イスマイール一世は本当に「邪悪なほどに」美しかったのか? 余談
鈴木董氏の『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書)によると、サファヴィー朝ペルシアの創始者イスマイール一世(1487-1524年。1501年建国)は「彼を実見した西欧人が、「余りにも美しく、邪悪なものを感じさせるほどだ」と感嘆したこの美少年は、同時に苛烈な君主でもあった。」そうです。しかしイスマイール一世に関する日本語文献は幾つか読んできましたが、彼を「邪悪なほどに」美しかったとする記述は同書しかなかったので、本当にそうだったのか、そう評した「西欧人」とは誰だったのか調べてみました。
結論といたしましては、「日本語と英語で調べたけど一次資料も二次資料も見つからなかった」という残念なことになってしまいました(日本語でググると、イスマイールが「邪悪なほど美しいと評された」という主旨の発言がちらほら見つかります。が、典拠が挙げられているものは一つも見つけられませんでした。まあほぼ確実に上記『オスマン帝国』一点のみだと思われます)。しかし、イスマイール一世と西洋諸国との関係についていろいろ知ることができたので、「そう評した人物がいたとしたら、いつ、どんな立場でイスマイール一世に会ったのか」は一応推測することができたのでした。
今回は、調査の過程で拾った小ネタを二つ紹介します。まずはイスマイール一世の肖像画について。
イスマイールがオスマン帝国に敗北し(1524年)、西洋諸国と対オスマン同盟を結ぶ試みも頓挫した後も、西洋の民間人の間ではイスマイール人気は継続していました。論文IDENTIFICATION OF PORTRAIT FEATURES OF SHAH ISMAIL I ACCORDING TO THE 16TH CENTURY EUROPEAN SOURCES(ダウンロードはこちらからhttps://dergipark.anas.az/index.php/pac/article/view/3120)によれば、イタリアの医師・歴史家・聖職者のパオロ・ジョヴィオPaolo Giovio(1483-52)は、1551年に刊行したラテン語の伝記集Elogia virorum bellica virtute illustrium(「戦の誉れにより輝ける男たちの頌辞集」くらいの意味)で、イスマイールについて「私が知る限り、評判と名声が世界の隅々まで届いている唯一の人物である」と記しています。
ちなみにこの論文の著者Elshad Aliyevはアゼルバイジャンの人です。イスマイール一世を研究しているのは、やはりサファヴィー家のルーツがアゼルバイジャンにあるからでしょうね。
さてパオロ・ジョヴィオは肖像画コレクターとしても有名で、「ジョヴィオ・シリーズ」と呼ばれる全484点に上るコレクションは、彼の別荘に展示されていました。1552年に彼が死去すると、トスカーナ大公コジモ一世はフィレンツェの画家クリストファーノ・デル・アルティッシモに、それらの肖像画を模写するよう命じました。デル・アルティッシモは1589年までに少なくとも280点を模写し、それらは1591年、ウフィツィ美術館の前身である庁舎(uffizi=office)の回廊に展示されました。其の一で紹介したイスマイール一世の肖像画は、その一枚ですね。
コジモ一世がなぜオリジナルのジョヴィオ・シリーズを買い取らず、模写させたのか、それについて言及しているテキストは見つけられませんでした。質や画風にだいぶバラつきがあったでしょうから、統一したかったのかもしれません。模写といってもデル・アルティッシモは正確なコピーを作ったのではなく、自分の画風を取り入れているので、確かに統一感があります。
Giovio Series - wikipedia: Gallery of copies by Cristofano dell'Altissimo https://en.wikipedia.org/wiki/Giovio_Series#Gallery_of_copies_by_Cristofano_dell'Altissimo
オリジナルのコレクションはその後、大半が散逸してしまい、現存しているのはわずかで、その中にイスマイール一世はありません。オリジナルのイスマイール一世像を描いた画家について言及しているテキストは見つけられませんでしたが、その人物がイスマイール一世本人を実見した可能性は、皆無ではない、という程度でしょう。
