イーゴリ公

 レニングラード国立歌劇場。何かえらくカットされてたんで(ちらしによると「プロローグと2幕4場」)、後でマリンスキー劇場版(「プロローグと4幕」)と照らし合わせてみたら、どうもどれだけ他人の手が入っているかがカットの基準らしい。というわけで、第3幕は1曲目の「ポーロヴェツ人の行進」以外は全部カットされている。ほかにもあちこち。その上で再構成されてたわけだが、それだけ刈り込まれても2時間半以上あったし、ある意味ダイジェスト版みたいな感じでよかったんじゃないかと。何しろ、マイナーといえばマイナーな作品だからか、年配の観客ばかりで、これ以上の長丁場はきつかったでしょう。実際、具合悪くなって途中退席した人もいてたし。

 フェスティバルホールは二度目。初めて行った時は、二階席の後ろのほうで(それでもA席だった)、シートも通路も狭くて急傾斜で怖いし、残響がノイズになって聞こえるし、そもそもその時の演奏が値段の割りにしょぼかったんで 以来避けてたんだが、『イーゴリ公』を観られる機会なんかそうそうあるもんじゃない、ましてロシアにどっぷり浸かってるこの時期に、というわけでS席で観ましたが……

 クラシックをまともに聴くようになったのが『グアルディア』以来だから、演奏会に行った回数は少ない。CDをヘッドホンで聴く習慣が付いてしまったのは、問題かもしれない。近所迷惑を考えなくていいんで、いくらでも音量を上げられる。ソナタとか、音の厚みが少ない曲だとそういうことはしないんだが(奏者の呼吸音とか入っちゃってる録音が多いしな)、オーケストラともなれば、それはもう気持ちよく大音量で聴く(そして書く)。で、演奏会に行くと、交響曲や協奏曲なら問題ないが、オペラだと音量が物足りなく感じてしまう(それでもなお、生の迫力ってのは換え難いんだが)。そう反省しつつ、今も大音量でマリンスキー劇場版聴いてます。

 しかしヤロスラーヴナ役のオクサーナ・クラマレワの声は、声量も充分な上に表現力も豊かだった。男声はガリツキー公が一番で、二人の重唱は素晴らしい。最大の見所は、やっぱり「だったん人の踊り」になるんだろうけど、臆面もないオリエンタリズムは凄いというか凄まじくて、たいそう楽しかったです。ロシアの服飾史や美術史には詳しくないんだが、ロシア側の場面の舞台美術や衣装、小道具が、それなりの考証を経ていると思わせる「それらしさ」なのに対して、ポロヴェーツ(トルコ系遊牧民族)側の「それらしさ」がなー。いや、素敵素敵。それにしても肝心のバレエが、「東洋風」振り付けということなのか、低い姿勢を取ることが多くてよく見えませんでした、前列の人たちの頭が邪魔で。

 オリエンタリズムを含め、エグゾティシズムは願望の投射であるわけだけど、ガーリツキイ公と取り巻きたちのやりたい放題もまた、中世ロシアへの(19世紀ロシア人による)願望の投射だなあ。

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トプカプ宮殿の至宝展

 京都文化博物館。オスマン・トルコの美術工芸品をまとめて観るのは初めて。学生時代はシルクロード文化史が専門つっても、イスラム化以後はあんまり関心がなかったからなあ。やー、まあその後いろいろ勉強はしましたが。

 見事な細密画やアラベスク、カリグラフィーは、偶像崇拝が禁じられたからこそ発達したものなんだが、同時に人間の視覚芸術への欲求の強さを表している。この夏にオルハン・パムクの『わたしの名は「紅」』を読んだとこだったんで、表現に対する絵師たちの葛藤(決して作者の想像の中だけのものではなく、実際にあったはずだ)を展示品に重ね合わせてしまう。小説の舞台の二百年後の18世紀末にイタリア人(?)の宮廷画家によって描かれたスルタンの油彩肖像もあったりして、いわく言い難い感慨。それにしても宗教による圧力が写実を排して極度の様式化に向かわせたわけだが、だからといって中南米のような抽象化されパターン化された人物文様の方向へ行ったわけではなかったのが、ちょっと不思議な気がする。たぶん、イスラム以前の芸術がすでにそっちの方向じゃなかったからなんだろうけど。アフリカではどうなんだろう。

