イスマイール一世は本当に「邪悪なほどに」美しかったのか? 余談

 鈴木董氏の『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書)によると、サファヴィー朝ペルシアの創始者イスマイール一世(1487-1524年。1501年建国)は「彼を実見した西欧人が、「余りにも美しく、邪悪なものを感じさせるほどだ」と感嘆したこの美少年は、同時に苛烈な君主でもあった。」そうです。しかしイスマイール一世に関する日本語文献は幾つか読んできましたが、彼を「邪悪なほどに」美しかったとする記述は同書しかなかったので、本当にそうだったのか、そう評した「西欧人」とは誰だったのか調べてみました。
 結論といたしましては、「日本語と英語で調べたけど一次資料も二次資料も見つからなかった」という残念なことになってしまいました(日本語でググると、イスマイールが「邪悪なほど美しいと評された」という主旨の発言がちらほら見つかります。が、典拠が挙げられているものは一つも見つけられませんでした。まあほぼ確実に上記『オスマン帝国』一点のみだと思われます)。しかし、イスマイール一世と西洋諸国との関係についていろいろ知ることができたので、「そう評した人物がいたとしたら、いつ、どんな立場でイスマイール一世に会ったのか」は一応推測することができたのでした。

其の一
其の二
其の三

 今回は、調査の過程で拾った小ネタを二つ紹介します。まずはイスマイール一世の肖像画について。
 イスマイールがオスマン帝国に敗北し(1524年)、西洋諸国と対オスマン同盟を結ぶ試みも頓挫した後も、西洋の民間人の間ではイスマイール人気は継続していました。
論文IDENTIFICATION OF PORTRAIT FEATURES OF SHAH ISMAIL I ACCORDING TO THE 16TH CENTURY EUROPEAN SOURCES(ダウンロードはこちらからhttps://dergipark.anas.az/index.php/pac/article/view/3120)によれば、イタリアの医師・歴史家・聖職者のパオロ・ジョヴィオPaolo Giovio(1483-52)は、1551年に刊行したラテン語の伝記集Elogia virorum bellica virtute illustrium(「戦の誉れにより輝ける男たちの頌辞集」くらいの意味)で、イスマイールについて「私が知る限り、評判と名声が世界の隅々まで届いている唯一の人物である」と記しています。
 ちなみにこの論文の著者Elshad Aliyevはアゼルバイジャンの人です。イスマイール一世を研究しているのは、やはりサファヴィー家のルーツがアゼルバイジャンにあるからでしょうね。

 さてパオロ・ジョヴィオは肖像画コレクターとしても有名で、「ジョヴィオ・シリーズ」と呼ばれる全484点に上るコレクションは、彼の別荘に展示されていました。1552年に彼が死去すると、トスカーナ大公コジモ一世はフィレンツェの画家クリストファーノ・デル・アルティッシモに、それらの肖像画を模写するよう命じました。デル・アルティッシモは1589年までに少なくとも280点を模写し、それらは1591年、ウフィツィ美術館の前身である庁舎(uffizi=office)の回廊に展示されました。其の一で紹介したイスマイール一世の肖像画は、その一枚ですね。
 コジモ一世がなぜオリジナルのジョヴィオ・シリーズを買い取らず、模写させたのか、それについて言及しているテキストは見つけられませんでした。質や画風にだいぶバラつきがあったでしょうから、統一したかったのかもしれません。模写といってもデル・アルティッシモは正確なコピーを作ったのではなく、自分の画風を取り入れているので、確かに統一感があります。
Giovio Series - wikipedia: Gallery of copies by Cristofano dell'Altissimo https://en.wikipedia.org/wiki/Giovio_Series#Gallery_of_copies_by_Cristofano_dell'Altissimo

 オリジナルのコレクションはその後、大半が散逸してしまい、現存しているのはわずかで、その中にイスマイール一世はありません。オリジナルのイスマイール一世像を描いた画家について言及しているテキストは見つけられませんでしたが、その人物がイスマイール一世本人を実見した可能性は、皆無ではない、という程度でしょう。

 上述のジョヴィオの伝記集は、1575年にスイスのバーゼルで出された版で初めて各人物の肖像画が挿絵として付きました。画家はスイス人のトビアス・スティンマーTobias Stimmerで、ジョヴィオ・シリーズのオリジナルを基にして描いたそうです。
 つまりスティンマー(左)とデル・アルティッシモ(右)のイスマイール一世像は、同じ絵(現存せず)を基にしているというわけです(以下、画像はWikipediaから。スティンマー作品は部分)。
Hysmael_sophus_shah_ismail_imag_20260520144401
Portrait_of_shah_ismail_i_inscr_20260520144401

 これら二点の模写からすると、オリジナルのイスマイール一世像は整った顔立ち、かつ紅毛白皙だったのでしょう。明らかに、其の一で紹介したイタリア人たちの目撃証言を参照していますね。ただし彼らによれば、口髭以外は剃っていたそうですが(だからオリジナルを描いた逸名画家自身がイスマイールを実見している可能性は、だいぶ低い)。

 ところで『三日月(クレセント)の世紀 「大航海時代」のトルコ、イラン、インド』(那谷敏郎 新潮社)の第二章に、次のような記述があります。「今、イタリアのフィレンツェ、ウフィツィ美術館に残る、同時代のイタリア人画家によるイスマーイールの像を見ると、彼は背が高く肩幅広く端正な面貌で、赤い口髭以外はきれいに剃り頭髪は薄い。」
 ……すみません、どんなにググってもウフィツィ美術館所蔵のイスマイール一世肖像画は、前出デル・アルティッシモ作品しか出て来ないんですけど……これも著者御本人が情報開示してくださらない限り、解決不能な「謎」ですかね。

 イスマイール一世本人を実見して描いた肖像画というのもあって、宮廷画家として彼に仕えたベフザード(ビフザード)の作品です。
Shah_ismail_i_safavid_behzad

 ベフザードは伝統的な画風を一新し、写実的な様式を作り上げたそうで、下のダルヴィーシュ(修行者)像なんかはまさにそうですが、上のイスマイール一世像は……ちょっと……
Behzad_portrait_of_a_dervish
 目鼻の描き方等、まったく写実的ではありませんし、ベフザードの作品には贋作が多く、真作と断定できるのはごくわずかだそうで、その上、「繋がった眉」と「太鼓腹」は『千夜一夜』でも言及される、前近代イスラム世界の伝統的な「美の記号」です(なお男女共通)。まあだから、イスマイール一世が実際にこういう容姿だったとは思わなくていいんじゃないかと……口髭だけってのは、イタリア人の証言どおりではありますが。

 小ネタその二。
 Palmira Brummettの論文The Myth of Shah Ismail Safavi(グーグルスカラーhttps://scholar.google.com/?hl=jaで検索すれば、PDFがダウンロードできます) 「シャー・イスマイール・サファヴィーの神話」チャルディラーンの戦い(1524)以前のイスマイール一世と西洋諸国の関係について知ることができたという点で、たいへん貴重な資料でした。
 しかしこの著者の原典資料の扱いで、気になる点が少々……

 論文中何度も「カテリーノ・ゼノCaterino Zenoの報告account」が引用されるのですが、それらの出典はすべてA narrative of Italian travels in Persia, in the fifteenth and sixteen centurieshttps://archive.org/details/narrativeofitali00greyrich/page/n3/mode/2up
『15-16世紀イタリア人のペルシア旅行記集』収録のTRAVELS IN PERSIAです。
 この『イタリア人のペルシア旅行記集』は、ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムジオ
Giovanni Battista Ramusio(1485-1557)というヴェネツィア人が編纂した旅行記集から、1873年に英国でチャールズ・グレイCharles Greyが四篇を編訳したものです。上記のイスマイール一世を実見した二人のイタリア人の旅行記も収録されています。

 で、「ペルシアの旅」TRAVELS IN PERSIAの著者とされるカテリーノ・ゼノ(By Caterino Zenoと明記されている)は、1418年生まれのヴェネツィアの外交官です。1471年、当時ペルシアを支配していた白羊朝のウズン・ハサン(在位1453-78年)の許へ派遣され、73年か74年に帰国しています。
 問題は、ゼノは1478年に没していることです。それが1501年のイスマイール一世によるタブリーズ(白羊朝首都)攻略を報告してるってどういうこと????

『イタリア人のペルシア旅行記集』の英語編訳者チャールズ・グレイによる序文と、イタリア語原書の編纂者ラムジオによる「ペルシアの旅」の序文に付されたグレイの注で、やや不明瞭ながら説明されています。「ペルシアの旅」はBy Caterino Zenoと明記されているにもかかわらず、実際にはゼノではなくラムジオの著作なのです。
 ウズン・ハサンからイスマイール一世までのペルシア情勢の概説で二部構成、第一部(BOOK FIRST)はゼノの書簡を主な資料としていますが、第二部(BOOK SECOND)はウズン・ハサン死後を扱っているので、もうゼノはまったく関係ない。
 なおゼノの書簡以外の資料については、ラムジオもグレイもまったく触れていません(私が見落としているのかもしれませんが)。
 第二部はチャルディラーンの戦い(1514年)後のイスマイールとオスマン帝国のセリム二世(在位1512-20)との交渉で終わっているので、ラムジオの執筆は1520年以前ということなり、イスマイール一世の同時代資料には違いありません。が、「ゼノの報告」では絶対にない。もう死んでるんだから。
 ちなみにラムジオは一貫してイスマイール贔屓です。彼が参照した資料もそうだったのでしょうね。

