「物語の川々は大海に注ぐ」解説と余談 其の二十三
いろいろ片付いたんで再開。手術するかどうかは、来週の検査の結果次第です。
全体的にネタバレ注意。 紀年は特記がない限りはADです。
今回は、「初期イスラム時代(7-10世紀)のムスリムは、偶像(崇拝対象)をどう捉えていたのか」という問題についてと、それに間接的に関係のある本作の小ネタの解説です。
ムハンマドがカアバ神殿に祀られていた大量の偶像をはじめ、各地の偶像(聖樹など自然物も含む)を破壊させた、という現存する最古の記録は、8世紀後半か9世紀初めに書かれた『偶像の書』です。邦訳が出ています。イスラム(およびアラブ)研究は、どんな分野であろうと遡るほど同時代記録が少ないという問題に付き纏われるんですが、これは比較的早いほうですね。
著者は邦訳版では「イブン・アル=カルビー」という表記で、本作で名前が挙げられている「イブン・カルビー」父子の息子のほうです。「カルビー」は彼らの先祖の名前なので、この場合の「イブン・カルビー」は「カルビーの子孫」くらいの意味になります。
本作で言及しているとおり、父のほうのイブン・カルビーは前イスラム期の伝承に詳しく、息子の著書には本人が収集した情報のほか、父から直接聞いた伝承も記されています。子の没年は820年前後で、史料によって819年から823年までの幅がありますが、生年のほうはさらに728年から747年と、ちょっと幅がありすぎる……。『偶像の書』がいつ書かれたのかは不明ですが、生年に20年近くも幅があると、推定できる年代にも幅がありすぎます。まあ本作の時代(8世紀半ば)にまだ書かれていなかったのは確実ですが。
息子イブン・カルビーの生年は、本作では間を取って730年代後半を想定しています(享年が80代だったという史料もあるので、このくらいが一番確実です)。757年時点で30代後半にさしかかっているイブン・ムカッファよりだいぶ若いが、自ら伝承収集を行って数年になるくらいの年齢になります。。
イブン・ムカッファはインドの数学・天文学、古代ギリシアの哲学・科学の知識がある(ペルシア語訳で読んでいる)上に、マーニー教を介してユダヤ・キリスト教に加えて仏教の知識もあります。もちろんペルシアの歴史やゾロアスター教についても知っている。しかし本作でも言及しているように、アラブ・ムスリムの異教への無関心は自分たちの先祖の宗教にまで及んでいるので、8世紀前半時点でそれについて知ろうとするなら、相当熱心に古伝承を収集しない限り無理だろうと思われます。
が、幸いなことに彼と同時代にイブン・カルビー父子がいたわけです。しかも彼らが住んでいたのは、イブン・ムカッファが住むバスラと同じユーフラテス流域の都市クーファです。だからイブン・ムカッファが彼らから情報を得ていた可能性はある。まあバスラとクーファは500キロ近く離れてますけど。
其の十二の最後のほうで言及したバラーズリー(892年頃没)の『諸国征服史』(花田宇秋・訳 岩波書店)、その第25章「シンドの征服」は、ウマイヤ朝による711年のシンド(西北インドというか、パキスタン)遠征についてです。イブン・ムカッファが『カリーラとディムナ』の原典をはじめとする、インドの物語集について聞き取りをした「シンド人の解放奴隷」は、この遠征以降にシンドから連れて来られたことになります。
本作では古代インド(シンド)に物語集を3つ挙げ、『カリーラとディムナ』の原典(題名は出していないが『パンチャタントラ』は『カター・サリット・サーガラ(物語の川々は大海に注ぐ)』の一部、『カター・サリット・サーガラ』は『ブリハット・カター(大いなる物語)』の一部、としています。実際の三者の関係は、其の十一で解説しました。