 展示は四部構成。サブタイトルが「オスマン帝国と時代を彩った女性たち」ということで、二部以降は食器やタオルなどの日用品や化粧道具入れ、衣類、アクセサリーが中心(第一部はスルタンの肖像や花押、武具など)。展示物自体はおもしろかったんだが、「ハーレム」を前面に押し出すんだったら、代表的な寵妃たちのプロフィールとかエピソードとか紹介したほうがよかったんじゃないかと思う。スルタンたちの紹介はしてたんだからさ。現在のトプカプ宮殿やイスタンブールの写真は何点か展示されてたが、19世紀や20世紀初めの写真だっていくらでもあるんだから(それ以前なら西洋人の旅行者によるスケッチとか)、一緒に展示してあればなあ。

 第四部は宮廷で使用された中国の磁器。10点中5点がトルコ人の手によって銀や金の取っ手、注ぎ口、蓋を取り付けられている。こういう加工は当初、修繕目的で行われていたのが、次第にトルコ人の好みに合わせた「改造」になっていく。甚だしいのになると、景徳鎮の「椅子」(スツール型)を改造した巨大な「香炉」とか。正直、かなり無理やりっぽいんだが、改造した職人も使用した王侯貴族たちも、「このほうがずっとよくなったな!」と御満悦だったんだろうなあと思うと、微苦笑が。

 最後に特別出品作品「金のゆりかご」。黄金と宝石塗れで、とても実用品だとは思えないんだが、底を見ると丸い穴が開いている。新疆のウイグル族のゆりかごと同じだ(なんのための穴かと言うと……)。この金のゆりかごの写真は巨大エメラルドのターバン飾りなんかとともにポスターに使われている。私が博物館に入ろうとした時、ちょうど出てきた中年女性のグループがポスターを眺めて、「ほんますごかったわあ」「目が眩んでもうたわ」とか言い合っていた。そのうち一人が金のゆりかごを指して、「こんなん、猫に買うてやりたくなるわあ」。……おいおい。

 京都に行ったついでに、京都駅ビルで開催してた「安彦良和原画展」も鑑賞。最初期から現在に至るまで、カラー作品のすべてが「ポスターカラー+水彩」だけで描かれていることに驚く。弘法筆を選ばず、ってほんとだなあ。いや、筆は選んでるけど。中国製の安い筆で、これが手に入らなくなったらもう描けない、だそうです。

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人体の不思議展

 プラスティネーション(この展示会ではプラストミックという)の展示を見るのは二回目。一回目は学生時代に、同じく梅田スカイビルで。学生時代つっても私の場合、七年間にも及ぶんで、時系列が……。とりあえず、十年は前のはず。

 それだけ歳月を隔てているにもかかわらず、今回は前回ほど衝撃がなかった。まあ、そのくらい最初の印象が強烈だったということだろう。私はデビュー作以来、ああいうものばかり書いているくせにスプラッタは苦手ですが、プラスティネーションは平気です。たぶん、生々しさがないからだと思う。そういうわけで、筋肉とか骨とか内臓とかが剥き出しの解体してあるものは大丈夫でも、無傷の「顔」は正視できなかった。それが作り物ではなく、個人の遺体であるという事実を、否が応でも突き付けられるからなのだろう。いや、ほかの部位を見てる時でも、忘れてるわけじゃないんだけどね。

 平日だったけど、どこかの学校の学生が集団で見学に来ていたので、かなり混雑していた。どうも医療・生物学系ではなく美術系だったようで、青い顔をしてる子とかも。特に男子。グロいグロいと連発してた彼らも、熱心に眺めてたほかの客(私を含む)も、「見世物」感覚を多かれ少なかれ有していることは否定できまい。この展示会は献体に関して何やら疑惑があって、帰り際に係員から割引券(当展示会の。100円off……)を五、六枚も押し付けられたことがますます胡散臭さを煽るわけですが、疑惑のなかった十年前には「見世物」要素がなかったのかというと、もちろんそんなことはないわけです。

 併設展の「人体のアート&サイエンス」が、なかなか興味深かった。レオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチとか、『解体新書』とか。日本でも明治20年代には、もう美術用の解剖書が出版されている。1943年出版のデッサン用教材(日本の)もあった。開いてあるページにはラオコーン像と、そのポーズを取ったモデルと、解剖図の写真が載ってたんだが、紙とか印刷とか製本とか非常に良いもので、こんな時期にこんな本が出版されてたというのが、かなり意外だった。