 編訳者グレイによる序文と原書の編纂者ラムジオによる序文の注(グレイによる)を読み落としても、第一部では私(I)すなわちラムジオが、「ゼノ殿」M. Zeno(「M.」はMessereの略)の事績を語ってるので、ゼノが著者じゃないのは明白なんですけどね。おそらくPalmira Brummettは先行研究で「ペルシアの旅」中のイスマイールについての記述を知り、グレイの序文もラムジオの序文の注も第一部も無視して第二部だけ読み、しかもゼノの没年の確認すら怠ったのでしょう……
 ……と思いきや、「ゼノの報告」の出典として挙げているテキストの名前が、「ペルシアの旅」TRAVELS IN PERSIAでも、それが収録されている『15-16世紀イタリア人のペルシア旅行記集』A narrative of Italian travels in Persia, in the fifteenth and sixteen centuriesですらない! 
 Zeno, Travels to Tana and Persia, book II(ゼノ、『タナとペルシアへの旅』、第二部)とあるんですが、この『タナとペルシアへの旅』はゼノの後任のヨサファト・バルバロJosafat Barbaro(1494年没)とアンブロジオ・コンタリーニAmbrogio Contarini(1499没)の報告書で、これも1873年に英訳されたものです。
 一応、A narrative of Italian travels in Persia, in the fifteenth and sixteen centuries『15-16世紀イタリア人のペルシア旅行記集』との合本版も出てますが、こちらにも「ペルシアの旅」がツェノではなくラムジオの著作だと説明している序文と注はちゃんと付いています(Googleブックスのサンプルで確認https://books.google.co.jp/books/about/Travels_to_Tana_and_Persia_and_A_Narrati.html?id=bFuUJ3u9ZWYC&redir_esc=y)。
 WikipediaによればPalmira Brummettは実績ある中東史研究者だそうですが、そんな人がこんなしょうもないミスを? 
 それだけじゃなく、タブリーズに入城したイスマイール一世についてのペルシアの歴史家ハサン・ラムルーHasan Ramuluの記述を引用し、これをラムルーの目撃談としているんですが、彼の生年は1530または31年ですよ……

 イスマイール一世についての「ペルシアの旅」の記事を、ラムジオではなくゼノの著作として引用・紹介しているのはBrummettだけではありません。ざっとググっただけでも論文やエンサイクロペディア・イラニカ、Wikipediaを含む多数の英語記事が見つかります(そしてゼノではなくラムジオの著作だとする記述は見つからない)。いや、誰もゼノの没年調べないんかい。

 史学科の先生方には一回生の時点からずっと「典拠を提示しない二次資料は使うな」「提示されている典拠には必ず当たれ」と、耳に胼胝ができるほど言い聞かされてきたものです。前者はともかく後者については「原文が引用されてたら原典まで確認しなくてもいいじゃん」と最初の頃は思ってたんですが、原典に当たってみると「……あれ? 前後の文脈からすると、あの論文の解釈は違くない?」ということが、たまーにあったんで、原典確認は大事だとは解ってたんですけどね。
 いやそれにしたって、これはひどいな……主要資料であるSanudoのDiariiは確認できないんだけど(イタリア語原典はネットで閲覧できますが、確認はちょっと無理……)、これも変な引用の仕方してたりしないよね……?

 一抹の(どころではない)不安を抱えつつ、イスマイール一世についての記事はこれで終わります。

其の一
其の二
其の三

「テンプル騎士団とフリーメイソンの謎」 原典確認は大事だよね、って記事です。

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イスマイール一世は本当に「邪悪なほどに」美しかったのか? 其の三

其の一
其の二

 前回は、同時代の西洋人のイスマイール一世(1487―1524)観を検討しました。今回は、「美しい容姿」に対する当時の西洋の価値観を検討していきます。それによって、イスマイールを「邪悪なほどに」美しいと評したのはどんな立場の人物なのか、いくらかは絞れるんじゃないかと。

「我である汝よ イスラム神秘主義(スーフィズム)が目指すルッキズムの極地」(『トーキングヘッズ叢書』№93』掲載)で論じましたが、ヒトは1枚の顔写真を0.1秒見ただけで、その人物の能力や性格を評価するそうです。もちろんその顔が魅力的だと感じれば高評価を、そうでなければ低評価を与えます。つまり「外見が良い人=内面も良い人」 という感覚は、ヒトの無意識層に刻み込まれているのでしょう(だからといって、それがルッキズムの免罪符になるわけではありませんが)。
 さて中世西洋美術では、「美徳と悪徳の寓意」という主題が好まれました。ロマネスク期(10世紀末-12世紀)には男性兵士に斃される異教徒または怪物という構図で表現されていたのですが、ゴシック期(-15世紀)に入ると、明確に美女vs.醜女の構図になります。
 しかし問題なのは、「外見が良い人=内面も良い人」とは限らない、という事実です。「善」であるはずの美男美女が悪しき内面を持ち得る。キリスト教社会において「善」は神の領分なので、この矛盾は深刻でした。
 一方でキリスト教の禁欲主義は、快楽を悪とします。性的快楽ももちろん悪だったので、見る者の性欲を掻き立てる、という点からすれば美女(および美男)も「悪」になります。

 斯くして悪徳が醜女として描かれるようになるのと並行して、アダムを唆したエヴァ、サムソンを陥れたデリラ、大淫婦バビロンといった聖書の悪女たちは美女として描かれるようになっていきました。
 ……いやまあ、それ以前から彼女たちは視覚化されてはいたのですが、絵画にしろ彫刻にしろ、様式と言うか技術と言うかの問題で、明確に異形として表現しているのでなければ、少なくとも私には美醜の区別がつかない……

 下はイスマイールと同時代に描かれたラファエロの「アダムとエヴァ」(1509-11年。ヴァティカン宮殿「署名の間」天井フレスコ画)です(以下、画像はWikipediaから)。
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 エヴァを誘惑する蛇が「エヴァに似た乙女の顔」を持つとしたのは神学者ペトルス・コメストル(1173年没)で、以後、この主題を扱った作品の多くが、蛇の顔または上半身を若い女性として描くようになりました(この作品ではエヴァに似ているかどうかはよく判りませんが)。
 つまり蛇とエヴァが同一視されるようになった、ということです。なおコメストルは、蛇をエヴァに差し向けたのはサタン(悪魔の長たる魔王)だとしていますが、この説は『創世記』にはなく、前1世紀末-後1世紀前半成立とされる外典『モーセの黙示録』由来だそうです。蛇とサタンを同一視する説もあって、こちらは2世紀成立とされる『ヨハネの黙示録』でサタンが「年経た蛇」と呼ばれていることに由来するそうです。
 もしラファエロ描くこのエヴァを魅力的だと感じたら、それは蛇(サタンの眷属、あるいはサタン自身)を魅力的だと感じるのと同じだということになり、つまり彼女たちの「美」は「邪悪な美」ということになります。

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 上は、イスマイールより後の時代になりますが、ヴェロネーゼの「美徳と悪徳の間の若者」(1580年頃)です。右が美徳、左が悪徳です。ルネサンス期には「美徳と悪徳の寓意」は両者の闘争ではなく、どちらを選択するか揺れる若者、という構図が好まれました。この構図では、悪徳は露出度の高い派手な服装の美女として描かれます。
 美徳も美女ですが、見てのとおり地味です。もし悪徳のほうが魅力的だと感じるなら、その美はやはり「邪悪な美」です。

 ちなみにここで描かれてる「悪徳」は一人ですが、要するにいわゆる「七つの大罪」の総称です。七つの悪徳にに七名の悪魔を対応させたのはドイツの神学者ペーター・ビンスフェルトで1589年のことだとされていますが、おそらく彼の独創ではないでしょう。どの悪徳にどの悪魔を対応させるかまちまちだったのを固定した、といったところではないかと思われます。
 つまり「美徳と悪徳の間の若者」が描かれた頃には、すでに悪徳の擬人化として悪魔を当て嵌める考えがそれなりに広まっていた可能性があります。そうであれば、この美しい悪女は悪魔だということになります。

 したがって16世紀の西洋人にとって、「邪悪なほどの美しさ」というのは「悪魔に属するもの」なのです。というわけで前回、長々と検討した「同時代の西洋人によるイスマイール観」の出番です。
 イスマイールに関する初期の報告は、ペルシアやその周辺にはいたもののイスマイールのことは伝聞でしか知らないヴェネツィア人やポルトガル人によるもので、彼と信奉者たちの宗教はキリスト教そのもの、あるいはそれに似た何かだとする荒唐無稽なものでした。
 イスマイールが都とした
タブリーズは現イラン北西部にあって、地中海から千キロ以上内陸です。実際にその距離を旅してイスマイール本人に会いに行くまでの間に、そんなお伽話は否が応でも放棄せざるを得ないでしょうが、「キリスト教徒の友」という評価なら、少なくとも彼に好感を抱く西洋人の間では保たれ続けました。
 そんな人々が、イスマイールを「邪悪なほどの美しさ」と評するのはあり得ない。だからもし西洋人がイスマイールをそう評したのなら、その人物は彼に好感を抱いていない、ということになります。

 そうなると純粋に好奇心や利潤追求で来てる旅行家や商人(つまり実は政府のエージェントだったりしない)よりは、政治的利害の絡む使節やエージェントのほうが可能性が高そうですね。チャルディラーンの敗戦(1514年)前でも後でも、イスマイールとの交渉は巧くいってませんし。
 さらにチャルディラーンの時点で、イスマイールは27歳です。享年は37歳。
昔の人は現代人(「先進国」の)よりも老けるのが早いことを考慮すると、20代前半くらいまでならともかく、アラサー以降だと現代(先進国)の標準よりプラス10-15歳くらいの見た目になってしまいそうです。そんな男性を「美男」と評するのは充分あり得るし、実際そういう評されていますが、「邪悪なほどに美しい」という評しかたをするものですかね?

