『層』vol.9

 大変ご無沙汰しております。

 ゆまに書房様から発行されました『層――映像と表現』9号の特集1「世界内戦と現代文学――創作と批評の交錯」において、「実作の立場から見るユートピア文学」を執筆いたしました。

 この特集は、日本近代文学会2014年度秋季大会で行われたパネル発表を基にしています。ほかの方々の発表は、次のとおりです。

柳瀬善治様 三島由紀夫以後・中上健次以後・伊藤計劃以後

岡和田晃様 「世界内戦」下、「伊藤計劃以後」のSFに何ができるか――仁木稔、樺山三英、宮内悠介、岡田剛、長谷敏司、八杉将司、山野浩一を貫く軸

樺山三英様 世界内戦と「わたし」たち

押野武志様 複数の「世界内戦」に向けて

 タイトルだけ見ても明らかに私だけ浮いてますが、内容もやっぱり浮いてます。『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』を書くにあたって参考にしたユートピア文学やディストピア文学、現実の歴史上におけるユートピア建設の試みや社会改革論を、聖書やギリシア神話から現代にいたるまで時系列に沿って論じています。空想と現実の相互作用、という点では、以前SF乱学講座でお話しさせていただいた「歴史を動かした疑似科学」と共通しているとも言えます。

 あくまで実作の立場からということで、預言書や「司祭ヨハネスの手紙」なんかも強引にユートピア文学に括ってたりと、ほかの方々の緊密な論考に比べると大雑把すぎて恥ずかしいんですが、箸休め的な感じで読んでいただければ幸いです。

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ハヤカワ文庫SF総解説

 11月20日(5日後です)に、『ハヤカワ文庫SF総解説』が刊行されます。今年の『SFマガジン』4月号、6月号、8月号に掲載された、ハヤカワ文庫SFの1番から2000番までの文字どおりの総解説が、1冊の本になります。
 解説を担当するのは大勢のSF作家や評論家。数えていませんが、とても大勢です。そして皆、SFを愛しています。愛の籠った解説の数々は、誉めている作品が読みたくなるのはもちろん、誉めていない作品でさえ、「そこまで言うなら、ちょっと読んでみたいかも」と思わされてしまいます。

 私が担当したのは、〈ホーカ〉シリーズ(『地球人のお荷物』『くたばれスネイクス!』『がんばれチャーリー』)、『スターシップと俳句』、『80年代SF傑作選』(上下巻)、『星ぼしの荒野から』の4点です。私のレビューは全般に誉めてるのか貶してるのか解りにくいらしいですが、4点とも誉めてます。
 
 SFの大海を渡る航海図として、是非どうぞ! 一生ものですよ。

『ハヤカワ文庫SF総解説』

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「神の御名は黙して唱えよ」

「かみのみなはもだしてとなえよ」。『書き下ろし日本SFコレクションNOVA+ 屍者たちの帝国』(大森望・編 河出書房新社)収録。
 作品解説というか作品の背景の解説ですが、とりあえず「お知らせ」カテゴリーに入れておきます。

 まず時代ですが、クリミア戦争に英仏が参戦してから数ヵ月後の1854年秋、ロシア帝国はウラル山脈南麓です。
『屍者の帝国』の時代(1878年)では、すでにロシアは南のカフカス山岳地帯と東のカザフ草原の反乱を平定し、ブハラやヒヴァといった中央アジアのオアシス諸国も征服し、そこから英領インドを狙っていますが、拙作の1854年では、オアシス諸国は独立を保ち、カフカスとカザフは一応ロシア領になっているものの反乱が続き……という状況です。

 ウラル山脈南麓は、当時のロシア帝国の中央アジア方面への橋頭保でした。ロシア人がオレンブルク要塞を拠点に軍事作戦を展開する一方で、ロシア帝国内のタタール人(モンゴル帝国の遺民の末裔)は要塞近郊の町カルガルを拠点に、東西交易に従事しました。
 カザフ草原の遊牧民やオアシス農耕民たちは、ロシア人は信用しませんでしたが、同じロシア臣民でもムスリムのタタール人は信用したので、交易が成り立ったのです。
 
