「地下水路(カレーズ)」余談

 発売中の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に掲載していただきました短篇「地下水路(カレーズ)」の余談です。

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 本作は、サーサーン朝ペルシア(651年滅亡)最後の皇帝の末裔たちの物語です。彼らが中国に亡命していたという史実は、清原なつのの漫画『光の回廊』で知りました。読んだのは高校時代(90年度卒業)のいつかですが、1989年刊だからリアルタイムだったようですね。
 聖武天皇の皇后、光明子の生涯を、この作家らしいアレンジを加えつつ描いた作品ですが、ペルシアの王族の末裔というキャラクターに付されたコマ外の注に、伊藤義教『ペルシア文化渡来考』が挙げられていて、あれ、このキャラは実在したの?と。

 その後、『ペルシア文化渡来考』も読み、まあ……仮説の域は出んな……という感想でしたが(エンサイクロペディア・イラニカのTHE LAST SASANIANS IN CHINA  https://www.iranicaonline.org/articles/china-xv-the-last-sasanians-in-china/ でも、「仮説」として紹介してますね)、日本に来たのかもしれない末裔よりも、確実に中国に来ていた末裔たちのほうに俄然興味を惹かれまして。
 それ以前から、シルクロード文化の研究がしたくて東洋史学志望でしたが、そのついでにサーサーン朝皇帝の末裔たちについても研究できたらいいな、と思うようになりました。それだけを専門に研究できるほど史料は残ってないだろうな、とは予想してたし、実際、入学してみると、漢文史料に残っている情報は少ないし、アラビア語やペルシア語で研究できる環境は整ってないしで、結局、中世のシルクロード文化交流だけを研究することになったんですが。

 残ってる史料が少ないことも含めて、異郷の地で死んだ彼らが、可哀想だと思ったんですよ。
 そう思いつつも学生時代は卒論、次いで修論でいっぱいいっぱいだったんですが(学部一回生から卒論のテーマを決めて研究を進めるカリキュラムでした)、デビューの少し後からアラビア語・ペルシア語史料に残るサーサーン家の末裔たちの痕跡を調べ始め、「シャフルバヌー伝説」を知ったのでした。
 びっくりしましたね。本来はまったく無関係なサーサーン朝最後の皇帝の末裔と第四代正統カリフ、アリーの末裔が、ゾロアスターよりさらに昔、インド・アーリア人とイラン・アーリア人が分かれる前にまで遡る女神信仰によって結び付けられるアクロバティック的展開/転回。
 サーサーン朝最後の皇帝ヤズデギルド三世は敗走の末に水車小屋で殺され、息子ピールーズと孫ナルセフは、祖国再興のための虚しい戦いを長年続けた挙句、異郷で果て、その血統は途絶えました。その彼らの記憶が、彼らが奉じた原初の女神の記憶と共に、イスラム化したペルシア人たちに脈々と受け継がれている……という感動と同時に、なんでこんなかたちで?という困惑が同時に
襲ってくるダイナミズムは、まさにマジックリアリズム。いや、そうはならんやろ。

 この感動と困惑を、多くの人に伝えたい。前提となる基礎的な知識を持たない人にも、長々と説明することなく伝えたい。伝えたいのはこのダイナミズムなので、史実だということすら伝わらなくていい。
 だからその感動と困惑を、ヤズデギルド三世の孫であるナルセフに、わずか1万2000字で体験させたのでした。
 読者がナルセフという人物のことを何も知らなくても問題ない。だって記録がほとんど残ってないから。逸失した記録もあったでしょうけれど、大して多くないことは確実です。だから私が
書いたこの物語の主人公は、実在したナルセフの影のようなものに過ぎません。
 しかしその影は、あなたに読まれることによって命を得、物語を生きるのです。私が生み出した影は、あなたが読み、そしていつかふと思い出すたびに、生きるのです。ナルセフが実在したことをあなたが知らなくても、あなたに読まれることによって、彼は何度でも生きるのです。
 これが、私が歴史研究者ではなく小説家になった理由です。

 中篇「物語の川々は大海に注ぐ」(『SFマガジン』2024年6月号掲載)は、「地下水路」よりもさらに史実に即していますが、やはりフィクションでしか表現できない題材を扱っています。
 あれは、ある種のディストピア小説です。フィクションが「役に立たない、低俗なもの」として排斥される社会という、フィクションを愛する者限定のディストピア。わざわざ架空の社会を創り出さなくても、前近代のアラブ世界がまさにそういう社会だったので(時代や地域によっては例外的にフィクションが隆盛したこともありましたが)、物語の舞台に設定しましたが、そのままでは読者に「アラブだから」「イスラムだから」と誤解されかねない。
 そうではなく、日本でも現代に至るまでフィクションは見下されてきました(「小説」という名称にも、それが表れています)。「どこでもない」と同時に、「どこでもあり得る」社会、ディストピアとするために、史実であることを意図的に隠蔽しています。私たちとは無関係な、どこか遠い地域・時代限定の事象ではなく、我が事として想像し得るためのフィクション化です。

 その「どこでもあり得る」ディストピアで、史上初のフィクションのヒット作を生み出してしまったのが、主人公イブン・ムカッファです。
 史実のイブン・ムカッファについては、『カリーラとディムナ』のアラビア語訳者ということ以外に解っていることはわずかで、そのわずかな記録の一つが、非業の死を遂げた、というものです。「物語の川々は大海に注ぐ」の主人公もまた、史実のイブン・ムカッファの影のようなものに過ぎませんが、それでもその影もまた、あなたに読まれることによって命を得、物語を生き、あなたに思い出されることによって、何度でも生きるのです。それは、フィクションにしかできないことなのです。

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余談の余談:イスマイール一世は本当に「邪悪なほどに」美しかったのか? 其の一  以前から気になっていたことを調べてみました。全三回+余談。

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の十一

 発売中の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に掲載していただきました短篇「地下水路(カレーズ)」の解説其の十一です。今回も小ネタの拾遺と余談です。次回で終了になります。

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 最後の小ネタは、ナルセフの父ピールーズが「キリスト教への改宗者」である、という設定についてです。
 英語でググると、「改宗者だった可能性がある(または「だった」と断言)」という主張が散見されます。挙げられている根拠は一つだけで(それすら挙げていない人もいる)、彼が677年(死の2年前)に長安に「波斯(ペルシア)寺」すなわちネストリウス派教会を建てた、という半世紀ほど後の中国側の記録です。ネストリウス派は635年に唐に伝えられましたが(中国人からは「景教」と呼ばれるようになった)、 唐に来る信徒の大半がペルシア出身(民族的に「ペルシア人」とは限らないが)だったため、その教会は「波斯寺」とされたのでした。
 さらにアラブ側の記録(伝承)に、ピールーズの父ヤズデギルド三世がペルシア東部のホラーサンで殺害された後、彼を埋葬したのが地元のネストリウス派信徒だったとあることから、ピールーズはこの宗派に好感を持っていた、という推測とも呼べない想像をしている人もいます。