 イスマイールの許に西洋の使節が送られた期間は、1505年以降と1515年以降の二度です。年齢に関する推測が正しいなら前者ということになりますが、まともな資料が前回紹介したPalmira Brummettの論文しかない。しかもこの人はイスマイールと西洋の関係そのものには興味がなく、この時期に交渉があった国としてヴェネツィア、フランス、ポルトガル、ロドス島、ローマ(ヴァティカンであろう)を挙げているものの、具体的な遣り取りが述べられているのはヴェネツィアだけです。どのみち他の国との交渉も失敗したそうですが。
 残っている記録の多さからすると、ヴェネツィアが一番可能性が高そうではありますね。

 以上が、片手間の調査から推測できる限界です。正直なところ、ネット上で「イスマイール一世の美貌」について日本語で発言している人は、ググって出てくる限りでは例外なく「邪悪なほど」かそれに類する形容(「魔性の」等)を付し、かつ例外なく典拠を提示していないのですが、まあ講談社現代新書という手軽さから9割9分9厘、鈴木董氏の『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』のみに基づいているのではないかと思われます。
 で、英語圏ではどうかと言うと、前回触れたように、そもそもイスマイール一世本人に関心を持っている人が少ないので……彼のルーツがアゼルバイジャンにあるためか、アゼルバイジャン人研究者の英語論文等は出てきますが、それらでイスマイール一世の容姿に言及している場合でも、
引用されている西洋の原典資料は前々回に紹介したアンジョレッロと無名商人のものだけです。
 念のために中国語とフランス語でもググってみましたが、これらの言語圏でも「イスマイール一世の容姿」に関心を持っている人はいないようです。

 だからまあ、鈴木董氏御本人に是非とも典拠を開示していただきたいものですね。

 というわけで「イスマイール一世は本当に「邪悪なほどに」美しかったのか?」というテーマはこれでお終いです。しかし後1回、調査のついでに知った小ネタを開陳する予定です。

其の一
其の二

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イスマイール一世は本当に「邪悪なほどに」美しかったのか? 其の二

其の一

 サファヴィー朝開祖イスマイール一世(1487ー1524)の容姿についての余談、続き。美男だったという同時代資料は見つけられましたが、西洋人の誰が、いつ、どんな状況で「邪悪なほどに」美しいと形容したのかは、依然不明です。
 片手間の調査ではこれが限界で、後はどこかの誰かが見つけてくださるか、鈴木董氏御自身が情報開示してくださるのを期待するしかありません。しかしせめて推測の手掛かりは得られないか、同時代の西洋人によるイスマイールの評価を検討してみることにしたのでした。

 前回の最後に紹介したPalmira Brummettの論文The Myth of Shah Ismail Safavi(グーグルスカラーhttps://scholar.google.com/?hl=jaで検索すれば、PDFがダウンロードできます) 「シャー・イスマイール・サファヴィーの神話」は非常に興味深い内容で、16世紀初頭に西洋で流布した「イスマイールの神話」を取り上げています。
 1499年に12歳で挙兵して以来、破竹の勢いで勝ち進み、1501年には祖父・父・兄の仇である白羊朝の都タブリーズ(現イラン北西部)を落とし、ペルシア王として即位した少年教主についての報告は、遅くとも1501年にはヴェネツィアに届き始めます。それによると、この少年は預言者あるいは神自身を自称し、熱狂的な信徒軍を率い、トルコ人は異端者として殺すが、アルメニア人(キリスト教徒)には寛容である、とされていました。

 西洋諸国(具体的には地中海沿岸諸国)は、イスマイールが対オスマン帝国の同盟者となってくれることを期待しました。そうしてわずか数年の間に、イスマイールの「神話」は急激に膨れ上がっていきました。彼は「キリスト教徒の友」であるばかりか、彼自身、母親がキリスト教徒だったとか、キリスト教徒に育てられたとか、「トルコ人」たちから「キリスト教徒」と呼ばれているのだとされました。
 シーア(派)について無知だったために、イスマイールがイスラム全般に敵対的だと勝手に誤解したことから生じた、ある種の集団妄想と言えます。一方で、彼が民から預言者あるいは神そのものと崇められるのみならず自らそう称している、という情報は取り上げられなくなっていきました。

 そして「ヴェネツィア、フランス、ポルトガル、ロドス島、ローマ(ヴァティカンのことだと思われる)がより正式な関係を構築する可能性を探るため、イスマイールと書簡の遣り取りを開始した」とのことですが、具体例として挙げられているのはヴェネツィアだけです。
 上記の報告もそうですが、この論文は原典資料の9割方を
マリーノ・サヌートMarino Sanuto(またはSanudo、1466-1536)のI Diarii(the diaries)に拠っています。Diariiはただの日記ではなく、国内外の事件の記録やその考察、外交文書をはじめとする重要資料の写しも含む、全56巻に及ぶ大著だそうです。サヌートはヴェネツィア共和国大評議会の一員だったので、 そういう資料の入手も容易だったのでしょう。
 英訳は出ていません(もちろん邦訳も)が、論文中の引用は英訳されていますよ。まあそういうわけで利用できる原典資料がヴェネツィア関係に偏っているので、「西洋におけるイスマイール神話」と言いつつ、大半がヴェネツィア人のもの、後はポルトガル人とか後述するロドスの聖ヨハネ騎士団くらいです。

 というわけでヴェネツィアとイスマイールの遣り取りですが、どうもイスマイールから先に手紙を出したみたいですね。1505年、イスマイールは18歳です。これは単なる挨拶だったようですが、続いてヴェネツィアに使節を送り、サファヴィー朝は陸から、ヴェネツィアは海からオスマン帝国を挟撃する作戦を提案し、さらに大砲と砲手を要求しました。
 使節派遣がいつだったのかは述べられていませんが、大砲はまず1508年のバグダード攻略に使いたかったとのことなので、それ以前になりますね。
 この提案と要求に対し、ヴェネツィア元首は軍事協力の代わりにイスマイールへの友情とオスマン帝国への憎しみに溢れた言葉のみを提供しました。
 実はイスマイールが挙兵した1499年、ヴェネツィアはオスマン帝国とギリシア周辺の海上覇権を巡る戦争を開始していました(オスマン・ヴェネツィア戦争)。戦況は終始ヴェネツィア側が劣勢であり、だからこそ「救世主イスマイール」に期待をかけたのでした。
 一方、オスマン帝国も東方に迫るイスマイールに不安を感じ、だからこそ圧倒的優勢だったにもかかわらず1503年にヴェネツィアと講和条約を結ぶに至りました。つまりイスマイールが最初に親書を送った1505年の時点で、ヴェネツィアはもはやオスマン帝国と戦う気力を失っていたのです。

 またヴェネツィアは、イスマイールに大砲を提供すれば、それがいずれエジプトのマムルーク朝にも使われることになるだろう、と危惧していました。マムルーク朝の弱体化は、ヴェネツィアの商売敵であるポルトガルの強大化に繋がります。
 オスマン帝国も、ポルトガルに侵蝕されつつあったマムルーク朝に軍事支援を行っています。お蔭でサファヴィー朝とオスマン帝国の対立が深まっていく中、マムルーク朝が前者につくことはありませんでした(オスマン帝国の味方もしませんでしたが。そして1516年、オスマン帝国によって滅ぼされます)。
 そういうわけで1508年、イスマイールは大砲なしでバグダードを攻略します。Diariiによればこの年、ロドス島の聖ヨハネ騎士団総長は、教皇(ユリウス二世)に手紙を送り、イスマイールに大使を送るよう強く促したそうです。が、それに対するリアクションは論文では述べられていません(Diarii でも言及されていなかったのかもしれませんが)。
 イスマイールはそのまま、キズィルバシュ騎兵隊でオスマン軍の大砲と小銃に立ち向かうことになるのですが、論文によれば「1514年にチャルディラーンでオスマン帝国によって打ち破られるより以前に、西洋の消息筋におけるイスマイールの重要性は減少した」そうです。なぜ、どのようにそうなったのかは一切説明がありません。

「神話」も含め、チャルディラーン前のイスマイールと西洋との関係を体系的に述べているテキストは、英語・日本語ではこの論文しか見つけられませんでした。それだけ「西側世界」ではイスマイール一世(というかサファヴィー朝全般)の研究が進んでいないということです。
 Palmira Brummettという人はWiki英語版に記事があり、高い評価を受けている中東史研究者だそうですが、この論文の主旨は「神話」も含めたイスマイール一世と西洋の関係、ではなく「西洋人による〝イスマイール神話〟は単なる無知から来る願望だけではなく、各国政府による情報操作の産物でもあった」というものです。
 つまり彼らはイスマイールすなわちイスラム君主と同盟を結ぶならlegitimation「正当化」が必要だった、というのです。具体的には、イスマイールが実はキリスト教徒だということにしたい、それが無理なら彼が信仰するのは「キリスト教ではないが、イスラムよりはキリスト教に近い宗教」だということにしたい、それすら無理なら最低でも「ムーア」(オスマン帝国をはじめとするスンナ派)の敵であるだけでなくキリスト教の友だということにしたい、というのです。

 しかし例えば、ちょうど1世紀前の1402年、オスマン帝国を破ったティムールに対し、フランス王シャルル六世とカスティーリャ王エンリケ三世は友好使節を送っています。もちろんティムールがムスリムと知った上ですし、どちらの使節団にも修道士が加わっています。
 エンリケ三世の使節であるルイ・ゴンザレス・デ・クラビホの報告書は邦訳が出ていますが(『遙かなるサマルカンド』原書房)、それを読んでもBrummettが言う「正当化」が行われた様子は窺えません。
 なお具体的な同盟や軍事的協力等に話が進む前にティムールが病死し(1505)、そのまま後継者争いが始まって立ち消えになってしまったようです。

「神話」におけるイスマイール一世像は「プレスター・ジョン」のようだ、と論文中で何度も述べられていますが、この伝説は当時まだまだ健在でした。特にポルトガルはガチで信じていて、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓(1498)に繋がる国を挙げての大航海事業は、そもそもプレスター・ジョン探索から始まったものです。まあ純粋な宗教的情熱だけじゃなく、「プレスター・ジョンの王国なら、必ずや最高の貿易相手になってくれる」という商業的情熱も大きかったんですが。
 プレスター・ジョンが実在なら似たような存在はほかにもいるだろう、という願望が「イスマイール神話」の正体だったんじゃないかと思いますけどねえ。
 まあとにかくBrummettは自説を証明すべく、「神話」に用いられた「レトリック」を延々考察し、チャルディラーン後のイスマイールについてもまったく触れていません。

 羽田正「サファヴィー朝の時代」(中央公論新社『成熟のイスラーム』所収)では、イスマイール一世はチャルディラーンでの敗北までは己が本当に救世主だと確信していたようだ、とか敗北後は政治に関心を失い、酒食と狩猟に現を抜かすようになった、とか述べられています。しかしデイヴィッド・ブロー『アッバース大王 現代イランの基礎を築いた苛烈なるシャー』(中央公論新社)第1章によれば、イスマイールは14歳で即位後、軍事面こそトルコ系遊牧民に頼っていたものの、行政面では実務に長けたイラン系の都市住民を徐々に登用して対抗勢力とし、チャルディラーン後も西洋諸国との同盟を画策するなど、「神がかり」のシャーとは異なる堅実な面を見せています。
 チャルディラーン後にイスマイールが親書を送った相手はポルトガルのマヌエル一世、ハンガリーのラヨシュ二世、神聖ローマ帝国のカール五世、教皇レオ十世でしたが、成果らしい成果は出せませんでした。1523年、イスマイールはカール五世に送った書簡の中で、西洋諸国は互いに戦ってばかりでオスマン帝国と本気で戦う気がない、と非難しています。彼の死はその翌年です(享年37歳)。
 チャルディラーン前のヴェネツィア以外の西洋諸国との交渉も、こんな感じで不首尾に終わったのでしょうね。

