「地下水路(カレーズ)」余談
発売中の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に掲載していただきました短篇「地下水路(カレーズ)」の余談です。
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本作は、サーサーン朝ペルシア(651年滅亡)最後の皇帝の末裔たちの物語です。彼らが中国に亡命していたという史実は、清原なつのの漫画『光の回廊』で知りました。読んだのは高校時代(90年度卒業)のいつかですが、1989年刊だからリアルタイムだったようですね。
聖武天皇の皇后、光明子の生涯を、この作家らしいアレンジを加えつつ描いた作品ですが、ペルシアの王族の末裔というキャラクターに付されたコマ外の注に、伊藤義教『ペルシア文化渡来考』が挙げられていて、あれ、このキャラは実在したの?と。
その後、『ペルシア文化渡来考』も読み、まあ……仮説の域は出んな……という感想でしたが(エンサイクロペディア・イラニカのTHE LAST SASANIANS IN CHINA https://www.iranicaonline.org/articles/china-xv-the-last-sasanians-in-china/ でも、「仮説」として紹介してますね)、日本に来たのかもしれない末裔よりも、確実に中国に来ていた末裔たちのほうに俄然興味を惹かれまして。
それ以前から、シルクロード文化の研究がしたくて東洋史学志望でしたが、そのついでにサーサーン朝皇帝の末裔たちについても研究できたらいいな、と思うようになりました。それだけを専門に研究できるほど史料は残ってないだろうな、とは予想してたし、実際、入学してみると、漢文史料に残っている情報は少ないし、アラビア語やペルシア語で研究できる環境は整ってないしで、結局、中世のシルクロード文化交流だけを研究することになったんですが。
残ってる史料が少ないことも含めて、異郷の地で死んだ彼らが、可哀想だと思ったんですよ。
そう思いつつも学生時代は卒論、次いで修論でいっぱいいっぱいだったんですが(学部一回生から卒論のテーマを決めて研究を進めるカリキュラムでした)、デビューの少し後からアラビア語・ペルシア語史料に残るサーサーン家の末裔たちの痕跡を調べ始め、「シャフルバヌー伝説」を知ったのでした。
びっくりしましたね。本来はまったく無関係なサーサーン朝最後の皇帝の末裔と第四代正統カリフ、アリーの末裔が、ゾロアスターよりさらに昔、インド・アーリア人とイラン・アーリア人が分かれる前にまで遡る女神信仰によって結び付けられるアクロバティック的展開/転回。
サーサーン朝最後の皇帝ヤズデギルド三世は敗走の末に水車小屋で殺され、息子ピールーズと孫ナルセフは、祖国再興のための虚しい戦いを長年続けた挙句、異郷で果て、その血統は途絶えました。その彼らの記憶が、彼らが奉じた原初の女神の記憶と共に、イスラム化したペルシア人たちに脈々と受け継がれている……という感動と同時に、なんでこんなかたちで?という困惑が同時に襲ってくるダイナミズムは、まさにマジックリアリズム。いや、そうはならんやろ。
この感動と困惑を、多くの人に伝えたい。前提となる基礎的な知識を持たない人にも、長々と説明することなく伝えたい。伝えたいのはこのダイナミズムなので、史実だということすら伝わらなくていい。
だからその感動と困惑を、ヤズデギルド三世の孫であるナルセフに、わずか1万2000字で体験させたのでした。
読者がナルセフという人物のことを何も知らなくても問題ない。だって記録がほとんど残ってないから。逸失した記録もあったでしょうけれど、大して多くないことは確実です。だから私が書いたこの物語の主人公は、実在したナルセフの影のようなものに過ぎません。
しかしその影は、あなたに読まれることによって命を得、物語を生きるのです。私が生み出した影は、あなたが読み、そしていつかふと思い出すたびに、生きるのです。ナルセフが実在したことをあなたが知らなくても、あなたに読まれることによって、彼は何度でも生きるのです。
これが、私が歴史研究者ではなく小説家になった理由です。
中篇「物語の川々は大海に注ぐ」(『SFマガジン』2024年6月号掲載)は、「地下水路」よりもさらに史実に即していますが、やはりフィクションでしか表現できない題材を扱っています。
あれは、ある種のディストピア小説です。フィクションが「役に立たない、低俗なもの」として排斥される社会という、フィクションを愛する者限定のディストピア。わざわざ架空の社会を創り出さなくても、前近代のアラブ世界がまさにそういう社会だったので(時代や地域によっては例外的にフィクションが隆盛したこともありましたが)、物語の舞台に設定しましたが、そのままでは読者に「アラブだから」「イスラムだから」と誤解されかねない。
そうではなく、日本でも現代に至るまでフィクションは見下されてきました(「小説」という名称にも、それが表れています)。「どこでもない」と同時に、「どこでもあり得る」社会、ディストピアとするために、史実であることを意図的に隠蔽しています。私たちとは無関係な、どこか遠い地域・時代限定の事象ではなく、我が事として想像し得るためのフィクション化です。
その「どこでもあり得る」ディストピアで、史上初のフィクションのヒット作を生み出してしまったのが、主人公イブン・ムカッファです。
史実のイブン・ムカッファについては、『カリーラとディムナ』のアラビア語訳者ということ以外に解っていることはわずかで、そのわずかな記録の一つが、非業の死を遂げた、というものです。「物語の川々は大海に注ぐ」の主人公もまた、史実のイブン・ムカッファの影のようなものに過ぎませんが、それでもその影もまた、あなたに読まれることによって命を得、物語を生き、あなたに思い出されることによって、何度でも生きるのです。それは、フィクションにしかできないことなのです。
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