 私としては、教会を建ててやった程度で改宗の根拠になるわけないやん、というのが感想です。
 ゾロアスター教はペルシア人、アルメニア人、ソグド人等の東方アーリア人の民族宗教なので、他民族に布教することはありません。一時はローマでキリスト教と競合したミトラス教は、前ゾロアスター期以来の太陽や雄牛への信仰が他民族の宗教と習合して生まれた新興宗教なので、ゾロアスター教の分派と言えるかどうかも怪しい。
 サーサーン朝(226-651年)は国教である「正統ゾロアスター教」(後述)を国内のアーリア系民族(アルメニア人を含む)には強制しましたが、国外ではソグド人などアーリア系民族にすら布教することはありませんでした。
 だから国内の非アーリア系キリスト教徒に対しては、自分たちだけで信仰している限りは原則として寛容だったんですが、彼らはそれに付け込んでアーリア系民族に布教するばかりかゾロアスター教を攻撃したりするので、しばしば弾圧されたのでした。

 キリスト教が迫害されるもう一つの理由が、敵国ローマ(395年以降は直接には東ローマ)の国教だから、というものでしたが、ネストリウス派に限っては431年に異端とされたので、サーサーン朝の保護を得ることができました。そうして拡大していった結果、サーサーン朝末期には中国にまで伝播したのでした(青木健『ゾロアスター教史 古代アーリア・中世ペルシア・現代インド』刀水書房 )。
 だからピールーズの「波斯寺」(ネストリウス派教会)建設は、ネストリウス派の保護というサーサーン朝皇帝の政策を踏襲する、という意味が多分にあったかもしれません。「景教」信徒はペルシア遺民(アーリア系および非アーリア系)が多かったから、その支持を獲得するという狙いもあったでしょうけど。もちろんゾロアスター教徒のペルシア人のほうが数は多かったはずですが、唐ではゾロアスター教徒は「薩宝」と呼ばれる役人の管轄下にありました。

 中国では北朝期(439-589年)から、ゾロアスター教徒といえばソグド人で、各地のソグド人集団の長が薩宝(または薩保)でした。ソグド語「サルトポウ」の転訛で、原義は「キャラバンのリーダー」です。
 唐代になると薩宝はゾロアスター教徒を統括する公式の役職となり、長安の西京(異民族が多く住むエリア)のゾロアスター教神殿に役所が置かれました。だから新たに中国にやって来たペルシア人ゾロアスター教徒も、実際に統括していたのは阿羅憾(解説其の三参照)のような人物だったにせよ、公的には薩宝の管轄下にあったはずです。
 したがってピールーズが長安に新たなゾロアスター教寺院を建てるのは、支障があったと思われます。(曽布川寛/吉田豊・編『ソグド人の美術と言語』臨川書店 )。まあ「本尊」となる聖火をどうするかのほうが難題だったかもしれませんが。ピールーズの父ヤズデギルド三世は、アラブ・イスラム軍から逃亡する間、聖火を携えていたそうですが、その聖火がどうなったのかは記録が一切残っていないし、新たに熾せばいいってものではないし。
 いずれにせよ同じゾロアスター教でもペルシアの「正統教義」とソグドのとでは相当な違いがあるので、ペルシア人ゾロアスター教徒のために神殿が建てられないのならなおのこと、ピールーズはゾロアスター教徒のままでいる必要があるわけです。

 主人公ナルセフが述べているとおり、「サーサーン」は川の女神アナーヒターの神官だった人物で、その孫アルダフシール(一世。「アルダシール」とも)がサーサーン朝初代皇帝です(在位226-240)。アルダフシール一世は即位後、偶像崇拝を禁じ、各地の偶像神殿を拝火神殿に換え、聖なる湖、岩、井戸、樹木といった民間信仰の場にも拝火神殿を建てました。この改革は6世紀に一応完了しましたが、偶像崇拝は駆逐できたものの、地域によっては最高神アフラ・マズダよりもアナーヒターやミスラへの崇拝が根強く残りました。
 また6世紀には、ユダヤ教やキリスト教、マニ教といった、「聖なる書物」と明確な教義を有する諸宗教に押されるかたちで、口承「アベスターグ」(アヴェスター)の文書化と教義の確定も進められましたが、それらがサーサーン朝末期までに地方や民間にまで浸透することはありませんでした。
 代々の皇帝は、この国教としての「正統ゾロアスター教」を主宰する大神官でもありました(上記『ゾロアスター教史』ほか、同じく青木氏の「イスラーム文献が伝える多様なゾロアスター教像 六‐八世紀のアラビア語資料のゾロアスター教研究への応用」『宗教研究』81巻3号、「ゾロアスター教の聖地の概念:神官階級の「移動する聖火」と平信徒の自然崇拝」『宗教研究』79号1巻など)。
「最後のサーサーン朝皇帝の息子」であり、祖国再興のために戦い続けたピールーズが、そのサーサーン朝の礎であるゾロアスター教を棄てるなんて、まずあり得そうもない。

 ……というのが、「(元)研究者視点」からの見解です。
 そこを「小説家視点」からの判断で敢えてピールーズを改宗させた理由は、「自分の孫娘はピールーズの愛妾だった」という神殿長の発言から信憑性をなくすため、が八割です。八割は、それだけの理由でしかない(なお、この発言をしたのは本物の神殿長ではなく、ナルセフが見た幻です)。
 ピールーズの曽祖父ホスロー二世(在位591-628)は東ローマ帝国の皇女(当然、キリスト教徒)を正妃に、おそらくは平民のキリスト教徒女性を愛妾にしています(後者がピールーズの曽祖母)。ちなみにこの史実に基づいたのがニザーミー(1149-1209)の『ホスローとシーリーン』(岡田恵美子・訳 平凡社東洋文庫)で、愛妾シーリーンはアルメニアの女王で愛ゆえに王位を棄てた、と盛られています

 しかしこういう前例と、ピールーズがゾロアスター教を棄てておいて、ゾロアスター教徒女性(しかも聖職者の家系)を愛妾にするのとでは話が違う。支持を失うどころじゃないでしょう。

 理由の残り二割は、ペルシアもサーサーン家も信徒も守ってくれなかったゾロアスター教への失望から、晩年にひっそりと私的に(つまり政略でなく)改宗していた、ということにしたほうが「ピールーズ(勝利)」という名にまったくそぐわなかった生涯の憐れさが増すなあ、と。どうせ付いてきてくれるペルシア遺民たちでも、「正統ゾロアスター教」に忠実な信徒は少なかったでしょうし。
 まあなんにせよ、「ピールーズは改宗しなかった」ことを証拠づける史料がないからこその設定です。ペルシア人ゾロアスター教徒の支持を失うことを考えたら公的な改宗はあり得んし、仮に私的に改宗したとしても、息子(ナルセフ)はゾロアスター教に留まらせるでしょう。

 以下、余談。
 パリーサは十五、六歳の外見のまま齢を取らなくなります。これはナルセフの好みだからではなく、アナーヒターの呼び名の一つが「ドフタル(乙女)」、すなわち若い女性で、ゾロアスター教の成人は十五歳だからです。
 上記のゾロアスター教聖典『アヴェスター』によれば、ゾロアスター教徒の死者は、あの世で自らの良心の化身(?)である超絶美少女ダエーナーと対面するのですが、彼女は十五歳であることがわざわざ明言された上で「よく成長した」と形容されているそうです(矢島洋一「イスラーム思想におけるイラン的要素」明治書院『知の継承と展開――イスラームの東と西』)。
 ほかにも、ゾロアスター教の救世主は十五歳の処女から産まれてくるとされていたりするので、「乙女≒十五歳」だったんでしょうね。
 そういうわけで、『物語の川々は大海に注ぐ』(『SFマガジン』2024年6月号)で主人公が語る物語に登場する「川辺の乙女」も、最期に視る「彼女」も、外見年齢は十五歳くらいだと思われます。

