは、それが編纂された9世紀後半から10世紀初頭の社会状況や価値観を反映したものです。クルアーン編纂はムハンマドの死から20年後の7世紀半ばですが、実はムハンマドが約20年かけて授かってきた「預言」として書き留められたり口伝されてきたものを、そっくりそのまま1冊の書物にしたわけではなく、それなりに取捨選択が行われました。だからクルアーンも、ムハンマドの生前というよりは、7世紀半ばの社会状況や価値観を反映したものだと言えます。

 其の二十で見たように、クルアーンでは崇拝対象としての「偶像」(自然物を含めた、あらゆる被造物)と人が作った美術品である「偶像」は明確に区別されていました。しかし前イスラム期のアラブは、この二種の「偶像」を区別しませんでした。どうやら彼らは異民族、特にギリシア・ローマ系の人々が作る「偶像」(神像および美術品)の作成を、アラブすなわち「人間」には不可能な、ジン(前イスラム期においては「神々」とほぼ同義)にだけ可能な文字どおりの「神業」だと信じていたようです。
 イスラムに改宗したからといって、アラブの多くは二種の「偶像」の区別が出来ないままだったようです。そのため区別が出来るアラブたちも、征服した異民族に作らせた人・鳥獣の美術品を自宅などプライベートな空間だけに飾り、公衆の目に触れないよう気を配りました。例えば現存するイスラム初期の建築物のうち、カリフ一族の宮殿は人・鳥獣の像(立体および平面)などで、モスクのような公共施設は植物文様や写実的な家々の絵などで装飾されています。

 ムハンマドが人・鳥獣像を否定するハディースは幾つもありますが、その一つによれば、彼は妻のアーイシャが部屋のカーテンに鳥獣モチーフのものを選んだのを厳しく叱っておきながら、彼女がそのカーテンでクッションカバーを作ると、非常に満足したそうです。これは同じ自宅用ファブリックでも、他人に見られる可能性が高いカーテンは駄目だが、見られる可能性の低いクッションカバーなら問題ない、と解釈することができます。
 つまりイスラムという宗教にとっては、初期において信徒の大半を占めていたアラブが、出来のいい人・鳥獣像を目にすると拝まずにはいられない人々だったため、それらは競合相手として深刻な脅威だったということです。クルアーン編纂から250年ほども経ったハディース編纂の時点で、美術品の人・鳥獣像を見ると拝んでしまうようなアラブ・ムスリムは、さすがにもういなかったと思いますが、危険性の認識はまだ残っていた、といったところでしょう。

 もう一つ、美術品としての人・鳥獣像が禁忌とされた原因と考えられるのは、アラブ至上主義です。
 前イスラム期から、アラブにとってこうした像は音楽と同様、外来のものであり、贅沢品でした。
イスラムが拡大すると、支配者となったアラブ・ムスリムは奴隷や二級市民の異民族に人・鳥獣像を作らせ、歌舞音曲(当然ながら舞踏も非アラブ文化)を行わせました。
 ほかにもいろいろと贅沢をし、アラブ社会全体が享楽的になってきました。そうした風潮を批判したのが、7世紀末頃から登場する「禁欲家たち」です。本作でも言及しています。純血のアラブもいれば非アラブもいましたが、彼らはムハンマドが存命だった時代のイスラム共同体を理想化したので、造形美術も歌舞音曲も「理想化された素朴なアラブの暮らし」に反するものとされたのです。
 特に歌舞音曲は前イスラム期以来、女奴隷(および少年奴隷)によって行われ、酒の席で鑑賞されることが多かったため、偶像崇拝と結び付きやすい造形美術とは別の意味で不信仰と見做されがちでした。

 こうした位置づけであったところに加えて、ハディース集編纂が始まった9世紀後半は、カリフ主導で外来文化の導入が大促進された時代でした。これら外来文化、特に古代ギリシアの哲学・科学の影響により、新しい「合理的な神学」が誕生したのですが、カリフはこれを保護したばかりか、従来の「合理的でない」神学を弾圧しました。
 当然、反発が起こり、それは外来文化にまで及びました。その後の経済的衰退や社会の不安定化から、外来文化はなんであれ忌避する風潮が広まったのです。その流れで造形美術と音楽も「イスラムらしくない」と見做され、現在の原理主義に至るのでした。

 長々と解説してきましたが、造形美術および音楽の忌避という問題で、本作と関係があるのは「イスラムの競合相手」としての側面です。音楽も「競合相手」になります。まあそれについては後日解説の予定で、次回は小ネタの解説です。

其の一其の二十三

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十一

其の一其の二十
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。 紀年は特記がない限りはADです。

 前回述べたように、クルアーンにおける唯一神は、美術品としての人や鳥獣の像を禁止しているどころか、お墨付きを与えているとすら解釈可能です。それなのにイスラムの長い歴史(1400年近く)の中で、美術品としての人や鳥獣の像はしばしば禁忌とされてきました。根拠とされるのは、預言者ムハンマドや最初期の信者たちの言行に関する伝承(ハディース)です。
 ムスリムたちは、ある行為や考えが信仰にもとるかもとらないかを、クルアーンを典拠に判断します。しかしクルアーンだけでは判断しきれないことは、いくらでもあります。そこで第二の「聖なる典拠」とされたのが、ハディースです。

 ここからしばらく、造形美術とも音楽とも関係ない話になりますが、本作の内容とは関係ありますよ。
 オングの『声の文化と文字の文化』によれば、無文字文化から文字文化への移行に時間がかかる大きな理由の一つは、無文字文化の人々の「書かれた言葉」に対する不信感です。何が書かれていようと、自分たちは読めないので。
 アラブは古くから独自の文字を持っていたにもかかわらず、長い間、非常に低い識字率のままでした。ムハンマドはおそらく文盲でしたが「書かれた言葉」に偏見がなく、何人もの書記を身辺に置き、預言を記録させていました。それらの記録が一冊の本(クルアーン)にまとめられたのは、ムハンマドの死(632年)から20年後、彼の後継者(カリフ)の一人、ウスマーンによってです。
 ウスマーン自身は識字能力が高かったと伝えられるので、文字記録の重要性はよく理解していたでしょう。この編纂事業に反対者がいたという記録はありません。そもそも同時代記録がほぼ皆無なんですが、「反対者がいたと伝えられている」という記録も存在しません。
 本作でも言及しましたが、天界には唯一神自らが執筆した、この世の始まりから終わりに至る全被造物の記録があり、クルアーン(およびユダヤ・キリスト教の聖書)はこの「天の書」とか「書物の母」と呼ばれる書物からの抜粋だとされています。「原典」が書籍の形になっているので、クルアーンも書籍の形に編纂することに、それほど抵抗がなかったのでしょう。また当時は、アラブ自身に「アラブは声の文化」という意識が薄かったのではないかと思われます。

 しかし、いったん「クルアーン」というアラビア語の唯一の書物が出来上がってしまうと、それを神聖視するあまり、「クルアーン以外のどんなアラビア語の文章も書き留められるべきではない」と言い出す者が出てきます。領土の拡大とともに必要となってくる行政文書が、7世紀末になるまで異民族の書記たちによって異国語で書かれていたのは、アラビア語で作文できる者が少なかったのが第一の原因ですが、第二の原因は、このクルアーンとアラビア文字の神聖視です。
 各地の現地語で書かれていた行政文書をアラビア語に変えたのが、本作の主人公イブン・ムカッファ(「手萎えの息子」)の父親を拷問で「ムカッファ(手萎え)」にした、イラク太守ハッジャージュです。クルアーン編纂の時と同じく、同時代史料が皆無に近いので、この改革への抵抗があったかなかったのかすら伝わっていません。しかしハッジャージュは非常に有能であるという以上に
、凄まじく苛烈だったというエピソードが数多く伝えられているので、反対者がいたとしても容赦なく潰したでしょうね。

 この改革が8世紀初頭に完了してしばらくすると、本作でも言及しているとおり、前イスラム期以から口承されてきた古詩を書き留めたり、ギリシア語の「アレクサンドロス宛てアリストテレスの手紙」(もちろん偽書)をアラビア語訳したり、といった文学方面での動きも出てきました。
 しかしおよそ100年もの間、口承されてきたハディース(ムハンマドの言行)が書き留められることはありませんでした。知識を口承するには、それらを記憶し、繰り返し暗唱する必要があります。暗記すべき知識が増えれば増えるほど、必要とされる労力も増えていきます。
 