 拙作の舞台「ウラル南麓の小さな町」は架空のものですが、このカルガルをモデルにしているので、登場人物の一人、導師カルガリーにその名を留めています。
 アラビア語では地名の語尾に「y(イー)」を付けると「○○に縁がある人」という意味になります。たとえば日本は「ヤーバーン」(「ジャパン」のアラビア語的発音)なので、日本人は「ヤーバーニー」。「y」を付ける地名は、国名に限りません。
 で、この「地名+y」は姓としても使われます(アラビア語圏だけでなく、ペルシア語圏やトルコ語圏でも)。だから「カルガリー」師はカルガル出身者、またはカルガルに住んでいる/住んでいた人、ということになります。
 
 どのキャラクターにも特にモデルはいませんが、東洋学者のデムスキー教授は、エドワード・サイードが言うところの「オリエンタリスト」をモデルにしたというか、戯画化したキャラクターです。つまり東洋について非常に造詣が深いが、基本的に東洋を蔑視していて、その知識でもって国家の帝国主義に進んで奉仕する、という(実際の19世紀の東洋学者がどうだったかはともかくとして)。
 作中、「東洋学者」「東洋学」に繰り返し「オリエンタリスト」「オリエンタリズム」とルビを振っているのは、そのことの強調、というかデムスキー教授が実はそういうキャラなんだよ、という伏線だったのでした。
 
 物語の鍵となるのは、イスラム神秘主義です。登場する教団は架空のものですが、実在の教団をモデルにしています。
 イスラム神秘主義にもいろんな教団があって、弱小なものやすでに消えてしまったものも含めて無数にありますが、どの教団も目的はただ一つ、「神との一体化」です。
 これはつまり、「意識」を神と一つにする、ということですが、もちろん神は人間より遥かに偉大な存在なので、信者の意識はその中に溶け込んでしまう、消えてしまう、ということで、その状態を「ファナー」と呼びます。アラビア語で「消滅」という意味です。
 この「神の大いなる存在の中に己が溶け込んで消えてしまう」感覚は素晴らしいものだそうで、多くの宗教に共通する宗教的恍惚状態、いわゆる「法悦」ですね。

 イスラム神秘主義については、『ミカイールの階梯』を書いた時にかなり調べたのですが、その後、さらに詳しく調べる機会があって、「我という意識は地獄」だから、その消滅を願うのだ、というルーミーの言葉を知ったのは、その時です。
 そのことについて、伊藤計劃さんと話したかった……というより、「今度会ったら話そう」とつい思ってしまって、ああ、「今度」なんかないんだ、と……

 この企画に参加させていただくにあたって、その時の気持ちを形にしよう、というつもりはまったくなくて、ただ「ムスリムにとって屍者はどんな存在だったか」という興味を追求したら、「神の御名は黙して唱えよ」になっただけですが、脱稿目前のある日、不意に、そうか、この小説はあの時のあの気持ちを形にしたものだったのか、と気が付いた次第です。
 なんと言うか、小説家ってこんなこともできるんだなあ、と十年余りも小説家をやっていて初めて知ったのでした。

 上記のルーミーは、「旋舞教団」として有名なメヴレヴィー教団の開祖です。音楽に合わせて旋回することで恍惚となり、「ファナー」へ至るわけです。
 歌舞音曲をファナーへ至る手段とする神秘主義教団は、数多くあります。しかしまた、多くの教団が歌舞音曲は「邪道」だとして禁じています。これは神秘主義者に限らず、ムスリム全般に歌舞音曲はイスラムの教えに背くと見做されているからです。
 酒と違ってクルアーンで禁じられてはいないのに、なぜそういうことになっているかは不明です。初期イスラム時代、歌舞音曲は「卑しい芸人」の生業とされていたことが原因のようです。歌やダンスで熱狂した状態が、酒に酔った状態と似ていることも一因なのかもしれません。
 ほかの手段としては、クルアーンや神秘主義詩人の詩を朗誦する、というものもありますが、これもまた教団によっては邪道とされています。朗誦が歌うことに似ているからでしょう。

