情報受容体

「にんげんのくに」の主人公である異人は、己の五感を通じて収集した情報を「ある存在」に提供する「情報受容体」である。異人自身がそのことを知ったのは、10歳の時、幻覚剤を吸引させられたことがきっかけだった。
 異人は己が情報を提供する相手を「彼ら」と呼ぶが、それは「彼ら」の正体も情報収集の目的も一切不明だからである。情報受容体の脳が受容した情報はすべて、周囲の環境からのものも受容体自身の体内からのものも含めて、「彼ら」の許に送信されるが、その仕組みについても異人自身が知ることはできない。

 情報受容体から常時、「彼ら」に情報が送信されるだけでなく、情報受容が支障なく行われるよう、「彼ら」からも常時、受容体の感情・思考・行動を制限または補助する指令が送信されている。ただし受容体に常時張り付いているのは「彼ら」自身ではなく、コンピュータ・プログラムである。
 いずれにせよ、受容体とプログラムの間に最初から双方向の情報の遣り取りがあったため、強力な幻覚剤の作用によって新たな回路が開き、本来なら受容体には送信されない(もしくは、送信されても受容体自身には認識できない)情報までもが漏出するようになったのである。

 この「事故」はすでに、同じく情報受容体であった異人の母にも起きていた。二度と同じ事故が起きないようプログラムを修正し、受容体の記憶も書き換えることは「彼ら」にとって容易だと思われる。それをしていないということは、経過を観察するつもりなのであろう。
 幻覚剤を一度しか吸引しなかった母よりも、常習することになる異人のほうが遥かに大量の情報を随意に引き出せるようになっていくのだが、その彼でも、得られる情報は空間的にも時間的にも自分の周囲のことに限定され、それ以上のことはおぼろげにしか知ることはできない。特に、「彼ら」に関する情報は完全に遮断されている。
 そのことに異人が不満を抱かないのは、プログラムによって感情・思考を制限されているからである。制限されていると知ってなお不満を抱かないのも、制限のうちだ。

「にんげんのくに」の舞台はブラジル北部、ベネスエラとの国境地帯辺りである(作中、明記はしていないが間接的な記述はある)。ちなみに「人間」族のモデルであるヤノマミ族が居住するのもこの辺り。
 異人が知ることができた森の歴史と、これまでのHISTORIAシリーズで語られたことを突き合わせると、次のようになる。

 アマゾンの熱帯雨林は一見豊かなようでいて実は非常に脆弱で、いったん大規模に伐採すると不毛の地と化してしまうのだが、「森の外からやってきた人々」による森林破壊が時代とともに加速度的に拡大していったことは、現実の歴史と同じ。20世紀末からのオルタナティブ・ヒストリーにおいては、環境保護政策によって森林破壊が終結するだけでなく、改造微生物によって土壌の生産性が高められる。森は速やかに回復しただけでなく、かつてとは異なり、見た目どおりの豊穣の地となる。
 しかし22世紀末、世界各地で生物の変異による災害が始まる。アマゾンは最初に災害が発生した地域の一つで、それは植物の強毒化と異常繁殖という形で始まった。
 やがて原因は土壌微生物の変異であることが判明するが、かつての森林再生プロジェクトとの関係が解明されることはなかった。その頃にはもはや深刻なパンデミックが多発し、世界は混沌に陥っていたからである。

『グアルディア』の時代(2640年代)、災厄はすでに何世代も前から小康状態に入っていたにもかかわらず、南米北部の人々にとってアマゾンは未だに、猛毒植物だらけで疫病の温床というだけでなく、怪物と化した生き物(人間のなれの果てを含む)の巣窟であり、いつ異常繁殖を再開して自分たちの町や村を飲み込むかわからない魔境のままである。

「にんげんのくに」では時代設定の手掛かりは、災厄が何世代も前から小康状態にある、という以上のことは明かされず、これだけでは『グアルディア』の以前なのか以後なのかも不明である。
 明らかなのは、災厄の時代、アマゾンに住んでいた人々の大半は死ぬか逃げるかしたが、わずかな人々は生き延び、子孫を残したということである。それが「人間」族をはじめとする各部族であり、異人が知る限りでは、どの部族も新石器時代レベルにまで退行してしまっている。
 無脊椎動物から人間を含む脊椎動まで、森の外の人々が恐れるような怪物にはならなかったものの、変異は確実に起きており、最も顕著なのは植物毒に対する耐性である。森の外の住民にとって、森の植物の大半は未だに猛毒のままで、それが森と外界とを隔てる障壁の一つとなっている(最大の障壁は、外部の人々の森への恐怖であろう)。
 また植物毒(主にアルカロイド)の影響は、特に人間のニューロン・ネットワーク形成にも及んでおり、それは主に幻覚という形で表れている。

 なお本作は、いわゆる心霊現象も神秘体験もすべて「脳の誤作動による幻覚」というスタンスを取っている。ヒトの脳は生得的にこの誤作動が組み込まれているが、変異した森に住む人々は、向精神性のある植物毒を生涯摂取し続けるため、先天的にも後天的にもこの誤作動が非常に起きやすくなっている、という設定である。
 異人と彼の母が、情報受容体としての自覚を持ったのは幻覚剤の吸引によるが、おそらくこれは単なるきっかけ、もしくは最後の一押しに過ぎず、すでにそれ以前から脳の器質的な変異は形成されていたと思われる。

 異人の情報受容体としての機能は母から受け継いだものであり、母はその母から受け継いでいる。「彼ら」によって最初の情報受容体とされたのは、異人の祖母(母の母)である。
 彼女が生まれたのは、ギアナ高地のサバナ地帯にある小さな村の一つである。生後数日で「彼ら」によって情報受容体に改造されたのだが、その手段は今のところ不明である。  
 アマゾン低地のほとりに位置するこれらの村々でも、一握りの交易商人を例外として、森に入る者はいない。交易商人たちにしても、移動はカヌーに限り、交易相手も川沿いの部族だけ、携行食料以外は口にしないので、滞在もせいぜい数日に限られる。
 森の住民が森から出てくることもないが、これは開けた場所を恐れているからだと思われる。

 異人の祖母は幻覚剤を使用する機会が生涯なく、己の正体を知ることも生涯なかった。10歳で故郷を出て森に入ったのは好奇心のためだと信じ、森で一人で生き延びられたことに疑問を抱くこともなかった。
 彼女が危険を避けることができ、毒に中ることもなかったのは、プログラムによる干渉のお蔭だが、後者に関しては、森のほとりの住民であったために多少の耐性ができていたためでもある。サバナ地帯の植物にも、強毒化はいくらか及んでいたのである。

「彼ら」が情報受容体をアマゾンに送り込んだのは、「彼ら」の力をもってしても、アマゾンの詳細な情報を入手する手段がほかにないからだ、と異人は理解している。 「彼ら」が異人の祖母のほかにも情報受容体を造ったのか否か、異人は知ることができない。森の外がどうなっているのかもまた、知ることができない。

 情報受容体は、すでにHISTORIAシリーズに登場している。『ミカイールの階梯』のハーフェズである。「ハーフェズ」はアラビア語「ハーフィズ」のペルシア語訛りで、「保管者」。転じて「保護者/守護者」、さらには「記憶(を保つ)者」を意味する。
 現実のイスラム世界においては、ハーフィズ/ハーフェズはクルアーンを丸暗記した者に与えられる称号である。

『ミカイールの階梯』(2440年代)におけるハーフェズは、アポカリプス以前の文明「絶対平和」の知識と技術を保有するミカイリー一族の間に生まれてくる、ある遺伝子(「ハーフェズ遺伝子」と呼ばれる)の持ち主である。
 特殊な遺伝子といっても、それは表立った形質は何一つ現さない。ハーフェズ遺伝子はX染色体上にあるが、一族の伝承によればハーフェズ遺伝子を二つ持つ者(普通はハーフェズを両親に持つ娘)は、一度だけ知性機械ミカイールにアクセスすることができるとされ、「階梯(メァラージュ)」と呼ばれる(階梯一人につき一度ではなく、一度でもアクセスしてしまえばお終いである)。  もう一つ、ハーフェズたちの脳が受容する情報は「管理者たち」へ送信されている、という伝承もあるのだが、どうやって送信されているのか、そもそも本当に送信されているのか、ハーフェズ自身を含めて誰も知らない。
 そのため一族は後者の言い伝えを重視せず、また前者の伝承についても試しにアクセスしてみるわけにもいかないので、ハーフェズを失われた文明の象徴とのみ見做してきた。    

 ミカイリー一族は、「絶対平和」体制が崩壊を始めた22世紀末、密かにハーフェズを開発・製造した科学者たちの末裔である。自ら生み出した遺伝子改造体を、自らの血統に組み込むことで継代してきたのだ。
 彼らにハーフェズを開発させたのは、「遺伝子管理局」の「管理者たち」である。絶対平和を支配する組織とそのトップだが、絶対平和当時には実在しないとされていた。絶対平和体制を運営するのは、12基のスーパーコンピューター知性機械に補佐された各国の協議だったからだ。

 そもそも遺伝子管理局や管理者たちの存在を最初に唱えたのは、21世紀初頭の旧体制派の陰謀論者たちだった。絶対平和確立後は、冗談の種として見做されていなかった。
  しかし遺伝子管理局は妄想だったが、12基の知性機械を支配する管理者たちは存在した。絶対平和が揺るぎなかった間の活動は一切知られていないが、22世紀末、ウイルス禍とそれによる社会不安が広がり始めると、絶対平和崩壊を見越した活動を密かに開始している。それが「ハーフェズ」、そして「生体端末」の開発である。