ハディースは他者の批判や自己正当化の根拠として便利なので、早い時期から捏造が盛んに行われていました。真贋を確かめるにはどうしたらいいか。例えばハディースには、ムハンマドが奇跡を行ったエピソードが幾つもあります。しかしクルアーンで唯一神は、クルアーンそのものが奇蹟なのでムハンマドに他の奇蹟を行わせたりしない、と明言している。じゃあ、これらのハディースは贋物だ、と当時のムスリムたちは考えませんでした。このエピソードは〇〇〇〇〇〇〇 (ムハンマドの親戚の一人)が△△△△△△△(初期信徒の一人)に伝え、彼から◇◇◇◇◇◇◇◇(別の初期信徒)から×××××××(◇◇◇◇◇◇◇◇の息子)へ、彼から……という「伝承経路」が明確かどうかで判断しました。絶対にあり得ない内容でも気にしない。

 当然ながら、時代を経るにつれて「伝承経路」も長くなっていきます。上の例で「AからBへ」といった簡潔な記述にしなかったのは、アラブは姓が無いので父称(「〇〇の息子」という意味で「イブン〇〇」)を付けますが、そもそも名前の種類が少ないので「個人名+父称」だけでは区別がつかない。それで「通名」を付けます。本作でも主人公は「アブドゥッラーフ・イブン・ムバーラク」ではなく、通名「イブン・ムカッファ」で呼ばれます。しかし一般的な通名は出身地や氏族名なので、それだけでは区別がつかないことも多い。そこでさらに職業名を足したり、父称ならぬ子称「△△の父」の意で「アブー△△」を足したり、「イブン〇〇・イブン◇◇・イブン××……」と祖父、曽祖父の名前を足していったりする。
 ハディース自体はどれもごく短いエピソードなんですが、この際限なく長くなっていく「伝承経路」もセットで憶えなくてはならない。しかも伝承経路しか信憑性を保証するものがないので、膨大な数の伝承者たちがどんな人物かも憶えておかなければならない。嘘吐きとされる伝承者によるハディースだったら、当然ながら信用できないということになるからです。

『声の文化と文字の文化』で指摘されていますが、文字記録はこのような暗記の労力をすべて「無駄」にしてしまいます。文字の使用が浸透していくにつれて、ハディースの口伝者も自分たちの努力が無に帰す可能性に気づきます。だから殊更に文字記録を見下し、口伝情報こそ尊い、という価値観を形成する。
 イブン・ムカッファ(720年頃-757年頃)が生きたのは、そういう時代でした。
 彼の死から100年以上経った9世紀後半から、ようやくハディース集の編纂が始まります。それはクルアーンの時と違って国家事業ではなく、何人ものハディース学者がそれぞれ個人で行ったもので、何種類ものハディース集が編纂されました。そのうち9世紀末までに編纂されたもの5つ、10世紀初めに編纂されたもの1つが、最も信頼性が高いものとして「六大ハディース集」と称され、現在に至っています。

 六大ハディース集で最初に完成したのは、ブハーリー(870年没)という人物が編纂したものです。彼は編纂作業の第一段階として集められるだけのハディースを集めたのですが、その数は数十万、一説によると百万近かったそうです。
 こういう数字は誇張がつきものですが、イスラム史は中国史に比べればだいぶ誇張が少ない。多少の異同(内容および伝承経路)があるだけの、ほぼ同じ内容のハディースも別々にカウントしているでしょうし、
後述する六大ハディース集の総収録数からしても、百万近くは大袈裟にしても、六桁行ってたのは確実でしょう。
 ブハーリーはそれらの真贋を「精査」し、数千(数え方によって数が変わる)を「厳選」したと伝わっています。
 で、後に続く5人もそれぞれ真贋を「精査」し、数千を「厳選」しています。六大ハディース集に収められたハディースの数は、数え方にもよりますが、だいたい3万8千だそうです。

 6人全員が同じ基準で選んだのなら、6冊とも多少の異同があっても、ほぼ被るはずですが、重複は多いものの、そうでないもののほうが多い。
 要するに真贋の見分け方は、ちゃんとした伝承経路が付いてるかどうかが第一条件なのは間違いないですが、それ以外は編纂者各自の基準でしかないということです。そしてその基準に、史料批判の観点は入っていない。互いに矛盾した内容のハディースは少なくありません。例えば、音楽に肯定的なハディースと肯定的なハディースがそれぞれ複数ある。それもハディース集同士の間ではなく、同じハディース集の中に互いに矛盾したハディースが収められていたりします。6人の編纂者たちの誰一人として、そんなことを気にしなかったということです。

 では伝承経路以外の、どんな基準で選んだのかというと、当時(9世紀後半~10世紀初頭)のムスリムたちに広く受け入れられていたか否か、と考えるのが妥当でしょう。もちろん編纂者個々人が受け入れていたか否か、も重要だったでしょうが。
 現在に至るまで、クルアーンに次いで全ムスリムの行動指針とされてきた数万のハディースのうち、実際にムハンマドの時代からほぼ変わらない内容で語り継がれてきたものは、たぶん皆無ではないでしょう。しかしそれらも含め、すべてのハディースは六大ハディース集編纂当時の価値観を反映したものなのです。

 そして美術品としての人・鳥獣の像と音楽に話を戻すと、前者についてはムハンマドがはっきりと否定しているハディースが、六大ハディース集すべてに収録されています。一方、後者については音楽に言及しているハディースのほとんどは否定も肯定もしておらず、ムハンマドが肯定するハディースが一つ、ムハンマドの妻の父で、後に彼の後継者(カリフ)となったアブー・バクルが否定するハディースが一つあるだけです。

 長くなったので、続きは次回。

其の一其の二十二

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十

其の一其の十九
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 今回、ネタバレは特にありません。 紀年は特記がない限りはADです。

 前回の冒頭で述べたとおり、唯一神の言葉をそのまま書き留めたものであるクルアーンにおいては、人や鳥獣を象った像(絵画でも立体でも)そのものは禁じられていません。禁じられているのは、「偶像崇拝」です。
 というわけで、まずはイスラムにおける偶像崇拝の定義から説明したいと思います。

 ややこしいことに、「偶像」崇拝と訳されてはいますが、厳密に言えば「すべての被造物」が対象になります。つまり唯一神以外のすべてです。だから(人が作った)像はもちろん、自然崇拝(木、山、川、石、天空などから嵐などの自然現象まで)も、ムハンマドをはじめとする預言者および本作(8世紀)より後の時代に登場する「聖者」と呼ばれる人々の墓や遺品も、彼ら自身も、さらには妖霊(ジン)や天使、多神教の神々といった霊的存在も、すべて唯一神の被造物なので崇拝禁止です。
 なお多神教の場合、その神話体系における最高神を唯一神と同一視し、その他の神々をジンや天使のような格下の霊的存在とすることで、ユダヤ教やキリスト教と同じ、「信仰の仕方が少々間違っているが、一応正しい宗教」としてイスラムとの融和を図る例がままあります。ゾロアスター教や仏教は、そういう扱いですね。まあイスラム側と多神教側の双方で、認めていない人が多いんですが。

 前イスラム期のアラブは、外来の一神教への改宗者以外は多神教徒で、クルアーンでもその存在を認められているジン(妖霊)も神々の一種でした(独自の一神教も何種類かあるにはありましたが、あまり影響力はなく、ユダヤ・キリスト教に同化しがちでした)。
 ジンは霊体的なものですが、物体も崇拝対象でした。元来は明らかに自然崇拝で、山、樹木、泉、洞窟等のほか、自然石(巨岩とかではなく石ころ)も神として拝みました。カアバ神殿の「黒石」も、まあその名残でしょう。近くに聖なる泉もある。

 この自然石崇拝が、加工された石への崇拝へと進展しました。加工といっても、立方体や板状にするだけです。アラビア半島では古くから香料生産と海上交易で幾つもの王国が栄えた南部と、遊牧と隊商が中心で発展が遅れていた北部とではだいぶ文化が違うんですが、造形美術を発達させなかった、という点では共通しています。前1世紀、紅海貿易で栄えた北西部のナバテア王国について、ローマの歴史家ストラボンが「浮彫細工、絵画、彫刻は地元では産しない」と記していますが、これはアラビア半島全土に言えることです。
 新石器時代から青銅器時代にかけて、アラビア半島の住民(アラブの先祖かどうかは不明)は多くの岩絵を残しています。しかし前1200年頃、鉄器時代に入ると、造形美術の伝統は途絶えてしまいます。以降のアラブが造る彫像は板状の石に浮彫の目を付けただけの稚拙なもので、岩壁などに刻むのは絵よりも文字でした。
 こうしてカリグラフィーとしてのアラビア文字が発達しましたが、文学にはまったく利用されませんでした。

 ではアラブは造形美術を嫌っていたのかというと、まったくそんなことはなく、ヘレニズム期(前3世紀~)に入ってギリシア風彫刻が入ってくると、熱狂的に愛好しました。
 ナバテアや南アラブの豊かな諸王国では、それまではせいぜい目を彫った石板で表現していたアラブの神々を、ギリシア系の移住者たちに、理想化された人間の姿として彫刻させました。そのような資金も人材も確保できない内陸部のアラブたちは、他所で買ったり略奪してきたギリシア風彫像を、それが本来なんであるのかを無視して、「神」として拝み始めました(「拾ってきた」という伝承も残っています)。ムハンマドが伝道を始めた当時のカアバ神殿には数百体の偶像が安置されていましたが、その多くはこうした彫像だったと思われます。

