「幕屋の偶像(アイドル)」追補

 発売中の『トーキングヘッズ叢書』№79「人形たちの哀歌」に、「幕屋の偶像(アイドル)」を寄稿しております。

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 サーデグ・ヘダーヤトの二つの短篇、人形愛をテーマとした「幕屋の人形」(『生埋め』所収)とペルシア系仏教徒(=偶像崇拝者)が主人公の歴史小説「最後の微笑」(『サーデグ・ヘダーヤト短篇集』所収)を取り上げ、「イスラムにおける偶像観」を論じています。

「人形」がテーマの今回の特集ですが、いや実にいろんな切り口があるものですね。「人形」というと、人形愛と人形恐怖症(ホラーや怪談の題材としても)くらいしか思い浮かばなかった自分の不明を反省……
 言い訳をすると、実は5歳の時に怖い夢を見たせいで、かなり重症の人形恐怖症なのです。見たのは41年前の夏休み、ちょうど今頃ですが、古い無人の日本家屋になぜか入り込んでしまい、当時の自分と同じサイズの市松人形に追いかけ回されたという悪夢で、以来、人形だけでなくぬいぐるみも着ぐるみも怖い。

 それと学生時代、人形好きの友人(ハンス・ベルメールをとりわけ偏愛していた)がいたことから、人形愛と人形恐怖症は表裏なのではないかと思ったわけですよ。なぜ自分はこんなに人形が怖いのか、解明したいと思って。
 といっても、心理学や精神医学の分野では納得行く説明を見つけられなかったし、人形についての随筆や評論の類からも得られるものは少なくて、結局のところ調べると言っても、人形を題材としたフィクションを漁るくらいでしたけどね。しかもホラーは苦手なんで除外するから、作品数も限られる。

 そうして決して多くない作品を読んだり観たりしてきて思ったのは、人形の「人形らしさ」(端的にはたとえば関節の継ぎ目など)へのフェティシズムを表現したものは意外と少ないということ。ピュグマリオン伝説から『砂男』、『未来のイヴ』、それに「人でなしの恋」といった古典作品は、いずれも理想を体現する生身の女が見つからないから人形を身代わりにしている、と言える。
 そうではない、人形という物そのもの(フェティッシュ)への愛(フェティシズム)というのは現実にはかなりありふれているはずで、たとえば前記の友人がそうだったし、彼が好んだような人形を好む人たちの大半もそうではないかと思うのです。
 しかしこれまで私が出会った中で、そのような愛を真正面から捉えた作品だと思えるのは、リチャード・コールダーの『アルーア』と、ヘダーヤトの「幕屋の人形」くらいです。
 んで、「頑張ってとんがってます」のコールダーよりも、ヘダーヤトのほうが、現実の人形愛(フェティシズム)に近いものを描いているのではないかと(いや、コールダーも好きですけどね)。

 さて、「幕屋の人形」を読んだのは数年前のことですが、人間の具象表現(人形も含む)を偶像崇拝として排斥するのは、ムスリムの中でも偏狭な手合いに限られるとすでに知っていたので、ヘダーヤトが「正しく」人形愛を書き得たことを意外に思いはしなかったんですが(それに何しろヘダーヤトだし)、その少し後に「最後の微笑」を読んで、「……何これ」。
 まあ一言で言うと、仏教徒を仏像フェチとして描いてしまっているわけです。ヘダーヤトは「異民族」から押し付けられた信仰であるイスラムに反感を抱いており、ゾロアスター教や仏教、ヒンドゥーといった異教に強い関心を持って、かなり勉強もしていたようです。「最後の微笑」の主人公は、9世紀初頭にアラブ系であるカリフに粛清されたペルシア系の宰相で、その粛清理由は歴史上の謎なわけですが、ヘダーヤトは宰相の一族の先祖が仏教徒だったという史実から、粛清理由を「隠れ仏教徒だったのが露見したから」ということにしている。同じペルシア系である宰相に完全に肩入れしていて、仏教信仰も理解し共感しようと頑張ってるのが、読んでいてひしひしと伝わってきます。
 ……でも、「仏像フェチ」としか理解できていない。

 ヘダーヤトほどの知性と異文化共感をもってしても、こんな頓珍漢な異教理解しかできないのか、と。「幕屋の偶像(アイドル)」で、中世のムスリムの典型的な偶像観の例を挙げましたが、あれと根っこは同じだと思ったわけです。「偶像」崇拝を、「神の象徴としての偶像」崇拝だとも、偶像に「偶(やど)った」神あるいは神の力の一部の崇拝だとも理解せず、偶像という「物そのもの」(フェティッシュ)の崇拝(フェティシズム)としか理解しない、できない。
 その後、イスラム神秘主義についていろいろ調べて、イスラム神秘主義によく見られる聖者、聖廟、聖遺物などの崇拝は、要するにそれらに宿った「バラカ(神寵)」という「神の力の一部」の崇拝だと理解し、それでますます、ならばなぜ偶像崇拝をフェティシズムとしか理解できないのかと謎は深まるばかりなんですが。

 なお、中世イスラムの史料にしばしば現れる、「偶像崇拝者たちは馬鹿なので、狡賢い奴(旅行記や歴史書などの「実話」では神官、『千夜一夜』のような説話ではジン)が偶像の手足を動かしたり声色を使ったりするのに騙されて、偶像を神だと思い込む」というエピソードを、「中世ムスリムの典型的な偶像観」とするのは私見です。
 この類型化されたエピソードは、私が知る限りではイスラム初期の史料には見られず、10世紀の『中国とインドの諸情報』が最古の例の一つなんじゃないかと。まあ私の「知る限り」というのは日本語テキスト(論考でも原典翻訳でも結構な量は出てますが)に加えて英文を多少読んでるだけの本当に限りがあるものなので、専門家の御意見を伺いたいところです。

「ムスリムの偶像観」みたいなものを包括的に論じたテキストは見つけることができませんでしたし、イスラムに関する私の知識は、だいたい10世紀くらいまでならそこそこ詳しいと言えるのではないかと思いますが、それ以降は時代が下るに従って少なくなっていく(特に近現代は中央アジアに偏る)。
 そんなんで中世ムスリムと20世紀前半のヘダーヤトの偶像観を一括りにするのは些か乱暴かもしれませんが、ただ、「最後の微笑」の少し後に読んだ論文、記録を取らなかったので確認できないのですが、確かイスラム神秘主義がテーマで、日本人研究者の論文がメインだけど外国人研究者の論文の翻訳も幾つか入っているという論文集(書籍)に収められていた、中央アジア(たぶんカザフスタン)の女性研究者が現地の遊牧民の聖者崇拝を調査したものがありました。
 調査対象はとある聖者の廟で、泉の傍に建っている。自身もムスリマである研究者は、その聖者についての記録が見つからないので、実在しなかったに違いない、ということを批判的に述べていて(少々執拗な印象を受けた)、泉のほうはまったく眼中にない。まあちょっと齧っただけの私にも、真の崇拝対象は泉であり、遊牧民たちがイスラム化される以前から崇拝していた聖なる泉に架空のイスラム聖者をこじつけただけ、というイスラム圏全体で普遍的に見られる現象なのは明白なわけです。
 その論文を翻訳した日本人研究者の方も、注記で「なぜこんな明白なことに彼女は気づかないのか」という感じで困惑を表しており、どうも現代に至るまで多くのムスリムにとって、異教というのはどうにも理解しがたいものなのではないかと。

 いや、現代のイスラム聖者崇拝についての論考もかなり読んできたつもりですが、日本および欧米の研究者の間では、聖者崇拝はイスラム化以前の信仰との習合が多い、というのが常識である一方、ムスリムたち自身(実際に聖者崇拝を実践している人々や、それらを研究している人々)はその「常識」をどう考えているのか(あるいはそもそも知っているのか)ということに言及したテキストにはお目にかかったことがありません。聖者崇拝を「偶像崇拝」として弾圧する原理主義者たちにしても、この場合の「偶像」とは単に「神以外のもの(被造物)」というだけであって、歴史的背景とかは一切考えてなさそうだし。
 専門家の御意見を伺いたいところです。

 聖者崇拝というのはイスラム神秘主義の形態の一つでもありますが、神秘主義の最も根本的な精神は「信仰=愛」だと言っていいかと思います。拙稿でも挙げた『ラースと、その彼女』では、プロテスタントの善男善女たちが「人形愛は偶像崇拝に当たるか」を議論しますが、結論は「愛は崇拝ではない(からOK)」というものでした。しかしイスラム神秘主義だと、愛=信仰になる。つまり人形を神のように崇拝していると見做されかねない。
 だからヘダーヤトも、「最後の微笑」で偶像「崇拝」を描こうとして偶像「愛」(フェチ)にしかならなかったんじゃないかと。ただ問題は、ヘダーヤトが神秘主義の影響をどの程度受けているのかがわからないことで、そもそも「愛=信仰」という思想を発展させたのは中世ペルシアの神秘主義者たちですが、そのペルシアでは16世紀に成立したサファヴィー朝による徹底的な弾圧によって、神秘主義はすっかり衰退してしまっている。まあ現代に至るまでハーフェズの神秘主義詩が民衆レベルで膾炙しているなど、ペルシア文化に浸透してるのは確かなんですが、ヘダーヤト個人はどうだったのか。
 これでヘダーヤトがハーフェズを愛好してたりすれば話は簡単なんですが、彼が偏愛していたのはオマル・ハイヤームのほうで、しかもハイヤームを神秘主義者と見做していたかどうかもわからない。
 専門家の御意見を伺いたいところです。

 人形恐怖症に話を戻すと、じゃあ人形の写真でいっぱいの『TH』今号はどうなんだというと、まあ写真なんで実物ほどは恐怖を引き起こしません。それに私が一番恐怖するタイプの人形は「古びて汚れた安物の大量生産品」なので、近いタイプの図版は阿澄森羅氏の「あなたの知らない人形怪談の世界」掲載の「お菊人形」くらいでしたから。あれも単に「古びて」いるだけですし。手垢で汚れてるようなのが一番怖いんですよ。
「髪が伸びる」だの「動き回る」だのの怪異は屁とも思わんのに、「念が籠ってそう」なのが怖いのかもしれません。人形恐怖症の原因となった悪夢の市松人形は、別に古びても汚れても安っぽくもなかったし、我ながら恐怖とは非合理なものです。

 

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少女漫画とハーレクイン

 先日の記事で、アメリカに比べて日本ではハーレクイン・ロマンスがそれほど叩かれない理由について、日本と欧米の恋愛観およびジェンダー観の違いを挙げた。
 欧米では(恋)愛を至上の道徳とする一方、恋愛を男女間闘争と見るので、「女が必ず勝つ(男が必ず負ける)物語」であるロマンスは女性に喜ばれる一方、男性には忌避される。また「男性を精神的に導く女性」と、その裏面である「男に道徳を押し付けて軟弱化させる女」というステレオタイプも古くからあり、ロマンスは女性の視点からは「女性が男性を精神的に導く」物語であるのに対し、男性の視点からは「女が男に道徳(=愛)を押し付けて軟弱化させる」物語なのである。
 日本ではこのような恋愛観およびジェンダー観が存在しない(一応あるにはあるが、根強くない)ため、ハーレクイン・ロマンスが(男性に)敵視されることがない。

 というのが主旨であったが、まあ仮にこれが正しかったとしても、「日本でハーレクインが(比較的)叩かれない」理由としては、潜在的なものでしかない。
 もっと顕著かつ重要な理由として挙げられるのは、少女漫画である。ハーレクイン・ロマンス(レーベル)が日本に上陸した1979年当時、すでに日本には少女漫画があった。

 少女漫画の典型的な定義に、「なんの取柄もなく努力もしない少女の許に、“白馬の王子様”が迎えに来てくれる」というものがある。で、この定義はそのまま「読者(女性)は“白馬の王子様”を待つだけの人生を送るようになる」という批判・バッシングに繋がる。

 今、この記事を書いてる手を止めて、「白馬の王子様」でググると、「(いい歳をして)白馬の王子様を待つだけの女性」を批判する記事が大量に出てくる。
 そういう記事には、「少女漫画に出てくるような白馬の王子様」としているものが少なくない。が、具体的な作品名を挙げて記事は見当たらなかった。
 幾つかの記事は「白馬の王子様のルーツ」に言及しているが、挙げられるのは「白雪姫」や「シンデレラ」などの童話、あるいはそのディズニーアニメである。
 しかし今時、10代20代、あるいは30代40代の女性で、生き方にまで影響を受けるほど「白雪姫」や「シンデレラ」の童話やディズニーアニメに耽溺していた人っているんだろうか。

 直接の「影響源」が挙げられないまま、「(いい歳をして)白馬の王子様を待つだけの女性」が批判され、それと同様に、「少女漫画とは、なんの取柄もなく努力もしない少女の許に、“白馬の王子様”(的なイケメン)が迎えに来てくれる作品」という定義(決めつけ)でも、具体的な作品名が挙げられることはまずない。

 このような少女漫画評がいつ出てきたのかも、ちょっとわからない。とりあえず70年代初めまでに、漫画全体の中でも少女漫画を低く見る風潮が出来上がっていたようだが、「どのように質が低いのか」ということすら論じられない、批判はおろかバッシングですらなく、ただただ軽んじられていたという状況らしい。
 1960年代以前に少女漫画と同じ位置を占めていた少女小説も、同じような扱いだったようである。
 70年代後半になると少女漫画の質の高さを賞賛する評論家が出てくるが、その対象となった「24年組」の作品はいずれも、「なんの取柄もなく努力もしない少女の許に、“白馬の王子様”が迎えに来てくれる」ものではまったくない。 

 私は1973年生まれで、中学に上がる80年代半ばまで家庭で漫画を禁止されていたが、図書館と年上のいとこたちのお蔭で、70年代~80年代前半の漫画はそれなりに読むことができた。後に復刊されたものもかなり読んでおり、それらに占める少女漫画の割合はかなり高い。80年代半ば以降はリアルタイムでも読んだから、90年代末くらいまでの少女漫画については、そこそこ知識があると言っていいかと思う。
 にもかかわらず、「なんの取柄もなく努力もしない少女の許に、“白馬の王子様”が迎えに来てくれる」という定義に該当する作品を読んだ憶えがない。

 恋愛ものに興味がないのは昔からで、それらしきものは避けてきたから、その中に「白馬の王子様もの」も含まれてたのかもしらんが、少女漫画全体における割合は、ごく低かったんじゃないか? 
 いや、それを言うなら恋愛もの自体の割合も、それほど高くなかったのではあるまいか。もちろん恋愛をまったく扱ってない少女漫画は少なかろうが、恋愛メインでない作品ならごまんとあるぞ。
 まあ何をもって「恋愛メイン」とするか、という問題もあるが。そもそも私はフィクションにおける恋愛を、「物語の駆動」や「キャラクターの掘り下げ」の手段としか見ていないんで、恋愛に起因するドラマやコメディは楽しむけど、恋愛そのものの顛末や恋情の描写には関心がない。
 だから恋愛要素のある物語(少女漫画に限らないし、ノンフィクションも含む)における「恋愛そのものの顛末や恋情の描写」は印象に残らないし、「恋愛そのものの顛末や恋情の描写」中心の作品は読むのがつらい。
 そういう私にも楽しめる、恋愛メインでない少女漫画作品が大量にあるというのに、遅くとも80年代から現在に至るまで、「少女漫画=恋愛漫画」という偏見が飽きもせず再生産され続けている。