 今回はここまで。次回は余談のみです。

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『ホスローとシーリーン』感想

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の十

 発売中の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に掲載していただきました短篇「地下水路(カレーズ)」の解説其の十です。今回は小ネタの拾遺と余談です。一応、ネタバレ注意。

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 主人公ナルセフは、中国(唐)のトルコ(西突厥)討伐のカモフラージュとして西へ送られます。これは『資治通鑑』の調露元年(679)6月の記事「西突厥が吐蕃(チベット)と結んで唐の西境を侵犯したので、ナルセフを云々」に該当します。現行暦の7-8月になりますが、これが果たして国境侵犯があった時なのか、その報せを受けて作戦を決定した時なのか、それを実行してナルセフと軍隊を発たせた時なのか、スイアブ(現キルギス共和国)を攻略してナルセフを用済みにした時なのか。
 とりあえず、ナルセフが長安を発った時とします。
『新考 玄奘三蔵の旅』(長澤和俊 佼成出版社)によると、ナルセフより半世紀ほど前に長安を発った玄奘(『西遊記』三蔵法師のモデル)は、スイアブまでは正味4ヶ月かかっています。一個人の僧侶と大軍が同じ速度で移動できるかどうかはともかく、冬に掛かってしまうのは間違いない。玄奘は雪融けを待って2ヵ月半足止めを食らっています。
 さらに
、スイアブ攻略にはどれくらい掛かったのか。そこから「何者でもなくなってしまった」ナルセフがそれなりの軍勢を率いている、という不安定極まりない状態で、タラス(同じく現キルギス共和国。751年のタラス河畔の戦いはこの近くで起きたとされる)を経てトハラまで、険しい山脈を幾つも越えていかなきゃならない。
 となると、トハラに着くのはいつ……? 680年10月に起きた「カルバラーの悲劇」の何か月前……? 

 出発の時期次第では、10月よりずっと後ってことはないにしても、同時期というのは充分あり得る。にもかかわらず、敢えてそうしませんでした。実際には無関係であるフサイン家とサーサーン朝最後の皇帝の末裔が「シャフルバヌー伝説」によって結び付けられる、というアクロバティックな転回/展開が本作の骨子なのに、「同時期」としてしまうと、両者が最初から関連があったようなイメージが出来てしまうなあ……と。
 「数ヵ月」とするのが妥当なわけですが、あんまり「数日」「数年」「数人」等を多用したくなくて。Extra noteで述べたように、「〇〇年後」「××年前」といった年数は、史実に基づいているのでだいたい正確に判っているのですが、その「史実に基づいている」ことを読者に意識させないように、敢えて概数を使っています。だからここでもキリよく「一年」としたのでした。
 まあ今となっては、「同時期」としないことに、そこまでこだわる必要もなかったよな、と思っています。

 ナルセフは708年に唐に戻り、「左威衛将軍」の肩書を与えられますが、ほどなくして没しました。唐は帰順した異民族でそれなりの地位にある人物には官位を授けました。それはもう気前よく乱発しましたが、その多くは有名無実なものでした。この肩書もその一つですね。そもそも「波斯(ペルシア)王」もですが。
 本作では、死期が近いのが誰の目にも明らかだったため、「無けなしとはいえ官位と俸禄を与え」られはしますが、屋敷というか戸建ての住居すら提供されず、ペルシア商人の「邸店」に間借りした、という設定です。

 解説其の三で紹介した「波斯(ペルシア)国大酋長」の「阿羅憾」なる人物は、本当にナルセフの父の兄弟ワフラームだったかどうかはともかく、サーサーン朝名門の出身で、在唐ペルシア人全員とまではいかなくても長安や洛陽(この二都市は商業的に密接な関係にあった)のペルシア人たちを統括する立場にあったのは確かでしょう。だから史実でも、唐に戻って来たナルセフの処遇に関わっている可能性が高い。
 本作のワフラームは、そういう立場にある上にナルセフの「叔父」であるにもかかわらず(史実でも、サーサーン家ではない大貴族の出身だったとしても、通婚により血の繋がりはあったはず)、死期の近い甥を自分の屋敷等で庇護するというようなことはしない。厄介者扱いで、もうじき死にそうだから面倒は見てあげるよ(費用は唐政府から「俸禄」の名で出る)、という設定です。

 で、「邸店」とは何かというと、日野開三郎『唐代邸店の研究』(三一書房)によれば、「邸宅」が「大きな住まい」であるのと同じように、「邸店」も「大きな店」のことです。ただし当時の「店」は「みせ」すなわち商店ではありませんでした(商店に当たるものは「肆」と呼ばれた)。旅館業、飲食業、倉庫業を兼任し(どれに重点を置くかは店ごとに違っていた)、そこから商取引を行ったり、通行運送業者と提携したり、金融業に進出したりと手を広げていった経営者もいました。

 長安は城郭内に東西二つの市(商業地区)があり、どちらの市にも多くの邸店がありましたが、「胡」すなわちペルシア人やソグド人といった西域人が経営する邸店は西市に集中していました)。都の東半分(街東)が貴族や官吏の街であるのに対し、西半分(街西)は庶民と異民族の街でした。なお、唐で暮らす西域人のほとんどが、商人、軍人、芸人のいずれかでした。
 上記『唐代邸店の研究』や『長安の都市計画』(妹尾達彦 講談社)、「世界都市長安における西域人の暮らし」(妹尾達彦 (『シルクロード学研究叢書』9)、『中国の歴史06 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』(氣賀澤保規 講談社)6章等によると、邸店の多くは市を囲む土壁沿いに建てられ、1階はほぼ倉庫に占められ、建物と土壁の間の裏庭には馬屋が設けられていたそうです。
 というわけで、ナルセフが起居していたのはペルシア人が営む邸店の2階か3階で、寝室は裏庭に面していた、という設定にしたのでした。

 ほかに細かいネタとしては、上記の『資治通鑑』調露元年(679)6月の記事は、より詳しくは「波斯王(ピールーズ)は最近死んじゃったけど、その子ナルセフが質(人質)として長安にいるから、こいつを使おう」という主旨になるのですが、これはピールーズが唐に来る前から「質」として長安にいた、と解釈することも可能です。
 ピールーズの来唐は『新唐書』では670-73年のいつか、『旧唐書』では675年、となっています。これを
THE LAST SASANIANS IN CHINA  https://www.iranicaonline.org/articles/china-xv-the-last-sasanians-in-china/では、ピールーズは唐に二度来たと解釈していますが、ナルセフが長安で「質」となったのは、この一度目の時にピールーズが自ら連れて来たとも、661年に唐がピールーズの要請に応えるかたちでトハラに都督府を置いた後のいつかだとも考えられます。
 それでもナルセフをトハラ育ちという設定にしたのは、本作はトハラ(のゾロアスター教)を文化的アイデンティティとし、唐のペルシア人にとってはどこまでも「他所者」であるサーサーン家末裔の物語だからです。
 中国育ちのサーサーン家末裔を主人公にするなら、別の物語になりますね。

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の九

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 主人公ナルセフが「幻視」した、8世紀半ばのウマイヤ朝宮廷の様子は、『イスラーム美術』(ジョナサン・ブルーム/シーラ・ブレア 岩波書店)の1、3章を参照しています。