 このように、外来の彫像を「神」と崇めるほど愛好していたにもかかわらず、なぜかアラブ自身は造形芸術を作ろうとはしませんでした。本当に、理由が不明なんですよね。自分たちには作れないと思い込んでいたかのようです。

 前述したように、神像として作られたのではない人や獣の像も礼拝すれば「偶像崇拝」になります。しかしややこしいことに、これらは礼拝対象ではなくただの美術品としか見做されていなくても、偶像(と邦訳されるアラビア語)と呼ばれます。アラビア語には「偶像」を指す言葉がたくさんありますが、そのうち幾つかは「(美術品としての)彫像」と同義なのです(別の幾つかは、解り易く「おぞましい物」とか「悪魔」と同義です)。
 クルアーン34章ではスライマン(イスラエルの王ソロモンのこと。イスラムでは預言者の一人とされる)が起こした奇蹟について語られますが、そこで彼はジンを使役して(ソロモンが悪魔を使役したというユダヤの民間信仰のアラブ版)「偶像」を作らせ、宮殿を飾ります。ここでの偶像はただの美術品であり、しかもスライマンにジンを操る力を与えたのは、ほかならぬ唯一神なのです。

 ここから解るのは、ますクルアーンにおいては芸術としての人や獣の像は禁止されるどころか、むしろお墨付きを与えられていると言ってもいいほどであること。そして当時のアラブにとって、人や獣の像を作ることはあたかもジンの仕業の如く、超人的な技術だと見做されていたということです。
 つまり当時のアラブは、ギリシア彫刻のように写実的にして理想化された人や獣の像は、自分たちには到底作ることのできない、まさに「神業」だったのです。だからそれらを「神」として拝んだ。
 クルアーンには、「偶像は木石でしかない。そんなものを拝むな」という文言がしばしば現れます。現代人からすると、いや何言ってるの、そんなこと子供でも解るよ、拝まれてるのは偶像そのものじゃなくてそこに宿る「神性」みたいのじゃないの?となりますが、どうも前イスラム期のアラブにとっては偶像は「神が宿るもの」ではなく「神そのもの」だったらしい。

 だから「偶像」という訳語は不正確だと言えます。「偶」は「宿る」という意味ですから。
 クルアーンで語られているアラブの偶像崇拝は6世紀半ば以前のものですが、「木石に過ぎない」像を「神そのもの」とする信仰形態は、さらに何千年も前のメソポタミアと共通しています。しかし古代メソポタミアの人々は、人が作ったと判り切っている像を「神そのもの」と信じ切るのには困難を覚えており、新しく神像を作るたびにそれを「神にする」手の込んだ儀式を行っていました。
 6世紀以前のアラブたちは、古代メソポタミア人よりさらに素朴だったと言えますが、それでも疑問を抱く人は増えつつあり、彼らの多くは政治とは関係なく(国家や氏族が政策としてユダヤ教などに集団改宗することが多かった)、私的にユダヤ・キリスト教等の一神教に改宗していきました。イスラムは、そうした流れの中から生まれてきたのです。

 ムスリムにとってクルアーンは、自分や他の信徒の行動や思考が信仰に適っているかどうかを判断する根拠です。しかしクルアーンだけでは判断がつかない事例は、当初から山ほどありました。
 そこで第二の判断材料とされたのが、ムハンマドおよび最初期の信徒たちの言行です。彼らがある状況や事柄について、こう述べた、あるいはこう行動した、という短いエピソードの数々で、ハディース(物語)と呼ばれました。
 このハディースには、美術品としての人や獣の像(立体でも平面でも)を明確に禁じたものが幾つかあります。その一方で、音楽全般については明確に禁じたものは一つもありません。肯定的に解釈できるものと否定的に解釈できるものが、それぞれあるだけです。

 次回はこれらのハディースも含め、なぜ音楽や造形美術が禁忌とされたのかについて、解説する予定です。

其の一其の二十一

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十九

其の一其の十八
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 今回、ネタバレは特にありません。 紀年は特記がない限りはADです。

   イスラム原理主義が人や鳥獣を象った像(絵画でも立体でも)および音楽を禁忌としているのは、わりと有名だと思います。しかしどちらの禁忌も、彼らが絶対とするクルアーンに根拠はありません。
  クルアーンはユダヤ・キリスト教の聖書と違い、唯一神の言葉をそのまま書き留めたものとされています(だから翻訳すると神の言葉そのままではなくなってしまうので、翻訳版はクルアーンではなく解釈書の類と見做される)。クルアーンで禁止されているのは偶像崇拝で、美術品としての(崇拝対象ではない)人や獣の像は許容されており、音楽(舞踏なども含む)には言及すらしていません。
 なぜ唯一神が禁止していないのに禁忌とされるに至ったのか、研究者も決定的な説明はしていません。あくまで私個人の推測ですが、そもそもイスラム誕生前からアラブ独自の造形美術も音楽も事実上存在しなった、という事実と関係がありそうです。

 前イスラム期(7世紀前半以前)のアラブ独自の芸術はただ一つ、詩(韻文)だけでした(もちろんアラビア語です)。ではその他の芸術分野はどうっだったのか? というわけで、今回は音楽の話をします。
『トーキング・ヘッズ叢書』№.83(Amazonリンク)所収の「禁断の快楽、あるいは悪魔の技」に詳しく書きましたが、アラビア語の歌と詩は元来、境界が不明瞭だったようです。実際、
韻文および押韻散文は、抑揚をつけて朗唱すると、それだけで音楽的になります。韻文は厳格な韻律(押韻、音数などの形式)を持つ文章のことで、韻文詩もこれに含まれます。押韻散文については、とりあえずここでは散文すなわち韻律のない普通の話し言葉だが韻を踏む(押韻の規則性は緩い)と定義します(本来は、アラビア語において韻文・散文と並ぶもう一つの文章形式「サジュウ」に当てられた訳語です)。
 日本語には韻文がないのでイメージし難いかもしれませんが、前者はオペラのレチタティーヴォ、後者はラップ(ただし、どちらも無伴奏)だと考えれば、解り易いかと思います。
 したがって異民族の文化が大量に流入してくるヘレニズム期(前4~前1世紀)より前のアラブ本来の歌は、おそらく単調な単声で無伴奏か単純な打楽器で拍子を取る程度だったと推測されます。
 器楽曲も全然発達しなかったようで、実際、アラブの古典楽器とされるものの多くが、明確に異民族起源です。

 音楽は脳の報酬を活性化しドーパミンの分泌を促すことで、感動や快さをもたらします。それは器楽曲でも歌でも同じですが、歌の場合はそれに加えて、歌詞による感動があります。もちろんこの場合の歌詞は、母語やそれに準ずるくらい充分に理解できる言語のものです。
 そして発声された韻文および押韻散文も、音楽性(押韻のリズムと抑揚)だけでなく「言葉」にも感動できるのだそうですね。詩を「読む」(黙読する)のではなく、「うたわれている」(朗唱する)のを聴くことで生まれる感動です。
 しかし私自身はというと、どうにかヒアリングできる唯一の外国語である英語(だいぶギリギリ)の、それも予め意味を調べておいた韻文詩の朗読を聞いても、全然感動できない(心拍数増加など、ドーパミン分泌による身体反応がない)んですが、日本文化で育って、かつ外国語に堪能な人なら、その言語の韻文に感動できるものなんでしょうかね?