 言うまでもなく、「女は恋愛のことしか考えてない」という偏見があるからで、それはつまり「女は恋愛以外のことは考えるな」という願望なんだが、にもかかわらず(あるいは、だからこそ)「少女漫画=恋愛漫画=程度が低い」と見下される。未だに「少女漫画の枠を越えた」「少女漫画らしくない」といった物言いが、褒め言葉として通用している有様だ。

 そしてそのような少女漫画に耽溺していた女性は「(いい歳をして)白馬の王子様を待つだけ」になる、という言説は、18世紀後半以降のヨーロッパにおける、「ロマンス小説を読み耽る女は、玉の輿に憧れて現実に不満を抱き、道を踏み外す」というバッシングとまったく変わるところがない。中には「白馬の王子様を待ち続けて行き遅れる」どころか、「白馬の王子様願望に付け込まれて騙される」だの「結婚後も現実に不満を抱き、家庭を崩壊させる」だのと飛躍する人までいる。
 近代ヨーロッパでも現代日本でも、「読者(女性)はヒロインに自己投影している」ことを、(根拠もなく)大前提としているところも共通している。

 このような「有害論」を持ち出すことすらしない、「少女漫画を読むから女は馬鹿」「女が読むから少女漫画は馬鹿げている」というトートロジーは、1970年代末以降のアメリカのジャーナリズムによるハーレクイン・ロマンス叩きをなぞるかのようだ。
 こちらもおそらくは、「ヒロインへの自己投影」を前提としており、同時に「自己投影」という読書の仕方も見下している。

「日本におけるハーレクイン・ロマンス」に話を戻す。
 ハーレクイン・ロマンスは、「ハンサムで大金持ちだが愛を軽視しているヒーロー(ヒロインの相手役)を、ヒロインが愛の力だけで屈服させる」物語である。しかし上記のとおり、日本においては愛を「道徳」とする価値観も、恋を「男女間闘争」とする価値観も希薄である。
 したがって日本の読者が、「愛という絶対善の戦士であるヒロインが、愛を知らないセックスという悪行を繰り返してきたヒーローを改心させる正義の戦い」という道徳的側面を意識することはほとんどないと思われる。
 典型的なハーレクイン・ロマンスのヒロインは、容姿、才能、社会的地位といったスペックは、低めに設定してあるという(ただし容姿については、絶世の美女ではないものの可愛い系という設定が多い)。私はまだハーレクイン・ロマンス(および類似レーベル)は1冊も読んでいないんだが、古典ロマンスやロマンス要素の強いSFやファンタジー(近年、パラノーマル・ロマンスの進出が著しい)でも、ヒロインの容姿や社会的地位についてはハーレクイン・ロマンスと共通するようである。

 ただしSF/ファンタジーのレーベルから邦訳が出るだけあって、ハーレクイン・ロマンスの規格からすると変則的な作品が多いように思われる。ヒロインとヒーローが結ばれなかったりするのもそうだが、ヒロインの設定についても、容姿や社会的地位はともかく、才能は突出している場合が少なくない。
 気の強いヒロインが多いのも、「変則」であろう。古典ロマンスでも強気なヒロインが多いが、ハーレクイン・ロマンスでは内気なヒロインが人気だそうだ。

「愛という絶対善の戦士であるヒロインによる勧善懲悪」という側面を無視してしまうと、ハーレクイン・ロマンスは「なんの取柄もないヒロインが、ひたすらヒーローを愛するという以外はなんの努力もせずに、ヒーローを射止めて玉の輿」という物語になる。
 しかしすでに「そういうもの」として誹りを受ける少女漫画というジャンルが存在しており、かつ小説は漫画より上位カーストに置かれているため、ハーレクイン・ロマンスはバッシング対象とされてこなかったのではないだろうか。
(もちろん現状のハーレクイン・ロマンス低評価も充分不当だと思いますし、まして今後、今以上に叩かれればいいなどとは思ってないですよ)

 もう一つ、日本でハーレクイン・ロマンスが(比較的)叩かれない顕在的理由として、過激な性描写がないことも挙げられるんじゃないかと。まあこれについて論じようと思ったら、日本および欧米の女性向けポルノの歴史にまで踏み込まなきゃならず、そこまで脱線(オリエンタリズムの考察から)する気はないんで、ただの憶測、印象論に留めておきます。
(オリエンタリズムからしてがポルノの歴史と密接に結びついてるんだが、文献がないんだよ~)

「男女間闘争としてのロマンス」
「フィクションと自己投影」

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フィクションと自己投影

 尾崎俊介氏の『ホールデンの肖像』によると、女性向け紋切り型量産ロマンス(以下、「ハーレクイン・ロマンス」と総称)は、「女性読者がヒロインに自己投影する」ことを前提に「製造」されているという。
 言い換えれば、ハーレクイン・ロマンスの読者は「ヒロインに自己投影する女性」だと見做されている、ということだ。

 ここで言う「自己投影」とは、心理学用語としての、否認したい自己の資質(欠点)を他人に投影するという意味での「自己投影」(自分の心の弱さを認められないので、他人の心の弱さを非難するなど)ではなく、キャラクターと自己を同一視し願望を充足させている、といった程度の意味だろう。
 以下、「自己投影」の語はこの意味で使う。
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 ところで、私は「物語」のキャラクターに自己投影することがない。幼少期から冒険ものとかバトルもの(絵本や童話にそんなものはなかったが、TV番組とか)を専ら好んでいたが、非常にものぐさだったので、自分で冒険したり闘ったりしたいとは思わなかった。
 仲のよい近所の女の子もヒーロー番組が好きだったので、ままごととかよりもガッチャマンごっことかウルトラマンごっこをすることが多かったが、しんどいしめんどくさいしで、あまり楽しくはなかった。しんどくならないだけの体力が欲しい、とは思わず、体力があろうがなかろうが、とにかく動き回らねばならないのがめんどくさかった。
(それらのヒーローたちの人形でも持っていればそれで遊んだであろうが、生憎40年も昔のこととて、私も彼女も「男の子のおもちゃ」は買ってもらえなかった。)
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 そういう体験が関係しているのかは不明だが、その後の人生でもフィクションに自己投影はしないというか、できない。
 では感情移入はどうかというと、これも定義が曖昧な語だが、とりあえず悲しい場面を観たり読んだりすれば悲しくなるといったように、ミラーニューロンは活動する(出来の悪い作品でなければ)。 
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 ロマンスのような恋愛メインの作品が昔から苦手だったが、その理由は考えたことがなかった。ロマンスの読者は自己投影するものだ、という大前提を挙げられて、なるほど私は自己投影をしない(できない)からロマンスが苦手なのだな、と納得する……より先に、まず抱いたのが、
「ロマンスの読者人口は日米ともに相当高いが、その人たちが全員、ヒロインに自己投影するものなんだろうか」
 という疑問であった。
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 これは何も、私が自己投影しない/できないから、というだけではない。
『ホールデンの肖像』を読むよりも先に、ハーレクイン・ロマンスを中心にレビューしている読書ブログなどを幾つか回ってみていたのだが、多くのレビューが感情移入(共感)できるか否かを作品の出来の良し悪しの判定基準としている一方で、その読者が自己投影していると明確に読み取れるレビューは見当たらなかったのだ。
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 で、続けて『ロマンスの王様 ハーレクインの世界』というムック本を読んだ(『ホールデンの肖像』の一部は、これに掲載されている)。
 この時はあくまで「シークもの」について知ることが目的だったから、大部分の記事は流し読みで済ませたのだが、巻頭のハーレクイン・ロマンス(レーベルおよびジャンル)の解説からして「ハーレクイン・ロマンスは読者がヒロインに自己投影する」ことが大前提であった。
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 そうした中、特異だったのが、杉浦由美子氏の「「恋バナ」をするように読む」である。全3頁中、4分の3くらいは「読者はヒロインに自己投影する」観点で論じているが、残り4分の1まで来たところで
「読者もそうそう簡単に異国のヒロインに自己投影できない。もっと客観的に読んでいるのではないか」
 と異議を呈する。そして
「私はハーレクイン作品を読んでいると、まるで女友達の「恋バナ」を聞いているような気分になってくる。もちろん「恋バナ」には時々、さまざまな願望が混ざった「妄想」が入ってくるものだ。そしてそんな話を聞いていると、ついついそれに対してあれこれと意見を言いたくなる。」
 と続け、
「そんな会話(恋バナ)は現実の自分の恋愛には少しも役に立たない。でもそれでいいのだ。なぜなら「恋バナ」は時に現実の恋愛自体よりもよっぽど楽しいのだから。女性にとって「恋バナ」はメジャーな一大娯楽だ。リアルの恋愛以外を題材にして「恋バナ」をしてもいいのではないか。優れた「恋バナ」の題材としてもハーレクインは求め続けられるだろう。」
 と締めくくる。
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 フィクションに自己投影しない/できないという自身の経験からも、ハーレクイン・ロマンスの読者レビューからも、杉浦由美子氏の見解は「ハーレクイン・ロマンスの読者はヒロインに(全員が必ず)自己投影するもの」という大前提(決めつけ)よりも、はるかに腑に落ちるものであった。
 なるほど、私がハーレクイン・ロマンスに限らず恋愛もの全般に興味が持てないのは、「知らない人の恋バナ」に興味がないからなのか。
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 友人知人の恋バナなら、その人についてより深く知ることができるので興味深い。とはいえ、当人が話したくない事柄を無理に聞き出す気はなく、当人以外から聞く気もない。
 したがって知らない人の恋バナには、まったく興味が湧かない。私にとって恋愛ものとは、初対面の全然知らない人、もう二度と会うこともない人から、一方的に恋バナをされているようなものなのである。
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 しかしそうなると、じゃあ再三再四繰り返される、あの大前提(決めつけ)はなんなん? という話になる。
 ハーレクイン・ロマンス(レーベル)は日米ともに入念な市場調査を行っているそうだが、「読者はヒロインに自己投影するもの」という大前提でいいのか? 仮に、文化あるいは価値観の違いによりアメリカの読者は(ほぼ)全員が自己投影するとしても、日本では明らかにそうじゃないんだが?
 まあそんなことは、ハーレクイン・ロマンスの読者でもない私が気にしてもしょうがないことである。たとえリサーチが間違っているとしても売れているのだから、読者の求めているものと偶々一致しているのであろう。
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 それより気になるのは、ハーレクイン・ロマンスを嘲笑する巷の言説までもが、「ハーレクイン・ロマンスの読者はヒロインに(全員が必ず)自己投影するもの」と決めつけていることである。「自己投影している」と断じていないとしても、この大前提の下でなければ成り立たないものばかりだ。
 つまり、「自己投影なんかしていない」の一言で否定できるものばかりなのである。
 これは日本に限った話ではなく、前回の記事で紹介した、アメリカで1970年代末に始まったハーレクイン・ロマンス叩きおよび批判にも言えることである。尾崎俊介氏はバッシング(批判とは呼べない嘲笑や中傷)については、「低俗」とされた、としか言及していないが、私が見つけた事例では、明らかに「自己投影」を前提としている(後日紹介)。
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 フェミニズムからの批判は、「男性優位の構造を容認している」という主旨なので、自己投影ではなく、恋バナを聞くように「客観的」に読んでいる場合にも一応は当てはまる。しかしこれに対するハーレクイン・ロマンス擁護論は、「女性の社会的・経済的成功は現実では困難なので、その願望を充足させてくれるもの」とする。やはり自己投影が前提だ。
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 ところで尾崎氏の論文「後ろめたい読書――女性向けロマンス小説をめぐる「負の連鎖」」(オンライン閲覧可)によると、ハーレクイン・ロマンスへのフェミニズムの立場からでない批判(主に男性による)は、1970年代末に突然始まったものではない。
 もちろんハーレクイン・ロマンスすなわち「女性向け紋切り型量産ロマンス」が米国に登場したのは1963年、大ブームとなったのは70年代に入ってからであり、上記のアンチ・ハーレクイン言説はその反動である。

 しかし『パミラ』以来、「ロマンスの3条件」(前回の記事参照)を満たす「紋切り型ロマンス」(まだ「量産」ではない)は、連綿と女性読者に支持されてきた。「後ろめたい読書」によれば、「紋切り型ロマンス」の発展は、読書する女性の増加と軌を一にしている。
 そして『パミラ』刊行からほどない1770・80年代頃から、「小説を読む女」へのバッシングが盛んになる。小説とは具体的にはロマンス小説のことで、「若い御婦人は小説に影響を受けやすいので、ロマンス小説のような劇的な恋と玉の輿結婚に憧れ、現実に不満を抱くようになる」というのである。
 英国に限らずこれ以後、西洋諸国では「(ロマンス)小説の読み過ぎで堕落する女」というステレオタイプが形成され、定着する。

 確かにフローベールの『ボヴァリー夫人』(1857)は、そのものずばりの内容で、「ボヴァリズム」という用語を生んだ。また19世紀のロシア文学でも、「フランスの恋愛小説を読み過ぎたお嬢さん」というステレオタイプが時々登場する。
 大方は「ロマンチックな空想に浸りがちな、やや~かなり頭がゆるふわなお嬢さん」という揶揄や苦笑のニュアンスだったように思うが、『戦争と平和』のピョートルの「堕落」した妻エレナや、男に騙されて「堕落」しかけるナターシャ(後にピョートルに「救済」される)は、「フランスの恋愛小説」を読んでたっけ、どうだったかな。あの作品では、「フランス文化」それ自体が「ロシア文化を損なうもの」という扱いだったのは確かだが。

 それにしても実際のところ、ロマンス小説を愛読する女性のうち何割が、「ロマンス小説のヒロインのような人生に憧れ、現実に不満を抱」いたのであろうか。一時的にならともかく、何年も何十年も不満を燻らせ続けた女性は、そんなに多かったのだろうか。まして、エマ・ボヴァリーのように自身も周囲も不幸にした挙句に破滅するような女性が、現実にいたとしてもその割合は。
 まあフローベールは「ボヴァリー夫人は私だ」という言葉からも窺えるように、「理想と現実のギャップに悩む己自身」を彼女に投影したのであって、「ロマンス小説に耽溺する女性」を攻撃するのが目的だったわけではないのだが。
 しかしフローベールの意図がなんだったにせよ、エマ・ボヴァリーはまさに「(ロマンス)小説の読み過ぎで堕落する女」というステレオタイプそのものであり、そこには、ロマンス小説の愛読者の実像とは一切関わりなく、「女は馬鹿だから馬鹿げたロマンス小説なんかに夢中になり、馬鹿だからそれに影響されて堅実な人生に不満を抱き、堕落する」という偏見がある。 
 では、なぜロマンス小説が馬鹿げているかと言えば、「女が夢中になるもの」だから、であり、同語反復である。