 ナルセフが赴くトハラ北部の山岳地帯(パミール高原)のゾロアスター教神殿とバルフ(現アフガニスタン北部)の貴族の屋敷については、中世トハラ美術(建築含む)の資料を見つけられなかったので、前者は現代に残る伝統的家屋「パミール・ハウス」を、後者(および前者の壁画と神像)は同時代のソグド美術を参考にしています。
 パミール・ハウスは民家の建築様式ではありますが、その特徴である五本の柱は
ゾロアスター教信仰にまで遡るそうです。「梁を組んだ角錐状」の天井ことラテルネンデッケ天井に至っては、紀元前まで遡れます。
 ソグド地方はトハラの北に隣接し
文化的にも地続きですが、その美術はトハラのものより、かなりレベルが高かったそうです。

 参考文献は、パミール・ハウスについてはPAMIR HOUSE  https://kalpak-travel.com/blog/pamiri-houses/ 。
 ソグド美術については、
影山悦子「ソグド人の壁画」(曽布川寛/吉田豊・編 臨川書店『ソグド人の美術と言語』所収)を中心に、『図説 シルクロード文化史』(ヴァレリー・ハンセン 原書房)第4章、『世界美術大全集 東洋編15 中央アジア』 (田辺勝美/前田耕作・責任編集 小学館)などでした。

 7-8世紀のアラブ・イスラムの中央アジア侵攻については、稲葉穣「アラブ・ムスリムの東方進出」(文化研究所『世界に広がるイスラーム』)を主に典拠としています。
 ちなみに後半で語られる対アラブ大叛乱は7世紀末に起こったもので、これに対処できないとして更迭された「無能な太守」は、「物語の川々は大海に注ぐ」(『SFマガジン』2024年6月号掲載)で主人公イブン・ムカッファを私怨から陥れるスフヤーンの祖父に当たります。「物語の川々」で言及されているとおり、正確には叛乱を鎮められなかったというより、鎮めようともしないで私腹を肥やしていた、というのが更迭・逮捕の理由ですが。

 代わりに任命された苛烈な新太守はイブン・クタイバという人物で、彼が行った強制改宗については、多くの資料に分散している情報を参照しており、主要参考文献と呼べるものはありません。

 短いですが、今回はここまで。

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の八

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 今回は、主人公ナルセフが「幻視」した「髑髏杯の美少年王」ことサファヴィー朝開祖イスマイール一世(1487ー1524)についてです。主要参考文献は羽田正「サファヴィー朝の時代」( 中央公論社『成熟のイスラーム社会』所収)、後はリストに挙げてないけど、同じく羽田氏の「東方イスラーム世界の成立」(鈴木董 ・編 講談社現代新書『パクス・イスラミカの世紀』所収)になります。

 この場面は、史実だと1499年、アナトリア高原のエルズィンジャン郊外の草原での決起集会に該当します。黄金髑髏杯は、エキセントリックさで知られるイスマイール一世の言行の中でも特に有名ですが、「素材」は決起より10年以上後の1510年に討ったシャイバーニー朝のハーンです。
 だからナルセフが「視た」情景は、あくまで「幻」なのかというと、そうとも言い切れない。この
「敵の髑髏で杯」は、イスマイールの祖父の代から「信徒」であるトルコ系遊牧民の「慣習」なんだそうです。実際、紀元前からスキタイや匈奴といった遊牧民の慣習として記録されてますね。
 したがって、この慣習を持つ遊牧民と祖父の代から深い繋がりがあったイスマイールが、シャイバーニー・ハーンを斃す前から黄金髑髏杯を1個以上所持していた(父から受け継ぐとかして)可能性はありますよ。

 この「信徒たち」(赤い飾り付きの白いターバンをトレードマークとしていたことから「赤い頭」すなわち「キジルバシ」と呼ばれた)は、ムスリムとは名ばかりのヤバい連中で、イスマイールを「神」と崇め、イスマイール自身も神を自称していたという、イスラム世界においては極めつけの異端(普通だったら死刑確定)集団です。ほかに記録されている彼らのヤバい「慣習」として、捕らえた敵を生きたまま皆で寄ってたかって肉を噛み千切って食う、というのもあります。あくまで儀式なんで、食い殺したわけでもないし、「完食」もしなかったし、イスマイールは不参加だったようですが。

 本作では、集まったキジルバシ七千人の中には「赤い飾り付きの白いターバン」を着用していない者もいたことにしました。祖父、父、兄の死亡後、幼いイスマイールは数年にわたって潜伏し、1499年に初めて信徒たちに召集を掛け、その姿を現したわけです。急なことだから、揃いのターバンを用意できなかった奴もいたんじゃないかな、と。そのほうが、なんかそれっぽいんで、そうしました。

 で、このイスマイールが、十二イマーム派のイマームの末裔、すなわちムハンマドの孫フサインとサーサーン朝最後の皇帝の娘シャフルバヌーの血を引くと自称して、ペルシアの支配者となるわけです。
 それ以前にペルシアの国教がシーア(派)とされたのは、同じ十二イマーム派のブワイフ朝(932―1062年)の時だけです。しかしこの時代以降、シーア(派)のイマーム崇拝がゾロアスター教の残滓と習合するかたちで広まりました。具体的には、かつてのゾロアスター教の聖地がイマームやその親族の墓所等とされ、再び参拝されるようになったのでした。
 また十二イマーム派の救世主信仰は、直接にはユダヤ・キリスト教から影響を受けていますが、そのさらに起源となるのがゾロアスター教です。ブワイフ朝の時点でペルシアにはゾロアスター教の影響がまだ色濃く残っていたため、救世主信仰もすんなり受け入れられました。
 ブワイフ朝滅亡後は再びスンナ派政権が続きましたが、その間にイマーム信仰はますます盛んになり、またシャフルバヌー伝説も定着しました。そういうわけで、イスマイール一世が受け入れられる下地は、すっかり整っていたのでした。

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余談:イスマイール一世は本当に「邪悪なほどに」美しかったのか? 其の一 永らく気になっていたことを調べてみました。全三回の予定。

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の七

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 三回で終わらないと判った時点で、開き直って当初の予定より詳細に解説(雑談とも言う)しています。今回はゾロアスター教についてです。主要参考文献は『ゾロアスター教史 古代アーリア・中世ペルシア・現代インド』(青木健  刀水書房)と『ゾロアスター教 三五〇〇年の歴史』(メアリー・ボイス  講談社)です。なお前者は全面改稿したという『新ゾロアスター教史』もありますが、そちらは参照していません。

 中央アジアのゾロアスター教については、『ゾロアスター教史』のほか、『ソグド人の美術と言語』(曽布川寛/吉田豊・編  臨川書店)でも解説されています。また主要参考文献リストには挙げませんでしたが、『世界美術大全集 東洋編15 中央アジア』(田辺勝美/前田耕作・責任編集 小学館)も参照しています。

 アナーヒター信仰について、アナーヒターの原型まで遡る古代から、アフラ・マズダ中心となるサーサーン朝期の宗教改革より前まで、サラスヴァティとの関係などは、主要参考文献リストには挙げませんでしたが「ゾロアスター教の大女神」岡田明憲(ダウンロードはこちらからhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient1962/39/1/39_1_85/_article/-char/ja/)、『東西交渉とイラン文化』(井本英一・編 勉誠出版)所収の「アナーヒター女神の東西」(松村一男)を参考にしました。
 サーサーン朝期のアナーヒター信仰については、主要参考文献リストに挙げていないものでは、「ゾロアスター教の聖地の概念:神官階級の「移動する聖火」と平信徒の自然崇拝」(青木健 『宗教研究』79号1巻2005)、「ターキ・ブスターン大洞のアナーヒター女神像の意義――フヴァルナーと王権の関係に関する再考察――」(田 辺 勝 美『シルクロード研究』2018)を参考にしました。