 日本語でラップを作るのが難しいのは、単に日本語が洋楽のリズムに合わせ難いのが大きいのだと思いますが、そもそも韻文どころか和歌の掛詞以上に押韻が発達せず、駄洒落に至っては忌み嫌われている。
 まあ江戸時代までは駄洒落はそんなに嫌われていなかったようなので、日本語の特性というよりは「声の文化」の衰退がもあるでしょう。日本でもかつては五と七の音節から成る(すなわち音数律を持つ)定型詩が、多言語における韻文と同じ効果を持っていたはずですが、現代日本人でその感性を保持している人がどれだけいるのでしょうか。五・七のリズムの言葉の並びを聴くだけで、涙を流すとまでは行かずとも、ドーパミン分泌を増加させ心拍数を上げることのできる感性を保持している人が。
多くの人にとっては、五・七の組み合わせが快い、という程度でしかないでしょう。

 日本語で書かれた文章は絵本やシナリオなどを例外として、ほぼすべて黙読を前提としています。詩集の類も、音読するものとして買う人がどれくらいいるのか。一方、欧米では詩だけでなく小説の朗読会が盛んで、オーディオブックもよく売れています。
 つまり欧米のほうが日本よりは「声の文化」が色濃いと言えますが、欧米人(のアラブ文化研究者)にとっても、アラビア語古典文学で多用される掛詞は駄洒落に感じられてしまうそうです。

 音楽に必要な知覚能力は、リズムの認識とメロディの認識に大別できるそうです。リズムの認識は大脳左半球および大脳基底核、小脳その他広範囲の領域が担っていますが、メロディの認識は右半球に神経基盤があります。で、言語の使用には知覚能力(音それ自体に加え、リズムやメロディの認識)や運動制御に加え、何よりも抽象化能力が必要ですが、これは左半球に依存します。
 左半球に先天的または後天的な障害があると言語能力が阻害される代わりに高い音楽能力を発現する例が多く、また定型発達においても幼児期の高い音楽能力が左半球の発達に伴って失われる例が見らるそうです。このことから、左半球が右半球の音楽能力を抑制していると考えられます。
 またネアンデルタール人の抽象化能力は低かったらしいことからも、音楽能力は言語能力より先に進化したと見ていいでしょう。そんでもって、最初の「音楽」は声を楽器としたハミングやスキャットの類でしょうね。手拍子や足拍子、その辺の物を叩いてリズムを取るのも早かったのではないでしょうか。

 言語能力と音楽能力が別々に進化したものとはいえ、発話にはリズムや抑揚の認識も必要なので、音楽能力がまったく無関係なのではない。しかしメロディに言葉を巧く乗せるには、共に高度な言語能力と音楽能力が必要です。だから詩と「歌詞のある歌」は、共に「抑揚を付けた語り」を起源とすると思われます。
 そして詩がリズムを重視して韻律(あるいは韻のみ、律のみ)を発達させ、歌はメロディを重視して複雑化した上に伴奏をつけたりするようになった。その結果、歌詞が聞き取りづらい歌が多くなった。

 古代のアラブが詩を発達させた代わりに歌および器楽曲を発達させなかったのは、「言葉の聞き取りやすさ」を重視した結果だと思われます。この「言葉(アラビア語)による情動喚起」を何より重視したために、彼らは音楽のみならず造形美術も発達させず、絵や彫刻よりもカリグラフィーを好みました。
 本作でイブン・ムカッファは、書物の一冊も持たないほどアラブの文字文化は未発達だったのに、長大な聖典(クルアーン)を書き起こせるだけの表記体系がすでに存在していたことに改めて驚嘆しています。どうやら古代のアラブは、岩などに碑文を刻むために美しい形のアラビア文字を発達させたようです。とはいえイスラム誕生以前は、独自の芸術と呼べるほどには発展していませんでしたが。

 なぜ彼らはここまでアラビア語にこだわったのか。誰も明確な説明はできていません。また彼らが音楽全般を嫌いだったのかというと、まったくそんなことはありませんでした。流入してきた異民族の音楽に、彼らは夢中になるのです。しかし異民族の音楽家(主に奴隷)に演奏させたり歌わせたりするばかりで、アラブ自身が演奏したり歌ったりするのはもちろん、独自の音楽を作り出す動きは、ないわけではなかったものの、ごく鈍いものでした。
 これらの問題について、またそれほど音楽好きのアラブの人々がそれを禁忌とするに至ったかについては、後日解説の予定です。とりあえず次回は、造形美術について。

其の一其の二十

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十八

其の一其の十七
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。 紀年は特記がない限りはADです。

 本作は、実在の文学者イブン・ムカッファ(757年頃没)の最期の四日間を描いた物語です。フィクションが「実話」(実際の真偽にかかわらず「実話」だと信じられている物語)から分離した社会には、「フィクションを見下す人々」が出現しますが、彼らとの対決が本作のテーマです。第一日目、判官殿は「フィクションは役に立たない」と言い、イブン・ムカッファは「寓話(当時のアラビア語圏ではこのジャンルは成立していないので、作中で「寓話」という語は使いませんが)は役に立つ」と抗弁します。
 現実でもこういう擁護の仕方をする人はいますね。しかし、それじゃあ「役に立つフィクション」と「役に立たないフィクション」の区別は、誰がどうやって決めるんだ、と。
 判官殿はどんなフィクションも認める気がなく、イブン・ムカッファもそれに気づいていますが、もっと重い罪を着せられかねないので「罪状」を絶対に認めません。議論はどこまで行っても平行線にしかならない。

 そこで第二日目、判官殿は戦法を変え、『カリーラとディムナ』は散文だから低級であると断じます。フィクションそのものの是非ではなく、詩(韻文)か散文か、という表現形式の優劣を持ち出したわけです。 当時のアラブにとっての唯一の芸術は詩(韻文)であり、散文はどんな内容であろうと芸術的な価値は一切認められなかったのです。
 現代日本にも、内容にかかわらず特定の表現形式だというだけで見下す人はいますね。漫画だからとか、アニメだからとか、ゲームだからとか。古くは小説だって見下されていました(「〝小〟説」ですからね)。
 ああいう人たちは、本当に内容には一切注意を払わない。払えないんでしょうね。その表現形式だというだけで見下す。

 散文か韻文か、という話に戻ると、日本語はなぜか韻文が発達しませんでしたが、韻文が発達している言語圏ではたいてい散文が下に見られているようですね。「〝散〟文」だし。アラビア語の「散文」も原義は「散乱」です。
 英語proseの語源であるラテン語prorsusは原義が「まっすぐな」なので、それ自体には侮蔑的な意味はありませんが、それでもproseは日本語で言うところの「散文的」(平凡、単調、俗っぽい)な意味が付与されています。フランス語prose、ドイツ語、イタリア語、スペイン語(いずれもprosa)、ロシア語проза(プラザ)も同様です。
 ちなみに昔の中国で散文が韻文より格下だったのは確かですが、
現代中国語および古典中国語の「散文」に、日本語で言うところの「散文的」のニュアンスはないようなので、「散文的」は西洋諸語からの翻訳ではないかと思います。

 オングの『声の文化と文字の文化』によると韻文は散文より記憶しやすいそうなので、口承文学は自然と韻文が多くなり、古いからということで権威化されて、識字率が上がって散文が一般化した後も権威は残った、ということなんでしょう。まして8世紀半ばのアラビア語圏では、文字文化は異民族や混血に担われていて、アラブ自身はほとんど無文字文化に生きているようなものでしたから。
 というわけで次回は、アラブの伝統文化における、詩(韻文)をはじめとする芸術諸分野について解説する予定です。

其の一其の十九

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十七

其の一其の十六
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。 今回は余談だけです。

 本作構想の最初期の段階で、「彼女」がイブン・ムカッファの「本当の名前」を呼ぶのが「みえた」と、其の十四で述べました。それで彼が、自分は「本当の名前」で呼ばれていないと感じている、ということが「わかり」、彼のキャラクター造型の基盤となったのでした。

 こうしたインスピレーションが、いかにそこに至る過程を認識できない突然の閃きであろうと、いかに「外部から来た」感覚が強烈であろうと、自分の頭から出たものであることは、もちろん承知していますよ。上記の例は判りやすくて、幼少期にまで遡る「名前への強いこだわり」由来です。
 と言っても「名前(人名に限らず「呼び名」全般)へのこだわり」を自覚したのは、成人から結構後でしたが。子供の頃は知っている人名を好き嫌いや可愛い、きれい、かっこいい等で分類するのが好きな程度で(リスト作ったりしてた)、こだわりがあるというほどではありませんでした。まあユニセックスな名前への憧れは、就学前からすでにありましたが。なんか、かっこよく感じたんですよ。

 確か中学入学後ですが、実は私が男だったら父は「歩(あゆみ)」と名付けるつもりだったと知りました。しかしその頃には変わった名前のせいですでに散々苦労してきていたので、一応ユニセックスとはいえ女寄りの名前を付けられたらどんな目に遭ったか判ったもんじゃない、男じゃなくてよかった、と思ったものです。
 今から半世紀も前の私の故郷では、子供、特に女子は諏訪大社で名前を付けてもらう風習が残っていて、一方の父は余所者の上に文学青年上がりでした。単に読書家というだけでなく、小説を書いたりしてた(未完のものを机の引き出しから発見したことがある。たぶん一作も完成させていない)。その父の第一子だった私が実際に付けられた名前は
「歩」同様、キラキラしているとまでは言えないにしろ、とにかく悪目立ちしたのでした。