 神の名を繰り返し唱える「ズィクル」も、多くの教団で行われている手段です。神の名とされるのは「アッラー」すなわち「The God」、およびクルアーンの中で使われている「慈悲深き者(アル・ラフマン)」、「慈愛多き者(アル・ラヒーム)」といった98の呼び名(計99)です。
 このズィクルもまた、声に出して唱えるのは邪道で、念じるだけにせよ、という教団が少なくありません。

 以上の、歌舞音曲、朗誦、声に出すズィクルを認めるか認めないかは、一つの教団内でも立場が分かれて対立することが珍しくなく、過去には抗争まで起きたケースもあるそうです。
 ズィクルの有声派と無声派があり、かつ己を死者だと想像することで煩悩を捨てるという修行法でファナーに至ろうとする実在の教団が、ナクシュバンディー教団です。中国から旧ソ連イスラム圏、インド、中東に至る広大な地域に信者を有する大教団で、イスラム神秘主義そのものが俗世に関わらないことを大原則とする中で、歴史上しばしば政治に関わってきた例外的存在です。最近でもイラクの分派が「イスラム国」に加わったりしています。

 ナクシュバンディー教団から、この政治権力志向を除いたのが、拙作の架空の教団のモデルです。
 ほかにナクシュバンディー教団と違うのは、ズィクルで99の神名すべてを唱えるところです。ナクシュバンディーに限らず、実在するどんな教団も、ズィクルで唱えるのは「アッラー」だけか、99のうちせいぜい数個だけで、99全部を唱える教団というのは存在しないようです(前述のように、イスラム神秘主義教団は無数にありますから、断言はできませんが)。
 99全部を唱えるという設定にしたのは、そのほうが印象的だからですが、クラークの「九十億の神の御名」へのオマージュだったりするからでもあります(あれはチベット密教か何かでしたが)。神のすべての名を正しい発音で唱えると、何かが起こるという。
 
 90億に対し、たったの99なので、起こることの規模もそれなりです。

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『屍者たちの帝国』

 というわけで刊行されました、『書き下ろし日本SFコレクションNOVA+ 屍者たちの帝国』。収録作品は以下のとおりです。

「従卒トム」藤井太洋
「小ねずみと童貞と復活した女」高野史緒
「神の御名は黙して唱えよ」仁木稔
「屍者狩り大佐」北原尚彦
「エリス、聞こえるか?」津原泰水
「石に漱ぎて滅びなば」山田正紀
「ジャングルの物語、その他の物語」坂永雄一
「海神の裔」宮部みゆき

 私は3番目ですね。ロシア帝国が舞台の高野氏の次に、ロシア帝国でもだいぶ東のウラル山脈南麓を舞台にした私が来て、その次がインドが舞台の北原氏、という配置です。

 編集後記で大森望氏が、『屍者の帝国』の序章を「おもちゃ箱をひっくり返したような」と形容しておられますが、それはそのまま『屍者たちの帝国』にも当てはまります。
 まさに奇想と超絶技巧の饗宴ですが、その中で私だけなんか地味かも……まあこれも多彩さの一部ということで。
 仁木稔にしては珍しく暴力もグロもない(少なくとも直接描写は)ので、そういうのが苦手な方にもお勧めできる、安心安全な仕様です。

 暴力なしグロなし、というのは意図したわけではなく、偶々そういう要素が入らなかっただけですが、今回の執筆にあたって一つ自分に課したのは、「史実に忠実な時代背景に、原典である『屍者の帝国』の屍者の設定だけを嵌め込む」ことがどこまで可能かを追求する、という縛りでした。いや、なんとなく、やったらどうなるかなあと思って。

