『現代思想』2021年5月号 特集:「陰謀論」の時代 Ⅲ

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「文字が構築する壮大なプロット(筋書き/陰謀)」を寄稿いたしました。字数の都合で記載できなかった参考資料の補足その他についての記事その3。今回が最後です。前の2回よりは短いです。
 その1:こちら その2:こちら

 ブラザートンの『賢い人ほど騙される』もバーカンの『現代アメリカの陰謀論』も、世界を背後から操り、さらに完全支配を目指す悪の組織、という複雑で壮大な陰謀論は現代の陰謀論特有のものであるとしています。ブラザートンによればその起源は近代であり、世界支配を目論む悪の組織は「秘密結社」でした。当時は実際に、イルミナティをはじめ多くの秘密結社が創設されていました。フリーメイソンも、起源は中世かもしれませんが、英国外にも広まったのは18世紀以降です。
 しかし壮大で複雑な陰謀論(バーカンが呼ぶところの「超陰謀」論)はすでに中世に蔓延していたものであり、その起源は古代にまで遡れます。それが「悪魔崇拝妄想」です。
 唯一なる神と天使たち、そしてキリスト教徒たちから成る善の軍勢vs.魔王(サタン)と悪魔たち、そして悪魔崇拝者たちから成る悪の軍勢、という二元論的世界観はキリスト教独特のものです。キリスト教徒にとっての「他者」(異教徒、異端者、その他社会の周縁者)が「悪魔崇拝者」である、と妄想されました。あくまで妄想です。

 というわけで「悪魔崇拝妄想」(という言葉は用いられていませんが)についての中心的資料が、ノーマン・コーンの『魔女狩りの社会史』(岩波書店)。
 神と天使(善霊)の軍勢vs.魔王と悪魔(悪霊)の軍勢、という構図はゾロアスター教からの借り物で、救世主や最後の審判といった概念も同様です。このゾロアスター教からの影響や、ユダヤ・キリスト教における「悪魔」の概念の発達については同じくコーンの『千年王国の追求』(紀伊國屋書店)、ユーリ・ストヤノフ『ヨーロッパ異端の源流』(平凡社)。ゾロアスター教自体、およびそのユダヤ・キリスト教への影響については青木健『ゾロアスター教史』(刀水書房)。

 ユダヤ・キリスト教における「悪魔」像の形成については、ほかにジェフリー・バートン・ラッセル『悪魔の系譜』(青土社)とジョルジュ・ミノワ『悪魔の文化史』(白水社)も主要な参考資料ではあるんですが、両書とも全体に細かい誤情報だらけだし、何より「悪霊」と「デーモン」という語の使い方が滅茶苦茶なので、聖書原文(ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語および近現代の英語版)で「悪魔」「サタン」「悪霊」等の語が使われている箇所を自力で読む羽目になりました。やりたくてやったわけではなく、英語の注釈の助けを借りればどうにか読めたので、読める以上は読まないわけにはいかず……

 その結果をまとめたのが、『トーキングヘッズ叢書』№84に寄稿した「乱反射する悪魔崇拝(サタニズム)」です。今回もこの時得た知識を基に執筆しましたが、観点が異なるので流用とかではありません。
 今回は新たにエレーヌ・ペイゲルス『悪魔の起源』(青土社)も読みましたが、ユダヤ教における「悪魔」の概念の形成と、キリスト教によるその継承の流れは、これまでの知見とおおむね合致します。それ以上に著者が重視しているのはグノーシスから影響ですが、グノーシスはどの学説が妥当なのかも判断がつかないんで苦手です……。だからペイゲルスの見解についても同じく。

 悪魔崇拝妄想は、キリスト教と教会の影響力の低下とともに下火になりました。「悪魔崇拝者」に代わって「秘密結社」が陰謀論の主役(悪の首魁)とされましたが、その背景にあった(現実における)秘密結社の流行は、キリスト教と教会の代替物を人々(主にエリート)が求めたためでしょうね。
 そして1980年代にカウンターカルチャーへの反動として、米国を中心に悪魔崇拝妄想が復活しましたが、これはバーカンの言う「超陰謀」論の隆盛と軌を一にしています。両者が完全に融合したのがQアノンなわけで、だから悪魔崇拝妄想の伝統のない日本社会に持ち込まれた彼らの陰謀論は、どうしたって要素の切り取りにしかならない。それだけでも充分すぎるほど有害ですが。

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「トーキングヘッズ叢書」№84「悪の方程式~善を疑え!」(2020年10月28日発売)

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寄稿「乱反射する悪魔崇拝」の補足記事
その1:イスラム原理主義者がヤズィーディー(ヤズィード派)を「悪魔崇拝者」と見做すのは欧米キリスト教からの影響ではないか、という仮説の検証
その2:「悪魔崇拝」という概念がなぜ妄想に過ぎないか、という解説
その3:上記『悪魔の系譜』と『悪魔の文化史』へのツッコミ

前回の記事
前々回の記事

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『現代思想』2021年5月号 特集:「陰謀論」の時代 Ⅱ

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「文字が構築する壮大なプロット(筋書き/陰謀)」を寄稿いたしました。字数の都合で記載できなかった参考資料の補足その他についての記事その2。その1はこちら

 W・J・オング『声の文化と文字の文化』(藤原書店)は、物語論についての最も包括的な資料として参考にしました。拙稿でミステリとか推理小説ではなく「探偵小説」としているのは、同書に倣っています。原文だとdetective storyですね(ということもググるだけで判るんで便利なもんです)。日本語の「探偵小説」は少々古めかしい印象ですが、英語圏では現在でも日本で言うところの「ミステリ」はdetective storyとかdetective fictionと呼ぶのが一般的なようです。
 敢えて「探偵小説」とした理由はそれだけでなく、陰謀論者を探偵に、陰謀論の手法を探偵小説の技法に擬えたからでもあります。広義の「ミステリ」だと探偵役が登場するとは限らないし、謎が解かれるとも限りませんから。
 無条件で
「最初の探偵小説」と呼べるのは、『声の文化と文字の文化』でもそう名指されているポーの「モルグ街の殺人」(1841)ですが、結末から逆算して全体を構想するという技法を最初に意識的に用いた小説はウィリアム・ゴドウィンの『ケイレブ・ウィリアムズ』(1794)です。ポーはその技法を借りて探偵小説というジャンルを創造したわけです。
『ケイレブ・ウィリアムズ』は岡照雄氏による訳が国書刊行会と白水社から出ています。私が読んだのは前者で、後者は改訳とかではなく復刊のようですね。上記の理由から探偵小説の源流とも呼ばれていますが、作品自体は謎解き要素は薄く、探偵小説ではありません。とは言え、広義のミステリではあります。

 ところでSF者としてはミステリをSFと隣り合って重なり合う部分もあるジャンルだと認識しているので、SFの源流を生み出したメアリ・シェリーの父親がミステリの源流の生みの親だと聞くと、何やらロマンを感じてしまうのですが、間違いなくミステリ者の9割9分9厘(いや、もっとかも)はSFをそのように認識していないので、メアリとウィリアムの関係についてもなんとも思わないんだろうなあ。

『声の文化と文字の文化』は物語の歴史(声の文化における物語と文字の文化における物語の違い、文字の文化における物語の発展史など)についてだけでなく、声の文化と文字の文化それぞれにおけるヒトの認知スタイルの違いについても詳細に解説しています。
 この「記録媒体の変化による認知スタイルの変化」は、実にSF的なテーマでもあります。
テッド・チャンの『息吹』(早川書房)所収の「偽りのない事実、偽りのない気持ち」は、まさに『声の文化と文字の文化』を種本に、このテーマを正面から描いています。作中作としてアフリカのある部族のエピソードが描かれていますが、これは同書で紹介されている史実です。客観的で簡潔な記録が、一人称の小説としてどう描かれているか(しかもこの作中作の「作者」はチャン自身でも「語り手」の少年でもなく、近未来アメリカの科学ライターという設定)、読み比べてみるのも一興でしょう。
 実はチャンの前作『あなたの人生の物語』(早川書房)は、所収作品のどれもピンと来ず、だから『息吹』は出てすぐではなく、偶々、今回の寄稿のゲラチェックが済んだ直後に読んだのでした。『息吹』の所収作品はどれもたいへん素晴らしく、しかも「偽りのない事実、偽りのない気持ち」は私にとっては実にタイムリーで、喜びも1.5倍という感じでした。

『声の文化と文字の文化』の補足的な資料としては、黙読についてがアルベルト・マングェル『読書の歴史』(柏書房)の「黙読する人々」の章(章番号なし)。「声の文化」と「文字の文化」の認知スタイルの違いについての研究報告が、『声の文化と文字の文化』でも紹介されているA・ルリヤ『認識の史的発達』(明治図書出版)。
 中東における読書の歴史については、ロバート・アーウィン『必携アラビアン・ナイト』(平凡社)、小杉泰ほか『イスラーム書物の歴史』(名古屋大学出版会)、林佳世子ほか『記録と表象』(東京大学出版会)、ジョナサン・バーキー『イスラームの形成』(慶応義塾大学出版会)、湯川武『イスラーム社会における知の伝達』(山川出版社)、岡崎桂二「アラブ文学における論争ジャンル」(『四天王寺大学紀要』第48号)、「アダブ考」(『四天王寺大学紀要』第51号)、小林泰『イスラームとは何か』(講談社)、谷口淳一『聖なる学問、俗なる人生』(山川出版社)その他多数。
 あと、ローター・ミュラー『メディアとしての紙の文化史』(東洋書林)は中東と西洋両方の読書史を扱っています。

 イスラム世界では伝統的に、『千夜一夜』のような娯楽作品は知識人が読むべきではないと蔑まれてきましたが(だから散文のフィクションが発達しなかった)、それ以外のほとんどの書物を読むことは「学問」と見做されました。だからイスラム世界の読書史は9割方、学問史だと言えます。
 イスラム以前のアラブは識字率が非常に低く、ムハンマド自身も文盲だったという伝承があります。知識はすべて口伝でした。それにもかかわらず彼は文字記録の重要性をよく理解しており、生前から啓示(クルアーン)を書き留めさせていました。それでも伝統的な記録媒体である生身の人間による暗記が主流だったのですが、632年のムハンマドの死後間もなく、暗記者たちがどんどん戦死していったため、危機感を抱いたムハンマドの代理人(カリフ)がクルアーンの編纂を行い、650年頃には書物として完成しました。
 そもそも「クルアーン」とは「読誦(音読)されるもの」という意味で、神の言葉を書き留めた書物(クルアーンの「原型」)が天に在って、天使ジブリール(ガブリエル)がそれをムハンマドに読み聞かせている、それが啓示(神の言葉)である、という「設定」なのでした。
 こうしてイスラムは「啓典の民」(神の言葉を記した書物=啓典を持つ宗教)の仲間入りを果たしましたが、アラブの伝統は根強く、またクルアーンを特別視する余り、その後も長らく学問は口伝と暗記のみでした。それでも8世紀頃からようやくアラビア語の書物が数多く書かれるようになり、またギリシアの学術書などの翻訳も進みました。9世紀頃には書物を中心とした学問方式が成立し、以後、伝統となりました。