 一方、文化果つる国アメリカではどうだったかというと、『パミラ』以来のロマンス小説は、前述の3条件の1つ、「ヒロインの固い貞操観がヒーロー(ヒロインのお相手)を改心させる」が強調され、若い女性に相応しい「道徳的な読み物」として大いに推奨されたという。
 しかも、1740年の『パミラ』の時点で、すでに「市民的道徳」の一部でしかなかった「信仰心」が、アメリカでは道徳の上に置かれ、20世紀に入ってもなおその状況だったのである。
 また、ヒロインとヒーローが結ばれるハッピーエンドではなく、「悪漢によってヒロインが誘惑され、堕落し、最終的に惨めな死を遂げる」という「誘惑小説」ですら、若い女性のための「道徳的な読み物」として喧伝されたという。
 なぜそんなことがあり得たかというと、これらの誘惑小説は完全なフィクションだったにもかかわらず、「実話」と銘打たれ、若い女性の「反面教師」だということにされていたからである(さすがに19世紀半ばには人気が廃れたそうだが)。

 実にアメリカらしい、プリミティヴな文化受容の仕方だな。
 そして上述したように、1970年代末になってようやく(ヨーロッパから200年遅れて)バッシングが始まるのである。

「自己投影している」という批判・バッシングは、「自己投影していない」の一言で否定できる、と上で述べた。しかし尾崎氏の論考に限らず文学史の類でも、ロマンス(ハーレクイン・ロマンスでも古典ロマンスでも)を登場させている(海外の)フィクションでも、「自己投影を否定するロマンス読者」に出会った覚えがない。
 では欧米のロマンス読者は、全員必ず自己投影するのか。
 そんなことはないと思うんだが、邦文文献が少なすぎ、かつこの記事で使っている意味での「自己投影」を英語でどう表現するのかすらわからない私には英文文献をチェックできないので憶測でしかない。が、たとえ否定したとしても聞く耳持たれないのではあるまいか。

 だって日本に限らず、フィクションへの「読者/視聴者/ユーザーは虚構と現実の区別がつかない」という批判・バッシングは、「読者/視聴者/ユーザーはキャラクターに自己投影している」とほとんど同義だからな。当の読者/視聴者/ユーザーたちが、「虚構と現実の区別はついている」と言っても、「自己投影していない」と言っても、まったく聞く耳持たれない。

 仮に虚構と現実の区別がつかなくて、問題を起こす人がいたとしよう(明白な犯罪に限らず、生き方や対人関係に支障を来すなど)。それは彼らがフィクションのキャラクターに自己投影した結果であるかもしれない。
 しかしフィクションのキャラクターに自己投影する人すべてが、虚構と現実の区別をつけられなくなるわけではあるまい。私はキャラクターに自己投影しない/できないので、推測でしかないが。自己投影したって、虚構と現実の区別がついていれば、なんの問題もないんじゃないの?

 要するに、特定の作品もしくはジャンルを叩く人々は、実際にそのファンがどのように作品を受容しているのかは眼中にない。その作品/ジャンルとファンを叩きたいから、「虚構と現実の区別がついていない」「自己投影している」ということにしたいのだ。
 フィクションを叩きたい輩にとって現実はどうでもいい、というのはすでに散々言い尽くされてきたことであり、にもかかわらずなんの効果も上げていないのだが、今日的な意味でのフィクションが成立して間もない18世紀後半以来の強固な「伝統」だもんな。効果がないのも当然なのかもしれないな。

 ところで「現実と虚構の区別がつかない結果、現実において問題を起こすから」という理由づけすらせず、自己投影という行為そのものを嘲笑する向きもあり、それを受けてか昨今では、同じ作品/ジャンルのファンの中でも、「自己投影しない派」が「する派」を叩くということが起きているようである。いや、昨今生じたのではなく、顕在化しただけかもしらんけど。

「男女間闘争としてのロマンス」

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男女間闘争としてのロマンス

 尾崎俊介氏の論文「後ろめたい読書――女性向けロマンス小説をめぐる「負の連鎖」について」(オンライン閲覧可)には、米国の「女性向けロマンス」(「通俗的で紋切り型」とされる恋愛小説。以下、代表的レーベルの名から「ハーレクイン・ロマンス」と総称する)の愛読者を対象として1980年に行われた、とある調査が紹介されている。
 それによると、調査対象者50人は全員女性で、大半が既婚者で子持ち。毎日夫と子供の世話をしなくてはならないし、人によっては外で働かなければならない。唯一の息抜きが、ハーレクイン・ロマンスを読むことなのだという。
 しかしこの「息抜き」は、同時に「後ろめたさ」で彼女たちを苦しめることになる。読んでいる間は家事や仕事を放棄することになるし、本を買うのにお金も使う。しかも彼女たちが愛するハーレクイン・ロマンスは、世間から「低俗な読み物」と見下されている。それらすべてが、「後ろめたい」というのだ。

 いや、息抜きというからには毎日何時間も読みふけるわけじゃなし、そのペースでは月に何冊も買えないだろう。しかもペーパーバックである。
 その程度の「贅沢」を後ろめたく思わざるを得ないって、どんだけ人権抑圧社会だよ。
 アメリカという国は、いろいろと差別がひどいが、それに対する抵抗運動も激しい(しばしば命懸けで行われる)ように思うんだが、このイメージがまったくの的外れというのでなければ、ハーレクイン・ロマンスの愛読者たちの状況は明らかに異常である。

 彼女たちの「息抜き」が同程度の金と時間を使う別の趣味だったら(別ジャンルの小説とか)、周囲からとやかく言われることは少なかっただろうし、何より彼女たちが後ろめたく思うことはなかったはずである。
 たとえば極端な話、ソフトポルノと揶揄されるハーレクイン・ロマンスではなく、がっつりハードポルノ小説だったとしても、バッシングはさらに強くなるかもしれないが、そういう「息抜き」を選ぶような女性は、「女がポルノを消費して何が悪い」と同じくらい激しく抵抗するだろう(アメリカという国へのイメージ)。

 調査が行われたのは1980年であり、今はそんなことはないと思いたい。しかし「後ろめたい読書」は、「ハーレクイン・ロマンスは読みたいけど、恥ずかしいから買えない」女性が大勢いることが明らかになった2000年代初頭の事例を挙げているし、ググったところ案の定と言うべきか、ハーレクイン・ロマンス(および類似レーベル)の電子書籍版が売り上げを伸ばしているそうだ。
 ハーレクイン・ロマンスを読むのは、それほどまでに「後ろめたい」行為なのだ。

 1963年にアメリカに登場したハーレクイン・ロマンスは、70年代に入って一大ブームを巻き起こす。これを受けて70年代末頃から、ジャーナリズムが「低俗な量産品とそれを読み漁る大勢の低俗な女たち」について、おもしろおかしく書き立てるようになる。
 こうした批判ですらない嘲笑や中傷に対し、女性の側からハーレクイン・ロマンス擁護論も出されたが、それらにしたところで、「低俗だけど、女性の息抜きになるからいいじゃない」というものであった。
 ジャーナリズムによる(男性が中心と思われる)バッシングの具体例は挙げられていないが、米国におけるハーレクイン・ロマンスの一般的評価は、翻訳小説を読んでいれば時々遭遇するものである(後日、事例を紹介する予定)。

 なぜハーレクイン・ロマンスは、アメリカ(ヨーロッパでも似たような状況らしい)でここまで叩かれるのか。
 この疑問はそのまま、「ではなぜ日本ではそこまで叩かれないのか」という疑問に繋がる。

 先日の記事で述べたように、オリエンンタリズム小説である「シークもの」について調べようとしたところ、このサブジャンルのみならずハーレクイン・ロマンスそのものの研究(邦文文献)がほとんど存在しないことを「発見」したのであった。
「日本におけるハーレクイン・ロマンス」に限定すれば、研究は皆無ではなかろうか(尾崎俊介氏の研究対象は、米国および西洋のハーレクイン・ロマンスである)。批評についても、せいぜいが「紹介」といったところだ。
 面倒なので出版点数の確認はしないが、ハーレクイン・ロマンスおよび類似レーベルから出版される小説、およびそのコミカライズ作品は、この出版不況においてすら相当な割合を占めているはずである。にもかかわらず、だ。

 まあアメリカでも、バッシング(低レベルな嘲笑や中傷)でない、研究や批評と呼べるものであっても、「低俗」であることを否定するものはほとんど無いようだ。
 それに比べれば、正面きって研究や批評の対象にされない代わりにバッシングも軽い(それでも読者にとっては充分すぎるほど不快であろうが)日本の状況は、遥かにマシである。

 アメリカでは70年代末のジャーナリズムによるバッシングに続き、80年代にはフェミニズムよるハーレクイン・ロマンス批判が始まった。要約すると、「経済力も社会的地位も高く傲慢なヒーロー(この場合はヒロインの相手役という意味)に、か弱いヒロインが虐げられ続けた挙句、従順な妻として屈服する」物語を喜んで読むような女は男の性的願望を助長させている、というのである。
 日米のフェミニズムの違いについては解らないので、日本でフェミニズムの立場から目立ったハーレクイン・ロマンス批判が見受けられない理由も解らないが、アメリカの場合は、その時期からも窺えるように、ジャーナリズムによるバッシング(「低俗な読み物に耽溺する低俗な女たち」)へのリアクションという側面もあるのではなかろうか。「女が全員そうだと思うな」的な。実際、そのうち沈静化したし。
 このフェミニズムからの批判に対し、やはり女性批評家によるハーレクイン・ロマンス擁護論も出された。ハーレクイン・ロマンスは「金も権力もあるヒーローを、ヒロインが愛の力で飼い慣らす」物語である、というのだ。

 ロマンスを男女間の権力闘争と見做すこうした批評は、結局のところ水掛け論にしかならないので、90年代には下火になったそうである。
 しかし近代小説の元祖にしてすべてのロマンスの元祖である『パミラ』(1740年)からしてすでに、男女間の権力闘争でヒロインが勝利する物語であり、作者のサミュエル・リチャードソンもそれを自覚していた。本編の前に、「編者リチャードソン」の「親友」を名乗る匿名の人物による『パミラ』への賛辞が置かれているのだが(もちろんリチャードソンによる創作)、その中に次のような一文がある。

 そうしてついには、この類まれなる忍耐と、勇敢にして俯仰不屈の守りによって、すっかり包囲されていた彼女が、包囲していた彼に対して輝かしい勝利を収めるのみならず、今度は彼をすっかり包囲してしまうということになるのです。

 この「勝利」とは、尾崎氏が挙げる、「ロマンスの元祖としての『パミラ』の3つの要点」のうちの②に当たる。

 ① ストーリーがすべてヒロインの一人称で語られる。
 ② ヒロインが固い貞操観によってヒーローを改心させる。
 ③ ヒロインはヒーローと結婚し、それによって身分が上昇する(玉の輿)。

 貞操は、キリスト教倫理の一部である。西洋においては道徳全般はもとより礼儀作法ですら「信仰」の要素であったが、『パミラ』の時代には、あまりに宗教色を前面に押し出し過ぎるのは敬遠されるようになり、「信仰」は「道徳」の一部となった。
 やがて「道徳」も敬遠されがちになり(すでに『パミラ』の道徳ですら、「偽善的で押しつけがましい」と反発を買っていた)、ロマンスのヒロインが行使するのは「愛の力」となったのである。

「愛」こそは欧米社会における絶対善にして最終兵器である。愛は元来、キリスト教的善である。キリスト教は重視しないが道徳は重視する者にとっても、愛は至高の道徳であり、キリスト教も道徳も敬遠する向きにとってすら、愛は最高の善である。

 では、パミラと彼女に続くロマンスのヒロインたちは善なる力でもって、具体的にはどのようにヒーローを「改心」させたのか。
 端的に言うと、ヒロインと結婚し、かつ死ぬまで彼女だけを愛し続けるようにさせたのである。

 キリスト教倫理においては婚外交渉は重罪だったから、結婚は「救済」であった(もちろん互いに不倫をしなければの話)。「愛ある結婚」が推奨されたのは、愛が絶対善であるというだけでなく、夫婦が互いに愛し合っていれば不倫もないはず、という理屈だからであろう。
 しかし近代に至るまで(というか近代に至ってもなお)結婚とは家同士の結びつきであり、しかも同じくらい永らく身分違いの結婚はほぼ不可能であった。
 独身の男女同士であっても、結婚を「恋愛の成就」とするのは難しく、プラトニックを貫かない限り「罪人」とならざるを得なかったのである。
 だが実態としては、女にとって婚外交渉は社会的な死を招きかねず(古い時代には実際に殺されかねなかった)、それが強い抑止力となったのに対し、男の場合は非難も実質的な制裁も、女のそれより重いことは稀だった。聖職者や信心家の説教など、馬耳東風である。

 パミラの「勝利」とはすなわち、「御主人様」に婚外交渉し放題の「権利」を放棄させ、「愛」によって彼女に一生縛りつけることに成功したという「勝利」である。
 パミラの勝利はまた「市民階級の勝利」でもある。市民階級の台頭によって、身分違いの結婚のハードルは低くなり、また結婚は個人同士のもの、という価値観も広まりつつあった。結婚を「恋愛の成就」とする可能性が広がったのである(『パミラ』は実話を基にしているのだそうである)。上流階級の男たちにとっては、下層階級の女に手を付けても、身分違いを理由に結婚を逃れられる可能性が減ったわけだ。
 しかも貴賤結婚で不利益を被るのは「貴」の側であり、御主人様にそこまでさせた、という意味でもパミラの勝ちなのである。

  また『パミラ』の時代より半世紀ほど下った18世紀末頃から、女には性欲がないという学説が次第に優勢になる。女は男を結婚によって「救済」する「家庭の天使」となったのである。

 ところで、西洋における愛は古来、キリスト教における絶対善であるだけでなく、「闘争」でもあった。この場合の愛とは、恋愛である(ヨーロッパ諸語に愛と恋の区別はないんだが)。以下、異性愛に限定して述べる。
 恋愛を闘争と見做す価値観が、いつ、なぜ、西洋に根付いたのかは不勉強で知らないのだが、闘争と性交を互換性のあるメタファーとするのは古来多くの文化に共通しているし、いわゆるプラトニックラブという概念は文化の洗練があって初めて成立するものであり、そうでなければ恋愛とはすなわち性愛である。
 肉欲が罪とされた西洋では、プラトン哲学としてのプラトニックラブが導入されるルネサンス期よりも早く、中世末期に貴婦人崇拝が流行し、以後も「理想的な愛」として称揚され続けたが、理想はあくまで理想であって、実態としては恋愛=性愛だった。