 そしたら、ほぼ史実どおりで行けました(「ほぼ」というのは、「幕末の漂流民からロシア帝国政府に即身成仏の情報が伝わってた」というような与太が混じってたりするからですが)。舞台となる町や物語の中心となる神秘主義教団も、架空のものとはいえ、どちらも実在の町と教団をモデルにしています。 
 これはそのまま、『屍者の帝国』の設定が緻密に作り込まれていることの証左になるわけですね。実作による文字どおりの実感。
 

 というわけで、イスラムやその神秘主義全般について作中で述べていることも現実のものに即しています。言及されてる伝説も、実際にあるものです。
 自分が死者であると想像する、というのも実在の神秘主義教団の修行法の一つですが、これといい上述の即身成仏といい、かつては死体というのは現代(特に先進国)ほど忌避されていなかったのだろうと思います。
 死体崇拝は祖先崇拝として先史時代にまで遡り、そこから「力のある人物の死体」崇拝へも発展するわけですが、現代のように死体を忌避し、隔離しようとする社会では、到底起こり得ない状況ですよね。
 死が身近だったから、死体も当然身近だったということですが、それは先進国であってもそんなに昔のことではなく、『屍者たちの帝国』でも山田正紀氏が「石に漱ぎて滅びなば」でも活写されておられるように、20世紀初頭のロンドンでさえ、貧民街では行き倒れが珍しくなかった。
 現代人の感覚だと、いくら労働力や兵力になるからって動く死体なんて……と思わずにはいられませんが、死体が身近な時代には、「動く死体」への忌避感も少なかったのでは、というようなことを思ったのでした。

 暴力もグロもないという点では仁木稔らしくないけど、ロシア帝国でイスラム神秘主義なのは仁木稔らしいというか。ほかの方々の7編とともにお楽しみいただければ幸いです。

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 電子版も出た『伊藤計劃トリビュート』も、よろしくお願いいたします。

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屍者たちの帝国

 10月3日土曜日、河出書房新社から『日本SFコレクションNOVA+ 屍者たちの帝国』(編者:大森望)が刊行されます。
 前日(2日)の映画『屍者の帝国』公開に合わせ、『屍者の帝国』の世界をいわばシェアワールドとして書き下ろしたアンソロジーになります。
 執筆陣は私のほかに北原尚彦氏、坂永雄一氏、高野史生氏、津原泰水氏、藤井太洋氏、宮部みゆき氏、山田正紀氏の七名。
 藤井さんと私のほかは『伊藤計劃トリビュート』とはがらりと違う顔触れで、伊藤計劃氏の作品の幅広さ、奥行きがよく示されていると思います。  

 私の収録作のタイトルは「神の御名は黙して唱えよ」。「御名」は「みな」、「黙して」は「もだして」と読みます(本の中ではルビが振ってあります)。

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 Amazonでは各収録作の簡単な紹介もされていて、「神の御名は黙して唱えよ」は「屍者とイスラム神秘主義」。
 この企画のお話をいただいた時に、真っ先に浮かんだのが「ムスリムは屍者をどのように捉えるのだろうか」という疑問で、ムスリムにもいろんな立場がありますが、そこから選んだのが神秘主義というわけです。

 物語の時代は、『屍者の帝国』本編の約四半世紀前、クリミア戦争の英仏参戦から数ヵ月後の1854年秋、場所はクリミア半島、ではなく遠く離れたウラル山脈南麓の小さな町です。
『屍者の帝国』第一部Ⅸ、ハードカバー版152頁で、クラソートキンは「生者の屍者化実験」がロシア(および各国)でずっと以前から密かに行われてきたと述べていますが、拙作ではそれを背景としています。
 ロシア帝国の試行錯誤の一環にイスラム神秘主義がどう絡んでくるのか、お楽しみに。私もほかの方々の収録作が楽しみにしております。