 しかし口伝と暗記の伝統はなおも根強く、「学問」とは教師の指導の下、1冊の書物をまず全編読誦(音読)できるようになってから初めて、内容の講釈を受け、最後に読誦も理解もできていることを確認した教師が「読誦証明」を発行する、というものでした。ある書物の「読誦証明」を持っているということは、その書物について講義する資格を持っているということです。
 最初の全編読誦の過程で書物の書写もしますから、読誦証明はその完成した写本に書き込まれました。読誦証明入りの書物(写本)をたくさん持っているほど、博識だということになります。

 読誦証明はイスラム独自の文化ですが、「まず書物を読誦できるようになってから初めて講釈を受ける」という学問方式は、前近代の日本を含む東アジア、それにインドでも主流でしたし、西洋でも少なくとも中世まではそうでした。
 師の指導なしに本を読むことは、独自の解釈をして異端に走りかねないとして、イスラム圏でもキリスト教圏でも非常に警戒されました(異端への警戒が薄かった東アジアやインドではどうだったか知りませんが)。したがって
書物の内容を「理解する」とは、上記のとおり師の講釈を鵜吞みにすることで、知の伝達とは師に教わったことをそのまま次の弟子に伝えることでした。
 このような学問方式が停滞・衰退し形骸化するとどうなるかは、ウズベキスタンの作家サドリーディン・アイニ(1878‐1954)の自伝『ブハラ ある革命芸術家の回想』(未来社)に詳しいです。
 アイニが生まれ育ったブハラはかつて、イスラム世界屈指の「学問の都」でした。アイニはイスラムの伝統的な初等教育機関であるモスク付属の小学校で初等教育を受け、次いで近隣に住む学者(宗教指導者でもあるので邦訳では「回教僧」となっている)の個人指導を受け、12歳でブハラの高等教育機関である神学校に入学します。
 小学校から神学校まで、アイニが受けた「授業」は適当な書物(小学校では詩集など)を教科書とし、それを「読む」のではなく「見」ながら、教師が音読するのに続いて繰り返すだけ、というもので、その次の段階として行われるはずの内容の講釈は一切行われませんでした。したがって生徒たちは教科書を「読める」ようになっても内容は理解しておらず、それは神学校の教師の大半でさえ同様でした。
 しかも一文字ずつ、一単語ずつ、一文ずつの読み方は習わないので、教科書は暗記した文章を思い出すための「補助」の道具に過ぎず、ほとんどの生徒は「教科書」以外の書物どころか、どんなに簡単な文章はおろか単語でさえ読めるようにはなりませんでした。まあ文字というのは本来、すでに知っている事柄を思い出すための補助手段として発明されたわけですが。
「書く」ほうは小学校でも個人授業でも、もちろん神学校でもカリキュラムはなく、その知識のある人を探して教わらない限り、一生書けないままでした。教わる場合も、たいていは手本を書写するだけなので、オリジナルの文章はどんな簡単なものでも書けるようにはなりませんでした。アイニがこの文化的退行に陥らずに済んだのは、幼い頃から詩作をしていたお陰でした。

 アイニは「体制側」の作家なので、ブハラの学問水準の低さは多少なりとも誇張されているでしょう。しかしイスラムの伝統的な学問方式からして、その「成れの果て」としてのブハラの状況は充分あり得ます。おおむねは事実だと考えられます。
 これは末期的な例ですが、実際のところ多くの前近代社会や中世西洋における「下層の知識人」のレベルはこのようなものだったのではないでしょうか。これでは
自分の考えをまとめ上げ、書き留めるなど到底不可能であり、複雑で壮大な陰謀論の蔓延という現象は、文字の文化が相当発達し浸透した社会で初めて起こり得るのでした。

 最後の資料『魔女狩りの社会史』については次回

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『現代思想』2021年5月号 特集:「陰謀論」の時代 Ⅰ

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 本日発売です。「文字が構築する壮大なプロット(筋書き/陰謀)」を寄稿いたしました。

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 先日の記事にも書きましたが、この特集企画に参加させていただいたのは連作集『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の表題作が陰謀論を扱っているということで改めて(多少の)注目をいだたいているのがきっかけです。
 その注目のきっかけは昨年、『2010年代SF傑作選1』に収録していただいたことです。アンソロジーというのは、埋もれがちな作家である私の作品を新たな読者の方々に知っていただく好機となるので、本当にありがたいですね。

 さて、この記事では『現代思想』本誌では字数の都合上、一部しか記載できなかった参考文献について述べたいと思います。拙稿では陰謀論について認知科学、物語論、歴史の3つの観点から論じているので、それぞれの分野の参考文献から最も包括的なものを1点ずつ、計3点を末尾に付記いたしました。
 ロブ・ブラザートン『賢い人ほど騙される』(ダイヤモンド社)は、原書は2015年刊ですが邦訳は昨年。明らかにQアノン騒動に乗っかった帯の煽り(「悪用厳禁。」「陰謀論にハマる仕組みとその手口を暴く。」等々)は気にしないでください、良書です。
Qアノンの直接の起源を「ピザゲート」とすると、それが2016年のことですから、本書(原書)はその前夜のアメリカの状況を分析したものとなります。
 陰謀論を含めた「認知の歪み」には、ずっと以前から関心を持ってきました。
それが『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』を含む〈HISTORIA〉シリーズのテーマである「ヒトの暴力」の一因であるからです。認知の歪みを扱った資料は日本語のものだけでも大量にありますが、陰謀論と直接結びつけており、かつ最も包括的なのが『賢い人ほど騙される』です。それ以外で今回参考にした資料のうち主なものを挙げますと、
 テレンス・W・ディーコン『ヒトはいかにして人となったか』(新曜社)
 ジョン・ホーガン『科学を捨て、神秘へと向かう理性』(徳間書店)
 マーガレット・ヘファーソン『見て見ぬふりをする社会』(河出書房新社)
 クリストファー・チャプリス/ダニエル・シモンズ『錯覚の科学』(文藝春秋)
 ダンカン・ワッツ『偶然の科学』(早川書房)
 ジェシー・ベリング『ヒトはなぜ神を信じるのか』(化学同人)
 ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(早川書房)
 パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか』(NTT出版)
 ダニエル・ギルバート『幸せはいつもちょっと先にある』(早川書房)
 ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』(白揚社)

 ……てなとこですかね。認知科学関連以外だと、
 デイヴィッド・J・ハンド『「偶然」の統計学』(早川書房)
 セス・C・カリッチマン『エイズを弄ぶ人々』(化学同人)
 ジェームズ・ロバート・ブラウン『なぜ科学を語ってすれ違うのか』(みすず書房)

 人文社会寄りの資料では、陰謀論を産み育てる土壌を読み解くヒントとなったのが、
 ヤン・ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』(岩波書店)
 イアン・ブルマ/アヴィシャイ・マルガリート『反西洋思想』(新潮社)

 上記2点はアメリカだけ、もしくは欧米だけに限らない世界共通の思潮を扱っていますが、「その建国精神からしてファナティックな、特異な人工国家」という観点でアメリカを論じたのが、
 鈴木透『性と暴力のアメリカ』(中央公論新社)
 森孝一『宗教からよむ「アメリカ」』(講談社)

 ただし前者は新書、後者も比較的コンパクトな分量ですし、もう少し最近の資料も欲しいな、と探して見つけたのがカート・アンダーセン『ファンタジーランド』(東京経済新報社)。上下巻合わせて800頁超、評判も上々、ということで読み始めたんですけどね。
 作者は本業が小説家だそうで、そのせいなのか曖昧な文学的(?)表現が多い一方、事件がいつ起きたかなどを含め具体的な数値データが少ない。資料として使えないので、いちいちググって補足せざるを得ない。そうして明らかになったのが、この本に史実として記されている情報そのものが誤りだらけということで、いや全6部のうち第1部だけでそのありさまだったんで途中放棄。

 興味があるのは陰謀論の心性であって陰謀論そのものではないので、陰謀論者の著作はもちろん、陰謀論を客観的に研究した資料も、これまで読んだことはありませんでした。上記の「認知の歪み」に関する資料のほか、疑似科学関連の本(客観的な研究書)などでも陰謀論はかなり取り上げているんで。
『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「はじまりと終わりの世界樹」でも陰謀論は扱いましたが、この時もヨーゼフ・メンゲレをはじめとするナチの逃亡犯に関する資料の幾つかがナチ関連の陰謀論についても紙幅を割いていたので、特に陰謀論に絞って調べる必要はなかったのでした。
 しかし今回の寄稿に当たって、さすがにそれだけで済ますわけにはいかんな、と陰謀論研究の資料を探してみたんですが。

 最初からあまり期待はしていなかったんですが、やはり個別の陰謀論(『シオン賢者の議定書』関連とか)はともかく、陰謀論全般についてまともに研究している資料はほとんどない。少なくとも日本語のものは少ない。欧米ではかなり出ているようなんですけどね。
 とりあえず最も包括的な陰謀論研究資料は、マイケル・バーカン『現代アメリカの陰謀論』(三一書房)。テーマはタイトルどおりではありますが、それらの源流である近代欧米の陰謀論も扱っています。ただし翻訳がいろいろと、その……
 1点だけ挙げると、第8章で取り上げている「出生地主義」。同書の中では、19世紀米国の排外主義と定義されていますが、「出生地主義」でググると、jus soliの訳語で、国籍付与を字義どおり出生地に基づいて行う方式のことであり、トランプ元大統領がこれを廃止しようとしたことからも明らかなように、排外主義とは真逆のものですね。
 どういうこっちゃ、と混乱しましたが、この定義と一緒に歴史家ジョン・ハイアムの言が引用されていたので、ジョン・ハイアムについて英語でググって、ようやくnativismの誤訳だと判明。ネイティヴィズムに定訳はないようですが、「出生地主義」と訳されることがまずないのは確かです。こういうのが一つだけじゃないんで、まさか陰謀論を否定するこの本の信頼性を落とすために……? と思わず陰謀を疑ってしまいます。

 いや、私に英書1冊スラスラ読めるだけの英語力があれば、邦訳のお世話にならずに済むんですけどね。努力はしてるんですよ……まあこれについては、ただでさえ語学の才能がないくせに多言語マニアなので、その乏しいリソースを十数ヵ国語に分配しているせいだ、ということにしています。

 ところで昨年、『トーキングヘッズ叢書』№84に寄稿した「乱反射する悪魔崇拝」でテンプル騎士団の壊滅に言及したんですが、壊滅後のテンプル騎士団の毀誉褒貶についてあれこれ調べていったら、フリーメイソンの起源をテンプル騎士団だとした最初の文書をフランス語原文で読む羽目になりまして。そのついでに判明したのが、このネットで無料で公開されていて、特に難解でもない(フランス語の初歩しか知らない私でも辞書と文法書頼りにどうにか訳せるレベル)短い文書をまともに読んでいる人は日本語圏、英語圏、それどころかフランス語圏でもほとんどいないらしい、ということでした。
 いや、私が盛大に誤読している可能性はありますが、少なくともこの文書への、ネット上における日本語、英語、フランス語による言及で、原典を読んだ上でのものだとはっきり判るものは見当たらなかったんで。ちょっとでも「そっち側」に足を踏み入れた人たちは、二次、三次、……n次資料は熱心に読み込んでるようなのに、なんで原典には当たらないんだろうなあ。
 どれがどうとかは言いませんが、陰謀論研究書がまともかどうかを見分けるのに、この文書周りの知識が役に立ったのでした。