 さて、Brummettが述べるようにイスマイール一世に対する西洋各国政府の関心(過度な期待と幻想)がチャルディラーン以前に薄れてしまったとしても、少なくとも西洋の民間人の間では、チャルディラーン後も好意的な評価は継続していました。前回紹介した無名のイタリア商人とアンジョレッロのイスマイール評も、チャルディラーン後のものです(前者がイスマイールを実見したのは明確にチャルディラーン後。後者はチャルディラーン前の可能性もあるが、著作はイスマイールの死後に書かれた)。 
 最初から好感を抱いていたとはいえ、あまりにも期待外れだと反転してしまいますが、「少女のように愛想がいい」ですからね。やはり神を自称するエキセントリックな振る舞いは、演技だったのかもしれません。
 となると、短篇「ガーヤト・アルハキーム」(『ナイトランド・クォータリー』vol.18掲載)の主人公の造形を「エキセントリックだが醒めてもいる」としたのは、イスマイール一世の実像に意外と近かったのではないか、とちょっと嬉しくなった次第でありましたよ。

 というわけで今回は同時代の西洋人から見たイスマイール一世像を検討しましたので、次回は彼らのうちどんな人物が「邪悪なほど」美しいと評した可能性があるかを考えてみたいと思います。

其の一

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イスマイール一世は本当に「邪悪なほどに」美しかったのか? 其の一

 新作短篇「地下水路(カレーズ)」(『ナイトランド・クォータリー』vol.42「アンダーグラウンドの相貌」掲載)に、主人公が視る幻として「髑髏杯を持つ美少年王」が登場します。彼の「正体」はサファヴィー朝開祖イスマイール一世(1487ー1524)であり、今回はそのイスマイール一世についての余談です。「地下水路」とはもはや無関係なんで、カテゴリーは別で。

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「「地下水路(カレーズ)」解説」カテゴリ全体 解説其の一 其の八(イスマイール一世について) 

 鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書)では、サファヴィー朝の成立からイスマイール一世がペルシアを征服しシーア(派)を国教に定めるまでを、わずか1頁で説明していますが、その説明の小見出しが「邪悪なほどの美少年」で、本文でもイスマイール一世について「彼を実見した西欧人が、「余りにも美しく、邪悪なものを感じさせるほどだ」と感嘆したこの美少年は、同時に苛烈な君主でもあった。」と描写しています。
 私が同書を読んだのは00年代の後半(正確な時期は忘れた)、ほどなくして羽田正「サファヴィー朝の時代」( 中央公論社『成熟のイスラーム社会』所収) で 黄金髑髏杯だの自称神だっただの(イスラム圏での話である。普通なら最悪の瀆神行為として処刑される。敵からの誹謗中傷とかではなく、ペルシア側の文献に残る本人作の詩)といったヤバいエピソードを知り、かなり強烈に印象付けられました。

 短篇「ガーヤト・アルハキーム」(『ナイトランド・クォータリー』vol.18掲載)の主人公イスマイールの「エキセントリックで邪悪なほどに美しい」というキャラクター造形は、このイスマイール一世からです。偶々名前が同じというだけでなく、イスマイール一世の主張に従えば、彼らは血の繋がりがあるということになりますし(直系ではないけど)。
 で、「地下水路(カレーズ)」でイスマイール一世本人登場となったわけですが、やはり「邪悪なほどに美しい」造形にしています。

 ただ、ずっと気になってたんですが、「邪悪なほどに」という形容が、上記『オスマン帝国』以外の資料で見当たらないんですよね。まあイスマイール一世に関する資料は、上に挙げたもののほかに数点、それも日本語のみで書籍所収の論考や雑誌論文だけしか読んでないんですが。
 というわけで、「地下水路」の解説を書くついでに、いい機会だからと調べてみました。 

 まずはイスマイール一世の肖像画(画像はWikipediaより)。
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 フィレンツェの画家クリストファーノ・デル・アルティッシモCristofano dell’Altissimo(1525-1605)によって、1552年から89年までのいつかに描かれたものです。イスマイール一世の没年は1524年なので、当然ながら本人を見たことはありませんが、そもそもこの作品は1551年以前のいつかに逸名画家が描いた肖像画を基にしたものです。後ほど説明しますが、この逸名画家がイスマイール一世本人を見たことがある可能性も、皆無ではないものの、まあ低い。
 ではそのオリジナルもまったくの想像で描かれたかというと、そうではないようで、イスマイール一世を実見した西洋人旅行者たちの報告が、明らかに参照されています。

 私が見つけられたのは2点だけで、どちらも英訳がこちらに所収されています。A narrative of Italian travels in Persia, in the fifteenth and sixteen centurieshttps://archive.org/details/narrativeofitali00greyrich/page/n3/mode/2up
『15-16世紀イタリア人のペルシア旅行記集』ってとこですかね。翻訳者はチャールズ・グレイCharles Greyという人で1875年刊行ですが、別段読みにくいということもありませんでした。
 
収録されている4点の旅行記のうち、当該2点はヴェネツィア出身の旅行家・著述家ジョヴァンニ・マリア・アンジョレッロGiovanni Maria Angiolello(1525頃没)のA SHORT NARRATIVE OF THE LIFE AND ACTS OF THE KING USSUN CASSANO「ウズン・ハサン王の生涯と活動の短い物語」と逸名のイタリア人著者によるTHE TRAVELS OF A MERCHANT IN PERSIA「ある商人のペルシア旅行」です。白羊朝スルタン、ウズン・ハサン(在位1453-78)の「ハサン」は当時のイタリア語表記だと「カッサーノCASSANO」になるんだそうです。ええ~。

 アンジョレッロがペルシアに行ったのは1482年頃と1499-1515だそうで、ウズン・ハサンの伝記と銘打ってますが、それは全65頁中25頁までで、残りはイスマイール一世の伝記であり、旅行記の要素は少ない。
 なお目次にはアンジョレッロの著作は載ってなくて、代わりにDiscouse of Messer Giovan Battista Ramusio「ジョヴァン・バッティスタ・ラムジオ殿の論文」がありますが、ジョヴァン(ジョヴァンニ)・バッティスタ・ラムジオ(1485ー1557)は数多くの旅行記を収集・編集・出版した人で、アンジョレッロのこの作品もラムジオの旅行記集に収録されていたそうです。で、目次にはラムジオの論文しか載っていませんが、実際にはわずか4頁だけで、そこからアンジョレッロの旅行記というか伝記というかがが始まっています。論文の内容もアンジョレッロの作品とほぼ関係ないし、なんでこんな構成なのか解らん。
 まあとにかく、アンジョレッロがイスマイール一世の容姿に言及しているのは111頁で、それによると「色白で美男で、とても魅力的」「あまり背は高くない」「華奢というよりは恰幅がよく、肩幅が広い」「髪は赤く、口髭を蓄えている」だそうです。

 無名商人のほうは、1511年から1520年にかけてダマスクスからペルシアまでを旅したそうで、202頁で「現在31歳くらい」のイスマイール一世について(1487年生まれなので1518年頃)、「高潔な顔立ちのたいへんな美男で、中背くらい」「色白で恰幅がよく、肩幅が広い」「口髭以外は剃っている」「少女のように愛想がいい」と述べています。

 両者とも、イスマイール一世は左利きで弓の名手だと評しています。
 ちなみに当時のイタリア人はイスマイール一世をSufiあるいはSophi(Sophy)と呼んでいました。Sufiはスーフィー(イスラム神秘主義者)のことで、イスマイール一世はイスラム神秘主義教団であるサファヴィー教団の教主でもありましたから、まあムスリムの間でもスーフィーと呼ばれていたのでしょう。
 ソフィSophiのほうはスーフィーの転訛のようにも思えますが、同一著作の中でSufiと呼ばれたりSophiと呼ばれたりしているので、別個の呼称ですね。「サファヴィーSafavi」の転訛ではないか、という説が有力だそうです。

 ほかにイスマイール一世の容姿について述べた同時代西洋人の報告は、伝聞によるものを1点見つけただけです。論文The Myth of Shah Ismail Safavi「シャー・イスマイール・サファヴィーの神話」(グーグルスカラーhttps://scholar.google.com/?hl=jaで検索すれば、PDFがダウンロードできます) によると、1507年にZuan Moresini(ZuanはGiovanniの変形で、「ツアン」と発音するらしい)という人物(エージェント?)がダマスカスからヴェネツィアに送った報告書に、イスマイール一世は「美男で、髭がなく若い」と聞いた、とあるそうです。

 というわけで美男だったという同時代資料は見つけられましたが、西洋人の誰が、いつ、どんな状況で「邪悪なほどに」美しいと形容したのかは、依然不明です。
 片手間の調査ではこれが限界で、後はほかの誰かが見つけてくれるか、鈴木董氏御自身が情報開示してくださるのを期待するしかありません。しかしせめて推測の手掛かりは得られないか、同時代の西洋人によるイスマイールの評価を検討してみることにします。
 というわけで続くのでした。どうもすみません。

其の二

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前回の続き

 前回、印象的なフィクションを読んだり観たりすると、数日以内にその影響を受けた夢を見ることがある、と書きました。起きた時に、「あー、『〇〇〇(作品名)』の影響だな」と思うのですが、その日の昼頃には、思い返して「『〇〇〇』と全然関係ない夢じゃん」と呆れるくらい無関係な内容です。しかし夢を見た直後にそう思ったからそうなんだろう、と思っています。

 そのようにして見る夢は、だいたい鮮明で印象的です(グロいことが多いけど)。なので、そこからインスピレーションを得られることもあります。たとえば『伊藤計劃トリビュート』所収の「にんげんのくに」は、中学生の時に読んだ中井紀夫氏の「見果てぬ風」からでした。少女が「声」に導かれて密林の奥へと向かうと、古代の機械文明の遺跡があって、機械と一体化した「神」がいる、という。
 どこが「見果てぬ風」やねん、という内容ですが、起きた直後にそう思ったんだから、そうなのです。「にんげんのくに」では主人公を少女から少年に変更しましたが、これは新たな部族に遭遇するたびにレイプの危機を回避する過程を書くのがめんどくさかったからです。少女だったとしても、超人的な身体能力を持っている設定なので、襲ってくる「蛮族」をことごとく返り討ちにすれば危機は回避できますが、そのルーティンを書くのがめんどくさかった。
「機械と一体化した神」のほうは、『グアルディア』に取り入れています。