で、史実において、『パンチャタントラ』はカシミールで成立したという説が有力で、『カター・サリット・サーガラ』はカシミールで成立したことが確実、『ブリハット・カター』はどこで成立したかは不明、パイシャーチーという言語で書かれた原典も逸失、幾つかの系統の翻訳版が現存するが、完本はカシミールに伝わるものだけなので、原典もこの地域と関係があるかもしれない。
カシミールは現在の印パ国境地帯に位置します。つまり作中のシンド人解放奴隷が、この地に伝わる物語を口承で知っていた可能性は高い、ということです。
ちなみにこの遠征の指揮官は、イブン・ムカッファの父をムカッファ(「手萎え」)にしたイラク太守ハッジャージュの娘婿で、イブン・ムカッファを処刑することになるスフヤーンの祖父ヤズィードの讒言によって715年に殺されました。ヤズィードは作中で言及されているようにハッジャージュに恨みがあったので、彼が714年に没すると、直ちに一族や配下の粛清に掛かったのでした。
この『諸国征服史』は、ムハンマドの没後からウマイヤ朝期までのイスラム帝国の征服活動を記したものですが、何しろ文字記録がほぼ行われていなかった時代なので、情報源は著者バラーズリーの時代まで口承されてきた物語か、8世紀後半(本作より少し後)からようやく書かれるようになった歴史書(多くは現存せず)です。
そうやって書かれた「シンドの征服」によれば、インダス川支流域のある寺には「預言者アイユーブに似た偶像」が安置されていたそうです。「預言者アイユーブ」は旧約聖書(キリスト教による差別的な呼称ですが、ほかに簡潔な日本語呼称もないので)のヨブのことですね。ムスリムは異教に無頓着なので「ある寺」が仏教のものかヒンドゥーのものかも不明ですが、どちらにせよ、そんな場所にある「ヨブに似た偶像」とは?
第24章の、ゾロアスター教の曝葬としか思えない葬儀を望んだ「血筋もよく敬虔」なアラブ・ムスリムの指揮官のエピソードでもそうですが、この「ヨブ像」についても訳者の解説は一切ありません。しかしこれ……ガンダーラ美術の「釈迦苦行像」なんじゃないか? 出家直後の6年間の苦行で骨と皮だけに瘦せ衰えた、あの有名な座禅像です。これが神に試されてやつれ果てたヨブに見えたんじゃないかと。ガンダーラ近いし。どうなんですかね?
『諸国征服史』には、この「ヨブ像」も含め、イスラム軍が各地の偶像をどうしたかについては述べられていません。原則としてイスラムは強制改宗は行わないので、侵略時の略奪や破壊を除けば、現地民の信仰は納税と引き換えに保証されます。まあ私的な「異教徒いじめ」はいくらでもあったようですが。
しかし「ソグドの地」(現在のウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン辺り。本作の時代には「ソグド」と呼ばれる人々の国々があった)では例外的に、組織的な強制改宗が行われました。
上記のスフヤーンとその祖父ヤズィードは軍人家系のムハッラブ家当主でしたが、その名祖でヤズィードの父(スフヤーンの曽祖父)ムハッラブは698年、上記のイラク太守ハッジャージュによってソグドの地征服の任に就きます。本作でも言及しているように、ムハッラブは軍人としてまあまあ有能だったので、そこそこの成果を上げつつ大過なく生涯を終えました。本作の55年前、702年のことです。
その跡を継いだヤズィードは、本作で述べているとおり、私腹を肥やすことと身内びいきをすることしか頭にない無能だったので、ハッジャージュはヤズィードを解任して兄弟たちと共に投獄し、クタイバという人物を後任にします。
クタイバは軍人としては非常に有能で、ソグドの国々を次々と征服していきますが、ナルシャヒーによる11世紀半ばの『ブハラ史』(ブハラは現ウズベキスタンのオアシス都市。アラビア語原典は失われ、12世紀のペルシア語訳が現存。邦訳なし、英訳あり)によれば、 当時の常識に反して住民たちを強制的に改宗させ、多くの宗教施設と偶像を破壊します。ソグド人の抵抗があまりに激しかったからなのか、クタイバが狂信的だったからなのかは不明です。