 あと、頁数は「50枚を目安に、長くなっても短くなってもいい」とのことでしたので、少し長くして70枚弱です。
 ……なーんかな、やっぱり私は枚数を規定してもらえばそのとおりに書けるんだよな。自分で枚数を規定しても、全然守れない(際限なく長くなる)んだが。

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『SFマガジン』10月号

 本日発売の『SFマガジン』10月号は、伊藤計劃特集です。
 10月から3ヵ月連続で公開される劇場アニメ『屍者の帝国』『虐殺器官』『ハーモニー』の紹介、評論などとともに、伊藤計劃氏と同世代の作家、20代の作家、現役学生による3つの座談会が収録されています。

 私は藤井太洋氏、長谷敏司氏とともに、同世代作家の座談会に出席しました。あんまり喋ってませんが、あれでいっぱいいっぱいです。藤井さんの「公正的戦闘規範」について一言も述べていないのは、長谷さんが先に私が言いたかったこと+実のある感想をさらにいろいろを述べられたからです。だいぶ短縮されて収録されてますが。

 とにかく、たいへん中身の濃い特集です。

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 以下は座談会記事を前提としています。

 親しい人を亡くした時、人は合理的でない反応をしてしまいがちで、その死に罪悪感を抱くのは典型的な例である。
 もちろん私は、伊藤氏と「親しい」間柄ではなかった。にもかかわらず氏の訃報に接し、まさにその典型的な反応をしてしまったのは、一度だけの出会いが、自覚していた以上に強く印象に残っていたからなのだろう。
「親しい人の死への反応例」の知識は当時からあったのだが、自分がそうだと気づくことはできなかった。そんな余裕はまったくなかった。その後、「気づいた」瞬間があったわけではなく、何年もかけて徐々に納得していった、という感じだ。

 だから、この話は座談会の時まで誰にも(塩澤編集長を例外として)話したことがなかった。六年も経てば話せるようになるものだな――とこの時は思った。座談会後は藤井氏と長谷氏、編集者の方々と和気藹々と会食し、その夜は穏やかな心持ちで就寝したのだが……翌朝、全身筋肉痛で動けない。
 どうやら、座談会で伊藤氏の話題の間中、無意識に身体を強張らせていたせいらしい。強いストレスが掛かると、そうなることがある。ストレスは精神的なものとは限らなくて、真冬の戸外に長時間いただけでなったりもする。が、精神的なストレスでは、そうそうなるものではない。
 六年では全然足りなかったらしい。

 私がお会いした計劃さんは、とても元気で明るくて、“死”はおろか、“病”の影すら結びつけることのできない人だった。だから、近いうちにどこかで再会できると思っていた。実際、逸してしまったがその機会は幾度かあった。
 そんな呑気な気持ちでいたところを訃報に打ちのめされ、そこから立ち直らないうちに、なおも「近いうちにどこかで再会できる」と思っている自分に繰り返し気づかされることになった。

 願望なのだろう。だが意識の上では、予測であり確信だ。気づくたびに、そうではないと自分に言い聞かせる。だが未だに、さすがに間遠にはなったものの、ふとしたはずみにこの感覚は頭をもたげてくる。

 そういうことを、繰り返している。

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『伊藤計劃トリビュート』と『SFマガジン』10月号 『伊藤計劃トリビュート』

 いよいよ明日21日金曜日に刊行です。
 真っ赤な地にシンプルなデザインが目を惹く書影はネットで確認済みでしたが、実物は700頁超という分厚さもあって、文庫とは思えない重厚感です。

 作家は逸早く自著の新刊を手にできるわけですが(いや、一度だけ発売日の翌日に届いたことがありましたが。書店に並んでいるのに作者の手許にはないという)、これが自作だけ収録された本の場合、確かに装丁の実物を目にできる喜びはありますが、中身については誤字脱字チェック以外、することはありません。実際に見つけてしまうと落ち込むし。
 でも今回はアンソロジー、しかも8分の1なので、ほぼ一読者として新刊を手にする喜びがありましたよ。
 皆さんも明日、是非お手に取ってみてください。