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「はじまりと終わりの世界樹」も、高校生の時に読んだスタージョンの『人間以上』の影響で見た夢から生まれています。「にんげんのくに」以上に、どこが?な無関係さですが、起きた直後にそう思ったんだから、そうなのです。
 頭のおかしい父親が、双子の姉弟の姉だけ連れ去り、姉弟が成長して再会した時には姉は破壊的な力(具体的にどんなものだったかは憶えていない)を得ていて、世界に禍をもたらす……という内容でしたが、どうも「頭のおかしい父親とその娘」が、『人間以上』第1章の父娘(娘は二人だけど)から来ているっぽい。

 フィクションではなく、現実の陰惨なニュースに接すると、そのショックで同じパターンの夢を見ることもありました。内容は毎回、具体的で映画仕立てで、私は私ではなく、その世界の別の誰かになっている(性別・年齢・人種まで違うこともある)。しかし決まって、自らのモラルを試される内容で、決まって強い後悔と罪悪感と自己嫌悪に責め苛まれて目覚め、2、3日は尾を引くという、たいへん疲弊する悪夢です。
 幾つかの作品に、キャラクターがそういう状況に立たされる場面があるのは、そういうわけです。いや、意図して入れているわけではないので、そのキャラクターたちが私の分身とか、そういうことはありませんよ。そう思われるのは気持ち悪いので、絶対にそう思わないでくださいね。
 意図して入れたわけではなく、話の流れでそういう場面が入っただけですが、何回もやってたら、もう件の夢を見ることはなくなりました。あれは本当にしんどい悪夢なので、ありがたい効果でしたね。

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『現代思想』2021年5月号 特集:「陰謀論」の時代 Ⅲ

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「文字が構築する壮大なプロット(筋書き/陰謀)」を寄稿いたしました。字数の都合で記載できなかった参考資料の補足その他についての記事その3。今回が最後です。前の2回よりは短いです。
 その1:こちら その2:こちら

 ブラザートンの『賢い人ほど騙される』もバーカンの『現代アメリカの陰謀論』も、世界を背後から操り、さらに完全支配を目指す悪の組織、という複雑で壮大な陰謀論は現代の陰謀論特有のものであるとしています。ブラザートンによればその起源は近代であり、世界支配を目論む悪の組織は「秘密結社」でした。当時は実際に、イルミナティをはじめ多くの秘密結社が創設されていました。フリーメイソンも、起源は中世かもしれませんが、英国外にも広まったのは18世紀以降です。
 しかし壮大で複雑な陰謀論(バーカンが呼ぶところの「超陰謀」論)はすでに中世に蔓延していたものであり、その起源は古代にまで遡れます。それが「悪魔崇拝妄想」です。
 唯一なる神と天使たち、そしてキリスト教徒たちから成る善の軍勢vs.魔王(サタン)と悪魔たち、そして悪魔崇拝者たちから成る悪の軍勢、という二元論的世界観はキリスト教独特のものです。キリスト教徒にとっての「他者」(異教徒、異端者、その他社会の周縁者)が「悪魔崇拝者」である、と妄想されました。あくまで妄想です。

 というわけで「悪魔崇拝妄想」(という言葉は用いられていませんが)についての中心的資料が、ノーマン・コーンの『魔女狩りの社会史』(岩波書店)。
 神と天使(善霊)の軍勢vs.魔王と悪魔(悪霊)の軍勢、という構図はゾロアスター教からの借り物で、救世主や最後の審判といった概念も同様です。このゾロアスター教からの影響や、ユダヤ・キリスト教における「悪魔」の概念の発達については同じくコーンの『千年王国の追求』(紀伊國屋書店)、ユーリ・ストヤノフ『ヨーロッパ異端の源流』(平凡社)。ゾロアスター教自体、およびそのユダヤ・キリスト教への影響については青木健『ゾロアスター教史』(刀水書房)。

 ユダヤ・キリスト教における「悪魔」像の形成については、ほかにジェフリー・バートン・ラッセル『悪魔の系譜』(青土社)とジョルジュ・ミノワ『悪魔の文化史』(白水社)も主要な参考資料ではあるんですが、両書とも全体に細かい誤情報だらけだし、何より「悪霊」と「デーモン」という語の使い方が滅茶苦茶なので、聖書原文(ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語および近現代の英語版)で「悪魔」「サタン」「悪霊」等の語が使われている箇所を自力で読む羽目になりました。やりたくてやったわけではなく、英語の注釈の助けを借りればどうにか読めたので、読める以上は読まないわけにはいかず……

 その結果をまとめたのが、『トーキングヘッズ叢書』№84に寄稿した「乱反射する悪魔崇拝(サタニズム)」です。今回もこの時得た知識を基に執筆しましたが、観点が異なるので流用とかではありません。
 今回は新たにエレーヌ・ペイゲルス『悪魔の起源』(青土社)も読みましたが、ユダヤ教における「悪魔」の概念の形成と、キリスト教によるその継承の流れは、これまでの知見とおおむね合致します。それ以上に著者が重視しているのはグノーシスから影響ですが、グノーシスはどの学説が妥当なのかも判断がつかないんで苦手です……。だからペイゲルスの見解についても同じく。

 悪魔崇拝妄想は、キリスト教と教会の影響力の低下とともに下火になりました。「悪魔崇拝者」に代わって「秘密結社」が陰謀論の主役(悪の首魁)とされましたが、その背景にあった(現実における)秘密結社の流行は、キリスト教と教会の代替物を人々(主にエリート)が求めたためでしょうね。
 そして1980年代にカウンターカルチャーへの反動として、米国を中心に悪魔崇拝妄想が復活しましたが、これはバーカンの言う「超陰謀」論の隆盛と軌を一にしています。両者が完全に融合したのがQアノンなわけで、だから悪魔崇拝妄想の伝統のない日本社会に持ち込まれた彼らの陰謀論は、どうしたって要素の切り取りにしかならない。それだけでも充分すぎるほど有害ですが。

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「トーキングヘッズ叢書」№84「悪の方程式~善を疑え!」(2020年10月28日発売)

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寄稿「乱反射する悪魔崇拝」の補足記事
その1:イスラム原理主義者がヤズィーディー(ヤズィード派)を「悪魔崇拝者」と見做すのは欧米キリスト教からの影響ではないか、という仮説の検証
その2:「悪魔崇拝」という概念がなぜ妄想に過ぎないか、という解説
その3:上記『悪魔の系譜』と『悪魔の文化史』へのツッコミ

前回の記事
前々回の記事

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『現代思想』2021年5月号 特集:「陰謀論」の時代 Ⅱ

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「文字が構築する壮大なプロット(筋書き/陰謀)」を寄稿いたしました。字数の都合で記載できなかった参考資料の補足その他についての記事その2。その1はこちら

 W・J・オング『声の文化と文字の文化』(藤原書店)は、物語論についての最も包括的な資料として参考にしました。拙稿でミステリとか推理小説ではなく「探偵小説」としているのは、同書に倣っています。原文だとdetective storyですね(ということもググるだけで判るんで便利なもんです)。日本語の「探偵小説」は少々古めかしい印象ですが、英語圏では現在でも日本で言うところの「ミステリ」はdetective storyとかdetective fictionと呼ぶのが一般的なようです。
 敢えて「探偵小説」とした理由はそれだけでなく、陰謀論者を探偵に、陰謀論の手法を探偵小説の技法に擬えたからでもあります。広義の「ミステリ」だと探偵役が登場するとは限らないし、謎が解かれるとも限りませんから。
 無条件で
「最初の探偵小説」と呼べるのは、『声の文化と文字の文化』でもそう名指されているポーの「モルグ街の殺人」(1841)ですが、結末から逆算して全体を構想するという技法を最初に意識的に用いた小説はウィリアム・ゴドウィンの『ケイレブ・ウィリアムズ』(1794)です。ポーはその技法を借りて探偵小説というジャンルを創造したわけです。
『ケイレブ・ウィリアムズ』は岡照雄氏による訳が国書刊行会と白水社から出ています。私が読んだのは前者で、後者は改訳とかではなく復刊のようですね。上記の理由から探偵小説の源流とも呼ばれていますが、作品自体は謎解き要素は薄く、探偵小説ではありません。とは言え、広義のミステリではあります。

 ところでSF者としてはミステリをSFと隣り合って重なり合う部分もあるジャンルだと認識しているので、SFの源流を生み出したメアリ・シェリーの父親がミステリの源流の生みの親だと聞くと、何やらロマンを感じてしまうのですが、間違いなくミステリ者の9割9分9厘(いや、もっとかも)はSFをそのように認識していないので、メアリとウィリアムの関係についてもなんとも思わないんだろうなあ。

『声の文化と文字の文化』は物語の歴史(声の文化における物語と文字の文化における物語の違い、文字の文化における物語の発展史など)についてだけでなく、声の文化と文字の文化それぞれにおけるヒトの認知スタイルの違いについても詳細に解説しています。
 この「記録媒体の変化による認知スタイルの変化」は、実にSF的なテーマでもあります。
テッド・チャンの『息吹』(早川書房)所収の「偽りのない事実、偽りのない気持ち」は、まさに『声の文化と文字の文化』を種本に、このテーマを正面から描いています。作中作としてアフリカのある部族のエピソードが描かれていますが、これは同書で紹介されている史実です。客観的で簡潔な記録が、一人称の小説としてどう描かれているか(しかもこの作中作の「作者」はチャン自身でも「語り手」の少年でもなく、近未来アメリカの科学ライターという設定)、読み比べてみるのも一興でしょう。
 実はチャンの前作『あなたの人生の物語』(早川書房)は、所収作品のどれもピンと来ず、だから『息吹』は出てすぐではなく、偶々、今回の寄稿のゲラチェックが済んだ直後に読んだのでした。『息吹』の所収作品はどれもたいへん素晴らしく、しかも「偽りのない事実、偽りのない気持ち」は私にとっては実にタイムリーで、喜びも1.5倍という感じでした。

『声の文化と文字の文化』の補足的な資料としては、黙読についてがアルベルト・マングェル『読書の歴史』(柏書房)の「黙読する人々」の章(章番号なし)。「声の文化」と「文字の文化」の認知スタイルの違いについての研究報告が、『声の文化と文字の文化』でも紹介されているA・ルリヤ『認識の史的発達』(明治図書出版)。
 中東における読書の歴史については、ロバート・アーウィン『必携アラビアン・ナイト』(平凡社)、小杉泰ほか『イスラーム書物の歴史』(名古屋大学出版会)、林佳世子ほか『記録と表象』(東京大学出版会)、ジョナサン・バーキー『イスラームの形成』(慶応義塾大学出版会)、湯川武『イスラーム社会における知の伝達』(山川出版社)、岡崎桂二「アラブ文学における論争ジャンル」(『四天王寺大学紀要』第48号)、「アダブ考」(『四天王寺大学紀要』第51号)、小林泰『イスラームとは何か』(講談社)、谷口淳一『聖なる学問、俗なる人生』(山川出版社)その他多数。
 あと、ローター・ミュラー『メディアとしての紙の文化史』(東洋書林)は中東と西洋両方の読書史を扱っています。