 自主的な映画鑑賞は当分封印、というようなことを前回書いたが、そういえば『スウィーニー・トッド』が一月公開じゃないか。その頃だとかなりやばい状態(私が)になっていそうだけど、なんとかテンションをそっちへ捻じ向けて観に行かないとな(つまり、その頃までには脱稿しそうもないということです。すみません)。

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ヘアスプレー

 ジョン・ウォーターズのオリジナル版は未見。

 ダンスを観るのが好きなので、ミュージカルは結構好きだ。しかもクリストファー・ウォーケンが歌って踊るとなれば、是が非でも観に行かねばならん。と、何ヶ月も前から思ってたんだが、接続70%を越えた現状では、「ヘアスプレー? どうでもいいよ、もう」。ダンスシーンはスクリーンで観てなんぼなんだから、絶対後悔するのは解っていたので、友人に付き合ってもらって観に行った(父も妹Ⅱもミュージカルには付き合ってくれないのである)。

 ウォーケンが踊るシーンはそれほど多くなくて残念。でも「主人公の変な父親」を説得力をもって演じられるのは、彼ならでは。『きのうから来た恋人』といい、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』といい、ほんとに嵌まり役だな。あと、ミシェル・ファイファーの色仕掛けに引っ掛からないのも、ウォーケンだからこそ説得力がある。

 ジョン・トラボルタにも女装にも興味はないが、踊るトラボルタとなれば話は別である。13キロものファットスーツを装着して、果たしてまともに踊れるものかと思っていたんだが、いや、踊る踊る。踊るトラボルタは、やっぱり素晴らしい。そして踊っている時も踊っていない時も、仕草等が全然カマっぽくなっていないのには感心した。さすがに声までは無理だったが(特に歌)。そういえば『グッド・シェパード』では、マット・デイモンが女装して歌っていたのであった。余興の女装なんで、それなりでしかなかったんだが、しかしあの声……吹き替えじゃないんだよな?

「自由」「平等」の声高で能天気な主張は、現代の状況(60年代よりはマシになっているが、しかし)を思うと、無条件に共鳴はできず、かといって押し付けがましいと反発もできず、むしろ哀歌に聴こえる。美しい夢だった、美しいが夢に過ぎなかった、と。いや、もし私が60年代に生きていたら、辟易してただろうけどね。どんなに正しい意見でも、押し付けられるのは御免です。

 自主的に映画を観に行くのは、当面はこれが最後だろうなあ。それでは、また来週~。

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善き人のためのソナタ

 ベルリンの壁崩壊直前の東ドイツで、国家保安省(シュタージ)にマークされた劇作家と、彼を監視する局員の物語。

 シュタージの施設内の雰囲気が、なんというかすごく『未来世紀ブラジル』的だった。両作品の性質上、似てくるのは当然なんだが。ところで『ブラジル』が1984年に作られたのは『1984年』だからなんだが、『善き人の』の舞台が1983年でも1985年でもなくて1984年なのも、やっぱりそうなんだろうか。ちなみに『1984年』の映画版は未見なので比較はできない。

 シュタージ局員のヴィースラーが作家のドライマン(『ブラックブック』の善いナチス将校役セバスチャン・コッホ)を盗聴するのは仕事だからだが、相手に次第に親近感を(一方的)に抱いていく過程はストーカー的だ。ストーキングは相手への一方的な投射が先にあって行うもので、ヴィースラーのドライマンへの投射は盗聴行為が先にあるんだが、しかし紙一重だな。ヴィースラーがドライマンを助けるのは紛れもなく「善」だが、それは極端な管理社会やその中の官僚的腐敗、ストーキングと紙一重の監視といった醜悪な歪みから生まれた善だ。その危うさが巧みに描かれている。

 全体に重い雰囲気だが、随所に細かい笑いが散りばめられている。大概はブラックな笑いなんだが。例えば前半にシュタージの高官の前でうっかり党を揶揄するジョークを言ってしまった局員が、終盤地下室で働くヴィースラーの後ろの席だったりとか。

 というわけで佳作だったんだけど、最後の「それから4年後」「それから2年後」「それから2年後」というのは、もうちょっとなんとかならなかったんだろうか。そして、キャストたちに時間の経過がまったく見られないのもな。いや、ヴィースラーもドライマンも頭髪がそれぞれ微妙な状態だったんで、4年とか2年とかでも結構な変化が出るもんじゃなかろうかと。街の様子とかは、ちゃんと変化を表してたのになあ(例えば1991年は街全体が落書きだらけになってたりとか)。