『グアルディア』と『ラ・イストリア』に登場する生体端末は、中南米地域を管轄する知性機械サンティアゴの、文字どおり生きた端末である。中央アジア・西アジアの知性機械ミカイールの階梯と違い、何度でもアクセスでき、ある程度ならサンティアゴを操作することすらできる。
 サンティアゴに生体端末が造られたのに、ミカイールには造られなかった理由は、それぞれのCPUの特性の違いによる。サンティアゴにあってミカイールにないこの特性は、残りの10基にも存在しないため、生体端末が造られた知性機械はサンティアゴ1基だけ、ということになる。

 生体端末にしてもハーフェズ/階梯にしても、その存在意義は「文明の遺産の守り手」たることだと考えられてきた。
 また管理者たちは、2239年に「封じ込めプログラム」を発動させて以後、完全に消息を絶っており、2440年代の中央アジア(『ミカイールの階梯』)でも2640年代の中南米(『グアルディア』)でも、彼らがなんらかの形で存在し続けていることを示す手掛かりは一切ない。  

 しかし「にんげんのくに」で明らかになったのは、管理者たちは永く沈黙してきただけだったということである。さらに、生体端末やハーフェズ/階梯が「文明の遺産の守り手」だという解釈は誤りもしくは事実の一部でしかなく、管理者たちの真の目的は、災厄によって変容する世界を観察することだった、ということだ(生体端末の脳も、ハーフェズや情報受容体と同じく情報は双方向である)。
 このことから、残りの10の地域でも、ハーフェズに相当する遺伝子改造体が造られたのではないか、という推測が成り立つ。

 以下、ハーフェズや生体端末と「にんげんのくに」の情報受容体との違いは何か、そもそも中南米地域には生体端末があるのに新たに情報受容体を投入したのは何か、「にんげんのくに」のサブタイトル(Le Milieu Humain)の意味は何か、といった問題については、『グアルディア』のネタバレや、まだ作中で語られていない設定に関することになるので、それでもいいという方はどうぞ。

関連記事: 「にんげんのくに」  「遺伝子管理局」  「大災厄」 

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にんげんのくに

『伊藤計劃トリビュート』所収。
「セカイ、蛮族、ぼく」へのオマージュである。というのは嘘だが、『トリビュート』企画が影も形もなかった2012年の執筆時点で、「現代的な自意識を持ってるのに蛮族として生きなきゃいけない主人公って、『セカイ、蛮族、ぼく』みたいだな」と思っていたのは事実だ。

 蛮族も蛮族、「にんげんのくに」に登場する「人間」族(作中では「人間」に傍点を振るが、ブログでそれをやると煩わしいので「」で代用)のモデルは、「世界で最も凶暴な部族」とまで言われた北部アマゾンのヤノマミ族をモデルとしている。ちなみに「ヤノマミ」(方言によっては「ヤノマモ」、「ヤノアマ」など)は彼らの言葉で「人間」の意だ。
 ただし「にんげんのくに」後記で述べたように、ヤノマミ族が「凶暴」だったのは、すでに過去の話である。今でも文化人類学や進化論等のテキストで「原始的(「伝統的」と表現されることが多いが、要は同じだ)な暴力」の例として彼らはしばしば取り上げられるが、挙げられている事例はほぼエレナ・ヴァレロとナポレオン・シャグノンの報告に基づいている。

 エレナ・ヴァレロは11歳頃にヤノマミ族に捕らわれたブラジル人女性で、1956年に白人社会に逃げ戻るまでおよそ20年間(正確な年数は不明)、彼らの許で暮らしていた。
 1960年代にヤノマミ族を調査したシャグノンの報告も殺伐とした暴力に満ちているが、彼はあくまで外部からの観察者であり、対象を冷静に分析している。しかし曲がりなりにもヤノマミ族の一員として生きたヴァレロの証言は、主観的である分、凄まじく生々しい。

 上述したように、この「暴力の文化」は文化人類学や進化論の観点から詳細に分析されており、そこから見えてくるのは、「暴力の文化」それ自体がほとんど自律的・自動的に稼働し、主体者であるはずのヤノマミたちを暴力に駆り立てている構図である。
 それはそれで慄然とさせられるのではあるが、エレナ・ヴァレロが解釈も分析もなく、文字どおり見たままに語る「ヤノマミ=人間」の暴力は、完全に不条理の域にまで達しており、読んでいて頭がくらくらする。
 なお、エレナ・ヴァレロはヤノマミ族の間では「ナパニュマ」と呼ばれていた。「ナパ」(方言によっては「ナブ」とも)は「ヤノマミ=人間」以外のものである禽獣、精霊、他所者の総称で「人外/異人」、「ニュマ」は「女」、すなわち「異人女」である。

 60年代末から調査を始めたジャック・リゾーや70年代にヤノマミ族の村に立ち寄った日本の探検隊の報告などからは、彼らの「暴力の文化」が急速に失われつつあったことが伺われる。
 この変化は外部からの圧力によるもので、自主的なものではない。これに関しては、「伝統文化の破壊」の是非をめぐる論争が成立しそうで成立しない。彼らの「伝統」文化とされるものは、19世紀後半に極めて短期間に形成されたものだからだ。
 したがって、ヤノマミ族の暴力が「原始的」「伝統的」であるという定義には問題があるのだが、少なくとも「文明」が介在しない「人間の根源的な暴力の一形態」であるのは確かだろう。文明は介在しなくても「文化」は介在する。それが「人間の暴力」である。

 そんな「文明から切り離された暴力」を「現代文明の暴力とその延長」と対比させる、というのが、連作〈The Show Must Go On〉の当初の構想だった。そして「文明から切り離された暴力」は、退行した南米アマゾンを旅する少年の物語になる予定だった。つまり、「旅の終わり」までを書き切る予定だったのである。
 が、まずは少年が旅立つまでのエピソードとして「人間」族の物語を書き始めてみると、それだけで中篇一本になることが判明した。

 この「にんげんのくに」だけでも、「現代文明の暴力とその延長」との対比は成立する。『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』に収録されることになる四篇+エピローグでは、人間が「亜人」という「人より一段劣った存在」を造り出すことによって全人類の平和と平等を実現するが、「人間」族と「異人」との関係がそれに対比されていることは言うまでもない。
  しかし、「にんげんのくに」が連作の中でカラーが違いすぎるのは確かで、それにやはり「旅の終わり」まで書き切りたく、『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の収録は見送ったのであった。
 各章ごとの独立性が比較的高い、連作風の長編になる予定だが、「にんげんのくに」が単独で読めるのに対し、後続の章はHISTORIAシリーズ全体の物語に大きく関わっていく予定である。

 この設定集では原則として、発表された作品についてのみ解説し、「今後の構想」等には言及しないのですが、「にんげんのくに」の続き発表できたらいいなあ、という希望を籠めて、以下、興味のある方だけどうぞ。
 

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暴力表現について

 映画感想(このブログの事実上のメイン)がしばらく滞るので、数ヶ月前に書いてなんとなく放置していた記事を上げることにしました。

 私の作品の暴力表現は残虐すぎる、という評に時々出会うのだが、もっと残虐な表現をする作家ならいくらでもいる。残虐すぎる、と評する読者の中には、普段は暴力表現のある小説など読まないのに不幸にして偶々私の小説を読んでしまった人もおられるのであろう。が、全員がそうだとも思えないので、理由として考えられるのは、私の暴力表現のうち、カタルシスを伴わないものを指してそう評しているのではあるまいか。

 エンターテインメントとしての暴力表現と、そうでない暴力表現の違いは、カタルシスの有無である。視点を加害者に据えた場合、相手の反撃がある場合でも表現は被る痛みよりも打撃が中心になり、それは無生物を破壊しているのと変わらない。破壊は爽快感、つまりカタルシスをもたらす。
 視点が暴力の被害者に置かれた場合、よほど鈍感な人間でない限り、読者は被害者の痛みや恐怖に共感し、情動が高まる(痛みの感覚には身体的なものと情動的なものがあり、共感による痛みは情動系である)。暴力が終わることで読者は解放され、カタルシスを、すなわち快感を得る。暴力の終わりとは救済か死のどちらかだが、死で終わったほうが情動はより高まるので、得られるカタルシスも大きくなる。

 そしてこれが重要なのだが、人間は一つの出来事について、終わり方の印象で全体を記憶する。イベントを例に取れば、どんなに楽しい経過を辿っても、最後に嫌なことがあれば台無しになり、途中にいろいろアクシデントがあったとしても、盛り上がって終わることができれば、よい出来事として記憶される。映画や小説などでも同様である。
 だから暴力的な場面でも、どれほど残虐で陰惨な経過を辿っても、最後にカタルシスを得られれば、強く記憶に残るのは暴力の悲惨さよりもカタルシスの快感である。逆に、比較的抑制された暴力表現でも、カタルシスが得られなければ、嫌な印象だけが残ることになる。