51ynvu3qq2l 『伊藤計劃トリビュート』

 私の収録作「にんげんのくに」は、前にお伝えしたとおり、HISTORIAシリーズに属します。
 本来は『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の連作(連作名は〈The Show Must Go On〉)の一篇として、「はじまりと終わりの世界樹」の次に脱稿した作品でした。
 HISTORIAシリーズは、各作品の繋がりが緩く、単独で読めることを大原則としていますが、〈The Show Must Go On〉は連作なので、それなりにまとまりがあります。
 この連作のテーマは、もともとは“暴力”でした。「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」と「はじまりと終わりの世界樹」が“現代の暴力”、「The Show Must Go On!」以下三篇が“その延長線上にある暴力”、そして「にんげんのくに」が“原始的な暴力”です。
 “原始的な暴力”とは、その言葉から連想されるような“無秩序”、“本能的”、あるいは“動物的”な暴力では決してなく、非常にシステマティックで“文化的”で“人間的”、つまり根本的なところで“現代の暴力”となんら変わりはない……という構成だったんですが。

 しかし「にんげんのくに」は例によって長くなりすぎた上に、「ミーチャ」をはじめとする他の収録作が〈絶対平和〉の構築から崩壊(前夜)まで、というまとまりがあるのに対し、これだけいきなり〈絶対平和〉崩壊から数百年後。作品としてもカラーが違いすぎるし、HISTORIAシリーズを初めて読まれる方々には不親切かな、というわけで、とりあえず外しましょう、ということになったのでした。

 その後、『伊藤計劃トリビュート』に入れたいというお話があって、ああ、言われてみれば確かに「伊藤計劃的」だな、と。計劃さんにお目に掛かったのは一度だけですが、その死には私なりに思うところもあったので、自分にできることはしたいという気持ちから、参加させていただくことにしたのでした。
 この『トリビュート』のために書かれた作品として読んでも、違和感はないと思います。  

 HISTORIAシリーズとしては、時間軸で最新(『グアルディア』より後)になりますので、これまでシリーズを読んできてくださった読者の方々の中には、その点に興味を持ってくださる方もおられるのではないかと。例によって物語的には直接の繋がりはありませんが。

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 さて、去る7月9日、『トリビュート』執筆者で行う座談会に出席してまいりました。世代別ということで、伊藤計劃さんと同世代組(1970年代前半生まれ)は私、藤井太洋さん、長谷敏司さんの三人です。
 それぞれの収録作品について話しましょう、ということで、これに先立ってお二方の収録作品(藤井さん「公正的戦闘規範」、長谷さん「怠惰の大罪」)を読ませていただいたのでした。両作品とも凄くてかっこいい、かっこよくてすごいのに、私は読んだ小説について喋るのが苦手なので碌なことが言えず、そこで藤井さんと長谷さんが二人して「にんげんのくに」を是非アニメ化してほしいとか冗談を言わはるので一層困惑したり(いや、無理ですヴィジュアル的に……全裸だから)しましたが、楽しい時間を過ごさせていただきました。

 しかし主題はやはり伊藤計劃さんについてで、6年も経っているにもかかわらず、あるいはたった6年しか経っていないから、塞がっていた傷を開くのに似た体験で、なかなかきついものがありました。私よりも長谷さんのほうが、作品(『メタルギアソリッド』ノベライズなど)を通じて伊藤計劃さんと深く向き合っていた分、あそこまで心情を吐露するのは つらかったのではないかと思います。

 座談会の内容は、25日発売の『SFマガジン』10月号に収録されます。あの場で語れることはすべて語り、同じ話を繰り返す気力も少なくとも当分はありませんので、「にんげんのくに」著者後記(この座談会より後に書きました)では、伊藤計劃さんのことには一言も触れることができなかったのでした。