 上述のように、近代以前には結婚を「恋愛の成就」とするのが困難であり、高尚なプラトニックは理念上のものに過ぎないとなれば、即物的に性交渉の成立をもって「恋愛の成就」となる。
 ここに性交と闘争を同一視する価値観が加われば、「恋の勝者」は常に男ということになる。1回ヤりさえすれば、「勝者」は「敗者」を好きなように扱える「権利」を得たことになる。もちろん現実の戦争がそうであるように、「敗者」を手酷く扱うのは人倫に悖るが、「勝者」は人倫を無視することもできるのだ。

 このような恋愛観があるから、ドン・ファンのように次々女をヤリ捨てるだけの行為を、なんの疑問もなく「恋」と呼ぶし、女に膝を屈して散々愛を乞うていた男が、ヤった後は掌を返して冷たくする、という筋立てが、特にフランス文学では飽きもせずに繰り返される。
 つまりロマンスにおける結婚という結末は、

 ① ヒロインにとっては玉の輿(社会的・経済的な身分の上昇)という勝利だが、ヒーローにとっては身分違いの結婚によるさまざまな不利益(現代でもそれなりにある)を受けることになる「社会的な敗北」である。
 ② ヒロインにとっては愛という絶対善(元来はキリスト教倫理)によって、ヒーローに婚外交渉し放題という「悪」から足を表わせたという勝利だが、ヒーローにとっては「権利」喪失という敗北である。
 ③ ②のような倫理的な意味での「愛」による「敗北」のみならず、「闘争としての恋愛」においても、残る生涯を1人の女に縛り付けられるということは、その女への「敗北」を意味する。

 ②は、以前の記事で述べた「女性による男性の教化」であるが、婚外交渉し放題という「権利」に固執する男性にとっては、「善を振りかざす女による精神的去勢」にほかならない。
 日本でも「尻に敷く」という表現があるように、パートナーの女性に頭が上がらない男性を嘲笑するのは昔からだが、欧米と違って「女に飼い慣らされる」ことへの恐怖はそれほど根強くない。

 同様に恋を男女間の闘争とする見方も、日本にも一応あるにはあるが(「惚れた弱み」「惚れたが負け」等)、「勝ち負け」にこだわりすぎる向きは敬遠されるだろう。いや、身をもって痛感させられたからね。

 2000年代初頭のことだが、私はある非SF系小説新人賞への応募用に、恋愛を主題とした長篇を執筆した。応募に先立って数人の友人(互いに知り合いではない)に読んでもらったところ、彼らは異口同音に「主人公の性格がひどすぎる」とドン引きした。
 この主人公というのが、「惚れたが負け」の価値観を持つ15歳の少年で、私が表現したかったのは幼稚さゆえの冷酷さだったから、友人たちの反応は「大成功」であった。
 ……が、賞の選考委員をもドン引きさせて、「あまりにも殺伐としていて、この賞にはふさわしくない」という理由で3次選考通過止まりだったのだから、完全に本末転倒である。
 しかも読んでくれた友人たちからはその後、申し合わせたかのように(繰り返すが、彼らは互いに知り合いではない)距離を置かれ、最終的に縁が切れてしまったのだが、原因の少なくとも一部は、私自身が件の主人公と同じ価値観の持ち主だと思われたことであるらしい。もう散々ですよ。
 ことほど左様に、恋愛を勝ち負けだけで判断する見方は、日本人には馴染みがなく受け入れがたいものである。

 しかし恋愛を「男女間の闘争」と見るのなら、「(女性向け)ロマンス」とは「必ず女性が勝つ(必ず男が負ける)物語」である。
 その観点からすれば、たとえば『ジェイン・エア』(1847)は「男を支配せんとする女の底なしの欲望」の物語として読める。
 ただし前回の記事で述べたように、『ジェイン・エア』は「典型的なロマンス」とは言い難い。
 典型的なロマンスでは、そのヒロインも女性読者も、そのようなおどろおどろしい欲望をあられもなく抱いたりはしない。当時、ジェインの「反抗心」は男性からだけでなく女性からも批判されたという。

 ところで私は未だにハーレクイン・ロマンスもしくは類似レーベルの作品を一冊も読んでいないのだが、オリエンンタリズム小説分析のために「シークもの」を読まなくてはならないのなら、「典型的」な作品であればあるほど読む冊数を少なく済ませられる、ハーレクイン・ロマンスが好まれる理由の一つが「類型的」であることなら、人気のある作品ほど類型的すなわち典型的であるに違いない、という発想から、レビューサイトをあれこれ訪ねてみたところ、どうやら「気の強いヒロイン」は不評であるらしいことを「発見」した。
 これは何も日本特有の傾向ではない。本場アメリカでも人気なのは、か弱く内気で健気、清楚可憐なヒロインなのだそうだ。
 対するヒーローは傲岸不遜なので、その横暴にヒロインはひたすら涙を呑んで耐え忍ぶ。「踏みつけにされるヒロイン」ということで、「ドアマット・ヒロイン」と揶揄されている。

 一方、ジェイン・エアに限らず、古典ロマンスのヒロインは、私が知る限りでは総じて気が強い。パミラからして道徳を振りかざして御主人様に抵抗し(それが「押しつけがましい」と読者の不評も買っている)、『高慢と偏見』(1813)のエリザベスもダーシーに激しく反発する。
 まあヒロインの身分が特に低い場合は、いくら貞操観が強くても、気が弱かったら押し切られた挙句に罪悪感に押し潰される『テス』(トマス・ハーディ 1891)になっちゃうからね。

『あしながおじさん』(ジーン・ウェブスター 1912)も、ひねった構成ではあるが典型的なロマンスで、「あしながおじさん」は親切なだけじゃなくてジュディの行動をコントロールしようと干渉するが、彼女はそれに正論で抵抗する。また、出してもらったお金は何年がかりでも全額返済する気でいるので、おじさんが余分なお小遣いをくれたりしても断っている。
 すでに読んだ「シークもの」の元祖『シーク――灼熱の恋』(エディス・ハル 1919年)のダイアナも気が強いが、そもそも当時は気の弱い白人女性が砂漠の一人旅などしたりしない(現地人の同行者が何人いようと数には入れない)。

 ロマンスにおけるヒロインの性格の変化は、「身分の壁を乗り越える」ことがかつてより容易になったのが最大の要因であろうが、ハーレクイン社はリサーチを入念に行って、読者の好みを「製品」に反映しているそうなので、「気の強いヒロインは苦手」という傾向は元からあったのだがリサーチをするまで明らかではなかった、ということなのかもしれない。
 なぜ「気の強いヒロインが苦手」なのかは、読者の感情移入とか共感が絡んでくるのだが、それについては後日述べる(つもり)。
 作劇上の都合としては、ヒロインがヒーローを道徳や正論を振りかざして言い負かしたり、激しく罵ったりは一切せずに、ひたすら耐えて耐えて耐え忍んだほうが、ヒーローがついに膝を屈して愛を乞うた時のカタルシスは確実に大きい。
 また、愛を至高とするイデオロギーにおいては、ヒロインがヒーローに勝利するのは、あくまでも愛によってでなければならないのである。

 でも結局のところ、向こうの男性にとっては、ヒロインがどんな性格だろうと関係なく、「女が男を打ち負かす」物語がとにかく許せないんだろう。そもそも読んだ上で叩いてるのかも怪しいし。

 近作の「シークもの」を2冊ばかり読んだら、私がハーレクイン・ロマンスを読むことは二度となく、SFやファンタジーのレーベルに潜んでいるロマンス要素の強い作品を注意深く避けていくことになるだろう(いろいろ調べたことが役立てばいいな)。
 まして海外のハーレクイン・ロマンス事情など、いっそう関わりのないことである。ただ、「趣味を見下され、否定される」境遇というのは、どうにも他人事じゃなくてな。

 というわけで、次回はフィクションと自己投影について。

 まあどんな事情があろうと、自分で自分の趣味を肯定できない人には、じゃあその趣味やめれば、としか言えないんだが。

関連記事:
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「自然」と「文明」の性別は
サミュエル・リチャードソンはすごいぞ
本当は怖い『ジェイン・エア』

 

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「ノイズから物語を紡ぐ」こぼれ話的なもの

 

 

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「ノイズから物語を紡ぐ~脳科学の見地から夢を解く」のタイトルで、エッセイを寄稿させていただきました。
 脳科学の見地からだけでも、夢にまつわるネタは大量にあります。その中から、テーマである「悪夢」に寄せたトピックを選んで書きました。
 サブタイトルにある「夢を解く」というのは、前近代の卜占の一つである夢解き、精神分析の夢解釈に掛けています。前者の例として挙げたのがイスラムの夢解きで、付記した「参考文献」にある、イブン・ハルドゥーン(1332-1406)の『歴史序説』(岩波文庫)を参照したものです。

 というわけで、こぼれ話的なもの(今回はこの記事だけです)。

『歴史序説』は歴史そのものについてではなく、その前提として歴史学とは何か、文明とは何か、というところから論じ、各種職業や学問についてまで解説している。拙稿で言及したとおり、「夢解き」もその中に含まれている。
 夢解きの背景には、「夢は超常的存在からもたらされるもの」という考えがある。イスラムでは特に、預言者ムハンマドが「夢は46番目の啓示」と言った、という伝承があり、夢は神聖なものと信じられている。

 この「46番目」というのはどういう意味か。ムハンマドが受けた啓示が45回だったら話は簡単なんだが、クルアーンには114もの啓示が収められている。「43番目」とか「70番目」とする異伝もあり、頭を悩ます人もいたようだが、イブン・ハルドゥーンは「“たくさん”という以上の意味はない」とあっさり片づけている。
 それ以前に問題なのは、夢を啓示とすることである。これはムハンマド自身の夢に限定されてはいない。彼は毎朝、信徒たちから夢の内容を聞き出し、そこから予兆を読み取っていた、という伝承もある。つまりどんな人間でも(おそらくは異教徒でさえ)、毎晩のように啓示を授けられる、と言っているわけだ。

 啓示(神のお告げ)を授かる者のことを「預言者」と呼ぶのはユダヤ教、キリスト教、イスラムで共通しており、「啓示宗教」とも総称される。イスラムではこれ以上新しい啓示宗教が生まれるのを防ぐため、ムハンマドを「最後の預言者」としている(クルアーンにもそう記されている)。
 そのため、ムハンマドより後の人間が預言者を称すれば、それだけで異端者決定となる。スーフィズム(イスラム神秘主義)などでは、聖者と呼ばれる人々の大多数が「お告げ」を授かるのだが、それらは「天の声」とか「どこからともなく聞こえてくる声」といった感じでぼかされている。
 ムハンマドの言葉は神の言葉であるクルアーンに次ぐ権威だが、「ムハンマドは最後の預言者」(神)と「すべての人間の夢は啓示」(ムハンマド)との矛盾に頭を悩ませたムスリムはいなかったようである。
 まあ原理主義者でもない限り、イスラムは基本大らかだからね。

 しかし「夢解き」という言葉からも明らかなように、たいがいの夢は「解釈」(こじつけ)をしなければ意味不明であるし、どうこじつけようにも無意味な夢も少なくない。ムスリムもそれは解っていたから、同じくムハンマドの言葉として「夢には3種類あって、神からの夢、天使からの夢、悪魔からの夢がある」と伝えられている。
 イブン・ハルドゥーンによれば、「神からの夢」は夢解きの必要がない、すんなり理解できる夢、「天使からの夢」は夢解きが必要な夢、「悪魔からの夢」は混乱した(つまり無意味な)夢である。

 人知では及ばないことを知るのに、「夢のお告げ」を待つのではなく、積極的に呼び寄せる方法もあった(『歴史序説』第1章)。
 数日間の斎戒の後、就寝前にある呪文を唱える。すると「私はあなたの正確な写しです」(ママ)と名乗る人物(霊的分身?)が現れ、知りたいことについてのお告げを与えてくれるのだそうである。イブン・ハルドゥーン自身もこの方法で、知りたかったことを知ることができたと述べている。
 呪文も記されており、「タマギス・バァガン・ヤスワッダ・ワグダス・ナウファナ・ガディス」(邦訳ではラテン文字表記)という。イブン・ハルドゥーンは「アラビア語ではない言葉」としているだけだが、訳注によると、元の言葉はアラム語だと推測されており、近い発音を当てはめると「汝が眠る時、呪文を言えば、突如として眠りが訪れる」となるという。

 明らかに「望みの夢を見る」ではなく不眠治療の呪文ぽいし、しかも元のアラム語では呪文ですらなさそうである。
 アラム語を知らないアラブ人(別の民族の可能性もあるが)のまじない師が、アラム人に「見たい夢が見れる呪文」を教えてもらおうとして、言葉の行き違いで上記の「呪文」を教えられたとか、元々は不眠治療の呪文としてアラム語を使ってみました、というのが時を経て用途が変わってしまったとか。「急急如律令」みたいなものだろうな。

「知りたいことを知る夢」というのは、「明晰夢」の一種なのかもしれない。
 明晰夢というのは、夢だと気づきながら見る夢である。夢が支離滅裂なのは前頭葉の論理的判断を掌る領域(背外側前頭前皮質)がOFFになるからだが、稀にこの領域がONのまま夢を見ることがある。
 その状態の夢でも非現実的なことは起きるのだが、普通の夢と違って、「これは現実にはあり得ない、つまり夢だ」と気づくことができる。そこから訓練次第で、思いどおりの夢を見ることができるそうである。が、私が参照したどの本(拙稿末尾の「参考文献」に挙げた3冊、ほか数冊)でも、「訓練」の具体的内容に触れているものはなかった。
 いずれにせよ、思いどおりの夢を見るための第一歩は、夢を夢だと気づくことだそうである。
『歴史序説』で挙げられている例は、夢と自覚している夢なのかどうか明言はされていないが、斎戒と呪文という儀式はつまり、見たい夢を見るための自己暗示にほかならない。

『TH』拙稿で明晰夢に言及しなかったのは、「悪夢」がテーマだったためだが、もう一つ、私自身が「明晰夢のような夢」を割合よく見るからでもある。
「半明晰夢」とでも言ったらいいのか、明晰夢のようではあるけど、解説されてる明晰夢とはまた違う。そういう自分が、「明晰夢とは、かくかくしかじかである」とは記述しづらくてね。

 夢の内容は比較的よく憶えているほうだと思うが、記録はつけていないので、以下はだいたいの印象である。
 私が見る夢は「鑑賞型」と「体験型」に大別できて、前者は映画を観たり、小説や漫画を読んでいる夢。それらの「作品」は、いずれも現実には存在しない。「体験型」に比べて見る頻度は低いが、それでも3、4割にはなると思う。「ジャンル」は決まってSFやファンタジーなど、非日常系である。
「体験型」は私自身が夢の中でいろんな体験をする。日常的なシチュエーションから始まり、ストーリー性は低くて、とりとめがない。

 どちらのタイプでも夢だと気づく場合と気づかない場合があり、「鑑賞型」のほうが夢だと気づきやすい。
 夢だと気づくきっかけは、「体験型」の場合は、何か非現実的なことが起こる――たとえば人や動物、物がいつの間にか別の何かにすり替わったり、脈絡もなく場面が変わったりする。「鑑賞型」では、物語の辻褄が合わなくなることである。