 イスラム世界では伝統的に、『千夜一夜』のような娯楽作品は知識人が読むべきではないと蔑まれてきましたが(だから散文のフィクションが発達しなかった)、それ以外のほとんどの書物を読むことは「学問」と見做されました。だからイスラム世界の読書史は9割方、学問史だと言えます。
 イスラム以前のアラブは識字率が非常に低く、ムハンマド自身も文盲だったという伝承があります。知識はすべて口伝でした。それにもかかわらず彼は文字記録の重要性をよく理解しており、生前から啓示(クルアーン)を書き留めさせていました。それでも伝統的な記録媒体である生身の人間による暗記が主流だったのですが、632年のムハンマドの死後間もなく、暗記者たちがどんどん戦死していったため、危機感を抱いたムハンマドの代理人(カリフ)がクルアーンの編纂を行い、650年頃には書物として完成しました。
 そもそも「クルアーン」とは「読誦(音読)されるもの」という意味で、神の言葉を書き留めた書物(クルアーンの「原型」)が天に在って、天使ジブリール(ガブリエル)がそれをムハンマドに読み聞かせている、それが啓示(神の言葉)である、という「設定」なのでした。
 こうしてイスラムは「啓典の民」(神の言葉を記した書物=啓典を持つ宗教)の仲間入りを果たしましたが、アラブの伝統は根強く、またクルアーンを特別視する余り、その後も長らく学問は口伝と暗記のみでした。それでも8世紀頃からようやくアラビア語の書物が数多く書かれるようになり、またギリシアの学術書などの翻訳も進みました。9世紀頃には書物を中心とした学問方式が成立し、以後、伝統となりました。

 しかし口伝と暗記の伝統はなおも根強く、「学問」とは教師の指導の下、1冊の書物をまず全編読誦(音読)できるようになってから初めて、内容の講釈を受け、最後に読誦も理解もできていることを確認した教師が「読誦証明」を発行する、というものでした。ある書物の「読誦証明」を持っているということは、その書物について講義する資格を持っているということです。
 最初の全編読誦の過程で書物の書写もしますから、読誦証明はその完成した写本に書き込まれました。読誦証明入りの書物(写本)をたくさん持っているほど、博識だということになります。

 読誦証明はイスラム独自の文化ですが、「まず書物を読誦できるようになってから初めて講釈を受ける」という学問方式は、前近代の日本を含む東アジア、それにインドでも主流でしたし、西洋でも少なくとも中世まではそうでした。
 師の指導なしに本を読むことは、独自の解釈をして異端に走りかねないとして、イスラム圏でもキリスト教圏でも非常に警戒されました(異端への警戒が薄かった東アジアやインドではどうだったか知りませんが)。したがって
書物の内容を「理解する」とは、上記のとおり師の講釈を鵜吞みにすることで、知の伝達とは師に教わったことをそのまま次の弟子に伝えることでした。
 このような学問方式が停滞・衰退し形骸化するとどうなるかは、ウズベキスタンの作家サドリーディン・アイニ(1878‐1954)の自伝『ブハラ ある革命芸術家の回想』(未来社)に詳しいです。
 アイニが生まれ育ったブハラはかつて、イスラム世界屈指の「学問の都」でした。アイニはイスラムの伝統的な初等教育機関であるモスク付属の小学校で初等教育を受け、次いで近隣に住む学者(宗教指導者でもあるので邦訳では「回教僧」となっている)の個人指導を受け、12歳でブハラの高等教育機関である神学校に入学します。
 小学校から神学校まで、アイニが受けた「授業」は適当な書物(小学校では詩集など)を教科書とし、それを「読む」のではなく「見」ながら、教師が音読するのに続いて繰り返すだけ、というもので、その次の段階として行われるはずの内容の講釈は一切行われませんでした。したがって生徒たちは教科書を「読める」ようになっても内容は理解しておらず、それは神学校の教師の大半でさえ同様でした。
 しかも一文字ずつ、一単語ずつ、一文ずつの読み方は習わないので、教科書は暗記した文章を思い出すための「補助」の道具に過ぎず、ほとんどの生徒は「教科書」以外の書物どころか、どんなに簡単な文章はおろか単語でさえ読めるようにはなりませんでした。まあ文字というのは本来、すでに知っている事柄を思い出すための補助手段として発明されたわけですが。
「書く」ほうは小学校でも個人授業でも、もちろん神学校でもカリキュラムはなく、その知識のある人を探して教わらない限り、一生書けないままでした。教わる場合も、たいていは手本を書写するだけなので、オリジナルの文章はどんな簡単なものでも書けるようにはなりませんでした。アイニがこの文化的退行に陥らずに済んだのは、幼い頃から詩作をしていたお陰でした。

 アイニは「体制側」の作家なので、ブハラの学問水準の低さは多少なりとも誇張されているでしょう。しかしイスラムの伝統的な学問方式からして、その「成れの果て」としてのブハラの状況は充分あり得ます。おおむねは事実だと考えられます。
 これは末期的な例ですが、実際のところ多くの前近代社会や中世西洋における「下層の知識人」のレベルはこのようなものだったのではないでしょうか。これでは
自分の考えをまとめ上げ、書き留めるなど到底不可能であり、複雑で壮大な陰謀論の蔓延という現象は、文字の文化が相当発達し浸透した社会で初めて起こり得るのでした。

 最後の資料『魔女狩りの社会史』については次回

 前回の記事

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『現代思想』2021年5月号 特集:「陰謀論」の時代 Ⅰ

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 本日発売です。「文字が構築する壮大なプロット(筋書き/陰謀)」を寄稿いたしました。

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 先日の記事にも書きましたが、この特集企画に参加させていただいたのは連作集『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の表題作が陰謀論を扱っているということで改めて(多少の)注目をいだたいているのがきっかけです。
 その注目のきっかけは昨年、『2010年代SF傑作選1』に収録していただいたことです。アンソロジーというのは、埋もれがちな作家である私の作品を新たな読者の方々に知っていただく好機となるので、本当にありがたいですね。

 さて、この記事では『現代思想』本誌では字数の都合上、一部しか記載できなかった参考文献について述べたいと思います。拙稿では陰謀論について認知科学、物語論、歴史の3つの観点から論じているので、それぞれの分野の参考文献から最も包括的なものを1点ずつ、計3点を末尾に付記いたしました。
 ロブ・ブラザートン『賢い人ほど騙される』(ダイヤモンド社)は、原書は2015年刊ですが邦訳は昨年。明らかにQアノン騒動に乗っかった帯の煽り(「悪用厳禁。」「陰謀論にハマる仕組みとその手口を暴く。」等々)は気にしないでください、良書です。
Qアノンの直接の起源を「ピザゲート」とすると、それが2016年のことですから、本書(原書)はその前夜のアメリカの状況を分析したものとなります。
 陰謀論を含めた「認知の歪み」には、ずっと以前から関心を持ってきました。
それが『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』を含む〈HISTORIA〉シリーズのテーマである「ヒトの暴力」の一因であるからです。認知の歪みを扱った資料は日本語のものだけでも大量にありますが、陰謀論と直接結びつけており、かつ最も包括的なのが『賢い人ほど騙される』です。それ以外で今回参考にした資料のうち主なものを挙げますと、
 テレンス・W・ディーコン『ヒトはいかにして人となったか』(新曜社)
 ジョン・ホーガン『科学を捨て、神秘へと向かう理性』(徳間書店)
 マーガレット・ヘファーソン『見て見ぬふりをする社会』(河出書房新社)
 クリストファー・チャプリス/ダニエル・シモンズ『錯覚の科学』(文藝春秋)
 ダンカン・ワッツ『偶然の科学』(早川書房)
 ジェシー・ベリング『ヒトはなぜ神を信じるのか』(化学同人)
 ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(早川書房)
 パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか』(NTT出版)
 ダニエル・ギルバート『幸せはいつもちょっと先にある』(早川書房)
 ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』(白揚社)

 ……てなとこですかね。認知科学関連以外だと、
 デイヴィッド・J・ハンド『「偶然」の統計学』(早川書房)
 セス・C・カリッチマン『エイズを弄ぶ人々』(化学同人)
 ジェームズ・ロバート・ブラウン『なぜ科学を語ってすれ違うのか』(みすず書房)

 人文社会寄りの資料では、陰謀論を産み育てる土壌を読み解くヒントとなったのが、
 ヤン・ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』(岩波書店)
 イアン・ブルマ/アヴィシャイ・マルガリート『反西洋思想』(新潮社)

 上記2点はアメリカだけ、もしくは欧米だけに限らない世界共通の思潮を扱っていますが、「その建国精神からしてファナティックな、特異な人工国家」という観点でアメリカを論じたのが、
 鈴木透『性と暴力のアメリカ』(中央公論新社)
 森孝一『宗教からよむ「アメリカ」』(講談社)

 ただし前者は新書、後者も比較的コンパクトな分量ですし、もう少し最近の資料も欲しいな、と探して見つけたのがカート・アンダーセン『ファンタジーランド』(東京経済新報社)。上下巻合わせて800頁超、評判も上々、ということで読み始めたんですけどね。
 作者は本業が小説家だそうで、そのせいなのか曖昧な文学的(?)表現が多い一方、事件がいつ起きたかなどを含め具体的な数値データが少ない。資料として使えないので、いちいちググって補足せざるを得ない。そうして明らかになったのが、この本に史実として記されている情報そのものが誤りだらけということで、いや全6部のうち第1部だけでそのありさまだったんで途中放棄。

 興味があるのは陰謀論の心性であって陰謀論そのものではないので、陰謀論者の著作はもちろん、陰謀論を客観的に研究した資料も、これまで読んだことはありませんでした。上記の「認知の歪み」に関する資料のほか、疑似科学関連の本(客観的な研究書)などでも陰謀論はかなり取り上げているんで。
『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「はじまりと終わりの世界樹」でも陰謀論は扱いましたが、この時もヨーゼフ・メンゲレをはじめとするナチの逃亡犯に関する資料の幾つかがナチ関連の陰謀論についても紙幅を割いていたので、特に陰謀論に絞って調べる必要はなかったのでした。
 しかし今回の寄稿に当たって、さすがにそれだけで済ますわけにはいかんな、と陰謀論研究の資料を探してみたんですが。