 長くなったので続きます。

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関連記事
「テンプル騎士団とフリーメイソンの謎」
「なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか Ⅰ」『トーキングヘッズ叢書』№76に寄稿した「イスラムの堕天使たち」の解説ですが、後半に今回の寄稿でも紹介している「魂を屠る者」のレビューがあります。わりとくそみそ。なお「魂を屠る者」は『黄衣の王』(東京創元社)所収です。
「HISTORIAシリーズ設定集コンテンツ」自作解説(の目次ページ)

 

 

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「乱反射するサタニズム」補足 Ⅲ

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「トーキングヘッズ叢書」№84「悪の方程式~善を疑え!」(2020年10月28日発売)

 エッセイ「乱反射する悪魔主義(サタニズム)」を寄稿させていただきました。「悪魔崇拝」を宗教・信仰ではなく「妄想」と定義し、そのような妄想がどのように成立し発展したかを考察しました。

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 今回は少々多めに書かせていただきました。3部構成で、第1・2部では「悪魔崇拝という妄想」について、第3部では欧米キリスト教徒によるこの妄想が、クルディスタンのヤズィーディーにもたらした惨禍について書きました。

補足記事Ⅰ
補足記事Ⅱ

 というわけで続きです。
 西洋キリスト教(カトリックとプロテスタント)における「悪魔」像がどのように形成されたかについては、ジェフリー・バートン・ラッセルの『悪魔の系譜』(青土社 原書は1988年刊)とジョルジュ・ミノワの『悪魔の文化史』(白水社 原書は2000年刊)を参照しました。
 ただし両書の見解に依拠したというよりは、それらを基にいろいろ調べた結果といいますか。

 ミノワの『悪魔の文化史』は、実体のある宗教・信仰としての「悪魔崇拝(サタニズム)」は存在しなかった、という立場を取っています。ラッセルは初期の著作(未読)では、少なくとも古代においては実体があったと論じているらしいですが、『悪魔の系譜』においてはそのような見解は見られませんでした。
『悪魔の文化史』には参考文献としてラッセルの「5部作」が挙げられています。悪魔についての5冊の論考で、すべて邦訳が出ています。でもなぜか最初の4冊は邦訳があることが邦題とともに付記されてるのに、最後の『悪魔の系譜』については『悪魔の文化史』の邦訳が出た2002年より12年も前に邦訳が出てるのに未邦訳扱いになってます。

 ラッセルの著作は『悪魔の系譜』しか読んでいないのですが、ミノワがだいぶ依拠しているのが判ります。依拠を通り越して、そのまま引き写してるような部分も散見されます……たとえば、プラトンが「悪の非在」論なるものを唱えたとした上で「チーズの穴」に喩えた「非在」の説明など、まんま『悪魔の系譜』の引き写しですが、この箇所でラッセルの名やその著書は挙げられていません。まあ「チーズの穴」の喩えはラッセルのオリジナルじゃないかもしれませんけどね。
 ほかにも『悪魔の文化史』が非キリスト教の神話に見られる「対立する善と悪」の例として、「エジプト神話の兄弟神セトとホルスの闘い」を挙げているのも『悪魔の系譜』に拠っていますね。
 ホルスはセトの甥だとしか私は知らなかったし、訳者の平野隆文氏もわざわざ註を設けて、ミノワの勘違いだろうと述べちゃってますが、ググってみたところ、初期には確かに兄弟神だとされていたそうです。後にオシリス神話に組み込まれたことで、セトがオシリスを殺し、オシリスの息子ホルスが仇討ちをしたことになったと。セトと兄弟だった古いヴァージョンのホルスは、「大ホルス」(英語はHorus the elder)と呼んで区別するそうです。
 いずれにせよ英語圏でもマイナーな神話なのは変わらないようですが、ラッセルが『悪魔の系譜』でメジャーな神話であるかのように述べているんで、たぶんミノワもそのまま……

 そうかと思えば、ミノワは西洋では9世紀までは悪魔を醜く描くことはなかったと主張しているんですが、これだけ依拠している『悪魔の系譜』にはそれよりも古い時代に描かれた醜い悪魔の絵が2点掲載されている。
 ただしうち1点は、同書のキャプチャには世紀初頭のシュトゥットガルドの福音書」の挿絵とありますが、英語とドイツ語でググった限りでは、シュトゥットガルトには確かにその挿絵が描かれた9世紀初頭の聖書写本があるものの、福音書ではなく「詩編」だそうです……どっちもどっちと言いましょうか。

 両書とも最初から最後まで、そういう「ん?」と引っ掛かる箇所がボロボロ出てくるんで、興味を惹かれた「西洋キリスト教における悪魔像の形成過程」論も、どこまで信用していいんだか判らない。
 幸いにして両書とも、典拠とする聖書(ユダヤ教およびキリスト教)の記述については、「創世記」とか「マタイによる福音書」といった書名、章、節までおおむね付記してくれているので、原文が確認できました。ユダヤ教聖書(いわゆる「旧約聖書」)古典ヘブライ語原文と七十人訳(古典ギリシア語)原文とウルガタ訳(ラテン語)原文と、ついでに英語の欽定訳(1611年版)と近現代の訳いろいろが。

 それらの原文を無料公開している英語の聖書研究サイトが幾つもあるんですよ。書名と第○章第○節とを英語で検索すると、その箇所の英訳が欽定訳から近現代版までまとめて出てくるし、「ヘブライ語」/「七十人訳 ギリシア語」/「ウルガタ訳 ラテン語」と付け加えれば各ヴァージョンが出てくる。『悪魔の系譜』や『悪魔の文化史』に書名等が明記されていない聖書の記述でも、適切なキーワード(英語)さえ選択できれば、割と簡単に見つかる。
 古典ヘブライ語、古典ギリシア語、ラテン語は初歩を独学で齧っただけですが、正典のヘブライ語版とギリシア語版は英語の注釈付きで、そうでないものも英訳が見つけられたのでだいぶ参考になり、後は辞書と文法書でなんとかなりました(各言語の辞書も手持ちの初級者向けよりも、英語のオンライン辞書が遥かに詳しくて役に立ちました)。
 いや、すごいですね。居ながらにしてこれだけのことが調べられるって。それだけ欧米では聖書研究が盛ん、かつこうした情報への需要が大きいということでしょう。その割には、キリスト教文化で育ったのに日本のオタクより聖書の知識がない欧米人は多いようですが。

 その結果、やはり両書とも細かい「ん?」が幾つも見つかりました。特に正典はともかく、外典・偽典については「いや、それは違うだろう」という記述が多い。なお偽典は英訳か英語による要約しか見つけられませんでした。まあどのみちゲエズ語やアラム語だったら、まったく解りませんが。
 そういうのはとりあえずさて措き、最も大きな問題は「デーモン/悪霊」でした。

『悪魔の系譜』でも、それに大いに依拠している『悪魔の文化史』でも、「西洋キリスト教における悪魔像の形成過程」を論ずるのに、「デーモン/悪霊」というものを全然重視していません。しかし両書とも全体を通して、この語を多用している。にもかかわらず、そもそも「デーモン」「悪霊」(と邦訳されている語)の定義を行っていない。
「悪霊」と訳されている語は原文(『悪魔の系譜』なら英語、『悪魔の文化史』なら仏語)ではどう書かれているか解りませんが、両書ともまともに使い分けていない。
 そういうわけで聖書原典ではどうなんだろうと気になって調べた結果が、拙稿の第1部なのでした。「西洋キリスト教における悪魔像の形成過程」の調査として、「デーモン」「悪霊」「神の使い(天使)」「神の息子たち」「サタン」といった用語が、古典ヘブライ語、古典ギリシア語、ラテン語、英語(欽定訳および近現代版)の各聖書の原文ではどうなっているかを片っ端から調べるという方法に行き着くことができたのは、『悪魔の系譜』と『悪魔の文化史』のお蔭ですけどね。資料として他人様にお勧めは、まあできませんね。

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「乱反射するサタニズム」補足 Ⅱ

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「トーキングヘッズ叢書」№84「悪の方程式~善を疑え!」(2020年10月28日発売)

 エッセイ「乱反射する悪魔主義(サタニズム)」を寄稿させていただきました。「悪魔崇拝」を宗教・信仰ではなく「妄想」と定義し、そのような妄想がどのように成立し発展したかを考察しました。

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 今回は少々多めに書かせていただきました。3部構成で、第1・2部では「悪魔崇拝という妄想」について、第3部では欧米キリスト教徒によるこの妄想が、クルディスタンのヤズィーディーにもたらした惨禍について書きました。
 先にこの第3部についての補足記事を上げております。

 というわけで主に第1・2部についての補足です。
 悪魔崇拝(サタニズム)が実体のある宗教・信仰ではなく妄想である、と私が断じる理由は二つあって、まず古代から現代に至るまで、悪魔崇拝者と名指された個人や集団が実行しているとされた「教」や「儀式」が判で押したように同じ、すなわち人身供犠(主に幼児を捧げる)、その犠牲者を食すカニバリズム、近親相姦や男性同性愛を含む乱交、そして秩序壊乱の陰謀の4本立てだからです。
「悪魔崇拝者」はすべてこの4本立てを実行している(とされる)、だから彼らは一つの組織なのだ、という理屈になりますが、もちろん事実は逆で、「敵=悪」の根源は一つであってほしい、という願望と、「他者」の多様性を許さない不寛容とが根底にあります。
 この4本立ての「妄想」については、ノーマン・コーンの『魔女狩りの社会史』(岩波書店)に依拠しています。

 ところで今回の拙稿では「魔女狩り」には一切言及しませんでした。魔女狩りについての文献の多くは、「魔女狩りと異端審問の違い」を強調しています。確かに両者は時代もシステムは異なりますが、「魔女」と「異端者」と目された人々に掛けられた嫌疑は、「秩序壊乱を目論み、殺人と食人と乱交の宴に耽る悪魔崇拝者」ということで共通しています。なので論旨を簡潔にするためにも、両者の違いには触れませんでした。
 まあ私も、「中世の魔女狩り」とか言われたらイラッとしますけどね。

「秩序壊乱を目論み、殺人と食人と乱交の宴に耽る邪悪なカルト」という紋切型は、前2世紀初めのローマで流行したバックス(バッカス)教にかけられた嫌疑にまで遡ります。同じ紋切型がユダヤ教、次いでキリスト教に適応され、その後、キリスト教がマジョリティになると、今度は彼らが「異教徒」や「異端者」に対して同じことをするわけでです。
 したがってキリスト教徒はローマの異教徒たちの妄想を直接継承したと言えますが、似たような妄想は多くの文化に存在してきました。