 夢だと気づいていてもいなくても、まずやることは「バグの修正」である。思考するだけで修正できるが、あまり巧くいかない。
 たとえば「体験型」の夢だと、可愛い子猫と遊んでいたら、いつの間にか猫がぬいぐるみに変わってしまう(ちなみに猫は好きだが、飼ったことはない)→ぬいぐるみじゃない、本物(?)猫がいい→ぬいぐるみは生き物に変わるが、なぜか猫ではなく人懐っこいがタスマニアンデビルに似ている未知の動物→猫のほうがいい。だいたいこれ、野生動物じゃないか?→いつの間にか周囲は森になっている→ああ、この森に棲んでるのか……って、さっきまで屋内にいただろ!
 ……ってな具合である。「鑑賞型」の場合も、「体験型」よりは巧くいくが、すぐにまた辻褄の合わない展開になってしまう。

 また、どちらのタイプでも夢だと気づいているほうが修正は巧くいくものの、程度の問題に過ぎない。「体験型」の場合、夢だと気づいている状態で修正を推し進めようとすると、目が覚めてしまう。明晰夢を見ている時の意識は非常に不安定な状態なので、長く続くことはないのだそうだ。
 いろんなテキストの解説によれば、明晰夢は「訓練」によって超人的な活躍をしたり、神秘的な体験をしたりすることができるのだそうだ。しかし私は、夢だと気づいている時でも、そういう体験をしたいと思ったことがない。覚醒時でも、そういう夢を見たいとは思わないからな。
 強いて言うなら、どうせ夢の中の体験なら、もっと猫と遊びたいが、上記の例でも示したとおり、巧くいった試しがない。
 夢だと気づいていようといまいと、夢の中でも私は私で、どんなかたちでもスペックが上がることはない。仮に「体験型」の夢で、超人的な体験をするために自分のスペックを上げようと試みても、たぶん目が覚めてしまうだけだろう。「鑑賞型」では徹頭徹尾、鑑賞者に徹してるし。
 そもそも「体験型」は、そのとりとめのなさにイライラさせられる。「鑑賞型」は物語に一貫性があるので、夢を見るならそっちのほうがいいが、夢の「種類」を選ぶこともできない。

 夢の中で「鑑賞」する「作品」は、必ず私好みである、当初は。だから辻褄が合わなくなると、非常にイライラさせられる。夢だと気づいていようといまいと、バグ修正を繰り返しているうちに、ストレスがたまってくる。
 細かい修正を根気よく続けるお蔭か、「物語」の一貫性は保たれるものの、どんどんグロくてエグい展開になる。必ずなる。ものすごく生々しく、翌日は一日中胃がむかつくことすらある。
 グロくてエグいのが嫌だとか、どの口が言うかという感じですが、限度というものがあるのですよ……修正したくても、プロットや設定等をコントロールすることはできない。できるのは、細かい辻褄合わせだけである。

 以上のことから判るのは、私は自覚している以上に整合性にこだわっているということだが、それはともかく、こんな半端なコントロールしかできないのに、果たして明晰夢と言えるのだろうか。
 夢だと自覚しつつ、かつ(多少は)コントロールできる夢、というのは、遅くとも高校時代から見続けている。当時に比べると、現在はコントロール能力はいちおう向上しているし、夢だと気づく頻度も上がったようだが、30年間の進歩としては微々たるものである。「訓練」の方法なんて、見当もつかないしな。

 そういうわけで、明晰夢については歯切れの悪いことしか書けないのでした。

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「自然」と「文明」の性別は

 いちおう前の記事からの続きですが、読んでなくてもいいですよ。

 帝国主義的なジェンダー観としてしばしば槍玉に挙げられるのが、「男は文明/文化、女は自然/野性」という二元論である。文明が自然/野性を征服するように、女は男に征服され、開拓されなくてはならない、という理屈だ。

 てゆうか、この二元論は未だに時々聞く。言ってる人は女性賛美のつもりらしいが(この価値観の「逆転」については後述)。まあとにかく本来の意味では、男は文明/文化が自然/野性より優れていると思っているから、自らを文明/文化としたのである。
 しかし現在まで生き残っている、これとは真逆の二元論がある。すなわち「男は自然/野性、女は文明/文化」である。

 中世~近世のヨーロッパにおいて、文化的であること(洗練されていること)のバロメーターは礼儀作法(エチケット、マナー)だった。騎士道の貴婦人崇拝は、騎士が貴婦人に相応しい存在になるべく己を高める、というのが基本だが、「高める」というのは単に武勲を上げることではなかった。信心に励み、高潔に振る舞い、彼女を讃える詩を大量に詠み、礼儀作法を磨く。
 こうした研鑽は騎士が自力で行うもので、貴婦人は一切手出し口出しすることなく、結果だけを評価するのだが、これも「男性を精神的・道徳的に導く女性」像の一つである。

 貴婦人崇拝という観念が成立したのは、中世後期(12、13世紀)である。実態がどんなものだったかはともかくとして、その観念は文学によって後世に伝えられ、永く影響力を保った。
 それにより、礼儀作法とは「貴婦人の前で恥ずかしくない振る舞い」とほぼ同義となり、また貴婦人は詩や音楽など芸術の審判者となった。
 貴婦人を中心とするこのような「洗練された文化」が逸早く成立したのがフランスで、17世紀初頭には、貴婦人によって「サロン」が主催されるようになる。同時期に書かれた『信仰生活への手引き』という書物では、社交生活において粗暴な男性に洗練された趣味を教えることは女性の義務でありキリスト教の理念にも合致する、と述べられているという。 .

 こうした女性主導の「サロン文化」は「洗練された文化」そのものとして、他のヨーロッパ諸国の憧れの的となった。各国の上流階級はこぞってサロン文化を採り入れた。彼らはサロン文化を「女性的文化」と見做したが、そこに否定的な意味はまったくなかった。「女性的文化」=「洗練された文化」だったのである。
 ところが本場フランスでは、早くも17世紀半ばから、サロンで活動する「プレシューズ」(才女)たちを批判・風刺する男たちが現れた。モリエールはその一人で、「滑稽なプレシューズたち」(邦訳タイトルは「才女気取り」など)という戯曲を書いて揶揄した。

 1世紀後には、「女性的文化亡国論」が盛んに唱えられるようになる。筆頭はモンテスキューで、『法の精神』(1748年)では女性的文化の特徴は奢侈、虚栄、優柔などであり文明を衰退させると述べる。
 これに対し、文明を発展させることになるのはもちろん「男性的文化」ということになるのだが、具体的にどのような文化が想定されていたのか、私が参照した論考では触れられていなかった。まあ「洗練されていない文化」「質実剛健な文化」なのは確かである。

「男は自然/野性、女は文明/文化」という二元論はまだ確立されていないが、文明(都市はその象徴)を悪、自然(農村などの「田舎」も含む)を善とする思想は古代ギリシア・ローマ、旧約・新約聖書にも見られる。
 中世を経てヨーロッパ各地で都市が発達してくると、自然への憧れも復活してくる。モンテーニュは『エセー』(16世紀末)でこの思想をはっきりと打ち出したが、彼はまた「高貴な野蛮人」という概念も生み出した。自然や未開人、田舎といったものへの賛美は、フランス国内で受け継がれ発展し、ルソー(1712-1778)によって完成された。この「先進思想」はもちろん他のヨーロッパ諸国や北米にも伝播した。

 この段階では「野性」は平和と寛容の象徴だったが、やがてロマン主義の時代に入ると、前時代までの理性至上主義への反動から、「野性」の中でもそれまで否定されてきた「蛮性」「獣性」への憧憬も生じる。
 革命とか国民国家とかの熱狂と血生臭さはロマン主義と強く結びついているわけだが、とりあえず芸術分野に話を絞ると、最も端的なのが異教時代のヨーロッパの「復権」だろう。「野蛮な異教徒」として否定してきた古代ヨーロッパ人を、「先祖」として再認識し、誇りを抱くようになったのだ。

 この時代に流行したオリエンタリズム(東洋趣味)の絵画にはオダリスク(後宮の女奴隷)を主題にしたものが多い。オリエンタリズム(東洋蔑視)の図式としてよく引き合いに出されるのが、「西洋=文明、東洋(非西洋)=野蛮」だが、オダリスクたちが象徴するのは、明らかに「野蛮」ではなく「退廃した文明/文化」である。

 自然/野蛮の価値が上がると、シーソーで文明/文化の価値が下がる。とはいえ「男による女の征服」=「文明による野蛮/自然の征服」のメタファーは、帝国主義と非常に相性がいい。そんな中、「男は自然/野蛮、女は文明/文化」という図式はなかなか表に出てこないだろう。

 しかし帝国主義の下、西洋の男たちが「文明による野蛮/自然の征服」と称して非西洋の土地や民族を征服している間、西洋の女たちに負わされた役割は「家庭の天使」として男たちを「精神的・道徳的に導く」ことだった。この「道徳」には礼儀作法、すなわち中世以来の「文化のバロメーター」も含まれる。
 ペリーが日本に向けて出航する準備をしていた1852年、欧米で高まっていた日本への関心を受けて、英国の学者チャールズ・マクファーレンが、当時知られていた日本に関する情報を掻き集めて1冊の本を出した(『日本1852』のタイトルで邦訳あり)。
 マクファーレンは日本女性を優雅で魅力的だと称賛していて、ジャポニズムの走りともなっているが、その前置きとして「一国の女性の品性は、その文明の高さをはかる究極の、そして最も容易な評価基準」と述べているそうである。それが当時の通念だったのだろう。

 自らを文明、征服対象を野蛮と見做す以上、野蛮を賛美するのは矛盾しているが、社会ダーウィニズム(「弱肉強食」やら「生存闘争」やら)のお蔭で、獣性や蛮性の正当化は容易になった。
 また露骨な暴力表現への禁忌も、蛮性の賛美の支障になったと思われるが、この禁忌も時代が下がるにつれて緩和された。「蛮人コナン」の誕生は、1932年である。

 このシリーズにおける「野蛮>文明/文化」の図式は、非常に明快である。しかもコナンは「北方」の民であり、すなわち非西洋人ではなく西洋人の輝かしい祖先であることが暗示される。非西洋的な蛮族は、退廃した文明国と同じく、コナンの征服の対象である。
 蛮人コナンが真の男であるのに対し、文明国の男たちは軟弱だったり邪悪だったりするが、「文明=女」という単純な図式は見いだせない。出てくる美女のほとんどが文明世界に属し、そんな彼女らをコナンはモノにしたり袖にしたりと思うがままなのだが、これを「男=野蛮による女=文明の征服」と解釈するのは、こじつけが過ぎる(そんなつまらん話だったら、ヒロイック・ファンタジーの元祖にして金字塔たりえてないよね)。

 古代ゲルマン賛美といえばナチズムで、自分たちの蛮行も古代ゲルマン人の蛮行になぞらえて正当化したわけだが、一方で近代的な文化、「洗練された文化」はユダヤ人の所産として排除した。で、ユダヤ人は「女性的な人種」と見做されていて、つまり「女性的文化亡国論」ナチズム版なわけだ。
 ちなみにユダヤ人と女性の同一視を確立したオットー・ヴァイニンガー(1880-1903)は、改宗ユダヤ人なんだよな。なんという屈折。

 しかし征服活動を文明の利器に頼っている限りは、「男=文明」の図式を完全に否定することはできない。その点、米国の反知性主義は文明の完全否定が可能だ。文化的なことはすべて、礼儀作法も教養も芸術も「男らしくない」と切り捨てる。
 反知性主義だから、細かい理屈とか考えなくていいし(というか考えてはいけない)、言行に矛盾が出ても気にしなーい。

 とりとめがなくなってきたな。
 戦闘、征服、殺人のメタファーに強姦を持ってくるのは、古今東西ほぼ共通である。そこに文化的・文明的なのは自分たちだけで、異民族はすべて野蛮だとするイデオロギーが加われば、「男=文化/文明、女=野蛮/自然」の二元論は完成する。
 それを露骨に表現したのが古代ギリシアで、彼らの美術や文学には「異民族の征服」の表徴として、「ケンタウロスの征服」と「アマゾネスの征服」という二つの主題がセットで描かれた。
 半人半獣のケンタウロスは、もちろん「野蛮=獣性」の象徴である。これに対しアマゾネスの征服は、単なる強姦の暗喩ではない。アマゾネスは女だけの戦闘民族であり、「男によって支配される秩序正しい社会」への叛逆の象徴であり、忌むべき「野蛮」そのものにほかならない。

 ヨーロッパ帝国主義の「男=文化/文明、女=野蛮/自然」の二元論は、古代ギリシアのものを受け継いだと見ていいだろう。私の知識じゃ、その軌跡を跡付けることはできないんだが。
「我々」以外はみな野蛮、という思想がヨーロッパの専売特許じゃないのは言うまでもないが、たとえば中国にしてもイスラム世界にしても、「男=文化/文明、女=野蛮/自然」の二元論は、ヨーロッパほど明確には現れていない。
 しかし中国、インド、イスラム世界でも、この二元論は共有されていた(それ以外の文明圏ではどうだったのかは知らない)。それを象徴するのが、犬人国と女人国である。

 犬頭人身の怪物もアマゾネスも、古代ギリシアでは辺境に住む蛮族とされたが、これが3、4世紀の「アレクサンドロス大王伝説」以降、しばしば隣接する民族同士、あるいは一方が西の果て、他方が東の果てに住む、というようにセットにされるようになった。
 半人半獣の犬人は、ケンタウロスと同じく野蛮人の獣性の象徴であり、しばしば食人族だとされた。
 イスラム世界の博物誌・地理誌はヘレニズムのものをそのまま踏襲しているが、インドと中国の犬人国・女人国伝説が、独自のものなのか他の文明圏から影響を受けているのかどうかは不明である。しかし意味するものは同じであろう。

 女=自然というメタファーは、古代の地母神信仰ともちろん関係あるが、信仰は消えてメタファーだけ残ったと見るべきだな。

 一方、「男=野蛮/自然、女=文化/文明」について。
 ユダヤ教だと、バビロニアやペルシア、エジプトといった先進文明に対して、自らを沙漠や荒野に投影する傾向があったし、士師の時代まではほとんどの異民族はユダヤより進んだ文化を持っていたから、「異民族(異教徒)=悪=文化/文明」という図式が成り立った。
 さらにサムソンを誘惑して陥れるデリラやソロモンの異教徒の妻たちには、こうした異教の先進文化の「悪」と女を結び付ける思考が窺える。
 新約の『ヨハネ黙示録』ではより明確で、「大淫婦バビロン」はバビロン(イスラエルの民を迫害した邪悪な文明)を邪悪な女になぞらえたものであり、ローマ帝国の寓意だとされる。