「シャフルバヌー伝説」(解説其の四)とアナーヒター信仰との関係についての参考文献は、BĪBĪ ŠAHRBĀNŪ  https://www.iranicaonline.org/articles/bibi-sahrbanu/、BĀNŪ PĀRShttps://www.iranicaonline.org/articles/banu-pars-lady-of-pars-the-name-of-a-zoroastrian-shrine-in-the-mountains-at-the-northern-end-of-the-yazd-plain/、「女性にまつわる聖地とその儀礼」(羽田美希  春風社『イランとイスラム 文化と伝統を知る』)になります。

 ちなみに上記のテキストを読んでも、シャフルバヌーやバヌー・パールスといった聖なる女性たちの廟や周囲の環境がどんな感じなのかは具体的にイメージしづらいのですが、"bibi shahrbanu shrine"や"banu pars shrine"でググれば画像が出てきます。グーグル・アースで周辺環境も確認できます。
 Bibi Shahrbanu shrineは英語Wikiに記事があります。https://en.wikipedia.org/wiki/Bibi_Shahrbanu_Shrine
下はそこに掲載されているシャフルバヌー廟の外観です。

Shrineofshahrbanuastehran

 なお、今年1月の執筆時には、上記「女性にまつわる聖地とその儀礼」に挙げられていた他の聖女たち「ハトゥン・ギヤーマト」「シャー・ハトゥン」「ビービー・ダン」らも、名前と地名のカタカナ表記から英字表記を割り出してググったら、当該聖地を見つけられたんですが、今ググっても出てきませんね……まあとにかくそれらも、本作でナルセフが「視た」とおり、シャフルバヌー廟やバヌー・パールス廟と同じく、見事に乾燥しきった岩山に囲まれた場所でした。
 あの場面もまた、「史実」ではなく「幻」の情景ですね。

 今回はここまで。

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の六

 発売中の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に掲載していただきました短篇「地下水路(カレーズ)」の解説其の六です。一応、ネタバレ注意。

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 シーア・アリーすなわちシーア(派)においては現代に至るまで、預言者ムハンマドの孫フサインに続く8人のイマーム(指導者、教導者)、つまりザイヌル・アービディーンからハサン・アスカリーに至るまでの8人の子孫、そしてフサインの兄ハサンは全員、時のカリフに暗殺されたと信じられています。まあ全員多かれ少なかれ当局の監視下に置かれていたわけだし、20代で死んでる人もいるし、本作でも触れているように獄中とかアッバース朝カリフの陣中といった真っ黒な状況で死んでる人もいますが、普通に50代60代とか当時としては長生きの人も何人もいる。
 しかしシーアの人々にとっては、フサインが惨殺されたのが真実であるのと同様に、8人の子孫と兄ハサンが全員暗殺されたのもまた「真実」なのです。なぜなら、同じイスラムでもシーアの教えは正しく、ほかは間違っている。間違っている連中は
多数派なので、「正しい」シーアを迫害する。だからフサインの8人の子孫と兄ハサンも暗殺したに違いない。多数派の歴史では暗殺ではないことになっている。もちろんそれは歪曲された歴史であり、暗殺は「真実」だ、というわけです。

『イスラームとは何か』(小杉泰 講談社現代新書)によれば、彼らにとって、フサインは父アリー(預言者ムハンマドの従弟にして娘婿)の後を継いでカリフ(まあ当時はこの称号は一般的ではなかったようですが)になるのが「あるべき歴史」「正しい歴史」なので、そうならなかった現実の歴史のほうが間違っているのです。

 680年、フサインとその一族郎党がウマイヤ家によってカルバラーの地で虐殺された事件(カルバラーの悲劇)については、同時代の文字記録が存在しません。とはいえ影響の大きさから、事件が起きたこと自体を疑う余地はありません。問題は、その詳細ですね。
 本作の主要参考文献の一つである上岡弘二「イランの民衆のイスラムと社会意識」(アジア経済研究所『中東の民衆と社会意識』)には、イランの人々が「真実」と認識している「カルバラーの悲劇」が紹介されています。
 実に途轍もなく「劇的」(実際、毎年のフサインの命日には「受難劇」として各地で上演されている)ですが、彼らにとってはこれが「真実」なわけです。本作で主人公ナルセフが「幻視」するカルバラーの悲劇は、「史実」ではなく、こちらの「真実」のほうです。だから本作は「歴史小説」ではないのです。

 ちなみにフサインと一緒に犠牲となった人々については、主にhttps://al-islam.org/sorrow-and-sufferings-noorali-s-merchant/names-martyrs-who-sacrificed-their-lives-karbala-sake-loftyを参照しました。リストに挙げられている人名や各人のプロフィール等も、やはり諸説ありますね。

 短いですが、キリがいいのでここまでで。やっぱ次回じゃ終わらんなー……

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の五

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 今回はシーア(派)についてです。シーア(派)は短篇「ガーヤト・アルハキーム」(『ナイトランド・クォータリー』vol.18掲載)でも中篇「物語の川々は大海に注ぐ」(『SFマガジン』2024年6月号掲載)でも大きな関りがありますが、どちらも8世紀限定です。
 本作は短い尺で古代から現代までの歴史を走馬灯の如く視せる物語であり、その中にはシーア(派)史も含まれています。ので、前2作の解説よりは広い範囲を対象に、ざっくりとなるべく簡潔に解説したいと思います。

 預言者ムハンマドが632年に没すると、次のイスラム共同体指導者は血統に拠らず、有力な信徒たちの合議で選出されました。血統に拠らず、とは言っても、ムハンマドと同じクライシュ族であることは大前提みたいなものでしたが。それでもムハンマドの従弟(かつ娘婿)であるアリーが、その関係の近さを重視されなかったのは事実です(なお、ムハンマドに成人した息子はいません)。
 以後約30年間、4人の指導者が合議によって選出され、彼らの治世は後に「正統カリフ時代」と呼ばれるようになります。「正統」というのは、イスラムの理念に沿って選ばれた、という意味です。
「カリフ」(より正確には「ハリーファ」)は「代理人」という意味で、「預言者の代理人」とか「神の代理人」とか解釈されていますが、実のところ「正統カリフ時代」に彼らがなんという称号で呼ばれていたのかは、文字資料が一切残っていないので不明です。「ウマイヤ朝期のカリフの称号:銘文・碑文・パピルス文書からの再検討」(亀谷学『中東学会年報』24巻1号 ダウンロードはこちらからhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ajames/24/1/24_KJ00005075211/_article/-char/ja/
)によれば、「正統カリフ時代」の次のウマイヤ朝期でも、カリフよりは「信徒(ら)の長(アミール・アルムウミニーン)」のほうが一般的でした。