 たとえばユダヤ教では「モロク」(モレク)が有名です。ユダヤ教聖書(いわゆる旧約聖書)では人身供犠が行われる異教の神とされますが、この名はヘブライ語で「王」を意味する「マリク」を侮蔑の意図で母音を変えた語で、特定の神を指すのではなく異教の神々(の主神)全般を貶める呼称です。
 古代の中東~地中海世界で人身供犠を行う宗教は一応ありましたが(たとえばずっと後代のキリスト教徒が「モロク」と同一視することになるフェニキアの主神)、イスラエル周辺の非ユダヤ人がそのような神を信じていたという証拠はありません。ユダヤ教聖書には「モロク」のほかにも、異教の神に人身供犠が行われているという記述が散見されますが、すべて事実無根の中傷だという可能性もあるわけです。
 また「男性同性愛や近親相姦を含む乱交」すなわち性的逸脱についてはソドムとゴモラにその罪が着せられています。ソドムの住民たちは天使(ヘブライ語では男性形)をレイプしようとし、ロトの娘たちはソドム育ちだったせいか、ロトを酔わせて近親姦を行いました。生まれた2人の息子はそれぞれイスラエル人と敵対する民族の祖になった、とされています。

 東アジアの事例だと、キリスト教の聖餐を曲解して食人儀礼だと中傷したりとか。また特定の宗派が性的逸脱の廉で非難・迫害されることは、中国や日本でもありました。道教の房中術とか密教のタントラといった根拠にし得るものがあるんで、まったくの冤罪との見極めが困難ですが。
 日本で「淫祠邪教」が「秩序壊乱を目論み、乱交の宴に耽る邪悪なカルト」を指すようになったのは、江戸時代の真言立川流からですかね。「淫祠邪教」の「淫」は元来、「邪」と同じような意味です。

 ゾロアスター教では、5世紀末に現れた宗教改革者マズダクとその信徒が、財産ならびに女性の共有を行っている、と記録されています。
 マズダク教を迫害した側からの記録であるにもかかわらず、現在でも多くの研究者がなんの疑問もなく「財産ならびに女性の共有」がマズダク教の教義だったと述べています。しかし歴史を鑑みるに、「財産の共有」はともかく「女性の共有」は例の紋切型であったかもしれません。

 イスラムはこのゾロアスター教によるマズダク教像を受け継ぎ、これがイスラムにとっての異教徒・異端者像の典型となりました。拙稿のイスラムにおける異教徒・異端者像の紋切型の紹介は、主に『統治の書』(岩波書店)に拠っています。
 この書はタイトルどおり理想の統治者の在り方を説くもので、セルジューク朝の宰相ニザーム・アルムルク(1092没)によって書かれました。ただし第44章以降は彼が異教・異端と見做した人々への憎悪に満ちた陰謀論が展開されています。

 まず第44章でマズダク教を取り上げていますが、マズダクとその信徒たちを騙し討ちで殲滅した王子ホスロー(後のホスロー1世。在位539-571。もちろんゾロアスター教徒)を称讃し、また彼に協力したゾロアスター教大神官は占星術によって「アラブ人の預言者」(つまりムハンマド)の出現を予測したと述べています。
 セルジューク朝の支配者はトルコ系ですが、領土は中央アジアからペルシア東部で、当時の住民はほぼペルシア系で公用語もペルシア語。『統治の書』もペルシア語で書かれ、ニザーム自身もペルシア系です。ペルシア人はイスラム化以後も、ホスロー1世を理想の帝王として尊敬していたので、彼の信仰を全面否定するわけにもいかず、上記のように「まだムハンマドが生まれる前だったから、間違った宗教を信じていたのも仕方がないのだ」というように弁明していたのでした。

 続いて第45章では、マズダクの妻ホッラムがペルシア東部に逃亡し、そこでマズダク教を広めたことが述べられます。以後、マズダク教はホッラム教と呼ばれるようになったそうです。
 ホッラムという女性が実在したかもわかりません。敵勢力(宗教とか国家とか)の創立などへの女性の貢献の大きさを強調するのは、古典的な誹謗の一例です。

 そして初期イスラム時代から著者ニザームの時代までに出現した異端宗派(主にシーア派系だが無関係な宗派もある)および異端とは無関係な反乱は、すべてホッラム教から派生したことにされています。マズダク教を誅した「正しい」ゾロアスター教ですら、いつの間にかホッラム(=マズダク)教と同一視されています。イスラム成立以前のゾロアスター教徒なら擁護のしようがあるが、イスラム以後のゾロアスター教にはない、ということなのでしょう。

 ニザームによれば、「バーティン派(シーア派の分派イスマイール派のさらに過激な一派のことだが、著者は異教・異端全般の呼称として使う)の者たちは、叛乱を起こすごとにいろいろな呼び名や通称で呼ばれた。それゆえ町や地域によって彼らを違う名で呼ぶのだが、その実態はすべて同一である。(……)彼らすべての目的は、どうにかしてイスラームを転覆させ、人々に道を踏み外させ迷わせようとすることなのである」だそうです。そしてもちろん彼らは、飲酒や偶像崇拝、近親相姦を含む乱交といった悪行に耽るのでした。
 多種多様に見える「敵」は裏ですべて繋がっている、根本は一つである、というのは典型的な陰謀論です。しかし『統治の書』の訳者解説は本書をホッラム教に関する「貴重な情報源」と呼び、大量の誤情報もごく一部を註で曖昧に訂正しているだけです。

『統治の書』は当初、まっとうな部分(理想の統治者の在り方)だけが世に出され、終盤の陰謀論の部分はその数年後に書かれたのですが、発表される(写本として出回る)前に、ニザームは「バーティン派」によって暗殺されてしまいます。この「バーティン派」は本来の意味のバーティン派で、過激イスマイール派であるニザール派、いわゆるアサシン教団です。
 異端を憎むニザーム・アルムルクは、正統イスラム(いわゆるスンナ派)を広めるため、宰相の権限で各地にイスラム教育機関を設立しました。こうした文化事業と著作(陰謀論の垂れ流し)以外に、具体的な異教・異端の弾圧を行ったのかは、ちょっとわかりません。暗殺は政敵の差し金だったという説もありますが、いずれにせよ彼は自らの命をもって異端者が危険な存在であることを世に知らしめることになったわけで、なんとも皮肉な話です。

 前近代のムスリムによる異教・異端観は、ごく一部の例外を除いて、まあだいたいこんなものです。ただ普通は単に無関心から来る無知で異教・異端を区別していないだけで、この『統治の書』のように憎悪に満ちた陰謀論はやはり特殊ですが。
 フィクションだと『千夜一夜』では、ゾロアスター教徒はムスリムの美青年を生贄にしようと常に付け狙っていて、キリスト教徒は偶像崇拝者で食糞儀礼を行うとされてたりします。まあ中世・近世のキリスト教徒によるムスリム像もひどいものなので、この点はどっちもどっちですね。

 長くなったので、「悪魔崇拝(サタニズム)が実体のある宗教・信仰ではなく妄想であると断じる理由」その2は次回

前回の記事

 

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「乱反射するサタニズム」補足 Ⅰ

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「トーキングヘッズ叢書」№84「悪の方程式~善を疑え!」(2020年10月28日発売)

 エッセイ「乱反射する悪魔主義(サタニズム)」を寄稿させていただきました。「悪魔崇拝」を宗教・信仰ではなく「妄想」と定義し、そのような妄想がどのように成立し発展したかを考察しました。

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 今回は少々多めに書かせていただきました。3部構成で、第1・2部では「悪魔崇拝という妄想」について、第3部では欧米キリスト教徒によるこの妄想が、クルディスタンのヤズィーディーにもたらした惨禍について書きました。

 ISによる迫害で知られることになってしまったヤズィーディーについては、一昨年刊行の『トーキングヘッズ叢書』№76「天使/堕天使~閉塞したこの世界の救済者」に寄稿させていただいたエッセイ「イスラムの堕天使たち」で取り上げております。

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 この企画でヤズィーディーを取り上げたのは、彼らが崇拝対象が、イスラムの堕天使イブリースが悔悛して神に赦されて再び天使となった「孔雀天使」だからです。
 その後、ヤズィーディーの信仰についてのより詳しい解説を、このブログに上げました。

「ヤズィーディーの信仰について」(全2回)

 またヤズィーディーの信仰とイスラム神秘主義の関係についても記事を書きました。
「ハッラージュとヤズィーディー」(全2回)

 さらに、イスラムは伝統的にキリスト教におけるような「悪魔崇拝」の概念を持たないのに、なぜヤズィーディーは「悪魔崇拝者」として迫害を受けることになったのか? という疑問についても記事を書きました。
「なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか」(全2回)

 この考察の結論は、「ISが持つ悪魔崇拝という概念は、欧米キリスト教徒から移植されたものなのかもしれない」という「憶測」でした。「憶測」止まりだったのは、ヤズィーディーを悪魔崇拝者として描く欧米キリスト教圏の初期(20世紀初め)のフィクションのうち、現在でもかろうじて知られているのは、上の記事「なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか」で取り上げた3点のみらしいということ。2009年刊行の『ジェネシス・シークレット』は世界的ベストセラーとなったものの、最近すぎる上に、この1作品からの影響だけでISがあれだけの蛮行を引き起こすとは考えにくいからです。

 その後さらに調べた結果、「憶測」ではなく「推測」と言っていいくらいの傍証が得られたので、今回の『TH』で形にさせていただいた次第です。
 というわけで、『TH』拙稿でも控えめに「憶測」としましたが、ほんとは「推測」くらいは根拠があるんだよ、という補足です。

 まず、①イスラムでは悪魔崇拝という概念は発達しなかった、②1840年以来、欧米人はヤズィーディーを悪魔崇拝者と決めつけてきた、③クルディスタンのムスリムとヤズィーディーは長年にわたり共存してきた。
 ヤズィーディーと隣人のムスリムたちは、同じ職場で働き、休日には一緒にピクニックに出掛けていたそうです。「悪魔崇拝者」と見做す相手とそんなことをするムスリムがいるでしょうか。
 ジェラード・ラッセルの『失われた宗教を生きる人々』(原著は2014)によると、著者が取材で出会ったクルディスタンのムスリムは、こう言ったそうです。
「俺はヤズィード教徒の食べ物は食べません。昔はムスリムも彼らの食べ物を食べていたそうですがね。今は違います。だって、彼らの崇拝するマラク・ターウースは悪魔ですから」

 この発言はISが攻めてくる前のものですが、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」像は「比較的最近」「外部から」もたらされたものだという印象を受けます。

 イスラム原理主義者によるヤズィーディーへの最初のテロは2007年ですが、これはヤズィーディーからイスラムへ改宗してムスリムと結婚した少女が元のコミュニティから殺されたへの報復です。「悪魔崇拝者」と認識されていたかは不明。そもそも異教徒というだけで、原理主義者のテロの対象になるには充分なのです。
 拙稿でも取り上げている小説『ジェネシス・シークレット』(原著は2009)は、彼らが「ムスリムから悪魔崇拝者として長年迫害されてきた」としています。著者のノックスはジャーナリストだそうで、同書に登場する場所は2か所を除いてすべて現地取材し、また宗教、歴史、考古学に関する記述は「ほとんどが事実だ」と豪語しているそうです。