 結局、名前で苦労したことが、名前へのこだわりに繋がってるんじゃないかと思うんですが、それが西洋人名への興味というかたちで現れてきたのは小学3、4年生頃からです。それ以前から日本人作家よりは翻訳ものを読むことが多かったので。ハイジが正式にはアーデルハイドだとか、ベスがエリザベスだとか、ジョーがジョゼフィーンだとか、あるいはマリアが英国ではメアリーでフランスではマリーになるとか。これもリスト作ったなあ。
 ウィリアムがウィル、ウィリー、ビル、ビリーになるのもおもしろいけど、ヴィルヘルム(独)、ウィレム(蘭)、グリエルモ(伊)、ギジェルモ(西)と変化するのはもっとおもしろい。ギヨーム(仏)とかミラクルですよ。

 まあ長年、興味を持ってきたとはいえ、東洋史を選考したこともあって本腰入れて勉強したことはなく、『グアルディア』の構想を始めた時点(2002年)での知識は、せいぜい『人名の世界地図』(文春新書)レベルでした。だから「こだわりがある」という自覚もなかった。
 しかしそんな程度でも、異世界、異星、あるいは現在の文化が完全に失われた遠未来等々、実在しない文化を有する世界を舞台とする物語で、人名をはじめとする名前が「言語」を無視したものだと、めちゃめちゃ気になって気が散る。

  現実のこの世界と歴史も言語も文化もまったく異なる世界で、固有名詞が現実にあるものと変わらないのは気になる! めっちゃ気になる! 気が散る!!
 たとえば「ジョン」って名前のキャラがいたとして、ジョンはヘブライ語で「神(しかも唯一神)は恵み深し」と意味の「ヨハーナーン」が語源。それが遙か彼方の英国で「ジョン」として定着するまでには長く複雑な歴史がある! 異世界の「ジョン」の背後にも、同様の歴史があるのか!? ああっ、気になる! 気が散る!!
 まあなんか物語の表には出てこない、なんか複雑な歴史の結果として「ジョン」がいるということにして、特にルーツが違うわけでもなさそうな「ジョン」と「イワン」と「ヨハン」とが雑居してるのはなんで!? 

 ……とまあ、そんな感じで、現実の世界とは一切繋がりのない世界を舞台なら、現実の固有名詞とは無関係かつ、なんか統一感のあるのがいいなあ。
 人名なら性別・民族・身分等で法則性があるとか、「なんとなくの統一感」程度でいいんですけどね。トールキン・レベルは求めていない。そこに注力しすぎて、作品そのものがおもしろくなければ本末転倒だし(トールキンがおもしろくないと言ってるんじゃないですよ)。気にならない人は全然気にならないんだろうなあ。羨ましいと言えば羨ましい。
 あるいはせめて、ある地域は英国風文化、ある地域はドイツ風文化、ある地域は……としてくれれば、少なくとも統一感は保たれる。

『グアルディア』はポストアポカリプスだけど旧時代の文化は残存している、という設定は最初から決まっていたので、この「人名への興味」をありったけぶち込もうと思いました。
 どれもギリシア語「アンゲロス」(御使い)からの派生なのに、「エインジェル」と「アンヘル」と「アンジュ」では受けるイメージが違う。そういうことを私はおもしろいと思う。そのおもしろさを物語にぶち込みたい。
 それをやるなら、現状の雑学程度の知識じゃ駄目だ。それぞれの言語も勉強しなきゃ。というわけで、ほかの下調べと並行して、まずスペイン語の勉強を始め、一通り終わったらピアソラのタンゴの歌詞(『ブエノスアイレスのマリア』など)の翻訳を始め、並行してイタリア語の勉強を始め、一通り終わったら『椿姫』の歌詞の翻訳を始め、その頃には手持ちのピアソラの歌は翻訳し終えていたので、フランス語の勉強を始めました。

『グアルディア』執筆に2002年夏から03年夏まで丸1年かかって、スペイン語の勉強を始めたのが執筆開始の1ヵ月くらい前で、脱稿の3ヵ月前くらいにはフランス語学習をとりあえず中断したので、1年足らずだ。こうやって振り返ってみると、だいぶ無茶苦茶なことやっとんな。あの頃は「楽し~」としか思ってなかったけど。
 そして気が付いたら、『グアルディア』は名前(人名に限らず固有名詞や呼び名全般)にこだわりを持つキャラクターばかりになっていました。それどころか、彼らの名前へのこだわりがプロットを駆動する力の一部になってた。まったく意図していなかったことです。
 そしてこれもまた気が付いたら、私自身の西洋人名への関心は多国語への関心に変わっていました。まあ当然と言えば当然かもしれない。
 興味の起点が起源を同じくする名前の多言語間の相違だったので、興味の対象はあくまでも関連のある複数の言語で、孤立言語や人工言語などにはあまり興味を持てない。そもそも言語の才能がまったくありませんしね。本当に下手の横好き。

 名前そのものへのこだわりは、さらに強くなり、その後の作品ではすべて(ノベライズを除いて)、多かれ少なかれ見出すことができます。どれも意図したものではありません。気が付くとそうなっている。
 二作目の『ラ・イストリア』は、意志を持たない生態端末の少女を、魂のない機械として愛するクラウディオと、一人の人間として愛するフアニートとの対立が物語の軸となっています。で、彼女は周囲から、単に呼び名がないと不便なので、人名というよりは記号として「ブランカ」(スペイン語で「白」。髪も肌も白いので)と呼ばれているのですが、なんか気が付いたら、愛を籠めてその名を呼ぶフアニートと、絶対に名前を呼ばない
クラウディオという対比が生じてしまっていた。
 ここでようやく、私は名前に並々ならぬこだわりがあるんだ、と自覚したのでした。『グアルディア』の時はまだ、子供の頃からの「同じ名前の多言語間での変化への興味」からの派生、程度だと思ってたんですが。

『山尾悠子作品集成』を読んだのは『グアルディア』を書き始める数ヵ月前でしたが、その解説で、山尾氏は登場人物に名前を付けるのが苦手で、だからたとえば「ゴーレム」のようにアルファベット一文字だけのほうが書きやすい、という主旨の発言をしていると知りました(だいぶうろ覚えですが)。当時はまだ小説は習作が何本かと、それより以前に漫画やシナリオを書いたことがあるだけでしたが、名付けは楽しい作業の一つではあったけど、作品によっては特に意識することもなくキャラの全員に名前がなかったりもしたので、山尾氏の発言に特に思うところはなかったのでした。その時は。
 しかし『グアルディア』では、「名前へのこだわり」が物語の駆動力の一つにまでなってしまい、『ラ・イストリア』でも程度の差こそあれ、そうなりそうだと気が付いた時、なんか、少し恥ずかしくなっちゃったんですよね。
 別に「名前へのこだわり」自体は恥ずかしくありませんが、毎回それを入れるのは芸がない。なのに気が付くと、どこかしらに「名前へのこだわり」が出ている。無意識にやってしまっているのが恥ずかしい。
 で、遅ればせながら山尾氏の名付けへのこだわりのなさが、かっこいいなあ、と。
 今、書いていて気が付いたんですが、『グアルディア』のJDがアルファベット二文字なのは、ジョーンン・D・ヴィンジ『雪の女王』のサブキャラで、後に『世界の果て』で主人公を務めたグンダリヌのファーストネームがアルファベット二文字なのが(明言はされていないが、そういう文化圏の出身らしい)、なんかかっこよくて好きだったので倣ったんですが、すでに山尾氏からの影響もあったかもしれない。
 アルファベット二文字といえば、「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」(表題作)の主人公ケイシー、スペリングはCaseyですが、この名前は一種のニックネームとして「KC」と書かれることもあります。彼は「無名の大衆の一人」というキャラクターなので、名前も「記号」なのでした。

 そういうわけで『ラ・イストリア』では、ブランカ以外のキャラの名付けは、意識してこだわらないようにしました。スペイン語人名から、なんか響きがよくて表記がややこしくないものを適当に。終盤に登場するカロリーヌは『グアルディア』のカルラの先祖だから(それぞれ男性名「カール」から派生した女性名のフランス語形とスペイン語形。コミュニティの中で代々受け継がれたという設定)、まあ例外。
 ……と思ったら、なんかクラウディオは恩人のマリベルを母性の象徴的存在と見做して、彼女の正式名称である「マリア・イサベル」(「マリア」は言うまでもなく、「イサベル」も洗礼者ヨハネの母エリザベトに由来)に勝手に意味を見出すし、フアニートも偶々「天使(アンヘル)」の名を持つ島の近くを通りかかったら、「ブランカの名前はアンヘルのほうが似合ってる」とか言い出すし……まあどちらも「名前にこだわりのあるキャラ」ではあるからなあ。

『ミカイールの階梯』では開き直って「名前へのこだわり」を抑制しませんでしたが、幸い作中での「名前へのこだわり」が物語を駆動力するまでには至りませんでした。
 しかし『ラ・イストリア』『ミカイールの階梯』と書いて気が付いたのは、私は少なくとも長篇を書くときは早めにキャラの名前を決めておかないと、そのキャラを展開させられない、ということでした。名前が解らないと、どんな内面を持ち、どんな行動をするのか解らない。それがメインキャラなら当然、プロットも展開できない。中・短篇ならプロットを大きく展開させる必要がないので、キャラの名前がなくても困らないんですけどね。