 アリーがムハンマドの死後すぐに指導者に選ばれなかったのは、当時30歳そこそこだったのも大きかったようですが、どうもあんまり人望がなかったようです。656年に三人目の指導者ウスマーンが没すると、彼と同じウマイヤ家出身のムアーウィヤとアリーのどちらを後継者にするかで大いに揉めました。ようやくアリーに決定すると、ムアーウィヤは直ちに叛乱を起こします。
 アリーがムアーウィヤとは別の勢力に恨みを買って661年に暗殺されたので、ムアーウィヤが勝者となりましたが、自分の息子を後継者にし、以後、「信徒の長」の座はウマイヤ家の独占となります。これに不満を持った人々は、自分たちが理想とする人物を「イマーム(指導者、教導者)」と仰ぎ、ウマイヤ家に代わる「信徒の長」にしようと目論みました。彼らは分派=シーアと呼ばれました。
 これら諸分派の中には、信仰篤い人格者ならクライシュ族どころかアラブである必要はない、と主張するものもありましたが、大半はハーシム家出身であることをイマームの絶対条件としていました。ハーシム家はムハンマドの曽祖父ハーシムを名祖とする一門です。もちろん、アリーもハーシム家の一員でした。

 ハーシム家だけでも大勢いたので、誰をイマームとするかでまとまらず、どの分派も大きな勢力になり得ませんでした。そんな状況を変えたのが、ハーシム家に属するアッバース家で、「誰」をイマームとするかを敢えて曖昧にして分派を糾合し、749年、ウマイヤ家を打倒すると、イマームとして「信徒の長」の座を手にしました。
 このアッバース家に書記として仕えていたのが、「物語の川々は大海に注ぐ」の主人公イブン・ムカッファです。
 さて、諸分派の人々はようやく騙されたと気づきましたが、アッバース家の圧倒的な軍事力の前に、多くは諦めて主権を認めました。諦めなかった人々が推すイマームのうち大きな割合を占めていたのが、アリーの子孫たちでした。つまり分派=シーアの大半がアリー派=シーア・アリーだったので、「アリー」を略して「シーア」だけでもアリー派を指すようになったというわけです。

 アリーには息子が三人いて、そのうちハサンとフサインが預言者ムハンマドの娘ファーティマの子、もう一人ムハンマドはハナフィーヤという人物の娘を母とし、「イブン・ハナフィーヤ(ハナフィーヤの息子)」と呼ばれていました。
 ウマイヤ朝期、イブン・ハナフィーヤをイマームとして担ぎ上げ、叛乱を起こした人々がいましたが、イブン・ハナフィーヤは彼らの行動を承認せず、梯子を外してしまいました。イブン・ハナフィーヤが700年頃死去すると、息子のアブー・ハーシムがイマームとして担ぎ上げられましたが、彼もまた政治活動に積極的には関わらなかったようです。
 アッバース家は打倒ウマイヤ家に当たって、自分たちの先祖はアブー・ハーシムと親しかったので716年に彼が息子を残さず没した際にイマームの座を譲られた、と主張していました。まあアリー派の多くは納得しなかったわけですが。

 ファーティマの息子のうち、兄のハサンは父の死(661年)後、早々にウマイヤ家と和解した上に、669年に没してしまいます。アリー派の期待は、弟のフサイン(ちなみに「小ハサン」の意)に集まりました。そこでウマイヤ家は680年、本作でナルセフが「幻視」したとおり、フサインと一族郎党をカルバラーの地で虐殺してしまいました。
 この事件はあまりにも劇的であり、以後、現体制に不満を抱くアリー派は、自分たちの不遇をフサイン一族の悲劇に重ねるようになります。ただし、唯一生き残ったフサインの息子、アリー・ザイヌル・アービディーン(713年没)は、当時のアラブの価値観では「不浄」とされる混血でした。
 まあ「物語の川々は大海に注ぐ」で触れているように、アラビア語圏で文字記録が残されるようになるのは、ようやく8世紀も半ば近くになってからであり、ザイヌル・アービディーンに関する同時代資料は皆無です。しかし彼とその後継者たちの生涯は、おおむね本作で述べたとおりだったようです。ウマイヤ朝(次いでアッバース朝)の厳しい監視の下、ひたすら信仰と学問に専念し、信奉者たちが暴発しないよう心を砕き続けました。
 ザイヌル・アービディーンは息子が二人いましたが、後を継いだムハンマド・バーキルは、弟のザイドが740年にウマイヤ朝に対し叛乱を起こしても同調せず、敗北した彼を見捨てました。「ガーヤト・アルハキーム」の主人公イスマイールはムハンマド・バーキルの孫ですが、一説によれば政治運動に関わったために廃嫡されています
。いずれにせよ彼は早逝し、弟が次代のイマームとなりました。

 一方、ハサン家(フサインの兄ハサンの子孫)は当局の目を掻い潜って反ウマイヤ家活動を行っていましたが、結果的にアッバース家に出し抜かれました。「物語の川々は大海に注ぐ」から数年後の762年、ハサン家は蜂起するも敗北し、大粛清の憂き目に遭いました。
 874年、フサインの8人目の子孫にしてイマームのハサン・アスカリーが死亡しました。
公式には彼には息子はおらず、フサイン家は断絶したことになります。しかし信奉者たちは、彼にはムハンマドという息子がいると主張し、反アッバース家活動を続けました。イマーム・ムハンマドが人前に姿を現さないことについて、信奉者たちは「彼は現在、この世から姿を消しているが、それは一時的なもので、いずれマフディ(救世主)として再臨する」と主張しました。

 こうして、十二イマーム派が成立しました。現イラン・イスラム共和国の国教であり、かつ現在のシーア(派)最大の分派です。アリー、その二人の息子ハサンとフサイン、フサインの9人の子孫で計12人をイマームとして仰ぎます。

 ここまでの解説にはとてもたくさんの文献を参照しているので、まあここに書き切れないことはないですが、めんどくさい……というか、どの文献からも参照したのはちょっとずつで、「主要」参考文献というのはないんで……
 とりあえず歴代イマーム一人一人については、
『シーア派イスラーム 神話と歴史』(嶋本隆光 東京大学学術出版会)を主に参照しました。

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の四

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 さて、今回は「シャフルバヌー伝説」についてです。シャフルバヌーはペルシア最後の皇帝ヤズデギルド三世(651没)の娘であり、預言者ムハンマドの孫の妻(の一人)となったとされる女性です。このムハンマドの孫というのは彼の娘ファーティマと従弟アリーの息子フサインです。サーサーン朝滅亡時、捕虜になった彼女をフサインが見初めた、とされています。
 イランでは史実と信じられていますが、伝説の形成過程は跡付けられており、本作でも言及しています。主に参照したのは清水和裕「ヤズデギルドの娘たち シャフルバーヌー傳承の形成と初期イスラーム世界」https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/server/api/core/bitstreams/d62d97ad-084d-413e-98d9-9242ad5844cf/contentとŠAHRBĀNU  https://www.iranicaonline.org/articles/sahrbanu/です。
 後者はいわゆるシーア派(「シーア」は「派/分派」の意で、イスラム世界で分派といえば「シーア・アリー」すなわち「アリー派」のことなので「アリー」を略しても通じるから「シーア」であり、「シーア派」と呼んじゃうと「派派」になるんですがね)やゾロアスター教のアナーヒター崇拝との関係についても論じていますが、それらについては後日解説の予定です。