 つまり「一部はフィクション」ということで、ヤズィーディーが「ムスリムから悪魔崇拝者として長年迫害されてきた」という記述がフィクションなのか事実なのかは不明です。しかしこの「宗教、歴史、考古学に関する記述」全般が事実だとか事実じゃないとかいう以前に、何を言ってるんだか理解できない、というレベルだったりするんですが。
 まあそれについては以前の記事でいろいろ突っ込みましたが、一つだけ、その後明らかになったことを付け加えると。 
 昨年、「ガーヤト・アルハキーム」を書いた際、ノックスが取材に行ったという某遺跡についての別の人物によるレポート(英語)を読む機会がありました。で、ふと思い立って『ジェネシス・シークレット』におけるその遺跡の場面を読み返してみたら、遺跡までの道程や周囲の風景の描写がスカスカで、あ、これは……
 皮肉なことに、このレポートの記者は『ジェネシス・シークレット』の愛読者だそうです。

 しかしいくら『ジェネシス・シークレット』が二十数ヵ国で翻訳されたベストセラーだとはいえ、欧米人および世界中のイスラム原理主義者が「ムスリムから長年迫害されてきた悪魔崇拝者ヤズィーディー」という謬説を信じてしまうほど影響力があったとは思えない。(著者がでっち上げたのではなく)すでに同書の執筆時にはこの謬説が出来上がっていて、著者はそれを利用しただけでしょう。

 というわけで、yazidi(ヤズィーディー) devil worshipper(悪魔崇拝者)で検索。
 英語による検索は、似た意味の別の語句も引っ掛かるので、devil worshipper(デヴィル・ワーシッパー)でdevil worship(デヴィル・ワーシップ「悪魔崇拝」)もdemon(デーモン)/satan(サタン) worship(崇拝)/worshipper(崇拝者)もsatanism(サタニズム「サタン崇拝」)もsatanist(サタニスト「サタン崇拝者」)も全部引っ掛かります。
 またyazidiの表記揺れであるyezidi(イェズィーディー)もヒットします。

 まず1999年12月31日以前の記事を検索します。すでに消されてしまった記事も多いはずですし、わずかとはいえ指定期間外(この場合は2000年以降)の記事も交じってるし、何よりネット使用人口が少ないですが、指標にはなります。ヒット数はたったの数十件で、すべての記事をチェックしたわけではなく主に検索結果に表示される記事タイトルとキーワード前後の文章からの判断ですが、ほとんどは両者の関係を否定する記事のようです。
 次に2000年1月1日から同年12月31日まで。なぜか引っ掛かっているヤズィーディーとは無関係な記事を除くと、わずか数件。

 ところが翌2001年1月の1ヶ月間で、いきなり80件以上増えます。1999年以前の記事全部より多いです。残りの11ヶ月間では30件ほどしか増えませんが、翌年から2006年まで毎年数十件ずつ増えていきます。そして最初のテロがあった2007年以降は毎年100件以上の増加となります。
 2001年1月に画期となる何かがあったことになりますが、それを突き止めるのは私の能力(英語力)を越えているので御容赦ください。

 20世紀末においても英語圏でヤズィーディーが少しは知られていたのは、おそらく「サタン教会」のアントン・ラヴェイの責任でしょう(敢えて「責任」と言います)。
 今回の拙稿で論じていますが、「悪魔崇拝(サタニズム)」という概念はキリスト教の枠組みの中だけで有効な妄想です。そもそも「悪魔」という概念自体、キリスト教内部にしか存在しません。西洋中世の人々は、自分の気に入らない相手を「悪魔崇拝者」と呼びました。実際には「悪魔崇拝」というものを信じているのは彼ら自身であり、その「妄想」を気に入らない相手=「他者」に投射したのです。真の悪魔崇拝者は彼ら自身だと言えるでしょう。
 近代以降、「悪」に憧れるロマン主義的(言い換えれば中二病的)な人々が「悪魔崇拝者」を自称するようになりましたが、どのみち「宗教」としての「悪魔崇拝」の実態がないことには変わりありません。

 アントン・ラヴェイが1966年に設立した「サタン教会」が掲げる「悪魔崇拝(サタニズム)」は、こうした「近代的悪魔崇拝」に分類されます。60年代70年代にはカウンターカルチャーとして持て囃されましたが、80年代になると米国社会が保守化し、上記の「中世的悪魔崇拝」が復活します。
 現代の「中世的悪魔崇拝者」にとってカウンターカルチャーは悪魔崇拝者の所業であり、「サタン教会」の存在はその動かぬ証拠でした。「悪魔崇拝者たちが子供たちを生贄に捧げ、社会を転覆させようと暗躍している」というフェイクニュースが全米に広まってパニックが起き、サタン教会も攻撃に晒されます。

 アントン・ラヴェイが掲げた「哲学」がどれほど高邁なものであろうと、「悪魔」という概念自体がキリスト教内部のものでしかないことを無視していることに変わりはありません。ヤズィーディーを「古来の悪魔崇拝の伝統の担い手」として繰り返し紹介したのは、彼らを評価しているつもりだったのでしょうが、その評価の基盤が誤っているので見当違いで滑稽かつ無責任なものでしかありません。
 そうしてアントン・ラヴェイとその著作が60-70年代には「近代的悪魔崇拝者」たちに、80-90年代には「中世的悪魔崇拝者」たちに知れ渡ったお蔭で、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の名も人々の記憶に残ることになってしまったのでしょう。
 それでも20世紀の最末期の時点では、かろうじて忘れられていないという程度だったのが、2001年1月に何かがきっかけで大いに知れ渡ってしまった。そして2007年のテロを経て、『ジェネシス・シークレット』(2009)の執筆時までには「ムスリムに長年迫害されてきた悪魔崇拝者ヤズィーディー」という謬説が出来上がっており、そして『失われた宗教を生きる人々』(2014)の取材時までには、隣人たちのうち原理主義傾向を持つ者からは悪魔崇拝者と呼ばれるようになっていた……

 というわけで、「憶測」ではなく「推測」と言っていいくらいの確実性はあるのではないかと。

 ちなみにサタン教会は現在も活動していますが、ヤズィーディーについての公式発言(かもしれないもの)は、ツイッターの公式アカウント(本物だとしたら)での「サタン教会は、自分たちは悪魔崇拝者ではないというヤズィーディーの主張を尊重します」というツイートしか見つかりませんでしたよ。

 拙稿第1・2章についての補足は次回

 今回寄稿したエッセイの没ネタはこちら↓

「ヴードゥー教、ワルド派、そしてスタージョン」
 今回の拙稿で述べている「ヤズィーディーが悪魔崇拝者であることを否定する英語記事の多さは、ヤズィーディーが悪魔崇拝者だと信じる人がそれだけ多い証左」という見解の裏付けとして、「ヴードゥー教の起源は中世異端のワルド派」という昔の俗説が現在では誰も信じておらず、英語やフランス語で「ヴードゥー、ワルド派」と検索しても「昔そう信じられていた」と言及する記事くらいしか出てこないことが挙げられます。
「テンプル騎士団とフリーメイソンの謎」

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ダンテとテンプル騎士団

 先日、テンプル騎士団とフリーメイソンの関係が創作だという記事を書きました。そしたら岡和田君がエーコの『フーコーの振り子』がテンプル騎士団ネタだったことに言及してくれたので、同書をもう20年近くも前に途中で放り出したままだったことを思い出したのでした。

 映画しか知らなかった『薔薇の名前』原作がおもしろかったんで、続けて『振り子』も読み始めたんですが。上巻63頁(単行本)の「恐れ入り谷の鬼子母神」でずっこけて、瀬田貞二訳『ナルニア国物語』で育った人間でもこれはきついわー、とパラパラめくってたら「鬼に金棒」に遭遇して心が折れました。テンプル騎士団の話題が出てくる前に挫折したわけです。
 その後、エーコの小説はだいたい読んで、特に『バウドリーノ』と『プラハの墓地』はとても好きですが、2016年に亡くなられた後も『フーコーの振り子』に再挑戦しようという気は起きなかったんですね。しかしテンプル騎士団ネタだったことを思い出したお蔭で、テンプル騎士団についての未解明の謎を解く手掛かりが得られるんじゃないか、と思い至ったのでした。

「未解明の謎」というのは、私にとっての、という意味で、テンプル騎士団とフリーメイソンの関係については解明できましたが、テンプル騎士団の「名誉回復」はいつから始まったのか、という謎は未解明なままだったのですよ。
 衒学者の代名詞たるエーコなら、テンプル騎士団に関する怒涛の蘊蓄を詰め込んでいるはず。というわけで「恐れ入り谷の鬼子母神」やそれ以上の訳に出くわしても挫けない覚悟を決めて、上下巻に再挑戦。

 幸いにして、「恐れ入り谷の鬼子母神」を上回る、あるいは匹敵する「超訳」はなく、「鬼に金棒」級も数えるほどでした。別に数えてませんが。
 しかし、ある意味「恐れ入り谷の鬼子母神」以上に動揺させられたのは、前回気づかなかった「珪素峡谷」という訳語。
 コンピュータについての会話場面なので、「シリコンバレー」のことで間違いない……この邦訳が出た1993年て、まだ日本じゃ周知されてなかったっけ?

 4半世紀以上も昔のこととて思い出せず、国会図書館の図書検索で1993年以前刊行のキーワード「シリコンバレー」の書籍を探したところ、15件ありました。一番古いのは1981年の『米国半導体産業:シリコンバレーの光と影』(瀬見洋・著 日本経済新聞社)で、Nikkei neo booksという叢書の体裁からして、まあまあ一般向けのようです。少なくとも産業界の報告書とかほど専門的ではない。翌82年にはさらに一般向けと思われる『シリコン・バレー:リアル・タイム小説』(マイケル・ロジャース著 祥伝社)なる本が、83年には『シリコン・バレー逆おとり作戦』(落合信彦・著 集英社)が出ています。
 仮に訳者の藤村昌昭氏がシリコンバレーを知らなかったとしても、編集や校正の人がチェック入れたでしょ……? いや、そう言えばこの2年ほどで、「三銃士」の「銃士」を「マスケット銃兵」と訳してる本に2度も遭遇してるよな……(それぞれ「三人のマスケット銃兵」「アレクサンドル・デュマのマスケット銃兵」でした)
 イタリア語でもシリコンバレーはsilicon valleyですが、エーコが執筆中だった1980年代後半ではイタリア語訳(la valle del silicioとか)も使われてて原書でもこの語句だったとか、だからわざわざ「珪素峡谷」と訳したとか……?

 とグルグル考えてしまったので、その数行後に再会した「恐れ入り谷の鬼子母神」にも動揺しなかったどころか、著しく集中を欠いたまま読み進んでいると、今度は「猟奇魔」という訳語に遭遇。
 文脈からすると、どうやらただのオカルトマニアのことらしい。原文ではどんな語なのか見当もつきませんが、「オカルト」は普通に使ってるのに、なんで「猟奇魔」? しかも1回だけだった「珪素峡谷」と違って何度も出てくるし。

 こうなると「珪素峡谷」も「猟奇魔」もなんらかの意図があって、わざわざこんな訳語を当てたように思え、しかもその「意図」がどんなものかまったく見当がつかず、不可解さに恐怖すら覚える。
 たとえるなら、衒学的で難解な用語だらけだけど内容は興味深い講演を聞いていたら、突然「珪素峡谷」とか「猟奇魔」とか、普通に「シリコンバレー」「オカルトマニア」と言えばいいものを、なんの説明もなしにそんな奇怪な造語(?)が飛び出し、そのまま講演が進んでいくような。まったく理解不能な話よりも、理解できる話の中に所々そういう理解不能の「穴」が黒々と開いてるほうが、かえって不気味じゃないですか?