上述のジョヴィオの伝記集は、1575年にスイスのバーゼルで出された版で初めて各人物の肖像画が挿絵として付きました。画家はスイス人のトビアス・スティンマーTobias Stimmerで、ジョヴィオ・シリーズのオリジナルを基にして描いたそうです。
つまりスティンマー(左)とデル・アルティッシモ(右)のイスマイール一世像は、同じ絵(現存せず)を基にしているというわけです(以下、画像はWikipediaから。スティンマー作品は部分)。

これら二点の模写からすると、オリジナルのイスマイール一世像は整った顔立ち、かつ紅毛白皙だったのでしょう。明らかに、其の一で紹介したイタリア人たちの目撃証言を参照していますね。ただし彼らによれば、口髭以外は剃っていたそうですが(だからオリジナルを描いた逸名画家自身がイスマイールを実見している可能性は、だいぶ低い)。
ところで『三日月(クレセント)の世紀 「大航海時代」のトルコ、イラン、インド』(那谷敏郎 新潮社)の第二章に、次のような記述があります。「今、イタリアのフィレンツェ、ウフィツィ美術館に残る、同時代のイタリア人画家によるイスマーイールの像を見ると、彼は背が高く肩幅広く端正な面貌で、赤い口髭以外はきれいに剃り頭髪は薄い。」
……すみません、どんなにググってもウフィツィ美術館所蔵のイスマイール一世肖像画は、前出デル・アルティッシモ作品しか出て来ないんですけど……これも著者御本人が情報開示してくださらない限り、解決不能な「謎」ですかね。
イスマイール一世本人を実見して描いた肖像画というのもあって、宮廷画家として彼に仕えたベフザード(ビフザード)の作品です。
ベフザードは伝統的な画風を一新し、写実的な様式を作り上げたそうで、下のダルヴィーシュ(修行者)像なんかはまさにそうですが、上のイスマイール一世像は……ちょっと……
目鼻の描き方等、まったく写実的ではありませんし、ベフザードの作品には贋作が多く、真作と断定できるのはごくわずかだそうで、その上、「繋がった眉」と「太鼓腹」は『千夜一夜』でも言及される、前近代イスラム世界の伝統的な「美の記号」です(なお男女共通)。まあだから、イスマイール一世が実際にこういう容姿だったとは思わなくていいんじゃないかと……口髭だけってのは、イタリア人の証言どおりではありますが。
小ネタその二。
Palmira Brummettの論文The Myth of Shah Ismail Safavi(グーグルスカラーhttps://scholar.google.com/?hl=jaで検索すれば、PDFがダウンロードできます) 「シャー・イスマイール・サファヴィーの神話」チャルディラーンの戦い(1524)以前のイスマイール一世と西洋諸国の関係について知ることができたという点で、たいへん貴重な資料でした。
しかしこの著者の原典資料の扱いで、気になる点が少々……
論文中何度も「カテリーノ・ゼノCaterino Zenoの報告account」が引用されるのですが、それらの出典はすべてA narrative of Italian travels in Persia, in the fifteenth and sixteen centurieshttps://archive.org/details/narrativeofitali00greyrich/page/n3/mode/2up
『15-16世紀イタリア人のペルシア旅行記集』収録のTRAVELS IN PERSIAです。
この『イタリア人のペルシア旅行記集』は、ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムジオGiovanni Battista Ramusio(1485-1557)というヴェネツィア人が編纂した旅行記集から、1873年に英国でチャールズ・グレイCharles Greyが四篇を編訳したものです。上記のイスマイール一世を実見した二人のイタリア人の旅行記も収録されています。
で、「ペルシアの旅」TRAVELS IN PERSIAの著者とされるカテリーノ・ゼノ(By Caterino Zenoと明記されている)は、1418年生まれのヴェネツィアの外交官です。1471年、当時ペルシアを支配していた白羊朝のウズン・ハサン(在位1453-78年)の許へ派遣され、73年か74年に帰国しています。
問題は、ゼノは1478年に没していることです。それが1501年のイスマイール一世によるタブリーズ(白羊朝首都)攻略を報告してるってどういうこと????