 シャフルバヌーとフサインとの息子ザイヌル・アービディーンは本作に登場しますが、「ザイヌル・アービディーン」は称号で、Extra noteで述べているように本名はアリーです。清水氏の上記論文では、冒頭で彼が「アリー・アスガル」と呼ばれることについて説明しています。フサインにはアリーという名の息子が二人いたので、史料上では伝統的に「アリー・アクバル(大アリー)」「アリー・アスガル(小アリー)」と区別してきた、というのがその説明です。
 しかし清水氏は触れていないのですが、どうも後世になって潤色が加わり、フサインにはアリーという名の息子が三人いて、長男はアリー・アクバル、次男はアリー・ザイヌル・アービディーン、三男はアリー・アスガル、ということになったようです。
 本作では主人公ナルセフがフサインの最期を「幻視」しますが、この時殺されている赤ん坊がアリー・アスガルです。私は清水氏論文でアリー・ザイヌル・アービディーン=アリー・アスガルと知った後に、フサインと共に殺された赤ん坊もアリー・アスガルだということになっていると知って、少々混乱したものです。この「伝説化」についても、後日解説予定です。

 作中でも触れているとおり、シャフルバヌー伝説の「元ネタ」の一つが、ウマイヤ朝第12代カリフ、ヤズィード三世(744年没)の母がヤズデギルド三世の孫だった、という記録です。清水氏論文によると、最初期の記録者はタバリー(9‐10世紀)ですが、情報源としているのはイブン・アルカルビー(737頃‐820頃)で、ヤズィード三世とはかろうじて同時代ですね。著作を数多くものしたけれど、大半は散逸してしまっています。タバリーはそのどれかを参照したのでしょう。
 拙作「物語の川々は大海に注ぐ」(『SFマガジン』2024年6月号掲載)では、 主人公イブン・ムカッファに無明時代(前イスラム時代)のアラブの宗教についての
知識を教えてくれた「イブン・カルビー」父子が言及されていますが、その息子のほうが上記イブン・アルカルビーです(「物語の川々」では表記の都合上、「アル」を省略)。
 父も子も「イブン・アルカルビー」と呼ばれました(前回解説した、「××の息子〇〇の息子△△の息子」と延々と繋いでいく名乗りの途中を省略した例)。口伝が基本だった当時のアラブ社会で、イブン・アルカルビー(息子)は口伝収集を父から受け継いだだけでなく、それらを精力的に文字で記録していったのでした。

 だからイブン・アルカルビー(息子)によるヤズィード三世の母についての情報も、父親から直接聞いたんでしょうね。イブン・アルカルビー(息子)の現存する著作はわずか三点、邦訳は『西アジア史研究』(東京大学出版会)所収の「偶像の書」のみですが、同書を読む限りでは、ヤズィード三世の母についての情報もかなり信憑性は高いんじゃないかと。
 で、それによると彼女の名は「シャーヒ・アフリード」で、ホスローの息子シャフリヤールの息子ヤズデギルドの息子ピールーズの娘であった、と。ホスロー(二世)からピールーズまでの系図は正確です。またヤズィード三世は自作の詩の中で、キスラー(=ホスロー。アラブ世界においてはペルシア皇帝の代名詞でもあった)とカイサル(=カエサル。ここでは東ローマ帝国皇帝)とハーカーン(可汗。トルコ系遊牧民の君主)の血を引くことを誇っていた、とされています。
 東ローマ帝国皇帝の血を引く、というのは、ヤズデギルド三世の祖父の正妃が東ローマ帝国皇女だったことを指しているのでしょう。実際にはヤズデギルドの父シャフリヤールは、この正妃の子ではないんですが。

 ここの「ハーカーンの血を引く」という主張と、9世紀後半の歴史家バラーズリーの『諸国征服史』第19章における、「ヤズィード三世の息子ピールーズはトルコ人の許に身を寄せ、トルコ人女性を娶った」という記述、および唐の複数の史料から判る、トハラの支配者に庇護され、ペルシア王として擁立されたというピールーズの半生(参照:前嶋信次「タラス戦考」)などから、本作ではピールーズの妻を「トハラ王の娘」としたのでした。
 と言っても、当時のトハラは確かにトルコ系遊牧民突厥の支配下にありましたが、統治者の称号はハーカーンより一ランク下の「ヤブグ(葉護)」でしたけどね。

 作中にあるとおり、ヤズィード三世はカリフの息子であるにもかかわらず長年不遇を託った挙句、カリフ位を簒奪しました。混血なので「不浄」だと蔑まれていた上に、即位後に行った施策も不評でした。「ヤズデギルドの娘たち」では、彼の母の血筋に関する、ネガキャン用に作られたのが明白な伝承も紹介されています。
 そんな境遇で即位後わずか数ヵ月で没しているんで、もう如何にもですが、
どうも普通に病死だったようです。まあ暗殺の疑いの余地が少なかったからこそ、彼を憎む者は余計に「神罰」だと捉えるよね、というのが、本作のあの場面です。

 今回はここまで。

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「地下水路(カレーズ)」解説 其の三

 発売中の『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」に掲載していただきました短篇「地下水路(カレーズ)」の解説其の三です。ネタバレというか、作品の内容に触れています。 

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 本作で「ピールーズの弟」(主人公ナルセフの叔父)とだけ言及している人物は、10世紀前半の歴史家マスウーディーの『黄金牧場』(邦訳なし)にヤズデギルド三世のもう一人の息子「バフラーム」(アラビア語発音。中世ペルシア語の発音では「ワフラーム」)に該当します。ワフラームについての記録は、どうやらこの一点だけのようです。
 そのワフラームの「息子」(ナルセフの従弟)として登場する「ホスロー」は、9‐10世紀の歴史家タバリーの著作(邦訳があるらしいんだが、なんかちょっとよく判らなくて未確認)に記されている、729年の対アラブ大叛乱に参加したという「ヤズデギルドの息子ホスロー」なる人物に該当します。「タラス戦考」でもTHE LAST SASANIANS IN CHINAでも「息子」は間違いで「孫」である、と解釈しています。651年に死んだヤズデギルド三世とは時代が離れすぎていますから、「息子」が誤りなのは確実でしょう。

 ワフラームとホスローを父子とする説はTHE LAST SASANIANS IN CHINAで紹介されていますが、根拠となるのは河南省洛陽市で出土した「波斯(ペルシア)国大酋長」の「阿羅憾」という人物の墓誌銘です。「酋長」は普通に「指導者」「統率者」くらいの意味ですね。
 墓誌全文は羽田亨の論文「波斯国酋長阿羅憾丘銘」で読めます(ダウンロードはこちらからhttps://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/records/3944)が、何しろ発表が1913年なんで、旧字(論文自体はそれに加えて旧かな文語体)の上に印刷が潰れて読みづらいこと甚だしい。日本語訳もなく、読者が読める前提で論を進めています。もし中国簡体字が解るなら、百度百科のこの記事に全文載ってます。「阿罗憾墓志」https://baike.baidu.com/item/%E9%98%BF%E7%BD%97%E6%86%BE%E5%A2%93%E5%BF%97/15083628
 当然ながら返り点は付いてませんが、現代中国語訳も併記されてて、割と簡単な文章です。

 墓誌銘よるとこの阿羅憾はペルシアの族望(名門)の出で、唐の顕慶年間(656‐661)に高宗の命で「拂林」国に赴き、記念碑を建て、武則天(則天武后。在位690‐705)の治世に他の異民族指導者ら(おそらく在唐異民族共同体の長)と共に「天枢」という記念碑的なものを建立する事業に携わり、710年に95歳で没しています。また「俱羅」という名の息子がいたということです。
「阿羅憾」という名が「ワフラーム」の当て字と解釈できんこともない、「俱羅」は「ホスロー」と読めないこともない(「ホスロー」の「ホ」は「K」に近い音)、という理由から、阿羅憾はピールーズの兄弟ワフラーム、俱羅は「ヤズデギルドの息子(孫)ホスロー」であろう、というわけです。