 監視(盗聴を含む)をする者は、その間、自分の時間が完全にないと言える。その行為の間は、他人の人生を生きているとも言えるのだ……てなことを観ながら思っていたら、原題はDAS LEBEN DER ANDERENだった。英題はTHE LIVES OF OTHERS。ドイツ語はまったく解らないのだが、だいたい同じ意味のようだ。なかなか意味深長なタイトルだけど、結末からすると邦題のほうが相応しい気がする。

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グッド・シェパード

 よく出来た変な映画だった。「よく出来てるけど変な映画」じゃなくて、「よく出来た変な映画」。

 特定のエスニックグループが支配する巨大国家で、自他共に選良と見做される若者たちの中のさらに一握りの者だけが入ることのできる秘密結社がある。メンバーは終身制で男性限定、結社の存在自体は秘密ではないが、そこで行われるさまざまな秘蹟は文字どおり口外法度である(どんなことをやるかというと、まっぱでレスリングとか、まっぱで告解とか)。要するに、いい大人が秘密結社ごっこに興じているのである。彼らの多くは将来、政治家とか学者になって「国を導く」のだが、さらに一握りの「選ばれし者」たちは諜報員となり、一生続く「ごっこ遊び」という特権に与る。

 置き忘れられた帽子に指令のメモが隠してあったり、仕立て屋の試着室が秘密の地下施設に通じてたりとか、なんというか昔のスパイ映画を観ているようだった。史実にかなり忠実だそうだから、実際に行われてたことなんだろうけど、どうにも「スパイごっこ」をしているようにしか思えない。スパイ映画のようだ、というこちらの先入観(スパイ映画のほうが後なわけだから)を拭っても、何もそこまで凝らんでもというか、絶対おまえら楽しんでやってるだろ。

 無論、彼らはものすごく真剣である。しかし、それも当然だろう。遊びは真剣にやったほうが楽しいに決まっている。彼ら自身が苦悩したり、死んだりするのは勝手だが、巻き添えで人生を引っ掻き回され、最悪の場合、死んでしまったりするほうは堪ったものではない。しかもこの遊戯で人生を振り回されるのは、数千万とか数億という単位の人々である。

 秘密組織ごっこの楽しさの一つは、メンバー以外を締め出すことである。締め出されるのは「選ばれなかった者」。優秀ではなく、アングロサクソンではなく、男ではなく、異性愛者ではない者だ。つまり、かなりの部分がホモソーシャルな条件と重なる。女は最初から疎外されているし、同性愛者や女に秘密を漏らした軟弱者は遅かれ早かれ遊戯から下ろされる(作中では、イギリスの同性愛者の諜報員の抹殺が、米英の絆を確認する一種の儀式として行われていた)。

 アンジェリーナ・ジョリーはミスキャストという意見もあるかもしれないが、疎外され空回りしている妻、という役柄にはかなり合っていたのではないかと思う。彼女以外の女優だったら、普通に「仕事人間の夫に顧みられず、孤独に苦しむ妻」というだけになってしまう。まあつまり、「アンジェリーナ・ジョリーですら歯が立たないホモソーシャルな団結力」を表現するには、アンジェリーナ・ジョリーほど相応しい人材はいない、ということですね。

 そういうわけでアンジェリーナ・ジョリーは『17歳のカルテ』以来の、強烈さと脆さを併せ持つキャラクターで、そう言えばこういう演技も出来る人だったんだなあ、とちょっと感慨深かった。しかし、それにもかかわらず獣っぽいのは相変わらず(草食獣ではなくて肉食獣である、当然)。壊れかけて痛々しいのにケダモノじみてるのは、なぜだろう。終盤、悪いニュースを伝えにきたマット・デイモンに向かって「何があったの」じゃなくて「何をしたの」と訊くのも、女の直感というよりケダモノの直感だ。

 妹Ⅱの希望で鑑賞。全然チェックしてなかったんで、ジョン・タトゥーロの登場にちょっと驚く。『トランスフォーマー』と同じような役柄(そっちでは途中からアクション要員になってしまったが)で、見事な演じ分けを堪能させてもらいました。