 そういうわけで結局、『フーコーの振り子』上下巻合わせて1000頁余りの印象はすべて、この不気味さに塗り潰されてしまった感がありますが、当初の目的であるテンプル騎士団の謎についてはどうだったかと言いますと。
 まず上巻130頁で、テンプル騎士団の「生き残り」についての伝説に言及されています。フランス王フィリップ4世による捕縛(1307年)を逃れてスコットランドに渡った騎士たちがいた、という伝説で、史実では壊滅させられたのはテンプル騎士団フランス支部だけで、他の国々のテンプル騎士たちは後日、別の騎士団に受け入れられたので「生き残り」は大勢いるんですが、伝説ではスコットランドに落ち延びたという騎士たちだけが注目されている。
 で、この場面では、騎士たちの逮捕時に伝説が生まれた、と述べるだけで、この伝説についての最も古い記録は誰某によるもの、等の役に立つ情報は無し。ぐぬぬ。
 この伝説の成立は、テンプル騎士団の「名誉回復」問題と関わりがあります。聖杯等のキリストの遺物と結びつけられているんで、彼らが「殺人と食人と男色(当時の価値観です)に耽る悪魔崇拝者」と信じられていたとしたら、そんな連中を聖杯と結びつけるはずがない。

 続いて同じく上巻167頁。「それから多くの人間がモレー(1314年に火刑に処されたテンプル騎士団総長)のことを殉教者として回顧することになり、ダンテはテンプル騎士団の迫害に義憤を感じていた大衆の声を反響させることになるのである」
 ダンテの生没年は1265-1321だから同時代人です。『神曲』が完成したのは1320年頃。

 結局、得られた情報はこれだけでしたが、とにもかくにも「ダンテ」「テンプル騎士」のキーワードでまず日本語検索。「ダンテは『神曲』でテンプル騎士団に言及している」「ダンテはテンプル騎士団を壊滅させたフィリップ4世を非難している」程度の情報しか出てこない。使える情報、つまり『神曲』のどの箇所(○○篇の第○歌)かといった情報は見つからない。「神曲」「テンプル騎士」の組合せでも同じ結果。
『神曲』の邦訳を全巻(複数の版がありますが、どれも全3巻)再読して探す気はないので、英語に切り替えて検索。すると、煉獄篇第20歌の「(フィリップ4世は)無法にもその強欲の帆を掲げ、かの神殿に乗り込みすらした」(英訳からの意訳)の箇所が、テンプル(神殿)騎士団壊滅の件で彼を非難している、と解釈されているらしい、ということが判りました。

 どうもダンテがテンプル騎士団に言及しているのは、この間接的な表現一ヵ所のみのようです。地獄篇第19歌でも言及している、という記事もありましたが(引用はなし)、確認したところ、フィリップ4世には言及しているもののテンプル騎士団の名前は挙げていないし、間接的な言及をしているようにも読めない。
 なんだか曖昧ですが、この検索で、上記の「それから多くの人間がモレーのことを殉教者として回顧することになり」についても、少なくとも1人はそういう人がいたことが判明しました。ジョヴァンニ・ヴィッラーニという人物で、日本でもかなり有名らしくWikiに記事があります。それによると、ダンテの元同僚で銀行家、政治家にして『新年代記』(邦訳なし)の作者。ただしこのWiki記事も含め、ヴィッラーニとテンプル騎士団との関わりに言及した日本語記事はないようです。
 複数の英語記事によると、この『新年代記』の中で、火刑に処されたテンプル騎士たちに同情して「殉教者」と呼んでいるそうです。

 ここまで判れば、当初の目的は充分果たせました。逮捕・処刑当時からテンプル騎士団に同情的な意見が少なくなかったのであれば、「名誉回復」はすでに始まっていたことになる。動揺しながらも1000頁読破した甲斐があったというものです。

 ところで、この話にはおまけがあります。『神曲』におけるテンプル騎士団への言及が、本当に上記の曖昧な表現だけなのか、英語検索だけでは判らなかったので、イタリア語検索もしてみたわけです。
 イタリア語はねー……英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語はラテン語(あるいはラテン語経由のギリシア語)由来の単語が多く、つまり仏語・独語・仏語をちょっと齧っただけの私でも、英語に綴りが似た単語を手掛かりに、文章をざっと流し読みすれば、何について書いてあるかくらいは推測できる場合が多かったりするのです(単語の組合せ次第では全然推測できなかったりもするけど)。イタリア語も英単語と語源を同じくする単語が多いんですが、仏・独・西語に比べて英語のそれと綴りの違いが大きいものが少なくない。
 たとえばsecretはラテン語secretusが語源で、仏語secret、独語sekret、西語secretoなのに、イタリア語はsegreto。英語でカ行発音のcはドイツ語の綴りではほぼ必ずkなので解りやすいですが、イタリア語では必ずgになるわけではないのでややこしい。ロシア語はキリル文字ですが、ラテン文字に置き換えれば綴りが近い単語は、むしろイタリア語より多いかもしれません。secretだったらсекρет(sekret)だし。
 仏・独・西語もちゃんと読むなら辞書と文法書に首っ引きになるとはいえ、初見の流し読みで内容がおぼろげにでも推測できるかできないかは大きい。

 そういうわけで、より難易度の高いイタリア語検索もやってみたんですが、判ったのはやはり『神曲』におけるテンプル騎士団への言及は煉獄篇第20歌の曖昧な表現だけらしい、ということだけでした。それもキーワードが「ダンテ」「テンプル騎士」の組合せでは情報がまったく出てこず、「神曲」「テンプル騎士」の組合せでもようやく5番目に出てくる。
 じゃあ「テンプル騎士」と「ダンテ」あるいは「神曲」の組合せで出てくる情報はどんなものかというと、「ダンテはテンプル騎士だった」「隠れテンプル騎士、ダンテ」みたいなタイトルの記事ばっか。それも大量に。なんだこれ。

 実は日本語で「ダンテ」「テンプル騎士」で検索すると一番上に出てくる記事に、その答えがありました(最初に日本語検索した時点では、探してる情報とは無関係だからとスルーしてた)。
 2012年で更新が止まっている個人のブログなのでリンクは張らないでおきますが、この記事および同ブログ中の関連記事によりますと、ウジェーヌ・アルーEugène Aroux(1793-1859)という人が、ダンテはFrater templarinus(ラテン語「テンプル騎士団の兄弟」)というテンプル騎士団の在俗会(在俗のまま特定の修道会規則に準じた信仰生活を送る人々の会)の長だったとか(テンプル騎士団は修道会でもある)、『神曲』天国篇第31歌で導き手として聖ベルナルドゥスを登場させたのは彼がテンプル騎士団の規則を作った人だからだとか、ダンテの思想はフリーメイソンのそれに通ずる、といった説を提唱したんだそうです。

 アルーについてはWikiではフランス語記事しかなく、そこでは思想家とかではなく政治家とされていて、ダンテ研究についても言及されていませんが、Wiki以外の記事(主にフランス語)では、ダンテとテンプル騎士団の関係を論じた著書の作者として紹介されています(政治家のEugène Arouxと著述家のEugène Arouxは生没年が同じなので同一人物です)。
 で、イタリアの「ダンテ=テンプル騎士」説は、明らかにアルーが挙げた「テンプル騎士団の兄弟」会や天国篇第31歌の聖ベルナルドゥスのネタを根拠としています。しかし大半の記事がアルーの名は挙げていない。上記の日本語ブログによれば、アルーはダンテが「テンプル騎士だった」「フリーメイソンだった」とは言ってませんからね。ダンテがメイソンだったとするイタリア語記事もそれなりにあるようですが、アルーに依拠しているかは不明。まあテンプル騎士団だったということであれば、オカルト・陰謀論好きは自動的にメイソンに結び付けるでしょう。
 それに天国篇第30歌のベアトリーチェが「白いストール(肩掛け)の修道士たちに囲まれ、守られている」とある「白いストールの修道士たち」とは実はテンプル騎士団のことだ、なぜなら「白いストール」とはテンプル騎士団の制服である背中に赤い十字架が描かれた白マントのことだからだ、という強引すぎるこじつけは、さすがにアルーとは無関係なんじゃないかと。

 ダンテの『神曲』といえばルネサンスの嚆矢であり、名前くらいなら日本の中学生でも知っている、文字どおりの世界的偉人の世界的文学遺産です。それが「ダンテ」(あるいは「神曲」)と「テンプル騎士」の組合せでイタリア語検索すると、「ダンテはフィリップ4世がテンプル騎士団を壊滅させたことを『神曲』煉獄篇第20歌で非難している」という学術的な記事ではなく、「ダンテはテンプル騎士だった」「隠れテンプル騎士、ダンテ」ネタがわんさか出てくるって……ええんかイタリア人。

 このネタは『フーコーの振り子』では取り上げられていません。エーコの博覧強記がサブカルチャーにも及んでいることは、『フーコーの振り子』という作品自体が証明しているので、1980年代後半当時のイタリアでは、このネタは全然知られていなかったか、無視されるほどマイナーだったのでしょう。
 何がきっかけで、この現状に至ったのか。ダン・ブラウンの『インフェルノ』(未読)が『神曲』を小道具にしてるそうで、ダンテ=テンプル騎士団/フリーメイソン説は出てこないようだけど、きっかけにはなったかもしれない。というわけで『インフェルノ』の原書とイタリア語訳の出た2013年より前に、「ダンテ」(あるいは「神曲」)と「テンプル騎士」に関するイタリア語記事がどれくらいあったか、ググってみました。
 2012年以前ですでに結構な数があるんで、『インフェルノ』がきっかけではないですね。明らかに2013年以降、さらに増えてますが。

 これ以上調べるのは私の語学力では無理ですが、ひょっとしたら『フーコーの振り子』がダンテのテンプル騎士団擁護に言及したことがきっかけで、イタリアのオカルトマニアによるウジェーヌ・アルーの「発見」に至ったのかもしれない。実際にそうだったとしても巡り巡っての結果でしょうけど、「嘘(フィクション)から出た真(現実)」という『フーコーの振り子』そのままの展開だったことになりますね。

先日の記事「テンプル騎士団とフリーメイソンの謎」

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「禁断の快楽、あるいは悪魔の技」補足

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『トーキングヘッズ叢書』№83「音楽、なんてストレンジな!」(2020年7月29日発売)

 もう3ヵ月も前になりますが、エッセイ「禁断の快楽、あるいは悪魔の技――イスラムにおける音楽」を寄稿しております。

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『TH』№82の発売直前の4月下旬からストレスで心身の不調に陥り、それでも何もしないとさらにストレスが溜まるので、№83にも参加させていただき、お蔭でだいぶ持ち直すことができました。ただ、気分は内向きのままでブログで告知をするには至らず(単に気分が乗らなかっただけ)。
 そうこうする内に9月に入ってすぐ、今度は夏バテで体調崩してしまいました。自律神経がやられてるんでメンタルへのダメージが直にフィジカルにも来るんですが、この時は完全にフィジカルのみの不調です。以前は夏が来るたびにゾンビになってたのが、細心の注意で健康維持に努めるようになった甲斐あって、一昨年と昨年は無事に夏を乗り切れていたのですが、今年はなんぼなんでも暑すぎました。何しろ3年前からベランダで育てていたミントが死滅してしまったくらいです。毎年夏は元気がなくなっても秋には回復してたのに。除草剤でも枯れないと言われる、あのミントが。エスニック料理(本格的なのじゃなくて、なんちゃってですが)に使えて便利なので、また種を買います。

「イスラムにおける音楽」ということで、割と多くの人が「イスラムは音楽を禁忌とする」という言説を聞いたり読んだりしたことがあると思います。しかし一方で、ベリーダンスの伴奏などの「アラブ風の音楽」をイメージすることのできる人も多いと思います。まあベリーダンスは元来、イスラム世界における異教徒やムスリムでも被差別階級だった芸人が踊るものでしたが、とにかくベリーダンスの伴奏に限らずイスラム世界には音楽の伝統がちゃんとある。
 あるいはタリバンが音楽を禁止したというニュースを憶えている人もいるでしょう。ではイスラムで音楽を禁止するのは原理主義者なのかといえば、もっと最近ではISの処刑動画のBGM、「ナシード」が有名になりました。このように一見矛盾した状況は、どう説明できるのか?