その後、ソグド人たちは従順なふりをして、こっそり先祖伝来の神々を拝み続けては、バレて罰せられる、ということを繰り返します(そして罰が厳しすぎて叛乱を起こす)。ちなみにソグド人はペルシア人と同じイラン・アーリア民族で、宗教もゾロアスター教です。ただしサーサーン朝が国家宗教として改革したゾロアスター教は光明神アフラマズダ以外の神々は下級神とし、偶像崇拝も禁止したのに対し、ソグド人はアフラマズダ以外の神々も偶像も大いに崇拝していました。
一方、投獄されたヤズィードは脱獄し、カリフ後継者候補の一人に取り入ります。この人物が、ハッジャージュ(およびその配下のクタイバ)と対立していたからです。ヤズィードがこの対立を煽ったので、714年にハッジャージュが死んで、翌年にこの後継者候補がカリフになると、大粛清が始まります。上記のシンド遠征の将軍が殺されたのは、この時です。
次は我が身だと恐れたクタイバは、叛乱を起こします。しかし数ヵ月で鎮圧され、殺されます。ヤズィードはハッジャージュとクタイバの地位を引き継ぎ、大いに権勢を振るい、私腹を肥やすのですが、何しろ無能なのでソグド人の叛乱が相次ぎ、次々と失地しました。他の不正と同様、隠蔽していたのですが、カリフが代替わりすると誤魔化し切れなくなり、本作で述べているとおり、720年に叛乱を起こし、半年で鎮圧されるのでした。
小ネタは後もう一つ。
イブン・ムカッファ誕生以前の彼の父親については、ペルシアはファールス地方の名門出身だということと、上述のイラク太守ハッジャージュ(714年没)の下で書記兼徴税吏をしていた、ということくらいしか判っていません。後はダードエという本来の名前のほかにムバーラクというムスリム名も持っているので、改宗者であること、しかし改宗時期は不明であること。イブン・ムカッファの誕生前か幼少期なら、彼のことも改宗させているはずですが、彼の改宗は父の死の数年後なので、イブン・ムカッファが独り立ちした後であろうと推測できる(おそらく、生まれ育ったイラクのバスラを離れてペルシアに赴任した後)、くらいですかね。
ペルシアの名門ってことは、古くからの大土地所有者です。彼らは領地支配が巧みだったので、アラブ・ムスリムの征服者たちもペルシアの直接支配ではなく、彼らに任せることを選びました。もちろん改宗も強制しませんでした。
イブン・ムカッファの父は、若い頃とはいえイラクまで赴いてハッジャージュに仕えてるので、後継ぎでなかったのは確実です。名門でも末端で食い扶持を稼ぐ必要があったのか、でも「あの」ハッジャージュに横領の疑いを掛けられたのに、拷問はされたけれど放免されて、故郷に帰って息子をもうけている。だから当主の弟で兄と折り合いが悪かった、という設定にしました。
イブン・ムカッファはペルシア生まれではあるものの、幼いうちに、父親はその教育のためにイラクのバスラに移住します。明らかに教育費を惜しまず、しかもイブン・ムカッファはペルシア貴族の洗練を身に着けていたというから、相当裕福に暮らしていたでしょう。片腕が不自由な身で改めてアラブの支配層に仕えられはしなかったでしょうし、一族の援助だけで賄えたとも思えない。
で、バスラといえば、文化都市というだけでなく、8世紀当時はイスラム世界最大の貿易港です。イスラム成立の遙か以前から、ペルシア人は南海(インド洋、南シナ海)交易を独占していました。アラブ・ムスリムはイラクとペルシアの征服後、南海交易はそのままペルシア商人たちに任せました。