91wbkqf7cl 『SFマガジン』10月号

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『早稲田文学』と『伊藤計劃トリビュート』

 まずは明日発売予定の『早稲田文学』秋号。

 小特集「昏い部屋の女たち」にアンナ・カヴァン論を寄稿しています。
 なぜ私がアンナ・カヴァンかと言いますと、一昨年、SFセミナー2013夜の部でアンナ・カヴァン読書会に参加したんですが、その際、「アンナ・カヴァンとサーデグ・ヘダーヤトは似ています」と発言したものの、ヘダーヤトを読んだことのある人がその場に誰もいなくて、で、その日は体調がかなり悪かったこともあって、ヘダーヤトとカヴァンの対比については「う……と、とにかく似てます」という以上のことは言えなかったのでした――という経緯をこのブログに書いたのを、『早稲田文学』の編集者の方が目に留めてくださって、今回、お声を掛けていただいたという次第です。

 アンナ・カヴァンとイラン人作家サーデグ・ヘダーヤトは、同世代であり、共に「カフカ的」と称されますが、並べて論じた人はあんまりいないんじゃないでしょうか。
 カヴァンは近年、新刊・復刊ラッシュと言っていい状況ですが、私の拙文(この記事じゃなくて『早稲田文学』掲載のほう)を読まれて、カヴァンだけじゃなくヘダーヤトにも興味を持たれた方は是非、短篇集『生埋め――ある狂人の日記より』だけでも読んでみてください。いわゆる「カフカ的作品」だけじゃなく、ホラーやSFもありますよ。特に「S.G.L.L.」は1930年代に書かれたとは信じがたいほど先駆的な終末SFです。

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『早稲田文学』2015秋号 amazon 公式ページ(内容の詳細はこちら) 

51tc2vqac5l アンナ・カヴァン『氷』

41bbqs2emdl_2 サーデグ・ヘダーヤト『生埋め』

 続いて、8月21日発売予定の『伊藤計劃トリビュート』(早川書房)

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 御覧のとおり、他の執筆者の方々が大変豪華です。文庫なのでお値段もお手頃な1188円。
 ちなみに私の「にんげんのくに」はHISTORIAシリーズですが、例によって単体で読めます。『グアルディア』より後の、南米アマゾンの話です。このトリビュートのために書いたのではないのですが、期せずして相応しい作品になっていると思います。

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『SFマガジン』2015年8月号

 今月25日発売の『SFマガジン』2015年8月号は、いよいよハヤカワ文庫SF総解説、最終回です。
 今回、私はティプトリーの『星ぼしの荒野から』を担当しています。これ1冊だけですが、この企画のことを知って以来、どうしても解説を担当したかった1冊です。

 1999年の刊行(原書は1981)ですが、当時はSFから離れていたので、読んだのは確か『グアルディア』執筆中の2003年です。
 10本の短篇のうち、「たおやかな狂える手に」は学生時代に『SFマガジン』に掲載されたのを読んだ時の衝撃は忘れられませんが、本書で初めて読んだ「おお、わが姉妹よ、光満つるその顔よ!」はそれを上回るもので、あまりの異様さに「10年経ったら再読して、それでもまだ衝撃的か確かめよう」と決めたのでした。
 
 で、とっくに10年は過ぎてたわけですが、再読するのが怖い、つまり「再読してみたら大したことなくてがっかり」というのはティプトリーに限ってはないだろうけど、万が一ということもあるし、初読時と異様さが変わってなかったり、あるいはもっと異様だったりしたら、それこそ怖いし……というわけで、もうちょっと、もうちょっと、と先送りしていたのでした。
 
 この文庫総解説は、どの本を担当するかは執筆者の希望が反映されるのですが、最終的に決めるのは編集部の方々なので、本書を担当できると知った時は、本当に嬉しかったです。ありがとうございました。先送りしていて、よかった。
 というわけで、十余年振りに読んだ「おお、姉妹よ」は、やっぱり異様でした。強まりこそさえしませんでしたが、これっぽっちも弱まっていない。つまり、「ティプトリーって、すっげー意地悪」。かっこよすぎだ。
 解説では紙幅の都合で、とても収録作品全部に触れることはできませんでしたが、残りの9篇も、やっぱり意地悪だ。
 