 あまりテーマを広げると散漫になってしまうので、拙稿ではイスラムにおける音楽を「音文化」の観点に絞って論じました。
 アラブの人々は伝統的に、言葉(アラビア語)を非常に重視してきました。アラビア語が押韻しやすい構造なのもあって、詩とその朗詠が非常に好まれました。そのため歌もシンプルな旋律と伴奏のものが好まれ、歌詞の聴き取りを妨げる凝った旋律や伴奏は発達しませんでした。歌詞のない器楽曲は言うまでもありません。
 一方でアラブにとって「意味のある言葉」が中心でない音楽、つまり歌詞よりも旋律を重視した音楽、歌詞のない器楽曲、異国語の歌は危険なものでした。それらは人を熱狂させ、時には死に至らしめさえするものでした。つまりアラブの人々はかつて、「言葉」に対しても「音楽」そのものに対しても、非常に感受性が強かったと言えるでしょう。神の言葉であるクルアーンも韻を踏んだリズミカルな文体であり、詩と同じく朗詠されました。

 しかしイスラム世界の拡大とともに異国の音楽が大量に流入し、それらはアラブの人々を熱狂させると同時に恐れさせました。あまりにも魅力的で、到底理性を保てない。それは「神から心が逸れている」ことではないか、と。またクルアーンを、言葉が聞き取れないほどメロディアスに「歌う」ことも流行し、これもまた信心深い人々を危惧させました。

 というのが、「音文化」の観点から見た「イスラムにおける音楽」です。前イスラム時代と初期イスラム時代におけるアラビア語と音楽に対するアラブの人々の感性が、イスラムにおける音楽の位置付けを決定したのは間違いないでしょう。しかしそれ以降の、9世紀後半頃からの音楽の位置付けには、イデオロギーも大きく関わっています。
 つまりイスラムの多様化に不安を覚えた保守的な人々が、「本来のイスラム」に回帰しようとし、その一環として音楽を「非アラブ」「非イスラム」として排除しようとしたということです。そうした人々の多くは、かつてのアラブのようなアラビア語や音楽への鋭い感受性はもはや持っておらず、ただただ「異質なもの」を憎んだのでしょう。

 具象芸術の排斥が強まるのも同じ時期・同じ理由からです。前イスラム時代から初期イスラム時代のアラブの人々は、音楽の場合と同じく、自分たちの手で具象芸術を作ろうとはしないのに、異国人の手による絵画や彫像は非常に好みました。クルアーンは偶像崇拝は禁じていますが、装飾品としての偶像は禁じておらず、むしろ推奨するような下りすらあります。にもかかわらず後世のムスリムは、具象芸術はすべて非アラブ/非イスラムだとして排除しようとしたわけです。

 ところで初期イスラム時代以前のアラブの嗜好について、音楽の場合はアラビア語と音楽に対する感受性で説明がつきますが、具象芸術の場合は説明がつきません。確かにかつてのアラブの人々は自分で作る場合は絵画や彫刻よりカリグラフィーを好みましたが、「アラビア語の偏重」を理由にするには当時の識字率が低すぎる。
 ただ、無文字ではないが識字率の低い社会では往々にして、文字そのもの、書かれた言葉、書物といったものが魔力を持つという信仰が生じるので、識字率が低くてもカリグラフィーが好まれる説明にはなる。だから当時はおそらくアラビア語の書物は1冊も存在せず、ムハンマド自身もおそらく文盲であったにもかかわらず、神の言葉はクルアーン(アラビア語で「読誦されるもの」)というかたちで下されたわけです。天にはクルアーンの「原型」である1冊の書物があるんだそうで。
 しかしそれでも、アラブが自ら具象芸術を作らなかった理由は不明のままになる……まあここまでくると、補足ではなく余談ですが。

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「アポローの贈り物」補足 Ⅱ

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『トーキングヘッズ叢書』№82「もの闇のヴィジョン」(2020年4月30日発売)

 もう半年近くも経ってしまいましたが、エッセイ「アポローの贈り物――梅毒をめぐる幾つかの逸話と謎」を寄稿しております。

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 拙稿の補足(こぼれ話的なもの)Ⅰおよび半年も告知が遅れた言い訳はこちら

 さて、補足の続きです(今回で終わります)。
「天才が破滅的に生きるなら、自分も破滅的に生きれば天才になれる」と勘違いした人は大勢いたかもしれませんが、「あの天才やあの天才(ニーチェ、ベートーヴェンその他)が梅毒なら、自分も梅毒に罹れば天才になれる」と勘違いした人は、史上一人もいなかったと思います。これを想像上で実行したのがトーマス・マンの『ファウストス博士』(岩波文庫)とトーマス・M・ディッシュの『キャンプ・コンセントレーション』(サンリオSF文庫)です。
 私が知る限り、「梅毒性天才」という幻想を題材にしたフィクションはこの2作品だけですが、「梅毒幻想」という切り口で両作品が並べて論じられることは少ないようですね。『キャンプ・コンセントレーション』はトーマス・マンに献辞を捧げていますが、『ファウストス博士』よりも『魔の山』との関連で論じられているっぽいです。

 私は『キャンプ』も『ファウストス博士』も「梅毒幻想」小説として読んだのもあって、『キャンプ』が『魔の山』のオマージュだとか言われても、あまりピンと来ないんですが、何より大きいのは『魔の山』を「モラトリアム小説」として読んだからでしょうね。
『魔の山』を読んだのは、デビュー作『グアルディア』の執筆を始めた頃かその直前の2002年夏で、パワハラで退職に追い込まれた挙句に感情が完全にフラットになってしまった私を見かねたのか、父が「まあしばらく好きなことをしてろ」と猶予をくれた、紛うかたなきモラトリアム状態にあった時でしたから、あれこれ言い訳を重ねて下界に降りない主人公の心情・言動がいちいち刺さり、それだけに彼の最期は衝撃的だったんですが(と反応できるまでには回復できていたわけです)、『キャンプ』のほうはまったくモラトリアムではありませんからね。それでも前半はまだ主人公は傍観者でしたが、後半はその余地すらなくなる。

「梅毒幻想」小説として括ったとはいえ、『キャンプ・コンセントレーション』を読んだのは『ファウストス博士』の数年後でしたから、今回(半年以上も前ですが)続けて再読して、両作品の刊行が21年しか隔たっていないことに、改めて驚かされました。今から21年前だと1999年ですよ。文学史的には全然最近だ。いくら『ファウストス博士』が意図的に古めかしいスタイルで書かれたのに対して『キャンプ』は前衛中の前衛だったとはいえ、この落差はちょっとすごい。

 拙稿でも触れましたが、『キャンプ・コンセントレーション』が刊行された1968年は、タスキギー大学による史上最悪の梅毒実験が進行中でした(あくまで「最悪」であって、規模は劣るものの梅毒の人体実験は過去にも行われていた)。この事件の最もおぞましい点は、40年にもわたって数百人の被験者を対象に公然と行われていた(医学雑誌に論文が掲載されていた)にもかかわらず、止めようとする人がほぼ皆無だったことです。まあ皆無ではなかったお蔭で、1972年に中止されるのですが。
 ディッシュが執筆時に実験について知っていたかどうかは不明です。しかし日本語で「タスキギー梅毒実験」「キャンプ・コンセントレーション」でググっても1件もヒットせず、英語でも数件。それらの記事でも単に同時代性を指摘するか、「想像だけど、知っていたのではないか」「実験が明るみに出たのは1972年だから、知らなかったはず」(実際には情報は公開されていたわけだが)等の憶測だけで、たとえばディッシュが実験について言及した記録がある/ない、といった確実性のあるデータはないようです。

 個人的には、ディッシュが何かしら知っていた可能性はあるとはいえ、せいぜいが「過去にそういう実験が行われていたらしい」程度だったろうと思います。『キャンプ・コンセントレーション』では梅毒実験の犠牲者たちの中心的人物に黒人が据えられており、あたかもタスキギーの実験を告発しているかのようですが、進行中の実験だと知っていたら、もっと明確に告発しているでしょう。

 ディッシュが知っていた/知らなかった、よりも重要なのは、そしてほぼ確実に知らなかったであろう実験を告発するかのような小説を書いたことよりも重要なのは、作中の、つまり虚構の「犠牲者たち」が世界に死と破壊と混沌をもたらす結末です。現実ではその4年後にタスキギー実験は中止されたけれど、数百人に及ぶ犠牲者たちが救済されたとは到底言えない。ディッシュはあたかもその「現実」を予見して、犠牲者たちに代わって虚構の中で世界に「復讐」を果たしたかのようです。
 拙稿では紙幅が限られていることもあって、充分な説明なしに「復讐」とか「報復」といった強い言葉を使うと誤解を招きかねなかったので「救済」と表現しましたが、誰かが代わって報復してくれるのは、ある種の救済ではあります。
 もちろん虚構は虚構でしかないのですが、その現実も含めて、それがディッシュという作家の本質ではないかと思います。

 最後に、拙稿の締めでも触れた梅毒の起源をめぐる論争について。
 新大陸起源説に、オリエンタリズム(この場合はすべての「非西洋」への蔑視)がないか問うのは意義のあることですが、最近の資料で梅毒の起源に言及したものがいずれも(といっても2、3点読んだだけですが)、新大陸起源説を偏見と断じ、コロンブス以前から存在していた可能性が高い非梅毒のトレポネーマ感染症や、90年代に発見された新大陸の古人骨に見られる梅毒の痕跡といった事実を無視しているのが気になります。政治が科学を抑圧するのは、政治が科学を悪用するのと同じくらい有害ですよ。

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「アポローの贈り物」補足 Ⅰ

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『トーキングヘッズ叢書』№82「もの闇のヴィジョン」(2020年4月30日発売)