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エンリケ・クッティーニ楽団

 伊丹アイフォニックホールにて。ピアノ、バンドネオン、ヴァイオリン、コントラバスの四重奏。ほかにヴォーカル一人(男性)とダンサー四人。

 演奏はかなり即興的で、時にはほとんどセッションみたいな雰囲気だった。ステージも客席もあまり広くなかったので、臨場感が伝わってくる。奏者のうち若いのはコントラバスだけで、ピアノ(クッティーニ)とバンドネオンはかなりの高齢で70にはなっていると思われる(ヴァイオリンの人は年齢不詳だった。髪は白いのに顔は結構若い)。なのにこの二人が一番元気だった。私の後ろに座っていた年配の男性が、しみじみと「ピアノのおっちゃん、元気やなあ」と感嘆していた。そういうステージでした。

 曲目は、いわゆるアルゼンチン・タンゴだけでなく、コンチネンタル・タンゴやタンゴ風シャンソン、それに「ベサメ・ムーチョ」までも。アルゼンチン風にアレンジされていて、なかなかおもしろかった。なぜか一曲、ベネスエラのワルツも含まれていて、これは原曲を知らないので、アレンジされてたかどうかは不明。ヴァイオリンの人はベネスエラの民族楽器(小さなギターみたいな楽器)に持ち替えてたし。それらを除いても、初めて聴く曲が多くて楽しかった(ピアソラ以外のタンゴは、ごくスタンダードなナンバーしか知らないのです)。

 ピアソラは「フーガと神秘」「ブエノスアイレスの春」「リベルタンゴ」の3曲で、いずれもダンス付き。ピアソラは基本的に「聴かせるタンゴ」なので、ダンスに向いた曲は少ない。とはいえショーとなれば、いくらでも振り付けはできるわけで、今回の3曲はかなり現代的な振り付けだった。特に続けて演奏された「ブエノスアイレスの春」と「リベルタンゴ」は衣装も伝統的なものではなく、男女とも黒ずくめで男性はメッシュのTシャツにカーゴパンツ、女性はちょっとボンデージ風。1曲か2曲くらいは、こういうのがあってもいい。

 相変わらず、男女が踊っていると女性ダンサーしか目に入らない。バレエとかでもそういう傾向があるけど、特にタンゴの場合は男は「黒子」だと認識してしまうようだ。男が女をリードして「踊らせる」のがタンゴだから、この認識はかなり正しいんじゃないかと思う。男しか踊ってない時は、もちろん男を観るけど。今回は男同士で踊るパートもあって、おもしろかった(最初期のタンゴは男同士だった)。

 このコンサートは、アイフォニックホールで毎月催されている「地球音楽シリーズ」という企画で、11月はアンデスのフォルクローレ、12月はゴスペル、と非常に興味を惹かれるのだが、私自身にもはや心の余裕(1ヶ月以上前から予定を立て、チケットを予約し購入する余裕)が失われているのでした。9月半ばの時点で、予約したチケットの代金を払ったかどうかどうしても思い出せなかったり(思い出せないでいるうちに、チケットが郵送されてきた)、チケットをうっかり捨てそうになったりして、かなりやばい状態だった。今回のチケットを買ったのはその時だっけか、もう少し前だっけか。とにかく10月末までには頭がすっかりシルクロードとロシアになっており、「タンゴ? もうどうでもいいよ」という心境だったのを、いや、どうでもいいじゃなくてさ、行かなかったら絶対後悔するんだから行っとこうよ、と自分で自分を説得して、どうにか会場に赴いたのでした。行ってよかったけどね、ほんまに。

 それにしても、タンゴのコンサートは最後の出演者挨拶と客出しのBGMが、ほぼ必ず「リベルタンゴ」だなあ。

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無伴奏ソナタ

 オースン・スコット・カードの初期短編集。先日、母校の図書館に立ち寄った際に、表題作だけ18年振りに再読。ネタバレ注意。

 ちょうど今頃の季節だった。読書の秋ということで、図書館司書のA氏が放課後、生徒たちにお薦めの本を何冊か紹介する集まりを開くことになった。初めての試みであり、人が集まらないことが予想されたので、我々図書委員がサクラとして動員された。どんな本が紹介されるかは、委員たちも前もって知らされてはいなかったのだが、その中にはこの短編集も含まれていた。それは最近、図書館に入ったばかりの本で、もちろん私は書架に並ぶ前に読み終えていた。