 なお阿羅憾墓誌は、発見は清末という以外不明で、羽田氏の上記論文で初めて知られるようになったらしいです。そして「阿羅憾=『黄金牧場』のバフラーム」説はA.Forteという人の1984年発表の論文Il persiano Aluohan (616-710) nella capitale cinese Luoyang, sede del Cakravartin,(イタリア語)で初めて提唱されたようです。

 巨人の肩に乗っかれるありがたみを噛み締めつつ、個人的には、ま、こじつけやな、と思っています。墓誌銘ですから、死んで間もない人物についての情報です。経年による誤伝は、あっても若い頃のものだけです。ペルシア皇帝の息子なら、そう書かない理由がない。誇張してランク上げするのではなく、「王の息子」を「名門の出」とランクを落とす必要性がない。
「名門の出」でしかないのに「大酋長」としているのは誇張のようですが、サーサーン朝には皇帝家(サーサーン家)と張り合えるほどの大貴族の家系が幾つかあったので(それで作中でも言及しているように、末期には内乱が続いて滅亡の一因となったわけですが)、そのどれかの出身であり、かつ在唐ペルシア人の指導者的存在だったのでしょう。
 サーサーン朝滅亡後、多数のペルシア人が唐に逃れて来て、主に長安や洛陽などの都市に集住していました。唐政府の下、彼らを実際に統括していたのは、身分の高いペルシア人の誰かでしょう。しかし
ヤズデギルド三世の直系であるピールーズとナルセフが唐にいたのは、ほんの一時期だけです。大貴族出身の誰かがいるなら、その任に相応しいということになる。

 それに享年95歳という記述に従うなら615年生まれということになって、ヤズデギルド三世の息子としては計算が合わなくなってしまいます。651年に死んだヤズデギルド三世の生年には諸説あるそうですが、上限は611年です。ピールーズが636年生まれだとされているので、まあ妥当でしょう。615年生まれの息子がいたはずがない。ほかの説だとなおさらで、阿羅憾より年下になる。
 とはいえ、「95歳」が単なるミスの可能性も高そうですけどね。
615年生まれだと「拂林」国行きは40代だったことになり、そんな難事業に任じられるには、齢が少々行きすぎてるんじゃないかと。
 阿羅憾が何者であれ亡命ペルシア人なのは確かなので、唐とは暦法が違うし、まともに年を数えるのが困難な時期もあっただろうし。ペルシア人の側からの阿羅憾の情報提供が通訳を挟んでいるなら、単純な誤訳は「サーサーン朝皇帝の息子→サーサーン朝の名門」よりは年齢のほうがあり得そうだし。

 なお「拂林」という語は、中世ペルシア語で「ローマ」を指した「フルーム」の音写とするのが最も一般的な用法だったので、百度百科の阿羅憾墓誌現代中国語訳では「羅馬(ローマ)」、THE LAST SASANIANS IN CHINAでも「Byzantium(ビザンツ帝国)」としています。しかしすでにペルシアは征服され、中央アジア侵略まで始まっていた当時、アナトリア半島の東ローマ帝国まで行くには北へ大きく迂回して(カスピ海をぐるっと回って)行かなければならなかったわけで、まず不可能。
 じゃあこの事績は嘘だったのかというと、そうとも限らず、どうやら行ったのは別の「拂林」だったようです。上記トハラに「フルム」という場所があって、そこは唐代の文献では「忽懍」の字を当てるのが一般的でしたが、稀に「拂林」と書くこともあったそうです。だからおそらく阿羅憾が碑を建ててきたのはトハラのフルム(忽懍)で、しかしおそらくは意図的に(トハラの一地方ではなく東ローマ帝国まで唐の威光を示したと誤解されることを狙って)「拂林」の表記を使ったのではないか、ということが「唐代における胡と仏教的世界地理」(森安孝夫 ダウンロードはこちらからhttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/items/eb446972-a741-4a1b-bb73-0fbcfad14baf)で解説されています。
(そうなると百度百科の現代中国語訳が「東羅馬」ではなく「羅馬」としてるのは……)

 東ローマ帝国じゃなくてトハラだったとしても、最速の行程でも半年はかかるでしょうから、40代にはきついですね。

「阿羅憾」が「ワフラーム」で「俱羅」が「ホスロー」なのは、まああり得るんじゃないかと思います。どっちの名前もサーサーン朝の王侯貴族によくある名前なので。だから余計に、阿羅憾がヤズデギルド三世の息子で俱羅が孫だという証拠にはならない。
 タバリーは叛乱に加わったホスローを「ヤズデギルドの息子である」と文章で記したわけではなく、「ホスロー・イブン・ヤズデギルド」という名として記しました。「イブン・ヤズデギルド」は「ヤズデギルドの息子」の意です。アラブ世界には元来、日本や欧米における姓に当たるものがありません(日本や西洋でも昔々に遡ると、現代とはだいぶシステムが違いますが)。正式な名乗りでは、「個人名・イブン ・〇〇(〇〇の息子)・イブン ・××(××の息子)・イブン ・△△(△△の息子)」と延々と繋げていきますが、途中の何代かが省略されることは珍しくありません。
 だから「ホスロー・イブン ・ヤズデギルド」がヤズデギルド三世の息子ではなく孫である可能性は高いですが、曾孫や玄孫である可能性も同じくらい高い。

 そもそも「ヤズデギルドの息子ワフラーム」は、唯一の情報源『黄金牧場』にも名前しか記されていないし、併記されている三人の姉妹のうち一人の名が伝説上の存在である「シャフルバヌー」(後日解説予定)だしで、信憑性があんまり……実在したとしても、ピールーズより名前が先だということは兄である可能性が高いのに、ペルシア再興のために戦い続けたのはピールーズのほうなので、早々に消息不明になってしまったのかもしれません。

 ……と思っているのに本作で「ピールーズの弟の息子ホスロー」を登場させたのはなぜかというと、本作は「歴史小説」ではないからです。
 Extra noteで述べたように、本作は「ナルセフが死に際に見た幻」という解釈が可能です。幻であり、「現実」の未来(および過去)の情景ではなく、いわば「象徴的な情景」です。神話や伝説の英雄の事績には、史実における集団の事績を個人の事績として集約・象徴化したと考えられるものもあります。「ヤズデギルド三世の子孫ホスローの戦死」が史実である可能性は低くないでしょうが、それをナルセフが「齢若い従弟であるホスローが老いて疲弊した姿で斃れる」情景として視ることで、「サーサーン朝の滅亡」の象徴としているのです。
『黄金牧場』の記述に拠るならピールーズの兄である可能性の高いワフラームを「弟」としたのは、上記のとおり、兄ならサーサーン朝再興のために戦ってるんじゃないか、という疑問が出てくるので、まあその整合性のためです。

 そんな感じで、本作では私の中の資料解釈における「研究者視点」と、実際の執筆の上で選択した「小説家視点」にだいぶ齟齬があります。一方、中篇「物語の川々は大海に注ぐ」(『SFマガジン」2024年6月号)では、その齟齬は少ない。だからあっちは一応「歴史小説」に分類できる(最後の場面だけ「幻覚」と解釈すれば)、と考えています。

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