『イタリア人のペルシア旅行記集』の英語編訳者チャールズ・グレイによる序文と、イタリア語原書の編纂者ラムジオによる「ペルシアの旅」の序文に付されたグレイの注で、やや不明瞭ながら説明されています。「ペルシアの旅」はBy Caterino Zenoと明記されているにもかかわらず、実際にはゼノではなくラムジオの著作なのです。
ウズン・ハサンからイスマイール一世までのペルシア情勢の概説で二部構成、第一部(BOOK FIRST)はゼノの書簡を主な資料としていますが、第二部(BOOK SECOND)はウズン・ハサン死後を扱っているので、もうゼノはまったく関係ない。
なおゼノの書簡以外の資料については、ラムジオもグレイもまったく触れていません(私が見落としているのかもしれませんが)。
第二部はチャルディラーンの戦い(1514年)後のイスマイールとオスマン帝国のセリム二世(在位1512-20)との交渉で終わっているので、ラムジオの執筆は1520年以前ということなり、イスマイール一世の同時代資料には違いありません。が、「ゼノの報告」では絶対にない。もう死んでるんだから。
ちなみにラムジオは一貫してイスマイール贔屓です。彼が参照した資料もそうだったのでしょうね。
編訳者グレイによる序文と原書の編纂者ラムジオによる序文の注(グレイによる)を読み落としても、第一部では私(I)すなわちラムジオが、「ゼノ殿」M. Zeno(「M.」はMessereの略)の事績を語ってるので、ゼノが著者じゃないのは明白なんですけどね。おそらくPalmira Brummettは先行研究で「ペルシアの旅」中のイスマイールについての記述を知り、グレイの序文もラムジオの序文の注も第一部も無視して第二部だけ読み、しかもゼノの没年の確認すら怠ったのでしょう……
……と思いきや、「ゼノの報告」の出典として挙げているテキストの名前が、「ペルシアの旅」TRAVELS IN PERSIAでも、それが収録されている『15-16世紀イタリア人のペルシア旅行記集』A narrative of Italian travels in Persia, in the fifteenth and sixteen centuriesですらない!
Zeno, Travels to Tana and Persia, book II(ゼノ、『タナとペルシアへの旅』、第二部)とあるんですが、この『タナとペルシアへの旅』はゼノの後任のヨサファト・バルバロJosafat Barbaro(1494年没)とアンブロジオ・コンタリーニAmbrogio Contarini(1499没)の報告書で、これも1873年に英訳されたものです。
一応、A narrative of Italian travels in Persia, in the fifteenth and sixteen centuries『15-16世紀イタリア人のペルシア旅行記集』との合本版も出てますが、こちらにも「ペルシアの旅」がツェノではなくラムジオの著作だと説明している序文と注はちゃんと付いています(Googleブックスのサンプルで確認https://books.google.co.jp/books/about/Travels_to_Tana_and_Persia_and_A_Narrati.html?id=bFuUJ3u9ZWYC&redir_esc=y)。
WikipediaによればPalmira Brummettは実績ある中東史研究者だそうですが、そんな人がこんなしょうもないミスを?
それだけじゃなく、タブリーズに入城したイスマイール一世についてのペルシアの歴史家ハサン・ラムルーHasan Ramuluの記述を引用し、これをラムルーの目撃談としているんですが、彼の生年は1530または31年ですよ……
イスマイール一世についての「ペルシアの旅」の記事を、ラムジオではなくゼノの著作として引用・紹介しているのはBrummettだけではありません。ざっとググっただけでも論文やエンサイクロペディア・イラニカ、Wikipediaを含む多数の英語記事が見つかります(そしてゼノではなくラムジオの著作だとする記述は見つからない)。いや、誰もゼノの没年調べないんかい。
史学科の先生方には一回生の時点からずっと「典拠を提示しない二次資料は使うな」「提示されている典拠には必ず当たれ」と、耳に胼胝ができるほど言い聞かされてきたものです。前者はともかく後者については「原文が引用されてたら原典まで確認しなくてもいいじゃん」と最初の頃は思ってたんですが、原典に当たってみると「……あれ? 前後の文脈からすると、あの論文の解釈は違くない?」ということが、たまーにあったんで、原典確認は大事だとは解ってたんですけどね。
いやそれにしたって、これはひどいな……主要資料であるSanudoのDiariiは確認できないんだけど(イタリア語原典はネットで閲覧できますが、確認はちょっと無理……)、これも変な引用の仕方してたりしないよね……?
一抹の(どころではない)不安を抱えつつ、イスマイール一世についての記事はこれで終わります。
「テンプル騎士団とフリーメイソンの謎」 原典確認は大事だよね、って記事です。
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