 だからキャラクターの名前を決めずに(アルファベット等の記号だけで充分)物語を書く山尾氏は、本当に根本的な部分で私とは懸け離れているんだなあ、と。いや、懸け離れているということは最初から解っていますが、こういうところにまで表れるものなのだなあ、と。
 そしてますます、山尾氏の「名前へのこだわりの無さ」がかっこよく思えるようになったわけです。

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』は中篇4本+エピローグから成ります。中篇なので固有名詞の名前を持たない、「牧師」「少女」といった呼び名だけのキャラクターを動かしやすいこともあって、徹底してキャラクターの名前にこだわらないようにしました。まあJDの記号(キャラクター)名では結構遊びましたが、これは例外。
 
その結果、気づいたのは、「名前にこだわらないようにする」ということは結局、「名前にこだわっている」のと同じ、ということでした。元々こだわっていないのとは違う。
 というわけで、この性癖(誤用ではない)の矯正はもはや諦めたのでした。

 ようやく本作の話に戻りますが、まだイブン・ムカッファを主人公にすると決めてさえいなかった時点では、其の一で述べた理由で、固有名詞の表記や術語等を日本では馴染みのないものに変えること、また表記はなるべく簡潔なものにすること(例えば、よりアラビア語原音に近い「イブヌル・ムカッファ」ではなく「イブン・ムカッファ」にする等)、人名が多いと煩雑になるので、肩書だけで済ませられるならそうすること(「判官殿」等)程度のことしか考えていませんでした。新たにそう考えたというより、「ガーヤト・アルハキーム」の踏襲です。
 しかしイブン・ムカッファが主人公に決まった直後に、最後の場面が「下りてきて」しまい、彼が自分が持つ名前はどれも「本当の名前」じゃない、と感じ続けていたことを「知って」しまいました。父親が被支配層ゆえに無実の罪で拷問された結果の「イブン・ムカッファ(手萎えの息子)」という通名はもちろん、父親から与えられたペルシア(ファールス)人としての名も、改宗で与えられたアラブ名も、どれも「本当の名前」ではない。
 それはつまり、彼はアイデンティティが曖昧な人物であり、その自覚もあったことを示しています。そしてそれを埋め合わせるように、自らの知識と才能に絶大な自負を抱いていたことも。

 そういうわけでね、またしても「名前へのこだわり」が出てしまったのですが、「下りてきて」しまたったのだから仕方ない。しかもそれがイブン・ムカッファというキャラクターの根幹を形成する要素なのだから仕方ない。仕方なかったんですよ。

其の一其の十八

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十六

其の一其の十五
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。 

 さて、其の十四で述べたように、主人公をイブン・ムカッファに決めた直後に、プロットはほぼ固まりました。それから完成まで約2年も掛かった最大の理由は、一人称視点で書き始めてしまったからです。最初に「下りてきた」のが最後の場面だったのですが、滅多にないほど鮮烈で、文章の一部まで「下りてきた」んですね。で、それが一人称視点だった。
「下りてきた」からには、一人称にせざるを得ない。しかし私は、一人称で小説を書くのがものすごく苦手なのです。なぜなら其の十四で述べたように、私は私が存在しない世界を創造するために小説を書いている。私が存在しない世界を観察し、文章で綴るのが素晴らしい体験だから、小説を書いている。
 キャラクターの一人称視点でそれを行うのは、困難を極める。こちらとの距離が近すぎて、精神的な負荷が非常に高いのです。しかし
一人称視点でなければ表現できないことはある。本作の最後の場面が、まさにそうでした。

 一人称視点で書いた作品は、すでに『ラ・イストリア』と「はじまりと終わりの世界樹」(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収)があります。『ラ・イストリア』は少なくとも三つの視点が必要でしたが、それでも全篇三人称視点にしては表現できないことがあったので、アロンソの一人称による物語の表側のパート、クラウディオの一人称による物語の裏側のパート、そして三人称視点の「歴史叙述」のパートの三つに分けました。
 アロンソはまだ17歳なのに家族を支えなければならず、マチスモに即して行動することで己の内面から距離を取っている。で、クラウディオ、こいつはシンプルに異常者なので、最初からこちらとは距離が取れている。

「はじまりと終わりの世界樹」は、三人称パートが合間合間に挟まる上に、一人称パートも「誰か」に対する語りなので、距離は取れていました。語り手によって語られることがすべてで、彼自身の内面にまで踏み込む必要はなかったから。

 そして本作ですが、最後の場面は一人称視点で「下りてきた」ので、どうしても一人称視点で書かなければならない。しかしそこに至るまでの物語が、一人称視点だとどうしても視点の主であるイブン・ムカッファとの距離が取れない。
 最初の段階で、イブン・ムカッファが見た血文字の幻影が「物語の川々は大海に注ぐ」そのものであることが「みえて」いたので、つまり本作の一人称視点は現在進行形ではなく、後から書かれたものであることは判っていました。だから距離が取れるだろう、大丈夫だろうと思って書き始めたんですが。
 大丈夫じゃありませんでした。理由は不明ですが、どうしてもイブン・ムカッファと、彼に起こる事象と、延いては物語そのものと距離を取れなかった。なんとか文章を絞り出しても、違和感が耐え難い。本当に苦しかった。

 イブン・ムカッファの最期が「物語に呑み込まれる」だということは判っていたので、血文字の幻影が出現する(タイポグラフィ的に行書体で表現)のは物語に「今まさに追い付かれている」からだと解釈できたことで、ようやく出口が見出せました。
 流れ出る彼の血が物語を綴る。彼の血が「物語の川々は大海に注ぐ」という「カター・サリット(物語の川々)」の一本となっている。それは彼自身がその「物語の川」の水源に、ムンシー(アラビア語で「作者/創造者」)になったということである。
 だから最後の場面での彼は物語の「主人公」であると同時に「作者/執筆者」でもある。それまでの場面の彼は「主人公」だが「作者/執筆者」ではない。その区別のために視点の人称を変える。またダイアローグおよびモノローグでの彼の一人称が「わたし」だったのに、最後の場面だけ「私」になるのは、物語の登場人物とその書き手との書き分けです。現代日本語でも口語と文語の区別がもっと明確だったら、もっと明確に書き分けらたんですけどね。

 血文字が出現する直前の、『SFマガジン』でいうとp.318下段の最後の段落で、独白の一人称がここだけ「私」になっているのは、物語が背後まで迫ってきている、ということです。
 あと、血文字の出現までは現在進行形で彼の意識の流れを追っているかのように読めますが、実は未来の、別の観点に立つ者(イブン・ムカッファ自身ではあるけれど)が視点の主であることを示唆する描写はあります。具体的には、
すでに破滅は決定づけられていることに気づかず、判官殿との議論にのめり込んでいくイブン・ムカッファへの皮肉な視線です。あれは現在進行形の自嘲ではないんですね。まあ極力さりげない描写に留めているので、気づく人はいないと思いますが。

 この構成に至れるまでが、本当に長かった。自律神経がいかれてるせいでストレスが身体症状に直結して、それがさらに頭の働きと物理的な作業を阻害し、さらなるストレスになるという悪循環。加えて体力が低下したせいか、風邪と思しき発熱を伴う症状を何度も繰り返したし。幸いにしてコロナにこそ罹りませんでしたが、発熱外来はいつも激込みでまともな診療を受けられませんでしたしねえ。長時間待たされるのはまだしも対面診察すらしてもらえなくて、コロナ検査だけだったからなあ(ロキソニンは効かないどころか吐いたことがあると申告したら、「そういうことなら」と薬は一切処方してもらえなかった)。まあこちらも負担はかけたくなかったので、病院に行ったのは38℃を超えた時だけでしたが。だから本当に風邪だったのかも不明。
 あと三十数年ぶりに結膜炎に罹ってしまい、ウイルス性じゃないのに完治に1ヵ月も要し、2週間近く両目がまともに開けられなかったのが地味につらかった。

 執筆に時間が掛かった3番目の理由は、英語資料を読まなくちゃならなかったことですね。必要な日本語資料は粗方読みつくしていたんですが、執筆を始めてから英語文献が次から次へと見つかって……私が多言語齧ってるのは、まさに下手の横好きで、語学の才能は皆無なんですよ。英語はリーディングだけに限っても、大まかな内容を摑むだけならまだしも、資料にできるくらい理解するには時間が掛かる。
 と言っても、せいぜい数ヵ月分の遅れだから、やっぱり一人称視点によるストレスと不健康の悪循環でしたねえ。そこから抜け出せてからは4ヵ月掛からなかった。特に血文字出現後の最後の場面は、ムハッラブ家の歴史を簡潔にまとめるのに多少手間が掛かったものの、そこを除けば正味数時間だったからなあ。本当に楽しかった。