 フィクションの暴力でカタルシスを得て、ストレスが解消されるのは結構なことである。ショウやスポーツとしての格闘技といった、合意の上での暴力を見たり行ったりするのも同様である。
 私自身、小学生の時は同級生との殴り合いを楽しんでいた(女子とも殴りあったが、男子相手のほうが多かった)。子供同士だから本気で殴り合っても大したダメージはないし、本当に危ない攻撃はしないという暗黙の了解もあった。ただしそれも、小学校高学年までだった。その頃になると男子の力が強くなって、殴られる痛みが暴力を振るう快感を上回るようになってきたのである(また彼ら自身は、自分たちの筋力が急激に増していることになかなか気づかないので厄介だった)。私自身もそれなりに力が強くなっているので、殴ると手が痛くなる。
 割に合わないので自然ケンカは控えるようになったのだが、ともかく合意の上での暴力は楽しいものである。
 エンターテイメントとしての暴力も、いわば提供者(作者や選手、興行主など)と受容者(読者、観客)の合意の上に成り立っていると言えるだろう。

 現実の暴力、すなわち合意のない暴力は、加害者だけが一方的に快感を得るものであり、被害者にとっては苦しみでしかない。ここで再び、「他者の苦しみのエンターテイメント化」の問題が浮上する。
 暴力の被害も含め、現実の苦しみには終わりがないことのほうが普通である。暴力や災害から生き残ることができても、それで万事めでたしめでたし、とならないことのほうが多い。元の平穏な生活に戻ることは難しい。死は当人にとっては苦しみの終わりかもしれないが、残された人々の苦しみは続く。現実の苦しみには、カタルシスは稀だ。

 しかし、途切れなく続く現実の苦しみから一部を切り取って、カタルシスを得ることは可能である。その最も端的な例は、スナッフムービーだろう。死は一つの終わりには違いなく、しかも見世物が現実に行われた残忍な処刑となれば、見物人が得られるカタルシスは一際大きい。
 こういう代物を好んで視聴する人々が、遺族の苦しみや、あるいは犠牲になりかけたが生還することのできた人のPTSDに、持続的に関心を抱くことは、まずないだろう。一時的な好奇心を抱くことはあったとしても、それを長期間持続させることは困難だ。そのような苦しみには、カタルシスがないからだ。

 殺人動画に興味を持つような輩は一部の異常者だ、と思われる向きは、難病や災害などを扱った「泣ける」ノンフィクションやドキュメンタリーについて考えていただきたい。カタルシスの語源は、排泄してすっきりすることで、そこから転じて、涙を流してすっきりすることを指すようになった。悲しみという情動を高め、涙とともに解放されることで快感を得るのである。殺人動画を見て情動を高め、解放されることで得られる快感もまたカタルシスである。
 例えば癌で若くして亡くなった人の「実話に基づいた」映画を見て「泣いた」人のうちのどれだけが、癌患者を取り巻く現実の問題に関心を寄せ、それを持続させることができるだろうか(もちろん一時的な関心でも、完全な無関心よりはマシであるが)。

 現実の苦しみは、細切れにされ、コード化されて、フィクションに流用される。それらを完全に排除したフィクションの暴力を表現するのはもはや不可能だと私は思うし、エンターテイメントとしての暴力を否定するつもりもない。
 私がエンターテイメントとしての暴力、すなわちカタルシスを伴う暴力を書く一方で、カタルシス抜きの暴力をも書くのは、「他者の苦しみの商業的利用」への罪悪感からだと思っていただいて構わない。自覚の有無にかかわらず、他者の苦しみをエンターテイメントとして享受しているあなた方も罪悪感を持つべきだ、などと言うつもりはない。

 繰り返すが、人は出来事の結末の印象を全体の印象として記憶する。だから凄惨極まりない表現だがカタルシスを提供する暴力と、それよりは穏健な表現だがカタルシスのない暴力とでは、前者が「すっきりする」のに対し、後者はすっきりしない嫌な場面として記憶されるだろう。
『グアルディア』から『ミカイールの階梯』に至るHISTORIAシリーズでは、カタルシスのある暴力表現とカタルシスのない暴力表現の配分は微妙なところで、全体としてどうにかカタルシスが得られる人と、全体としてどうもすっきりしない人との割合は概ね半々なのではないかと思う(『ラ・イストリア』は、全体としてすっきりしない人の割合がやや高めかもしれない)。
 しかし連作〈The Show Must Go On〉(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)では、カタルシスを伴わない暴力表現がほとんどである。つまり、死や救済によって「すっきりと終わる」暴力が少ない。明確にカタルシスを伴う暴力を最後の最後に用意してあるが、それまでの「すっきりしない」暴力で残った陰惨な印象を完全に帳消しにはしない程度に抑えてある。
 それはこの連作が、現実の鏡であるユートピア/ディストピア作品であり、したがって暴力表現もより現実に即したカタルシスのないものに比重を置いているからである。

関連記事: 「連作〈The Show Must Go On〉」 

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等級制――概念

『アドルフの画集』という映画がある。ナチという組織や第三帝国は、アーティスト・ヒトラーの「作品」だった、という観点で描かれていて、これに限らずヴィジュアル面でのナチの魅力についての指摘はすでに多くなされている。
 しかし、ナチという組織そのものが、多くの人を惹きつけた要因の一つであったのではないか。軍隊や警察だけでなく、一般国民に対してもヒトラー・ユーゲント等もろもろの組織が作られ、多くの人が嬉々として参加し、制服を着用した。

 実在のものに限らず、軍隊や警察、それに準ずる組織に多くの人が惹きつけられるのは、階級制や制服が大きな要因である。だからそういう組織が登場するフィクションの多くでも、ストーリーに直接関係ないのに制服や階級の設定がきっちり用意されている。
「絶対平和」では、20世紀末から21世紀初頭の日本のポップカルチャーが、政治に利用されている。亜人の外見を魅力的にデザインするだけでなく、人間を等級づけるという概念に、ゲームのシステムを利用して抵抗感を失わせている。グレードが高いほど人間離れした外見にして、見ただけで区別がつくようにするのだが、そのデザインもかっこいいものだとして、みんな喜んで受け入れている。

 文化というもの、芸術というものは政治に利用される危険があるんだ、ということを言うのに、わざわざ現代日本のポップカルチャーを引き合いにしているのは、それだけ魅力があって説得力があるからであって、現実にそれが政治的に利用されるという「今ここにある危機」があるわけではない……はずだったのだが(「The Show Must Go On!」の執筆は2012年、雑誌掲載は翌年)、憲法改正にナチのやり方を見習おう、という御時世である。今に大衆操作もナチに倣って文化を活用しよう、ということになるかもしれない。
 もっとも「クールジャパン」を見る限りでは、たとえそんなディストピアな事態になったとしても、ことごとく的を外して冷笑を買うだけのような気もするが。

 ちなみに私自身は、どんなデザインだろうと制服に興味はありませんよ。

 亜人の存在によって人々は欲望のままに前進することがなくなり、世界には平和と安定が訪れた。しかし欲望が抑制されたのは、あくまで心理レベルであり、多少の振幅はどうしてもある。その振幅を最小限にするには、さらなる抑制が必要である。

『フィエスタ 中米の祭りと芸能』(黒田悦子・著、平凡社)は、ユカタン半島の先住民マヤ族のとある村におけるフィールドワークである。
 その住民たちは老いも若きも伝統的な生活(キリスト教化はしているが)を忠実に守り、村を出て行く者は少ないという。彼らは皆、生活をよりよくするために現状を変えることよりも、現状のままでいることを望む。欲望を満たすために他人を押しのけるようなことはしない。
 その理由は、彼らは「皆(同じ村の住民)と違うこと、目立つことをするのはみっともない」という価値観を共有しており、そのようなことをした者は笑いものになる。守るべき規範は日常生活において繰り返し示され、また祝祭(フィエスタ)の際に行われる教訓劇によっても示される。

『グアルディア』執筆の際に、参考になるかもしれないと手当たり次第に読んだ中南米関連資料の中の一冊である。『グアルディア』に直接反映されたのは、オペラ『ラ・トラヴィアータ』(「道を踏み外した女」)が文明崩壊後の中米の僻村で『あばずれ女』という教訓劇に変貌している、というエピソードくらいなものであるが、「等級制」を設定する上で、かなり参考になった。
 マヤ族の農民たちは、恥の観念によって「足るを知れ」という抑制を叩き込まれている。これが可能なのは、全員が互いをよく知る小さな共同体の住民だからである。
 遥かに巨大な社会で相互監視を可能にするシステムとして考え出されたのが、「等級制」である。

「絶対平和」では亜人が奴隷としてほぼすべての労働を担うため、必然的に従来の経済は根底から崩壊し、亜人による直接あるいは間接の「サービス(奉仕)」が各人の必要に応じて支給されるというシステムに替わった。人間が消費するものはすべて、目に見えないかたちではあっても亜人の奉仕によって支えられているのである。
 人間はすべて零~十までの等級(グレード)に分けられ、等級によって受けられるサービスの内容が異なる。サービスは、貨幣の代替物であるクレジット(信用貨)に換算される。すべての人間はクレジットを支給されるが、その額は等級ごとに異なる。
 等級が高い(ハイグレード)ほど支給額は大きい。つまりそれだけ多くのサービスを利用できるが、しかしクレジットさえあればどんなサービスも利用可能というわけではない。たとえば住む場所も等級ごとに決められており、どれほどクレジットを積んでも(当然ながら蓄財にも限度額が設けられているであろうが)、居住を許可されない場所に住むことはもちろん、長期滞在することもできない。
 受けられるサービス内容を変えたかったら等級を変えるしかないが、これは成人であれば完全に自由であり、手続きもかなり容易である。