 最初からあまり期待はしていなかったんですが、やはり個別の陰謀論(『シオン賢者の議定書』関連とか)はともかく、陰謀論全般についてまともに研究している資料はほとんどない。少なくとも日本語のものは少ない。欧米ではかなり出ているようなんですけどね。
 とりあえず最も包括的な陰謀論研究資料は、マイケル・バーカン『現代アメリカの陰謀論』(三一書房)。テーマはタイトルどおりではありますが、それらの源流である近代欧米の陰謀論も扱っています。ただし翻訳がいろいろと、その……
 1点だけ挙げると、第8章で取り上げている「出生地主義」。同書の中では、19世紀米国の排外主義と定義されていますが、「出生地主義」でググると、jus soliの訳語で、国籍付与を字義どおり出生地に基づいて行う方式のことであり、トランプ元大統領がこれを廃止しようとしたことからも明らかなように、排外主義とは真逆のものですね。
 どういうこっちゃ、と混乱しましたが、この定義と一緒に歴史家ジョン・ハイアムの言が引用されていたので、ジョン・ハイアムについて英語でググって、ようやくnativismの誤訳だと判明。ネイティヴィズムに定訳はないようですが、「出生地主義」と訳されることがまずないのは確かです。こういうのが一つだけじゃないんで、まさか陰謀論を否定するこの本の信頼性を落とすために……? と思わず陰謀を疑ってしまいます。

 いや、私に英書1冊スラスラ読めるだけの英語力があれば、邦訳のお世話にならずに済むんですけどね。努力はしてるんですよ……まあこれについては、ただでさえ語学の才能がないくせに多言語マニアなので、その乏しいリソースを十数ヵ国語に分配しているせいだ、ということにしています。

 ところで昨年、『トーキングヘッズ叢書』№84に寄稿した「乱反射する悪魔崇拝」でテンプル騎士団の壊滅に言及したんですが、壊滅後のテンプル騎士団の毀誉褒貶についてあれこれ調べていったら、フリーメイソンの起源をテンプル騎士団だとした最初の文書をフランス語原文で読む羽目になりまして。そのついでに判明したのが、このネットで無料で公開されていて、特に難解でもない(フランス語の初歩しか知らない私でも辞書と文法書頼りにどうにか訳せるレベル)短い文書をまともに読んでいる人は日本語圏、英語圏、それどころかフランス語圏でもほとんどいないらしい、ということでした。
 いや、私が盛大に誤読している可能性はありますが、少なくともこの文書への、ネット上における日本語、英語、フランス語による言及で、原典を読んだ上でのものだとはっきり判るものは見当たらなかったんで。ちょっとでも「そっち側」に足を踏み入れた人たちは、二次、三次、……n次資料は熱心に読み込んでるようなのに、なんで原典には当たらないんだろうなあ。
 どれがどうとかは言いませんが、陰謀論研究書がまともかどうかを見分けるのに、この文書周りの知識が役に立ったのでした。

 長くなったので続きます。

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関連記事
「テンプル騎士団とフリーメイソンの謎」
「なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか Ⅰ」『トーキングヘッズ叢書』№76に寄稿した「イスラムの堕天使たち」の解説ですが、後半に今回の寄稿でも紹介している「魂を屠る者」のレビューがあります。わりとくそみそ。なお「魂を屠る者」は『黄衣の王』(東京創元社)所収です。
「HISTORIAシリーズ設定集コンテンツ」自作解説(の目次ページ)

 

 

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「乱反射するサタニズム」補足 Ⅲ

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「トーキングヘッズ叢書」№84「悪の方程式~善を疑え!」(2020年10月28日発売)

 エッセイ「乱反射する悪魔主義(サタニズム)」を寄稿させていただきました。「悪魔崇拝」を宗教・信仰ではなく「妄想」と定義し、そのような妄想がどのように成立し発展したかを考察しました。

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 今回は少々多めに書かせていただきました。3部構成で、第1・2部では「悪魔崇拝という妄想」について、第3部では欧米キリスト教徒によるこの妄想が、クルディスタンのヤズィーディーにもたらした惨禍について書きました。

補足記事Ⅰ
補足記事Ⅱ

 というわけで続きです。
 西洋キリスト教(カトリックとプロテスタント)における「悪魔」像がどのように形成されたかについては、ジェフリー・バートン・ラッセルの『悪魔の系譜』(青土社 原書は1988年刊)とジョルジュ・ミノワの『悪魔の文化史』(白水社 原書は2000年刊)を参照しました。
 ただし両書の見解に依拠したというよりは、それらを基にいろいろ調べた結果といいますか。

 ミノワの『悪魔の文化史』は、実体のある宗教・信仰としての「悪魔崇拝(サタニズム)」は存在しなかった、という立場を取っています。ラッセルは初期の著作(未読)では、少なくとも古代においては実体があったと論じているらしいですが、『悪魔の系譜』においてはそのような見解は見られませんでした。
『悪魔の文化史』には参考文献としてラッセルの「5部作」が挙げられています。悪魔についての5冊の論考で、すべて邦訳が出ています。でもなぜか最初の4冊は邦訳があることが邦題とともに付記されてるのに、最後の『悪魔の系譜』については『悪魔の文化史』の邦訳が出た2002年より12年も前に邦訳が出てるのに未邦訳扱いになってます。

 ラッセルの著作は『悪魔の系譜』しか読んでいないのですが、ミノワがだいぶ依拠しているのが判ります。依拠を通り越して、そのまま引き写してるような部分も散見されます……たとえば、プラトンが「悪の非在」論なるものを唱えたとした上で「チーズの穴」に喩えた「非在」の説明など、まんま『悪魔の系譜』の引き写しですが、この箇所でラッセルの名やその著書は挙げられていません。まあ「チーズの穴」の喩えはラッセルのオリジナルじゃないかもしれませんけどね。
 ほかにも『悪魔の文化史』が非キリスト教の神話に見られる「対立する善と悪」の例として、「エジプト神話の兄弟神セトとホルスの闘い」を挙げているのも『悪魔の系譜』に拠っていますね。
 ホルスはセトの甥だとしか私は知らなかったし、訳者の平野隆文氏もわざわざ註を設けて、ミノワの勘違いだろうと述べちゃってますが、ググってみたところ、初期には確かに兄弟神だとされていたそうです。後にオシリス神話に組み込まれたことで、セトがオシリスを殺し、オシリスの息子ホルスが仇討ちをしたことになったと。セトと兄弟だった古いヴァージョンのホルスは、「大ホルス」(英語はHorus the elder)と呼んで区別するそうです。
 いずれにせよ英語圏でもマイナーな神話なのは変わらないようですが、ラッセルが『悪魔の系譜』でメジャーな神話であるかのように述べているんで、たぶんミノワもそのまま……

 そうかと思えば、ミノワは西洋では9世紀までは悪魔を醜く描くことはなかったと主張しているんですが、これだけ依拠している『悪魔の系譜』にはそれよりも古い時代に描かれた醜い悪魔の絵が2点掲載されている。
 ただしうち1点は、同書のキャプチャには世紀初頭のシュトゥットガルドの福音書」の挿絵とありますが、英語とドイツ語でググった限りでは、シュトゥットガルトには確かにその挿絵が描かれた9世紀初頭の聖書写本があるものの、福音書ではなく「詩編」だそうです……どっちもどっちと言いましょうか。

 両書とも最初から最後まで、そういう「ん?」と引っ掛かる箇所がボロボロ出てくるんで、興味を惹かれた「西洋キリスト教における悪魔像の形成過程」論も、どこまで信用していいんだか判らない。
 幸いにして両書とも、典拠とする聖書(ユダヤ教およびキリスト教)の記述については、「創世記」とか「マタイによる福音書」といった書名、章、節までおおむね付記してくれているので、原文が確認できました。ユダヤ教聖書(いわゆる「旧約聖書」)古典ヘブライ語原文と七十人訳(古典ギリシア語)原文とウルガタ訳(ラテン語)原文と、ついでに英語の欽定訳(1611年版)と近現代の訳いろいろが。

 それらの原文を無料公開している英語の聖書研究サイトが幾つもあるんですよ。書名と第○章第○節とを英語で検索すると、その箇所の英訳が欽定訳から近現代版までまとめて出てくるし、「ヘブライ語」/「七十人訳 ギリシア語」/「ウルガタ訳 ラテン語」と付け加えれば各ヴァージョンが出てくる。『悪魔の系譜』や『悪魔の文化史』に書名等が明記されていない聖書の記述でも、適切なキーワード(英語)さえ選択できれば、割と簡単に見つかる。
 古典ヘブライ語、古典ギリシア語、ラテン語は初歩を独学で齧っただけですが、正典のヘブライ語版とギリシア語版は英語の注釈付きで、そうでないものも英訳が見つけられたのでだいぶ参考になり、後は辞書と文法書でなんとかなりました(各言語の辞書も手持ちの初級者向けよりも、英語のオンライン辞書が遥かに詳しくて役に立ちました)。
 いや、すごいですね。居ながらにしてこれだけのことが調べられるって。それだけ欧米では聖書研究が盛ん、かつこうした情報への需要が大きいということでしょう。その割には、キリスト教文化で育ったのに日本のオタクより聖書の知識がない欧米人は多いようですが。

 その結果、やはり両書とも細かい「ん?」が幾つも見つかりました。特に正典はともかく、外典・偽典については「いや、それは違うだろう」という記述が多い。なお偽典は英訳か英語による要約しか見つけられませんでした。まあどのみちゲエズ語やアラム語だったら、まったく解りませんが。
 そういうのはとりあえずさて措き、最も大きな問題は「デーモン/悪霊」でした。