 アテネはまさに文化を掌る女神だ。ただし知恵(学問)、芸術・工芸、機織り・糸紡ぎのうち、女性の領分は機織り・糸紡ぎだけで、しかも機織りはまだしも糸紡ぎは芸術性が入る余地のない単純労働である。
 彼女はまた、「男の領分」の真髄と言える「戦争」の女神でもあるが、もう一柱の軍神アレスが狂乱や破壊など戦争の負の側面を掌るのに対し、栄光や戦略など正の側面を掌る。
 アテネはギリシア最強国アテナイの守護神であり、神話の中でも扱いがよいが(後述)、アレスは粗野で残忍な神として嫌われており、それも悪役というよりは、アフロディテとの不倫現場を押さえられて笑いものになるなど、不名誉な扱いである。
 アレスはケンタウロスと同じく、男の獣性や蛮性を象徴しており、ケンタウロスのように征服されたりはしないまでも、理性的なアテネの風下に置かれるべき存在なのだ。
 制御不能の自然の象徴である荒ぶる海神ポセイドンも、アテネとの知恵比べに負けている。

 アテナイの支配層は、ケンタウロスに象徴される「男の野性/獣性」を恐れていた。それは文化/文明を破壊するからだ。だからアテネという「女」を、文化(および理知)の象徴に据えた。
 そうして祀り上げるからには、アテネは並みの女、並みの女神であってはならない。彼女はアテナイ人の「母」である。鍛冶の神ヘパイストス(製鉄は当時の科学の粋)との間に、性交も妊娠も出産もなしでアテナイ人の始祖をもうけた。彼女自身、母の産道からではなく、父ゼウスの頭から生まれている。
 つまり処女にして母であるばかりか出産という「女の穢れ」から完全に切り離されている、聖母マリアの上を行く「超」女なのだ。

 アテネは、男たちを「尻に敷」いたり、その野性/獣性を矯めすぎて「去勢」してしまうことは決してない。彼女は英雄たちを励まし、助言を与え、物理的な援助も行うが、あくまで脇役に徹し、彼らのお株を奪ったりはしない。アイスキュロスは彼女についてこう述べる。
「よろずにつけて男に味方し」「心底から父親側」
 だから彼女は、女が突出することを赦さない。美貌を誇ったメドゥーサを怪物に変え、機織りの才(絵を織り出すので、単なる技術ではなく芸術の才)を誇ったアラクネは打擲し恥辱を与えて自殺に追い込んだ。

「男=野蛮/自然、女=文化/文明」の最も初期の例は、間違いなく『ギルガメシュ叙事詩』である。
 獣人エンキドゥは聖娼シャムハトと7日間性交し、獣としての力を失う代わりに人間の知性を得た。シャムハトはさらにエンキドゥに人間についての知識を与えた。
 エンキドゥとギルガメシュは、森を守護する怪物や聖なる牛を殺す。神々は2人のうち一方を殺すことにし、エンキドゥを選ぶ。死が迫ったエンキドゥは、自分を人間にしたシャムハトを呪う(人間にならなければ、神罰を受けることもなかった)。しかし太陽神シャマシュに、「シャムハトのお蔭で人間になれたから、ギルガメシュと親友になることもできたのだ」と諭され、彼女を赦して死を迎える。

 すでに4000年以上昔、「男を教化し、成長させてくれる女」への希求と、「男を教化し、その野性やら才能やらを矯めてしまう女」への恐怖が、エンキドゥとシャムハトという一組の男女に凝縮されているのである。
 それにしてもエンキドゥは、ずいぶんと人間ができてるなあ。

すばらしきウィルフ(前々回の記事)
名言だそうですよ。(前回の記事)

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名言だそうですよ。

 ゾラの「スルディス夫人」(『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家』所収)とゴードン・R・ディクスンの『こちら異星人対策局』の「ウィルフ」のエピソードで、欧米文化には「小市民的道徳を押し付けて男を矮小化する女」というステレオタイプがあるんじゃないかと思い至ったのが、たぶん1年くらい前。
 そこから折りを見てちょっとずつ調べているうちに行き当たったのが、ロマン・ロラン(1866-1944)の「名言」とされる次の言葉である。

 女性の愛情は、天才を飼い慣らし、平準化し、枝を切り、削り、香りをつけることに専念する。そして、ついには天才を自分の感受性、小さな虚栄心、平凡さ、それに自分たちの社交界の平凡さと同程度の者にしてしまう。

 ……いや、名言か、これ?
 という疑問はさておき、「ロマン・ロラン 名言」でググると、多くのサイトで見つかる言葉である。ロマン・ロランの「名言」を10以上紹介しているサイトなら、まず載っている。出典は『ジャン・クリストフ』(1903-1912)だそうだが、大長編なので確認してない。
 原文(仏語)もチェックしたかったんだが、併記してあるところは一つも見つけられなかった。英語サイトなら、と「romain rolland quotes」でググったが(仏語サイトをチェックできるだけの語学力はない)、この「名言」自体、発見できませんでした。ロマン・ロランの名言を紹介している英語サイトもたくさんあって、30も40も50も紹介しているところも少なくなかったんだが。

 うん、ポリティカル・コレクトネス的には、どう考えたって「名言」じゃないよね、日本ではなんの疑問もなく「名言」扱いなのって……いや、お蔭で知ることができたしね。現代の価値観にそぐわないからって「なかったこと」にするのはよくありませんね、いや、掲載した方々は「名言」だという認識なわけですが。
 ロマン・ロランはこの「名言」と表裏をなす「名言」も残している。

  男性は作品を創る。しかし女性は男性を創る。

 これも『ジャン・クリストフ』からだそうだ。これもまた英語でググっても見つけられないが、日本人なら「女性賛美の名言」だと認識しそうですね、てゆうか明らかにそういう認識で紹介してるサイトは一つならずあったし。てゆうか、一つ目の「名言」より掲載サイトが少ないのはそのせいか?
 とにもかくにも、この二つ目の「名言」が「男性を精神的・道徳的に導く女性」像を表現しているのに対し、一つ目の「名言」はその裏面である「男性に小市民的道徳を押し付けて矮小化する女性」像を表現しているのは明らかだ。フランス語で「天才」(genie アクセント記号は省略しました)って男性名詞だし。

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すばらしきウィルフ

『ハヤカワ文庫SF総解説2000』の刊行(2015年)以来、未読のSFの山脈から、おもしろそうなものをチェックしては片っ端から読んでいる。
 80年代半ばにジュヴナイルSFを卒業して、早川や東京創元に「進学」したものの、数年で「冬の時代」が来てSFから離れてしまい、ブランクは10年に及ぶ。SF作家のくせにSFを充分読んでいるとは言えなかった私だが、お蔭でようやくそのブランクを埋めつつある。.

 古典的傑作として名前だけは知っていたが読んでいなかった作品、名前も知らなかった埋もれた傑作、そこまで行かずとも、忘れられているのが惜しい佳作・良作にたくさん出会うことができた(まだリストは長いので、今後も出会えるであろう)。
 明らかな外れには、一度も当たっていない。執筆者諸氏が限られた字数で、的確に解説をされておられることの証左であろう(私が担当した4本もそうだといいんだが)。客観的な出来の良し悪しだけでなく、単に好みじゃなかった、ということも今のところない。
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 とはいえ、「ここをこうすれば、もっとおもしろくなっただろうに」という、残念な作品にはそれなりに当たっている。「ここをこうすれば」というのが解りやすいものばかりなので、それはそれで勉強になるから、「残念な読書」だったということにはならない。
. そういう作品の一つが、ゴードン・R・ディクスンの『こちら異星人対策局』(1998年 原書THE MAGNIFICENT WILFは1995)である。もう1年くらい前になるかな。大好きな『地球人のお荷物』(解説を担当させていただいた)の作者の片割れだし、ファンタジーの『ドラゴンになった青年』も結構おもしろかったので、読んでみた。
 中村融氏の解説に「職人技の娯楽作といったところか」とあるとおり、ベテランが力を抜いて書いた感じの軽いコメディである。残念ながら「軽妙洒脱」の域にまで達していないのは、おもしろくなりそうなアイデアを幾つも出しながら活かしきれていないのが主因であろう。
 以下、ネタバレ注意。
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 各章は短く、番号が振ってあるだけでタイトルはない。しかし幾つかの章がまとまって1つのショートストーリー(事件とその解決)をなしており、長篇というよりは連作短篇の体だ。
 その「第1話」では、主人公の若い夫婦の飼い犬が送信型のテレパシスト(自分の思考を相手に伝えることはできるが、相手の思考は読めない)になってしまう。「第1話」ではたいへんなドタバタを引き起こすのだが、「第2話」以降、この設定はまったく活かされない。第1話でこの犬が可愛いだけに残念である。
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 こういった「おもしろくなりそうなのに活かされていないアイデア」の一つが、「ウィルフ」である。なお本記事タイトルは、上述した原題THE MAGNIFICENT WILFに拠る。
 ある事件で主人公のトムは、異星人の暗殺者に無理やり弟子にされる。その暗殺者が、トムの妻ルーシーを、「ウィルフ」と勘違いする。トムはその勘違いを利用して、命じられた暗殺をせずに済ませる。ルーシーは「ウィルフ」がなんなのか知らないが(トムは知っている)、話を合わせる。
 一件落着後、ルーシーはトムに、ウィルフとは何かを尋ねる。
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 トムの口調は鈍くなった。「ウィルフは地球人の女性に似た姿をしてる。ともかく、異星人にはそう見えるらしい。でも、地球人とは全然ちがう種族だ。性別もない。宇宙のあちこちで、ほかの種族を慕ってつきまとう。いったん親しくなった相手には、とことんまで尽くす」
(中略)
「ウィルフ人は非常に道徳観が強い。その上、正義感も強い。ほかの生き物の性格を変えて、自分たちと同じ道徳観を持たせることに大きな喜びをおぼえる。当然、ほかのウィルフ仲間の性格を変えるのは難しい――みんな、もともと道徳観が強いからね。だから、ほかの異星人に近づいて、非常に知的なやりかたで絆を結ぶんだろう」
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 この「ウィルフ」の定義、「家庭の天使」に代表される、西洋近代の女性像に当てはまる。「家庭の天使」とは、ヴィクトリア朝の中・上流階級における主婦の理想像であり、彼女たちの役割は夫と息子に自己犠牲的に献身し、また次世代の「家庭の天使」(娘)を再生産することだ。
 といっても、こうした階級の主婦は家事も子育ても子供の教育もすべて他人任せにするのが理想とされたから、夫と息子への献身とは彼らに慰安を与えること、そして「道徳的・精神的に導く」ことである(後者は「家庭の天使の再生産」にも適用される)。
「道徳的・精神的に導く」とは具体的には、家庭内のモラルを監督することだったらしいが、女性にそれが可能とされたのは、「女には性欲がないから、男より道徳的に優れている」というものだった。
「家庭の天使」という名称は英国のものだが、他のヨーロッパ諸国や米国でも、似たり寄ったりの理想の女性像が形成されていた。
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 さて、「ウィルフ」とは「ばか、まぬけ」を意味する俗語である。このことが如実に示すように、ウィルフとは上記のような女性像のパロディである。
(なお、wilfは手持ちの英和辞典に載っていない上に、ググってもこの意味でのヒット件数は少ない。この作品が出た1990年代の米国でも、あまり使われない語だったかもしれない) 
 トムの「押しかけ師匠」は、ルーシーをウィルフだと誤認すると、こう叫ぶ。
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「おまえ、そのウィルフに苦しんでいるのか!(中略)わしが救ってやる」
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 要するにウィルフ(ルーシー)を排除してやろうというのだ。しかしトムは次のように主張する。
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「昔のぼくなら標的を前にすれば、ためらわないで分解器(暗殺者の武器のこと)を使ったでしょう。きっと、大いに楽しんだと思います。でも、ウィルフの感化でぼくは変わりました。今のぼくのほうが……そのう……昔のぼくよりも、はるかにましです」
(中略)
「ぼくが標的に狙いをつければ、ウィルフは当然、ぼくの分解器の前へ身を投げだすはずです」
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 最後の台詞は、トムに罪を犯させないために、ウィルフが我が身を犠牲にするはずだ、という意味である。師匠はトムの不甲斐なさに憤懣やるかたなくも、諦めるしかない。
 トムに上述のウィルフの定義を教えてもらったルーシーは、憤然として述べる。
.
「あたしは道徳観も正義感も弱い女よ。でも、あなたはそれでもいいんでしょう? “そうだ”と答えたほうが身のためよ」
.
 西洋文化における「男性を道徳的・精神的に導く女性」像には、幾つかのタイプがある。「家庭の天使」のような「自ら規範を示すことによって男性を導く有徳の女性」の原型は、中世後期(12、13世紀)の貴婦人崇拝、『神曲』(14世紀初頭)のベアトリーチェ、『デカメロン』(14世紀半ば)のグリゼルダ辺りか。
 このうちグリゼルダは貴族の奥方とはいえ、元は貧しい村娘で、ひたすらの敬虔と貞節と自己犠牲によって横暴な夫を改心させる。
 時代はずっと下って1740年、リチャードソンの『パミラ』は女中のヒロインがその高潔さによって、不道徳な主人を改心させ、最後に2人は結ばれる。彼女のモラルはキリスト教的というよりは市民的である。
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 まあなんにせよ、「自ら規範を示すことによって男性を導く有徳の女性」像は、それが逍遥されたのと同じ時代にすでに揶揄・パロディの対象となっていた。「小市民的道徳によって男の野性を矯めて殺してしまう女」である。
 言い換えれば「尻に敷く」タイプなわけだが、クサンティッペを典型とする「男の才能を理解せず、瑣末な俗事(=食っていくための仕事など)に縛りつけようとする」悪妻とか、中世のフォークロアにあるような、小言ばかりか暴力にまで訴えて夫を虐待する悪妻とはまた違う。
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 子供の頃から翻訳ものばかり読んできたが、児童文学を含め欧米の小説には、この「男に小市民的道徳を押し付ける女」が少なからず登場するように思う。男に「お行儀よくしなさい」と言う女だ。
 児童文学に多いのは、「少年の母親代わりのオールドミス」である。『トム・ソーヤーの冒険』(1876)のポリー伯母さんが典型だろう。主人公の少年に勉強と礼儀作法と家の手伝いと信心を押し付け、「冒険」を邪魔立てする存在だ。『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885)でハックの養母となったオールドミスもこのタイプである。
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 このタイプの「オールドミス」(念のために言うと、敢えてこの語を使っているのである)が登場するのは、児童文学だけではない。このタイプを繰り返し作品に登場させたサキ(1870-1916)は彼自身、母親を早く亡くしてこのタイプの叔母に育てられた(そして深く根に持っていた)そうなので、未婚女性が多かったヴィクトリア朝(および老いた彼女たちが生き残っていた20世紀前半)には、このタイプのオールドミスが実際にいたのは確かだが、サキと同じような身の上でもない作家たちまでがこうした役柄を、それを本来果たすべき母親ではなく未婚の年配女性に押し付けたのは、一言で言えば都合がよかったからだろう。  
 つまり、少年の「冒険」を邪魔立てする小うるさい女、という役柄を実の母親に与えてしまうと、「家庭の天使」像の根幹を成す母性のイデオロギーに抵触する。元から軽んじられ揶揄されてきたオールドミスなら無問題、というわけだ。
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「母」ではなく「妻」なら作家にも躊躇いはなく、海外児童文学も含めて、「英雄」(的な活躍をした男性主人公)が、意中の女性を射止めて結婚するが、彼女に「躾けられ」てすっかりお行儀よくおとなしくなって「しまい」、良き夫・良き父として「家庭に収まってしまう」、というオチを幾つも読んだ覚えがある。タイトルも物語自体も一つとして思い出せないが。
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「ウィルフ」すなわち「小市民的道徳によって男を矮小化する女」という隠然たるステレオタイプの存在に気づいたのは、『こちら異星人対策局』を読むさらに数ヵ月前、一昨年のいつかだったかに読んだ、ゾラの「スルディス夫人」(1880年。光文社古典新訳文庫『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家」所収)によってである。
 ネタバレ注意。
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 非凡な才能を持つ画家が、妻の経済的な支えお蔭で描き続けることにより、名声を得る。しかし成功したせいで、かえって才能は枯渇し始める。創造性はないものの優れた技術を持つ妻は、夫の絵を手伝うようになる。夫の名声が上がるのと比例して、妻の「手伝い」の比重は上がっていき、夫が描くのは下絵だけ、スケッチだけとなり、ついには妻がゼロから描いた絵にサインをするだけになる。そして酒に溺れる。
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 夫の「才能」はインスピレーション(息/精神を霊的存在によって吹き込まれること)で、妻の「才能」は小手先の技術(必要なのは「精神」ではなく肉体のみ)とする辺り、ゾラのジェンダー観は実に解りやすいが、単なる価値観の問題に留まらない。この夫妻には、モデルがいるんだそうな。
 国語の教科書の「最後の授業」でお馴染みのアルフォンス・ドーデとその妻である。「スルディス夫人」の巻末解説によると、ドーデの作品が妻ジュリアとの共同執筆であることは「公然の秘密」だったそうだ。
「公然の秘密」という表現だけでも、「妻との共同執筆」が世間でどう思われていたかを窺わせる。Wikiによるとドーデ自身はジュリアの文学的才能を高く評価しており、1888年には彼女を中傷した新聞の主幹と決闘している。
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「スルディス夫人」のモデルがドーデ夫妻だと確定しているわけではないが、ゾラが同作品をドーデの死後の1900年までフランス国内で発表しなかったことは有力な根拠の一つだ。1894年のドレフュス事件で、ゾラがドレフュスの無罪を主張したのに対し、ドーデは反ドレフュス派となって反目したそうだが、少なくともジェンダーに関しては、ゾラは当時の価値観から一歩も踏み出すことができなかったわけだ。
 それは抜きにしても、友人とその愛妻をモデルにこういう話を書くのは人としてどうなの、と思う。1886年の『制作』でも、少年時代からの友人だったセザンヌをモデルとした主人公に悲惨な人生を送らせて本人を怒らせてるしな。
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 少々話が逸れた。「凡人」(小市民)には理解できない「高尚」な夫の才能を、凡人に理解できるレベルに「矯正」する、具体的には「小市民」の客間に飾れる「お行儀のよい」絵に変えてしまう妻の物語である「スルディス夫人」を読んだことで、「小市民的道徳によって男を矮小化する女」というステレオタイプの存在に気づいた数ヵ月後、「ウィルフ」というガジェットによって、さらに明確に意識するようになったのであった。
 意識はするようにはなったが、このステレオタイプが登場する作品を幾つも読んだ覚えはあっても、ほとんどのタイトルが思い出せないので調べようがない。そもそも「ウィルフ」と名付けられたのも、このステレオタイプに名前がないからだ。
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 日本の場合はどうだろ。母性のイデオロギーに疑義が呈されるようになれば、「抑圧的な母親」像も描かれるようになる。それは日本でも変わらない。文学、漫画、映像作品を問わず、母子の泥沼の確執を描いた作品は、私が思いあたるものだけでもそれこそ無数だ。
 同時にまた母性のイデオロギーは未だ健在だから、特に子供向け作品ではヒーロー(少年・青年)の母親は、冒険の「障害物」となる前に存在を抹消される。『ONE PIECE』はその典型で、作者自ら「冒険の対義語は母親」と明言している。
「妻」も同じく「冒険」の障害物として認識しているのだろう。主要なキャラクターには30代以上の男性も大勢いるが、彼らの多くは独身または配偶者の有無不明である。
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 しかし妻または恋人として「小市民的道徳を押し付けて男を矮小化する女」を描いた作品って、日本にあるのかなあ。いや、私が知らんだけで、ないってことはないんだろうけど、少なくとも欧米ほどは隠然たるステレオタイプを形成してないのは確かだ。
 現実においてなら、男が女をそういうふうに見做すことがあるのは確実なんだけどね。
 大学ではある男子に彼女ができてしばらくすると、その友人(男子)たちが「あいつはすごくおもしろい奴だったのに、良識的でつまらない奴になった」と、それがその彼女の「教化」によるものだとして寄ってたかって彼女の陰口を言うというケースに何度か遭遇したものである。いやあ実にホモソーシャルな情景ですな。そういうのを題材にした作品て、ありそうなんだけどなあ。御存知の方がおられましたら、是非とも御教示ください。
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「男性を道徳的・精神的に導く女性」像なら、それなりに作品数があると思う。この女性像には幾つかタイプがあるが、特に「女の自己犠牲」と結びついたものは好まれてるだろう。
 ちなみに『ミザリー』のアニーはこの女性像のホラー版だが(最後に殺されるのも「自己犠牲」だと言えなくもない)、そのオマージュとされる『ジョジョ』第4部の山岸由花子も、単なるストーカーに留まらず、康一の「精神的な成長」(文字どおりの意味でも、精神の力であるスタンドのパワーアップという意味でも、学力向上という意味でも)を「導く」役割をきっちりこなしている。あ、ネタバレでしたね。
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 というわけで、せっかく「名前のないもの」に名前を付けたというのに、一発ネタで終わらせてその後の展開がまったくないことも含めて、『こちら異星人対策局』は残念な作品なのでした。
 いや、実はこの「ウィルフ」が表わす女性像は、オリエンタリズムと関わりがあるんですよ。で、オリエンタリズムは一昨年から呻吟している作品と関わりがあるわけです。しかし「ウィルフ」と執筆中の作品とでは、直接の関わりはないので、一年ほどかけて、折を見てちょっとずつ調べてきて、とりあえずどうにか考えをまとめられるだけの知識を集められたわけです。
 無関係なことにかまけて執筆をさぼってたのではないですよ、という話。いやほんとに。
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 というわけで、次回に続く。