 サービスに換算されるクレジット額は、エネルギー消費量に概ね対応している。亜人のお蔭で利他的になった人類は、もちろん環境保護を重視するのだ。
 つまり高等級ほど物欲が強く、刺激に飢え、環境に負担を掛ける「旧人類的」な者、ということになる。
 本来は数字が小さいほど等級が「高い」(一級は二級より高位といったように)にもかかわらず、絶対平和の等級制においては数字が大きいほど等級が「高い」とされる(零~六級は「低等級」、七~十級は「高等級」)のは、等級が高いほど貪欲で愚かで「旧人類的」、等級が低いほど穏やかで賢く「新人類的」だが、だからといって前者を差別してはいけませんよ、という「建前」ゆえである。

 すべての人間は出生時に個人番号を割り振られ、それは額の皮下組織に印字(細胞に発色遺伝子を組み込むというかたちで)されている。その番号を読み取れば、現在の等級や所持するクレジット額も含めた個人情報を知ることができる。
 クレジットの支払いは、この個人番号の読み取り(認証)によって行われる。

 そして各人の等級は、外見から一目で判るようになっている。それは額に描かれたスティグマ(認証印)と、それ以外の肉体の改変で示される。
 零級は、出生以来、肉体改造(刺青やピアスから遺伝子改造、サイボーグ化に至るまで)を一切受けていない「自然のまま」の者である。「自然のまま」と言っても、配偶子段階で「良い」遺伝子の選別と「悪い」遺伝子の修正がなされているのだが、少なくとも積極的な能力増強や美容目的の遺伝子改造は行われていない。
 額には何も描かれておらず、それゆえ零級 は無印(ムジルシ)と通称される。

 美容目的も含めて肉体改造をしたければ等級を上げなければならないが、これは等級を上げたければ肉体改造をしなければならない、ということでもある。等級が高い、すなわちエネルギー消費量が多いということを、一目瞭然にするためである。
 したがって能力増強など、見た目だけでは判別できない改造をした場合は、それに付随して装飾的な改造(装飾改造:デコレーション)を行わなければならない。結果として、等級が高いほど能力も外見も「人間離れ」していくことになる。四級くらいまでは見た目で判る改造もそうでない改造も、軽微なレベルである。
 なお、出生後の遺伝子改造は体細胞のみに限られ、一代限りのものである。

 額のスティグマは、一級で中央に描かれた縦長の種の形、二級以降はその種から左右対称に蔓草模様が展開していくデザインで、等級が上がる(数字が大きくなる)ほど複雑化していく。
 四級くらいまではスティグマのデザインは比較的単純なため、等級間の違いも簡単に見分けられる。しかしそれ以上になるとデザインが複雑になりすぎ、たとえば九級と十級の違いなど、訓練でもしない限り一目で見分けるのは不可能になる。
 装飾改造は、スティグマだけでは不充分な等級の区別も目的としている。防寒服や防護服が必要な環境でない限り、額のスティグマや装飾改造を隠すのは違法である。

 このように等級が一目で判るようになっているため、当人の性向も一目で判る、という仕組みである。高等級(七級以上)に三年以上留まる者が非常に少なく(22世紀末時点で全成人の2%)、十級となるとさらにその1%にしかならないのは、実際に人間が欲望を持たなくなってきているということもあるのだが、それ以上に、貪欲な「旧人類的」人物と見られたり、人間離れした姿になることが恥ずかしい、という抑制が働いていることが大きい。
 等級が上がるほど能力増強もできるし、装飾改造のデザインも専門のデザイナー(設計者)によって行われる「かっこいい」ものではあるのだが、あまりに人間離れした外見となると、躊躇する者は多いのである。

 絶対平和において、人は他人(あくまで人間)を傷つけるのは絶対に許されないが、自らを傷つけるのもまた同様である。いくら遺伝子工学が発達し、安全性が高められているとはいえ、遺伝子改造のリスクはゼロではない。高度な遺伝子改造が高等級にしか許されないのは、そのためでもある。
 ちなみに高脂質・高カロリーといった健康上のリスクが高い食品も、低等級には禁止されている。
 向精神性薬物、アルコール、煙草などは、所属する文化と等級次第で使用可。ただし、依存症因子の除去や治療法の発展、教育の徹底、そして何よりも亜人のお蔭で充足した精神はこれらの物質を必要としないことから、依存症は事実上存在しない。ギャンブル等、特定の行動の依存症も同様である。

 なお、額の蔓草模様の名称「スティグマ」と「認証印」であるが、前者はそれが大きく目立つ(すなわち等級が高い)ほど罪深い「旧人類的」人物であるという「烙印」を意味することから。後者は、クレジット支払いなどサービスを受ける際に額に「読み取り機」をかざして「認証」を行うことからである。実際に読み取られているのは皮下の個人番号であって蔓草模様ではないので「認証印」という名称は不正確なのだが、まあ名称なんてそんなものである。
 また亜人は、どの人間にどのレベルのサービスを行うべきか判断するのに、いちいち読み取り機を使うわけにはいかないので、スティグマを見て判断しているはずである。人間は基本的に図形の細かな違いなどを見分けるのは苦手だが、人間以外の哺乳類(類人猿など)や鳥類にはむしろそのような能力のほうが高い種が少なくない。亜人の認知能力はさまざまな制御が掛けてあるが、その分、図形の識別能力は高められていると思われる。

 ちなみに作中の表記が「サーヴィス」ではなく「サービス」なのは、主人公らが日常的に使用する言語が日本語経由の英語句や和製英語が多用される「日本語をベースとした混成語」だからである。

関連記事: 「絶対平和の社会」 「亜人」 「等級性‐‐概念」 

       「連作〈The Show Must Go on〉」 (『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)

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コンセプシオン、疫病の王、生体甲冑、そしてキルケー・ウイルス

  全般にネタバレ注意。

「コンセプシオンconcepcion」はスペイン語で「妊娠」だが、カトリックの教義「無原罪懐胎(インマクラーダ・コンセプシオン inmaculada concepcion)」の略であり、聖母マリア自身を表し、「インマクラーダ(汚れない)」とともにスペインの一般的な女性名でもある。
 HISTORIAシリーズでは、「コンセプシオン」は人工子宮内膜の基となった細胞を提供した女性の通称であり、後には人工子宮内膜、ひいては人工子宮そのものの通称にもなった。

 人工子宮内膜の提供者が「コンセプシオン」でなければならなかった理由は、彼女が重度の免疫不全症だったからであった。そのため、「胎児」のゲノムがヒトでなくても、あるいは著しく改変されていても、拒絶反応を起こす危険がない。金属やシリコンなど、人工子宮本体の素材に対しても同様である。
 免疫不全ではあるが、病原体をはじめとする異物の侵入を防ぐ非特異性防御機構は人一倍強力だった。それをくぐり抜けて侵入に成功したウイルスや微生物を排除することはできないが、その増殖を押さえ込む能力をも有する。したがって、人工子宮は感染患者の治療にも有効だった。へその緒を通して病原体の活動が無害なレベルに抑制されるからである。

「コンセプシオン」の特異性はそれだけではなかった。彼女の細胞は簡単な操作で初期化され、万能細胞に戻る。初期化を引き起こすタンパク質(初期化遺伝子が作り出すタンパク質)は通常の動物細胞にも初期化能を与えることが判明し、改変されたHISTORIAにおける1980年代後半の飛躍的な遺伝子工学の発展を導いた。
 この発展によって20世紀末、人工子宮と奴隷種「亜人」が生み出された。その後200年続くことになる「絶対平和」を支えたのは亜人の奉仕であり、その亜人の大量生産を可能にしたのが人工子宮である。21世紀には、人間の妊娠・出産も人工子宮が主流となっていた。
「コンセプシオン」は、大いなる母となったのである。

 しかしその重要性にもかかわらず、「コンセプシオン」本人についてはまったく知られておらず、また関心も持たれていなかった。
『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「はじまりと終わりの世界樹」では、「コンセプシオン」の生涯が語られる。そこでも彼女の本名は明らかにされないが、以下、便宜上「コンセプシオン」と呼ぶ。
「はじまりと終わりの世界樹」で明らかになったのは、コンセプシオンの精神の特異性である。彼女は「己」というものを持たないかのように、他人の思考や感情に簡単に染まってしまう。しかも、相手が俗悪であるほど強く影響を受ける。
 1985年に生まれて13歳で死去した彼女は、容貌が美しいだけでなく立ち居振る舞いも非常に魅力的な少女だった。その中身は薄っぺらで俗悪だったが、だからこそ多くの人にとって魅力的だった。他人の思考や感情を写し取るだけの空っぽの精神の持ち主だったからこそ、相手の理想を写し取って魅力的な少女として振る舞うことができたのかもしれない。
 
 その一方で、彼女の周囲では、人々が己の負の感情を増幅させ、互いに憎み合い、争うようになるという事態が頻発した。またそうした人々の間では、悪性の感染症がしばしば広まった。
 彼女の全身には、無数のウイルスや微生物が巣食っていた。それらは彼女に一切害を与えず、あたかも共生しているかのようだった。他人への感染能も失っていた……通常は。