 A氏が選んだのは、表題作「無伴奏ソナタ」だった。それは、概ね次のように紹介された。

「未来のある国に、一人の音楽家がいました。彼の音楽はとても美しいけれど、人々を悲しい気持ちにさせるものでした。そこで政府は彼に音楽を奏でることを禁じました。しかし彼は音楽への情熱を消すことができず、ある日、ピアノを弾いてしまいます。政府は彼の指を切り落としてしまいました。それでも彼の情熱は消えず、歌うことで音楽を作り続けます。ついに彼は殺されてしまうのですが、人々は彼の音楽を愛し、決して忘れなかったのでした」

 その後、情熱とか芸術とかについてのコメントが続いたのだが、私は呆然としていた。なぜなら、私が読んだ「無伴奏ソナタ」はまったく違う物語だったからである。私が読んだのは、以下のような物語だ。

「未来の管理社会、人々は生まれた時から素質に見合った職業を割り当てられ、分不相応は重大な犯罪とされていた。生まれながらに音楽家の天分を見出された主人公は、幼いうちに社会から完全に隔離され、他人が作った音楽を一切聴くことを禁じられ、完全にオリジナルな音楽だけを作り、演奏し続けた。彼の音楽を聴けるのもまた、選ばれた聴衆のみだった。ある日彼は聴衆の一人に、バッハのテープを渡される。興味を惹かれた彼はテープを聴いてしまい、結果、音楽にバッハの影響が現れ、当局に知られることになる。

 法律を破った彼は、音楽活動を禁じられ、肉体労働者となる。彼は音楽から遠ざかろうとするが、音楽が彼を離してくれない。他人の音楽を奏でようとしても、それは必ず彼自身の音楽となってしまい、当局に知られることとなる。監視者がやってきて、彼に刑罰を与える。一度目はピアノを弾いて指を切り落とされ、二度目は歌を歌って声を奪われる。二度目の違反の時、監視者は彼に言う。法律は皆を幸せにするためにあるが、きみの音楽は皆を悲しくさせる。指も声も失った彼は、刑罰として彼自身が監視者の任に就かされる。何年も後、刑期を終えて街に出た彼は、人々が彼の音楽を奏で、歌っているのを知る」

「他者の影響を一切受けない、完全にオリジナルで斬新な才能」というのは、未熟な人間が抱きがちな観念だ。「無伴奏ソナタ」の管理社会が規定するところの「才能」はこの手の観念であるようなのだが、いまいち曖昧である(別にカード自身がこの観念の持ち主だと言っているわけではない)。法律違反の主旨も、他人の影響を受けて「純粋」でなくなってしまった才能を行使し続けることに対してなのか、単に音楽活動をする資格がないのに続けているからなのか、曖昧である。「きみの音楽は人を悲しくさせる」という台詞は最後のほうになって初めて出てきて、どうも後付け的だ。

 と、いまいち設定に詰めが欠けるし、指を切り落とすシーンなど、著者が嬉々として書いているのが丸わかりで辟易させられたが、なかなかおもしろく読めた。というわけでA氏が読んだのは同じタイトルの別の作品としか思えず、日を置かず再読してみたんだが、最初に読んだとおりの内容だった。18年振りに読んでみても、さすがに細部は忘れていたが、大筋は記憶どおりだった。

 読者の数だけ解釈があるというのは当然のことだが、A氏と私との食い違いは解釈以前の問題であろう。つまりどちらか一方、もしくは双方が誤読している可能性である。しかし、A氏は資格を持った学校司書である。それが誤読って……。かと言って、この私が読解力に問題ありというのも、それはそれで問題だろう。

 結局、氏は「無伴奏ソナタ」に感動したらしい、少なくとも生徒に紹介したいと思うくらいには良作だと思ったのだし、私もそれなりにおもしろい作品だと思ったのだから、それでいいじゃないか、と無理やり自分を納得させた。A氏に意見を求めたりしないだけの分別は、当時の私にもあったのである。しかし当然ながら、モヤモヤが残った。

 小説好きとしては、ある作品が読者によっておもしろかったりおもしろくなかったりするのは、あくまで嗜好の違いだと思いたい。字が読める人間が小説を読めるとは限らない、という考え方は、できればしたくないのである。というわけで、この再読によっても18年前と同じ結論を出さざるを得ず、18年経ってもモヤモヤは少しも解決できなかったのであった。