『悪魔の系譜』でも、それに大いに依拠している『悪魔の文化史』でも、「西洋キリスト教における悪魔像の形成過程」を論ずるのに、「デーモン/悪霊」というものを全然重視していません。しかし両書とも全体を通して、この語を多用している。にもかかわらず、そもそも「デーモン」「悪霊」(と邦訳されている語)の定義を行っていない。
「悪霊」と訳されている語は原文(『悪魔の系譜』なら英語、『悪魔の文化史』なら仏語)ではどう書かれているか解りませんが、両書ともまともに使い分けていない。
 そういうわけで聖書原典ではどうなんだろうと気になって調べた結果が、拙稿の第1部なのでした。「西洋キリスト教における悪魔像の形成過程」の調査として、「デーモン」「悪霊」「神の使い(天使)」「神の息子たち」「サタン」といった用語が、古典ヘブライ語、古典ギリシア語、ラテン語、英語(欽定訳および近現代版)の各聖書の原文ではどうなっているかを片っ端から調べるという方法に行き着くことができたのは、『悪魔の系譜』と『悪魔の文化史』のお蔭ですけどね。資料として他人様にお勧めは、まあできませんね。

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「乱反射するサタニズム」補足 Ⅱ

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「トーキングヘッズ叢書」№84「悪の方程式~善を疑え!」(2020年10月28日発売)

 エッセイ「乱反射する悪魔主義(サタニズム)」を寄稿させていただきました。「悪魔崇拝」を宗教・信仰ではなく「妄想」と定義し、そのような妄想がどのように成立し発展したかを考察しました。

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 今回は少々多めに書かせていただきました。3部構成で、第1・2部では「悪魔崇拝という妄想」について、第3部では欧米キリスト教徒によるこの妄想が、クルディスタンのヤズィーディーにもたらした惨禍について書きました。
 先にこの第3部についての補足記事を上げております。

 というわけで主に第1・2部についての補足です。
 悪魔崇拝(サタニズム)が実体のある宗教・信仰ではなく妄想である、と私が断じる理由は二つあって、まず古代から現代に至るまで、悪魔崇拝者と名指された個人や集団が実行しているとされた「教」や「儀式」が判で押したように同じ、すなわち人身供犠(主に幼児を捧げる)、その犠牲者を食すカニバリズム、近親相姦や男性同性愛を含む乱交、そして秩序壊乱の陰謀の4本立てだからです。
「悪魔崇拝者」はすべてこの4本立てを実行している(とされる)、だから彼らは一つの組織なのだ、という理屈になりますが、もちろん事実は逆で、「敵=悪」の根源は一つであってほしい、という願望と、「他者」の多様性を許さない不寛容とが根底にあります。
 この4本立ての「妄想」については、ノーマン・コーンの『魔女狩りの社会史』(岩波書店)に依拠しています。

 ところで今回の拙稿では「魔女狩り」には一切言及しませんでした。魔女狩りについての文献の多くは、「魔女狩りと異端審問の違い」を強調しています。確かに両者は時代もシステムは異なりますが、「魔女」と「異端者」と目された人々に掛けられた嫌疑は、「秩序壊乱を目論み、殺人と食人と乱交の宴に耽る悪魔崇拝者」ということで共通しています。なので論旨を簡潔にするためにも、両者の違いには触れませんでした。
 まあ私も、「中世の魔女狩り」とか言われたらイラッとしますけどね。

「秩序壊乱を目論み、殺人と食人と乱交の宴に耽る邪悪なカルト」という紋切型は、前2世紀初めのローマで流行したバックス(バッカス)教にかけられた嫌疑にまで遡ります。同じ紋切型がユダヤ教、次いでキリスト教に適応され、その後、キリスト教がマジョリティになると、今度は彼らが「異教徒」や「異端者」に対して同じことをするわけでです。
 したがってキリスト教徒はローマの異教徒たちの妄想を直接継承したと言えますが、似たような妄想は多くの文化に存在してきました。

 たとえばユダヤ教では「モロク」(モレク)が有名です。ユダヤ教聖書(いわゆる旧約聖書)では人身供犠が行われる異教の神とされますが、この名はヘブライ語で「王」を意味する「マリク」を侮蔑の意図で母音を変えた語で、特定の神を指すのではなく異教の神々(の主神)全般を貶める呼称です。
 古代の中東~地中海世界で人身供犠を行う宗教は一応ありましたが(たとえばずっと後代のキリスト教徒が「モロク」と同一視することになるフェニキアの主神)、イスラエル周辺の非ユダヤ人がそのような神を信じていたという証拠はありません。ユダヤ教聖書には「モロク」のほかにも、異教の神に人身供犠が行われているという記述が散見されますが、すべて事実無根の中傷だという可能性もあるわけです。
 また「男性同性愛や近親相姦を含む乱交」すなわち性的逸脱についてはソドムとゴモラにその罪が着せられています。ソドムの住民たちは天使(ヘブライ語では男性形)をレイプしようとし、ロトの娘たちはソドム育ちだったせいか、ロトを酔わせて近親姦を行いました。生まれた2人の息子はそれぞれイスラエル人と敵対する民族の祖になった、とされています。

 東アジアの事例だと、キリスト教の聖餐を曲解して食人儀礼だと中傷したりとか。また特定の宗派が性的逸脱の廉で非難・迫害されることは、中国や日本でもありました。道教の房中術とか密教のタントラといった根拠にし得るものがあるんで、まったくの冤罪との見極めが困難ですが。
 日本で「淫祠邪教」が「秩序壊乱を目論み、乱交の宴に耽る邪悪なカルト」を指すようになったのは、江戸時代の真言立川流からですかね。「淫祠邪教」の「淫」は元来、「邪」と同じような意味です。

 ゾロアスター教では、5世紀末に現れた宗教改革者マズダクとその信徒が、財産ならびに女性の共有を行っている、と記録されています。
 マズダク教を迫害した側からの記録であるにもかかわらず、現在でも多くの研究者がなんの疑問もなく「財産ならびに女性の共有」がマズダク教の教義だったと述べています。しかし歴史を鑑みるに、「財産の共有」はともかく「女性の共有」は例の紋切型であったかもしれません。

 イスラムはこのゾロアスター教によるマズダク教像を受け継ぎ、これがイスラムにとっての異教徒・異端者像の典型となりました。拙稿のイスラムにおける異教徒・異端者像の紋切型の紹介は、主に『統治の書』(岩波書店)に拠っています。
 この書はタイトルどおり理想の統治者の在り方を説くもので、セルジューク朝の宰相ニザーム・アルムルク(1092没)によって書かれました。ただし第44章以降は彼が異教・異端と見做した人々への憎悪に満ちた陰謀論が展開されています。

 まず第44章でマズダク教を取り上げていますが、マズダクとその信徒たちを騙し討ちで殲滅した王子ホスロー(後のホスロー1世。在位539-571。もちろんゾロアスター教徒)を称讃し、また彼に協力したゾロアスター教大神官は占星術によって「アラブ人の預言者」(つまりムハンマド)の出現を予測したと述べています。
 セルジューク朝の支配者はトルコ系ですが、領土は中央アジアからペルシア東部で、当時の住民はほぼペルシア系で公用語もペルシア語。『統治の書』もペルシア語で書かれ、ニザーム自身もペルシア系です。ペルシア人はイスラム化以後も、ホスロー1世を理想の帝王として尊敬していたので、彼の信仰を全面否定するわけにもいかず、上記のように「まだムハンマドが生まれる前だったから、間違った宗教を信じていたのも仕方がないのだ」というように弁明していたのでした。

 続いて第45章では、マズダクの妻ホッラムがペルシア東部に逃亡し、そこでマズダク教を広めたことが述べられます。以後、マズダク教はホッラム教と呼ばれるようになったそうです。
 ホッラムという女性が実在したかもわかりません。敵勢力(宗教とか国家とか)の創立などへの女性の貢献の大きさを強調するのは、古典的な誹謗の一例です。

 そして初期イスラム時代から著者ニザームの時代までに出現した異端宗派(主にシーア派系だが無関係な宗派もある)および異端とは無関係な反乱は、すべてホッラム教から派生したことにされています。マズダク教を誅した「正しい」ゾロアスター教ですら、いつの間にかホッラム(=マズダク)教と同一視されています。イスラム成立以前のゾロアスター教徒なら擁護のしようがあるが、イスラム以後のゾロアスター教にはない、ということなのでしょう。

 ニザームによれば、「バーティン派(シーア派の分派イスマイール派のさらに過激な一派のことだが、著者は異教・異端全般の呼称として使う)の者たちは、叛乱を起こすごとにいろいろな呼び名や通称で呼ばれた。それゆえ町や地域によって彼らを違う名で呼ぶのだが、その実態はすべて同一である。(……)彼らすべての目的は、どうにかしてイスラームを転覆させ、人々に道を踏み外させ迷わせようとすることなのである」だそうです。そしてもちろん彼らは、飲酒や偶像崇拝、近親相姦を含む乱交といった悪行に耽るのでした。
 多種多様に見える「敵」は裏ですべて繋がっている、根本は一つである、というのは典型的な陰謀論です。しかし『統治の書』の訳者解説は本書をホッラム教に関する「貴重な情報源」と呼び、大量の誤情報もごく一部を註で曖昧に訂正しているだけです。

『統治の書』は当初、まっとうな部分(理想の統治者の在り方)だけが世に出され、終盤の陰謀論の部分はその数年後に書かれたのですが、発表される(写本として出回る)前に、ニザームは「バーティン派」によって暗殺されてしまいます。この「バーティン派」は本来の意味のバーティン派で、過激イスマイール派であるニザール派、いわゆるアサシン教団です。
 異端を憎むニザーム・アルムルクは、正統イスラム(いわゆるスンナ派)を広めるため、宰相の権限で各地にイスラム教育機関を設立しました。こうした文化事業と著作(陰謀論の垂れ流し)以外に、具体的な異教・異端の弾圧を行ったのかは、ちょっとわかりません。暗殺は政敵の差し金だったという説もありますが、いずれにせよ彼は自らの命をもって異端者が危険な存在であることを世に知らしめることになったわけで、なんとも皮肉な話です。

 前近代のムスリムによる異教・異端観は、ごく一部の例外を除いて、まあだいたいこんなものです。ただ普通は単に無関心から来る無知で異教・異端を区別していないだけで、この『統治の書』のように憎悪に満ちた陰謀論はやはり特殊ですが。
 フィクションだと『千夜一夜』では、ゾロアスター教徒はムスリムの美青年を生贄にしようと常に付け狙っていて、キリスト教徒は偶像崇拝者で食糞儀礼を行うとされてたりします。まあ中世・近世のキリスト教徒によるムスリム像もひどいものなので、この点はどっちもどっちですね。

 長くなったので、「悪魔崇拝(サタニズム)が実体のある宗教・信仰ではなく妄想であると断じる理由」その2は次回

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