「組織」(後に「遺伝子管理局」と呼ばれる)のエージェントで、「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」ではオブザーバーまたはエイプリルと名乗っていた人物は、コンセプシオンが物理的にだけでなく精神的にも「非自己」に簡単に「感染」してしまうのだと推測した。それだけでなく、相手の負の感情を増幅させる装置としての役割を無意識に果たしているのだと。コンセプシオンに救う病原体が感染能を回復するのは、彼女の精神が周囲の負の感情に反応し、免疫機構にも作用するのではないか、と(実際に、ヒトの免疫機構の働きは精神状態に作用される)。
 またコンセプシオンの双子の弟(語り手)は、「アブグレイブ」の悪夢の中で聞いた幻とも現実ともつかない彼女の発言から、彼女は苦しみの贖いを求める死者たちの思念に囚われているのではないかと想像する。

 これらは現在のところ、まったくの推測/想像に過ぎない。コンセプシオンの死から四百数十年後、『ミカイールの階梯』に登場するカザークの首領ゼキは、あらゆる病原体に感染し、それを周囲に撒き散らして悪疫を発生させながら、自身はまったく発症せずいる。
 ゼキの免疫機構に異常はなく、また彼の細胞内に巣食う病原体は常に感染能を有しており、意識的にせよ無意識的にせよ彼には制御できないのだが、コンセプシオンとの類似は明らかである。そして彼の血を摂取した者は、彼ほどではないものの感染しても発症しにくい体質を獲得する。
 このためゼキは疫病(えやみ)を操る力を持つ王、「疫病の王」と呼ばれるようになる。
 
 ミルザ・ミカイリーは、ゼキの細胞から未知の共生微生物を発見した。同じ能力を持つゼキの弟からもこの微生物は見つかった。兄弟の血(ごく少量で充分)を摂取した者には、他の病原菌とともにこの共生微生物が感染する。共生微生物は速やかに宿主の全身に広がるが、やがて死滅してしまう。その際、放出された遺伝子の一部が宿主の核内に取り込まれ、そのゲノムの一部となる。
 途中で研究が続行不能となったため、この共生微生物の働きを解明することはできなかったが、ミルザはこれこそが寄生生物(病原体)と宿主細胞を協調させ、発症を抑え込む力を持つのではないかと推測する。
 
 またミルザは、この共生微生物をコンセプシオンも有していたことを示す資料を発見した。ただし彼女の共生微生物は感染能を持っていなかった。共生微生物というよりむしろ、細胞小器官と呼ぶべきかもしれない。
 この未知の共生微生物/細胞小器官はゼキ兄弟の精子にも含まれているが、父性遺伝はしない(するとしても非常に確率が低い)ことが判明した。この共生微生物が母親由来であることはゼキたちの証言からも明らかだったが、彼らとコンセプシオンに遺伝上の繋がりはない。

「コンセプシオン(無原罪懐胎)」と「疫病の王」の共通点は、これだけではない。神秘主義教団ホマーユニーの教主ユスフ・マナシーは、ゼキの精神が「虚」であると看破した。他者の精神を鏡のように映し、またレンズのように収束し増幅させるが、自身の中身は虚であると。
 ただしコンセプシオンが映し出し、収束・増幅させるのは、他者の憎悪をはじめとする負の感情だったが、ゼキの場合は欲望である。大災厄が終息し、人類が復興へと向かい始めたそのエネルギーを増幅し、方向性を与える。コンセプシオンは破壊しかもたらさなかったが、ゼキがもたらすのはおそらく破壊と創造の両方である(最終的に何をもたらしたのかまでは語られない)。
 また彼は、自身の欲望が他者の欲望を映したものに過ぎないことを自覚している。コンセプシオンと同じく自身の印象を都合のいいように操ることができるが、コンセプシオンと違って自覚的である。

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』のエピローグ「…’STORY’ Never Ends!」では、疑似ウイルス型兵器「生体甲冑」がコンセプシオンの「核外遺伝子」に由来することが明かされる。
 生体甲冑の疑似ウイルスは、宿主(着用者)の細胞内に侵入すると、宿主細胞に自身のコピーを作らせるのではなく、自身を並べ替えて宿主細胞のコピーを作る。そして宿主細胞と置き換わる。置き換わったコピーは宿主細胞の潜在能力を解放するが、それにより宿主はヒトならざるものと化してしまう。
 
「絶対平和」を崩壊させる「大災厄」の直接の原因は、「キルケー・ウイルス」である。これは宿主の遺伝子を取り込んで次々と変異していくウイルスで、種の壁も容易に越えて感染していき、その過程で宿主の遺伝子を攪拌する。
 コンセプシオンが「母」であり、「母」は二面性を持つこと、コンセプシオンが慈愛に満ちた母であったのに対し、無慈悲で貪欲な魔女キルケーは母のもう一つの面を表すことは、『ラ・イストリア』で語られている。
『ミカイールの階梯』でも、コンセプシオンの異称であるシャフラザード(シェヘラザード)は聡明で貞淑な王妃だが、邪悪で淫蕩なもう一人の王妃と対の存在であることが示される。シェヘラザードは暴虐な王を慰撫し、改心させたが、そもそも王が非道を行った元凶は、先妻の裏切りである。

「人類の母」エバは本来、蛇体の地母神だった。その力を恐れたユダヤの祭司たちはエバと蛇を分離し、両者を罪に落として力を奪った。聖母マリアは「母」の復権ではあるものの、「慈愛に満ち、清らかで若く美しい母」であり、淫蕩で貪欲で制御不能の絶大な力を持つ恐ろしい母の要素は見事に剥ぎ取られている。
「遺伝子管理局」はコンセプシオンの負の側面を封じ、その力を支配して「慈愛に満ち、清らかで若く美しい母」に仕立て上げ、絶対平和を築いた。
 HISTORIAシリーズに「裏設定」は存在しない。つまり、作中で明言されているか容易に推察されること以外の設定は存在しない。コンセプシオンとキルケー・ウイルスが表裏一体であることは幾度も言明されてきたし、「はじまりと終わりの世界樹」と「…’STORY’ Never Ends!」では、コンセプシオンの封じられた負の面が「目覚め」ることにより引き起こされる災厄が予言される。

 それらはしかし、キルケー・ウイルスがコンセプシオンに由来するという推測を導き出すには、まだ不充分である。

関連記事: 「コンセプシオン」 「生態甲冑 Ⅲ」 「キルケー・ウイルス」 

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JD(A.D.2190~)

 連作〈The Show Must Go On〉(単行本タイトル『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)の「The Show Must Go On!」「The Show Must Go On, and…」および「…’STORY’ Never Ends!」の登場キャラクター。
 遺伝子工学により生み出された奴隷種「亜人」の戦闘種。戦闘種はその名のとおり労働や愛玩用ではなく戦闘に特化したタイプであり、戦争用の兵士と闘技用の闘奴の二種がある。JDは前者。

 人間と亜人の間に厳密な格差を設ける必要から、亜人は名前を与えられず、数字とアルファベットから成る製造番号が名前代わりである。ただしそれでは呼ぶのに不便なので、頭のアルファベット二文字か三文字を取って通称とする。したがってJDNW9418MSM46は「JD」である。
 2190年、すべての兵士と同じく大量生産品として誕生する。同年秋の「初陣」であっさり戦死するが、人気投票で復活し、以後、「キャラクター(記号/個性)」として活躍する。初陣からキャラクターへの昇格は2、3年掛かるのが普通であり、これはまったく異例なことだった。
  また新人の設計者助手(アシスタント・デザイナー)だったアキラは、JDの「キャラクター(個性)」を逸早く見抜いたことがきっかけで、記号設計者(キャラクター・デザイナー)へと、これも異例の出世を遂げる。

 亜人の通称からは、さらに愛称が作られることもあり、JDはアキラから「ジョン・ドウ(John Doe:「名無し」)と呼ばれる。JDとアキラの人気が高まるにつれ、この愛称(?)も広まっていったようである

 この時代の戦争は「文化保存」事業の一つであり、歴史上の戦いの再現(ただし、まったく忠実ではない)である。兵士たちは与えられた役割を、命懸けで演じるのだ。
 初陣が北米先住民同士の戦いだったため、JDの容姿は北米先住民がベースになっている。とはいえ、戦闘種に限らず亜人の容姿は基本的に人種混淆なので、JDも白人的な容姿の遺伝子は持っており、遺伝子の発現を少し弄ってその特徴を際立たせるだけで白人らしい外見になる。
 そのようにしてドイツ人傭兵騎士や中国人の海賊など多彩なキャラクターを「演じて」いくことになるのだが、変わらないのはその眼差しだった。

 亜人は人工子宮で製造される。通常は約1年で人間の十代半ば相当まで促成培養され、その間に必要な情報が脳に「刻み込み」される。遺伝子レベルで脳の機能にさまざまな制御が掛けられている上に、このような促成「教育」により、出来上がるのは経験の裏付けのない薄っぺらな人格(キャラクター)である。細やかな機微など、望むべくもない。高価な特注品はもう少し丁寧に作られるが、それも程度の問題でしかない。
 特に戦闘種は、精神崩壊を防ぐため、いっそう強い制御を掛けられた結果、感情というものを持たない。肉体に直結したより原始的な反応としての情動は持つが、より高度な感情という複雑で繊細な段階へは至らないのだ。そのうえ、一回の戦闘ごとに記憶を消される。