其の一其の十七

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十五

其の一其の十四
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。 紀年は特記がない限りはADです。

 今回は、「預言」の定義を解説します。
 まあそもそも、日本語の「預言」と「予言」を区別している人が、どれだけいるかっていう話ですけどね。この漢字による区別はたいへん解りやすくて、「預かる」と「予め」。「神から預かった言葉」と「(なんらかの超常の力によって)予知した事柄を告げる言葉」。
「予言」を与える超常の存在は、どんなものでもあり得ますが、「預言」を与えるのは一神教の神に限定されます。言い換えると、一神教の神とは預言を与える存在です。神託とか託宣とか呼ばれることもある、多神教の神々が与える「お告げ」は、事の真偽だったり失せ物探しだったり、それこそ予言だったりしますが、預言は信仰の在り方や終末思想など、もっと大きな事柄に関する、ある程度一貫性のある内容ですね。

 ヘブライ語では「預言者」は「ナビー」(または「ナヴィー」)で、原義は「(神に)呼ばれた者」という意味らしい。「召命された者」ってとこでしょうか。「預言」は「預言者」の派生語なんで、預言そのものより、それを与えられた人間のほうが重要というわけです。
 で、ヘブライ語聖書(いわゆる「旧約聖書」)がギリシア語訳された時、この「ナビー」に当てられたのが「プロフェーテース」です。「プロ」が「予め」で、「フェーテース」が「語る者」。直訳すれば「予言者」ですね。ここでも「予言(預言)」自体ではなく、それを語る者が主体とされている。
 ギリシア語「プロフェーテース」がラテン語を経たのが、英語prophet。prophetが語るのがprophecy。「預言」と「予言(神以外の力によるものも含む)」の両方の意味がある。

 イスラムにおいては、「預言者」は「ナビー」です。派生語の少なさからして、元々はヘブライ語からの借用語でしょう。「預言」は「ビシャーラト」ですが、多神教時代以来の「お告げ」「吉兆」を意味する語でもある。「お告げ」を意味する語はほかに「カハーナト」があって、これは「予言」の意味もある。カハーナトをするのが「カーヒン」で、占い師のことですが、多神教時代には巫子/シャーマンのことだった。
 多神教時代のアラビア半島には「超常の存在から与えられた言葉を語る者」が二種類いて、それが詩人とカーヒンでした。この時代には神々と妖霊(ジン)の区別が曖昧だったので、両者は「マジュヌーン(妖霊憑き)」とも呼ばれた。ムハンマドは「唯一神アッラーから与えられた言葉を語る者」として「ナビー」を名乗りましたが、多神教徒のアラブたちは彼を詩人やカーヒンと区別しませんでした。クルアーンではナビーを詩人やカーヒンと混同することと、アッラーを他の神々や妖霊と同列に扱うことへの怒りが、繰り返し語られています。

 なお私の古典ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、アラビア語の知識は初歩の初歩です。ヘブライ文字、ギリシア文字、アラビア文字は一応読めますが(「個々の文字の識別ができ、音読も一応できる」という意味)、めんどくさいのでカタカナ表記にしてます。御容赦ください。

 まあとにかく、イスラム成立後はムハンマドが「最後の預言者」であることは絶対なので、預言者を名乗るのはもちろん、「アッラーの言葉を与えられた」と主張する者は、自動的に偽預言者で大罪人ということになります。
 一方で民間信仰レベルでは、占いなどによる予知は盛んでした。胡散臭いものと見做されがちだったものの、おおむね許容されていました。
 だからイスラムにおいては「預言」と「予言」の区別は大事だったわけですが、実はほかならぬムハンマド自身が「夢は〇〇番目の預言である」と述べた、と伝えられています。「〇〇」に入る数字は43、46、70など諸説ありますが、イブン・ハルドゥーン(1332-1406)の『歴史序説』第1章(森本公誠・訳 岩波書店) によると、特に意味はないそうです。
イスラム世界最大の学者が言うんだから、そうなんでしょう。夢が神託だという信仰自体は世界的に珍しくなく、おそらく多神教時代の名残でしょうが、「預言」だとムハンマドが断言したことになっているので誰も否定できない。

 なお上のイブン・ハルドゥーンの記述の続きによれば、「70」はアラブにとって「多数」と同義だそうです。古代ユダヤ人にとっての「40」と同じことですかね(クルアーンで、そういう意味で「70」という数字は使われていないようですが)。イスラム世界最大の学者が言うんだから、そうなんだろう、と本作で採用しています。

 さて、prophecy(というか、その原型のラテン語)は「予言」が原義だったのが、キリスト教化によって「預言」の意味も持ちました。後者に限定すると、revelationの語が当てられることもあります。revelationの訳語には「預言」のほかに「啓示」が当てられます。
 revelationの原義は「覆いを外すこと」です。まずヘブライ語で「ヒトガルート」という言葉があって、これは「覆いを外すこと」というような意味で、唯一神が「(人間に)隠されていた知識を開示する」ことを指します。ギリシア語に直訳すれば「アポカルプシス」、そのラテン語の直訳を経てrevelationとなりました。
 日本語の「啓示」と「預言」の区別を敢えて定義するなら、「啓示」が上記の「(人間に)隠されていた知識を唯一神が開示すること」で、「預言」はその知識といったところですかね。本作では「啓示」と「預言」を厳密に区別する必要はなく、かつ煩雑さを避けるため、「啓示」という語は出していません。

「啓示」の訳語を当てられているアラビア語の単語は幾つかあります。ユダヤ・キリスト教と同じく「覆いを外すこと」のほかに、「運ぶ」や「下る」の派生語などがある。
 イスラムに比べればユダヤ・キリスト教には詳しくないんで、あまり突っ込んだ話はできませんが、この先行する二つの一神教では、啓示はしばしば言語としてではなく幻視(および夢)として視覚的に体験されます。
 一方、イスラムにおいては、啓示とは言葉すなわち預言です。クルアーンは神がムハンマドに下した言葉そのものですが、ユダヤ・キリスト教も神が先行の預言者たちに下した言葉そのものと定義されています。クルアーン第17章のタイトルにもなっている「夜の旅」は、神がムハンマドをメッカからエルサレムまで夜空を飛んで連れて行き、そこから天国に昇ったという「奇蹟」ですが、啓示という扱いはされてませんね。天国での見聞は重大な情報開示になると思うんですが、クルアーンでは一切触れていない。また「夜の旅」は幻視の類ではなく、実体験だとされています。
 上記の「夢は〇〇番目の預言」のような例はあるものの、アラブ文化は徹底的に言語優位であり(これについては後日、解説できたらします)、それもあって本作では啓示と預言をほぼ同義として、前者の語は除外した次第です。

 宗教的な体験として「幻視」と訳されるのは英語だとvision、意味は語源であるラテン語visio「見ること/視覚」「光景」「幻影」「観念」「見解」等とほぼ同じ。アラビア語「ルゥヤー」は「夢」「幻」という意味で、語根が同じ単語に「見ること/視覚」「見解」等がある。宗教的体験としての「幻視」の意味もあるけど、キリスト教の「黙示録」の訳語に当てられてるんで(「シフル・アルルゥヤー」で「幻視の書」)、これもイスラムには「幻視」の概念はあまり馴染みがない証左だと言えるかもしれない。

 で、イブン・ムカッファはマーニー教からの改宗者ですが、開祖マーニーは啓示を預言と幻視の両方のかたちで受け取っている。またマーニー教を通じて、ユダヤ・キリスト教の知識もあったはずです。彼は自らの「物語を視た」体験を、預言のかたちの啓示や詩人の「妖霊の囁き」よりは、幻視による啓示に近いと感じます。まさに「覆いを外された」感覚でしょう。同時に、預言のかたちでなかったことで、偽預言者だと曲解される可能性を見落としていたと思われます。
 本作のイブン・ムカッファは、無宗教でいるのが不可能な社会において、信仰する宗教を「教義が納得できるから好き/嫌い」で選ぶ人物です。霊感に突き動かされて行うものとされる詩作も、言葉のパズルという知的遊戯として行っている。ちなみに魔方陣は、この時代の中東の知識人が知ってそうだという理由で選びました。

 そんな彼が、追い詰められた精神状態で「物語を視た」なら、頭では合理的に解釈できても、何か特別な体験だと思ってしまうでしょう。いや、私自身がそういう時は、だいぶやばい高揚の仕方をするので。
 しかし当人にとってどれだけ特別な体験でも、他人、特にフィクションを侮蔑する人にとっては、世にも馬鹿げた妄言に過ぎません。「山犬と雄牛と獅子王の物語」にど嵌まりしたスフヤーンが延々と垂れ流す妄想に付き合わされ続けた判官殿は、その「作者」たるイブン・ムカッファに「山犬たちは勝手に動いたんであって、わたしが意図したものじゃない」とか言われて、めちゃめちゃムカついたでしょうね。