 SFは全般に長篇より短篇が好きなのですが、やはり作品によっては時間が経つと忘れてしまうもので、たとえばある作家の短編集を読んだら、仮に収録作品が10篇だとして、うち5篇は多少なりとも読んだ記憶があるのに、残り5篇はまったく記憶になく、「5篇も憶えてるということは、それぞれ別のアンソロジーで読んだとかじゃなくて、この短編集自体が再読ということになるんだろうが、それならそれで、残り5篇のみならず本のタイトルも装丁も巻末解説も完全に記憶喪失って、どういうこっちゃあ」という事態が、ごくごく偶にですがあります。
 今回、『星ぼしの荒野から』を再読するに当たり、ティプトリーのほかの短編集のうち何冊か再読したのですが、実はそれらの一部の収録作品は、読んだこと自体が思い出せない記憶喪失でした……(どれとは言いませんが。もちろんあれとか、あれとか、あれとかではない)。
 ティプトリー作品に限らず、憶えてるといっても本当に断片的でしかないこともありますが、この『星ぼしの荒野から』はどれも強く印象に残っていて、再読でその印象が鮮やかに蘇りましたよ。
 
 今号で解説が掲載される文庫については、『星ぼしの荒野から』を担当できたので満足してしまったのと、ちょっとだけ忙しかった(多忙と呼ぶにはほど遠い状態でも、一度にできることが少ないのです)のとで、ほかの本の解説担当は希望しませんでしたが、その分、ほかの方々の解説を読むのが楽しみです。

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ハヤカワ文庫SF総解説PART2

 「ハヤカワ文庫SF総解説PART1」に引き続き、現在発売中の『SFマガジン』6月号の「ハヤカワ文庫SF総解説PART2」でも解説を担当させていただきました。
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 今回は『80年代SF傑作選』上下巻(小川隆/山岸真・編)との『スターシップと俳句』(ソムトウ・スチャリトクル)です。

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 私がジュヴナイルでないSFに最初に嵌まったのは1980年代半ばからなので、80年代SFは、当時読んでいなかった作品も含めて、今でもとても好きです。なんというか、それ以前の作品ともそれ以後の作品とも違う雰囲気が。80年代は私の人生における最も碌でもない時期なので(73年生まれ)、80年代の文化全般はむしろすごく嫌いなんですが、私にとって当時唯一輝いていたのがSFだったという。
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 90年代に入るとSFからいったん遠ざかってしまうので、92年刊行の『80年代SF傑作選』を読んだのは2000年以降、SFに戻ってきてからですが、ああ、これぞ80年代SFだ、うまく説明できないけど、この雰囲気!
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 というわけで、是非読んでみてください。
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 1984年刊行(原書は82年)の『スターシップと俳句』も、読んだのは数年前ですが、まあこれは解説でも述べたとおり、むしろ21世紀的な多文化混淆のカオスというか。
 ソムトウ・スチャリトクルは、2010年刊行のSFマガジン50周年記念アンソロジーの1冊『時間SF傑作選 ここはウィネトカなら、きみはジュディ』に収録の「しばし天の祝福より遠ざかり……」で知りまして、これが佳品だったので、ほかの邦訳作品も読んでみようという気を起こしまして。
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 ……いやあ、タイトルで一応覚悟はしてたものの、実際読んで呆気に取られてしまいましたよ。しかも刊行が「しばし天の祝福より遠ざかり……」の翌年だし。
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 解説ではそのショックを少しでも表現するべく頑張りました。というわけで、『スターシップと俳句』に興味を持たれた方は、まず「しばし天の祝福より遠ざかり……」をお読みすることをお勧めします。

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