 このように、戦闘種の人格は一般種よりもさらに薄っぺらであり、それは機械的な反応や平板な表情となって現れる。その中にあって、JDはまるで本物の感情を湛えているかのような眼差しの持ち主だった。
 もちろんそれは見せかけに過ぎない。偶々そう見える目つきをしているというだけだ。後に、JDは先天的にオキシトシンとバソプレッシンの血中濃度が高く、戦闘種にしては味方や敵に「親愛の情」を抱きやすいことが明らかになるが、「情感豊か」と呼ぶには程遠いレベルであることに変わりはない。

 ともあれ、この「眼差し」と敵味方に見せる「情」によってJDは高い人気を保ち、何度も戦闘不能(瀕死もしくは完全死)を迎えては復活することを繰り返すことになる。

関連記事: 「The Show Must Go on!」  「亜人」 

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 以下、ネタバレ注意。

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年表

 とりあえず概略版です(太字は作品名)。

1858年  『種の起源』刊行。
1865年 「メンデルの法則」発表。
1870年代  ダーウィン、自らの理論とメンデルの法則を融合させ、「神に祝福された遺伝学」を作り上げる。ここから歴史改変。   

20世紀末  ソ連とアメリカ合衆国が相次いで崩壊。
2001年  「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」
21世紀~ 「絶対平和」の開始 
2012年   「はじまりと終わりの世界樹」

2190年代初頭  「The Show Must Go On!」
22世紀末   世界各地でウイルスや微生物の変異を原因とした災害が起こる(「大災厄」の始まり)。
2200年代初頭 「The Show Must Go On, and…」
       「…’STORY’ Never Ends!」

23世紀前半、大災厄により絶対平和が崩壊。
2256年  『ラ・イストリア』

 

2447年  『ミカイールの階梯』

 

2643年  『グアルディア』

「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」「はじまりと終わりの世界樹」では、世界が「絶対平和」と呼ばれる未曾有の繁栄を迎える直前。「The Show Must Go On!」は絶対平和の絶頂期。「The Show Must Go On, and…」および「…’STORY’ Never Ends!」は絶対平和の崩壊の始まり。
『ラ・イストリア』では地球規模で大災厄の真っ最中。『ミカイールの階梯』では災厄は終息に向かうかに見えるものの文明は未だ復興する兆しはなく、『グアルディア』では少なくとも中南米では災厄は小康状態を保ち、文明もいくらか回復しつつある状況です。

 

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 詳細版はネタばれ注意。

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生体甲冑 Ⅲ

 連作〈The Show Must Go On〉(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)のエピローグ「…’STORY’ Never Ends!」では、「最初の生体甲冑」について語られる。

 23世紀初頭、変異微生物による災害が徐々に深刻化し、社会不安が広がる中、娯楽としての戦争を供給していたスタジオの一つパラマウント社は、近い将来、戦争は再び武力で勝敗を決する形態に回帰すると予測し、より強力な兵器を密かに求めていた。そうして入手したのが、疑似ウイルス型兵器「生体甲冑」である。
 なお、この兵器は違法に開発されたものであるため正式名称はなく、「生体甲冑」は後の通称だが、その前の時代についても、煩雑さを避けるためこの通称を使用する。

 絶対平和におけるコントロールされた戦争では、兵士である亜人の能力増強にも制限がかけられていた。しかし生体甲冑は感染者(着用者)の細胞もゲノムも物理的にはまったく変化しないまま、ただ引き出される能力だけが増強されるため、規制には抵触しない。
 生体甲冑を開発した組織は、おそらくパラマウントとは完全に別個のもので、その正体は不明である。

 ところで生体甲冑を純粋に「兵器」として見た場合、侵蝕がほとんど進んでいない、つまり暴走の危険がほとんどない段階なら、割と使えるはずである。特に、「遠戦兵器がほとんど使用不能」な状況では、かなり役に立つだろう。
 問題は、侵蝕がどれほど進んでいるか、正確に知る手段がないということである。疑似ウイルスに置換された細胞は、通常の細胞と区別が付かない。組織レベルで、傷ついたり老化したりした細胞の少なさから大まかに判断するのがせいぜいだ。

 侵蝕/暴走の兆候は、「使用者の意志に反した反撃」が為されるようになってくることである。作戦の流れを無視して反撃し続けるまでになれば、敵の抵抗が途絶えた後に着用者が変身を解くことができたとしても、最終的な段階すなわち完全侵蝕/永続的な暴走は近い。 そうなると、もはやお荷物以外の何ものでもなくなる。戦略も何もない、とにかく敵にダメージを与えることだけを目的とした作戦に投入するしか使い道はない。
 このような兵器が、リスクを承知の上で少なからぬ需要があったということが、「大災厄」の末期的状況を端的に示している。

関連記事: 「生体甲冑 Ⅰ」 「生体甲冑 Ⅱ」 「大災厄」

       「The Show Must Go On!」(中篇) 「絶対平和の戦争」 

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 以下、ネタバレ注意。  

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絶対平和の戦争

 連作〈The Show Must Go On〉(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)の後半三作「The Show Must Go On!」「The Show Must Go On, and…」「…’STORY’ Never Ends!」は、人類の未曾有の平和と繁栄の時代「絶対平和」の物語であるが、それはこの時代における「戦争」を中心に語られる。
「絶対平和」は、遺伝子工学によって生み出された人造人間「亜人」の犠牲の上に築かれたものである。犠牲とは、単に労働を担わせただけではない(もちろんそれも大きいが)。暴力と差別の根本的原因は、自尊心の欠如である。それを埋めようと、人は他者を傷つけ貶める。亜人という「人に似た、しかし人より少しだけ劣った他者」を造り出すことにより、人は初めて欠乏を満たすことができ、すべての人は平等だという感覚を持つことが可能となったのである。

 しかし、「少しだけ劣った他者」によって奉仕される、というだけでは人間の自尊心を完全に満たし、暴力性を押さえ込むことは不可能だった。それは亜人への暴力という形で現れた。
 どんな支配体制であれ、要となるのは暴力のコントロールである。国家は「暴力を行使する権利」を独占する方向に発展してきた。絶対平和の体制が個人による亜人への暴力を禁じたのは同じ原理からだったが、それだけではない。反体制派すなわち亜人撲滅派は、亜人への暴力から最終的に人間への暴力に至った。亜人への個人的(私的)暴力は、全人類の完全な平等と平和という「絶対平和」の根幹を揺るがすものだった。
 抑えきれない暴力性を発散させ、かつ暴力の行使権が体制によって独占されていることを知らしめる手段として選ばれたのが、戦争と闘技である。

「もう一つの歴史」上の1991年、北米の「某超大国」は湾岸戦争で国連も多国籍軍も無視してバグダッドを占領し、「悪の独裁者」を処刑した。この独断専行に対する国際的な非難は、さしもの「某超大国」をも屈服させ、言いなりにイラク撤退と軍縮が行われた。
 しかし屈服は見せかけで、やがて内戦により完全に無力化したイラク政府は、軍事も行政も「某超大国」企業のアウトソーシングによって乗っ取られることになる。

 この乗っ取りに先立って行われたのが「某超大国」国軍の民営化で、装備から人員に至るまで、そのまま民営軍事企業に流用された。同時期、冷戦終とソ連崩壊、アパルトヘイト廃止などにより、世界中で軍縮とそれに伴う民営化が進行していた。
 そして1999年、亜人が登場する。
 亜人は人間に対して絶対に危害を加えることができないため、対人戦闘には当然使えない。また「妖精」と呼ばれた初期の亜人は著しく能力が制限されていた。そのため亜人は比較的早い段階から戦場に投入されたものの、荷運びなどの単純労働または地雷除去のような危険だが限定された任務に就いていただけだった。

 やがて亜人の存在により人間の「自尊心の回復」が進むにつれ、戦争もテロも終息に向かう。しかしついこの間までの憎しみや恨みは、そう簡単に消えはしない。贖いとしての血が必要だった。それが、亜人同士による代理戦争である。
 この転換により、民営軍事企業の業務は代理戦争のプロデュースとなった。重要なのは勝敗ではなく、どれだけ、どのように血が流されたかだったから、必然的に詳細な報道が望まれた。
 間もなくエンターテインメント産業が、この「新しい戦争」に参入することになる。90年代、「某超大国」では湾岸戦争に端を発した国際的な孤立に伴い、国内では思想統制が強化され、ハリウッドを筆頭とする文化産業が軒並み「亡命」する事態となっていた。
 この「亡命者」たちは世界中の文化産業を結びつける役割を果たし、まったく新しい多彩で豊かな国際文化が生み出されたのである。
 その背後には、「某超大国」の文化的覇権を突き崩そうとする「組織」の思惑があったとされるが、ともかく「亜人による代理戦争」におけるエンターテインメント産業と民営軍事企業との提携から、やがて亜人兵士や物資の提供から作戦立案・遂行に至るまでの戦争業務全般を請け負い、娯楽として提供する複合企業「スタジオ」が生まれる。

 暴力性だけではなく利己性も抑制されたため、人間とその財産だけでなく環境も傷つけないことが当然の前提となり、使用される武器兵器の破壊力には制限が掛けられた。食料生産の工業化(動物性食料も植物性食料も工場で生産されるようになる)に伴い、不要となった広大な農地で森林や草原の再生が進められており、そうした土地の一部が戦場に指定された。同様の理由から、一回の戦争の規模も縮小され、長くてもせいぜい半日、投入される兵員は両軍合わせてせいぜい数千だった。
 先述のとおり、重要なのは勝敗ではなく、どのように血が流されるかだったから、作戦は戦争当事者同士の協議で決められるものとなった。その仲介も、「スタジオ」の役目だった。