 時間がなかったんで表題作しか読めなかったんだが、収録作品はどれも結構気に入っていた。その次に読んだ長編『エンダーのゲーム』は、私のSF離れ、ひいては小説離れのきっかけになった作品だが、長編に於いてはどうしても好きになれないこの著者の数々の特徴も、短編ではそれほど鼻につかない。SF以外のジャンルだと、短編より長編のほうが断然好きなのだが、SFはやはり短編である。長編はあまり好きになれなくても、短編集は楽しめる著者が多い(というか、短編で気に入って、長編を読んでがっかりするというか)。つまり私がSFに求めているのは、物語ではないということになるのだろう。そして、SF以外の小説に求めているのは、なんだかんだ言いつつ物語である、ということになる。さらに言うなら、短編を書くのが苦手な私はSF作家として……いや、まあその。

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パンズ・ラビリンス

 ちゃんと時間までに映画館に辿り着けました。

「ダーク・ファンタジー」ということなんだが、ダークさが半端ではない。平明に解釈すれば、少女オフェリアが入り込んだお伽の国は、つらい現実から逃避するために彼女自身が生み出した空想、ということになるのだろう。だがそうであれば、せめて空想の世界くらいは明るく美しく、優しい世界であってもいいはずだ。この暗く残酷なお伽の国は、オフェリアが認識する現実の過酷さの反映なのかもしれない。彼女と母親が置かれた状況や1944年当時のスペインの混沌だけでなく、義父の残虐な行為をも彼女は薄々気づいていただろうから。

 ギジェルモ・デル・トロ(Guillermoはギジェルモでもギリェルモでもギイェルモでもいいけど、ギレルモじゃないわな)監督作品は『ヘル・ボーイ』しか観たことがない。「不気味なクリーチャー」は覚悟してたんだが、始まってすぐにでっかい虫が登場し、「しまった、監督は『クロノス』や『ミミック』の人だった」と後悔する。どっちもホラー好きの友人に観ようと誘われたが、「虫が出るから嫌」と断った過去がある。思い出すの遅すぎ。

 でかい昆虫はしばらくして妖精に変身する。およそ可愛いとも美しいとも言い難いデザインだが、とにかく虫よりはマシである。その妖精に導かれ、オフェリアは古代の遺跡の迷宮に足を踏み入れる。そこで出会った守護神パンに三つの試練を与えられるのだが、第一の試練では、泥の中をでかいダンゴムシがうぞうぞ這い回るシーンが続く。第二、第三のシーンもこの調子だったら、最後まで鑑賞し通すのは無理かもしれんと思い始める。幸いにして虫は第一の試練で終わりでした。

 現実世界の「恐怖」は、「苦痛」で表現される。苦痛と、苦痛への予感は最も端的な恐怖のかたちだ。無残な傷口を丹念に映すショットや、拷問に使われる金槌やペンチの禍々しさ。しかし壊死した脚を切り落とすシーンはまだしも、オフェリアの義父が自分の傷を自分で縫うシーンまで丁寧に映すのは、なんぼなんでもやりすぎな気がした。

 以下はネタバレ。えーと、『パンズ・ラビリンス』だけじゃなくて、『ナルニア国物語』のネタバレもあります。

 現実で死を迎えた少女は、お伽の国で「末永く幸せに暮らしました」。この結末に、否応なしに『さいごの戦い』を思い出させられた。『ナルニア』に出会ったのは7、8歳の頃である。あのシリーズで特に気に入っていたのは、現実世界を単に嫌な場所、退屈な場所とするのではなく、ナルニアへ行き、そして帰ってくることで現実を生きていく力を与えられるという点だった。当時の私が求めていたのも、まさに、「行きて帰りし」物語だったのだ。いっとき、お伽の国へ足を運ぶことで、現実を生きていくための力を得る。それを逃避と呼ぶ人もいるだろうが、子供の頃の私には、生きるためにこそ必要な行為だった。

 だから『さいごの戦い』で、「行きて帰りし」物語が、「行きっぱなしで帰らない」物語になってしまった時には愕然とした。空想と現実を往還する生き方を否定された気がした。空想をきっぱり否定して生きていくか、さもなくば死ねと言われたも同然で、本当に手酷い裏切りだった。もちろん私は死は選ばなかったわけだが、「物語」に対する不信感ははっきりと刻み付けられた(それから十年近く後に「前世自殺ごっこ」事件が起きた時には、記憶の蓋が開いて何やらいろいろ出てきたものである)。結局、その不信感を解消することができなかったために物語の受け手のままでいることができなくなって、しかし物語を捨て去ることもできなかったから、物語の創り手になったのかもしれない。