バスラは638年にアラブ・ムスリムが軍事用に建設しましたが、その後、運河の開削によって港湾都市としても栄えることになります。ペルシア湾から50キロ以上遡った河港で、ティグリス・ユーフラテスを通じた内陸部との物資の往来もありましたが、ここでも南海交易はペルシア人のものでした。
南海交易に従事するペルシア商人のうち、船舶の所有者を「船主」と言います。船主には①小型船1隻を所有し、自ら船長として乗り組む者、②中型船を何隻か所有し、他人に貸し出す者、③複数人で大型船(4、500人乗り)に共同出資する者、の3タイプがいました。
本作では、イブン・ムカッファの父は③の船主となり、イブン・ムカッファもその事業を受け継いだ、ということにしました。
ちなみにペルシア湾の交易のうち、アラビア半島側はアラブも古くから進出していて、特にオマーン地方のアズド族は海上交易で力を付けました。上述のムハッラブ家の先祖はペルシア人の船乗りで、武勇に優れていたためにアズド族に迎え入れられたと伝えられますが、海上交易を通じた繋がりだったんでしょう。
さて、ペルシア湾-南海交易について最も古くて詳しい史料は、『中国とインドの諸事情』(邦訳あり)です。「第一の書」が本作の約100年後のヒジュラ暦237年(AD851-852)に書かれ、「第二の書」が別の人物によって910年頃に書かれました。著者は2人ともペルシア湾の商人で(おそらくペルシア系)、記載された情報は伝聞だけでなく実体験もあるようです。
この『中国とインドの諸情報』では、中国(アラビア語で「シーン」)で の産物として絹織物と並んで絵画と工芸品が絶賛されています。もちろんイスラム世界に輸入されていたわけで、当然、風景画(山水画)だけではなく、人物画や花鳥画なども多かったでしょう。
さらに「第二の書」には、中国「預言者たちの肖像」を目にしたアラブの話があります。
大いに繁栄したバスラですが、871年に大規模な叛乱の煽りを食らって荒廃してしまいます。バスラの住人でムハンマドの末裔を称する(そう称するムスリムは大勢いた)イブン・ワハブという男は心機一転、シーン行きの船に乗りました。広東(「ハンフー」)の港に着くと、好奇心の赴くまま長安(「フムダーン」)の都まで行きました。そして皇帝の宮殿へ行き、自分はアラブの預言者の血を引くので住居と生活必需品を寄越せ、と要求しました。皇帝はその望みを叶えてやって上で、ハンフーの代官にイブン・ワハブが本当に預言者の末裔か問い合わせます。代官がイブン・ワハブの血統を保証したので、皇帝は謁見を許します。まあ、話を盛っているんでしょう。
その謁見の席でイブン・ワハブは、皇帝が所持する「数多くの預言者たち」の肖像画を見せられたのだそうです。ノア、モーセ、イエスらの肖像、それに信徒たちとともに駱駝に乗ったムハンマドの絵といったユダヤ・キリスト教およびイスラムの預言者たちに加え、中国およびシンドの預言者たちの絵も多数あったそうです。
中国およびシンドの預言者たちは、親指と人差し指を合わせたり、人差し指で天を指すなど、さまざまなポーズを取っていたそうで、仏画であろうと推測されています。イブン・ワハブがイエスやムハンマドらだと認識した絵姿も、仏教や儒教、道教関係か、あるいは世俗の人物像だったかもしれません。
いずれにせよイブン・ワハブは、冒瀆だと憤るどころか、感激のあまり泣き出したそうです。
クルアーンに次ぐ「第二の聖典」とされるハディース集(ムハンマド言行録)には、ムハンマドが自身の肖像を禁じたとする伝承もありますが、ハディースどころかクルアーンの文言すら、守るか守らないか、あるいはどう解釈するかは時代や国家、集団、個人によってすら異なる、ということなのです。
其の一 と其の二十四
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