其の一其の十六

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「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の十四

其の一其の十三
掲載誌:『SFマガジン』2024年6月号

 全体的にネタバレ注意。本作では中世イスラムの固有名詞や術語の多くを、独自の用語に置き換えています。以下、日本における一般的な表記に、本作独自の用語を()で付記するかたちで記述していきます。 紀年は特記がない限りはADです。

 其の八の記事で、主人公イブン・ムカッファの著書『カリーラとディムナ』(菊池俊子・訳 平凡社東洋文庫)を再読していて、彼が「最も残酷な方法」で処刑された、という伝承(最初に記録されたのは、彼の死から150年以上後)が、彼自身が創作した山犬ディムナの最期と同じだと気づき、次いで彼が少なくとも死後、山犬ディムナと同一視されていた(生前どうだったかは不明)ことにも気づいた、と述べました。
 で、その瞬間、「みえた」わけです、物語が。

 具体的には、断片的な場面や言語化されていない状態の大まかなプロットが忽然と頭に浮かび、それを視覚的な情報、文字どおりのイメージとして認識したわけです。
 ええ、まあ、はい。本作におけるイブン・ムカッファの3日目の体験と同じです。とはいえ彼が「物語の創造」を、「自ら創り上げるもの」ではなく、「外部から与えられるもの、下されるもの」と認識する展開にしたのは、アラブ(タージク)における詩人と妖霊の関係という伝統、さらにはイスラム(誠の教え)を含む啓示宗教における預言者と唯一神の関係という伝統との親和性の高さからです。
 もちろん、ほかの創作法より私自身の創作法のほうがよく知ってるわけだから反映しやすかったというのもありますが、だからと言ってイブン・ムカッファが私の自己投影(誤用)だとか思わないでくださいね。私は私が存在しない世界を創造するために小説を書いているんだから、私の小説の中に私がいるなんて気持ち悪くて想像もしたくない。
 あ、ほかの創作者の方々が自作のキャラに自己投影(誤用)すること自体は、別になんとも思いません。その人は私じゃないから。

 まあ私が存在しない世界云々はたわ言として読み流していただくとして、今回は本作のプロット構築の過程について説明しますね。其の八が主人公をイブン・ムカッファに決めるまでだったので、その続きです。
 本作における啓示・預言等の解釈については、後日解説できたらします。

 私の創作法で一番よくあるパターンは、まず書きたいテーマなりアイデアがあって、それに必要な情報を収集しつつ、そのテーマやワンアイデアに割く思考リソースを増やしていく。そうするとそのうち、物語そのものの情報が「下りてくる」。それは上述のように、断片的な場面だったり言語化されていない状態のプロットだったりします。あたかもその「物語」がすでに存在している、それも私の頭の中どころか、この世の外のどこかに、その物語の断片を受け取っている感覚です。

 いや、もちろん私自身が考え出しているってことは承知してますよ。日常的なちょっとした思い付き、あるいは本作の場合だったら、アラブ文学の伝統におけるフィクションの地位の低さを、現代日本の一部の人々のフィクション蔑視を拡大したようなものとして解釈できる、という思い付き。そういった、ちょっと「閃いた」程度の脳活動の拡張版だってことは承知しています。ただ、その時の感覚があまりにも強烈なので、自分の脳がやっていることだという自覚が持てないだけです。
 断片的な場面は映像として「みえる」し、言語化されていない状態のプロットも視覚的な感覚を伴います。当然ながら視神経は介していませんが、視覚中枢のどこかは活動しているかもしれない。
 あ、本作ではそういう視覚的な感覚を、一般的な「見る」行為と区別するために「視る」と表現しましたが、私自身の創作過程の説明として「視る」を使うのは恥ずかしいんで、「みる」にしときます。

 そうした非言語的で断片的な情報を解釈し、言語化していく作業が、プロット構築および執筆になります。最初期の段階では、プロットが「みえた」と言っても、相当に大雑把で不完全なものでしかありませんから。たいていは「みえた」情報に対し、「これはどういう状況なんだろう」「登場する彼らは何者なんだろう」と解析していくことになります。そうすると、さらに新しい情報が「下りてくる」。それらを解釈し、言語化する。その繰り返しです。
 場面として「みえる」情報は当然、映像であり、多くの場合は音付きですが、視覚的な感覚よりはだいぶ曖昧です。登場するキャラクターの台詞は、おおよその内容しか判らないこともあれば、しっかり「きこえる」こともある。後者なら、そのまま書き留めるまでです。作業が進行していくと、文章が考えるまでもなく「下りてくる」こともあります。

 本作の場合は、イブン・ムカッファの最期が彼と山犬ディムナの同一視から作られた伝説だと気づいた時点で「みえた」プロットは、彼の最期の数日間で判官と交わされる「作り話」を巡る問答、というほぼ完成したものでした。一度にここまで「みえる」のは珍しい。記録がそれなりに残っている実在の人物だからでしょうね。
 同時に「みえた」場面は、まあだいたいは地下の独房内か審問の場のスチールという感じでしたが、最も鮮明かつ映像として「みえた」のは、『SFマガジン』p.326上段後半以降に当たる部分でした。独房と思しき場所にに血塗れで倒れ伏すイブン・ムカッファ、彼の眼前に流れる血文字の幻影、背後で開いた扉から溢れ出す眩い光とそれを背にして立つ長身の女。彼女が呼ぶ、彼の「本当の名前」。指一本動かせないはずなのに、彼は身を起こして振り返る……

 次いで、「この場面はどういうことなんだろう」と考えると、すぐに答えがわかりました。
 血塗れで倒れていたのは拷問を受けたからで、それはスフヤーンがイブン・ムカッファを叛逆者に仕立てようとしたのではなく、山犬ディムナと同一視していたからである。スフヤーンは自身を高潔な雄牛と同一視しているため、これまでイブン・ムカッファを闇討ちするような真似はしてこなかった。またカリフ(ハリーファ)のマンスールを、優柔不断で御しやすい獅子王と同一視して舐めている。
 流れ出る血文字の幻影が綴るのは、イブン・ムカッファ自身の物語であり、本作そのものである。流れて行く血の物語は物語の川(カター・サリット)であり、大海(サーガラ)に注ぐ。大海の名は「大いなる物語(ブリハット・カター)」であり、彼の背後に立つ女人の背後に広がる光の海がそれである。
 彼女が彼の「本当の名前」を呼んだということはすなわち、イブン・ムカッファは「自分は本当の名前で呼ばれていない」と認識しているからである。
 彼女は川と物語の女神サラスヴァティであり、したがってハラフワティ/アナーヒター(ナーヒード)/シャフルバーヌーであり、「物語の川々」そのものであり、シェヘラザード(シャフラーザード)ですらある。

 ……といった情報が、あらかじめ私の脳の外、この世の外に存在していたかのように「下りてきた」ので、そうなりました。
 だから史実では、インド(シンド)の大説話集『ブリハット・カター』が編纂されたのが『カリーラとディムナ』の原典『パンチャタントラ』より後なのは確実で、『カター・サリット・サーガラ』が『カリーラとディムナ』より3世紀半も後の11世紀初頭であっても、この世のすべての物語は「物語の川々(カター・サリット)」であり、「大いなる物語(ブリハット・カター)」という名の大海(サーガラ)に注ぎ込むのです。
 同様に、史実では女神アナーヒターとシェヘラザードがまったくの無関係であっても(其の十参照)、この物語においては彼女たちは同一の存在なのです。
 何しろ、そう「みえて」しまったので。

 其の十で述べましたが、かつて「シェヘラザードは物語の語り手に過ぎず、妹のドニヤザードこそが物語の創造を担う」というアイデアを抱えていたのですが、シェヘラザードとドニヤザードの名前が対ではないと判明して没になったという経緯があります。その後、シェヘラザードとドニヤザード姉妹の物語とは無関係な物語として、本作の構想を始めました。
 ところが、シェヘラザードが「物語の川々」そのものであり、したがってサラスヴァティ/アナーヒター/シャフルバーヌーでもあることが「みえて」しまったので、彼女はめでたく本作に組み込まれることになりました。一方で、「物語の創造」の象徴としてのドニヤザードというキャラクターは、本作に組み込む余地はまったくありませんでした。主人公イブン・ムカッファが物語の創造を、「外部からもたらされたもの」と認識したからです。
 もちろん彼は合理的かつ内省のできる人間なので、実際に創造しているのは自分であることは理解しています。同時に、その過程を認識できないので「外部からもたらされたもの」という感覚を消すことはできない、ということも理解しているのです。本作のイブン・ムカッファは、そういうキャラクターです。

其の一其の十五

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