 この「贖いとしての代理戦争」も、わずか数年のうちに終息に向かった。だが代理戦争自体は、問題の早期解決手段としてむしろ頻繁に行われるようになった。人間が賢く穏やかになり、私利私欲が抑えられたといっても、何が最善であるかの答えが常に出せるとは限らない。そこで議論で時を浪費するより、一種の賭けとして亜人同士を戦わせるようになったのだ。
 すでに戦争の「サーカス」化は進んでいたため、当事者以外の人々も戦争のニュースやドキュメンタリーを消費し、批評した。贖いとしての戦争とは違って勝敗は重要だったが、戦いでは勝ったのに、世論によって覆されるということが起きた。
 そのため、「いかに勝つか」ではなく、「いかに戦うか」「いかに魅力的に観せるか」が問題となり、サーカス化はますます進んだ。この頃までに亜人の外見や機能は多様化しており、魅力的な外見と魅力的な軍服を纏うようになった。この「デザイン」は日本のポップカルチャー(特にアニメ、漫画、ゲームなど)を基盤としており、当然、日本人デザイナーが大いに活躍することとなった。
 
 このように亜人への「公的な暴力」のサーカス化と制度化が進む一方、非合法の「私的な暴力」を合法化しようとする動きも起こった。亜人への直接暴力は論外だが、亜人同士を闘わせる(多くはどちらか一方が死ぬまで)「地下闘技場」は日本的センスによる闘奴や試合形式のデザイン向上もあって、やがて合法化が実現した。合法化された闘技は、地下ではなく公共の闘技場で行われるようになった。

 これら一連の動きは、2007年に最初の亜人国際法が制定されるまでに概ね完了していた。この頃までに、戦争は「旧時代文化の保存活動」という建前も出来上がっていたと思われる。
 こうして絶対平和の戦争は、過去に実際に行われた戦闘をモデルとしたものになった。とはいえ、環境保護などによる規制、戦力均衡の原則、亜人に人間の振りをさせることを禁じる法律(亜人と人間の差別化こそ、絶対平和の基盤だから)、さらにショウとしての見栄えの優先等、さまざまな理由から、忠実な再現にはなりえなかった。
 また環境と亜人の保護を理由に、大量破壊兵器は法で禁止された。そのため、モデルとする戦争は19世紀までとし、さらに19世紀末には登場していた機関銃やダムダム弾などの強力な武器兵器も使用しないという不文律が出来上がった。スタジオの側からすれば、あまりに強力な武器兵器は一方的な殺戮を生むだけで、ドラマが生み出される余地がなくなるため、使用禁止に否やはなかった。

 つまり絶対平和における戦争は、長期間の協議に替わる早期解決手段であり、過去の文化の保存事業であり、亜人という奴隷による大規模な殺し合いショウだった。
 モデルとされる過去の戦争は、原則として係争が起きた現地で行われたものとされたが、各戦争当事者たちがモデルとした戦闘集団の子孫だというようなことはほとんどなく、あったとしても当人たちを含め、誰も気にしなかった。賢く穏やかになった新人類は、過去の因縁などとは無縁なのだ。
 時代考証は、せいぜい「尊重する」程度でしかなく、使用される武器兵器も、見た目がそれらしければ良いのであって、正確な復元は求められていなかった。素材は全般に強度が高く、かつ再利用できる物に替えられていただろうし、たとえば近世の大砲は実際には威力も命中率も低く、砲身の破裂も珍しくなかったので「殺されるのは敵よりも味方のほうが多い」代物で、また火薬も湿気やすく煙の量が多かったため、点火できなかったり、できたらできたで硝煙が濛々と立ち込めて何も見えなくなるという有様だったが、そういった問題はすべて取り除かれていたはずである。

 戦争の娯楽化に伴って進行したのが、亜人兵士の「キャラクター化」である。コストの題から、身体能力を大幅に強化することのできる兵士の割合は限られていたが、スタジオはその稀少性を活かし、外見のデザインにも投資した。こうした「特注」兵士はファンが付き、キャラクターと呼ばれるようになった。やがて、これらのキャラクター兵士を主人公とした「スピンオフ」が作られるようになった。
 それ以前から、戦争のドキュメンタリーなどはドラマチックで映画じみたものとなっており、また人間の私利私欲が抑えられた「副作用」なのか、創造性が明らかに減退して従来のジャンルで新たな作品が生み出されなくなっていた。その空隙を埋めるように、戦争のスピンオフはアニメ、漫画、小説、ゲームなどさまざまなメディアで展開された。
 おそらく当初はアマチュアによる同人的な活動であったと思われるが、やがてスタジオが「公式スピンオフ」としてその制作を担うようになった。もちろん、それら「公式作品」のファンによる「二次創作」も行われた。

 戦争の勝敗を全成人による投票で決定する制度は、絶対平和が完成した2020年代~30年代には成立していたと思われる。次いで、キャラクターの人気投票が行われるようになるが、これは一部のマニアだけの特権だった。
 キャラクター兵士は特注品として、大量生産のモブとは別に制作された。作成を担当するのは遺伝子設計者(ジーン・デザイナー)である。遺伝子設計者は、外見にしろ性格にしろ能力にしろ、形質を発現させる遺伝子を設計(デザイン)を行い、それは対象が人間や一般種(戦闘種以外の総称)亜人、動植物であっても変わらない。
 ただしキャラクター兵士の場合は大雑把ではあるが架空の過去を設定するのもデザイナーの仕事で、また形質のデザインもより創造性が求められとして特別視された。「キャラクター」は特注の兵士限定の呼び名とされ、そのデザイナーは「キャラクター・デザイナー」と呼ばれた。
 キャラクター兵士はたとえ戦死しても、票次第で何度でも復活できた。得票が再生コストに見合わなくなれば、廃棄されることになる。

 しかしキャラクターと人気投票が定着するにつれ、スタジオの思惑どおりにはキャラクターの人気が出ないということも起きた。また一方で、無個性なはずのモブに個性が見出され、人気を獲得することもあった。
 試行錯誤の結果、当初の「一個体一キャラクター制」は廃止された。兵士はすべて無名のモブとして大量生産される。総合的な能力は均等だが、外見等のデザインにはばらつきがある。そこに個性を見出すのは視聴者で、スタジオはその反応を見ながら、デザインの改造を繰り返し、キャラクターを「育成」していく。
 この「一個体複数キャラクター制」が完成したのは、21世紀末のことである。この制度なら、ある兵士の一つのキャラクターが不人気でも別のキャラクターの人気で廃棄を免れうる。
 また旧制度では自ずとキャラクター兵士同士の「絆」が形成され、それが戦死/廃棄により失われた時、残された兵士が精神に変調を来し、最悪の場合は廃棄せざるを得なくなるという事態がしばしば起こった。これはキャラクターの廃棄と並んで、亜人活動家の非難の的となった。
 新制度の確立に伴い、「絆」の形成は極力回避されるようになった。これは「物語」の派生を犠牲とすることとなったが、少なくとも一個体が複数のキャラクターを有する新制度では、特定のキャラクター同士が何度も「戦友」となる事態は旧制度より回避しやすくなっていた。

 建前上、戦争は「政治の延長」であり、「旧時代文化の保存活動」であったのに対し、闘技は純粋な娯楽だったが、実態は「キャラ化」や「スピンオフ」は先に戦争において発展し、闘技がそれに追随するかたちとなった。
 時代が下るにつれ、無数に割拠していた小スタジオは統合されていき、最終的には(正確な時代は不明)わずか五つとなり、五大スタジオと呼ばれるようになった。パラマウント、ロウズ、フォックス、ワーナー、RKOである。これらの社名は黄金期の「五大スタジオ」に因むものだが、直接にも間接にも繋がりは皆無である。
 この統合の過程で、闘技もスタジオの一部門として組み込まれた。

 戦争を「旧時代文化の保存活動」とする建前上、軍隊という組織も保存の対象とされた。スタジオは、現に戦争を請け負っているだけでなく、前身の一部が民営軍事企業で、そのさらに前身が各国軍であることから、「軍隊組織の保存」も担うこととなった。
 こうして各スタジオの社員は全員が将校または下士官となった。兵士は亜人であり、戦争やスピンオフにおける階級は、キャラクターと同じくあくまで架空のものである。
 軍服(歴史上の軍隊の軍服をモデルにデザインした制服)の着用が義務付けられ、戦争に直接関わる部門は「前線」、スピンオフ政策に関わる部門は「後方」と呼び分けられ、スタジオのトップは「統合参謀本部」、世界各地の支部はその規模(動員兵士の数等)によって「師団」「連隊」「大隊」に区分された。
 言うまでもなく、これらは「建前」に過ぎず、実態はほとんど「軍隊ごっこ」であった。だからこそ、いくら才能に期待されたとはいえ、軍曹(下士官の下から二番目)でアシスタント・デザイナーに過ぎないアキラが、半年で大尉にまで昇進するようなことが起こるのである。またアニメ脚本家のレイチェル呉が、アカデミーにノミネートされるほどの実力を持ちながら少尉のままでいるのも、本人が昇進を望まないからであろう。
 なお、半ば独立した部門である闘技には、この「軍隊ごっこ」は適用されていないと思われる。