『パンズ・ラビリンス』の終盤、オフェリアは現実を捨ててお伽の国へ逃げ込もうとする。だがそのためには弟を犠牲にする必要があると告げられる。オフェリアは弟を犠牲にするより、現実に留まることを選択する。その直後に、死が訪れるのである。現実は、彼女が生きていくことを許さないほど過酷だった。それならばせめて、お伽の国で「末永く幸せに暮らし」たのだと信じたい。そうでなければ、この物語はあまりにも現実に似て残酷である。

 

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戦争と平和

 ソ連製(1967年)のほう。父が観たいというので、誕生日プレゼントに。五日間ほどかけて鑑賞。

 7時間超と聞くと凄まじく長く感じるが、本来は四部作として公開されたものだし、『ロード・オブ・ザ・リング』だって三部を合計したら軽く7時間を超える(近年の三部作ものは大概そうだろう)。そして近年のハリウッド大作に慣れた身として、鑑賞中にしばしば頭に浮かんだのは、「すげーな、これCGじゃないんだろ」という阿呆な感嘆であった。

 確かにこれはソ連という国家でしか作れない規模の作品であり、つまり文字どおり空前絶後の映画ということになる。戦闘シーンでは、しきりと「人海戦術」という言葉が脳裏を過った(遠景で立ってるだけの部隊なんかは案山子を使ってたらしいが)。そしてソ連というと大味というか無骨というか、戦車やミサイルは作れても精密機械は作れないといったイメージだが、この作品はむしろ、ぱっと見は大味でも細部は精緻の極みという、前近代のロシア工芸的である。

 残念なことにフィルムの状態があまりよくなくて、修復でもう少しどうにかならなかったものかと思う。この作品で重要なのはストーリーでも俳優たちでもない。ストーリーは至って単純だし、俳優に注目すると男優たちの目張りのくどさは笑いどころになってしまう。最も重要なのは、「光景」である。戦争に関わるすべての場面、舞踏会、そしてロシアの自然が、これでもかとばかりに延々と映し出される。それなのに画質が劣化してるんだから、もったいないことこの上ない。あと、「実験的」な映像が時々うっとうしかったりする。全体の価値を損ねるほどではないけど。音楽は多少音が割れていたりしたが、充分素晴らしい。サントラはどうも発売してないようだ。戦闘や舞踏会のオーケストラは別にいいんだが、ロシアの民族音楽や男声合唱がとにかく素晴らしい。

 原作は未読。人生やら祖国愛やら人間愛やらについてのお説教は映画版でもかなりくどいが、それでも原作より相当削られているのであろう。『戦争と平和』の「戦争」はロシア戦役すなわち祖国戦争で、映画が制作されたのは独ソ戦すなわち大祖国戦争の記憶も生々しい1950-60年代である。終盤、敗残のナポレオン軍が地平から地平まで切れ切れに続く映像のバックに、敗北前のナポレオンの勇ましい演説が虚しく流れるんだが、その音声がなんというか、映画制作時より一つ前の時代の録音ぽい感じに加工してある。口調もその当時の演説っぽいし。憶測に過ぎないんだが、ヒトラーの演説を投影してるのではなかろうか。

 で、敗軍の将兵に襲い掛かる農民たちも、ちらっと登場するわけだが、こういう「農民の怒り」みたいなのんは別に社会主義者ならずとも喜んで飛び付きそうな題材である。だけどこれって要するに、あれと一緒でしょ。落ち武者狩り。復讐という動機があるのは確かだけど、無論それだけのはずがない。ロシア軍に従軍した外国人たちの報告によると、敗走するナポレオン軍に対する農民とコサック騎兵の略奪はひどいものだったそうだ。クラウゼヴィッツは怖気を奮ってコサック騎兵をクソミソに罵倒しているし(徒歩の少人数を騎馬集団で襲って身ぐるみ剥ぐが、ちょっとでも反撃されるとすぐ逃げる)、英軍将校のロバート・ウィルソンによると農民は農民で無抵抗の捕虜を棍棒や殻棹で滅多打ちにし、「ロシア婦人は特に凶暴であった」。ソ連映画でそんな場面が描かれるはずがないとは思ってたけどね、コサック騎兵は登場すらしなかったなあ。因みに監督はウクライナ出身で、コサックの血を引いているそうだ。

『戦争と平和』原作と佐藤亜紀氏「アナトーリとぼく」の読み比べ

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