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文字の文化と探偵小説

 少し前に、オングの『声の文化と文字の文化』(藤原書店 原著は1982年)に触発されて、あれこれ雑感を書いた。
 それらとは直接繋がりはないんだが、今回も「文字の文化」についての雑感(たぶん最後)。
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 偶々、『声の文化と文字の文化』のすぐ後に、『日本探偵小説を知る――150年の愉悦』を読んだ。日本のミステリ史をテーマとする論考集で、著者の一人、押野武志先生からいただいた御本である。
 ミステリ史にはまったく疎いので、それだけで興味深い内容だったのだが、『声の文化と文字の文化』とどう関係するのかというと、同書では第6章をまるまる使って「探偵小説」(偶々この本でもミステリとか推理小説とかではなく「探偵小説」という訳語を使っている)について論じているのだ。
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 オングは探偵小説を「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」を持つ物語の「完成形態」であると定義する。彼によれば探偵小説には、「倦むことなく高まる緊張、巧妙にきっちりと仕組まれた発見、逆転、そして完全な解決に達する大団円がある」。
 では探偵小説が登場する以前の物語がどんなものだったかと言えば、「挿話の寄せ集め」であり、これは識字率の低い文化における物語の特徴である。
 予め書き留められたのでない「物語」が短い挿話の寄せ集めになるのは当然のことで、書き留めもせずに「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」を練り上げるのは不可能だし、「聴衆」のほうも張り巡らせられた伏線のすべてを憶えておくのは不可能だろう。
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 探偵小説が成立する遥か以前、すでにギリシア悲劇は「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」を持っていたが、これは戯曲というのが書かれたテキストであるからだ。
 ギリシア悲劇から探偵小説まで、文字の文化が浸透するのにここまで時間がかかったわけだが、せっかく完成した「文字の文化特有の物語」はこの数十年の間に、そのあまりにきっちりと組み立てられたプロットゆえに「安易」だと見做されるようになった、とオングは述べる。
 そのため「今や前衛文学は物語のプロットを取り払うか、それを曖昧にすることを義務としている。しかしそうした話は、かつての挿話を寄せ集めた物語ではない。それらの話は、それらに先立つプロットのある話を印象主義的に変奏したものなのである」。
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「安易」とは具体的にどういうことなのか、オングは説明していないが、別のところで、実生活の経験は「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」よりも「挿話の寄せ集め」に似ている、と述べている。
 かつて私は、「現実にクライマックスはない。物語とは現実から適当な要素を切り取ってきて作り出されたものだ」というようなことを述べた(『ミカイールの階梯』後書き)。当時はオングの著書の存在も知らなかったのではあるが。
 私自身のこの見解と考え併せて、オングの言う「安易」とは「合目的に作り込まれ過ぎて不自然」だということだと解する。
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 この解釈は、すぐ後に読んだ『日本探偵小説を知る』によって補強された。前述のとおり、ミステリ史には疎いので、ミステリが早くも1890年代から「リアリティがない」「人間が描けていない」といった批判を受け続けてきたことや、ミステリにおいては一つの殺人の価値が最大限に高められているという見解などは、この本で初めて知ったことである。
 もっとも後者については、もう十数年前のことだが、読売新聞だったかの小説家養成講座で、講師の小説家(名前は忘れてしまいました)が述べたことが思い出された。「小説の中では人が偶然死ぬことはない」。現実には人は「偶然」死ぬ。しかし小説のキャラクターを「偶然」死なせると、「安易」だと非難される、と。
 キャラクターが死ぬには理由がなくてはならない。その理由の必要性を最大限まで高めたのが、ミステリだということになるのだろう。
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  「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」の完成形としての探偵小説について述べた第6章に続く第7章で、オングは「人間を描く」ことについて紙幅を割いている。
  探偵小説と同じく、文字文化が浸透しなければ成立しなかったのが「立体的」な人物造型である、とオングは述べる。「立体的」とはつまり「内面」を持ったキャラクターということだが、それに対して前近代的な物語のキャラクターは「平面的」で、「内面」を持たないかのように見える。
 しかしオングによれば、自分の「内面」を見つめる、すなわち内省という行為は、書くことを前提としている。内省と読み書きは直接には結びつかないように思えるが、オングが同書の別のところで引用している、アレクサンドル・ルリアが1930年代初めに行った調査によれば、読み書きがまったく、もしくはほとんどできない人々は自己分析というものができない。
「あなたはどのような性格ですか」という質問に答えていわく、 「自分で自分の心はこうだなんて言えないよ。自分の性格はこうだなんて人に話せると思うかね。ほかの人に訊いてくれよ。連中なら、俺のことをあんたにいろいろと話せるだろうから。自分からは何も言えないよ」
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 分析的な思考というのは読み書き能力を前提として初めて身に着くものなので、自己分析すなわち内省も当然ながら……というわけだ。
 文字文化の発展によって人間が自己の「内面」を発見したことで、すべての人間には「内面」があるということになり、物語のキャラクターにも「内面」がある、すなわち「立体的」であることが求められるようになる。 「立体的」なキャラクターについてオングは、「深い内面的な動機を持ち謎めいてはいるが、しかし一貫した仕方で内面から動かされているような」キャラクターである、と説明している。
 つまり文字文化の発展によって、「一貫性のあるプロット」と「一貫性のある人物像」は同時に発展してきたことになる。
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 しかしオングは特に言及はしていないが、「内面」の有無はともかく、人間に「一貫性がある」というのも、現実の経験に「一貫性のあるプロット」が存在しないのと同様に、ある種の幻想である。
 近年の心理学実験によると、人間は自分が「一貫性がある」と見做されることを望んでいる。だから「一貫性がない」と見做した他人を非難し、フィクションのキャラクターにも「一貫性」を求める。しかし脳科学の知見によれば、意思決定とは理性ではなく、その時々の気分に基づいており、またある程度はランダムですらある。
 識字率の低い文化において、人間の「一貫性」がどのように評価されていた(いる)のかは寡聞にして知らないが、少なくとも人間の言動を文字で記録できるようになったことが「一貫性」の価値を高めているのは確かだろう。
 したがって、ミステリを「人間が描けていない」、つまり「一貫性のある内面を持つ人間」が描けていない、と批判するのは、文字文化の発展がなければ成立しなかった二つの幻想のうち、一方が他方を批判しているということであり、実に興味深い現象である。
 ミステリ好きだったナボコフが、『ロリータ』の中で、人間には一貫性があると見做すのは幻想だと指摘しているのも、また興味深い。そういえば、人によってはロリータの失踪にミステリ要素を見出すようですね。私は他人のレビューで見かけるまで、そういう見方にはまったく気が付きませんでしたが。
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 ところで私はミステリではアガサ・クリスティが一番好きなのだが、彼女の作品群は  「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」の完成形としての探偵小説の完成形であると言えよう。このある意味究極の「人工的な物語」を彼女が完成させたのが、両大戦間という人工性の高い時代だったのは偶然ではあるまい。
 クリスティは第二次大戦後も活躍しているが、シリーズの主人公たちが老いていくのにしたがって「時代遅れ感」が色濃くなっていくことを(おそらくは)敢えて隠そうとはしていないし、実際のところポアロとミス・マープルの「完結編」が執筆された、つまりクリスティ自ら「探偵小説」に引導を渡したのは第二次大戦中という「一貫性のある現実」という幻想が崩壊した時代である。
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なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか Ⅱ