 22世紀末から微生物の変異を原因とした災害が多発し、社会不安が広がり始める。災害一つ一つの程度は比較的軽微だったとはいえ、そのほとんどが長引いたため、人々は自分とは関わりのない時事には関心を持たなくなっていった。
 その結果、戦争の投票率は低下し、危機感を抱いたスタジオは、視聴者の関心を呼び戻すため機関銃をはじめとする「大量破壊兵器」の使用と、兵士同士の「絆」形成に踏み切る。
よ りドラマチックになった亜人の苦しみは、一時は視聴者を惹き付けるが、その間にも災厄は徐々に深刻化する。人々の関心は「センセーショナルな見世物」としてより手軽に消費できる闘技に流れ、スタジオもまた近い将来、戦争は再び武力で勝敗を決するものとなると予測し、より強力な兵器の入手を模索する。
 その一つが、「生体甲冑」である。

関連記事: 「絶対平和 Ⅰ」 「絶対平和 Ⅱ」 「絶対平和の社会」

       「亜人」 「HISTORIAにおける歴史改変」  「JD(2190~)」 

       「The Show Must Go ON!」 「生体甲冑 Ⅰ」 「生体甲冑 Ⅲ」 

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絶対平和の社会

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「The Show Must Go On!」「The Show Must Go On, and...」および「...'STORY' Never Ends!」では、未曾有の平和と繁栄の時代「絶対平和」が描かれる。

 絶対平和においては、「自然のまま」の姿で、「自然に近い」「伝統的な」生活をすることが理想とされた。ただしこの場合の「自然」も「伝統」も虚構のものである。

 まず、各文化圏ごとに「理想化された伝統的な生活」が設定された。以下は作中設定ではなく現実の話だが、「伝統」なるものはおしなべて、すべからく捏造されたものである。捏造という言い方に語弊があるのなら、「創出」と言い換えてもよい。
 何世代にもわたって連綿と続いてきた伝統などというものは存在しない。無論、個人や家庭、共同体などが有する「慣習」ならば実際に存在するものである。慣習を形成するのは物質的な制約と、ヒトの保守性すなわち「慣れ親しんだもの・やり方」を好む習性である。個人や集団を取り巻く環境が変化して慣習を維持することが不可能になることもあれば、そのような外的要因がなくても個人または集団が自主的に慣習を変えることもある。
 ヒトの脳は、新しいことを憶えたり考え出したりするのを厭う(余計なエネルギーを使うから)保守的な傾向と、新奇性や利便性を求める傾向とを併せ持つ。後者が前者を凌駕することが、慣習を変える要因となるのである。
 
 外的要因や内的要因によって慣習が変化を迫られた時、集団内の少なからぬ者が慣習の維持に固執する。そうさせるのはヒト本来の保守性だけでなく、アイデンティティと既得権に対する危機、あるいは危機感である。そもそもあったかどうかも怪しい既得権が主張されることもままある。そのようにして単なる慣習が固守すべき「伝統」と規定された時点で、すでにそれは「つくられたもの」と化すのである。
 神事をはじめとする儀礼にしても、たとえ起源はどれだけ古かろうと、近代以降に改めて意義を与えられ体系化された、「つくりなおされた」ものがほとんどであろう。
 
 科学(特に進化論)とイデオロギー(信仰を含む)との対立は、多くの社会に見られる。『天皇制と進化論』(右田祐規、青土社)によれば、日本でも戦前のある時期から戦中には皇国史観に反するとして進化論への批判が高まった。しかしそれより前の時代には、多少の緊張をはらみながらも進化論と皇国史観は何十年も共存してきたし、進化論批判派の勢力が最も大きくなった1930年代末以降ですら、進化論教育に混乱がもたらされた程度であった。
 これは本音(富国強兵の一環としての科学教育)と建前(皇国史観)の使い分けが巧く機能した結果であろう。このことの是非はここでは論じないが、本音と建前の使い分けそのものに関して言えば、「できるけどしない」という選択ではなく、「最初からできない」のは未成熟の現れであり、「できていたのができなくなる」のはある種の末期状態を示しているのではないかと思う。

 設定解説に戻る。亜人の存在によって賢く穏やかになった人類は、科学と信仰との折り合いをつけるためにこの「本音と建前」を採用した。
「本音と建前」は間もなく、あらゆる分野に積極的に適用されるようになった。「伝統」もその一つであり、伝統なるものは近代以降に創出されたものだと承知したうえで、それらにさらに手を加え、人も環境も傷つけないものに改変された。
 このような創られた「伝統」的な村(移動生活民であれば、バンド)での生活が、「人間の在るべき姿」とされた。実際にエネルギー消費量は低いが、それは亜人の労働によって支えられたものである。
 
 子供はすべて、こうした村またはバンドで生まれ育つ。この時代、子供を作ることは男女の「協同事業」であり、厳密な契約の下に行われる。婚姻の形態は一律に一夫一妻(現実に一夫多妻や一妻多夫の伝統がある社会でも、比率としては一夫一妻が多い)。ただしこれは村/バンドにおいてであり、町や都市ではさまざまな婚姻形態があるはずである。
 老化防止や若返りの技術が発達しているため、晩婚が普通である。二十代では人格的に未熟だとして、結婚はまだしも子育ては望ましいとされないだろう。未成年者は絶対的に保護されるべき存在なので、成人と未成年者の結婚は許されない。未成年同士なら18歳くらいから可能かも。どのみち、子供は持てない。
 
 子供はほとんどが人工子宮による出産で、3~5人。兄弟姉妹が多いのが理想とされるからである。しかし兄弟姉妹の中で子供を持つのは、せいぜい1人か2人である。絶対平和成立から5世代を経た22世紀末の時点で、人口はかなり減少している。
 末子が18歳(遅くても20歳)になるまでが子育て期間であり、それが終われば夫婦の契約もとりあえず終わる。そのまま村/バンドで共同生活を続けることもあれば、離婚してそれぞれの生活を始めることもある。子育てには祖父母の同居が望ましいとされるので、孫が生まれれば再び「契約」の上で同居することになる(相手方の両親が同居するのでない場合)。
 
 村/バンドでは、成人住民のほとんどは「伝統的な」農業、漁業、遊牧、狩猟採集に従事するが、それらの主目的は「文化の保存」であり、重労働は亜人が担う。食料や生活必需品の類は原則として自給自足だが、環境への負担は抑制される。
 わずかな余剰生産物は販売され、不足分を他地域から購入する費用とされる。それらの購入品もまた、「伝統的」手段で生産されたものである。それでもなお不足する物品は、工場生産品が無料支給されることになる。
 
 上記以外の「伝統産業」(工芸など)も営まれているが、自給自足が原則なので、専業化しているかは不明。「伝統芸能」の継承も必須であり、指導者は当然いるはずだが、これも専業化は不明。
 村には「伝統文化の保存」以外の職業として、役場の職員、医師、商店員、小学校教師などがいる。移動民のバンドにも、子供たちの教師はいる。
 いずれにせよ、村の成人は全員なんらかの職に就いている。
 
 村(またはバンド)以外の生活環境は、人口や工業化のレベルによって「町」と「都市」に大別される。町と都市も旧時代すなわち21世紀初頭以前の各時代の景観や生活を保存あるいは復元されている。場合によっては前近代の街並みと暮らしが再現されていることもあるが、その場合はもちろん亜人の労力が多大に投入されている。
 20世紀末~21世紀初頭の景観が保存・復元されているのは、都市の「新市街」に限られている。
 ほかは自然環境の保護監察官や研究者、考古学者等が例外的に人里離れた場所に住む。これらの職種を除き、村/バンド、町、都市以外での居住は禁止されている。またこの時代、遠洋漁業はおそらく行われていない。
 
 町と都市の住民が口にできる食料は、原則として工場生産品のみである。動物性食料は人工子宮で培養される。植物性食料は水耕栽培、または微生物の生産物の加工品。もっとも、「伝統文化」が重んじられている以上、調理まで工場で行われることは少ないと思われる。
「本物」の食べ物は町や都市では非常に高価で入手困難。村/バンドに「体験学習」(という名目の観光)に行くという手もあるが、いずれにせよクレジット(この時代の金銭)が必要。

 町と都市では職業の種類は大幅に増えるが、「伝統文化の保存」か「社会の安定維持」のどちらか(あるいは両方)に関わる職業しか存在しないのは村と同じ。たとえばスポーツ選手も、行うのは「競技」ではなく「伝統文化の保存」なのである。したがって、もし絶対平和成立以降(21世紀初等以降)に新しいスポーツが生まれていたとしても、それを行う者はアマチュアしかいないということになる。
 いずれにせよ、いかなる職業も、経費を除いた純利益はプラスアルファ程度。
 
 町と都市では、職に就かず、支給されるクレジットだけで生活することが可能。職に就かずにクレジットを稼ぐ手段は、おそらく戦争と闘技のスピンオフ作品(アニメ、漫画、小説、ゲームなど)の二次創作を行い、販売することのみ。その価格も経費+αで、公共か有志か知らないが、監視機構があるんだろう。

関連記事: 「絶対平和 Ⅰ」 「絶対平和 Ⅱ」 「連作〈The Show Must Go ON〉」 

       「The Show Must Go On!」(同題連作中の中篇)

       「絶対平和の戦争」 「亜人」 

       「等級制‐‐概念」 

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