 もう半年近くも経ってしまいましたが、エッセイ「アポローの贈り物――梅毒をめぐる幾つかの逸話と謎」を寄稿しております。

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 発売当時は告知する気力がなかったんですが、やっと諸々回復してまいりましたので。「先の予測がつかない」という状態が続くのは、拷問のマニュアルにもあるくらい人間にストレスを与えるものだそうで、まあとにかく半年前は、自分の活動を宣伝する気力が湧かないくらい気持ちが内向きになっておったのですよ。

『TH』の企画テーマは毎回、何ヵ月も前に決められるものであり、コロナ禍と重なってしまったのはまったくの偶然です。というわけで、内容もセンセーションを狙ったものではありません。
 私が選んだ「梅毒」は、いつかSFのネタにしようと思って調べていたものです。「アポローの贈り物」というタイトルは、梅毒の洋語名「シフィリス syphilis」の由来である16世紀のラテン語の長詩「シフィリスあるいはフランス病」から。

 この詩は邦訳されておらず、内容についてはスティーヴン・ジェイ・グールドの『ぼくは上陸している』(早川書房)の第11章を参照いたしました。詩の作者はジロラーモ・フラカストロというイタリア人医師です。この人については、資料によって「梅毒の新大陸起源説を否定した」「新大陸起源説を支持した」、「梅毒の治療薬として水銀を推奨した」「グアイヤック(西インド諸島産の木)を推奨した」とまちまちなんですが、『ぼくは上陸している』によると、「シフィリスあるいはフランス病」の第1部と第2部では梅毒の新大陸起源説を否定して水銀療法を推奨し、第3部では新大陸起源説を支持してグアイヤック療法を推奨しているそうです。

 どういうことかといいますと、フラカストロは1510年代初めに「シフィリス」の第1部と第2部を書き上げたのですが、出版前にグアイヤックという「特効薬」が登場した。そこで10年以上をかけて第3部を書き上げ、第1・2部と第3部の内容の食い違いはそのままに1530年に出版したのでした。
 では、なぜ食い違いをそのままにしたのか。実はこのグアイヤックの販売と施療には、フラカストロが支持する神聖ローマ帝国カール5世の利権が絡んでおり、なぜカール5世を支持したのかというとフランス王シャルル8世のライバルだからで、フラカストロは1494年にイタリアに侵攻したシャルル8世とフランスを憎悪していたのでした。
 そもそもヨーロッパにおける梅毒の最初の大流行は1495年にナポリにいたシャルル8世の陣中で発生したとされていて、フラカストロをはじめとするイタリア人は梅毒はフランス人が原因だと信じていたのでした(だから「シフィリスあるいはフランス病」)。

 つまりフラカストロが第3部を書いたのは、まったくの政治的な動機からで、医師としてはおそらくグアイヤックよりも水銀のほうを支持していたし、フランス憎しとしては梅毒の起源は新大陸ではなくフランスだと信じていたけれど、グアイヤックは西インド諸島でしか採れないので新大陸起源説を支持せざるを得なかった、といったところでしょう。でも本音では水銀推奨、新大陸起源説否定派なので、第1・2部もそのまま出版したのではないかと。
 ちなみにフラカストロの詩「シフィリスあるいはフランス病」で西インド諸島の住民が「アトランティスの末裔」とされているのは、スペインの歴史家フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ(1566?没)が提唱した説に基づいています。

 恐ろしい疫病(梅毒)をもたらしたのが第2部でも第3部でもアポロー(ラテン語なので「アポロン」ではない)なのは、彼が太陽だけでなく病も司るから。ギリシア・ローマ神話に限らず、古代の医神は疫神でもありました。病を癒す力を持つ者は病をもたらす力も持つと信じられていたのです。たとえば黒死病がユダヤ人のせいにされたの原因の一つは、彼らの罹患率が低かったことにあります(実際にはキリスト教徒より清潔だったからですが)。
「アポローの贈り物」という拙稿のタイトルは、「梅毒が創造性を高める」という俗説とアポローが芸術神でもあることに因みます。「アポロン(アポロー)的」芸術といえば、「ディオニュソス的」芸術と対立する理知的なもの、ということになり、一方、梅毒がもたらすとされた創造性は退廃、狂気、死と結びついたディオニュソス的芸術のほうが相応しい、ということになるんでしょうが、まあ古代ギリシアでも理性が重んじられたのはかなり後の時代で、アポロンも古い神話ではデーモニッシュな側面が強いですからね(疫神であることからも明らかなように)。ギリシアで理性が重んじられるようになり、かつアポロンが「理想のギリシア人」の典型とされた結果、外来の神であるディオニュソスが狂気を担うようになったと言える。まあそもそも「アポロン的」「ディオニュソス的」という対立概念自体、近代のものですけど。

 梅毒によってもたらされる創造性、という俗説の成立過程は、C・ケテルの『梅毒の歴史』(藤原書店)を参照しています。しかしこの本、いろいろ参考にはなったんですが、凝った言い回し、婉曲表現、反語が多く、何より読者が知識を有しているという前提でまともに解説してない事柄が少なくない。たとえば「遺伝梅毒」という謬説についてかなりの紙幅を割いてるんですが、大前提となる「梅毒は遺伝しない」という事実について本文中で一切言及していない。口絵のキャプションに「遺伝梅毒という神話」という表現があるのが唯一の言及。いや、わりと専門的な本なんで、梅毒が遺伝しないことを知らずにこの本を読もうという気を起こす人はいないかもしれないにしても。
 これだからフランス人の書く文章は苦手というか、これでも相当マシなほうというか。

 拙稿で言及している、遺伝梅毒説と優生学の結びつきは『比較「優生学」史』(現代書館)で指摘されています。この本はドイツ、フランス、ブラジル、ロシアの優生学について、それぞれ別の著者が論じているわけですが、遺伝梅毒説がフランス優生学の土壌から生まれた、という指摘があるのは、同書のフランス篇ではなくブラジル篇のほうです。ブラジルの優生学はフランスから導入したものだそうで。

 で、『梅毒の歴史』によると「梅毒性天才」(便宜上、こう呼びます)という概念を「創作」したのは、フランスの作家レオン・ドーデ(1867-1942)。「最後の授業」で知られるアルフォンス・ドーデ(1897没)の息子です。拙稿に引用したレオンの「梅毒讃歌」は『梅毒の歴史』から。
『梅毒の歴史』の訳者である寺田光徳氏は著書『梅毒の文学史』(平凡社)の中で、レオンがこの概念を創作したのは、父アルフォンスの死を不名誉なものとしたくなかったからだろうと推測しています。まあそれも確かに動機の一つではあるでしょうけれど、それ以上に大きかったのは、レオン自身の「遺伝梅毒」への恐怖だったのではないでしょうか。
 梅毒は潜伏期間が長いせいもあって最終段階が狂気(進行性麻痺)であることは長いこと認識されておらず、19世紀後半にアルフレッド・フルニエによって初めて明らかにされます。そこまではよかったんだけど、このフルニエ、「遺伝梅毒」説(提唱されたのは18世紀末)を優生学と結びつけた張本人でもある。優生学の言うところの「人類の退化」の一因が遺伝梅毒かもしれない、と。

 この見解を普及させたのが息子のエドモン・フルニエで、お蔭で遺伝梅毒は人類の退化の一因「かもしれない」ではなく、一因に確定されます。で、エドモンの友人だったのがレオン・ドーデというわけです。レオンは元は医者志望で、エドモンと知り合ったのも医大在学中。正規の医学教育を受けているので、当時の「正統科学」だった優生学を把握しているし、その優生学に沿った遺伝梅毒説も同様。
 父親の梅毒感染後に生まれたレオンは、遺伝梅毒だということになる。遺伝梅毒患者は、知的・精神的・肉体的に劣っているとされていました。遺伝梅毒説そのものを否定する代わりに、レオンは「梅毒性天才」という概念を創造することで実に鮮やかにパラダイムシフトを起こしたわけです。自分を天才だと宣言したのも同然で、しかも世間に認められたわけだから、鮮やかと言うほかない。

 もちろんレオンとしては、自分が惨めな劣等者である可能性を否定したかったのでしょうけれど、それとはまた別に、大作家の息子として自分の才能の「裏付け」が欲しかったのではないでしょうか。たとえその裏付けが梅毒という忌まわしい病気であっても。
 そして自らの才能の保証を梅毒に求める以上は、父親の「天才」も梅毒によるものだとせざるを得なかった。実の父親であろうとなかろうと、他人の才能の源泉を外挿的なもの、それも梅毒(現代よりさらにイメージが悪かった)だとするのは、その人の擁護どころか侮辱以外の何ものでもない、と私は思いますけどね。「フランス、アルザス、フランス、アルザス」が「天才」か? という疑問はさておき。

 何はともあれ、晩年のアルフォンス・ドーデが自らの闘病生活を書き綴った日記やメモが、死後30年余りして未亡人によって編集され、刊行されたのは、「梅毒性天才」論が普及したお蔭でしょう。出版を意図したものではないこともああってか、なかなかの傑作だそうで、ジュリアン・バーンズ(『イングランド・イングランド』とか)が自ら英訳して『In the Land of Pain』のタイトルで出版しています。

 レオン・ドーデが「梅毒性天才」論を捻り出すにあたって、ロンブローゾ(1835-1907)の天才論、俗に言う「天才と狂人は紙一重」を念頭に置いていたのは間違いないでしょう。そして一時はロンブローゾの天才論と同じくらい人口に膾炙します。
「天才と狂人は紙一重」論の天才は、ロマン主義的な破滅型天才、「ディオニュソス的」天才になりますが、この考えが受けたのは、「天才が破滅的に生きるなら、自分も破滅的に生きれば天才になれる(に違いない)」という勘違いを生む余地があったからですが、世の中、そんな人ばかりではない。より広範で根源的で潜在的な理由としては、天才を「狂人と紙一重」と貶めることができるから、じゃないですかね。

 そして「梅毒性天才」論は、「天才と狂人は紙一重」論以上に天才を貶めるものです。梅毒治療法が確立された現代ではこの俗説/謬説も忘れられつつありますが、完全に過去のものとなるのはまだ先でしょう。
『性病の世界史』という本があって、原書はドイツ語で2001年刊、2003年に草思社から邦訳が出て、16年に文庫化されています。拙稿を書くに当たって、参考になるかと梅毒についての記述(大半を占める)だけ読んだんですが、いや、これがひどい。著者のビルギット・アダムは医学や科学を学んだことはなく、梅毒の蔓延でドイツの温泉文化が廃れた等、そこそこ専門的なネタもありますが、まあこれも諸説ありますし、ドイツ人だから他国の人よりはハードルの高いネタではないだろうし。全体的にはミソもクソも一緒というか、現在は(おそらく刊行当時も)はっきり否定されているか極めて疑わしいとされている著名な学者や芸術家たちの梅毒説(後天性あるいは先天性)を「事実」として列挙している。
「梅毒性天才」論がどれだけ人気があったかを知るには役に立つ本ですが、まだ売れてるわけですからね。鵜呑みにする読者もいるのでしょう。

 長くなったので続きます。

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