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2018年10月30日発売
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 欧米のキリスト教徒は、神の存在だけでなく悪魔の存在も信じている。そこまでならいいんだが、「悪魔が存在するのだから、悪魔崇拝者も存在する」「キリスト教徒の組織(教会)が古来、存在するのだから、悪魔崇拝者の組織(カルト)も古来、存在する」となると、完全に妄想である。
 神学的な問題に立ち入るつもりはないので大雑把な説明に留めるが、一神教における悪魔は神の認可の下に人間を誘惑する神のしもべであり、そんなものを崇拝しても意味はない。悪魔が神から独立した、神の対抗存在だとすると二元論になり、一神教ではなくなってしまう。また悪魔をそのような存在だとするゾロアスター教やマニ教でも、最終的には善神が勝利することになっている。
 異教の神(悪神であれ善神であれ)を悪魔と見做す場合でも、その信徒たちからすれば、彼らが崇拝してるのは彼らの神であって悪魔ではない。そして一神教の論理でも、それらもまた唯一神の被造物、しもべに過ぎず、人々を「惑わす」のも唯一神の意志に従っているだけということになる。
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「悪魔崇拝カルト」の妄想がどれほど根強いのかは、1980年代以降のアメリカで、「催眠による記憶回復療法」によって「悪魔崇拝カルトに性的虐待を受けた記憶が回復した」と称する「被害者」たちが次々と訴訟を起こしたことからも明らかである。催眠が掘り起こしたのは、「潜在意識に埋もれていた記憶」ではなく、「潜在意識に埋もれていた妄想」だったのだ。
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 この妄想は、人々の恐怖だけではなく願望の現れでもある。「自分(たち)が不幸なのは○○○のせい」と、たった一つの何かに責めを負わせることほど楽な解決法はない。
 その何かが自分(たち)にとって目障りな存在であれば、なおさらだ。欧米には「悪魔崇拝者」の汚名の下に、無数の無実の人々が排除されてきた長い歴史がある(言うまでもなく「魔女」も「悪魔崇拝者」だ)。
「悪魔崇拝者の親から性的虐待を受けた」ことを子供たちが「思い出した」のは、催眠療法士による誘導が少なからず影響しているはずだが(賠償金を掠め取ろうと目論む輩もいたそうだ)、その根底には親への密かな憎しみ、とまではいかなくても疎ましく思う気持ちもあったのではあるまいか。
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「yazidi」と「satanist」あるいは「devil worshiper」を組み合わせて検索すると、文字どおり無数の記事がヒットする。上位数十件をざっと見た限りでは、大多数が「悪魔崇拝者だと誤解されている」という主旨だが、幾つかは悪魔崇拝者だと断言している。
 誤解だとする記事の多さも、この偏見/妄想の根強さを示している。
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 前回の記事で述べたように、『失われた宗教を生きる人々』の著者ラッセルは、19世紀の西洋人(学者や宣教師)によってヤズィーディーが「悪魔崇拝者」と報告されたことを記している。
しかしその後の欧米のオカルティズムやホラー小説における、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の「人気」については、まったく言及していない。
 それどころか、同書が刊行された2014年の時点で、多数の欧米人が未だに「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の妄想を信じていることすら知らない。エピローグでは、CNNのリポーターがヤズィーディーの信仰について「世界で最も恐ろしい宗教です」と述べていた、というヤズィーディーの訴えを、「耳を疑った」の一言で済ませている。
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 いや、あなたと同じ英国人のトム・ノックスが2009年に出した小説『ジェネシス・シークレット』は、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を扱ってる上に、国内のみならず世界的なベストセラーになったんですが。
 武田ランダムハウスジャパンから出てる邦訳(2010年)の訳者あとがきによると、25ヵ国で刊行が決まっているそうだ。これはその時点での予定なので、「イスラムの堕天使たち」の文献案内では、Wiki英語版のヤズィーディーの頁にあった「23ヵ国」を採った。
 ただし、同書が「2006年に国際的なベストセラーになった」とか書かれていて、さすがWiki、データがいい加減、というわけで拙稿には23ヵ国語に「訳された。」ではなくて「訳されたとのこと。」としたのでした。
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 まあとにかく、『ジェネシス・シークレット』の内容はというと、超古代史をはじめとするオカルト俗説の闇鍋だ。フィクション、ノンフィクションを問わず、この手の本をまともに読むのは子供の頃以来だが、予想を超えたひどさだな(「SF作家なのに?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、SFというのはこういうネタをおちょくるジャンルであって、真に受けるジャンルではありません)。
「魂を屠る者」(1920年)や『悪魔の花嫁』(1932年)が碌に調べもせず嘘八百をでっち上げていたのに対し、21世紀の『ジェネシス・シークレット』は、あらゆる時代や地域の神話や伝説、最新の学説や研究成果を利用してはいる。ただしそれらとオカルトネタ、俗説、謬説の区別をまったくつけていない。
 作者ノックスは前書きで、次のように宣言している。
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 本作はフィクションである。ただし、宗教、歴史、考古学に関する記述のほとんどは、事実に正確に基づいている。
(中略)南トルコや北イラクで暮らすクルド人の中には、天使のカルトと呼ばれる古代宗教を信仰する人たちがいる。そのようなカルト信者の中には、マラク・ターウースと呼ばれる神を崇める者がいる。
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 この「天使のカルト」なるものは本編中、考古学の権威という設定のキャラクターによって次のように説明される(P261)。
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「アレヴィー派や、ヤズィード派。総称して、天使のカルトと呼ばれている。五千年か、それ以上前に生まれたものではないかとされているんだけど。世界でもあの地方(クルディスタン)に特有のものなの」
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 ……何を言っているのか、さっぱり理解できないんだが。
 この2つの引用からすると、「天使のカルト」には何種類もの宗派があるかのようだが、全篇を通して挙げられているのはヤズィード派(ヤズィーディー)とアレヴィー派の2つだけだ。しかもヤズィーディーがいかに特異な宗教かということは作中、何度も語られるが、アレヴィー派についての説明は一切ない。そのため、「天使のカルト」全体に共通する特徴がなんなのかもわからない。
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 アレヴィー派はトルコ人とクルド人に多くの信者を持つ宗派で、「アリーの徒」というその名が示すとおり、預言者ムハンマドの従弟で娘婿のアリーを崇敬するシーア派の分派である。『失われた宗教を生きる人々』が「ヤズィーディーと似た宗派」の一つとして挙げるシリアのアラウィー派とは、同名だが直接の繋がりはない。
 アラウィー派と同様、成立の時期は不明だが、イスラムの分派である以上、イスラムより古いわけがない。イスラムより古い宗教の要素を強く残しているという説もあるが、それがトルコ人のものにせよ、クルド人のものにせよ、どちらもクルディスタンに来たのは「五千年か、それ以上前」より何千年も後である。
 ヤズィーディーも「ヤズィーディーの信仰について」で述べたとおり、「ヤズィーディー派」もしくは「ヤズィーディー教」として成立したのは12世紀以降であり、その「原型」がなんだったにせよ、「五千年か、それ以上前」にクルディスタンで生まれたものではない。
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 後述するように、この小説にはあらゆる時代や地域の神話や伝説、最新の学説や研究成果、オカルトネタ、俗説、謬説のどれでもない「独自設定」が多々見受けられる。
 そのこと自体はフィクションなんだから問題ないが(出来の良し悪しはこの際、問わない)、前書きの大見得「宗教、歴史、考古学に関する記述のほとんどは、事実に正確に基づいている」は嘘とは言わないでも誇大宣伝であり、読者に対してもネタにされた人々や文化に対しても不誠実である。
 以下、ネタバレ注意。
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 物語は最終的に、超古代文明ネタに行き着く。まあ本書では「文明」とまでは風呂敷を広げず、「高度な文化」とするに留めてはいるが、ともあれその担い手は、ホモ・サピエンスとは別系統の人類で、当時(旧石器時代)の現生人類の先祖より知力体力ともに格段に優れていたんだそうである。フォン・デニケンとかの最新ヴァージョンだな。
 彼らは知力体力ともに劣る現生人類の祖先を奴隷化してこき使ったが、優れた文化も伝えた。日本の縄文土器はその一つだそうですよ。
 物語の主な舞台であるクルディスタン東部に、ギョベクリ・テペという遺跡がある。旧石器時代に建てられた巨大な石造神殿という、考古学の常識を覆すものである。今年、世界遺産に登録された。これもスーパー亜人類の遺跡なんだそうである。
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 やがて彼らは滅びたが、現生人類の先祖たちは奴隷とされていたのを恥じ、ギョベクリ・テペの神殿を隠蔽した(神殿が何者かによって埋められていたのは事実)。
 で、「ヤズィード派やアレヴィー派」といった「クルドのカルト信者」は神殿と奴隷であった過去を隠蔽した人々の子孫で、その秘密を守り続けてきたんだそうである。
 それだけならまだしも、件のスーパー亜人類は、鳥と人間を掛け合わせたような容貌だった。つまり、ヤズィーディーが崇める孔雀天使(マラク・ターウース)の正体は、かつての邪悪で恐ろしい主人なのである……って、そいつらの存在を隠蔽したいんだったら、なんでわざわざ「神」として崇めるんだ。
 アレヴィー派が何を崇めているのかは、結局触れられないままである。
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 現実のヤズィーディーが信仰する孔雀天使と同一視されるイブリースは悪魔ではなく、悔悛して赦され、元の地位に復帰した天使長である、という事実は無視され、作中の孔雀天使は悪魔そのものだということになっている。
 しかも、マラク・ターウースの「マラク」がアラビア語の「天使」だということも伏せられ、「モレク」の別名だとされている。旧約聖書には子供の生贄を要求する異教の神とされるが、この名はヘブライ語で「王」を意味し、本当にこのような名の神を崇拝する宗派があったのかどうかはわからない(なお、アラビア語で「王」は「マリク」といい、「マラク」と発音が似てはいる)。ユダヤ教・キリスト教における邪神の代名詞の一つだ。
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「魂を屠る者」(1920年)、「レッドフックの恐怖」(1927年)、『悪魔の花嫁』(1932年)となんら変わるところのない歪曲と捏造である。
「魂を屠る者」(『黄衣の王』所収)と『悪魔の花嫁』と、本書『ジェネシス・シークレット』の邦訳が同じ2010年に出されたのは単なる偶然だが、「魂を屠る者」と『悪魔の花嫁』では訳者の大瀧氏が、現実のヤズィーディーへの偏見が強まるのを危惧して、従来の日本語表記である「ヤジディ」や「イェジディ」ではなく「イェーズィーディー」という表記にしているのに対し、『ジェネシス・シークレット』の訳者、山本雅子氏はそのような配慮が必要だとは考えなかったらしい。訳者あとがきには、次のように述べられている。
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「どこまで事実なのかとよく聞かれるが、ほとんど事実だ」と著者も自らのホームページで断言しているが、たとえば、事件解決の手がかりとなるインターネット上や書籍の中の情報は、現実の世界のネット上や書籍の中にもすべて存在する。ジャーナリストでもある著者は、本書の舞台となるほぼすべての場所に足を運び、じゅうぶんな調査を行ったうえでこの作品を書いている。
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 作者のノックスは、中東での取材経験も何度かあるそうである。本書刊行の2009年までに、すでに散発的とはいえイスラム原理主義者によるヤズィーディーへの迫害が顕著になってきており、ノックスもそのことは当然知っていて、作中で言及している。
 だから彼は、ヤズィーディーを邪悪な存在としては描かない。「善良で穏やかな悪魔崇拝者」として描く。「善良で穏やかなのに迫害される可哀想な悪魔崇拝者」である。意味不明だ。
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 だったら、そもそも悪魔崇拝者の濡れ衣を着せるのをやめろよ。
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 前述のとおり、「古代より密かに存続してきた悪魔崇拝カルト」の妄想は、欧米のキリスト教徒にとって恐怖だけでなく、願望の現れである。すべての不幸や不都合の責任を押し付けることができるからだ。
 そしてヤズィーディーは、「孔雀天使はイブリースだが、悔悛して赦されている」と「彼らの本来の主神(おそらく孔雀の神)とイブリースが同一視されたのは12世紀になってから」の2点さえ無視すれば、「古代より密かに存続してきた悪魔崇拝カルト」の条件にぴったり当て嵌まる。
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 だから彼らが迫害されているという事実を前にしても、彼らには是が非でも悪魔崇拝者であってほしい。だから「善良で穏やかなのに迫害される可哀想な悪魔崇拝者」という意味不明なヤズィーディー像をでっち上げる。
「善良で穏やかな悪魔崇拝者」という形容矛盾をひねり出してまで、ヤズィーディーが悪魔崇拝者であってほしいという願望のさらに裏に、「善良で穏やかな悪魔崇拝者が実在するのだから、邪悪で凶暴な悪魔崇拝者も存在するはず」という期待や、「善良で穏やかなのは見せかけで、実は邪悪で凶暴なはず」という期待を読み取るのはやめておこう。
 上述したように、『ジェネシス・シークレット』は英語版Wikiのヤズィーディーの頁で紹介されているが、この頁の執筆者は「悪魔崇拝者だというのは誤解」としながら、本書のヤズィーディー像については批判どころか、「重要な役割を演じている」などと評価している。
「ヤズィーディー=悪魔崇拝者」とする英語のネット記事の中にも、少なくとも一つ、「善良で穏やかなのに迫害される可哀想な悪魔崇拝者ヤズィーディー」があった。しかもニュース記事である。
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 あるいはまた、「神への叛逆ってかっこいい」「欲望を否定しないってかっこいい」という中二病的な憧憬から、「教会組織に対抗する悪魔崇拝カルト」があってほしいと願う輩もいるだろう。近世以降の悪魔崇拝を標榜する秘密結社の類は、この手合いである。二元論を否定する以上、キリスト教の悪魔が神に叛逆するのも、人間の欲望を煽るのも、すべては神の御心のままなんだが。
 この「悪魔賛美」も結構根強くて、近年でもジョー・ヒルの『ホーンズ 角』(原書は2010年)なんかがある。 
 ヤズィーディーが悪魔崇拝者だというのは誤解、とする大量の記事の執筆者たちも、わざわざそう書くのは、内心では「実は悪魔崇拝者だったらいい」と願っているからではないか、と思うのは邪推が過ぎるだろうか。
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 では、本題である。イスラム原理主義者たちは、なぜいつからヤズィーディーが悪魔崇拝者だと信じるようになったのか。
  • 「悪魔崇拝カルト」という妄想は、イスラムの伝統には存在してこなかった。
  • ヤズィーディーが悪魔崇拝者だという偏見は、隣人のムスリムたちの間に「比較的近年」に、「外部から持ち込まれた」ように見受けられる。
  • よく知られているように、ISをはじめとするイスラム原理主義者の多くは、イスラムの伝統から切り離されて育ち、むしろ欧米文化にどっぷり浸かって、その中でアイデンティティを見失った若者たちである。
 無論、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を「討伐」したイスラム原理主義者たちに、「欧米人の受け売りだろう」などと指摘しようものなら、「事実無根の侮辱」に激怒するに違いない。だが、そう遠くない過去に、「ヤズィーディーは悪魔崇拝者だ」と最初に言い出した、1人もしくは少数の原理主義者がいたはずなのだ。
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 おそらく、見当外れの憶測でしかないだろう。そうであってほしいものだ。19世紀半ば以来、欧米人たちがでっち上げてきた「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の妄想を、「純粋な」イスラム原理主義者が真に受けて、「正義の軍隊」として「悪魔崇拝者狩り」をやらかし、それを欧米人が「これだから狂信者は」と一斉に非難し、ナディア・ムラードさんにノーベル平和賞を授与して自らの「正義」に悦に入り、しかして内心では「でもほんとは悪魔崇拝者だったらいいな」などと願っている、という構図は、あまりにもおぞましい。

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